じりじりと暑い日差しが肌をさしてくる。体感温度だけなら夏と変わらないくらいで、来る途中の気温計も期待を裏切ることなく二十七度を指していた。
 まだ梅雨前なのに、随分とせっかちな太陽だな。
 恨みがましく心の中で愚痴りつつ、いつものように生徒玄関をくぐった。
「おはよー!」
 ひときわ明るい声が鼓膜に届くと同時に、軽く肩を叩かれた。でも僕は特に返事をすることなく、そのまま下駄箱を目指して歩き続ける。
「ちょっとー、朝の挨拶は基本だよー?」
 ポンポンポン、と何度も肩に小さな衝撃が加わる。まるでそれは、構ってほしい犬がとにかくまとわりついてくるようだった。でもそこには、そんな癒しの欠片は微塵も感じられない。
「ねぇねぇー」
「わかったわかった。オハヨーオハヨー」
「挨拶は一回」
「それは返事じゃね?」
「なんでもいいの。とにかくもう一度」
 そんなどうでもいい朝のやり取りが始まって、もう二週間以上が経過していた。
 あの七宮さんの一件以来、光里は毎日のように会いにきては挨拶やら昼食やらと絡んできた。学校一の人気者から気にかけられるのは悪い気はしないが、それはこいつがただの人気者だったらの話だ。それに、幾度となく付きまとってくる理由も僕は知っている。
「おー、また朝からいちゃついてんな〜お二人さん」
「あ、笹原くんだ。おはよー!」
「そんなんじゃねーよ」
 タイミングを計っていたかのように、笹原が会話に割り込んできた。
「おはよー、天之原さん」
「ほらー! 普通はこうしてしっかり返してくれるんだよ!」
「僕は普通じゃないから」
「もうー」
「はいはい、その辺にしとけよお二人さん。もたもたしてると予鈴鳴るぞ」
 笹原の言葉に、光里は「うそっ⁉」と壁にかかっている時計に目を向けた。時刻は八時過ぎ。予鈴まで、あと十分だ。
「やばっ! 朝に学級委員の集まりがあるんだった!」
 ごめん、先いくね! と光里はダッシュで隣の下駄箱に向かっていった。あとには男二人と、未だに嫉妬の視線を向けてくる隣のクラスの男子が数人取り残された。
「なぁ陽人。お前ほんと最近天之原さんと仲いいよな」
 内履きに履き替えながら、笹原はからかうような視線を向けてくる。
「だからそんなんじゃねーって」
 同じように履き替えると、スニーカーを空いた下駄箱に放り込んだ。溜まっていた砂ぼこりがふわりと舞い、外へと漏れ出してくる。
「そんなこと言っても誰も信じないぞ。俺ももう応援するって決めたし」
「心変わり早いな」
 最初はあんなに抗議してきたのに。というか、抗議し続けてくれたほうが光里も絡んでこなくなりそうなので、今思えばそっちの方がありがたかったな。
「俺の場合は憧れだからなー。恋心とかはなかったし」
「僕もないよ」
「はいはい」
 呆れたような返事の後、「それよりさ」と笹原は話題を変えた。
「今日のボラ遠、どうするよ?」
「別に。どうもしないよ」
 すると、僕の返事をかき消すように予鈴のチャイムが鳴り響いた。
 悩みの種は尽きないな、と思った。

 朝のHRの後、僕たちは校庭に集められていた。
 別に予鈴に間に合わなかったからじゃない。校庭には、僕と笹原の他に全校生徒が集合している。そしてもちろん、この人数で体育でもない。が、服装は体操服で、背中にはリュック。ここのところ日中は暑いので、風通しの良い体操服は随分と着心地がいい。そんな身軽な格好で校庭に集められている理由、それは……
「よーし、全校生徒集まったわねー。じゃあ、ボランティア遠足を始めるわよー」
 三年生の学年主任だかを務めているという先生の声が響いた。
 ボランティア遠足。それは、各学年が別々の目的地までゴミ拾いをしながら歩いて行くという行事。説明以上。
「毎回思うけど、なんで遠足ついでにゴミ拾いなんだろうな」
「さあな」
 隣でぼやく笹原に生返事を送る。ちなみに、本来はクラス内で三人一組のグループを作って目的地まで行くのだが、人数とルート数の関係上、僕と笹原は二人で一グループだ。
「俺たちはどこ行くんだっけ?」
「さあな」
「話聞いてる?」
「さあな」
「……お前、天之原さんのこと好きだろ?」
「さあな」
「……あ、この質問じゃダメだ」
 バカか。
 そうこうしているうちに、拡声器を持った年配の先生が前に進み出た。
「えーじゃあ、校長先生から挨拶が――」
 ここで、僕も含めた大半の生徒の意識が別のところへと向く。友達だったり、恋人だったり、隠れてスマホだったり……。
 僕も一割未満の注意を前に向けつつ、昨日の昼食のことを思い出していた。

 昨日、光里は昼休みを告げるチャイムが鳴り終わるなり、僕たちの教室に駆け込んできた。その手にあったのは、水色の小さな弁当箱と水筒。
「お昼、一緒に食べよー!」
 いつものように、光里は短く笑いかけてきた。もうこのやり取りは見慣れたもので、僕たちのクラスでももうざわつくことはない。最初の頃は何かと迫られたものだが、今では転校初日から想いを寄せているとかいう男子数人以外は「またか」といった感じで流し見している。まぁ、僕としても別の意味での「またか」なのだが。
「また来たのか。友達と食べればいいのに」
「あれ? 陽人も友達でしょ?」
「だれが」
「はいはい、お二人さん。貴重な昼休みが減っちまうだろ」
 まるでそれがずっと続いていたみたいに、笹原は近くの机を僕の机にくっつけ、光里は空いている椅子をセットする。彼は横にかけてあった袋から弁当を取り出し、彼女は水色の弁当袋の結び目をほどいていく。つい二週間ほど前には非日常だった光景が、既に日常の一部として溶け込みつつあった。
「――でね、明日のボラ遠。私たちの班は十裏川沿いの道から行くから、こことかどう?」
「おー、いいね! 俺たちのルートもその近くだったはず……ん? おい、陽人?」
「え? なに?」
「だから、明日のボラ遠で合流しようぜって話」
「はぁ?」
 聞いてない。いや、確かに文字通り僕が聞いていなかったのだが。
「待て待て、なんのために?」
「そりゃあ、もちろん……」
 笹原と光里が顔を見合わせる。ニヤッと緩んでいる二人の口元からして、嫌な予感しかしない。
「「遠足をとことん楽しむため!」」
 また面倒くさいことになったなと、僕は視線を窓の外へと逃がした。

 カラン。
 色とりどりの容器が、袋の中でぶつかり音を立てた。赤や青、緑、透明なものまで、それらはあらゆる人を惹きつけようと工夫を凝らしたデザインをしており、開発者の努力がうかがえる。でももちろんそれは、この空き缶たちに中身が入っていたらの話だ。
「あーめんどいなー」
 春の日差しに逆らうように背伸びをする。幾分手の先が青空に近くなるも、届くには至らない。どこまでも深い青に、思わず目を細めた。
「そう言いながら、結構ゴミ拾ってんじゃねーか」
 後ろから笹原の声が聞こえた。そして、僕の持っているゴミ袋を軽くこつく。その拍子に、再び袋の中で音が鳴った。
「いやゴミ拾いもそうだけど……」
「天之原さんとのことか?」
「……」
 笹原の問いかけには答えず、視界の端に見つけた白い塊を支給されたトングでつまみ上げた。ティッシュ。燃えるゴミだな。
「俺らだけで決めて悪かったよ。でもまぁ、いいじゃねーか」
 遠足は楽しい方がいいだろ? と笹原は笑いかけてきた。
「そうじゃなくて」
 遠足は楽しい方がいいのはわかる。でも、なんでそれがあいつと合流することになるんだ。今でさえ、四六時中顔を合わせているというのに。
「天之原さんも、陽人と歩きたそうだったぜ?」
「はぁ?」
 なんで、と言いかけたところで答えが頭の中に降ってきた。
 信用とやらを得るため、か。
 心の中でため息をつく。今になって、自分の言ったことの迂闊さが身に染みていた。まさかここまで構ってくるとは思ってもみなかった。
「まぁでも、いいじゃん。友達なんだろ?」
 そう言うと彼は僕を追い抜き、ポイポイッと目立つゴミを片付けていく。
 友達……。
 笹原の言葉の中に違和感を覚え、頭の中で復唱する。
 やっぱり違うな。僕と光里は、そんな関係じゃない。言葉では形容しがたい、知り合い程度の間柄だ。
「お? 噂をすればなんとやらだ」
 その声につられ顔をあげると、数十メートル先で彼女が手をひらひらさせていた。

