春。寒い冬が終わり、動物も植物も活動を始める、生命の息吹が感じられる季節。
 ポカポカの陽気に、木の葉の隙間から漏れる柔らかな日差し。どこまでも続く青空を駆けるのは、運動部の朝練の掛け声。
 普通の生徒なら気分良く登校し、久しぶりに会う友達との話に花を咲かせるのだろうが、僕はとてもそんな気にはなれなかった。二週間前とは違う下駄箱に靴を入れ、見慣れた階段を一階分少なく上り、使い古された教室のドアを開ける。
 ふと、ドアの近くにいた男子二人と目が合った。
「おは……」
 彼らはそこまで言いかけて、固まった。爽やかな笑顔が、まるでヤバいやつに絡まれたような苦笑いに変わっていく。そして、挨拶らしき言葉を最後まで発することなく、さっと目を背けると何事もなかったかのように談笑を再開した。
 やれやれ、またか。
 僕は見慣れた反応に言葉を返すことなく、二人を無視してこれまでとは違う新しい席に向かう。ここに来るまでにその顔は何度も向けられたし、なんなら一年中あちこちで向けられているので、今さらどうということはない。そして、原因もわかっている。
「ねぇ、あの顔の大きなやけどの痕」
「うん。噂の彼だよね? 橘、だっけ?」
「え、ちょっと待って。想像してたよりもヤバいんだけど」
 教室の後ろの方でたむろっていた女子のグループから、ひそひそと会話が漏れ聞こえてくる。他にも、何人かがやたらと僕の方を見てはなにやらささやいている。
「なに?」
 さすがに鬱陶しかったので、少し怒気を込めて声の方を睨んだ。
「いや、別に……」
「なんでも……」
 ばつが悪そうに、彼ら彼女らは自分たちの会話に戻っていく。
 はぁ、めんどくせー。
 鞄を机の横に置き、椅子を引いて席に座る。今に始まったことじゃないが、やっぱりこのやり取りは疲れる。不良か、それこそ本当にヤバいやつにでもなれば疲れなくなるのだろうか。
 僕はそんなことを考えながら、そっと右頬に触れた。乾燥した皮膚の感触。そのまま輪郭に沿って下になぞっていくと、指先にこれまでとは違う、硬めのなにかがあった。硬めといっても前に比べれば随分柔らかくなっており、普通の皮膚と大差はない。多分この感触には、僕の中にある、過去に散々触れた感触の記憶も含まれている。
 僕はふっと息を吐くと、スマホのカメラアプリを起動させ、インカメラに切り替える。右頬に刻まれた大きなやけどの痕が、ボサボサの髪や目つきの悪い表情とともに画面に映し出された。しかもそれは一つだけではなく、小さな傷痕とも合わさって顔をふざけたアートのようにしている。かつての友人や祖父からは治せと何度も言われたが、そんな気は毛頭ない。むしろこれがあるからこそ、僕はまだ生きていられるのだ。
 アプリを閉じ、鞄にしまおうとしたところで、後頭部を教科書かなにかでペシリと叩かれた。
「おーっす、陽人。久しぶり~! 元気してた?」
 能天気な声が頭上を越える。声の主はそのまま机の前まで来ると、空いている前の席に後ろ向きで座った。短く切り揃えられた髪に、少し垂れた黒目が印象的な好青年だが、僕にとっては少し鬱陶しい存在だった。
「笹原か。高二になっても話しかけてくるんだな」
「え、なにそれ。友達じゃねーかよ、俺たち」
 ちょうど向き合う形になったその顔が、ニカッとほころぶ。人懐っこい、思わず心を開いてしまいそうな笑顔だ。
「僕の顔を見てもそんなことを言うのはおまえくらいだよ」
「やけどの痕がなんだってんだ、関係ねーよ。それより、そろそろ俺のこと名前で呼んでくれよ。名字呼びって、なんか距離感じね?」
 なんならあだ名でもいいぜ~、と笹原幹也は両手を大げさに広げる。その様子に呆れつつ、僕は「やだよ」とだけ返しておいた。

「そういや、今朝のネットニュース見たか?」
 HR前のざわつきの中、笹原は思い出したように制服の胸ポケットからスマホを取り出した。慣れた手つきで画面をフリックさせ、アプリを起動させる。
「見てない。ニュース、興味ないから」
「いやいや、俺も基本興味ないけど今朝の記事はさすがにヤバかっただろ」
 笹原は苦笑を浮かべながら僕に目を向ける。見てないものは仕方ないだろと思いつつ、なぜか少し腹が立った。なにか言い返そうと思った矢先、タイミングよく笹原のスマホが振動した。
「おっ、新着情報だ。しかも、ちょうど今話そうとしてたやつの」
 興奮した様子で、彼はお目当ての記事をタップする。拡大されて出てきた見出しに、僕は一瞬、自分の心臓が大きく跳ねたのを感じた。
『神の悪戯⁉ 元女優、一ノ瀬優子生き返る!』
 ゴシック体の文字に、朗らかに笑う若き日の女優の写真。その下には、一世を風靡した彼女の悲劇的な病死の過去や当時のニュース動画のURL、そして現在、が大きく掲載されていた。
「なにこれ? フェイクニュース?」
 僕は既に落ち着いた心臓の辺りを押さえつつ聞いた。笹原はそんな僕の様子を特に気に留めることなく、チッチッチッと人差し指を立てる。
「まさかまさか。れっきとした正真正銘のニュースだよ。しかも、さっきの更新で本人へのインタビュー動画が載ってるぞ」
 言い終えるが早いか、彼は一番下にある動画サイトのURLをタップする。すると間もなく、還暦を少し過ぎたくらいの女性とインタビュアーが画面の中で滑らかに話し始めた。
『まだ信じられないです。目が覚めたら家にいて、家族も喜ぶというより驚愕していました』
『でも一ノ瀬さんは十年ほど前、確か心臓の病気で亡くなられましたよね?』
『ええ、多分。でも、私はその時のことをよく覚えていないのです。目が覚めた時、天使のような少女がいたような気もしますが、私にもなにがなんだか――』
 嬉しさと戸惑いを均等に混ぜ合わせたような表情がスマホの中で揺れていた。その後も、女性はあれこれと質問攻めにされていたが、本人もわかっていないというのが結論のようだった。
「すげーよな! これが本当で理由がわかったら、もう人死なないんじゃね?」
 上擦った声でそう叫びながら、笹原は動画を巻き戻しては繰り返し見ている。
「そんなわけないだろ。人間、というか生き物が死んで生き返るはずがない」
 僕は既に半分ほど興味を失っていたので、返事もそこそこに鞄から春休みに出ていた宿題を取り出した。出ていたのは確か数学と英語だったはず、と宿題用ノートをパラパラとめくる。肝心のページを見つけたところで、笹原がスッとノートを取り上げた。
「夢のないやつだな~。現にこうして人が生き返ってインタビューされてるんだぞ?」
「いや、そもそもその人が本当に死んでいたかわかんないだろ」
「んなこと言ったって、さすがの陽人だってあの時のこのニュースは見ただろ?」
 彼はそう言うと、ずいっとスマホを眼前に近づけてきた。そこには当時のニュース番組の映像が流れており、気象情報や夜間山道の交通事故の見出しの後に、『女優、一ノ瀬優子死去。その壮絶な闘病生活には……』の文字があった。
「……いや、初めて見たな」
 画面から逃げるように、窓の外へと視線を逸らす。
「え、うそだろ? どんだけテレビ見ないんだよ」
 信じられねーといった顔つきで、笹原は大仰にのけぞった。
「いいだろ、別に。そんなことより、それ、やったのかよ?」
 澄み渡る青空から視線を戻し、僕は笹原に取り上げられた宿題用ノートを指差す。と同時に、予鈴のチャイムが教室内に響き渡った。
 しばらく呆然とした視線をノートに送っていた笹原だったが、「やっべー! これ貸して!」と僕の返事を待つ間もなく走り去っていった。その後ろ姿を見送りつつ、滅多に動くことのない心の中が、微かにさざ波立っているのを僕は感じていた。

 退屈なHRと始業式、笹原が結局怒られた宿題提出を済ませ、僕は帰路についていた。新学期初日は授業がなく、スポーツマンな笹原と違って僕は部活に入っていないので、下校時間は昼前とかなり早い。まだ高い日差しに目を細めながら、なだらかな坂を下っていく。
「にしても、今日は暑いな」
 額に浮き出た汗を拭う。まだ四月だというのに、道沿いの気温計が示す数値は二十五度。まるで梅雨を飛び越して夏にでもなったかのようだった。
「生き返った女優……か」
 朝、笹原が言っていたニュース。あの時は正直うそくさいと思っていたが、放課後の教室でも、駅前の小さな街頭テレビでも、すれ違うおばさんたちの井戸端会議でも、とにかくその話題でもちきりだった。試しにネットニュースを見てみたが、注目の国内ニュース欄の上位十個中八個がその記事で、『女優一ノ瀬優子は死んでいなかった⁉』という現実的なものから、『一ノ瀬蘇生! 天使が地上に舞い降りた』などというオカルトチックなものまで様々だった。
「まぁでも、ありえねーよな」
 人が生き返るなんてファンタジーやゲームの中だけの話だ。そんなほいほい人が生き返ってたらこの世は人で溢れかえるし、そもそも命の重みが無くなってしまう。人はいつか必ず死ぬからこそ、生きていることに責任が出てくる。死んだら絶対に生き返らないからこそ、死ぬことに意味が出てくるのだ。
「そうだよ……人が生き返るなんてことがあってたまるか」
 もうこの話は忘れよう。そう思った時だった。
「――本当に、そうかな?」
 背後から、突然声が聞こえた。びっくりして振り返ると、そこには同じ高校の制服を着た少女が、小さく微笑みながら立っていた。
「え、だれだよ?」
 驚きと戸惑いで、思わず強い口調になる。しかし、彼女はそんなことお構いなしといったふうに、ふふっ、と短く笑った。
「地上に舞い降りた天使」
 流れるような足取りで、スッと僕の横を通り過ぎる。小さく刻んだステップにつられて、彼女の長く艶やかな黒髪が後ろになびいた。
「は?」
 地上に舞い降りた、天使? なに言ってんだこいつ?
 僕は訳が分からず、ほぼ無意識に彼女の動きを目で追う。もちろん、その背中のどこかに羽が生えていたり、頭の上に輪っかが浮かんでいたりといったことはない。
「それ。さっき、君が見ていた記事」
 彼女が振り返って、僕の右手にあるスマホを指差す。その拍子に、同学年の証である緑色のクラスバッチが、太陽の光を受けて彼女の胸元でキラリと光った。
「あ、これ……生き返った女優の、記事……」
「そ。その女優さんを生き返らせたの、私なんだ」
 少し前かがみになって、彼女は優しく笑った。彼女の黒く澄んだ瞳が、僕を射抜く。
 しばらく、僕は身動きができなかった。彼女の目に捕らえられたみたいに身じろぎひとつできず、僕は立ち尽くしていた。ただ目が離せない。そんな独特のオーラみたいなものを、彼女は放っていた。
「ん? どうしたの?」
 急に固まった僕を見て、彼女が不思議そうに訊いてくる。その言葉で僕はハッと我に返った。
「い、いや……どうしたの、じゃなくて。普通、そんなこと言われたら誰だって驚くだろ」
「あー、それもそっか。ごめんね、驚かせちゃって」
「別に……」
 心を落ち着かせるように、僕はスマホを鞄にしまった。完全に彼女のペースに乗せられている。どことなく癪だったので、先ほど言い返せなかった言葉を僕は口にする。
「というか、一度死んだ人を生き返らせられるわけないだろ。うそ言うな」
「んー。うそじゃないんだけどな」
 どうしたものか、と彼女は考えるように空を見上げる。かと思えば、「あっ」と声をあげて辺りを見渡し始めた。
「……なにしてんの?」
「いや、ちょっと……ね」
 なにかを探すように、近くの茂みの方へと彼女は歩いていく。
 本当に、なにしてるんだ?
 その理由を訊く間もなく、「見つけた」と彼女はそれを茂みから拾い、僕に見せてきた。
「うぇっ⁉」
 変な声が出た。でも、それくらいは勘弁してほしい。僕は、そういうものは苦手なのだ。
「あれ? もしかして、虫とか無理?」
 彼女が手のひらに乗せて見せてきたもの。それは、緑色のショウリョウバッタだった。
「ムリムリムリ。ってか、なんで触れるんだよ⁉ 気持ち悪くね?」
 二、三歩後ずさりながら僕は訊く。虫に触れるやつ、ましてや自分から探して見つけて捕まえてくるやつの気が知れない。そんな僕の様子を見て、彼女は悪戯っぽく笑った。
「へぇー。じゃあ、もし……」
 この時、直感した。この流れはあれだ。トラウマになりかねないやつだ。
「おい。投げつけてきたら警察を呼ぶぞ」
「……そんなことで警察は来ないよ」
 僕の全力拒否反応に、彼女は呆れたように苦笑した。
「大丈夫、そんなことしないよ。それに、この子、死んじゃってるから」
「え?」
 見ると、彼女の手のひらのバッタは先ほどからピクリとも動かない。石像のように、きれいな立ち姿勢のまま固まっていた。
「触ってみる?」
「いや、やめとく」
 悪魔みたいなことを言う彼女から、僕はさらに数歩距離をとる。
「ふふっ、冗談だよ。でも、後で文句を言ってきそうだけど……」
 文句? だれが?
 僕がそう訊くより早く、彼女は口を開いた。
「私が、言いたかったのは――」
 彼女は話しながら、バッタをそっと地面置いた。
「もし、この子が――」
 そして、そのまま手を合わせる。
「こうして――」
 祈るように、静かに、彼女は目を閉じた。
 その一瞬、空間がぶれたのかと思った。
 だって、目の前にはありえない光景があったから。
 彼女の身体が、淡く光っていた。四月にしては暑く眩しい日差しの中で、薄っすらではあるけれど。彼女は確かに、光を放っていた。
「え、え……?」
 バッタの存在を忘れ、僕は彼女に近寄った。彼女の放つ光に吸い込まれるように、二歩、三歩と近づいた。
 でも、それが僕の運の尽きだった。足元で、今までなんの反応も示さなかった「それ」が、いきなり飛んだ。
「うわあああぁぁっ⁉︎」
 情けない声をあげ、僕は無我夢中で払いのける。僕の制服に張り付いていた「それ」は、驚いたようにピョンと地面に降りると、そのまま茂みに飛び込んでいった。
「生き返ったら、どうなるのかな? ってさっき言おうと思ったの」
 君、ほんとに虫嫌いなんだね、と彼女は小さく笑う。先ほどからころころといろんな笑顔を見せる彼女に、僕は半分以上の腹立たしさと、若干の懐かしさを覚えていた。

「それで? いったいなにがしたかったんだ?」
 感情の大部分を占めているイラつきをぶつけるように、僕は訊いた。
「あれ? あんまり驚かないんだね」
 僕の荒げた声を気にすることなく、そして質問に答えるでもなく彼女は言った。どこまでもマイペースな彼女に、イライラメーターがさらに上がる。
「なにが?」
 低い声で僕は訊き返す。
「私、生き物を生き返らせたんだよ?」
 二歩ほど、彼女が僕に近づいた。その顔は僅かに微笑んでいたが、先ほどとは打って変わってどこか陰が落ちているように見えた。
「え、あれって、最初から生きてたんじゃないのか?」
 若干気にはなったものの、僕は気づかないふりをして答えた。
「ほらー、そう言ってきそうだったから、触ってみる? って訊いたのに」
 むくれたように、彼女は僕に背を向けた。彼女の動きに合わせて髪がしなやかに舞う。
「いや、虫触るのはムリだから」
「んーじゃあ、私の身体が光ってたのは?」
「それは……」
 背を向けたまま言った彼女の言葉に、僕は先ほど見た光景を思い出す。虫がいきなり動いたことに意識を持っていかれていたが、その虫の存在すら忘れさせていたあの光は、紛れもなく僕の目にも見えていた。
「……蜃気楼とか、そんな現象なんじゃねーの。知らないけど」
 突き放すように僕は言った。認めたくないと思った。生き物は死んだらそれで終わりなのだ。死後の世界とか、生まれ変わるとか、そんな確かめようのないことは正直わからない。でも、死んだ後にまた同じ存在として生きるなどありえない。そんなこと、叶うはずがない。
 僕は鞄を肩にかけ直すと、彼女の背に向かって歩き出し、そして追い越した。
「あれ? どこ行くの?」
「帰るんだよ」
 不思議そうに尋ねてくる彼女に、振り返ることなく僕は答える。これ以上一緒にいると、いつもの僕ではなくなるような気がした。
「ここからが本題なんだけど」
 不満げな声が飛んでくる。でも、歩みは止めない。ここで止まればきっと引き返せなくなる。
「――ねぇ。あなたが生き返らせたい人は、だれ?」
 心臓が、ドクン、と大きく脈打った。もしかしたら、僕はその言葉を待っていたのかもしれない、と思った。
 立ち止まった僕の耳には、心臓の高鳴りと、彼女が近づいてくる靴音だけが響いていた。

