春。寒い冬が終わり、動物も植物も活動を始める、生命の息吹が感じられる季節。
 ポカポカの陽気に、木の葉の隙間から漏れる柔らかな日差し。どこまでも続く青空を駆けるのは、運動部の朝練の掛け声。
 普通の生徒なら気分良く登校し、久しぶりに会う友達との話に花を咲かせるのだろうが、僕はとてもそんな気にはなれなかった。二週間前とは違う下駄箱に靴を入れ、見慣れた階段を一階分少なく上り、使い古された教室のドアを開ける。
 ふと、ドアの近くにいた男子二人と目が合った。
「おは……」
 彼らはそこまで言いかけて、固まった。爽やかな笑顔が、まるでヤバいやつに絡まれたような苦笑いに変わっていく。そして、挨拶らしき言葉を最後まで発することなく、さっと目を背けると何事もなかったかのように談笑を再開した。
 やれやれ、またか。
 僕は見慣れた反応に言葉を返すことなく、二人を無視してこれまでとは違う新しい席に向かう。ここに来るまでにその顔は何度も向けられたし、なんなら一年中あちこちで向けられているので、今さらどうということはない。そして、原因もわかっている。
「ねぇ、あの顔の大きなやけどの痕」
「うん。噂の彼だよね? 橘、だっけ?」
「え、ちょっと待って。想像してたよりもヤバいんだけど」
 教室の後ろの方でたむろっていた女子のグループから、ひそひそと会話が漏れ聞こえてくる。他にも、何人かがやたらと僕の方を見てはなにやらささやいている。
「なに?」
 さすがに鬱陶しかったので、少し怒気を込めて声の方を睨んだ。
「いや、別に……」
「なんでも……」
 ばつが悪そうに、彼ら彼女らは自分たちの会話に戻っていく。
 はぁ、めんどくせー。
 鞄を机の横に置き、椅子を引いて席に座る。今に始まったことじゃないが、やっぱりこのやり取りは疲れる。不良か、それこそ本当にヤバいやつにでもなれば疲れなくなるのだろうか。
 僕はそんなことを考えながら、そっと右頬に触れた。乾燥した皮膚の感触。そのまま輪郭に沿って下になぞっていくと、指先にこれまでとは違う、硬めのなにかがあった。硬めといっても前に比べれば随分柔らかくなっており、普通の皮膚と大差はない。多分この感触には、僕の中にある、過去に散々触れた感触の記憶も含まれている。
 僕はふっと息を吐くと、スマホのカメラアプリを起動させ、インカメラに切り替える。右頬に刻まれた大きなやけどの痕が、ボサボサの髪や目つきの悪い表情とともに画面に映し出された。しかもそれは一つだけではなく、小さな傷痕とも合わさって顔をふざけたアートのようにしている。かつての友人や祖父からは治せと何度も言われたが、そんな気は毛頭ない。むしろこれがあるからこそ、僕はまだ生きていられるのだ。
 アプリを閉じ、鞄にしまおうとしたところで、後頭部を教科書かなにかでペシリと叩かれた。
「おーっす、陽人。久しぶり~! 元気してた?」
 能天気な声が頭上を越える。声の主はそのまま机の前まで来ると、空いている前の席に後ろ向きで座った。短く切り揃えられた髪に、少し垂れた黒目が印象的な好青年だが、僕にとっては少し鬱陶しい存在だった。
「笹原か。高二になっても話しかけてくるんだな」
「え、なにそれ。友達じゃねーかよ、俺たち」
 ちょうど向き合う形になったその顔が、ニカッとほころぶ。人懐っこい、思わず心を開いてしまいそうな笑顔だ。
「僕の顔を見てもそんなことを言うのはおまえくらいだよ」
「やけどの痕がなんだってんだ、関係ねーよ。それより、そろそろ俺のこと名前で呼んでくれよ。名字呼びって、なんか距離感じね?」
 なんならあだ名でもいいぜ~、と笹原幹也は両手を大げさに広げる。その様子に呆れつつ、僕は「やだよ」とだけ返しておいた。

「そういや、今朝のネットニュース見たか?」
 HR前のざわつきの中、笹原は思い出したように制服の胸ポケットからスマホを取り出した。慣れた手つきで画面をフリックさせ、アプリを起動させる。
「見てない。ニュース、興味ないから」
「いやいや、俺も基本興味ないけど今朝の記事はさすがにヤバかっただろ」
 笹原は苦笑を浮かべながら僕に目を向ける。見てないものは仕方ないだろと思いつつ、なぜか少し腹が立った。なにか言い返そうと思った矢先、タイミングよく笹原のスマホが振動した。
「おっ、新着情報だ。しかも、ちょうど今話そうとしてたやつの」
 興奮した様子で、彼はお目当ての記事をタップする。拡大されて出てきた見出しに、僕は一瞬、自分の心臓が大きく跳ねたのを感じた。
『神の悪戯⁉ 元女優、一ノ瀬優子生き返る!』
 ゴシック体の文字に、朗らかに笑う若き日の女優の写真。その下には、一世を風靡した彼女の悲劇的な病死の過去や当時のニュース動画のURL、そして現在、が大きく掲載されていた。
「なにこれ? フェイクニュース?」
 僕は既に落ち着いた心臓の辺りを押さえつつ聞いた。笹原はそんな僕の様子を特に気に留めることなく、チッチッチッと人差し指を立てる。
「まさかまさか。れっきとした正真正銘のニュースだよ。しかも、さっきの更新で本人へのインタビュー動画が載ってるぞ」
 言い終えるが早いか、彼は一番下にある動画サイトのURLをタップする。すると間もなく、還暦を少し過ぎたくらいの女性とインタビュアーが画面の中で滑らかに話し始めた。
『まだ信じられないです。目が覚めたら家にいて、家族も喜ぶというより驚愕していました』
『でも一ノ瀬さんは十年ほど前、確か心臓の病気で亡くなられましたよね?』
『ええ、多分。でも、私はその時のことをよく覚えていないのです。目が覚めた時、天使のような少女がいたような気もしますが、私にもなにがなんだか――』