 いつもより随分と涼しげな風が頬を撫でた。おそらく、僕たちが歩いているすぐ真横に、大きな川が流れているからだろう。
 僕たちが歩いているのはその川沿いにある土手で、川との間には芝生が生い茂っている。いかにも遊べそうな芝生は当然として、土手上のこの道はランニングやらサイクリングやらのコースになっており、人通りもそこそこにあるため、今回のボランティア遠足のルートになっていた。……まぁ、担当は僕たちのクラスじゃないんだけど。
「でも、合流できてほんとよかったね!」
 会う前に集めたのであろうゴミの入った袋を持ったまま、光里はその場でクルッと一回転した。その足取りに合わせて、袋の中でカラカラと音が鳴る。
「予定よりも遅くなっちまったからな。でもこれで安心だ」
 笹原は嬉しそう、というよりどこかほっとした様子で言った。
「ほんと仲いいよな、お前ら」
 常識的に考えて、僕なんかよりも笹原の方が光里とはお似合いだと思う。
 笹原はよく僕にちょっかいをかけてくるが、それは別に他に友達がいないとかそんな理由じゃない。笹原は人当たりが良く、クラス内だけでなく光里のクラスにも友達が何人もいる。実際、今回合流した光里の班のメンバーのうちの一人は笹原の友達だ。
「いやいや、陽人と天之原さんには負けるって」
「なんで」
「だってもう二人は名前で呼び合ってんじゃん?」
「それは光里が……」
「あー、女の子に恥をかかせるつもり?」
 いやだって本当のことだろ、と言いたかったがやめておいた。笹原は腹を抱えて笑ってるし、光里は反撃準備が完了しているとばかりににやけている。
「あ、それより! 笹原くんも私のこと名前で呼んでよー」
「いや〜呼びたいのはやまやまだけど、陽人に睨まれそうで……」
「睨まねーよ!」
「あ、ほら! 睨んでる睨んでる!」
 前の熱が冷めないうちに、またケラケラと笑う笹原たち。
 最近、なぜかこの二人にからかわれることが多くなったな、と僕は心中ため息をついた。
 そんなやり取りをさらに三回ほど繰り返したころ、笹原が思い出したように口を開いた。
「いや、でもほんとに合流できてよかった。俺、帰りは早退して学校まで行けないから」
 見ると、彼は少しバツの悪そうな顔をしていた。
「どうかしたのか?」
 いつもなら「ふーん」で済ませるのだが、今回は少しだけ気になることがあった。彼の声に僅かに暗い色が含まれているような、そんな感じがしたから。
「まぁ、ちょっと病院に」
「病院?」
 疑問だった。笹原は陸上部に所属していることもあって、病欠どころか風邪気味にすらなったところを見たことがない。病院なんぞ、笹原とは無縁の場所だと思っていた。
「体調でも悪いの?」
 そんなことは知らない光里が心配そうな表情を浮かべる。
「あー違う違う、俺じゃないよ。姉さんが入院してて、そのお見舞いに」
 ドクン、と肋骨の下で心臓が脈打った。それとほぼ同時に、頬のやけどの痕がズキズキと痛み出してきた。
 久しぶりのこの感触に、僕は一瞬戸惑った。
 はは、もう十年も前の話だろ……。
 心の中で冷静に、客観的に、繰り返し唱える。すると、高鳴っていた胸や熱い頬が鳴りを潜めていった。おそらく数秒も経っていないのだろうが、感覚的にはもっと長く感じた。
「へぇー……そうなのか」
 何事もなかったかのように、僕は返事をした。チラッと二人の様子を伺うも、「病院が近くてさ」、「あー、もしかして飛田総合病院?」と談笑を続けており、気づいていないようだった。
「つかさ、それがなんで光里の班と合流することになるんだ?」
 ほっと胸をなでおろしつつ、怪しまれないよう会話に加わる。
「いやだって、俺がお見舞いに行ったら、学校までの帰り道が陽人ひとりになるじゃねーか」
「……別にいいけど」
 さも僕がひとりで帰れないかのように言い切る笹原に、さっきとは別の場所がふつふつと煮えてくる。いったい僕をなんだと思っているのか。
「というか、光里なんかと帰るよりむしろ僕ひとりのほうが――」
「あれぇ? 別に俺は天之原さんと帰ってくれなんて一言も言ってないんだが?」
「……」
 こいつ……。今度はさっきと同じ場所、というよりもっと広い顔全体が熱くなるのを感じた。
「そっかぁ。私と帰るところを考えてくれてたのかぁ」
 にやにやと笑みを浮かべる光里は、のんびりした声でつぶやいた。かと思えば、いきなり「あっ!」と叫んだ。
「っていうより! なんで私と帰るよりひとりで帰るほうがいいの⁉」
 薄ら笑いから一転、彼女は不満げな表情全開で迫ってきた。ふわっと花のような甘い香りが鼻腔をつつく。
「そんなもん、聞かなくたってわかるだろ?」
「じゃあさっきは、どうしてあんなこと言ってくれたの?」
「んなもん、特に理由なんて……――」
 あーだこーだと言い合いをしている傍らで、時報の音楽が十一時半を知らせていた。

「んーっ! おいしいっ!」
 心の底から満足そうな声が空に溶けていく。
「そいつは良かったな」
 不機嫌さを一片も隠すことなくつぶやく。それでも、同じことを思っているのが微かに声色に出てしまっていてどうにも悔しい。
「ったく、陽人もさっさと素直になっちまえばいいのに」
 一足先に食べ終えたその声の主は、まるで他人事のようにごろんと芝生に寝転がった。近くの雑草にとまっていたトンボが、驚いたように空へと飛び立つ。
 僕たちは、「お腹が空いたからあのお店のアイスを食べよう!」という光里の一言と、その伸ばされた指先にある美味しそうな食品サンプルにつられ、小休止をしていた。小休止といっても目的地はもう数分ほど歩いたところにあり、ほぼ到着しているのようなものだ。だが、どうしてもアイスが食べたいと光里が言い出したので、仕方なしに近くの芝生へと腰を下ろしていた。
 ちなみに、さっきまで少し離れたところに光里の班のメンバーが歩いていたが、今はもう影も形もない。いいのかと聞いたが、光里はむしろこれでいいと首を縦に振った。聞くところによると、どうやらその二人は付き合っているらしく、光里が僕たちと合流する話を聞いてメンバーになったそうだ。おそらく、こんな感じになることを想定して。
「青春してんなー」
 誰に言うでもなく、独り言ちる。クラスメイトとグループを作って一緒に出掛けることになったボランティア遠足。その途中にこっそりと二人だけで抜け出し、ゆっくりと歩く。適度な会話と、付かず離れずの距離と、片方の手に感じる確かな温もりを感じながら。
「お? やっぱり陽人もそっちに走ることにしたのか?」
 興味津々とばかりに跳ね起きてくる笹原の額を、押さえつけるように戻した。ぐわっ、というわざとらしい声が、風に乗って後ろへと運ばれていく。
「走らねーよ。というか、やっぱりってなんだよ」
「いやぁ、なんだか走りたそうにしてたから」
「してねーよ」
 明後日の方向を向いた意見を言う笹原に、僕は適当に返事をした。
 確かに、青春を全くしたくないと言えばうそになる。曲がりなりにも思春期の男子高校生であり、そういった気持ちもないわけではない。が、心の底からしたいだろうかと考えると、正直面倒くさいという思いが勝つのは間違いない。
 ……それに、そんなことをしている場合でもないしな。
 正面から吹きつける風に流されるように、空を見上げる。雲が風にあおられ、ゆっくりと青空の上を滑っていく。それは、まるで追いかけっこをしているかのように不均等だが、それでいて一定した動きを保っている。僕の心の中にある得も言われぬ焦燥感とは対照的で、見せつけるかのようにのんびりとしていた。
「あ、青春と言えばさ」
 藪から棒に、笹原がパッと立ち上がった。
「毎年七月の頭に花火祭りあるじゃん? ここの河川敷、結構きれいに見えるらしいぞ」
「えっ! ふぉうなの⁉」
 笹原の言葉に、光里はアイスのプラスチックスプーンをくわえたまま勢いよく振り返った。声がスプーンに阻まれ、上手く言えていない。
「んで? それがどうかしたのか?」
 そんな光里の様子を横目に、僕は笹原に訊いた。
「いや、一緒に行こうぜって話」
 当然だろ? というように、ニカッと彼は笑った。
 もちろん、笹原が何を言わんとしているのかはわかっていた。でも正直気乗りしないし、なにより花火大会や祭りみたいな人がたくさんいるところに行きたくない。かと言って、笹原は理由もなしに断るとなぜかやたらとしつこく、この前も行きたくもないゲーセンやらカラオケやらに連れていかれた。どう断ろうか考えていると、隣でアイスを食べ終わった光里がハンカチで口を拭きながら、もう片方の手を勢いよく挙げた。
「はいっ! 行きたいです!」
「よしっ、天之原さんは参加ね。これで俺と陽人を入れて参加者は今のところ三人だな」
「は?」
 僕は行くなんて一言も言ってないぞ。
 笹原の一方的な出欠確認に、僕は抗議の視線を笹原に送った。すると、僕の意思を知ってか知らずか、彼はグッと親指を立てる。
 こいつ、確信犯か。
 ふぅ、とため息をつき、今度は僕が寝転がった。こうなると彼は止めようがない。僕自身、断る理由も特に思いついていなかったので、この場は無言を貫くことにした。幸いにも、花火祭りまではまだ時間がある。川から吹く涼しげな風音をBGMに、どんな言い訳で断ろうかと僕は考え始めていた。