 春の日差しが、昨日と変わらない眩しさで坂道を照らしていた。木の葉の隙間から漏れ出る光をかわしつつ、僕はいつもと変わらない坂道を、いつもと変わらないペースで上っていく。
「昨日は、なんだか変な日だったな」
 特に意識するでもなく、傍の茂みに目をやる。そこから、何かが飛び出して来る気配はない。
 正直、夢でも見ていたんじゃないかとさえ思う。女優を生き返らせたのは私だの、あなたが生き返らせたい人はだれだの、そんな非現実的なことに時間を割いている暇は僕にはない。そんなものに時間を費やすくらいなら、英単語の一つでも頭に入れた方がずっといい。
「生き返らせたい人、か……」
 駅に向かって今度は坂道を下りながら、僕は昨日の質問を口の中で転がす。
 彼女はなにを考えて、あの質問を僕に投げかけたんだろう。仮に本当に人を生き返らせることができるなら、あの女優のような、もっとほかに相応しい人が大勢いるはずだ。自分の身内でも、多くの人から惜しまれた大物芸能人でも、どこかの国のお偉いさんでも……。
 駅構内に入り、改札を抜けホームへと降りる。なんとなく、視線の留め先を探すように周囲を見渡した。
 平日の朝は人が多い。小さな駅のホームでも、通勤や通学の時間は普段の都会並みの人が行き交っている。ランドセルを担いだ小学生や、パリッと固いスーツに身を包んだ初老くらいの会社員。スマホに目を落として髪を整えているOLらしき女性に、必死に単語帳にマーカーを引いている高校生。多分、この中のほとんどの人は僕よりも社会的な評価や価値は高いんだろうなと、怪訝そうに僕の顔を見つめては逸らす人たちを見て思った。
 朝の満員電車に揺られながら、何気なく窓の外へと視線を移す。
 ――その女優さんを生き返らせたの、私なんだ
 彼女の言葉が、声が、脳内でリフレインしていた。手に持った単語帳は、さっきから一ページも進んでいない。
 ――ねぇ。あなたが生き返らせたい人は、だれ?
 単語帳を強めに閉じる。パタンッと小気味良い音が電車内に響いた。近くにいた何人かが迷惑そうにこちらを見る。
「そんなの、決まってるだろ……」
 僕の声は、すれ違う電車の走行音にかき消されていった。

 生徒玄関に着くと、唐突にペシッと頭をはたかれた。
「おはよ、陽人! 相変わらず今日も目つき悪いな」
 快活な笑みを浮かべて、笹原が肩を組んでくる。なんでこいつは普通に挨拶ができないんだと思ったが、口には出さない。
「余計なお世話だよ。それより、なんかあったのか?」
 いつも以上に目を輝かせている笹原を見て、なにかあるんだろうと思った。朝の気分転換も兼ねて、とりあえず訊いてみることにする。
「あれ? 珍しいじゃん。いつもなら、面倒くさがって先に行くのに」
 にやけ顔になった彼を見て、歩調を早める。気分転換の方法、間違ったな。
「……んじゃ、そうするかな」
「わー、待った待った! 昨日言ってたやつなんだけど、生物学者やら化学者やらが血眼になって原因究明してるらしいぜ。それでそれで……」
 やっぱり、間違ってたようだ。僕が緩めかけた歩調をさらに早くしようとした、その時。
 バシッ――。
 笹原より数段強く肩を叩かれた。驚いて振り向くと、今日一見たくない顔がそこにあった。
「おはよっ! 橘陽人くん!」
「え……お、おはよ?」
 なぜか疑問形になってしまった。というか、彼女がここにいて挨拶をしてくる意味がわからなかった。そもそも昨日名前を教えていないし、なんか雰囲気も違う。いったいどうして……。
 そんな疑問をあれこれ生成している僕をそっちのけで追い越すと、彼女は「りんちゃーん! おはよー!」と友達と思しき女子に手を振りながら走っていった。嵐のように過ぎ去った元凶を見送っていると、今度は隣の笹原が叫びだした。
「え、えーー⁉ なに、おまえっ、天之原さんと知り合いなの⁉」
「あ、天之原さん?」
「そうだよっ! 天之原光里。隣のクラスで、男女問わず人気の!」
 興奮気味に笹原は身を乗り出す。肩に乗せられた腕と合わさって少し重い。
「知らねーよ。昨日少し話しただけだ」
「詳しく聞かせろー!」
 笹原の声が、朝の校舎に響き渡った。

 春にしては暑い日差しの中、ここ二時間目終了間近の校庭では、柔軟体操を行う生徒たちの掛け声に包まれていた。
 朝の天気予報で、昼頃にかけて気温がかなり上がるとか言っていたのが当たったみたいだった。夕立模様とか重要な情報は当たらないのに、こんなときだけしっかり現実になるのがなんとも憎らしい。
 憎らしいと言えば、今目の前にいるこの能天気男も、肌にまとわりつく今日の熱気や湿気のようにかなり鬱陶しい。
「だーかーらー、何もないって言ってんだろ?」
 笹原の背中を、朝からの質問攻めの鬱憤を込めて強めに押す。ポキポキッという少し大きめの音とともに、彼は大げさに声をあげた。
「イテッ、痛いって! くぅ……つか、んなわけないだろ。やたら親しそうに挨拶されてたじゃねーか!」
「知らねーよ。それについては、むしろ僕も驚いてるよ」
 本当に面倒なことをしてくれたと、内心で舌打ちをする。
「はぁ? 噓つけ。さっきのマラソンのときなんかも、手なんか振られてさ」
「……」
「おまけにゴールした後には、お疲れさま! キャ~! なんて言われてさ」
「いや、キャ~! は言われてないだろ」
「うるせー! くそぉ~羨ましすぎるんだよー!」
 長座体前屈の姿勢で、笹原は器用に恨み言をあげる。
 実際、彼が言ったようなことは確かに言われたが、それで嬉しいという気持ちは微塵もない。昨日の出来事もさることながら、なにより他の男子からの視線が痛すぎる。
 どうすればいいものか、なんて考えていると、ピィーッ、と笛の音が鳴り響いた。それに続いて、「今度は足を開いてひだり~」という体育教師ののんびりした声が前から飛んでくる。
 指示通りになんとなく力を入れながら、質問攻めの合間に聞いた天之原光里の話を思い出す。
 天之原光里は、去年の冬頃に転校してきたらしい。持ち前の明るさと人懐っこさでたちまちクラスの人気者になり、しかも成績は総合模試、定期考査ともに学年上位の文句無し。整った容姿も加えて、告白された回数は数知れず。ちなみに、未だ撃沈回数も更新中とのことだった。
 言わば、天真爛漫、八面玲瓏、成績優秀、容姿端麗という社会の人気者。なんでそんな僕と正反対の人が関わってきたのだろうと純粋に思った。笹原から彼女の話を聞いたときの最初の感想はまさにそれだった。二物ならぬ三物以上を天から与えられたような人が、異端の目を向けられる僕と関わることでどんなメリットがあるのか、不思議でならなかった。憐憫や同情のつもりならこっちから願い下げだが、昨日の彼女の様子を見る限りそんな感じは全くなかった。
 わからねー。
 笹原の体勢を元に戻し、今度は右へと倒していく。また、ポキッ、という音がした。
「痛いっ! 陽人、そんなにおまえは俺に恨みがあるのか?」
 若干涙目になった笹原が、顔をこちらに向ける。
「いや、おまえの体が硬すぎるんだよ。なんで陸上部なのにこんなに硬いんだよ」
「柔軟サボってるから」
「……僕ちょっと体育の先生に用事あるから、先に教室戻っててくれ」
「いやいや、うそうそ! 冗談! ジョークハーモニー!」
「なんだよ、それ」
 わけのわからないやり取りとしていると、柔軟体操終了の笛が鳴った。「各自水分補給をして教室に戻るように!」と叫ぶ体育教師兼陸上部顧問の言葉を半分聞き流しながら、僕は生徒玄関へと向かう。
「おい。話は戻すが――」
 追いすがってくる笹原の声に仕方なく振り向こうとしたとき、ペシッと肩をたたかれた。多分、朝と全く同じ強さ、同じ場所に。
「ねっ、橘くん。今日の放課後、ちょっと付き合ってよ」
 噂をすればなんとやら、朗らかな笑みを浮かべた天之原光里が立っていた。
「え? なんで……」
「なに言ってるの? 体育は合同でしょ」
 マラソンで会ったし声もかけたでしょ、と彼女は苦笑する。そこには、昨日のような妙なオーラはない。ごく普通の、いや普通以上に洗練された年相応の女の子の笑顔があった。
「いやそうじゃなくて……」
 僕が言いたいのは、なんでそんな馴れ馴れしく声をかけてきたのかってことで……。
 そこまで考えて、さっき言われた言葉の意味が急に追いついてきた。
「ってか、放課後? なんで?」
 最初の疑問が氷解しきらないうちに、考えても答えが出なさそうな疑問が新たに浮上する。
「んー、内容はその時まで秘密ってことで!」
 ひときわ明るい声でそう言うと、「じゃあ、放課後正門でね!」と彼女は手を振って去って行った。嫌な予感とともにさっきの数倍の視線を背中に感じ、来たる嵐に備えようと思った。

 笹原と、普段話したこともない男子たちの尋問を耐え抜いた放課後、僕は裏門を目指していた。
 理由はもちろん、彼女から逃げるためだ。内容がどんなものであれ、彼女と一緒にどこかに行けば第二の波乱が巻き起こることは目に見えている。僕はなるべく人と関わりたくない。彼女の誘いをブッチすればそれはそれでなにか言われそうだが、おそらくまだマシだ。それに昨日のこともあるので、極力彼女とは顔を合わせたくなかった。
 生徒玄関を抜け、正門とは反対側の通路を目指す。通路は主に体育でグラウンドに行くときに使うもので、登下校で通る生徒はほとんどいない。さらに、正門からは木々やら茂みやらで死角になっているので、当の本人にも気づかれる心配はない。しかし万が一があると面倒なので、僕は足早に通路を抜ける。そのまま角を二回曲がると、裏門にあたる稼働式鉄柵が見えた。そこに人影はなく、夕方前の淡い陽だまりがいくつかできているだけだ。駅までは少し遠回りになるが、おそらく無事に帰れるだろう……と思った矢先、
「さっ、駅まで行こうよっ!」
 今一番聞きたくない声が、僕の耳に入ってきた。
「……どうしてここにいんの?」
 裏門まで回った僕の苦労を返してほしい。一方の彼女は、きょとんとした顔で僕を見る。
「それは私のセリフだと思うんだけど。正門はここじゃないよ?」
「わかってるよ! てか、僕は行くなんて言ってない!」
 思わずムキになって返す。しかし彼女は涼しい顔をして、ふふっ、と笑った。
「うん。多分来ないだろうなって思ったから、生徒玄関前で待ってたんだ」
 正門で待ってなくて良かったよ、と彼女はほっと息をついた。よくよく見ると、少しだけ息があがっている。多分、裏門に向かう僕を見かけて追いかけてきたからだろう。
「ふぅ……でも、橘くんはすぐにわかったよ」
 呼吸を整えつつ、彼女はなぜか得意げに言った。
「そりゃ、顔にこんな痕があるからな」
 これで目立たないほうがおかしい。おそらく、巨大テーマパークでさえ人混みから浮いて見分けがつくだろう。
「え? 誰も痕で見つけたとは言ってないよ?」
「はぁ? じゃあどうやって見つけたんだよ」
 見たくなくても目に入るような目印を持つ人を見つけるのに、その目印を使わないとはどんな要領をしているのか。やけどの痕の話を避けているふうでもないので、余計に気になった。
「ふふん、それはね……女の勘よ」
 語尾に音符がついてそうな口調で彼女は言った。
「……これは、ツッコめばいいのか?」
「うーん、ウケなかったからスルーで」
「……」
「えっと……ちなみにだけど、人の流れからひとりだけ外れてたのですぐ見つかりました」
 どうしようもないオチだった。
 実は、やけどの痕の話を持ち出したのは距離をつくるためだった。これまで会っただいたいの人は、やけどの痕の話をすれば答えに窮し、口数が減っていった。気まずい沈黙さえつくれれば、後は自分から去るだけで自然と距離を置くことができる。
 でも、彼女は違った。上手くかわしただけかもしれないけど、やけどの痕の話を気にすることなく普通の会話に持ち込んだ。こんなことは、笹原以来だった。
「なぁ、どうしてそこまでするんだ?」
 いろいろ気になって、無意識にそう訊いていた。
 どうして僕なのか。なんで僕の生き返らせたい人にこだわるのか。何が彼女をそうさせているのか。
「だって、私のこと信用してくれるまで、生き返らせたい人、教えてくれないんでしょ?」
 昨日の約束事をなぞる彼女の言葉に、そうじゃない、と思った。だけど僕は、口を閉ざしたまま何も言わなかった。

 失敗したな……。
 彼女の斜め後ろを歩きながら、そっとため息をつく。
 昨日、僕は結局「生き返らせたい人」について何も言わなかった。彼女の能力を認めたくないという思いもさることながら、そもそも彼女自体が信用できなかったからだ。「生き返らせたい人」を聞いてその人を生き返らせるとは限らないし、彼女の真意がどこにあるのかもわからない。彼女にそれを訊いてもはぐらかされるだけだった。
 そこで、「もう僕に構うな」と言っておくべきだった。
 何を思ったのか。こちらからの質問をかわし続ける彼女に、それならばと、僕は「信用できるようになるまでは教えない」と言ってしまった。その結果、僕は今日一日あちこちで彼女に絡まれ、それに伴って質問攻めに合い、さらには貴重な僕の放課後まで潰されている。
「そういえばさ、信用ってどうすれば得られるの?」
 駅までの道すがら、そんな僕の心境など知る由もなく、彼女はド直球にそう訊いてきた。
「知らないし、知ってても君に教えるわけないだろ。自分で考えてよ」
「えー。冷たいなぁー」
 言葉とは裏腹に、特に気にした様子もなく彼女は足早に前へと歩いて行く。夕暮れ前の少し冷たい風が、彼女の後ろ髪をなびかせた。
「それより、さ」
 吹いた風を巻くように、彼女がくるっと振り返った。
「私のこと、君、じゃなくて名前で呼んでよ」
 立ち止まった彼女が前かがみになって顔を覗き込んでくる。見慣れない上目遣いに、思わずドキマギしてしまう男の性が悔しい。
「なんで?」
 そんな胸中を悟られぬよう冷たく言い放つ。顔に当たる日差しが、やけに熱く感じた。
「んー、なんとなく。そだ、天之原って長いし、なんか変だから光里って呼んでね」
「やだよ」
 そんなことを言おうものなら、絶対に笹原を含めた男子に絞め殺される。
「あ、そっか。私だけ名前で呼んでもらうのは不公平だもんね。大丈夫! 私も陽人って呼ぶから!」
「いや、そういうことじゃなくて……てか、今さらだけどなんで名前知ってんの?」
 見当違いの心配に、僕の名前まで知っている事実。いよいよ彼女のことがわからなく、そして気味悪くなってきた。
「え? んー……あっ、だって、隣のクラスだし?」
 今思いついたような言い訳と、てへっ、という効果音が似合う照れ笑い。
 彼女の信用はそう簡単に上げないようにしよう、と僕は心に決めた。

「ところでさ、そろそろどこに行くのか教えてくれよ」
 つり革に掴まり、窓の外に視線を留めたまま彼女に尋ねる。
 電車に乗った後も彼女、もとい光里は行き先を教えてくれなかった。いくら訊いてものらりくらりとかわされるばかりで、しかもその度に必ずと言っていいほどいじってくる。それほど親しくもない人気のある女子にからかわれるのは、いろいろな意味でストレスだった。
「えー、どうしよっかなー」
 光里は、もう聞き飽きたフレーズを、もう見飽きた小悪魔笑顔で口にする。
 めんどくせー。というか、そもそも事情も行き先も聞いていない僕が、なぜ付き合わないといけないのかがわからない。適当に用事をつくって断れば良かったと、今さらながら後悔した。
「ねぇ、もう帰っていい?」
 声色と表情に、これでもかと迷惑オーラを含ませる。それでも光里は、気にも留めていないとでも言うかのように、わざとらしく考えるポーズをとった。
「んー、そうしたら私は、デート中に陽人に逃げられたって友達に泣きつくしかなくなるかな」
「……僕を殺す気?」
「陽人が死んだら、私は全力で生き返らせるよ!」
 笑えない冗談の後に、謎の意気込みを見せる彼女に僕は苦笑する。なんだか、もう既に光里には勝てる気がしなかった。
「とまぁ、冗談は置いておいて……」
 そこで、光里の雰囲気がふっと変わった。表情は特に変わっていないのに、さっきよりもどこか儚げで、落ち着いた感じ。俗世から切り取ったような、そんな独特のオーラが彼女からにじみ出していた。
「今向かっているのはね、倉森だよ」
「……え? 倉森?」
 彼女に目を奪われたのと、久しぶりに聞いた地名に、一瞬返事が遅れる。でも彼女は気づいた様子もなく、そうだよ、と静かに答えた。
 心を落ち着かせるために、たった今聞いた行き先について脳内検索してみる。そこでヒットしたのは、閑静な住宅街と一面に広がる田んぼが特徴のただの田舎、というフレーズだった。わけあって、何度か車に乗せられ通ったことがある。窓の外から見える田舎独特の田畑に、ぽつぽつと立っている平屋。そうした前時代的な田園風景を抜けて中心地に近づくと、住宅の数が一気に増える。百年くらい建っているんじゃないかと思うような古ぼけた家もあれば、いかにも新築なんですとアピールしているような真新しい一軒家もある。
 色とりどり、年代いろいろの住宅が立ち並ぶ光景を思い浮かべていると、唐突にそれが目の前に広がっていった。
「もうすぐだね」
 落ち着いた声が聞こえたかと思うと、その声質にはどうやっても敵わなそうな車内アナウンスが耳を衝いた。と同時に、車窓の外を流れる景色の動きが徐々に遅くなっていく。それにあわせて周囲の人たちが、忙しなく席を立ち始めた。
「ほら、私たちも行こう?」
 歩き出す光里に促され、足元に置いていた鞄を手に取ろうとかがんだ時だった。
「二人目を生き返らせに、ね」
 多分、普通じゃ聞こえないような音量でつぶやいたんだと思う。
 でも。僕の耳の奥にははっきりと、彼女のささやくような声がこびりついていた。