 嬉しさと戸惑いを均等に混ぜ合わせたような表情がスマホの中で揺れていた。その後も、女性はあれこれと質問攻めにされていたが、本人もわかっていないというのが結論のようだった。
「すげーよな! これが本当で理由がわかったら、もう人死なないんじゃね?」
 上擦った声でそう叫びながら、笹原は動画を巻き戻しては繰り返し見ている。
「そんなわけないだろ。人間、というか生き物が死んで生き返るはずがない」
 僕は既に半分ほど興味を失っていたので、返事もそこそこに鞄から春休みに出ていた宿題を取り出した。出ていたのは確か数学と英語だったはず、と宿題用ノートをパラパラとめくる。肝心のページを見つけたところで、笹原がスッとノートを取り上げた。
「夢のないやつだな~。現にこうして人が生き返ってインタビューされてるんだぞ?」
「いや、そもそもその人が本当に死んでいたかわかんないだろ」
「んなこと言ったって、さすがの陽人だってあの時のこのニュースは見ただろ?」
 彼はそう言うと、ずいっとスマホを眼前に近づけてきた。そこには当時のニュース番組の映像が流れており、気象情報や夜間山道の交通事故の見出しの後に、『女優、一ノ瀬優子死去。その壮絶な闘病生活には……』の文字があった。
「……いや、初めて見たな」
 画面から逃げるように、窓の外へと視線を逸らす。
「え、うそだろ? どんだけテレビ見ないんだよ」
 信じられねーといった顔つきで、笹原は大仰にのけぞった。
「いいだろ、別に。そんなことより、それ、やったのかよ?」
 澄み渡る青空から視線を戻し、僕は笹原に取り上げられた宿題用ノートを指差す。と同時に、予鈴のチャイムが教室内に響き渡った。
 しばらく呆然とした視線をノートに送っていた笹原だったが、「やっべー! これ貸して!」と僕の返事を待つ間もなく走り去っていった。その後ろ姿を見送りつつ、滅多に動くことのない心の中が、微かにさざ波立っているのを僕は感じていた。

 退屈なHRと始業式、笹原が結局怒られた宿題提出を済ませ、僕は帰路についていた。新学期初日は授業がなく、スポーツマンな笹原と違って僕は部活に入っていないので、下校時間は昼前とかなり早い。まだ高い日差しに目を細めながら、なだらかな坂を下っていく。
「にしても、今日は暑いな」
 額に浮き出た汗を拭う。まだ四月だというのに、道沿いの気温計が示す数値は二十五度。まるで梅雨を飛び越して夏にでもなったかのようだった。
「生き返った女優……か」
 朝、笹原が言っていたニュース。あの時は正直うそくさいと思っていたが、放課後の教室でも、駅前の小さな街頭テレビでも、すれ違うおばさんたちの井戸端会議でも、とにかくその話題でもちきりだった。試しにネットニュースを見てみたが、注目の国内ニュース欄の上位十個中八個がその記事で、『女優一ノ瀬優子は死んでいなかった⁉』という現実的なものから、『一ノ瀬蘇生! 天使が地上に舞い降りた』などというオカルトチックなものまで様々だった。
「まぁでも、ありえねーよな」
 人が生き返るなんてファンタジーやゲームの中だけの話だ。そんなほいほい人が生き返ってたらこの世は人で溢れかえるし、そもそも命の重みが無くなってしまう。人はいつか必ず死ぬからこそ、生きていることに責任が出てくる。死んだら絶対に生き返らないからこそ、死ぬことに意味が出てくるのだ。
「そうだよ……人が生き返るなんてことがあってたまるか」
 もうこの話は忘れよう。そう思った時だった。
「――本当に、そうかな?」
 背後から、突然声が聞こえた。びっくりして振り返ると、そこには同じ高校の制服を着た少女が、小さく微笑みながら立っていた。
「え、だれだよ?」
 驚きと戸惑いで、思わず強い口調になる。しかし、彼女はそんなことお構いなしといったふうに、ふふっ、と短く笑った。
「地上に舞い降りた天使」
 流れるような足取りで、スッと僕の横を通り過ぎる。小さく刻んだステップにつられて、彼女の長く艶やかな黒髪が後ろになびいた。
「は?」
 地上に舞い降りた、天使? なに言ってんだこいつ?
 僕は訳が分からず、ほぼ無意識に彼女の動きを目で追う。もちろん、その背中のどこかに羽が生えていたり、頭の上に輪っかが浮かんでいたりといったことはない。
「それ。さっき、君が見ていた記事」
 彼女が振り返って、僕の右手にあるスマホを指差す。その拍子に、同学年の証である緑色のクラスバッチが、太陽の光を受けて彼女の胸元でキラリと光った。
「あ、これ……生き返った女優の、記事……」
「そ。その女優さんを生き返らせたの、私なんだ」
 少し前かがみになって、彼女は優しく笑った。彼女の黒く澄んだ瞳が、僕を射抜く。
 しばらく、僕は身動きができなかった。彼女の目に捕らえられたみたいに身じろぎひとつできず、僕は立ち尽くしていた。ただ目が離せない。そんな独特のオーラみたいなものを、彼女は放っていた。
「ん? どうしたの?」
 急に固まった僕を見て、彼女が不思議そうに訊いてくる。その言葉で僕はハッと我に返った。
「い、いや……どうしたの、じゃなくて。普通、そんなこと言われたら誰だって驚くだろ」
「あー、それもそっか。ごめんね、驚かせちゃって」
「別に……」
 心を落ち着かせるように、僕はスマホを鞄にしまった。完全に彼女のペースに乗せられている。どことなく癪だったので、先ほど言い返せなかった言葉を僕は口にする。
「というか、一度死んだ人を生き返らせられるわけないだろ。うそ言うな」
「んー。うそじゃないんだけどな」
 どうしたものか、と彼女は考えるように空を見上げる。かと思えば、「あっ」と声をあげて辺りを見渡し始めた。
「……なにしてんの?」
「いや、ちょっと……ね」
 なにかを探すように、近くの茂みの方へと彼女は歩いていく。
 本当に、なにしてるんだ?