 心地よい揺れが、僕を包み込んでいた。辺りは真っ暗で、窓の外を通り過ぎる街灯の明かりだけが、時々僕の瞼の上を滑っていく。
 ――あら、寝ちゃったの?
 ――そうみたい。さっきまであんなにはしゃいでたのに。
 ――まぁ、今のうちに寝ておいたほうがいいさ。
 懐かしい声が聞こえる。
 いや、ついさっきまで聞いてたんだっけ?
 そんなことを、僕はぼんやりとした頭で考えていた。
 直後、目の前が急に明るくなった。
 視界を埋め尽くすような白っぽい黄色から、揺れ動く橙色へ。
 轟音とともに全身の感覚がなくなった。かと思うと、唐突に痛覚がうずきだした。
 目が痛い。喉が痛い。胸が痛い。腕が痛い。足が痛い。痛い痛い痛い。
 身体中が、痛い。
 ――待ってて! 必ず、私がっ!
 必死な声の方へ、僕は手を伸ばした。ぼやける視界で微かに見える指先が、触れそうで触れない。
 ――もう少し、もう少しだよっ! 陽人!
 名前が呼ばれた。だから、僕も呼ぶ……いや、叫んだ。
 ――お姉ちゃん……助けて……っ!

「陽人、陽人っ!」
 名前を呼ばれ、ハッと気がついた。
 まず目の前に飛び込んできたのは、黄色でも橙色でもなく、青色。その後に、左胸の下で異常に高鳴っている心音に驚いた。まるで百メートルを何度も全力疾走した後にみたいに、急ピッチで全身に血液を送っている。
 ゆっくり起き上がると視界が反転し、波のように揺れ動く草木と、ゆったりと流れる河川が広がっている。手にはじんわりと汗がにじみ、全身はびっしょりと濡れていた。
「陽人、大丈夫?」
 声のした方を向くと、心配そうな表情を浮かべた光里がこちらを見つめていた。その手には、薄く汚れたハンカチが握られている。
「僕、寝てた?」
 努めて明るく、僕は尋ねた。多分、柄にもないとびっきりの笑顔をしていると思う。
「うん、少しだけ。十分くらい、かな」
 サッと光里は目を逸らした。それだけならまだしも、声があからさまにぎこちない。
 やっぱりダメか。
 普段作りもしない笑顔では、彼女を誤魔化すことはできなかったようだ。このままでは気まずいので、正直に訊くことにした。
「僕、うなされてた?」
「……うん」
 数秒の間を置いて、彼女は首を縦に振った。ハンカチを持つ手が、少しだけ震えている。
「僕、何か言ってた?」
「ううん。何も言ってなかったけど、手を、伸ばしてた」
 ビクッ、と肩が震えた。あの時の出来事が、さっきまでの夢のイメージと合わさって鮮明に蘇ってきた。思わず右手で顔を覆うが、以前のようなめまいや頭痛はない。
 やはり、時間は充分に経っている。大丈夫、大丈夫だ……。
 そう何度も言い聞かせて、橙色の記憶が薄れていくのを待った。
「……そっか。ごめんな。変な、というより怖い夢を見てさ」
 川から吹く風が、汗をまとった身体にじんわりと沁みていく。時間が経ち、心も平静さを取り戻しつつあった。
「大丈夫だから、気にしないで」
「……うん」
 さっきと同じように、彼女は頷いた。気を遣われているのが痛いほど伝わってくる。まだ心臓は少しドクドクいっているが、精神的には落ち着いてきていたので、正直申し訳なかった。何か話題はないかと視線を彷徨わせる。
「えっと……」
 そこでふと、何度目かになる彼女のハンカチに目が留まった。きれいに洗濯し真っ白になっていた布に、茶色の汚れが所々薄く付いている。さらによくよく見ると、じんわりと湿っているようだった。さっき彼女が使っていたときにはそんな汚れはなかったはずだ。
「あの、もしかしてそのハンカチ……」
「あ、うん。額とか、汗がすごかったから」
 予想通り……。僕の汗、しかも寝汗を拭いてくれていたようだった。鳴りを潜めようとしていた申し訳なさが、より大きな波となって押し寄せてくる。
「うっ、ごめん……。それ、洗って返すよ」
 そろりそろりと、汗が染みこんだハンカチに手を伸ばす。指先がハンカチに触れようとしたその時、
「あれ?」
 手に、何か違和感があった。でも、痺れとか痛みとかそんな嫌な感じではない。というよりは、手に何かの感触が残っているみたいだった。そこで、さっき彼女が言ったことを思い出した。
 ――何も言ってなかったけど、手を、伸ばしてた。
 ……まさか。
 思い上がりも甚だしい予想が、頭の中に浮かび上がった。聞きたくない……けど、もしそうなら、これ以上ないくらい恥ずかしい。
「ねぇ、さっき僕が手を伸ばしてたって言ってたけど、もしかして……手、握ってくれてた?」
 僕の言葉に、今度は彼女がビクッと震えた。
「ご、ごめんっ。苦しそうだったから、その、えっと……はい……」
 すごく申し訳なさそうに、光里はこくりと首を縦に振った。
「……そう、ですか」
 なんで君がそんな顔をするんだと思ったが、僕もいっぱいいっぱいで指摘する気になれなかった。丁寧語交じりの言葉に丁寧語だけの返答を返し、沈黙が流れる。
 ……気まずい。心の中に巣食うなんとも言えないモヤモヤを紛らわそうと、僕は再度、必死に話題を探した。別にそのあたりに落ちているわけでもないのに、視線を右に左に、上に下に。するとそこで、いつもうるさい「あいつ」がいないことに気がついた。
「な、なぁ。そういえば、笹原はどこに行ったんだ?」
 気恥ずかしさを覚えつつ、僕は光里のほうを見た。
「あ、えと、もう到着したことにするって、先生に報告しに広場に走っていったよ」
 僕と同じで恥ずかしさを隠すためなのか、光里はあからさまな作り笑いをした。でもそれは妙に板についていて、整っているようにも見えた。変な顔だな、と思ったけど、おかげで恥ずかしさは少しずつなくなっていった。
「そうなのか。さすが陸上部だな」
「うん。そだね」
 芝生の上に並んで座っている僕たちの間を、強めの風が吹き抜けていく。寝ている間にかいた汗のせいか、それはさっきよりも冷たく感じた。
「ねぇ」
 リュックからジャージを取り出していると、今度は光里が僕のほうを見てきた。
「生き返りのことなんだけど」
 唐突に、彼女は例の話題を持ち出してきた。思わず手を止めて、彼女へと顔を向ける。
 ……え?
 光里の顔からは、さっきの作り笑いが消えていた。代わりに、今度は明らかに儚さを含んだ、悲しそうな笑顔が浮かんでいた。
「実は期限があって……その人が亡くなってから十年以内しか生き返らせられないんだ」
 彼女の表情にも驚いたけど、彼女が吐いたフレーズには言葉を失った。
 いきなり、何を言ってるんだ?
 音にならない言葉が、頭の中で反響する。
 十年……って、ちょうどあの事故が起こった頃じゃないか。
 今度は、音にしたくない言葉が、頭の中を駆け巡る。それは、「十年」という単語への反射のようなものだった。
 あれから十年後の今は、僕にとって大きな節目の年だった。
 僕が、姉と同じ年齢になる年だから。
 あの言葉の意味が、わかるかもしれない年だから。
「だから、急いでね?」
 急ぐ? 何を?
 というよりも、なぜ?
 どうして光里が、急ぐ必要があることを知っているんだ?
 帰り道、僕は彼女とほとんど言葉をかわせなかった。