 赤みが混ざり始めた陽の光に目を細めつつ、僕たちは石段を下っていた。不規則に見える規則的な模様を踏みしめるたび、細長く伸びた影がさっきまで僕たちのいた場所を隠していく。でもそれは僅かのことで、数瞬後にはまたオレンジ色の光に照らされ、キラキラと輝いていた。
「……」
 駅を出て以来、僕たちの間には沈黙が漂っていた。
 さっきの言葉は、どういう意味だろう。
 何度か話しかけようとはしたものの、結局何をどう切り出せばいいのかわからず、開けかけた口からは音にならない息ばかりが漏れている。
 光里はというと、僕の少し前を小刻みにスキップしながら石段を器用に降りていた。スキップ、といってもご機嫌ということはなく、その表情から何を考えているのかは読み取れない。どこか儚げで、どこか嬉しそう。そんな感じだった。
 トンッ。
 ちょっとだけ勢いをつけて、彼女が最後の石段を降りきった。その拍子に、ふわっと制服のスカートが舞う。
「ねぇ、もうちょっとだよ」
 そう言うと、光里は太陽のある方角を指さした。彼女に追いついた僕は、その指先に視線を合わせようと顔を持ち上げる。
「あ……」
 真っ赤な夕日の、すぐ真下。舞台に臨む観客席のように、それらは等間隔に正しく列をなし、まとまっていた。そして、そこに座っているのは生者ではない。大理石や石灰岩、花崗岩などを素材とし、直方体に加工され並べられた石たちは、陽光に照らされてピカピカと光っている。
「生き返らせるための条件その一、対象の体の一部が近くにあること」
 澄んだ声が、耳元で響く。さっきまであんなに温もりをはらんでいたのに、今はひんやりと、どこか冷たい色を含んでいた。
「だから、死者を生き返らせるためには、まずはその人が眠る場所に行かないといけない」
 光里は、まだ少し距離のある席に向けて歩を進めた。そこまでの道のりには砂利が敷き詰められており、かなり歩きにくそうだと思った。でも、彼女の足取りはやけにしっかりとしていた。よどみなく、迷いなく、ただ真っ直ぐに歩いていた。
 対して僕は、動けないでいた。見えない壁が目の前にあるわけではない。あるとすれば、心のほう。
 いつもとは違う方向だったから、全く気がつかなかった。光里は知っていたのだろうか。僕の過去や、やけどの痕の意味を。僕の、生き返らせたい人を……。
 ……いや、それはない。今知るには、あまりにも時間が経ちすぎている。
 僕は頭の中を駆け巡る映像を必死に振り払い、光里の後に続こうと一歩踏み出す。
 悟られるわけにはいかなかった。彼女を信用するまで教えないなんて言っておきながら悟られるなんて、かっこ悪すぎる。それに…………。
「……それで? ここには誰を生き返らせに来たの?」
 心に漂う不安と迷いを払拭するために、僕は慎重に言葉を選んで訊いた。意外にはっきりと出た声とは裏腹に、手には汗が滲み、肋骨の下はドクドクとうるさい。
 けれど、光里はそんな僕の様子に気づく気配もなく、なにやらちょっと考えるように人差し指を口元に当てた。
「えっとね、ちょっと縁のある人なの。親戚、ではないんだけど、知り合い、というか……」
「……はっきりしないな」
 煮え切らない彼女の言葉に、内心ほっとした。やっぱり、光里は僕のことを知らない。よくよく考えれば、知っていたなら僕に生き返らせたい人を訊く必要がない。何を焦っていたんだろうと、僕は苦笑した。
「もう、いいでしょ!」
 僕の笑いを自分に対するものととったのか、光里はふてくされたように歩き出した。僕は慌ててその後を追いかけ、彼女の隣に並ぶ。
 夕方の墓地には、だれもいなかった。あたりはすっかりオレンジ色に包まれ、名前も知らない虫たちが音色を奏でている。昼間あんなに恨めしかった暑さは鳴りを潜め、代わりに冷えた風が頬を撫でた。
「ねぇ、ちなみにその人、名前はなんて言うの?」
 ふと気になって、僕は尋ねた。光里が最初に生き返らせた人は、あの名女優一ノ瀬優子だ。もしかすると、さらなる大物とかそれに準ずるような有名人かもしれない。
「んーっとね、七宮さん、っていう人なんだけど」
「ナナミヤ?」
 聞いたことがないな。そこまで芸能人に詳しいわけではないが、無意識に頭の中で数少ない知識を辿っていく。
「ああ、言っておくけど、有名人じゃないよ」
 僕の思考を見透かしたように光里は言った。
「おばあちゃんの友達で、前に二、三回会ったことのある人なの」
 何かを思い出すように、彼女は空を見上げる。その黒い瞳には、今日最後の輝きを放つ丸い火の玉が揺らめいていた。そのせいか、彼女の目は少しだけ潤んでいるように見える。
「そっか。おばあちゃんに頼まれたとか?」
「ううん。私の意思だよ」
 光里は視線を戻した。黒曜石のように深い黒が、僕を射抜く。そこに何か強い意志を感じ、思わず僕は息をのんだ。
「さっ、暗くなってきたし、早く行こ」
 光里はサッと視線を逸らすと、足早に墓地へと入っていった。僕も彼女に付いて、そそくさと小さな石の門をくぐった。

 石の門の先には、死者の寝床が整然と並んでいた。ほとんどは同じような大きさだが、中にはやたらと大きいものや逆に小さなものまであり、墓石と一口にいっても多様にあることが見て取れた。
「だれもいないな」
「お盆でもお正月でもないからね」
 倉森の墓地はさほど大きくない。墓石の数もせいぜい四十個程度のこじんまりとしたものだ。それでも、夕暮れ時の墓地というのはそれだけでなかなかの雰囲気が出ていた。
「でも、二、三回しか会ったことのない人のお墓の場所なんてわかるのか?」
「さすがに知らないよ。だから、これ」
 光里はそう言うと、学校の指定鞄からなにやら紙切れを取り出した。
「なにそれ?」
「手紙。その人のお墓の場所が書いてあるの」
 がさがさと折りたたまれた紙を開いていく。一枚目には文字がびっしりと書かれていたが、もう随分と日も傾いているため暗く、はっきりとは見えなかった。そして二枚目は、手書きの簡単な地図だった。
「えーっと、三列目の……」
 光里は進行方向が上になるよう地図のかかれた便箋を横に傾け、墓石の列を数えていく。
「手前から五つ目。これだ」
 黒色や灰色っぽいものが多い中、薄い茶色の墓石の前で止まった。七宮家之墓、と白色の文字が彫られている。
「思ったんだけど、お墓ってその家の家族とか他の人も眠ってるよね?」
 そんな状態であの能力を使ったらどうなるのか。全員蘇る……いや、まさかまさか……。
「あ、そう言われればそうだね」
「え?」
 今気づいたみたいな言葉を発した光里に、僕はぎょっとした。
「でも、大丈夫」
「いや、待って待って!」
 手を合わせかけた彼女を必死に止める。そんなにたくさん生き返ったりしたら身がもたず、僕が代わりにご臨終することになってしまいそうだ。
「ふふっ、大丈夫だよ」
 手をそのまま組み、光里はそっとしゃがみこんだ。
「生き返らせるための条件その二、その三。一度に指定できる対象は一つだけで、その対象を指す言葉を心の中で強く想い、唱える」
 光里の黒く澄んだ瞳が、瞼にゆっくりと覆われていく。それが完全に閉じると同時に、胸の前で組まれた両手にぐっと力が入れられた。そこから先は、つい最近目にした非日常的な光景が広がった。
 か細く、しかし確かな強さを帯びた淡い光が、彼女の端々から溢れていた。前は真昼で日差しも強く見分けにくかったが、今は夕暮れ。その光の存在感は、前の比ではなかった。
 でも、明らかに違うところがもうひとつ。竿石の下部、骨壺が入っているであろう場所から、光が漏れていた。
「え…………うそ、だろ……?」
 その光はやがて強くなり、空中に溶け込むように広がっていく。それでも不思議と眩しくはなかった。周りを見渡すと、ほのかに色が薄くなっていた。まるで、薄い光の膜ができたみたいだった。膜を通して見える空や夕日は、さっきよりもずっと淡々しく、頼りない感じがした。
「なぁ、これって――」
 どういうことなんだ?
 そう説明を求めようとしたとき、唐突に空が、夕日が、本来の色を取り戻した。
 ハッとして光里の方を振り返ると……それはもう、終わっていた。そこには彼女と、七十代前後の女性が立っていた。紫紺のニットと上品な花柄のロングスカートに身を包み、確かな血色を帯びたその顔色は、間違いなく生きている人そのものだ。
「お久しぶりです。七宮さん」
 どこか上擦った光里の声が聞こえる。
「え、え? えっと………………」
 その女性は状況が呑み込めないらしく、おろおろとしていた。手も微かに震えている。
「光里です。手紙の約束で……来ました」
 震えるその手を握り、どこか強い意志のこもった目で光里は女性を見据えた。
「手紙…………あ……!」
 その一言で女性は全てを理解したようで、顔から不安の色がスッと消えた。代わりに、
「光里ちゃんっ! 大きくなったわね~」
「わっ」
 女性はひしっと光里に抱きついた。その勢いに押され、光里が二、三歩後ろによろける。
「おばさん、またあなたに会えてほんと嬉しいわ~」
「いえいえ。私も、また会えて良かったです」
 若干苦しそうにしながらも嬉しそうな光里。そんな彼女の顔を見ていると、なんだかこっちまで胸が熱くなってくる。
 でも、それ以外の感情が胸中に渦巻いていることも確かだった。
「それにしても、そっか~。ありがとうね、約束を覚えててくれて」
 女性は何かを思い出すような口ぶりで、そんなことを言った。その言葉に、光里は小さく首を横に振る。
「いえ。だって、あのときは本当に……」
 そこで、ハッと気づいたかのように光里は振り向いた。
「え? な、なに?」
 急にこっちを見た彼女にびっくりする。でももっと驚いたのは、彼女が焦りのような、戸惑いのような、そんな目をしていたことだ。
「い、いや、なんでも……」
「あら?」
 光里の返事に被せるように、女性は声をあげた。
「彼、もしかして光里ちゃんの彼氏?」
「「え⁉ 違いますよっ!」」
 あり得ない単語、もといフレーズに、僕たちはきれいにハモった。
 僕が光里の……? 冗談じゃない。冗談はその意味不明な能力だけにしてほしい。
 そんな僕の心境はどこ吹く風。女性は「あら、仲がいいのね~」と相手にしてくれなかった。僕がどう反論しようか迷っていると、七宮さんの手からどうにか逃れた光里が背筋を正した。
「七宮さん、彼は学校で隣のクラスの橘陽人くんです」
「ど、どうも。橘陽人です」
 どうやら話を流すことにしたらしい。見た感じ、おばさんたちの井戸端会議で延々と喋ってそうな人なので、僕もそれに便乗することにした。
「あらま~、ご丁寧にどうも。七宮春子と申します」
 女性は深々と頭を下げる。さっきまでとは打って変わって、とても丁寧できれいな動作だ。旅館かどこかで働いていたのだろうか。
「それでそれで? 二人は学校でどんな――」
「七宮さんっ! 生き返ったら何かしたいことがあるって言ってませんでしたっけ⁉」
 また話が変な方向に行きそうな七宮さんの言葉を遮るように光里は叫んだ。すると、七宮さんは「あ、そうだったわ! じゃあ、また今度ね~」と足早に墓地の外へと去っていった。あとに残された僕たちは、お年の割に急激に小さくなっていくその後ろ姿を見送る。
「嵐のような人だったな」
「そうだね」
 珍しく、僕たちの意見が合った。
 地平線の彼方に沈んだ夕日と交代するかのように、夜の帳が少しずつ周囲に満ち始めていた。

「それで、どう? 私のこと、少しは信用してくれた?」
 ぽつぽつと点き始める街灯の下を、二つの影がズレたタイミングで通り過ぎる。
「いや、ないだろ」
 強めの口調が、夜の闇に響いた。
「えー、なんで?」
「能力についてはまだしも、あんたの人となりとか知らねーし」
「むぅー」
「むくれてもダメだ」
「けち」
「用心深いと言ってくれ」
 足元で、踏まれた小枝が子気味良い音を鳴らす。
「でもまぁ、そうだよね。そんな簡単に信用してちゃダメだよね」
 蹴られて飛んだ石が、どこかで小さく水音を立てた。
「私、今度は人として信用してもらえるよう頑張ります」
 その言葉には、どこか決意を秘めたような力が込められていた。
「いや、頑張らなくていいよ」
「えー、でも……――」
 なんてことない会話が、ゆっくりと駅の方へ流れていく。
 僕は、そんなどうでもいい話をして気を紛らわしたかった。
 墓地の入り口にひとつだけある街灯に淡く照らされた墓石へ視線を向ける。
 七宮さんの家のとはまた違う、黒っぽい竿石に、墓誌。
 さすがにこの暗さで彫ってある文字は見えないが、もう見なくても覚えている。

 橘 彰人 享年四三歳
 橘 美花 享年四二歳
 橘 美沙 享年十七歳

 この胸のざわつきは、気のせいに違いない。
 そうに、違いない。
 僕は呪文のように、心の中で繰り返し唱えていた。
 じりじりと暑い日差しが肌をさしてくる。体感温度だけなら夏と変わらないくらいで、来る途中の気温計も期待を裏切ることなく二十七度を指していた。
 まだ梅雨前なのに、随分とせっかちな太陽だな。
 恨みがましく心の中で愚痴りつつ、いつものように生徒玄関をくぐった。
「おはよー!」
 ひときわ明るい声が鼓膜に届くと同時に、軽く肩を叩かれた。でも僕は特に返事をすることなく、そのまま下駄箱を目指して歩き続ける。
「ちょっとー、朝の挨拶は基本だよー?」
 ポンポンポン、と何度も肩に小さな衝撃が加わる。まるでそれは、構ってほしい犬がとにかくまとわりついてくるようだった。でもそこには、そんな癒しの欠片は微塵も感じられない。
「ねぇねぇー」
「わかったわかった。オハヨーオハヨー」
「挨拶は一回」
「それは返事じゃね?」
「なんでもいいの。とにかくもう一度」
 そんなどうでもいい朝のやり取りが始まって、もう二週間以上が経過していた。
 あの七宮さんの一件以来、光里は毎日のように会いにきては挨拶やら昼食やらと絡んできた。学校一の人気者から気にかけられるのは悪い気はしないが、それはこいつがただの人気者だったらの話だ。それに、幾度となく付きまとってくる理由も僕は知っている。
「おー、また朝からいちゃついてんな〜お二人さん」
「あ、笹原くんだ。おはよー!」
「そんなんじゃねーよ」
 タイミングを計っていたかのように、笹原が会話に割り込んできた。
「おはよー、天之原さん」
「ほらー! 普通はこうしてしっかり返してくれるんだよ!」
「僕は普通じゃないから」
「もうー」
「はいはい、その辺にしとけよお二人さん。もたもたしてると予鈴鳴るぞ」
 笹原の言葉に、光里は「うそっ⁉」と壁にかかっている時計に目を向けた。時刻は八時過ぎ。予鈴まで、あと十分だ。
「やばっ! 朝に学級委員の集まりがあるんだった!」
 ごめん、先いくね! と光里はダッシュで隣の下駄箱に向かっていった。あとには男二人と、未だに嫉妬の視線を向けてくる隣のクラスの男子が数人取り残された。
「なぁ陽人。お前ほんと最近天之原さんと仲いいよな」
 内履きに履き替えながら、笹原はからかうような視線を向けてくる。
「だからそんなんじゃねーって」
 同じように履き替えると、スニーカーを空いた下駄箱に放り込んだ。溜まっていた砂ぼこりがふわりと舞い、外へと漏れ出してくる。
「そんなこと言っても誰も信じないぞ。俺ももう応援するって決めたし」
「心変わり早いな」
 最初はあんなに抗議してきたのに。というか、抗議し続けてくれたほうが光里も絡んでこなくなりそうなので、今思えばそっちの方がありがたかったな。
「俺の場合は憧れだからなー。恋心とかはなかったし」
「僕もないよ」
「はいはい」
 呆れたような返事の後、「それよりさ」と笹原は話題を変えた。
「今日のボラ遠、どうするよ?」
「別に。どうもしないよ」
 すると、僕の返事をかき消すように予鈴のチャイムが鳴り響いた。
 悩みの種は尽きないな、と思った。

 朝のHRの後、僕たちは校庭に集められていた。
 別に予鈴に間に合わなかったからじゃない。校庭には、僕と笹原の他に全校生徒が集合している。そしてもちろん、この人数で体育でもない。が、服装は体操服で、背中にはリュック。ここのところ日中は暑いので、風通しの良い体操服は随分と着心地がいい。そんな身軽な格好で校庭に集められている理由、それは……
「よーし、全校生徒集まったわねー。じゃあ、ボランティア遠足を始めるわよー」
 三年生の学年主任だかを務めているという先生の声が響いた。
 ボランティア遠足。それは、各学年が別々の目的地までゴミ拾いをしながら歩いて行くという行事。説明以上。
「毎回思うけど、なんで遠足ついでにゴミ拾いなんだろうな」
「さあな」
 隣でぼやく笹原に生返事を送る。ちなみに、本来はクラス内で三人一組のグループを作って目的地まで行くのだが、人数とルート数の関係上、僕と笹原は二人で一グループだ。
「俺たちはどこ行くんだっけ?」
「さあな」
「話聞いてる?」
「さあな」
「……お前、天之原さんのこと好きだろ?」
「さあな」
「……あ、この質問じゃダメだ」
 バカか。
 そうこうしているうちに、拡声器を持った年配の先生が前に進み出た。
「えーじゃあ、校長先生から挨拶が――」
 ここで、僕も含めた大半の生徒の意識が別のところへと向く。友達だったり、恋人だったり、隠れてスマホだったり……。
 僕も一割未満の注意を前に向けつつ、昨日の昼食のことを思い出していた。