 その理由を訊く間もなく、「見つけた」と彼女はそれを茂みから拾い、僕に見せてきた。
「うぇっ⁉」
 変な声が出た。でも、それくらいは勘弁してほしい。僕は、そういうものは苦手なのだ。
「あれ? もしかして、虫とか無理?」
 彼女が手のひらに乗せて見せてきたもの。それは、緑色のショウリョウバッタだった。
「ムリムリムリ。ってか、なんで触れるんだよ⁉ 気持ち悪くね?」
 二、三歩後ずさりながら僕は訊く。虫に触れるやつ、ましてや自分から探して見つけて捕まえてくるやつの気が知れない。そんな僕の様子を見て、彼女は悪戯っぽく笑った。
「へぇー。じゃあ、もし……」
 この時、直感した。この流れはあれだ。トラウマになりかねないやつだ。
「おい。投げつけてきたら警察を呼ぶぞ」
「……そんなことで警察は来ないよ」
 僕の全力拒否反応に、彼女は呆れたように苦笑した。
「大丈夫、そんなことしないよ。それに、この子、死んじゃってるから」
「え?」
 見ると、彼女の手のひらのバッタは先ほどからピクリとも動かない。石像のように、きれいな立ち姿勢のまま固まっていた。
「触ってみる?」
「いや、やめとく」
 悪魔みたいなことを言う彼女から、僕はさらに数歩距離をとる。
「ふふっ、冗談だよ。でも、後で文句を言ってきそうだけど……」
 文句? だれが?
 僕がそう訊くより早く、彼女は口を開いた。
「私が、言いたかったのは――」
 彼女は話しながら、バッタをそっと地面置いた。
「もし、この子が――」
 そして、そのまま手を合わせる。
「こうして――」
 祈るように、静かに、彼女は目を閉じた。
 その一瞬、空間がぶれたのかと思った。
 だって、目の前にはありえない光景があったから。
 彼女の身体が、淡く光っていた。四月にしては暑く眩しい日差しの中で、薄っすらではあるけれど。彼女は確かに、光を放っていた。
「え、え……?」
 バッタの存在を忘れ、僕は彼女に近寄った。彼女の放つ光に吸い込まれるように、二歩、三歩と近づいた。
 でも、それが僕の運の尽きだった。足元で、今までなんの反応も示さなかった「それ」が、いきなり飛んだ。
「うわあああぁぁっ⁉︎」
 情けない声をあげ、僕は無我夢中で払いのける。僕の制服に張り付いていた「それ」は、驚いたようにピョンと地面に降りると、そのまま茂みに飛び込んでいった。
「生き返ったら、どうなるのかな? ってさっき言おうと思ったの」
 君、ほんとに虫嫌いなんだね、と彼女は小さく笑う。先ほどからころころといろんな笑顔を見せる彼女に、僕は半分以上の腹立たしさと、若干の懐かしさを覚えていた。

「それで? いったいなにがしたかったんだ?」
 感情の大部分を占めているイラつきをぶつけるように、僕は訊いた。
「あれ? あんまり驚かないんだね」
 僕の荒げた声を気にすることなく、そして質問に答えるでもなく彼女は言った。どこまでもマイペースな彼女に、イライラメーターがさらに上がる。
「なにが?」
 低い声で僕は訊き返す。
「私、生き物を生き返らせたんだよ?」
 二歩ほど、彼女が僕に近づいた。その顔は僅かに微笑んでいたが、先ほどとは打って変わってどこか陰が落ちているように見えた。
「え、あれって、最初から生きてたんじゃないのか?」
 若干気にはなったものの、僕は気づかないふりをして答えた。
「ほらー、そう言ってきそうだったから、触ってみる? って訊いたのに」
 むくれたように、彼女は僕に背を向けた。彼女の動きに合わせて髪がしなやかに舞う。
「いや、虫触るのはムリだから」
「んーじゃあ、私の身体が光ってたのは?」
「それは……」
 背を向けたまま言った彼女の言葉に、僕は先ほど見た光景を思い出す。虫がいきなり動いたことに意識を持っていかれていたが、その虫の存在すら忘れさせていたあの光は、紛れもなく僕の目にも見えていた。
「……蜃気楼とか、そんな現象なんじゃねーの。知らないけど」
 突き放すように僕は言った。認めたくないと思った。生き物は死んだらそれで終わりなのだ。死後の世界とか、生まれ変わるとか、そんな確かめようのないことは正直わからない。でも、死んだ後にまた同じ存在として生きるなどありえない。そんなこと、叶うはずがない。
 僕は鞄を肩にかけ直すと、彼女の背に向かって歩き出し、そして追い越した。
「あれ? どこ行くの?」
「帰るんだよ」
 不思議そうに尋ねてくる彼女に、振り返ることなく僕は答える。これ以上一緒にいると、いつもの僕ではなくなるような気がした。
「ここからが本題なんだけど」
 不満げな声が飛んでくる。でも、歩みは止めない。ここで止まればきっと引き返せなくなる。
「――ねぇ。あなたが生き返らせたい人は、だれ?」
 心臓が、ドクン、と大きく脈打った。もしかしたら、僕はその言葉を待っていたのかもしれない、と思った。
 立ち止まった僕の耳には、心臓の高鳴りと、彼女が近づいてくる靴音だけが響いていた。

 春の日差しが、昨日と変わらない眩しさで坂道を照らしていた。木の葉の隙間から漏れ出る光をかわしつつ、僕はいつもと変わらない坂道を、いつもと変わらないペースで上っていく。
「昨日は、なんだか変な日だったな」
 特に意識するでもなく、傍の茂みに目をやる。そこから、何かが飛び出して来る気配はない。
 正直、夢でも見ていたんじゃないかとさえ思う。女優を生き返らせたのは私だの、あなたが生き返らせたい人はだれだの、そんな非現実的なことに時間を割いている暇は僕にはない。そんなものに時間を費やすくらいなら、英単語の一つでも頭に入れた方がずっといい。
「生き返らせたい人、か……」
 駅に向かって今度は坂道を下りながら、僕は昨日の質問を口の中で転がす。
 彼女はなにを考えて、あの質問を僕に投げかけたんだろう。仮に本当に人を生き返らせることができるなら、あの女優のような、もっとほかに相応しい人が大勢いるはずだ。自分の身内でも、多くの人から惜しまれた大物芸能人でも、どこかの国のお偉いさんでも……。
 駅構内に入り、改札を抜けホームへと降りる。なんとなく、視線の留め先を探すように周囲を見渡した。
 平日の朝は人が多い。小さな駅のホームでも、通勤や通学の時間は普段の都会並みの人が行き交っている。ランドセルを担いだ小学生や、パリッと固いスーツに身を包んだ初老くらいの会社員。スマホに目を落として髪を整えているOLらしき女性に、必死に単語帳にマーカーを引いている高校生。多分、この中のほとんどの人は僕よりも社会的な評価や価値は高いんだろうなと、怪訝そうに僕の顔を見つめては逸らす人たちを見て思った。
 朝の満員電車に揺られながら、何気なく窓の外へと視線を移す。
 ――その女優さんを生き返らせたの、私なんだ
 彼女の言葉が、声が、脳内でリフレインしていた。手に持った単語帳は、さっきから一ページも進んでいない。
 ――ねぇ。あなたが生き返らせたい人は、だれ?