 ドサッ――。
 乱暴に放り投げた通学鞄が、畳の隅まで滑って止まった。
 ド田舎の祖父宅らしい、い草の匂いが鼻につく居間。木目模様が特徴的なタンスや脚の低いちゃぶ台があり、放り投げた鞄の対角線上には黒色の小さな仏壇がある。
 電気は点けずに、ちゃぶ台の横に倒れるように寝転がった。僕が生きてきた以上の時間を取り込み日焼けした天井が、視界いっぱいに広がる。
 ふと物音がして、視線を天井から窓へと移す。
「降ってきたか」
 雨だった。どうやら間一髪だったようで、みるみる雨音が強くなっていく。梅雨時期の雨粒がパラパラと窓を打ち、障子紙が湿気を吸ってふやけている。室内は薄暗く、仕事で祖父のいないこの家は雨音以外、静寂に満ちていた。
「はぁ……」
 試験後の疲れを噛みしめるように息を吐く。
 ボランティア遠足から三週間後、僕たちの高校では新学期初の定期考査があった。五教科を二日に分けて行う試験で、範囲も決められているので普通に勉強さえしていればなんということはない。
 でも、ここ最近溜まった別の疲れが、試験後の疲れと合わさってドッと押し寄せてきていた。
「はぁ……」
 一回じゃ足りなくて、もう一度肺の空気を外に出す。
 原因はおそらく、いや十中八九あのボランティア遠足だ。
 ――その人が亡くなってから十年以内しか生き返らせられないんだ。
 彼女の声が、今もはっきりと耳の奥に残っている。
 ――だから、急いでね?
 あれ以来、僕は光里とほとんど話していなかった。ボランティア遠足の次の日も、彼女はこれまでと同じように話しかけてきたが、僕は全て避けた。なんとなく、彼女と話すのがためらわれたから。
 昼を囲んでいた時間も、ボランティア遠足から一週間後にはなんとなく無くなっていた。多分、光里が来る前に僕が食堂へと逃げていたからだろう。
 笹原からは「お前ら、なんかあったの?」と心配されたが、「これが普通だよ」と特に詳しく話すことはしなかった。光里の能力については笹原に言ってないし、第一、僕から話していいことかもわからない。
「それに、事故のことも言ってないしな」
 天井に向かってポツリとつぶやくと、僕は身を起こした。そのまま四つ足で仏壇の前までいくと、そこに飾られた写真に目をやる。
 写真に写っているのは、三人。
「父さん、母さん、姉ちゃん……ただいま」
 姿勢を整え、そっと目を閉じる。
 父の笑った顔。母の呆れた顔。姉の怒った顔。
 どれもそれが日常にあって、変わることがないと思っていた表情。
 ……そして、揺らめく炎と、姉が泣きながら伸ばす真っ赤な手。
 もう随分時間が経ったのに、あのときの光景が脳裏に焼き付いて離れない。
 離れて、くれない。

 十年前の夏。僕たちは日も昇らぬ早朝に家を出て、遠くのキャンプ場へと向かっていた。
「ちょっと陽人。狭いからもっとそっち行って!」
「え~無理だって。姉ちゃん、もしかして太ったんじゃないの?」
「な、な、なっ⁉ ちょっと陽人! こっちきなさい!」
「うわぁ! ちょっ、タンマ!」
 他愛のない、いつものやり取り。
「ちょっと、ちょっと。車の中でケンカはやめなさいって」
「はっはっは。元気やな~。そんなんじゃ、キャンプのときにもたんぞ?」
 普通だったら日常の色に溶け込んで忘れ去られるような会話も、まだはっきりと脳内に残っていた。
 家を出て、車通りの少ない国道をしばらく走ると、山道へとさしかかった。この山道を越えてすぐのところに高速道路の入り口があり、そこから楽しいキャンプという、非日常的な思い出となる一日が始まるはずだった。
 あのとき、確か僕は姉とのケンカやキャンプへの興奮で疲れ、ウトウトとしていた。まどろみの中で、どこか遠くから母や父、姉の会話が飛び交っていた気がする。
 すぐに眠れなかったのは、街灯の光が時々僕の瞼に当たっては目が覚めていたからだ。
 でも、そのおかげで僕は家族の最期の瞬間を、おぼろげなりとも刻み込むことができた。
 時間は明け方。薄っすらと開けた視界に、白み始めた空と雲が映っていたのを覚えている。
 そのとき、僕たちは山道を登っていた。
「きゃああっ⁉」
 母の叫び声と同時に、目の前が眩しい光で包まれた。まるで、太陽が一瞬で顔を出したような、そんな眩しさだった。
 でもそれは太陽などではなく、対向車のヘッドライトだった。認識してすぐ、車体が大きく左に揺れた。多分、父がハンドルを左に切ったのだと思う。光が膨張し、その車が迫ってきていたのがわかったから。
 直後。束の間の浮遊感を経て、物凄い衝撃が全身を貫き、意識が飛んだ。
 …………それから、どれくらい時間が経ったのか。
 感覚的には、目覚めるまで数秒だった。起きたら見知らぬ天井、といったありきたりな展開ではなく、地獄の真っ只中だった。
 最初に目に飛び込んできたのは、炎。車内の上から下、座席、ドアなどなど、目に映る全てのものが燃えていた。
「お母さん! お父さん!」
 とにかくここから逃げないと。
 七歳くらいだったのに、このときの僕はなぜか冷静だった。
「お姉ちゃんっ! どこっ⁉」
 起き上がろうとしたとき、気がついた。
 上にすごく重い何かが乗っていて、全く動けないことを。
 立ち上がろうと動かした足に激痛が走り、動かせないことを。
 顔の右頬の辺りが異常に熱く、触ろうと伸ばした手の平のように赤く、ただれているであろうことを。
「うあ……ああっ、あああああっ!」
 もうダメだ。僕は、ここで死ぬ。
 なぜ、なんで、どうして…………?
「お母さんっ……」
 あちこちが痛かった。目が、喉が、全身が。
「お父さんっ……」
 でも、そんなことよりも、どうして楽しいはずの今日にこんなことが起こるのか、心底不思議で、悔しくて、悲しかった。
「お姉ちゃんっ……!」
 痛みと息苦しさで意識を保つのも難しくなり、目の前が霞み出したときだった。
「陽人っ!」
 いつもは憎たらしくて、飽きるほど聞いていて、ほとんど毎日罵詈雑言しか飛んでこない声が、このときは救いの声だった。
「お姉ちゃんっ!」
 遠のいていた意識が、少しだけ戻ってきた。なんとか動く頭をもたげると、うごめく炎を背に姉が必死に手を伸ばしていた。
「待ってて! 必ず、私がっ!」
 僕も、痛む身体に鞭を打って必死に手を伸ばした。あちこちが熱く、軋み、痛んだ。再びぼやけていく視界の先で、指先が揺れていた。
「助ける、からっ!」
 そのとき、何かが姉の頭上に降ってきた。
 下敷きになる姉。
 激しく燃える車の破片と、太い枝。
 それでも姉は、血だらけになり炎に包まれながらも這い出し、僕に手を伸ばしてきた。
「もう少し、もう少しだよっ! 陽人!」
「お姉ちゃん……助けて……っ!」
 なぜ、僕はあのとき手を伸ばしてしまったのだろう。
 なんで、僕はあのとき姉に「逃げて」と言えなかったのだろう。
 どうして、僕が、僕だけが、今生きているのだろう。
 答えはわかっている。
 僕は、助かりたかった。
 生きたかった。
 死ぬのが、怖かった。
 伸ばした手が姉の手に届いたとき、僕は意識を完全に失い、「見知らぬ天井」が見えるまで目が覚めなかった。