 昨日、光里は昼休みを告げるチャイムが鳴り終わるなり、僕たちの教室に駆け込んできた。その手にあったのは、水色の小さな弁当箱と水筒。
「お昼、一緒に食べよー!」
 いつものように、光里は短く笑いかけてきた。もうこのやり取りは見慣れたもので、僕たちのクラスでももうざわつくことはない。最初の頃は何かと迫られたものだが、今では転校初日から想いを寄せているとかいう男子数人以外は「またか」といった感じで流し見している。まぁ、僕としても別の意味での「またか」なのだが。
「また来たのか。友達と食べればいいのに」
「あれ? 陽人も友達でしょ?」
「だれが」
「はいはい、お二人さん。貴重な昼休みが減っちまうだろ」
 まるでそれがずっと続いていたみたいに、笹原は近くの机を僕の机にくっつけ、光里は空いている椅子をセットする。彼は横にかけてあった袋から弁当を取り出し、彼女は水色の弁当袋の結び目をほどいていく。つい二週間ほど前には非日常だった光景が、既に日常の一部として溶け込みつつあった。
「――でね、明日のボラ遠。私たちの班は十裏川沿いの道から行くから、こことかどう?」
「おー、いいね! 俺たちのルートもその近くだったはず……ん? おい、陽人?」
「え? なに?」
「だから、明日のボラ遠で合流しようぜって話」
「はぁ?」
 聞いてない。いや、確かに文字通り僕が聞いていなかったのだが。
「待て待て、なんのために?」
「そりゃあ、もちろん……」
 笹原と光里が顔を見合わせる。ニヤッと緩んでいる二人の口元からして、嫌な予感しかしない。
「「遠足をとことん楽しむため!」」
 また面倒くさいことになったなと、僕は視線を窓の外へと逃がした。

 カラン。
 色とりどりの容器が、袋の中でぶつかり音を立てた。赤や青、緑、透明なものまで、それらはあらゆる人を惹きつけようと工夫を凝らしたデザインをしており、開発者の努力がうかがえる。でももちろんそれは、この空き缶たちに中身が入っていたらの話だ。
「あーめんどいなー」
 春の日差しに逆らうように背伸びをする。幾分手の先が青空に近くなるも、届くには至らない。どこまでも深い青に、思わず目を細めた。
「そう言いながら、結構ゴミ拾ってんじゃねーか」
 後ろから笹原の声が聞こえた。そして、僕の持っているゴミ袋を軽くこつく。その拍子に、再び袋の中で音が鳴った。
「いやゴミ拾いもそうだけど……」
「天之原さんとのことか?」
「……」
 笹原の問いかけには答えず、視界の端に見つけた白い塊を支給されたトングでつまみ上げた。ティッシュ。燃えるゴミだな。
「俺らだけで決めて悪かったよ。でもまぁ、いいじゃねーか」
 遠足は楽しい方がいいだろ? と笹原は笑いかけてきた。
「そうじゃなくて」
 遠足は楽しい方がいいのはわかる。でも、なんでそれがあいつと合流することになるんだ。今でさえ、四六時中顔を合わせているというのに。
「天之原さんも、陽人と歩きたそうだったぜ?」
「はぁ?」
 なんで、と言いかけたところで答えが頭の中に降ってきた。
 信用とやらを得るため、か。
 心の中でため息をつく。今になって、自分の言ったことの迂闊さが身に染みていた。まさかここまで構ってくるとは思ってもみなかった。
「まぁでも、いいじゃん。友達なんだろ?」
 そう言うと彼は僕を追い抜き、ポイポイッと目立つゴミを片付けていく。
 友達……。
 笹原の言葉の中に違和感を覚え、頭の中で復唱する。
 やっぱり違うな。僕と光里は、そんな関係じゃない。言葉では形容しがたい、知り合い程度の間柄だ。
「お? 噂をすればなんとやらだ」
 その声につられ顔をあげると、数十メートル先で彼女が手をひらひらさせていた。

 いつもより随分と涼しげな風が頬を撫でた。おそらく、僕たちが歩いているすぐ真横に、大きな川が流れているからだろう。
 僕たちが歩いているのはその川沿いにある土手で、川との間には芝生が生い茂っている。いかにも遊べそうな芝生は当然として、土手上のこの道はランニングやらサイクリングやらのコースになっており、人通りもそこそこにあるため、今回のボランティア遠足のルートになっていた。……まぁ、担当は僕たちのクラスじゃないんだけど。
「でも、合流できてほんとよかったね!」
 会う前に集めたのであろうゴミの入った袋を持ったまま、光里はその場でクルッと一回転した。その足取りに合わせて、袋の中でカラカラと音が鳴る。
「予定よりも遅くなっちまったからな。でもこれで安心だ」
 笹原は嬉しそう、というよりどこかほっとした様子で言った。
「ほんと仲いいよな、お前ら」
 常識的に考えて、僕なんかよりも笹原の方が光里とはお似合いだと思う。
 笹原はよく僕にちょっかいをかけてくるが、それは別に他に友達がいないとかそんな理由じゃない。笹原は人当たりが良く、クラス内だけでなく光里のクラスにも友達が何人もいる。実際、今回合流した光里の班のメンバーのうちの一人は笹原の友達だ。
「いやいや、陽人と天之原さんには負けるって」
「なんで」
「だってもう二人は名前で呼び合ってんじゃん?」
「それは光里が……」
「あー、女の子に恥をかかせるつもり?」
 いやだって本当のことだろ、と言いたかったがやめておいた。笹原は腹を抱えて笑ってるし、光里は反撃準備が完了しているとばかりににやけている。
「あ、それより! 笹原くんも私のこと名前で呼んでよー」
「いや〜呼びたいのはやまやまだけど、陽人に睨まれそうで……」
「睨まねーよ!」
「あ、ほら! 睨んでる睨んでる!」
 前の熱が冷めないうちに、またケラケラと笑う笹原たち。
 最近、なぜかこの二人にからかわれることが多くなったな、と僕は心中ため息をついた。
 そんなやり取りをさらに三回ほど繰り返したころ、笹原が思い出したように口を開いた。
「いや、でもほんとに合流できてよかった。俺、帰りは早退して学校まで行けないから」
 見ると、彼は少しバツの悪そうな顔をしていた。
「どうかしたのか?」
 いつもなら「ふーん」で済ませるのだが、今回は少しだけ気になることがあった。彼の声に僅かに暗い色が含まれているような、そんな感じがしたから。
「まぁ、ちょっと病院に」
「病院?」
 疑問だった。笹原は陸上部に所属していることもあって、病欠どころか風邪気味にすらなったところを見たことがない。病院なんぞ、笹原とは無縁の場所だと思っていた。
「体調でも悪いの?」
 そんなことは知らない光里が心配そうな表情を浮かべる。
「あー違う違う、俺じゃないよ。姉さんが入院してて、そのお見舞いに」
 ドクン、と肋骨の下で心臓が脈打った。それとほぼ同時に、頬のやけどの痕がズキズキと痛み出してきた。
 久しぶりのこの感触に、僕は一瞬戸惑った。
 はは、もう十年も前の話だろ……。
 心の中で冷静に、客観的に、繰り返し唱える。すると、高鳴っていた胸や熱い頬が鳴りを潜めていった。おそらく数秒も経っていないのだろうが、感覚的にはもっと長く感じた。
「へぇー……そうなのか」
 何事もなかったかのように、僕は返事をした。チラッと二人の様子を伺うも、「病院が近くてさ」、「あー、もしかして飛田総合病院?」と談笑を続けており、気づいていないようだった。
「つかさ、それがなんで光里の班と合流することになるんだ?」
 ほっと胸をなでおろしつつ、怪しまれないよう会話に加わる。
「いやだって、俺がお見舞いに行ったら、学校までの帰り道が陽人ひとりになるじゃねーか」
「……別にいいけど」
 さも僕がひとりで帰れないかのように言い切る笹原に、さっきとは別の場所がふつふつと煮えてくる。いったい僕をなんだと思っているのか。
「というか、光里なんかと帰るよりむしろ僕ひとりのほうが――」
「あれぇ? 別に俺は天之原さんと帰ってくれなんて一言も言ってないんだが?」
「……」
 こいつ……。今度はさっきと同じ場所、というよりもっと広い顔全体が熱くなるのを感じた。
「そっかぁ。私と帰るところを考えてくれてたのかぁ」
 にやにやと笑みを浮かべる光里は、のんびりした声でつぶやいた。かと思えば、いきなり「あっ!」と叫んだ。
「っていうより! なんで私と帰るよりひとりで帰るほうがいいの⁉」
 薄ら笑いから一転、彼女は不満げな表情全開で迫ってきた。ふわっと花のような甘い香りが鼻腔をつつく。
「そんなもん、聞かなくたってわかるだろ?」
「じゃあさっきは、どうしてあんなこと言ってくれたの?」
「んなもん、特に理由なんて……――」
 あーだこーだと言い合いをしている傍らで、時報の音楽が十一時半を知らせていた。

「んーっ! おいしいっ!」
 心の底から満足そうな声が空に溶けていく。
「そいつは良かったな」
 不機嫌さを一片も隠すことなくつぶやく。それでも、同じことを思っているのが微かに声色に出てしまっていてどうにも悔しい。
「ったく、陽人もさっさと素直になっちまえばいいのに」
 一足先に食べ終えたその声の主は、まるで他人事のようにごろんと芝生に寝転がった。近くの雑草にとまっていたトンボが、驚いたように空へと飛び立つ。
 僕たちは、「お腹が空いたからあのお店のアイスを食べよう!」という光里の一言と、その伸ばされた指先にある美味しそうな食品サンプルにつられ、小休止をしていた。小休止といっても目的地はもう数分ほど歩いたところにあり、ほぼ到着しているのようなものだ。だが、どうしてもアイスが食べたいと光里が言い出したので、仕方なしに近くの芝生へと腰を下ろしていた。
 ちなみに、さっきまで少し離れたところに光里の班のメンバーが歩いていたが、今はもう影も形もない。いいのかと聞いたが、光里はむしろこれでいいと首を縦に振った。聞くところによると、どうやらその二人は付き合っているらしく、光里が僕たちと合流する話を聞いてメンバーになったそうだ。おそらく、こんな感じになることを想定して。
「青春してんなー」
 誰に言うでもなく、独り言ちる。クラスメイトとグループを作って一緒に出掛けることになったボランティア遠足。その途中にこっそりと二人だけで抜け出し、ゆっくりと歩く。適度な会話と、付かず離れずの距離と、片方の手に感じる確かな温もりを感じながら。
「お? やっぱり陽人もそっちに走ることにしたのか?」
 興味津々とばかりに跳ね起きてくる笹原の額を、押さえつけるように戻した。ぐわっ、というわざとらしい声が、風に乗って後ろへと運ばれていく。
「走らねーよ。というか、やっぱりってなんだよ」
「いやぁ、なんだか走りたそうにしてたから」
「してねーよ」
 明後日の方向を向いた意見を言う笹原に、僕は適当に返事をした。
 確かに、青春を全くしたくないと言えばうそになる。曲がりなりにも思春期の男子高校生であり、そういった気持ちもないわけではない。が、心の底からしたいだろうかと考えると、正直面倒くさいという思いが勝つのは間違いない。
 ……それに、そんなことをしている場合でもないしな。
 正面から吹きつける風に流されるように、空を見上げる。雲が風にあおられ、ゆっくりと青空の上を滑っていく。それは、まるで追いかけっこをしているかのように不均等だが、それでいて一定した動きを保っている。僕の心の中にある得も言われぬ焦燥感とは対照的で、見せつけるかのようにのんびりとしていた。
「あ、青春と言えばさ」
 藪から棒に、笹原がパッと立ち上がった。
「毎年七月の頭に花火祭りあるじゃん? ここの河川敷、結構きれいに見えるらしいぞ」
「えっ! ふぉうなの⁉」
 笹原の言葉に、光里はアイスのプラスチックスプーンをくわえたまま勢いよく振り返った。声がスプーンに阻まれ、上手く言えていない。
「んで? それがどうかしたのか?」
 そんな光里の様子を横目に、僕は笹原に訊いた。
「いや、一緒に行こうぜって話」
 当然だろ? というように、ニカッと彼は笑った。
 もちろん、笹原が何を言わんとしているのかはわかっていた。でも正直気乗りしないし、なにより花火大会や祭りみたいな人がたくさんいるところに行きたくない。かと言って、笹原は理由もなしに断るとなぜかやたらとしつこく、この前も行きたくもないゲーセンやらカラオケやらに連れていかれた。どう断ろうか考えていると、隣でアイスを食べ終わった光里がハンカチで口を拭きながら、もう片方の手を勢いよく挙げた。
「はいっ! 行きたいです!」
「よしっ、天之原さんは参加ね。これで俺と陽人を入れて参加者は今のところ三人だな」
「は?」
 僕は行くなんて一言も言ってないぞ。
 笹原の一方的な出欠確認に、僕は抗議の視線を笹原に送った。すると、僕の意思を知ってか知らずか、彼はグッと親指を立てる。
 こいつ、確信犯か。
 ふぅ、とため息をつき、今度は僕が寝転がった。こうなると彼は止めようがない。僕自身、断る理由も特に思いついていなかったので、この場は無言を貫くことにした。幸いにも、花火祭りまではまだ時間がある。川から吹く涼しげな風音をBGMに、どんな言い訳で断ろうかと僕は考え始めていた。

 心地よい揺れが、僕を包み込んでいた。辺りは真っ暗で、窓の外を通り過ぎる街灯の明かりだけが、時々僕の瞼の上を滑っていく。
 ――あら、寝ちゃったの?
 ――そうみたい。さっきまであんなにはしゃいでたのに。
 ――まぁ、今のうちに寝ておいたほうがいいさ。
 懐かしい声が聞こえる。
 いや、ついさっきまで聞いてたんだっけ?
 そんなことを、僕はぼんやりとした頭で考えていた。
 直後、目の前が急に明るくなった。
 視界を埋め尽くすような白っぽい黄色から、揺れ動く橙色へ。
 轟音とともに全身の感覚がなくなった。かと思うと、唐突に痛覚がうずきだした。
 目が痛い。喉が痛い。胸が痛い。腕が痛い。足が痛い。痛い痛い痛い。
 身体中が、痛い。
 ――待ってて! 必ず、私がっ!
 必死な声の方へ、僕は手を伸ばした。ぼやける視界で微かに見える指先が、触れそうで触れない。
 ――もう少し、もう少しだよっ! 陽人!
 名前が呼ばれた。だから、僕も呼ぶ……いや、叫んだ。
 ――お姉ちゃん……助けて……っ!

「陽人、陽人っ!」
 名前を呼ばれ、ハッと気がついた。
 まず目の前に飛び込んできたのは、黄色でも橙色でもなく、青色。その後に、左胸の下で異常に高鳴っている心音に驚いた。まるで百メートルを何度も全力疾走した後にみたいに、急ピッチで全身に血液を送っている。
 ゆっくり起き上がると視界が反転し、波のように揺れ動く草木と、ゆったりと流れる河川が広がっている。手にはじんわりと汗がにじみ、全身はびっしょりと濡れていた。
「陽人、大丈夫?」
 声のした方を向くと、心配そうな表情を浮かべた光里がこちらを見つめていた。その手には、薄く汚れたハンカチが握られている。
「僕、寝てた?」
 努めて明るく、僕は尋ねた。多分、柄にもないとびっきりの笑顔をしていると思う。
「うん、少しだけ。十分くらい、かな」
 サッと光里は目を逸らした。それだけならまだしも、声があからさまにぎこちない。
 やっぱりダメか。
 普段作りもしない笑顔では、彼女を誤魔化すことはできなかったようだ。このままでは気まずいので、正直に訊くことにした。
「僕、うなされてた?」
「……うん」
 数秒の間を置いて、彼女は首を縦に振った。ハンカチを持つ手が、少しだけ震えている。
「僕、何か言ってた?」
「ううん。何も言ってなかったけど、手を、伸ばしてた」
 ビクッ、と肩が震えた。あの時の出来事が、さっきまでの夢のイメージと合わさって鮮明に蘇ってきた。思わず右手で顔を覆うが、以前のようなめまいや頭痛はない。
 やはり、時間は充分に経っている。大丈夫、大丈夫だ……。
 そう何度も言い聞かせて、橙色の記憶が薄れていくのを待った。
「……そっか。ごめんな。変な、というより怖い夢を見てさ」
 川から吹く風が、汗をまとった身体にじんわりと沁みていく。時間が経ち、心も平静さを取り戻しつつあった。
「大丈夫だから、気にしないで」
「……うん」
 さっきと同じように、彼女は頷いた。気を遣われているのが痛いほど伝わってくる。まだ心臓は少しドクドクいっているが、精神的には落ち着いてきていたので、正直申し訳なかった。何か話題はないかと視線を彷徨わせる。
「えっと……」
 そこでふと、何度目かになる彼女のハンカチに目が留まった。きれいに洗濯し真っ白になっていた布に、茶色の汚れが所々薄く付いている。さらによくよく見ると、じんわりと湿っているようだった。さっき彼女が使っていたときにはそんな汚れはなかったはずだ。
「あの、もしかしてそのハンカチ……」
「あ、うん。額とか、汗がすごかったから」
 予想通り……。僕の汗、しかも寝汗を拭いてくれていたようだった。鳴りを潜めようとしていた申し訳なさが、より大きな波となって押し寄せてくる。
「うっ、ごめん……。それ、洗って返すよ」
 そろりそろりと、汗が染みこんだハンカチに手を伸ばす。指先がハンカチに触れようとしたその時、
「あれ?」
 手に、何か違和感があった。でも、痺れとか痛みとかそんな嫌な感じではない。というよりは、手に何かの感触が残っているみたいだった。そこで、さっき彼女が言ったことを思い出した。
 ――何も言ってなかったけど、手を、伸ばしてた。
 ……まさか。
 思い上がりも甚だしい予想が、頭の中に浮かび上がった。聞きたくない……けど、もしそうなら、これ以上ないくらい恥ずかしい。
「ねぇ、さっき僕が手を伸ばしてたって言ってたけど、もしかして……手、握ってくれてた?」
 僕の言葉に、今度は彼女がビクッと震えた。
「ご、ごめんっ。苦しそうだったから、その、えっと……はい……」
 すごく申し訳なさそうに、光里はこくりと首を縦に振った。
「……そう、ですか」
 なんで君がそんな顔をするんだと思ったが、僕もいっぱいいっぱいで指摘する気になれなかった。丁寧語交じりの言葉に丁寧語だけの返答を返し、沈黙が流れる。
 ……気まずい。心の中に巣食うなんとも言えないモヤモヤを紛らわそうと、僕は再度、必死に話題を探した。別にそのあたりに落ちているわけでもないのに、視線を右に左に、上に下に。するとそこで、いつもうるさい「あいつ」がいないことに気がついた。
「な、なぁ。そういえば、笹原はどこに行ったんだ?」
 気恥ずかしさを覚えつつ、僕は光里のほうを見た。
「あ、えと、もう到着したことにするって、先生に報告しに広場に走っていったよ」
 僕と同じで恥ずかしさを隠すためなのか、光里はあからさまな作り笑いをした。でもそれは妙に板についていて、整っているようにも見えた。変な顔だな、と思ったけど、おかげで恥ずかしさは少しずつなくなっていった。
「そうなのか。さすが陸上部だな」
「うん。そだね」
 芝生の上に並んで座っている僕たちの間を、強めの風が吹き抜けていく。寝ている間にかいた汗のせいか、それはさっきよりも冷たく感じた。
「ねぇ」
 リュックからジャージを取り出していると、今度は光里が僕のほうを見てきた。
「生き返りのことなんだけど」
 唐突に、彼女は例の話題を持ち出してきた。思わず手を止めて、彼女へと顔を向ける。
 ……え?
 光里の顔からは、さっきの作り笑いが消えていた。代わりに、今度は明らかに儚さを含んだ、悲しそうな笑顔が浮かんでいた。
「実は期限があって……その人が亡くなってから十年以内しか生き返らせられないんだ」
 彼女の表情にも驚いたけど、彼女が吐いたフレーズには言葉を失った。
 いきなり、何を言ってるんだ?
 音にならない言葉が、頭の中で反響する。
 十年……って、ちょうどあの事故が起こった頃じゃないか。
 今度は、音にしたくない言葉が、頭の中を駆け巡る。それは、「十年」という単語への反射のようなものだった。
 あれから十年後の今は、僕にとって大きな節目の年だった。
 僕が、姉と同じ年齢になる年だから。
 あの言葉の意味が、わかるかもしれない年だから。
「だから、急いでね?」
 急ぐ? 何を?
 というよりも、なぜ?
 どうして光里が、急ぐ必要があることを知っているんだ?
 帰り道、僕は彼女とほとんど言葉をかわせなかった。