 単語帳を強めに閉じる。パタンッと小気味良い音が電車内に響いた。近くにいた何人かが迷惑そうにこちらを見る。
「そんなの、決まってるだろ……」
 僕の声は、すれ違う電車の走行音にかき消されていった。

 生徒玄関に着くと、唐突にペシッと頭をはたかれた。
「おはよ、陽人! 相変わらず今日も目つき悪いな」
 快活な笑みを浮かべて、笹原が肩を組んでくる。なんでこいつは普通に挨拶ができないんだと思ったが、口には出さない。
「余計なお世話だよ。それより、なんかあったのか?」
 いつも以上に目を輝かせている笹原を見て、なにかあるんだろうと思った。朝の気分転換も兼ねて、とりあえず訊いてみることにする。
「あれ? 珍しいじゃん。いつもなら、面倒くさがって先に行くのに」
 にやけ顔になった彼を見て、歩調を早める。気分転換の方法、間違ったな。
「……んじゃ、そうするかな」
「わー、待った待った! 昨日言ってたやつなんだけど、生物学者やら化学者やらが血眼になって原因究明してるらしいぜ。それでそれで……」
 やっぱり、間違ってたようだ。僕が緩めかけた歩調をさらに早くしようとした、その時。
 バシッ――。
 笹原より数段強く肩を叩かれた。驚いて振り向くと、今日一見たくない顔がそこにあった。
「おはよっ! 橘陽人くん!」
「え……お、おはよ?」
 なぜか疑問形になってしまった。というか、彼女がここにいて挨拶をしてくる意味がわからなかった。そもそも昨日名前を教えていないし、なんか雰囲気も違う。いったいどうして……。
 そんな疑問をあれこれ生成している僕をそっちのけで追い越すと、彼女は「りんちゃーん! おはよー!」と友達と思しき女子に手を振りながら走っていった。嵐のように過ぎ去った元凶を見送っていると、今度は隣の笹原が叫びだした。
「え、えーー⁉ なに、おまえっ、天之原さんと知り合いなの⁉」
「あ、天之原さん?」
「そうだよっ! 天之原光里。隣のクラスで、男女問わず人気の!」
 興奮気味に笹原は身を乗り出す。肩に乗せられた腕と合わさって少し重い。
「知らねーよ。昨日少し話しただけだ」
「詳しく聞かせろー!」
 笹原の声が、朝の校舎に響き渡った。

 春にしては暑い日差しの中、ここ二時間目終了間近の校庭では、柔軟体操を行う生徒たちの掛け声に包まれていた。
 朝の天気予報で、昼頃にかけて気温がかなり上がるとか言っていたのが当たったみたいだった。夕立模様とか重要な情報は当たらないのに、こんなときだけしっかり現実になるのがなんとも憎らしい。
 憎らしいと言えば、今目の前にいるこの能天気男も、肌にまとわりつく今日の熱気や湿気のようにかなり鬱陶しい。
「だーかーらー、何もないって言ってんだろ?」
 笹原の背中を、朝からの質問攻めの鬱憤を込めて強めに押す。ポキポキッという少し大きめの音とともに、彼は大げさに声をあげた。
「イテッ、痛いって! くぅ……つか、んなわけないだろ。やたら親しそうに挨拶されてたじゃねーか!」
「知らねーよ。それについては、むしろ僕も驚いてるよ」
 本当に面倒なことをしてくれたと、内心で舌打ちをする。
「はぁ? 噓つけ。さっきのマラソンのときなんかも、手なんか振られてさ」
「……」
「おまけにゴールした後には、お疲れさま! キャ~! なんて言われてさ」
「いや、キャ~! は言われてないだろ」
「うるせー! くそぉ~羨ましすぎるんだよー!」
 長座体前屈の姿勢で、笹原は器用に恨み言をあげる。
 実際、彼が言ったようなことは確かに言われたが、それで嬉しいという気持ちは微塵もない。昨日の出来事もさることながら、なにより他の男子からの視線が痛すぎる。
 どうすればいいものか、なんて考えていると、ピィーッ、と笛の音が鳴り響いた。それに続いて、「今度は足を開いてひだり~」という体育教師ののんびりした声が前から飛んでくる。
 指示通りになんとなく力を入れながら、質問攻めの合間に聞いた天之原光里の話を思い出す。
 天之原光里は、去年の冬頃に転校してきたらしい。持ち前の明るさと人懐っこさでたちまちクラスの人気者になり、しかも成績は総合模試、定期考査ともに学年上位の文句無し。整った容姿も加えて、告白された回数は数知れず。ちなみに、未だ撃沈回数も更新中とのことだった。
 言わば、天真爛漫、八面玲瓏、成績優秀、容姿端麗という社会の人気者。なんでそんな僕と正反対の人が関わってきたのだろうと純粋に思った。笹原から彼女の話を聞いたときの最初の感想はまさにそれだった。二物ならぬ三物以上を天から与えられたような人が、異端の目を向けられる僕と関わることでどんなメリットがあるのか、不思議でならなかった。憐憫や同情のつもりならこっちから願い下げだが、昨日の彼女の様子を見る限りそんな感じは全くなかった。
 わからねー。
 笹原の体勢を元に戻し、今度は右へと倒していく。また、ポキッ、という音がした。
「痛いっ! 陽人、そんなにおまえは俺に恨みがあるのか?」
 若干涙目になった笹原が、顔をこちらに向ける。
「いや、おまえの体が硬すぎるんだよ。なんで陸上部なのにこんなに硬いんだよ」
「柔軟サボってるから」
「……僕ちょっと体育の先生に用事あるから、先に教室戻っててくれ」
「いやいや、うそうそ! 冗談! ジョークハーモニー!」
「なんだよ、それ」
 わけのわからないやり取りとしていると、柔軟体操終了の笛が鳴った。「各自水分補給をして教室に戻るように!」と叫ぶ体育教師兼陸上部顧問の言葉を半分聞き流しながら、僕は生徒玄関へと向かう。
「おい。話は戻すが――」
 追いすがってくる笹原の声に仕方なく振り向こうとしたとき、ペシッと肩をたたかれた。多分、朝と全く同じ強さ、同じ場所に。
「ねっ、橘くん。今日の放課後、ちょっと付き合ってよ」
 噂をすればなんとやら、朗らかな笑みを浮かべた天之原光里が立っていた。
「え? なんで……」
「なに言ってるの? 体育は合同でしょ」