「はぁ……」
 ごろん、と再び寝転がり、天井を見上げる。
 そこにあるのは、見慣れた天井。変色していて、日焼けの濃いヒノキ。
 見知らぬ天井は、あの事故の後以来見ていない。
「それにしても、実際どうなんだろ……」
 ここ数週間の疑念。それは、あの事故のきっかけとなった対向車に光里が乗っていたのではないか、というものだった。
 あの事故のきっかけとなった対向車は、そのまま事故現場から逃げていた。街灯に取り付けられていたゴミの不法投棄防止用監視カメラに、偶然にもあの事故の一端が映っていたのだ。後から聞いた話だと、対向車は明らかにスピードを出し過ぎており、ハンドル操作を誤ったのではないかということだった。人通りの少ない時間ということもあって目撃者はおらず、監視カメラの画質からはナンバーも特定できなかったため、結局今もだれがあの対向車に乗っていたのかはわかっていない。
 しかし裏を返せば、あの事故は関わった警察の人や病院関係者を除けば、事故の被害者と加害者しか知らないことになる。新聞にも小さく載ったが、所詮は田舎町の自動車事故であり、そこまで大きくは取り上げられなかった。
 つまり、あの事故が今年の来月末でちょうど十年を迎えるということは、かなりの関係者しか知らないはずだった。そこから導き出した結論が、光里があの車の同乗者、少なくとも近親者ではないか、ということだったのだが……
「でも、まさか、な……」
 この三週間、何度も頭に浮かんだ考えを振り払うように、僕は起き上がった。
 たぶん違う、と思った。裏付ける証拠があるわけでもなく、結局のところ想像でしかない。もしかしたら新聞か何かで見たのかもしれないし、僕の顔のやけどの痕から何かしらの理由で事故のことを知ったのかもしれない。小さくとはいえ、一応名前が新聞や地方ニュースに載ったのは事実だ。
 それになにより、光里があの事故に関わっていると、なぜか思いたくなかった。
「決めつけは、よくないよな……」
 もし気になるなら、光里に訊いてみたらいい。その前に、避けてしまっていたこととか謝らないといけないな。
 そう自分に言い聞かせ、ふと時計に目をやった。
「やべっ……そろそろ夕飯作らねーと」
 祖父は仕事で、いつも帰りが二十時くらいになる。部活にも入っていない僕は夕飯当番だ。重い腰をあげて制服のまま台所へと向かい、冷蔵庫の取っ手を掴む。そのとき、目にしたくないものが視界に入ってきた。
「うわっ……文化祭の準備、明日からか」
 冷蔵庫の前面にマグネットで貼られた高校の日程表には、試験日の翌日、つまり明日のところに「文化祭準備開始!」とやたらポップに書かれていた。ボランティア遠足の前、みんなで昼ご飯を食べていたときの、光里の言葉が頭をよぎる。
「いきなり、かー……」
 流し台の奥にある小窓から、雨上がりの月が顔をのぞかせていた。

「今日から文化祭の準備が始まります。この前決めた役割に従って――」
 一限目のHRで、文化祭の概要や日程、以前決めた出し物の内容、準備の役割分担表などの説明が行われていた。
 僕たちの高校は文化祭にやたらと力を入れていて、地元では割と有名だ。役割決めや出し物決めはボランティア遠足前に、本格的な準備は一か月以上前から始まるという気合いの入れようである。そのおかげか、一般開放されている二日間の文化祭は、例年多くの人が訪れていた。
 二年生の出し物は模擬店で、僕たちのクラスはたい焼き。模擬店の人気度では中くらいなのだが、手ごろに食べられ味も毎年いろいろ出るので、特に外部の来校者には人気があった。ちなみに、隣の光里のクラスは二種類のドリンクと二種類のデザートを出す簡易カフェ。人気度は高く、全九クラス中五クラスが志望し、最後は各クラス実行委員による大盛り上がりのじゃんけん大会だった……と、こっそり見に行ったらしい光里が話してたっけ。
「おい、陽人」
 話半分に説明を聞きつつぼんやりしていると、不意に話しかけられた。声のした方を振り返ると、笹原が立っていた。
「あれ、笹原? 説明中だぞ、何してんだ?」
「バッカ、もう終わったよ。当日の役割に分かれて打ち合わせだ」
 笹原が指差す先では、同じ役割を担うクラスメイトたちが集まっていた。
「ああ、そうなのか」
「大丈夫か? 朝もぼーっとしてたけど」
「大丈夫、大丈夫。行こうか」
 なんでもないふうを装って、僕は席を立った。
 実際は、あまり大丈夫ではなかった。僕が当日担当するのは、たい焼きの生地作り。主に家庭室にこもって延々と生地を作る。まぁもちろんそれだけではなく、人手が足りないときは宣伝や焼く側にも回らないといけないのだが、そんなことは今はどうでもいい。
 事前準備の役割が、やばいのだ。理不尽なくじ引きで決まった僕の役割、それは、隣のクラスとの場所決めや協力してのテント、イス、テーブルなどの配置、その他諸々の折衝だった。そしてその相手が……
「おーい! 陽人ー!」
 澄んだ声が、教室内に響いた。入り口に目を向けると、気まずげな表情を浮かべた光里と目が合った。
 くそっ……。
 まとわりつくような視線が、僕と光里に向けられる。その大半は、好奇。元々異色のグループとして見られ、さらにここ最近、急に教室で昼食をとらなくなったことも原因なんだろう。なんにせよ、気持ちのいいものじゃない。
 居心地の悪い空気の中、僕は打ち合わせの輪から外れ、彼女の方へ足早に向かった。
「おい、恥ずかしいからもっと小さな声で呼べよ」
 周囲への苛立ちか、はたまた久しぶりに話しかけたこともあって緊張していたのか、口調がやたら強くなってしまった。やってしまった、と思う間もなく、光里はシュンとした表情で、
「ごめんね……」
 と謝ってきた。
 いや、今のはこっちが悪い。ごめん。
 と言うこともできず、僕はただ
「べつに……」
 としか返せなかった。
 そのまま数秒、感覚的にはもっと長い沈黙が流れた。
 謝らないと……だよな。
 これから文化祭に向けていろいろと打ち合わせをすることも多いのに、最初からギクシャクしていてはお先真っ暗だ。僕は数瞬の逡巡の後、どうにか彼女の方へ目を向けたが、
「……じゃあ、行こっか」
 僕の謝罪で破るべき沈黙を、光里が解いた。そしてそのまま、どちらともなく歩き出す。
 ……どうしたら。
 自分の不甲斐なさと、これまでのことも含めてどうにか謝りたいとの思いに、僕の心中は穏やかではなかった。

 梅雨もそろそろあけようかという夏晴れの中、僕は先生からテントやテーブル、イスなどの配置について説明を受けていた。僕以外にも数人、各クラスの折衝担当が配布されたプリントを片手に集まっている。さすがに教室でのHRみたいに聞き流すと後から責任を問われそうなのでそこそこしっかりと聞いているが、心の中はため息の嵐だった。
 集合場所である生徒玄関前に着くまでに謝れず、必要なテントやイスなどの数の確認のときには事務的なやり取りしかできず、所用で遅れた先生が来るまでの二十分の間ではまともな会話すらできなかった。やけどの痕から元々人を避けていることもあるが、こんなにも自分はコミュニケーションが苦手だったのかと落ち込みたくなってくる。
「――と、以上が配置についての説明です。何か質問のある人はいますか?」
 そうこうしているうちに先生の説明が終わった。後半は半分くらいしか聞いていなかったがそんなことは言えず、質問する人もいなかったのでそのまま解散となった。
 今度こそ謝らないと、と目で光里のことを探すが、既に別のクラスの友達らしき人と学校の中に入っていくところだった。
 まぁ、また今度でいいか。
 逃げ腰の自分にそう言い聞かせようとしたとき、
 ピロリン。
 制服のズボンの後ろポケットから機械質な音が鳴った。いつもは先生に見つからないようマナーモードにしていたので最初は自分のものだとはわからず、校内に戻ろうとしていた他の生徒の視線で僕のだと気づいた。
「あぶな」
 思わず独り言が漏れる。先生に見つかっていたら没収されるところだった。とりあえずマナーモードにしてから周囲に先生がいないのを確認し、通知が来ているメッセージアプリを起動する。
「え?」
 笹原からだった。あいつも今ごろは別の仕事をしているはずだがなにしてんだ。
 ≫よう、ダメだったみたいだな
 まるで見ていたような言い方だった。咄嗟に教室の方の窓を見上げたが、覗いているような人影はない。
 ≫余計なお世話だよ
 そう返事を返すと、すぐに既読がついた。ほんとになにやってんだ、あいつ。
 ≫ここでひとつ、提案があるんだが
 この次の返信を見てすぐ、画面の奥で彼がニヤッと笑っているのが容易に想像できた。
 ≫来週の花火祭り、誘ってみたらどうだ?
 焦る僕の頭上で、のんびりと授業終了のチャイムが鳴り響いていた。

 一限目の後、僕は教室に戻り、文化祭実行委員に先生から受けた説明や今後のスケジュールを諸々伝えると、すぐに笹原のところへ直行した。
「おい、さっきのはどういうことだ?」
「いや、どうも何もそのままの意味なんだが?」
 ダンボールで作った模擬店の看板を片付けつつ、笹原は得意げに笑った。おちょくっている感じはないので、面白半分本気半分といったところか。
「普通に話せてもいないのに、いきなり花火なんか誘っても来るわけないだろ」
 これまで避けられ続けた相手から、いきなり花火に誘われたらなんと思うだろうか。明らかに不自然だし、気まずくなるのは目に見えている。僕なら、ほぼ確実に何かしらの理由をつけて断るだろう。しかし笹原はなにやら自信があるらしく、チッチッチと立てた人差し指を左右に振った。
「そうでもないぞ。この前のボランティア遠足でのこと、思い出してみろよ」
「はぁ?」
 あのボランティア遠足がきっかけでこうなっているんだが。
「ほら、アイス食べながら話したじゃんか」
 アイス、という言葉でやっと僕にも見当がついてきた。
「ああ、あれか。笹原が強引に決めたやつか」
「おい。三週間先を見通した妙策と言ってくれ」
 わけのわからないことを言う笹原を放置し、僕は土手でのやり取りを思い返した。
 確かにあのとき、光里はかなり行きたそうにしていた。彼女の性格を考えても、こういったイベントは好きなのだろう。それに笹原から改めて誘われたとでも言えば、光里は彼とは特にしがらみもないので大丈夫かもしれない。
 そんなことを考えていると、プラスチックのスプーンを口にくわえながら返事をし、小学生のように勢いよく手を挙げる光里を思い出し、思わず笑みがこぼれそうになった。
「おい、なにニヤニヤしてんだよ。気持ち悪い」
「う、うるせー!」
 顔に出ていたのか。
 込み上げる羞恥心を無理矢理抑えつつ、放課後にでも誘ってみようかなと僕は思った。