 ドサッ――。
 乱暴に放り投げた通学鞄が、畳の隅まで滑って止まった。
 ド田舎の祖父宅らしい、い草の匂いが鼻につく居間。木目模様が特徴的なタンスや脚の低いちゃぶ台があり、放り投げた鞄の対角線上には黒色の小さな仏壇がある。
 電気は点けずに、ちゃぶ台の横に倒れるように寝転がった。僕が生きてきた以上の時間を取り込み日焼けした天井が、視界いっぱいに広がる。
 ふと物音がして、視線を天井から窓へと移す。
「降ってきたか」
 雨だった。どうやら間一髪だったようで、みるみる雨音が強くなっていく。梅雨時期の雨粒がパラパラと窓を打ち、障子紙が湿気を吸ってふやけている。室内は薄暗く、仕事で祖父のいないこの家は雨音以外、静寂に満ちていた。
「はぁ……」
 試験後の疲れを噛みしめるように息を吐く。
 ボランティア遠足から三週間後、僕たちの高校では新学期初の定期考査があった。五教科を二日に分けて行う試験で、範囲も決められているので普通に勉強さえしていればなんということはない。
 でも、ここ最近溜まった別の疲れが、試験後の疲れと合わさってドッと押し寄せてきていた。
「はぁ……」
 一回じゃ足りなくて、もう一度肺の空気を外に出す。
 原因はおそらく、いや十中八九あのボランティア遠足だ。
 ――その人が亡くなってから十年以内しか生き返らせられないんだ。
 彼女の声が、今もはっきりと耳の奥に残っている。
 ――だから、急いでね?
 あれ以来、僕は光里とほとんど話していなかった。ボランティア遠足の次の日も、彼女はこれまでと同じように話しかけてきたが、僕は全て避けた。なんとなく、彼女と話すのがためらわれたから。
 昼を囲んでいた時間も、ボランティア遠足から一週間後にはなんとなく無くなっていた。多分、光里が来る前に僕が食堂へと逃げていたからだろう。
 笹原からは「お前ら、なんかあったの?」と心配されたが、「これが普通だよ」と特に詳しく話すことはしなかった。光里の能力については笹原に言ってないし、第一、僕から話していいことかもわからない。
「それに、事故のことも言ってないしな」
 天井に向かってポツリとつぶやくと、僕は身を起こした。そのまま四つ足で仏壇の前までいくと、そこに飾られた写真に目をやる。
 写真に写っているのは、三人。
「父さん、母さん、姉ちゃん……ただいま」
 姿勢を整え、そっと目を閉じる。
 父の笑った顔。母の呆れた顔。姉の怒った顔。
 どれもそれが日常にあって、変わることがないと思っていた表情。
 ……そして、揺らめく炎と、姉が泣きながら伸ばす真っ赤な手。
 もう随分時間が経ったのに、あのときの光景が脳裏に焼き付いて離れない。
 離れて、くれない。

 十年前の夏。僕たちは日も昇らぬ早朝に家を出て、遠くのキャンプ場へと向かっていた。
「ちょっと陽人。狭いからもっとそっち行って!」
「え~無理だって。姉ちゃん、もしかして太ったんじゃないの?」
「な、な、なっ⁉ ちょっと陽人! こっちきなさい!」
「うわぁ! ちょっ、タンマ!」
 他愛のない、いつものやり取り。
「ちょっと、ちょっと。車の中でケンカはやめなさいって」
「はっはっは。元気やな~。そんなんじゃ、キャンプのときにもたんぞ?」
 普通だったら日常の色に溶け込んで忘れ去られるような会話も、まだはっきりと脳内に残っていた。
 家を出て、車通りの少ない国道をしばらく走ると、山道へとさしかかった。この山道を越えてすぐのところに高速道路の入り口があり、そこから楽しいキャンプという、非日常的な思い出となる一日が始まるはずだった。
 あのとき、確か僕は姉とのケンカやキャンプへの興奮で疲れ、ウトウトとしていた。まどろみの中で、どこか遠くから母や父、姉の会話が飛び交っていた気がする。
 すぐに眠れなかったのは、街灯の光が時々僕の瞼に当たっては目が覚めていたからだ。
 でも、そのおかげで僕は家族の最期の瞬間を、おぼろげなりとも刻み込むことができた。
 時間は明け方。薄っすらと開けた視界に、白み始めた空と雲が映っていたのを覚えている。
 そのとき、僕たちは山道を登っていた。
「きゃああっ⁉」
 母の叫び声と同時に、目の前が眩しい光で包まれた。まるで、太陽が一瞬で顔を出したような、そんな眩しさだった。
 でもそれは太陽などではなく、対向車のヘッドライトだった。認識してすぐ、車体が大きく左に揺れた。多分、父がハンドルを左に切ったのだと思う。光が膨張し、その車が迫ってきていたのがわかったから。
 直後。束の間の浮遊感を経て、物凄い衝撃が全身を貫き、意識が飛んだ。
 …………それから、どれくらい時間が経ったのか。
 感覚的には、目覚めるまで数秒だった。起きたら見知らぬ天井、といったありきたりな展開ではなく、地獄の真っ只中だった。
 最初に目に飛び込んできたのは、炎。車内の上から下、座席、ドアなどなど、目に映る全てのものが燃えていた。
「お母さん! お父さん!」
 とにかくここから逃げないと。
 七歳くらいだったのに、このときの僕はなぜか冷静だった。
「お姉ちゃんっ! どこっ⁉」
 起き上がろうとしたとき、気がついた。
 上にすごく重い何かが乗っていて、全く動けないことを。
 立ち上がろうと動かした足に激痛が走り、動かせないことを。
 顔の右頬の辺りが異常に熱く、触ろうと伸ばした手の平のように赤く、ただれているであろうことを。
「うあ……ああっ、あああああっ!」
 もうダメだ。僕は、ここで死ぬ。
 なぜ、なんで、どうして…………?
「お母さんっ……」
 あちこちが痛かった。目が、喉が、全身が。
「お父さんっ……」
 でも、そんなことよりも、どうして楽しいはずの今日にこんなことが起こるのか、心底不思議で、悔しくて、悲しかった。
「お姉ちゃんっ……!」
 痛みと息苦しさで意識を保つのも難しくなり、目の前が霞み出したときだった。
「陽人っ!」
 いつもは憎たらしくて、飽きるほど聞いていて、ほとんど毎日罵詈雑言しか飛んでこない声が、このときは救いの声だった。
「お姉ちゃんっ!」
 遠のいていた意識が、少しだけ戻ってきた。なんとか動く頭をもたげると、うごめく炎を背に姉が必死に手を伸ばしていた。
「待ってて! 必ず、私がっ!」
 僕も、痛む身体に鞭を打って必死に手を伸ばした。あちこちが熱く、軋み、痛んだ。再びぼやけていく視界の先で、指先が揺れていた。
「助ける、からっ!」
 そのとき、何かが姉の頭上に降ってきた。
 下敷きになる姉。
 激しく燃える車の破片と、太い枝。
 それでも姉は、血だらけになり炎に包まれながらも這い出し、僕に手を伸ばしてきた。
「もう少し、もう少しだよっ! 陽人!」
「お姉ちゃん……助けて……っ!」
 なぜ、僕はあのとき手を伸ばしてしまったのだろう。
 なんで、僕はあのとき姉に「逃げて」と言えなかったのだろう。
 どうして、僕が、僕だけが、今生きているのだろう。
 答えはわかっている。
 僕は、助かりたかった。
 生きたかった。
 死ぬのが、怖かった。
 伸ばした手が姉の手に届いたとき、僕は意識を完全に失い、「見知らぬ天井」が見えるまで目が覚めなかった。

「はぁ……」
 ごろん、と再び寝転がり、天井を見上げる。
 そこにあるのは、見慣れた天井。変色していて、日焼けの濃いヒノキ。
 見知らぬ天井は、あの事故の後以来見ていない。
「それにしても、実際どうなんだろ……」
 ここ数週間の疑念。それは、あの事故のきっかけとなった対向車に光里が乗っていたのではないか、というものだった。
 あの事故のきっかけとなった対向車は、そのまま事故現場から逃げていた。街灯に取り付けられていたゴミの不法投棄防止用監視カメラに、偶然にもあの事故の一端が映っていたのだ。後から聞いた話だと、対向車は明らかにスピードを出し過ぎており、ハンドル操作を誤ったのではないかということだった。人通りの少ない時間ということもあって目撃者はおらず、監視カメラの画質からはナンバーも特定できなかったため、結局今もだれがあの対向車に乗っていたのかはわかっていない。
 しかし裏を返せば、あの事故は関わった警察の人や病院関係者を除けば、事故の被害者と加害者しか知らないことになる。新聞にも小さく載ったが、所詮は田舎町の自動車事故であり、そこまで大きくは取り上げられなかった。
 つまり、あの事故が今年の来月末でちょうど十年を迎えるということは、かなりの関係者しか知らないはずだった。そこから導き出した結論が、光里があの車の同乗者、少なくとも近親者ではないか、ということだったのだが……
「でも、まさか、な……」
 この三週間、何度も頭に浮かんだ考えを振り払うように、僕は起き上がった。
 たぶん違う、と思った。裏付ける証拠があるわけでもなく、結局のところ想像でしかない。もしかしたら新聞か何かで見たのかもしれないし、僕の顔のやけどの痕から何かしらの理由で事故のことを知ったのかもしれない。小さくとはいえ、一応名前が新聞や地方ニュースに載ったのは事実だ。
 それになにより、光里があの事故に関わっていると、なぜか思いたくなかった。
「決めつけは、よくないよな……」
 もし気になるなら、光里に訊いてみたらいい。その前に、避けてしまっていたこととか謝らないといけないな。
 そう自分に言い聞かせ、ふと時計に目をやった。
「やべっ……そろそろ夕飯作らねーと」
 祖父は仕事で、いつも帰りが二十時くらいになる。部活にも入っていない僕は夕飯当番だ。重い腰をあげて制服のまま台所へと向かい、冷蔵庫の取っ手を掴む。そのとき、目にしたくないものが視界に入ってきた。
「うわっ……文化祭の準備、明日からか」
 冷蔵庫の前面にマグネットで貼られた高校の日程表には、試験日の翌日、つまり明日のところに「文化祭準備開始!」とやたらポップに書かれていた。ボランティア遠足の前、みんなで昼ご飯を食べていたときの、光里の言葉が頭をよぎる。
「いきなり、かー……」
 流し台の奥にある小窓から、雨上がりの月が顔をのぞかせていた。

「今日から文化祭の準備が始まります。この前決めた役割に従って――」
 一限目のHRで、文化祭の概要や日程、以前決めた出し物の内容、準備の役割分担表などの説明が行われていた。
 僕たちの高校は文化祭にやたらと力を入れていて、地元では割と有名だ。役割決めや出し物決めはボランティア遠足前に、本格的な準備は一か月以上前から始まるという気合いの入れようである。そのおかげか、一般開放されている二日間の文化祭は、例年多くの人が訪れていた。
 二年生の出し物は模擬店で、僕たちのクラスはたい焼き。模擬店の人気度では中くらいなのだが、手ごろに食べられ味も毎年いろいろ出るので、特に外部の来校者には人気があった。ちなみに、隣の光里のクラスは二種類のドリンクと二種類のデザートを出す簡易カフェ。人気度は高く、全九クラス中五クラスが志望し、最後は各クラス実行委員による大盛り上がりのじゃんけん大会だった……と、こっそり見に行ったらしい光里が話してたっけ。
「おい、陽人」
 話半分に説明を聞きつつぼんやりしていると、不意に話しかけられた。声のした方を振り返ると、笹原が立っていた。
「あれ、笹原? 説明中だぞ、何してんだ?」
「バッカ、もう終わったよ。当日の役割に分かれて打ち合わせだ」
 笹原が指差す先では、同じ役割を担うクラスメイトたちが集まっていた。
「ああ、そうなのか」
「大丈夫か? 朝もぼーっとしてたけど」
「大丈夫、大丈夫。行こうか」
 なんでもないふうを装って、僕は席を立った。
 実際は、あまり大丈夫ではなかった。僕が当日担当するのは、たい焼きの生地作り。主に家庭室にこもって延々と生地を作る。まぁもちろんそれだけではなく、人手が足りないときは宣伝や焼く側にも回らないといけないのだが、そんなことは今はどうでもいい。
 事前準備の役割が、やばいのだ。理不尽なくじ引きで決まった僕の役割、それは、隣のクラスとの場所決めや協力してのテント、イス、テーブルなどの配置、その他諸々の折衝だった。そしてその相手が……
「おーい! 陽人ー!」
 澄んだ声が、教室内に響いた。入り口に目を向けると、気まずげな表情を浮かべた光里と目が合った。
 くそっ……。
 まとわりつくような視線が、僕と光里に向けられる。その大半は、好奇。元々異色のグループとして見られ、さらにここ最近、急に教室で昼食をとらなくなったことも原因なんだろう。なんにせよ、気持ちのいいものじゃない。
 居心地の悪い空気の中、僕は打ち合わせの輪から外れ、彼女の方へ足早に向かった。
「おい、恥ずかしいからもっと小さな声で呼べよ」
 周囲への苛立ちか、はたまた久しぶりに話しかけたこともあって緊張していたのか、口調がやたら強くなってしまった。やってしまった、と思う間もなく、光里はシュンとした表情で、
「ごめんね……」
 と謝ってきた。
 いや、今のはこっちが悪い。ごめん。
 と言うこともできず、僕はただ
「べつに……」
 としか返せなかった。
 そのまま数秒、感覚的にはもっと長い沈黙が流れた。
 謝らないと……だよな。
 これから文化祭に向けていろいろと打ち合わせをすることも多いのに、最初からギクシャクしていてはお先真っ暗だ。僕は数瞬の逡巡の後、どうにか彼女の方へ目を向けたが、
「……じゃあ、行こっか」
 僕の謝罪で破るべき沈黙を、光里が解いた。そしてそのまま、どちらともなく歩き出す。
 ……どうしたら。
 自分の不甲斐なさと、これまでのことも含めてどうにか謝りたいとの思いに、僕の心中は穏やかではなかった。

 梅雨もそろそろあけようかという夏晴れの中、僕は先生からテントやテーブル、イスなどの配置について説明を受けていた。僕以外にも数人、各クラスの折衝担当が配布されたプリントを片手に集まっている。さすがに教室でのHRみたいに聞き流すと後から責任を問われそうなのでそこそこしっかりと聞いているが、心の中はため息の嵐だった。
 集合場所である生徒玄関前に着くまでに謝れず、必要なテントやイスなどの数の確認のときには事務的なやり取りしかできず、所用で遅れた先生が来るまでの二十分の間ではまともな会話すらできなかった。やけどの痕から元々人を避けていることもあるが、こんなにも自分はコミュニケーションが苦手だったのかと落ち込みたくなってくる。
「――と、以上が配置についての説明です。何か質問のある人はいますか?」
 そうこうしているうちに先生の説明が終わった。後半は半分くらいしか聞いていなかったがそんなことは言えず、質問する人もいなかったのでそのまま解散となった。
 今度こそ謝らないと、と目で光里のことを探すが、既に別のクラスの友達らしき人と学校の中に入っていくところだった。
 まぁ、また今度でいいか。
 逃げ腰の自分にそう言い聞かせようとしたとき、
 ピロリン。
 制服のズボンの後ろポケットから機械質な音が鳴った。いつもは先生に見つからないようマナーモードにしていたので最初は自分のものだとはわからず、校内に戻ろうとしていた他の生徒の視線で僕のだと気づいた。
「あぶな」
 思わず独り言が漏れる。先生に見つかっていたら没収されるところだった。とりあえずマナーモードにしてから周囲に先生がいないのを確認し、通知が来ているメッセージアプリを起動する。
「え?」
 笹原からだった。あいつも今ごろは別の仕事をしているはずだがなにしてんだ。
 ≫よう、ダメだったみたいだな
 まるで見ていたような言い方だった。咄嗟に教室の方の窓を見上げたが、覗いているような人影はない。
 ≫余計なお世話だよ
 そう返事を返すと、すぐに既読がついた。ほんとになにやってんだ、あいつ。
 ≫ここでひとつ、提案があるんだが
 この次の返信を見てすぐ、画面の奥で彼がニヤッと笑っているのが容易に想像できた。
 ≫来週の花火祭り、誘ってみたらどうだ?
 焦る僕の頭上で、のんびりと授業終了のチャイムが鳴り響いていた。