 マラソンで会ったし声もかけたでしょ、と彼女は苦笑する。そこには、昨日のような妙なオーラはない。ごく普通の、いや普通以上に洗練された年相応の女の子の笑顔があった。
「いやそうじゃなくて……」
 僕が言いたいのは、なんでそんな馴れ馴れしく声をかけてきたのかってことで……。
 そこまで考えて、さっき言われた言葉の意味が急に追いついてきた。
「ってか、放課後? なんで?」
 最初の疑問が氷解しきらないうちに、考えても答えが出なさそうな疑問が新たに浮上する。
「んー、内容はその時まで秘密ってことで!」
 ひときわ明るい声でそう言うと、「じゃあ、放課後正門でね!」と彼女は手を振って去って行った。嫌な予感とともにさっきの数倍の視線を背中に感じ、来たる嵐に備えようと思った。

 笹原と、普段話したこともない男子たちの尋問を耐え抜いた放課後、僕は裏門を目指していた。
 理由はもちろん、彼女から逃げるためだ。内容がどんなものであれ、彼女と一緒にどこかに行けば第二の波乱が巻き起こることは目に見えている。僕はなるべく人と関わりたくない。彼女の誘いをブッチすればそれはそれでなにか言われそうだが、おそらくまだマシだ。それに昨日のこともあるので、極力彼女とは顔を合わせたくなかった。
 生徒玄関を抜け、正門とは反対側の通路を目指す。通路は主に体育でグラウンドに行くときに使うもので、登下校で通る生徒はほとんどいない。さらに、正門からは木々やら茂みやらで死角になっているので、当の本人にも気づかれる心配はない。しかし万が一があると面倒なので、僕は足早に通路を抜ける。そのまま角を二回曲がると、裏門にあたる稼働式鉄柵が見えた。そこに人影はなく、夕方前の淡い陽だまりがいくつかできているだけだ。駅までは少し遠回りになるが、おそらく無事に帰れるだろう……と思った矢先、
「さっ、駅まで行こうよっ!」
 今一番聞きたくない声が、僕の耳に入ってきた。
「……どうしてここにいんの?」
 裏門まで回った僕の苦労を返してほしい。一方の彼女は、きょとんとした顔で僕を見る。
「それは私のセリフだと思うんだけど。正門はここじゃないよ?」
「わかってるよ! てか、僕は行くなんて言ってない!」
 思わずムキになって返す。しかし彼女は涼しい顔をして、ふふっ、と笑った。
「うん。多分来ないだろうなって思ったから、生徒玄関前で待ってたんだ」
 正門で待ってなくて良かったよ、と彼女はほっと息をついた。よくよく見ると、少しだけ息があがっている。多分、裏門に向かう僕を見かけて追いかけてきたからだろう。
「ふぅ……でも、橘くんはすぐにわかったよ」
 呼吸を整えつつ、彼女はなぜか得意げに言った。
「そりゃ、顔にこんな痕があるからな」
 これで目立たないほうがおかしい。おそらく、巨大テーマパークでさえ人混みから浮いて見分けがつくだろう。
「え? 誰も痕で見つけたとは言ってないよ?」
「はぁ? じゃあどうやって見つけたんだよ」
 見たくなくても目に入るような目印を持つ人を見つけるのに、その目印を使わないとはどんな要領をしているのか。やけどの痕の話を避けているふうでもないので、余計に気になった。
「ふふん、それはね……女の勘よ」
 語尾に音符がついてそうな口調で彼女は言った。
「……これは、ツッコめばいいのか?」
「うーん、ウケなかったからスルーで」
「……」
「えっと……ちなみにだけど、人の流れからひとりだけ外れてたのですぐ見つかりました」
 どうしようもないオチだった。
 実は、やけどの痕の話を持ち出したのは距離をつくるためだった。これまで会っただいたいの人は、やけどの痕の話をすれば答えに窮し、口数が減っていった。気まずい沈黙さえつくれれば、後は自分から去るだけで自然と距離を置くことができる。
 でも、彼女は違った。上手くかわしただけかもしれないけど、やけどの痕の話を気にすることなく普通の会話に持ち込んだ。こんなことは、笹原以来だった。
「なぁ、どうしてそこまでするんだ?」
 いろいろ気になって、無意識にそう訊いていた。
 どうして僕なのか。なんで僕の生き返らせたい人にこだわるのか。何が彼女をそうさせているのか。
「だって、私のこと信用してくれるまで、生き返らせたい人、教えてくれないんでしょ?」
 昨日の約束事をなぞる彼女の言葉に、そうじゃない、と思った。だけど僕は、口を閉ざしたまま何も言わなかった。

 失敗したな……。
 彼女の斜め後ろを歩きながら、そっとため息をつく。
 昨日、僕は結局「生き返らせたい人」について何も言わなかった。彼女の能力を認めたくないという思いもさることながら、そもそも彼女自体が信用できなかったからだ。「生き返らせたい人」を聞いてその人を生き返らせるとは限らないし、彼女の真意がどこにあるのかもわからない。彼女にそれを訊いてもはぐらかされるだけだった。
 そこで、「もう僕に構うな」と言っておくべきだった。
 何を思ったのか。こちらからの質問をかわし続ける彼女に、それならばと、僕は「信用できるようになるまでは教えない」と言ってしまった。その結果、僕は今日一日あちこちで彼女に絡まれ、それに伴って質問攻めに合い、さらには貴重な僕の放課後まで潰されている。
「そういえばさ、信用ってどうすれば得られるの?」
 駅までの道すがら、そんな僕の心境など知る由もなく、彼女はド直球にそう訊いてきた。
「知らないし、知ってても君に教えるわけないだろ。自分で考えてよ」
「えー。冷たいなぁー」
 言葉とは裏腹に、特に気にした様子もなく彼女は足早に前へと歩いて行く。夕暮れ前の少し冷たい風が、彼女の後ろ髪をなびかせた。
「それより、さ」
 吹いた風を巻くように、彼女がくるっと振り返った。
「私のこと、君、じゃなくて名前で呼んでよ」
 立ち止まった彼女が前かがみになって顔を覗き込んでくる。見慣れない上目遣いに、思わずドキマギしてしまう男の性が悔しい。
「なんで?」