 ……そして時間は過ぎ去り、放課後。冷静になって考えてみると、やっぱり無理なんじゃないかという気がしていた。
「ふぅー……」
 光里のクラスの前でひとつ深呼吸をする。一瞬の気の迷いとは言え、ここまで来たらもう引き返せない。他クラスの女子を呼ぶ気恥ずかしさと、これまで溜めに溜めた気まずさが絶妙な混ざり具合で押し寄せていた。
「あのー、ひか……じゃなくて、天之原さん、はいますか?」
 おっかなびっくり教室のドアの近くにいた男子に話しかける。一限目のときに普通に呼んだ光里はすげぇなと、心から感心した。
「んー、ちょっと待っ……ひっ⁉」
 目が合うと、相手の顔が引きつった。そこで僕は、自分の異常な様相のことを思い出した。
「ごめん。びっくり――」
「あ、天之原なら、今はいないみたい! じゃ、じゃあ、俺は用事があるから」
 こわばった笑みを浮かべ、その男子は逃げるように教室を出ていった。
 失敗したな、と思った。今までの僕なら、こんなふうにいきなり話しかけることはしなかった。遠目から教室内を眺め、中にいないことを自分で確認して去っていただろう。そもそも、隣のクラスに行こうとすら思っていないかもしれない。
 もちろん、顔にあるやけどの痕を忘れていたわけではなかった。毎朝鏡で見ているし、街中を歩いていたり電車に乗っていたりすると必ずじろじろ見られるので、忘れたくても忘れられるわけがない。
 でも、以前に比べて最近は気にすることが減っていたのも事実だった。朝起きてから登校するまでにうんざりしても、毎朝光里が意味のわからないテンションで絡んできて、それを笹原がいじってきているうちにどこかに吹っ飛んでいた。教室で変な目で見られても、その日の昼休みに二人とご飯を食べ、くだらない話をしているうちにどうでもよくなっていた。
 そして。二人から絡まれることそのものも、満更でもないと思っている自分が、心のどこかにいた。そんなことに、最近薄々と気がついていた。
「まぁ、仕方ないよな」
 以前なら声に出さない感想を、そっとつぶやく。なぜか、そうしたくなった。
 さっきの男子とのやり取りを、クラスの何人かがなにやらひそひそ話しながら見つめていたが無視し、とりあえず校内を探そうと僕は光里のクラスに背を向けた。
「あ、あの……」
 そのとき、思いがけず後ろから声をかけられた。びっくりして振り返ると、ボランティア遠足で光里と同じグループだった女子が、物言いたげな面持ちで立っていた。
「え、なに?」
 驚きとさっきのやり取りでの苛立ちで、冷たい声色になってしまった。逃げられるかなと思ったが、彼女は逃げずに僕の目をジッと見ていた。
「えっと、光里ちゃんの友達……だよね?」
 おずおずと言った感じで、彼女は尋ねてきた。
「……そうだけど」
 友達、というワードに、実際はどうなんだろうと内心思ったが、代わりの言葉も見つからないので頷いておいた。
「えっと、光里ちゃんならさっき屋上に上がっていったよ」
「屋上?」
「うん。多分、文化祭の準備かなにかじゃないかな」
 僕の異様な顔にもう慣れたのか、話し方は普通の感じだった。
「怖がらないんだね」
 不思議に思って、僕はまた普段なら訊かないようなことを訊いてしまっていた。言葉を全て発してから、またやってしまったと後悔しかけたが、その前に彼女はふふっと小さく笑った。
「だって、光里ちゃんから聞いてたから」
「え?」
「ちょうど今朝光里ちゃんと話しててね、顔だけは怖いけど本当は寂しがり屋の優しい人、って言ってたんだ」
 そう言うと、彼女はまた短く笑った。そして、「今言ったことは秘密にしといてね」とだけ言い残し、お辞儀をして教室に戻っていった。
「……なんだよ、それ」
 不覚にも数秒立ち尽くし、僕は急いで光里のクラスを後にした。

 放課後の喧騒が響く廊下を駆け抜け、僕は屋上へと続く階段を足早に昇っていた。
 まさか光里が友達に僕のことを話しているとは思ってもみなかったし、ましてやあんなふうに僕のことを言っているなんて予想だにしていなかった。実際に僕が寂しがり屋で優しい人なのかはわきに置いておくとして、そんな評価をしてくれていることは結構悔しくて、若干文句を言いたくて、少しだけ嬉しかった。
 だから、僕の勝手な想像でこんな状態になっていることがすごく申し訳なかった。
 早く謝りたい。会って謝って……さっきの評価に異議を申し立てたい。
 そんなことを考えながら、僕は屋上へと続くドアの前に辿り着き、ドアノブに手をかけ、回した。閉まっていたドアが少しずつ開いていき、暗い階段室に黄色い太陽の光が溢れていく。
「天之原。俺は……天之原が好きだ!」
 ドアにかけていた力を、反射的に緩めた。階段室でどんどん太くなっていた光の線の膨張が止まる。
「えっと……なんで私?」
 その声は、屋上から聞こえていた。声の大きさからして、多分ドアを開けてすぐのところ。
 僅か数メートルの距離のところで、光里が告白されていた。
「一緒にいて、楽しいから。いつも話しているときすごく楽しいし、安心する」
 その声は聞いたことがなかったけど真っ直ぐで、すごく爽やかだった。
「……そっか、ありがとう。その気持ち、すごく嬉し――」
 パタン、と音がしないようにそっとドアを閉めた。くっきりできあがっていた太陽光の輪郭が、一瞬でなくなる。それと同時に、聞こえていた二人の声はどこかくぐもった感じになり、内容も聞き取れなくなった。
 そのまま僕は屋上に上がらず階段を降り、教室で荷物をまとめると生徒玄関に向かった。
「文化祭の準備じゃなくて、告白の呼び出しだったのかよ……」
 気持ちがまた口から漏れた。別に好きだとかそういう感情は抱いてなかったのでショックということはなかったが、なぜか心のどこかがモヤモヤとしていた。
 さっき告白していた男子はだれなんだろう。声は聞いたことがなかったから、僕のクラスではない。いつも話しているとか言ってたから、光里と同じクラスの男子だろうか。
 光里の声も、今まで聞いたことのない高さというか、トーンだったな。あれが嬉しいときにみせる彼女の声なのだろうか。
「おっ、陽人! 珍しく遅いな、今帰るとこ?」
 そんなことを考えていると、よく知った声が廊下に響いた。振り返ると、学生鞄と運動バッグを担いだジャージ姿の笹原が、大仰に手を振っている。
「そういう笹原は早いな。部活、もう終わったのか?」
「いや、今日は早上がりさせてもらっただけ。病院行きたいから」
「ふうん」
 おそらく、この前言っていたお姉さんのお見舞いだろう。あれから何度か話に出てきていたし、特段それ以上訊くことはせずに僕は返事だけをした。
「……天之原さんのことでなんかあった?」
「え?」
 予想外の切り返しに、思わず間抜けな声が出た。「あったんだ」と、弁解する暇もなく彼は僕の顔を見据える。
 これは、言い逃れできそうもないな。
 このことを誰かに言うのは気が引けたが、なぜか聞いてもらいたい気持ちもあったので、事の顛末を言おうと僕は口を開いた。
「あっ、わかった! 花火誘えなかったんだろ?」
 一文字目を発する前に、彼が自身の推測を得意げに披露した。
「……」
「え? 違う? んー……ならあれだ! 誘ったけど断られた! ……え、そんなことある?」
 今度は一人で指摘して、一人で落ち込んでいる。その様子は、なんだかおかしくて。
 まぁ、いいか。さっきまであれこれ考えていた自分が、急になんだかばかばかしく思えてきた。開いていた口を一度閉じ、僕は小さく笑み浮かべる。
「いや、そもそも光里を見つけられなかったんだよ。また今度誘うことにするわ」
「そんなバカな。いやでも……え? あ、なんだ、そういうことか」
 ぶつぶつ言っていた彼は僕の言葉に納得したようで、ほっと胸をなでおろした。
 うん。また今度、誘えばいい。
 僕は心の中で、そう自分に言い聞かせた。