 一限目の後、僕は教室に戻り、文化祭実行委員に先生から受けた説明や今後のスケジュールを諸々伝えると、すぐに笹原のところへ直行した。
「おい、さっきのはどういうことだ?」
「いや、どうも何もそのままの意味なんだが?」
 ダンボールで作った模擬店の看板を片付けつつ、笹原は得意げに笑った。おちょくっている感じはないので、面白半分本気半分といったところか。
「普通に話せてもいないのに、いきなり花火なんか誘っても来るわけないだろ」
 これまで避けられ続けた相手から、いきなり花火に誘われたらなんと思うだろうか。明らかに不自然だし、気まずくなるのは目に見えている。僕なら、ほぼ確実に何かしらの理由をつけて断るだろう。しかし笹原はなにやら自信があるらしく、チッチッチと立てた人差し指を左右に振った。
「そうでもないぞ。この前のボランティア遠足でのこと、思い出してみろよ」
「はぁ?」
 あのボランティア遠足がきっかけでこうなっているんだが。
「ほら、アイス食べながら話したじゃんか」
 アイス、という言葉でやっと僕にも見当がついてきた。
「ああ、あれか。笹原が強引に決めたやつか」
「おい。三週間先を見通した妙策と言ってくれ」
 わけのわからないことを言う笹原を放置し、僕は土手でのやり取りを思い返した。
 確かにあのとき、光里はかなり行きたそうにしていた。彼女の性格を考えても、こういったイベントは好きなのだろう。それに笹原から改めて誘われたとでも言えば、光里は彼とは特にしがらみもないので大丈夫かもしれない。
 そんなことを考えていると、プラスチックのスプーンを口にくわえながら返事をし、小学生のように勢いよく手を挙げる光里を思い出し、思わず笑みがこぼれそうになった。
「おい、なにニヤニヤしてんだよ。気持ち悪い」
「う、うるせー!」
 顔に出ていたのか。
 込み上げる羞恥心を無理矢理抑えつつ、放課後にでも誘ってみようかなと僕は思った。

 ……そして時間は過ぎ去り、放課後。冷静になって考えてみると、やっぱり無理なんじゃないかという気がしていた。
「ふぅー……」
 光里のクラスの前でひとつ深呼吸をする。一瞬の気の迷いとは言え、ここまで来たらもう引き返せない。他クラスの女子を呼ぶ気恥ずかしさと、これまで溜めに溜めた気まずさが絶妙な混ざり具合で押し寄せていた。
「あのー、ひか……じゃなくて、天之原さん、はいますか?」
 おっかなびっくり教室のドアの近くにいた男子に話しかける。一限目のときに普通に呼んだ光里はすげぇなと、心から感心した。
「んー、ちょっと待っ……ひっ⁉」
 目が合うと、相手の顔が引きつった。そこで僕は、自分の異常な様相のことを思い出した。
「ごめん。びっくり――」
「あ、天之原なら、今はいないみたい! じゃ、じゃあ、俺は用事があるから」
 こわばった笑みを浮かべ、その男子は逃げるように教室を出ていった。
 失敗したな、と思った。今までの僕なら、こんなふうにいきなり話しかけることはしなかった。遠目から教室内を眺め、中にいないことを自分で確認して去っていただろう。そもそも、隣のクラスに行こうとすら思っていないかもしれない。
 もちろん、顔にあるやけどの痕を忘れていたわけではなかった。毎朝鏡で見ているし、街中を歩いていたり電車に乗っていたりすると必ずじろじろ見られるので、忘れたくても忘れられるわけがない。
 でも、以前に比べて最近は気にすることが減っていたのも事実だった。朝起きてから登校するまでにうんざりしても、毎朝光里が意味のわからないテンションで絡んできて、それを笹原がいじってきているうちにどこかに吹っ飛んでいた。教室で変な目で見られても、その日の昼休みに二人とご飯を食べ、くだらない話をしているうちにどうでもよくなっていた。
 そして。二人から絡まれることそのものも、満更でもないと思っている自分が、心のどこかにいた。そんなことに、最近薄々と気がついていた。
「まぁ、仕方ないよな」
 以前なら声に出さない感想を、そっとつぶやく。なぜか、そうしたくなった。
 さっきの男子とのやり取りを、クラスの何人かがなにやらひそひそ話しながら見つめていたが無視し、とりあえず校内を探そうと僕は光里のクラスに背を向けた。
「あ、あの……」
 そのとき、思いがけず後ろから声をかけられた。びっくりして振り返ると、ボランティア遠足で光里と同じグループだった女子が、物言いたげな面持ちで立っていた。
「え、なに?」
 驚きとさっきのやり取りでの苛立ちで、冷たい声色になってしまった。逃げられるかなと思ったが、彼女は逃げずに僕の目をジッと見ていた。
「えっと、光里ちゃんの友達……だよね?」
 おずおずと言った感じで、彼女は尋ねてきた。
「……そうだけど」
 友達、というワードに、実際はどうなんだろうと内心思ったが、代わりの言葉も見つからないので頷いておいた。
「えっと、光里ちゃんならさっき屋上に上がっていったよ」
「屋上?」
「うん。多分、文化祭の準備かなにかじゃないかな」
 僕の異様な顔にもう慣れたのか、話し方は普通の感じだった。
「怖がらないんだね」
 不思議に思って、僕はまた普段なら訊かないようなことを訊いてしまっていた。言葉を全て発してから、またやってしまったと後悔しかけたが、その前に彼女はふふっと小さく笑った。
「だって、光里ちゃんから聞いてたから」
「え?」
「ちょうど今朝光里ちゃんと話しててね、顔だけは怖いけど本当は寂しがり屋の優しい人、って言ってたんだ」
 そう言うと、彼女はまた短く笑った。そして、「今言ったことは秘密にしといてね」とだけ言い残し、お辞儀をして教室に戻っていった。
「……なんだよ、それ」
 不覚にも数秒立ち尽くし、僕は急いで光里のクラスを後にした。

 放課後の喧騒が響く廊下を駆け抜け、僕は屋上へと続く階段を足早に昇っていた。
 まさか光里が友達に僕のことを話しているとは思ってもみなかったし、ましてやあんなふうに僕のことを言っているなんて予想だにしていなかった。実際に僕が寂しがり屋で優しい人なのかはわきに置いておくとして、そんな評価をしてくれていることは結構悔しくて、若干文句を言いたくて、少しだけ嬉しかった。
 だから、僕の勝手な想像でこんな状態になっていることがすごく申し訳なかった。
 早く謝りたい。会って謝って……さっきの評価に異議を申し立てたい。
 そんなことを考えながら、僕は屋上へと続くドアの前に辿り着き、ドアノブに手をかけ、回した。閉まっていたドアが少しずつ開いていき、暗い階段室に黄色い太陽の光が溢れていく。
「天之原。俺は……天之原が好きだ!」
 ドアにかけていた力を、反射的に緩めた。階段室でどんどん太くなっていた光の線の膨張が止まる。
「えっと……なんで私?」
 その声は、屋上から聞こえていた。声の大きさからして、多分ドアを開けてすぐのところ。
 僅か数メートルの距離のところで、光里が告白されていた。
「一緒にいて、楽しいから。いつも話しているときすごく楽しいし、安心する」
 その声は聞いたことがなかったけど真っ直ぐで、すごく爽やかだった。
「……そっか、ありがとう。その気持ち、すごく嬉し――」
 パタン、と音がしないようにそっとドアを閉めた。くっきりできあがっていた太陽光の輪郭が、一瞬でなくなる。それと同時に、聞こえていた二人の声はどこかくぐもった感じになり、内容も聞き取れなくなった。
 そのまま僕は屋上に上がらず階段を降り、教室で荷物をまとめると生徒玄関に向かった。
「文化祭の準備じゃなくて、告白の呼び出しだったのかよ……」
 気持ちがまた口から漏れた。別に好きだとかそういう感情は抱いてなかったのでショックということはなかったが、なぜか心のどこかがモヤモヤとしていた。
 さっき告白していた男子はだれなんだろう。声は聞いたことがなかったから、僕のクラスではない。いつも話しているとか言ってたから、光里と同じクラスの男子だろうか。
 光里の声も、今まで聞いたことのない高さというか、トーンだったな。あれが嬉しいときにみせる彼女の声なのだろうか。
「おっ、陽人! 珍しく遅いな、今帰るとこ?」
 そんなことを考えていると、よく知った声が廊下に響いた。振り返ると、学生鞄と運動バッグを担いだジャージ姿の笹原が、大仰に手を振っている。
「そういう笹原は早いな。部活、もう終わったのか?」
「いや、今日は早上がりさせてもらっただけ。病院行きたいから」
「ふうん」
 おそらく、この前言っていたお姉さんのお見舞いだろう。あれから何度か話に出てきていたし、特段それ以上訊くことはせずに僕は返事だけをした。
「……天之原さんのことでなんかあった?」
「え?」
 予想外の切り返しに、思わず間抜けな声が出た。「あったんだ」と、弁解する暇もなく彼は僕の顔を見据える。
 これは、言い逃れできそうもないな。
 このことを誰かに言うのは気が引けたが、なぜか聞いてもらいたい気持ちもあったので、事の顛末を言おうと僕は口を開いた。
「あっ、わかった! 花火誘えなかったんだろ?」
 一文字目を発する前に、彼が自身の推測を得意げに披露した。
「……」
「え? 違う? んー……ならあれだ! 誘ったけど断られた! ……え、そんなことある?」
 今度は一人で指摘して、一人で落ち込んでいる。その様子は、なんだかおかしくて。
 まぁ、いいか。さっきまであれこれ考えていた自分が、急になんだかばかばかしく思えてきた。開いていた口を一度閉じ、僕は小さく笑み浮かべる。
「いや、そもそも光里を見つけられなかったんだよ。また今度誘うことにするわ」
「そんなバカな。いやでも……え? あ、なんだ、そういうことか」
 ぶつぶつ言っていた彼は僕の言葉に納得したようで、ほっと胸をなでおろした。
 うん。また今度、誘えばいい。
 僕は心の中で、そう自分に言い聞かせた。

 結論から言えば、僕は光里に謝ることも、花火祭りに誘うこともできなかった。彼女の顔を見るたびに、この前偶然聞いてしまった告白やら、未だにくすぶり続ける疑念やらがちらついて、今まで以上にまともに接することができなかった。そんな僕を見かねてか、笹原が花火祭り前日に光里を誘ってくれていた。
「何があったか知らねーけど、自然消滅したら元も子もねーぞ」
 なぜか彼は、ケンカしたカップルに対するアドバイスのような文言を僕に言った。そして祭り前日の別れ際、
「もう一人だけ連れて行きたい人がいるから、それだけよろしく!」
 と一方的に要求を述べると、僕が何か言う間もなく自転車で走り去っていった。
「なんなんだよ、あいつ」
 彼のしつこいお節介や意味深な要求への疑問は一日寝ても消えず、結局花火祭り当日の今に至るまで残っていた。
 もやもやとした思考のまま、僕は待ち合わせ場所である公園へと向かっていた。その公園から花火祭りの会場までは徒歩十分くらいで、この時期は集合場所として使っている人が多い。今歩いているこの道も人通りがいつもより多く、見つけるのに苦労しそうだなぁなどと思いながら、僕は公園に向かうルート上での最後の角を曲がった。
「おーい! こっちこっち!」
 公園前は予想通りかなり混んでいたが、意外にも笹原の姿はすぐに見つかった。五十メートルくらい先の街灯の下で、大きく手を振っている。
「早いな」
 集合時間まで、まだ十分以上ある。笹原の姿が見えたときには遅れたのかと思ったが、時計を見ると全然余裕だったので、この五十メートルはたっぷり二分ほどかけて歩いた。
「おせーよ。十五分前集合が基本だろ」
 僕が街頭下まで来ると、彼はゴリゴリの運動部のようなことを言った。
「僕は帰宅部なんでね」
 陸上部はいつも十五分前集合をしているのだろうか。だとしたら、集合時間の意義とは……。
「まぁいいや。これで、全員揃ったかな」
「え? もうひとり連れてくるって言ってた人と……その、光里は?」
 辺りを見渡すが、家族連れやどこかの町内の集まりと思しき集団、あとは僕たちと同じように友達と待ち合わせをしていそうな人ばかりで、それらしき人も光里もいない。
 もしかして都合が悪くなったとか、光里に関してはやっぱり僕に会いたくないとか、そういうことだろうか。
 そんな思考が渦巻きかけたとき、
「だ、だーれだ?」
 急に真っ暗になった視界に、目を覆いかぶせる温かな感触。そして、聞き慣れつつも最近あまり聞いていなかった声。
「……ひ、光里」
「あ、あたり~……」
 気弱げな、というか気まずそうな声で光里はそう言うと、そっと手を僕の目の前から外した。視界が戻り、めちゃくちゃにやにやしている笹原の顔が見えた。
「笹原、お前な……」
「え? あ、違う違う! 俺じゃない!」
 何やらせてんだと詰め寄る前に、彼は取り繕ってきた。かと思うと、「後ろ後ろ!」としきりに僕の後方を指差している。こんなこと考えるのは笹原しかいないだろと思いつつ、僕は振り返った。
「いや~、面白いものが見れたわ~。初々しい光里ちゃん、可愛いな~」
 そこには、顔を赤らめてモジモジする私服姿の光里と、のんびりとした口調でそう話す車椅子に座った女性がこちらを見ていた。
「え?」
 笹原に向いていた苛立ちが霧散していく。代わりに、「この人だれ?」という最もな疑問が頭の中に浮かんだ。
 目の前の女性は、明らかに年上だった。多分、最低でも五、六歳は離れている。茶色っぽいセミロングの髪に、白のブラウスと水色のロングスカートという落ち着いた服装。車椅子に座っているので身長はわからないが、比較的小柄なようだ。
 でもそんなことより、さっきまで見ていた笹原のにやけ顔とそっくりな笑みを浮かべていることのほうが、僕にとってははるかに重要だった。
「あの、もしかして……」
「ん? あ~、そういえば自己紹介がまだだったね~」
 にやにやした表情を戻すためか、コホン、と彼女はひとつ咳払いをした。
「いつも弟がお世話になってます〜。幹也の姉の美咲でーす。気軽に、美咲さんでも美咲ちゃんでもミッキーでもいいので呼んでくださーい」
 おっとりとした口調のまま、その女性は頭を下げた。呆然としていた僕だったが、顔をあげた彼女と目が合い、慌ててお辞儀をした。
「こ、こちらこそ。橘陽人と言います。よろしくお願いします」
「お! 礼儀正しいじゃーん。幹也とは大違いだ」
「うっせーよ! 俺だって初対面の人に挨拶くらいしてるわ!」
「ほんとかな~」
 顔をあげるまでの数秒間に、なにやら姉弟の言い合いが始まった。通りかかる人がチラチラとこちらを見てくるが、二人はお構いなしといったふう。その様子は、なぜか昔の自分と姉を見ているみたいで、少しだけ羨ましかった。
「あ、あのー……」
 といっても、このまま見ているわけにもいかないので、おずおずと声をかける。すると、二人はタイミング良く同時にハッとした。
「やっべ、またムキになってた」
「いや~ごめんごめん」
 兄妹仲良く取り直すと、ふと美咲さんは僕の目をジッと見つめてきた。
 …………たっぷり、三秒くらい。
「えっと、なにか……?」
 わけも分からず、僕は訊いた。
「ううん、ごめんね。橘陽人くん……か。うん、よろしくね~」
 視線を外すと、美咲さんはにっこりと笑った。
「さっ、張り切ってお祭りを楽しもう~!」
 ほらほら、と美咲さんは笹原に車椅子の後ろを押すようにせがんだ。笹原はぶつぶつ言いながらもタイヤ周りを確認し、車椅子を押し出す。
 そんなこんなで、僕たちの花火祭りは始まった。