 そんな胸中を悟られぬよう冷たく言い放つ。顔に当たる日差しが、やけに熱く感じた。
「んー、なんとなく。そだ、天之原って長いし、なんか変だから光里って呼んでね」
「やだよ」
 そんなことを言おうものなら、絶対に笹原を含めた男子に絞め殺される。
「あ、そっか。私だけ名前で呼んでもらうのは不公平だもんね。大丈夫! 私も陽人って呼ぶから!」
「いや、そういうことじゃなくて……てか、今さらだけどなんで名前知ってんの?」
 見当違いの心配に、僕の名前まで知っている事実。いよいよ彼女のことがわからなく、そして気味悪くなってきた。
「え? んー……あっ、だって、隣のクラスだし?」
 今思いついたような言い訳と、てへっ、という効果音が似合う照れ笑い。
 彼女の信用はそう簡単に上げないようにしよう、と僕は心に決めた。

「ところでさ、そろそろどこに行くのか教えてくれよ」
 つり革に掴まり、窓の外に視線を留めたまま彼女に尋ねる。
 電車に乗った後も彼女、もとい光里は行き先を教えてくれなかった。いくら訊いてものらりくらりとかわされるばかりで、しかもその度に必ずと言っていいほどいじってくる。それほど親しくもない人気のある女子にからかわれるのは、いろいろな意味でストレスだった。
「えー、どうしよっかなー」
 光里は、もう聞き飽きたフレーズを、もう見飽きた小悪魔笑顔で口にする。
 めんどくせー。というか、そもそも事情も行き先も聞いていない僕が、なぜ付き合わないといけないのかがわからない。適当に用事をつくって断れば良かったと、今さらながら後悔した。
「ねぇ、もう帰っていい?」
 声色と表情に、これでもかと迷惑オーラを含ませる。それでも光里は、気にも留めていないとでも言うかのように、わざとらしく考えるポーズをとった。
「んー、そうしたら私は、デート中に陽人に逃げられたって友達に泣きつくしかなくなるかな」
「……僕を殺す気?」
「陽人が死んだら、私は全力で生き返らせるよ!」
 笑えない冗談の後に、謎の意気込みを見せる彼女に僕は苦笑する。なんだか、もう既に光里には勝てる気がしなかった。
「とまぁ、冗談は置いておいて……」
 そこで、光里の雰囲気がふっと変わった。表情は特に変わっていないのに、さっきよりもどこか儚げで、落ち着いた感じ。俗世から切り取ったような、そんな独特のオーラが彼女からにじみ出していた。
「今向かっているのはね、倉森だよ」
「……え? 倉森?」
 彼女に目を奪われたのと、久しぶりに聞いた地名に、一瞬返事が遅れる。でも彼女は気づいた様子もなく、そうだよ、と静かに答えた。
 心を落ち着かせるために、たった今聞いた行き先について脳内検索してみる。そこでヒットしたのは、閑静な住宅街と一面に広がる田んぼが特徴のただの田舎、というフレーズだった。わけあって、何度か車に乗せられ通ったことがある。窓の外から見える田舎独特の田畑に、ぽつぽつと立っている平屋。そうした前時代的な田園風景を抜けて中心地に近づくと、住宅の数が一気に増える。百年くらい建っているんじゃないかと思うような古ぼけた家もあれば、いかにも新築なんですとアピールしているような真新しい一軒家もある。
 色とりどり、年代いろいろの住宅が立ち並ぶ光景を思い浮かべていると、唐突にそれが目の前に広がっていった。
「もうすぐだね」
 落ち着いた声が聞こえたかと思うと、その声質にはどうやっても敵わなそうな車内アナウンスが耳を衝いた。と同時に、車窓の外を流れる景色の動きが徐々に遅くなっていく。それにあわせて周囲の人たちが、忙しなく席を立ち始めた。
「ほら、私たちも行こう?」
 歩き出す光里に促され、足元に置いていた鞄を手に取ろうとかがんだ時だった。
「二人目を生き返らせに、ね」
 多分、普通じゃ聞こえないような音量でつぶやいたんだと思う。
 でも。僕の耳の奥にははっきりと、彼女のささやくような声がこびりついていた。

 赤みが混ざり始めた陽の光に目を細めつつ、僕たちは石段を下っていた。不規則に見える規則的な模様を踏みしめるたび、細長く伸びた影がさっきまで僕たちのいた場所を隠していく。でもそれは僅かのことで、数瞬後にはまたオレンジ色の光に照らされ、キラキラと輝いていた。
「……」
 駅を出て以来、僕たちの間には沈黙が漂っていた。
 さっきの言葉は、どういう意味だろう。
 何度か話しかけようとはしたものの、結局何をどう切り出せばいいのかわからず、開けかけた口からは音にならない息ばかりが漏れている。
 光里はというと、僕の少し前を小刻みにスキップしながら石段を器用に降りていた。スキップ、といってもご機嫌ということはなく、その表情から何を考えているのかは読み取れない。どこか儚げで、どこか嬉しそう。そんな感じだった。
 トンッ。
 ちょっとだけ勢いをつけて、彼女が最後の石段を降りきった。その拍子に、ふわっと制服のスカートが舞う。
「ねぇ、もうちょっとだよ」
 そう言うと、光里は太陽のある方角を指さした。彼女に追いついた僕は、その指先に視線を合わせようと顔を持ち上げる。
「あ……」
 真っ赤な夕日の、すぐ真下。舞台に臨む観客席のように、それらは等間隔に正しく列をなし、まとまっていた。そして、そこに座っているのは生者ではない。大理石や石灰岩、花崗岩などを素材とし、直方体に加工され並べられた石たちは、陽光に照らされてピカピカと光っている。
「生き返らせるための条件その一、対象の体の一部が近くにあること」
 澄んだ声が、耳元で響く。さっきまであんなに温もりをはらんでいたのに、今はひんやりと、どこか冷たい色を含んでいた。
「だから、死者を生き返らせるためには、まずはその人が眠る場所に行かないといけない」
 光里は、まだ少し距離のある席に向けて歩を進めた。そこまでの道のりには砂利が敷き詰められており、かなり歩きにくそうだと思った。でも、彼女の足取りはやけにしっかりとしていた。よどみなく、迷いなく、ただ真っ直ぐに歩いていた。