 結論から言えば、僕は光里に謝ることも、花火祭りに誘うこともできなかった。彼女の顔を見るたびに、この前偶然聞いてしまった告白やら、未だにくすぶり続ける疑念やらがちらついて、今まで以上にまともに接することができなかった。そんな僕を見かねてか、笹原が花火祭り前日に光里を誘ってくれていた。
「何があったか知らねーけど、自然消滅したら元も子もねーぞ」
 なぜか彼は、ケンカしたカップルに対するアドバイスのような文言を僕に言った。そして祭り前日の別れ際、
「もう一人だけ連れて行きたい人がいるから、それだけよろしく!」
 と一方的に要求を述べると、僕が何か言う間もなく自転車で走り去っていった。
「なんなんだよ、あいつ」
 彼のしつこいお節介や意味深な要求への疑問は一日寝ても消えず、結局花火祭り当日の今に至るまで残っていた。
 もやもやとした思考のまま、僕は待ち合わせ場所である公園へと向かっていた。その公園から花火祭りの会場までは徒歩十分くらいで、この時期は集合場所として使っている人が多い。今歩いているこの道も人通りがいつもより多く、見つけるのに苦労しそうだなぁなどと思いながら、僕は公園に向かうルート上での最後の角を曲がった。
「おーい! こっちこっち!」
 公園前は予想通りかなり混んでいたが、意外にも笹原の姿はすぐに見つかった。五十メートルくらい先の街灯の下で、大きく手を振っている。
「早いな」
 集合時間まで、まだ十分以上ある。笹原の姿が見えたときには遅れたのかと思ったが、時計を見ると全然余裕だったので、この五十メートルはたっぷり二分ほどかけて歩いた。
「おせーよ。十五分前集合が基本だろ」
 僕が街頭下まで来ると、彼はゴリゴリの運動部のようなことを言った。
「僕は帰宅部なんでね」
 陸上部はいつも十五分前集合をしているのだろうか。だとしたら、集合時間の意義とは……。
「まぁいいや。これで、全員揃ったかな」
「え? もうひとり連れてくるって言ってた人と……その、光里は?」
 辺りを見渡すが、家族連れやどこかの町内の集まりと思しき集団、あとは僕たちと同じように友達と待ち合わせをしていそうな人ばかりで、それらしき人も光里もいない。
 もしかして都合が悪くなったとか、光里に関してはやっぱり僕に会いたくないとか、そういうことだろうか。
 そんな思考が渦巻きかけたとき、
「だ、だーれだ?」
 急に真っ暗になった視界に、目を覆いかぶせる温かな感触。そして、聞き慣れつつも最近あまり聞いていなかった声。
「……ひ、光里」
「あ、あたり~……」
 気弱げな、というか気まずそうな声で光里はそう言うと、そっと手を僕の目の前から外した。視界が戻り、めちゃくちゃにやにやしている笹原の顔が見えた。
「笹原、お前な……」
「え? あ、違う違う! 俺じゃない!」
 何やらせてんだと詰め寄る前に、彼は取り繕ってきた。かと思うと、「後ろ後ろ!」としきりに僕の後方を指差している。こんなこと考えるのは笹原しかいないだろと思いつつ、僕は振り返った。
「いや~、面白いものが見れたわ~。初々しい光里ちゃん、可愛いな~」
 そこには、顔を赤らめてモジモジする私服姿の光里と、のんびりとした口調でそう話す車椅子に座った女性がこちらを見ていた。
「え?」
 笹原に向いていた苛立ちが霧散していく。代わりに、「この人だれ?」という最もな疑問が頭の中に浮かんだ。
 目の前の女性は、明らかに年上だった。多分、最低でも五、六歳は離れている。茶色っぽいセミロングの髪に、白のブラウスと水色のロングスカートという落ち着いた服装。車椅子に座っているので身長はわからないが、比較的小柄なようだ。
 でもそんなことより、さっきまで見ていた笹原のにやけ顔とそっくりな笑みを浮かべていることのほうが、僕にとってははるかに重要だった。
「あの、もしかして……」
「ん? あ~、そういえば自己紹介がまだだったね~」
 にやにやした表情を戻すためか、コホン、と彼女はひとつ咳払いをした。
「いつも弟がお世話になってます〜。幹也の姉の美咲でーす。気軽に、美咲さんでも美咲ちゃんでもミッキーでもいいので呼んでくださーい」
 おっとりとした口調のまま、その女性は頭を下げた。呆然としていた僕だったが、顔をあげた彼女と目が合い、慌ててお辞儀をした。
「こ、こちらこそ。橘陽人と言います。よろしくお願いします」
「お! 礼儀正しいじゃーん。幹也とは大違いだ」
「うっせーよ! 俺だって初対面の人に挨拶くらいしてるわ!」
「ほんとかな~」
 顔をあげるまでの数秒間に、なにやら姉弟の言い合いが始まった。通りかかる人がチラチラとこちらを見てくるが、二人はお構いなしといったふう。その様子は、なぜか昔の自分と姉を見ているみたいで、少しだけ羨ましかった。
「あ、あのー……」
 といっても、このまま見ているわけにもいかないので、おずおずと声をかける。すると、二人はタイミング良く同時にハッとした。
「やっべ、またムキになってた」
「いや~ごめんごめん」
 兄妹仲良く取り直すと、ふと美咲さんは僕の目をジッと見つめてきた。
 …………たっぷり、三秒くらい。
「えっと、なにか……?」
 わけも分からず、僕は訊いた。
「ううん、ごめんね。橘陽人くん……か。うん、よろしくね~」
 視線を外すと、美咲さんはにっこりと笑った。
「さっ、張り切ってお祭りを楽しもう~!」
 ほらほら、と美咲さんは笹原に車椅子の後ろを押すようにせがんだ。笹原はぶつぶつ言いながらもタイヤ周りを確認し、車椅子を押し出す。
 そんなこんなで、僕たちの花火祭りは始まった。

 公園からしばらく歩いたところにあるお祭り会場は、予想通り混んでいた。小さな空き地の周囲に、たこ焼きや射的、金魚すくいなど定番な出店が囲うようにして並んでいる。その中央には小さな櫓があり、初老ほどのおじさんが勇ましく太鼓を叩いていた。
「お~。今年もいろんな屋台があるね〜!」
 のんびりとした口調とは対照的に、忙しなくあちこちへと目移りしている美咲さん。その右手には、早くも入り口付近の屋台で買った綿飴が握られている。
「姉さん。頼むから普通に座っててくれ。弟の俺が恥ずかしい」
 そんな美咲さんの後ろでは、恥ずかしそうに顔を赤らめながら笹原が車椅子を押していた。
「いーじゃない。こういうお祭りは楽しんだもん勝ちなの。ねっ? 光里ちゃん?」
「はい! それはもう間違いなく!」
 美咲さんの問いかけに、前を歩いていた光里が勢いよく振り向いた。その拍子に、彼女の目の前でも小さく綿飴が揺れる。
「お! さっすがー! よしっ、光里ちゃん、車椅子押してよ〜。一緒にあそこの輪投げやろう〜!」
「ふぁいっ!」
 残りの綿飴を口に含み、もごもごと返事をした光里は笹原と交代し、そのまま美咲さんと輪投げの屋台に行ってしまった。あとには、野郎二人がポツンと取り残された。
「お前の姉さん、すごい人だな」
 思わず、そんな言葉が口から漏れた。
「だろ? 台風のような姉だよ。さすがの俺も全く敵わない」
 やれやれと笹原は肩をすくめる。でもそれは同時に、どこか嬉しそうでもあった。
「どした?」
「ん? 何が?」
「いや、敵わないとか言っておきながら、なんか嬉しそうだし」
 つい、訊いてしまっていた。
 なぜだろう。今までの僕なら絶対踏み込んだりしないのに。
「珍しいな。陽人がそんなこと訊くなんて」
 案の定、彼は不思議そうな顔をした。まぁ、そうだよな。僕でさえ不思議に思ってるんだし。
「いや、ただの気まぐれ。忘れてくれ」
「ふーん? まぁ別に大したことじゃねーよ。姉さんが、いつも通りで良かったなぁって」
 忘れてくれと言ったのに、彼はスルーしてその理由を話し始めた。
「姉さんさ、実は病気なんだ。神経難病っつーの? 原因わかんないけど、神経が仕事してくれなくて、それで上手く歩けないみたいでさ」
 彼は、少し離れた所で楽しそうに輪投げに興じる美咲さんたちへと目を向けた。その視線は、どこか儚げな雰囲気をはらんでいるように見えた。
「病気になった当初は、かなり塞ぎ込んでた。俺がお見舞いに行っても目も合わせてくれなくて、さっきみたいな言い合いもなくて。ほんと、どうしていいかわからなかった」
 視線の先の美咲さんは、そんな過去を感じさせない笑顔で輪っかを放っている。かと思えば、両手を上げて光里とハイタッチをした。どうやら、狙い通りのところに入ったみたいだ。
「……でもさ。次第に元気になってきて、また前みたいに少しずつ話せるようになった。全く元通りってわけにはいかねーけど、また笑うようになってくれた」
 僕たちの視線に気づいたらしく、美咲さんは輪投げの景品であるブレスレットを僕たちに向けてひらひらと振った。その破顔した表情は人懐っこくて、笹原にそっくりだった。
「だからさ、こうやっていつも通り、前みたいに笑ってお祭りに行けるのが、幸せだなぁって思っただけ。……陽人もさ、あんまり意地ばっか張るんじゃねーぞ」
 そこで、笹原もくしゃりと笑った。でもそれは、美咲さんの笑顔とはどこか違っているように見えた。
「笹原、お前……」
「あー! なになに〜? 野郎二人してどんな恋バナしてたの〜?」
 いつの間にか近くに来ていた美咲さんは、からかうように笹原をこつく。「んな話、こんなとこでしてるわけねーだろ!」と彼は叫び返していた。
 どこか違和感を覚えた、取り繕ったような笑顔はもうそこにはなく。
 幾重にも吊るされた提灯の淡い光が、仲良く戯れ合う姉弟の日常を優しく照らしていた。