 公園からしばらく歩いたところにあるお祭り会場は、予想通り混んでいた。小さな空き地の周囲に、たこ焼きや射的、金魚すくいなど定番な出店が囲うようにして並んでいる。その中央には小さな櫓があり、初老ほどのおじさんが勇ましく太鼓を叩いていた。
「お~。今年もいろんな屋台があるね〜!」
 のんびりとした口調とは対照的に、忙しなくあちこちへと目移りしている美咲さん。その右手には、早くも入り口付近の屋台で買った綿飴が握られている。
「姉さん。頼むから普通に座っててくれ。弟の俺が恥ずかしい」
 そんな美咲さんの後ろでは、恥ずかしそうに顔を赤らめながら笹原が車椅子を押していた。
「いーじゃない。こういうお祭りは楽しんだもん勝ちなの。ねっ? 光里ちゃん?」
「はい! それはもう間違いなく!」
 美咲さんの問いかけに、前を歩いていた光里が勢いよく振り向いた。その拍子に、彼女の目の前でも小さく綿飴が揺れる。
「お! さっすがー! よしっ、光里ちゃん、車椅子押してよ〜。一緒にあそこの輪投げやろう〜!」
「ふぁいっ!」
 残りの綿飴を口に含み、もごもごと返事をした光里は笹原と交代し、そのまま美咲さんと輪投げの屋台に行ってしまった。あとには、野郎二人がポツンと取り残された。
「お前の姉さん、すごい人だな」
 思わず、そんな言葉が口から漏れた。
「だろ? 台風のような姉だよ。さすがの俺も全く敵わない」
 やれやれと笹原は肩をすくめる。でもそれは同時に、どこか嬉しそうでもあった。
「どした?」
「ん? 何が?」
「いや、敵わないとか言っておきながら、なんか嬉しそうだし」
 つい、訊いてしまっていた。
 なぜだろう。今までの僕なら絶対踏み込んだりしないのに。
「珍しいな。陽人がそんなこと訊くなんて」
 案の定、彼は不思議そうな顔をした。まぁ、そうだよな。僕でさえ不思議に思ってるんだし。
「いや、ただの気まぐれ。忘れてくれ」
「ふーん? まぁ別に大したことじゃねーよ。姉さんが、いつも通りで良かったなぁって」
 忘れてくれと言ったのに、彼はスルーしてその理由を話し始めた。
「姉さんさ、実は病気なんだ。神経難病っつーの? 原因わかんないけど、神経が仕事してくれなくて、それで上手く歩けないみたいでさ」
 彼は、少し離れた所で楽しそうに輪投げに興じる美咲さんたちへと目を向けた。その視線は、どこか儚げな雰囲気をはらんでいるように見えた。
「病気になった当初は、かなり塞ぎ込んでた。俺がお見舞いに行っても目も合わせてくれなくて、さっきみたいな言い合いもなくて。ほんと、どうしていいかわからなかった」
 視線の先の美咲さんは、そんな過去を感じさせない笑顔で輪っかを放っている。かと思えば、両手を上げて光里とハイタッチをした。どうやら、狙い通りのところに入ったみたいだ。
「……でもさ。次第に元気になってきて、また前みたいに少しずつ話せるようになった。全く元通りってわけにはいかねーけど、また笑うようになってくれた」
 僕たちの視線に気づいたらしく、美咲さんは輪投げの景品であるブレスレットを僕たちに向けてひらひらと振った。その破顔した表情は人懐っこくて、笹原にそっくりだった。
「だからさ、こうやっていつも通り、前みたいに笑ってお祭りに行けるのが、幸せだなぁって思っただけ。……陽人もさ、あんまり意地ばっか張るんじゃねーぞ」
 そこで、笹原もくしゃりと笑った。でもそれは、美咲さんの笑顔とはどこか違っているように見えた。
「笹原、お前……」
「あー! なになに〜? 野郎二人してどんな恋バナしてたの〜?」
 いつの間にか近くに来ていた美咲さんは、からかうように笹原をこつく。「んな話、こんなとこでしてるわけねーだろ!」と彼は叫び返していた。
 どこか違和感を覚えた、取り繕ったような笑顔はもうそこにはなく。
 幾重にも吊るされた提灯の淡い光が、仲良く戯れ合う姉弟の日常を優しく照らしていた。

 それから僕たちは、輪投げに、焼きそばに、たこ焼きに、金魚すくいに……と時間の許す限り屋台を楽しんだ。笹原への違和感は気になったが、とりあえず今は光里との関係をどうにかするのが先だ。文化祭の折衝を上手くこなすためにも。
 しかし、そんなすぐに解決できるのならこんなに四苦八苦していない。
 結局、屋台を回っている間はろくに光里と話せず、美咲さんに振り回され、人混みに押しつぶされ、気がつけば花火まであと少し、という時間になっていた。
「あー! 楽しかった〜!」
 ボラ遠でも行った河原までの道すがら、笹原の押す車椅子の上で、美咲さんは満足気に伸びをした。
「だから危ないって姉さん。移動中くらいは頼むから大人しくしててくれ」
「え~。どうしよっかな~」
「どうしよっかな~じゃねーよ! マジでやめろって」
 本日……もう何度目になるか数えるのも嫌になるくらい見ている姉弟の言い合いに、僕はほとんど無意識に肩をすくめる。ほんと、仲良いよなこの二人。
「ふふっ。仲良いよね、笹原くんと美咲さん」
 その時、ちょうど思っていた感想が、すぐ隣から聞こえた。
「……ああ、そうだな」
 ちょっとだけ迷って、僕は返事をする。あまり大きくない道幅。肩が微かに触れ合うような位置に、光里がいた。
「いいな~。私にも姉弟がいたらな~」
 姉弟、という言葉に一瞬ドキリとした。自分で思うのと、光里に言われるのとではやはり違う。でも、彼女の言い様は感じたまま、思った通りというふうだった。僕のことを知っているような、探るような、そんな雰囲気はない。
 ちらりと、彼女の方に目を向ける。
 僕たちの歩いている十裏川沿いの道には、それほど街灯はない。数メートルおきにぽつぽつとある程度で、あとは月明かりのみだ。そんな薄暗がりの中で、彼女は柔らかな微笑みを浮かべて、少し前を歩く笹原たちを見ている。
「……あのさ」
 彼女の横顔に向けて口を開く。今なら、言える気がした。
「ん? なに?」
 透き通った黒い瞳が、僕を見つめた。月の光に照らされて、とても綺麗に輝いていた。
「……あ、えっと……――」
 つい見惚れて言い淀んだ、その時。
 ――ドオォォンッ!
 夜空の彼方から聞こえた爆音とともに、彼女の瞳の中で光の花が弾けた。
 ドオオォォン、ドオォォォンッ!
 続けて、二発。今度は音のした方へ、視線を向けた。
「うわぁ……! きれい……っ!」
 星空に輝く、色彩鮮やかな大輪の花たち。緑に、黄色に、赤に、青。
 牡丹のように開くものもあれば、しだれ桜のように落ちていくものもある。
 そしてそれらは、光里の感動した声の通り、すごく綺麗だった。
 僕たちは会話を止めたまま、ひたすら花火に見入っていた。
 とても綺麗で……。
 幼い頃に見た花火と似ていて、なんだかすごく、懐かしくて……――。
「――陽人、ごめんね」
 破裂音だけが響いていた中、不意に光里がつぶやくように言った。
「え?」
 驚いて、彼女の方を見る。
「この前の、ボラ遠のこと。私、陽人の気持ちも考えずに、変なこと言っちゃったから……」
「それって……」
「……私が最初に生き返らせた一ノ瀬さん、結構ギリギリだったんだ。その時、十年経つと生き返らせるの無理なんだってわかって……陽人の大切な人は、そんなことないようにしないとって思っちゃって、さ……」
 彼女は、話している間も花火を見続けていた。その瞳には、さっきよりも歪な形の花火が浮かんでおり、今にも零れそうだった。
「大切な判断なのに、急かせるようこと言ってごめんなさい。……こんなんじゃ、信用してもらうなんて、夢のまた夢だよね……」
 今度は僕の方に顔を向けて、自嘲気味に小さく笑った。でも、それは堪えきれずに、頬を伝って落ちていった。
 ああ、違った……と思った。
 僕はまだ、心のどこかで、光里のことを疑っていた。
 でも、違った。
 彼女が、あの対向車に乗っていたはずがない。
 僕の家族を崖下に突き落として、逃げて、何事もなかったかのように過ごしているような人たちなんかじゃ、ない。
「いや……! 僕の方こそ、ごめんっ!」
 自覚すると、どっと罪悪感が押し寄せてきた。
「なんか変な勘違いしてて、それでちょっと、距離置いてしまって……」
 一方的な思い込みで、光里を傷つけていた。その事実は、想像以上に重く、僕の心にのしかかってきた。
「だから、光里はその……全然悪くなくて、全部僕のせいだから……その、ごめん!」
 花火がフィナーレに向けて鳴り響いている最中、その音にかき消されないよう精一杯叫び、頭を下げた。
 光里は確かに、不思議な力を持っている。
 ただ、それでも。
 今ではもう――大切な友達だった。
 昼休みに笑う彼女の笑顔は、年相応の女の子で。
 美味しそうにアイスを頬張る彼女の横顔は、とても幸せそうで。
 あの時河原で心配してくれた彼女の優しさは、本物だった。
 また一緒にお昼を食べたい。
 光里と、笹原と、また笑いながら他愛のない話をしたい。
 どこかむずがゆくて、照れくさくて、憧れていた日々を、もう一度送りたい。
 もっと早くに、気づいておくべきだったのに。
 日常の大切さは、誰よりも知っていたはずなのに。
 どこかで僕はひねくれて、それを認めたくなくて、自分から拒んでいた。
 光里や笹原との日々は、そのことに気づかせてくれた。
 そんな大切な、何気ない日常をまた送りたいと、心からそう思った。
 だから……。だから………――。
「えと……陽人、その……顔を上げて?」
 どれくらい、そうしていたのだろうか。
 戸惑った声が頭上から聞こえ、僕は顔を持ち上げた。
 なんだろう。ずっと突き放すような態度とってたし、やっぱり……。
「その、そこまで全力で謝られると、どう対応していいか困っちゃう……よ?」
「……へ?」
 間抜けな声が、口から漏れた。
「アハハハッ、陽人! 天之原さんが困ってるぞー?」
 気がつくと、花火の音はすっかり止んでいた。いつの間にか笹原たちは近くに来ており、僕たちと同じように花火を見に来ていた人たちからは変な視線を向けられている。
「え……っと?」
「その……、陽人の気持ちはわかったよ。それに、私もやっぱり悪いと思うから、おあいこ」
 笹原たちが近くにいるからか、それだけ言って光里は短く笑った。
 その顔には、もう涙の跡はなくて。
 ひたすらに眩しい、笑顔だけがあった。
「そっか。その、ありがと」
 それにつられて、僕も久しぶりに笑顔を向ける。
「あー良かった! これでまたいつも通り昼飯食べられるな!」
 がしりと、運動部らしいたくましい腕が僕の肩に乗せられる。
「むぅ〜、『だーれだ?』作戦だけじゃダメだったか〜」
 その後ろでは、心底悔しそうな美咲さんのつぶやきも。
 いつもなら鬱陶しく感じられるそのどれもが、今は本当に心地良く、心の中に沁みていった。
 花火祭りが終わり、翌週の月曜日の放課後。
 天気は快晴、気温も快適の良き一日に、僕の心は憂鬱な気持ちでいっぱいだった。重い首をどうにかもたげ、目の前の建物を見上げる。
 日の光を受けて真っ白に輝く外壁。青空が映り込んだ、やけに小綺麗な窓たち。僕の記憶が正しければ、確か五階建て。
 そのそびえ立つような居様は、僕の心を沈ませるのに十分だった。
「はぁー……」
 ダメだ。帰りたい。沈み込んだ心のせいか、なんだか胃まで痛くなってきた時だった。
「あれ? 陽人?」
 ふわりと涼しい風に乗って、緩やかな声が聞こえた。
「え? 光里?」
「奇遇だねー! こんなところで会うなんて!」
 陽人もお見舞い? と、爽やかな笑顔が僕に向けられる。その笑顔を見ているとこっちまで笑いかけたくなってくるが、ぐっと堪える。……単なる意地で。
「まぁ、そんなところ」
 努めて素っ気なく言うと、僕は改めて視線を上へと向けた。目立つように浮き出た六文字を、無意識に頭の中で読み上げる。
 飛田総合病院。
 ここら辺で一番大きな医療機関で、僕が最も苦手とする場所。
 原因はもちろん、あの事故だ。姉と一緒に運び込まれ、同じように手当てを受け、同じように入院していた。
 そして、僕は生き残り、姉は死んだ。
 姉の最期を見届けた場所。あれから時間は随分と経っているので、心の準備をしていけば別になんということはない。
 でも、やっぱり僕はここが苦手だ。
「もう、相変わらず無愛想だなぁ。もっと愛想良くしないと、モテないよ?」
 そんな僕の心境など知る由もなく、光里はニヤニヤと笑いながらからかってきた。
「いや、モテたいとか思ってないから」
「ほら! それだよー!」
「それとは?」
「その素っ気なさ!」
 ピシャリと言い放つ光里に、僕は苦笑した。こういう時の光里は相変わらずだ。弾けるほど元気いっぱいで、素直で、真っ直ぐ。本当に、僕とは対照的だ。
 そんなことを考えながら話半分に聞いていると、やがて光里は諦めたように首を横に振った。
「もうー。まぁ、いいや。それじゃあ、私は美咲さんに用があるから、またね!」
「え?」
 右から左へと聞き流していた言葉が、途端に耳の奥で動きを止めた。
「え? なに?」
「いや僕も、美咲さんに用があるんだけど」
 そう。僕が好き好んで行くはずもないこんな所にわざわざ足を運んでいるのは、美咲さんから怒涛のようにメッセージが送られてきたからだった。
 花火祭りの後、その時に撮った写真や動画を共有しようと、笹原はグループチャットを立てていた。そこには僕と光里の他に美咲さんも入っていたので、確かに個人チャットもできるようになったが、まさか翌週に三十通も送ってくるとは思ってもみなかった。
「もしかして、陽人のところにもメッセージの嵐が……?」
 僕の表情で察したのか、今度は光里が苦笑いを浮かべた。
「まぁ、な。三十通くらい。光里は?」
 ぎこちない笑みを浮かべる様子から、おそらく光里のところにも同じくらい来ているんだろう、くらいに思って何気なく訊いてみたのだが、
「は、八十二……」
 想像以上の数だった。
「いや、多すぎだろ」
「ま、まぁ……最初の方はこの前の花火祭りの写真とかもあったし? 一文一文は短いチャットだし。ふ、普通……なんじゃ、ナイカナ?」
「いや喋り方」
 明らかに棒読みというか変な口調になっている光里にツッコミを入れる。
「シャベリカタ?」
「それだよ」
 さらにツッコミを入れつつ、ふぅ、とため息をつく。
 これは、また面倒なことになりそうだな。
 花火祭りであれこれと笹原が振り回されていたのを思い出しながら、僕の心の中にはささやかな不安が渦巻き始めていた。

「やっほ〜! 元気してた〜?」
 だだっ広いエントランスを抜け、真新しいエレベーターで五階まで上がり、つきあたりにある病室の扉を開けると、病院に似つかわしくない明るい声が漏れてきた。
「美咲さん……」
 入ってすぐ、僕は目を疑った。真っ白な床と壁。白いシーツとカーテンに、薄い水色の病衣。汚れの一切を排除した清潔な病室の中で……美咲さんはパリパリとポテチを頬張っていた。
「み、美咲さん! こぼれてますよー!」
 後から入ってきた光里が、美咲さんを見るや否や急いで駆け寄った。何をそんな慌てて、と思う間もなく、その理由が判明した。
 ポテチの欠片が、女性特有の柔らかそうな膨らみの上に乗っていた。さらに美咲さんは病衣を少し着崩しており、目のやり場に困ることこの上ない。
「いや〜、ごめんね〜光里ちゃん。ついこの漫画に夢中でさ〜」
 思わずフイッと目を逸らしたが、視界の端では美咲さんが悪戯っぽく笑っていた。絶対確信犯だな、この人。
「理由になってません! さすがにこの格好でそれはダメです!」
 そんなだらしない彼女を、まるで姉の世話をする妹のように、手際良くきれいにしていく光里。どうやら、僕の知らないところで、二人はもうすっかり仲良くなっていたみたいだった。
「お〜さすが光里ちゃん。ありがと〜! 次からはもう少しシャンとしてるね〜」
 全く信用のならない言葉をのんびりと放ちながら、美咲さんは空になったポテチの袋をポイっとゴミ箱に放り込んだ。後で怒られるような気もするが、まぁそれくらいのお灸は必要だろうと僕はスルーしておくことにする。
「……それで、私と陽人を呼んだのは、どうしてですか?」
 僕と同じようにスルーを決め込んだらしい光里は、そのままベッドわきの丸椅子に座った。僕もそれに倣うように、隣の椅子に腰をかける。
「おぉ! そうだった! いや〜、危うく忘れるところだったよ〜」
「忘れないでください。三十通もメッセージ送っておいて」
「私も、八十二は、ちょっと……」
 少し強気に言った僕とは対照的に、げんなりとした様子で光里はつぶやいた。しかし、当の送り主は悪びれる様子もなく、「まぁまぁ、いいじゃないの〜」と宥めている。いや、あなたがそれをやりますか。
「美咲さん、それでいったい……」
「では早速! 二人とも来てくれたことだし本題に入りますか〜!」
「話を聞いてくださいよ」
 病人とは思えない明るさとマイペースさで、美咲さんは楽しそうに話し始めた。