 対して僕は、動けないでいた。見えない壁が目の前にあるわけではない。あるとすれば、心のほう。
 いつもとは違う方向だったから、全く気がつかなかった。光里は知っていたのだろうか。僕の過去や、やけどの痕の意味を。僕の、生き返らせたい人を……。
 ……いや、それはない。今知るには、あまりにも時間が経ちすぎている。
 僕は頭の中を駆け巡る映像を必死に振り払い、光里の後に続こうと一歩踏み出す。
 悟られるわけにはいかなかった。彼女を信用するまで教えないなんて言っておきながら悟られるなんて、かっこ悪すぎる。それに…………。
「……それで? ここには誰を生き返らせに来たの?」
 心に漂う不安と迷いを払拭するために、僕は慎重に言葉を選んで訊いた。意外にはっきりと出た声とは裏腹に、手には汗が滲み、肋骨の下はドクドクとうるさい。
 けれど、光里はそんな僕の様子に気づく気配もなく、なにやらちょっと考えるように人差し指を口元に当てた。
「えっとね、ちょっと縁のある人なの。親戚、ではないんだけど、知り合い、というか……」
「……はっきりしないな」
 煮え切らない彼女の言葉に、内心ほっとした。やっぱり、光里は僕のことを知らない。よくよく考えれば、知っていたなら僕に生き返らせたい人を訊く必要がない。何を焦っていたんだろうと、僕は苦笑した。
「もう、いいでしょ!」
 僕の笑いを自分に対するものととったのか、光里はふてくされたように歩き出した。僕は慌ててその後を追いかけ、彼女の隣に並ぶ。
 夕方の墓地には、だれもいなかった。あたりはすっかりオレンジ色に包まれ、名前も知らない虫たちが音色を奏でている。昼間あんなに恨めしかった暑さは鳴りを潜め、代わりに冷えた風が頬を撫でた。
「ねぇ、ちなみにその人、名前はなんて言うの?」
 ふと気になって、僕は尋ねた。光里が最初に生き返らせた人は、あの名女優一ノ瀬優子だ。もしかすると、さらなる大物とかそれに準ずるような有名人かもしれない。
「んーっとね、七宮さん、っていう人なんだけど」
「ナナミヤ?」
 聞いたことがないな。そこまで芸能人に詳しいわけではないが、無意識に頭の中で数少ない知識を辿っていく。
「ああ、言っておくけど、有名人じゃないよ」
 僕の思考を見透かしたように光里は言った。
「おばあちゃんの友達で、前に二、三回会ったことのある人なの」
 何かを思い出すように、彼女は空を見上げる。その黒い瞳には、今日最後の輝きを放つ丸い火の玉が揺らめいていた。そのせいか、彼女の目は少しだけ潤んでいるように見える。
「そっか。おばあちゃんに頼まれたとか?」
「ううん。私の意思だよ」
 光里は視線を戻した。黒曜石のように深い黒が、僕を射抜く。そこに何か強い意志を感じ、思わず僕は息をのんだ。
「さっ、暗くなってきたし、早く行こ」
 光里はサッと視線を逸らすと、足早に墓地へと入っていった。僕も彼女に付いて、そそくさと小さな石の門をくぐった。

 石の門の先には、死者の寝床が整然と並んでいた。ほとんどは同じような大きさだが、中にはやたらと大きいものや逆に小さなものまであり、墓石と一口にいっても多様にあることが見て取れた。
「だれもいないな」
「お盆でもお正月でもないからね」
 倉森の墓地はさほど大きくない。墓石の数もせいぜい四十個程度のこじんまりとしたものだ。それでも、夕暮れ時の墓地というのはそれだけでなかなかの雰囲気が出ていた。
「でも、二、三回しか会ったことのない人のお墓の場所なんてわかるのか?」
「さすがに知らないよ。だから、これ」
 光里はそう言うと、学校の指定鞄からなにやら紙切れを取り出した。
「なにそれ?」
「手紙。その人のお墓の場所が書いてあるの」
 がさがさと折りたたまれた紙を開いていく。一枚目には文字がびっしりと書かれていたが、もう随分と日も傾いているため暗く、はっきりとは見えなかった。そして二枚目は、手書きの簡単な地図だった。
「えーっと、三列目の……」
 光里は進行方向が上になるよう地図のかかれた便箋を横に傾け、墓石の列を数えていく。
「手前から五つ目。これだ」
 黒色や灰色っぽいものが多い中、薄い茶色の墓石の前で止まった。七宮家之墓、と白色の文字が彫られている。
「思ったんだけど、お墓ってその家の家族とか他の人も眠ってるよね?」
 そんな状態であの能力を使ったらどうなるのか。全員蘇る……いや、まさかまさか……。
「あ、そう言われればそうだね」
「え?」
 今気づいたみたいな言葉を発した光里に、僕はぎょっとした。
「でも、大丈夫」
「いや、待って待って!」
 手を合わせかけた彼女を必死に止める。そんなにたくさん生き返ったりしたら身がもたず、僕が代わりにご臨終することになってしまいそうだ。
「ふふっ、大丈夫だよ」
 手をそのまま組み、光里はそっとしゃがみこんだ。
「生き返らせるための条件その二、その三。一度に指定できる対象は一つだけで、その対象を指す言葉を心の中で強く想い、唱える」
 光里の黒く澄んだ瞳が、瞼にゆっくりと覆われていく。それが完全に閉じると同時に、胸の前で組まれた両手にぐっと力が入れられた。そこから先は、つい最近目にした非日常的な光景が広がった。
 か細く、しかし確かな強さを帯びた淡い光が、彼女の端々から溢れていた。前は真昼で日差しも強く見分けにくかったが、今は夕暮れ。その光の存在感は、前の比ではなかった。
 でも、明らかに違うところがもうひとつ。竿石の下部、骨壺が入っているであろう場所から、光が漏れていた。
「え…………うそ、だろ……?」
 その光はやがて強くなり、空中に溶け込むように広がっていく。それでも不思議と眩しくはなかった。周りを見渡すと、ほのかに色が薄くなっていた。まるで、薄い光の膜ができたみたいだった。膜を通して見える空や夕日は、さっきよりもずっと淡々しく、頼りない感じがした。
「なぁ、これって――」
 どういうことなんだ?