 それから僕たちは、輪投げに、焼きそばに、たこ焼きに、金魚すくいに……と時間の許す限り屋台を楽しんだ。笹原への違和感は気になったが、とりあえず今は光里との関係をどうにかするのが先だ。文化祭の折衝を上手くこなすためにも。
 しかし、そんなすぐに解決できるのならこんなに四苦八苦していない。
 結局、屋台を回っている間はろくに光里と話せず、美咲さんに振り回され、人混みに押しつぶされ、気がつけば花火まであと少し、という時間になっていた。
「あー! 楽しかった〜!」
 ボラ遠でも行った河原までの道すがら、笹原の押す車椅子の上で、美咲さんは満足気に伸びをした。
「だから危ないって姉さん。移動中くらいは頼むから大人しくしててくれ」
「え~。どうしよっかな~」
「どうしよっかな~じゃねーよ! マジでやめろって」
 本日……もう何度目になるか数えるのも嫌になるくらい見ている姉弟の言い合いに、僕はほとんど無意識に肩をすくめる。ほんと、仲良いよなこの二人。
「ふふっ。仲良いよね、笹原くんと美咲さん」
 その時、ちょうど思っていた感想が、すぐ隣から聞こえた。
「……ああ、そうだな」
 ちょっとだけ迷って、僕は返事をする。あまり大きくない道幅。肩が微かに触れ合うような位置に、光里がいた。
「いいな~。私にも姉弟がいたらな~」
 姉弟、という言葉に一瞬ドキリとした。自分で思うのと、光里に言われるのとではやはり違う。でも、彼女の言い様は感じたまま、思った通りというふうだった。僕のことを知っているような、探るような、そんな雰囲気はない。
 ちらりと、彼女の方に目を向ける。
 僕たちの歩いている十裏川沿いの道には、それほど街灯はない。数メートルおきにぽつぽつとある程度で、あとは月明かりのみだ。そんな薄暗がりの中で、彼女は柔らかな微笑みを浮かべて、少し前を歩く笹原たちを見ている。
「……あのさ」
 彼女の横顔に向けて口を開く。今なら、言える気がした。
「ん? なに?」
 透き通った黒い瞳が、僕を見つめた。月の光に照らされて、とても綺麗に輝いていた。
「……あ、えっと……――」
 つい見惚れて言い淀んだ、その時。
 ――ドオォォンッ!
 夜空の彼方から聞こえた爆音とともに、彼女の瞳の中で光の花が弾けた。
 ドオオォォン、ドオォォォンッ!
 続けて、二発。今度は音のした方へ、視線を向けた。
「うわぁ……! きれい……っ!」
 星空に輝く、色彩鮮やかな大輪の花たち。緑に、黄色に、赤に、青。
 牡丹のように開くものもあれば、しだれ桜のように落ちていくものもある。
 そしてそれらは、光里の感動した声の通り、すごく綺麗だった。
 僕たちは会話を止めたまま、ひたすら花火に見入っていた。
 とても綺麗で……。
 幼い頃に見た花火と似ていて、なんだかすごく、懐かしくて……――。
「――陽人、ごめんね」
 破裂音だけが響いていた中、不意に光里がつぶやくように言った。
「え?」
 驚いて、彼女の方を見る。
「この前の、ボラ遠のこと。私、陽人の気持ちも考えずに、変なこと言っちゃったから……」
「それって……」
「……私が最初に生き返らせた一ノ瀬さん、結構ギリギリだったんだ。その時、十年経つと生き返らせるの無理なんだってわかって……陽人の大切な人は、そんなことないようにしないとって思っちゃって、さ……」
 彼女は、話している間も花火を見続けていた。その瞳には、さっきよりも歪な形の花火が浮かんでおり、今にも零れそうだった。
「大切な判断なのに、急かせるようこと言ってごめんなさい。……こんなんじゃ、信用してもらうなんて、夢のまた夢だよね……」
 今度は僕の方に顔を向けて、自嘲気味に小さく笑った。でも、それは堪えきれずに、頬を伝って落ちていった。
 ああ、違った……と思った。
 僕はまだ、心のどこかで、光里のことを疑っていた。
 でも、違った。
 彼女が、あの対向車に乗っていたはずがない。
 僕の家族を崖下に突き落として、逃げて、何事もなかったかのように過ごしているような人たちなんかじゃ、ない。
「いや……! 僕の方こそ、ごめんっ!」
 自覚すると、どっと罪悪感が押し寄せてきた。
「なんか変な勘違いしてて、それでちょっと、距離置いてしまって……」
 一方的な思い込みで、光里を傷つけていた。その事実は、想像以上に重く、僕の心にのしかかってきた。
「だから、光里はその……全然悪くなくて、全部僕のせいだから……その、ごめん!」
 花火がフィナーレに向けて鳴り響いている最中、その音にかき消されないよう精一杯叫び、頭を下げた。
 光里は確かに、不思議な力を持っている。
 ただ、それでも。
 今ではもう――大切な友達だった。
 昼休みに笑う彼女の笑顔は、年相応の女の子で。
 美味しそうにアイスを頬張る彼女の横顔は、とても幸せそうで。
 あの時河原で心配してくれた彼女の優しさは、本物だった。
 また一緒にお昼を食べたい。
 光里と、笹原と、また笑いながら他愛のない話をしたい。
 どこかむずがゆくて、照れくさくて、憧れていた日々を、もう一度送りたい。
 もっと早くに、気づいておくべきだったのに。
 日常の大切さは、誰よりも知っていたはずなのに。
 どこかで僕はひねくれて、それを認めたくなくて、自分から拒んでいた。
 光里や笹原との日々は、そのことに気づかせてくれた。
 そんな大切な、何気ない日常をまた送りたいと、心からそう思った。
 だから……。だから………――。
「えと……陽人、その……顔を上げて?」
 どれくらい、そうしていたのだろうか。
 戸惑った声が頭上から聞こえ、僕は顔を持ち上げた。
 なんだろう。ずっと突き放すような態度とってたし、やっぱり……。
「その、そこまで全力で謝られると、どう対応していいか困っちゃう……よ?」
「……へ?」
 間抜けな声が、口から漏れた。
「アハハハッ、陽人! 天之原さんが困ってるぞー?」
 気がつくと、花火の音はすっかり止んでいた。いつの間にか笹原たちは近くに来ており、僕たちと同じように花火を見に来ていた人たちからは変な視線を向けられている。
「え……っと?」
「その……、陽人の気持ちはわかったよ。それに、私もやっぱり悪いと思うから、おあいこ」
 笹原たちが近くにいるからか、それだけ言って光里は短く笑った。
 その顔には、もう涙の跡はなくて。
 ひたすらに眩しい、笑顔だけがあった。
「そっか。その、ありがと」
 それにつられて、僕も久しぶりに笑顔を向ける。
「あー良かった! これでまたいつも通り昼飯食べられるな!」
 がしりと、運動部らしいたくましい腕が僕の肩に乗せられる。
「むぅ〜、『だーれだ?』作戦だけじゃダメだったか〜」
 その後ろでは、心底悔しそうな美咲さんのつぶやきも。
 いつもなら鬱陶しく感じられるそのどれもが、今は本当に心地良く、心の中に沁みていった。