 そう説明を求めようとしたとき、唐突に空が、夕日が、本来の色を取り戻した。
 ハッとして光里の方を振り返ると……それはもう、終わっていた。そこには彼女と、七十代前後の女性が立っていた。紫紺のニットと上品な花柄のロングスカートに身を包み、確かな血色を帯びたその顔色は、間違いなく生きている人そのものだ。
「お久しぶりです。七宮さん」
 どこか上擦った光里の声が聞こえる。
「え、え? えっと………………」
 その女性は状況が呑み込めないらしく、おろおろとしていた。手も微かに震えている。
「光里です。手紙の約束で……来ました」
 震えるその手を握り、どこか強い意志のこもった目で光里は女性を見据えた。
「手紙…………あ……!」
 その一言で女性は全てを理解したようで、顔から不安の色がスッと消えた。代わりに、
「光里ちゃんっ! 大きくなったわね~」
「わっ」
 女性はひしっと光里に抱きついた。その勢いに押され、光里が二、三歩後ろによろける。
「おばさん、またあなたに会えてほんと嬉しいわ~」
「いえいえ。私も、また会えて良かったです」
 若干苦しそうにしながらも嬉しそうな光里。そんな彼女の顔を見ていると、なんだかこっちまで胸が熱くなってくる。
 でも、それ以外の感情が胸中に渦巻いていることも確かだった。
「それにしても、そっか~。ありがとうね、約束を覚えててくれて」
 女性は何かを思い出すような口ぶりで、そんなことを言った。その言葉に、光里は小さく首を横に振る。
「いえ。だって、あのときは本当に……」
 そこで、ハッと気づいたかのように光里は振り向いた。
「え? な、なに?」
 急にこっちを見た彼女にびっくりする。でももっと驚いたのは、彼女が焦りのような、戸惑いのような、そんな目をしていたことだ。
「い、いや、なんでも……」
「あら?」
 光里の返事に被せるように、女性は声をあげた。
「彼、もしかして光里ちゃんの彼氏?」
「「え⁉ 違いますよっ!」」
 あり得ない単語、もといフレーズに、僕たちはきれいにハモった。
 僕が光里の……? 冗談じゃない。冗談はその意味不明な能力だけにしてほしい。
 そんな僕の心境はどこ吹く風。女性は「あら、仲がいいのね~」と相手にしてくれなかった。僕がどう反論しようか迷っていると、七宮さんの手からどうにか逃れた光里が背筋を正した。
「七宮さん、彼は学校で隣のクラスの橘陽人くんです」
「ど、どうも。橘陽人です」
 どうやら話を流すことにしたらしい。見た感じ、おばさんたちの井戸端会議で延々と喋ってそうな人なので、僕もそれに便乗することにした。
「あらま~、ご丁寧にどうも。七宮春子と申します」
 女性は深々と頭を下げる。さっきまでとは打って変わって、とても丁寧できれいな動作だ。旅館かどこかで働いていたのだろうか。
「それでそれで? 二人は学校でどんな――」
「七宮さんっ! 生き返ったら何かしたいことがあるって言ってませんでしたっけ⁉」
 また話が変な方向に行きそうな七宮さんの言葉を遮るように光里は叫んだ。すると、七宮さんは「あ、そうだったわ! じゃあ、また今度ね~」と足早に墓地の外へと去っていった。あとに残された僕たちは、お年の割に急激に小さくなっていくその後ろ姿を見送る。
「嵐のような人だったな」
「そうだね」
 珍しく、僕たちの意見が合った。
 地平線の彼方に沈んだ夕日と交代するかのように、夜の帳が少しずつ周囲に満ち始めていた。

「それで、どう? 私のこと、少しは信用してくれた?」
 ぽつぽつと点き始める街灯の下を、二つの影がズレたタイミングで通り過ぎる。
「いや、ないだろ」
 強めの口調が、夜の闇に響いた。
「えー、なんで?」
「能力についてはまだしも、あんたの人となりとか知らねーし」
「むぅー」
「むくれてもダメだ」
「けち」
「用心深いと言ってくれ」
 足元で、踏まれた小枝が子気味良い音を鳴らす。
「でもまぁ、そうだよね。そんな簡単に信用してちゃダメだよね」
 蹴られて飛んだ石が、どこかで小さく水音を立てた。
「私、今度は人として信用してもらえるよう頑張ります」
 その言葉には、どこか決意を秘めたような力が込められていた。
「いや、頑張らなくていいよ」
「えー、でも……――」
 なんてことない会話が、ゆっくりと駅の方へ流れていく。
 僕は、そんなどうでもいい話をして気を紛らわしたかった。
 墓地の入り口にひとつだけある街灯に淡く照らされた墓石へ視線を向ける。
 七宮さんの家のとはまた違う、黒っぽい竿石に、墓誌。
 さすがにこの暗さで彫ってある文字は見えないが、もう見なくても覚えている。

 橘 彰人 享年四三歳
 橘 美花 享年四二歳
 橘 美沙 享年十七歳

 この胸のざわつきは、気のせいに違いない。
 そうに、違いない。
 僕は呪文のように、心の中で繰り返し唱えていた。