 美咲さんが興奮した面持ちで熱弁し、ひと段落したところで、盛大な拍手が隣で響いた。
「いいですねー! 面白そうっ!」
「でしょー! さっすが光里ちゃん!」
 いつぞやのお祭りの時みたく、ハイタッチを交わす光里たち。やっぱりこのテンションにはついていけないな、なんて思いつつも、美咲さんの提案は純粋に面白そうだった。
 美咲さんが僕たちに計百通を超えるメッセージを送ってまでやりたかったこと、それは……――笹原の、誕生日サプライズだ。
 笹原の誕生日は再来週の木曜日だ。どうやら、その時に美咲さんは笹原に内緒で一時帰宅届を出し、あいつが家に帰ってきたところをクラッカーで盛大に出迎えたいらしい。そのほかにもサプライズのプレゼントやらケーキやらといろいろ準備をしているらしく、僕たちにその手伝いをしてほしいとのことだった。
「ところで、僕たちは具体的にどんなことをすればいいんですか?」
「お? 陽人くんもノリノリだね~」
「そ、そんなんじゃないですよ」
 相変わらずペースがつかめない。笹原もマイペースだが、さすがはその姉。さらに一段上を行くようだ。
「もう~、照れなくてもいいのに~。まっ、からかうのはこの辺にして……。二人にお願いしたいのは、サプライズで送るプレゼントの材料集めなの!」
 からかいの余韻を含ませた面持ちのまま、美咲さんはずいっとスマホを見せてきた。思うところはあるものの、とりあえず素直にその画面を覗き込む。そこには、いくつもの写真や複雑そうな意匠が施された「サプライズボックス」なるものの紹介サイトが表示されていた。
「えっ! 何これすごい!」
 僕と同じように画面を覗き込んでいた光里が、いち早く食いついた。その驚異の反応スピードに呆れつつも、確かに画面の向こう側には「すごい」としか表現できないような箱が何種類も表示されていた。
「これはね、サプライズボックスっていうの。思い出の写真とか小物とか、あとはちょっとした仕掛けなんかもある面白い箱なんだよ〜!」
 光里に負けず劣らずのハイテンションで、美咲さんは早口にそう説明した。
「へぇーー! でも結構難しそうですけど大丈夫なんですか?」
 光里の素朴な問いかけに、僕も頷く。画面に映っているものはどれも精巧な作りをしていて、手先の器用さが求められそうだった。あえて言葉には出さないが、さっきのポテチ案件からも実に大雑把そうな美咲さんには難しいように思えた。
「ふっふっふ〜……侮るなかれ、お二人さん。こう見えて実は私、デザイナーやってるんだからっ!」
 そこで、衝撃の事実が美咲さんの口から飛び出した。
「え?」
「美咲さんが、デザイナー……?」
 光里も僕も、呆気にとられていた。
 美咲さんが? いかにも手先とか不器用そうなのに?
 ツッコミ待ちだろうか。なんて失礼なことを考え、まさに口に出して言おうとした時。
「えーー! すごいっ! どんなものデザインしてるんですか⁉」
 光里が目を輝かせて身を乗り出した。その勢いに、さすがの美咲さんも少し身体を引いている。
「え、えーっと。仕事してた時は、身近な生活用品とかデザインしてたよ。インテリア雑貨とか、家具とか」
 そう言うと、美咲さんはベッドわきのサイドボードからスケッチブックを取り出した。ペラリと表紙を一枚めくると、この美咲さんの手先から生み出されたとは思えないような見事なイラストが現れた。
「マジか」
「すごいっ! かわいいっ!」
 要所にアクセントが施された食器に、使いやすさを意識したクローゼット、ガラス容器の中に細やかな意匠が組み込まれた置物など、そこには様々なデザインがあらゆるアングルで描かれている。
「まぁこれは趣味程度の、私の頭の中にある案段階のものだけどね。どうも紙の方が良くてさ、思いついたものはすぐに描けるよう、常に持ち歩いてるんだ~」
 さっきまでの興奮した調子とは打って変わり、落ち着いた口調で美咲さんは短く微笑んだ。
「美咲さん?」
 なんか、美咲さんらしくない……?
「さっ! ということで、私の技術力はもう充分でしょ? 二人には、このサプライズボックスを作るための材料を買ってきてほしいの!」
 僕の言葉は聞こえなかったのか、美咲さんは特に気に留めることもなく、材料の書かれたメモ用紙を渡してきた。
「あ、それなりに時間もないから、明日にでもよろしくね~」
 相変わらずマイペースな美咲さんの発言に、僕たちは揃って苦笑いを返した。

 美咲さんのお見舞いに行った翌日。今度は病院ではなく、ショッピングモールへと来ていた。
「ふぅー……」
 病院ほどじゃないが、人の多いところも苦手だ。このまとわりつくような視線や、ほとんど聞こえないのに僕のことを話しているのがわかるひそひそ声。本当に、この世の中は暇人が多いんだな。まったく……
「ごめーん! 待ったーー?」
 そこへ、ぼんやりと始まっていた考え事をかき消すような声が耳から脳へと響いてきた。相変わらず澄んだ声してるよな、なんて無意識に思ってしまう。
「いや、今来たとこ」
「そっか……あ! 今のってなんか、恋人っぽくない⁉」
「いやどこが?」
「もう。わかってるくせにー」
 少し前に屈み、悪戯っぽく笑う光里。白い歯がちらりと顔をのぞかせ、艶やかな髪が肩口から滑り落ちる。恋愛に疎い僕から見ても、やっぱり光里の顔は整っていると思う。
 ……そして。
 恋人という言葉に、いつかの記憶が不意に蘇った。
「なぁ」
「ん? なに?」
「その……放課後に僕なんかと買い物に来てさ、大丈夫なのか?」
 花火祭りに行く前。
 光里を誘おうとして向かった屋上での出来事が脳裏に浮かぶ。
 あの日、光里は確かに告白されていた。
 夕日が映える学校の屋上で、聞いたことのない爽やかな声の男子から。
 嬉しそうに答えていた光里の耳馴染みのない声も、覚えている。
「どういうこと?」
 全くわからないといったふうに、彼女はこてんと首を傾げた。
「いや。ほら……」
 今さらながら、言っていいのだろうか。いやでも、ここまで言っちゃったしな。
「前に、告白されてたじゃん? 屋上で。だから、その……彼氏とかいるなら、来ない方がいいんじゃないかな、って……」
 なるようになれ、と僕は勢いで訊いていた。言ってから、また気まずい雰囲気になったらどうするんだという声が脳内で聞こえたが、もう遅い。
 左上の何もない空中に留めていた視線を、恐る恐る光里の方へと向ける。そこには……――
「……ぷっ。アハハハハハッ!」
「へ?」
 お腹を抱えて大爆笑する、光里がいた。
「アハハハッ! そ、そんな神妙な顔で、アハッ、何を言い出すのかと思えば……アハハッ!」
「笑い過ぎだろ」
 言いようのない苛立ちがむくむくと湧き上がる。なんだかそれを自覚したくなくて、僕はまた目を逸らした。その先には、数分前と変わりない青空が広がっている。
「ご、ごめんごめん、アハハハッ! けど、心配してくれたんだよね。ありがとう。でも、断ったから大丈夫だよ。全然ヘーキ」
「え?」
 ゆっくりと流れていく白い雲に視線を這わせる前に、それは瞬く間に彼女の瞳へと吸い込まれた。
「いや、うそだろ。あんなに嬉しそうにしていたのに」
「陽人はどこまで見てたの? のぞき見なんて感心しないなー。でも、うそじゃないよ?」
 軽蔑を指す言葉とは裏腹に、光里はどこか嬉しそうに笑った。その笑顔がやたらと眩しくて、僕は再三見ていた空へと目線を戻す。その色は変わりなく、どこまでも深い青をしていた。
「ふーん。まぁ、ならいいけど」
「なになに? 私がとられちゃったと思った?」
「思うわけないだろ! アホ!」
「あー! アホとはなんですか! アホとは!」
「そのままの意味だ!」
「なにを!」
「なんだよ!」
 だけど。その青はさっきよりもずっと広く、澄んでいる気がした。

 どうでもいい言い合いを繰り広げ、なんだか可笑しくなってひとしきり笑った後。
 僕たちは暑い日差しと怪訝そうな視線に追われるように、ショッピングモールの中へと足を踏み入れ、ひとまず百均の売り場へと来ていた。
 僕たちの目当てである手芸用品はもちろん、ガーデニングや洗濯用品、お菓子、インテリア雑貨など、所狭しととにかくなんでも置いてある。いったいどこの誰がこれを百円や二百円で売ろうと考えたのか。絶対に儲からないだろとは思うものの、そこは普通に儲かっているんだろう。
「ねねっ! これ可愛くない?」
 どこまでも現実的な思考にふけっていると、ぐいっと袖の端を引っ張られた。その勢いのまま、光里が指す方へ視線を移す。
 そこには、色とりどりのシンプルな布生地が壁にかけられていた。赤っぽいタータンチェックに、黄色と白の水玉模様。爽やかな水色のストライプに、今の季節とは真逆のノルディック柄まで。その中でも光里のお気に入りは、薄いブラウンのギンガムチェックみたいだった。
「へぇ、意外だな」
 壁から垂れている布に触ってみる。思っていた以上にすべすべしていた。
「えーそう?」
 僕の真似をしてか、彼女もその表面を軽く撫でる。
「もっとこう、明るめのものが好きなのかと思ってた」
「ふふん、陽人もまだまだだね」
 音符がついてそうな口調で、光里は得意げに笑う。何がまだまだなのかはわからないが、なんだか無性に悔しい。
「ほーう。なら僕はどれが好きなのか当ててみてよ」
 僕の中にある対抗心が燃え始めてしまったようで、思わずそんな言葉を投げかけていた。
「え、これでしょ?」
 しかし彼女は迷うそぶりも見せずに、ある一点を指差す。その先には、荒々しいタッチのドラゴンが描かれた布が。
「おい。僕は中学生か」
「アハハハッ」
 そんなどうでもいいやり取りもしながら、僕たちは順調に頼まれたものを買い物カゴに入れていった。
 そうして必要な材料の三分の二ほどを買い終えた頃。少し休憩しようと、僕たちはショッピングモールの外に併設されたカフェへと腰を落ち着けていた。
「ふぅ。結構買ったな」
 隣の席に置いたパンパンのエコバッグに目をやる。底が抜けないか心配なくらいだ。
「そだね。それにしても、ちゃっかりエコバッグ持ってるのは笑ったな~」
「いいんだよ、別に」
 相槌を打ちつつもしっかりと茶化してくる光里。本当に相変わらずだ。
 人の少なかったショッピングエリアとは異なり、店内はそこそこ混んでいた。パソコンに向かって難しい顔をしているサラリーマンに、大学生と思しき集団、そして僕たちと同じように学校帰りらしい高校生まで。それぞれが思い思いの方法で、このひと時を過ごしている。
「そういえば、学祭の準備ほっぽり出してきちゃったけど、大丈夫かなぁ」
 アイスティーをのんびり吸っていた光里が、思い出したようにスマホを取り出した。
「準備、あんまり進んでないのか?」
「いや、そんなこともないけど。私、学級委員だからな」
「……大丈夫なの?」
「多分?」
 光里は苦笑いを浮かべ、数回タッチやらフリック操作を繰り返す。
「あー……」
 光里の指が、そこでピタリと止まった。
「どした?」
「これ……」
 より深めた苦笑いとともに僕に見せてきたスマホの画面には……
 ≫光里ごめん!
 ≫買い物終わったら一回学校寄って欲しい!
 ≫やらかしちゃいましたー笑
 送信時刻は十分前。クラスチャットに投稿されたそのコメントの下には、「ごめん」を表す手を合わせたスタンプが十種類ほど並んでいた。
「……え」
「よし。あと回るお店は二箇所。さっさと行こ!」
 呆然とする僕の傍ら、早くも光里はすごい勢いでアイスティーをすすっていた。そして飲み終わるや否や、かけていた鞄とエコバッグを引っ掴む。
「あ、おい」
「ほらー、早く行くよ!」
「いやてか、すぐ戻った方がいいんじゃ……」
 荷物は少し多いが、正直残りの買い物は僕ひとりでもできる。あの冗談混じりの文面やコミカルなスタンプたちを見た感じ、逆に緊急性が高そうだし、すぐ学校に行くのが懸命に思えた。
「ううん、大丈夫」
 しかし、光里は首を横に振った。
「途中で、投げ出したくないし!」
 何かを決意するように、光里は言った。
 そんなに中途半端が嫌いなのか。
 光里らしいな、なんて思いつつ。
 僕もエコバッグを肩にかけて、駆け出そう…………とした時だった。
「あ……」
 光里の足が、ピタリと止まった。
 彼女の視線は、目当てのお店があるショッピングモールの中でも、ましてや学校に行くための駅の方でもなく……
 近くに植え替えられた茂みの方へと、向けられていた。
「光里?」
 突然立ち止まった彼女に呼びかける。
「……」
 だけど、返事はない。その瞳は、まるで縫い止められたかのように、手入れの行き届いた茂みへと向けられている。
「おい、光里?」
「…………メ」
 もう一度名前を呼ぶと、微かに彼女の口が動いた。
「え?」
「雀が……死んでる」
 力のない動作で、彼女は一点を指差した。その先には、植え込みの隙間に横たわる一羽の雀が倒れていた。
 光里はゆっくりと腕を下ろし、代わりに止めていた歩みを再開した。
 だけど。向かう先は、ショッピングモールとは全くの逆方向。店の敷地と外を隔てるようにして植えられた草花へと歩を進めている。その足取りはどこかふらついていて、明らかにいつもの光里ではなかった。
「お、おいっ!」
 僕の制止する声も無視し、光里はさらに雀へと近づいていく。そしてすぐそばまで来ると、ゆっくりとしゃがみこんだ。
「……まだ、生きてる」
 か細い声が聞こえた。また、これまで聞いたことのない声だった。堪らず僕は小走りで彼女の元まで行き、その肩を掴んだ。
「おい、光里。お前顔色悪いぞ? 大丈夫か?」
「……うん。今の私なら、大丈夫だよ」
 こちらを振り返ることなく、光里は答えた。どこかひっかかる言い方。本当にどうしたんだ。
「それより、雀……まだ生きてたよ」
 その声に促され、彼女と同じように植え込みの隙間に目を向けた。青々と茂る、名前も知らない草木の列の下方。日陰となった数センチ程度の隙間に、弱々しく羽を震わせながら小鳥が横たわっていた。
「みたい、だな」
「どうしてこんなところに……」
 光里が徐に右手を伸ばした、その時。
 ――バササッ!
 小刻みに震えていた羽が、一際大きくはためいた。土埃を巻き上げ、雀はその場から飛び立とうと懸命に羽を動かす。予想外の力強い動きに一瞬安堵しかけた僕だったが、一向に浮かぶ気配はなく……
「だ、ダメだよっ!」
 小さく叫びながら、光里はさらに手を伸ばした。しかし、雀はその白い指先から必死に離れようと羽を動かし続ける。
「おい。多分、怖がってるんだ。手、一回引っ込めろって」
「あ……」
 僕の声に、彼女はサッと手を引いた。すると、それに呼応するように雀は羽の動きを止め、再び地面に身体をつける。
「そっとしておいた方がいい。僕たちじゃ、どうにもできないよ」
 雀は特に目立った外傷もなく、単純に弱っているみたいだった。野生の動物を病院に連れて行くわけにもいかず、結局僕たちにできることはない。
「……でも、私は……」
 光里は、先ほどまで伸ばしていた手を胸の前で抱えていた。何かを押さえつけるように、左手で右手を固く握りしめている。
「光里?」
「……」
 何も、答えない。彼女はただ茫然と、力なく横たわる雀を眺めている。
 本当に、どうしたのか。
 彼女は、光里は、いったい何をそんなに……
 そこで、はたと気がついた。ここしばらく見ていなかった、光里の不思議な力を。
 もしかすると、光里は死にかけた生き物にも生命力を戻すことができるのではないか。
「なぁ光里、もしかして……」
「陽人は、どう思う?」
 頭に浮かんだことの真偽を訊こうとした時、彼女が唐突に言葉を発した。
「え?」
 反射的に、訊き返す。
「陽人はさ、人を……生き物を生き返らせることって、いいことだと思う?」
「え」
 また、反射的に声が漏れた。
 だけど。今度は、驚愕だった。
「生き物は……死があるからこそ、こうして頑張って生きようとする。少しでも死に抗って、今を懸命に生きようとするの。なのに……」
 視線を交わすことなく、彼女は言葉を吐いた。それはとてもか細く、これまで聞いたことがないほど、弱々しかった。
「ひか、り……」
 僕は、すぐには答えられなかった。
 初めて、生き返った人のニュースを見た時。女優の一ノ瀬優子の蘇生についての記事を読んだ時、僕は思った。
 いつか必ず死ぬからこそ、生きることに責任が出てくる、と。
 死んだら絶対生き返らないからこそ、死ぬことに意味が出てくるのだと――。
 その考えは、今も変わらない。だけど……
 今の彼女に、そんなことを言う気は微塵も起きなかった。
「……ごめん。あなたに言うことじゃ、ないよね…………行こっか」
 十分すぎる間を置いてから、彼女はゆっくりと振り返った。
 その顔には、どこまでも完璧な、眩しい笑顔があった。
「光里……あのさ」
 何も思いついていないのに、口だけが勝手に開く。どうしてか、自分でもわからない。
「ごめん。今は、何も訊かないで」
 表情と合っていない声色で、彼女はそれだけを言った。
 それから僕たちはほとんど話すことなく買い物を終え、学校の最寄り駅で別れた。

 光里と買い物をしてから、一週間が経った。
 あれからの彼女は、驚くほどいつも通りだった。
「おっはよー!」
 生徒玄関をくぐるなり、バシッと僕の肩を叩いてくる。その絶妙な力加減も、一際明るい声色も、何もかもがこれまで通り。
「だから毎朝叩くなって。そんなに叩かれると僕の肩が凹む」
 だから僕もいつも通り軽口を返して、
「じゃあ凹む前に挨拶してよー。ずっとずっと待ち続けてるのにー」
 彼女もそれに答えてくる。
 本当に、いつも通り。「また朝から……」と呆れ顔で見てくる笹原も変わらない。
 そんな日々が一週間も経ち、あの、僕が見たことのない光里は、影も形もなくなっていた。
 光里には、僕にはない不思議な力がある。これは、変えようのない事実だろう。この目で見たから間違いない。もしかすると、その力のせいで、何か過去に辛い思いをしたのかもしれない。そしてそれが、あの時の状況とひどく重なっていたのかもしれない。
 でも、だとしたら。
 辛い過去と結びつくような、そんな力だとしたら……
 彼女はなぜ、僕に生き返らせたい人なんて、訊いてきたんだろう。
「ほーら、行くよー!」
 ペシッと頭を軽くはたかれる。
 夏の陽射しのような、変わらない眩しさを振り撒く彼女を眺めながら、ぼんやりと僕は考えていた。

 夏が本格化し、蒸し暑さが漂う昼休み。
 いつものように笹原や光里と弁当を食べ終わると、光里は文化祭の準備があるとかでそそくさと教室を後にした。
 文化祭まで残り二週間強。準備も段々と忙しくなり始め、担当によっては昼休みも少しずつ仕事をするようになってきていた。
「陽人はいいのか?」
 下敷きでパタパタと顔をあおぎつつ、笹原はチラリと僕に視線を向けてきた。
「あぁ。今日の昼は打ち合わせないからな。明日はなんかあるらしいけど」
 折衝担当は、他のクラスとの物品の調整も行わないといけない。その関係で、時々昼休みに会議が行われていた。
「折衝も大変だな〜」
「全くだよ。代わらないか?」
「いんや、遠慮しとく」
「だよな」
 蝉時雨が遠くから響く中、そんな雑談を続けていると、不意に笹原があおぐ手をピタリと止めた。
「そういえばさ」
「ん?」
「俺の姉さんが、最近やけにご機嫌なんだよ」
「お、おう?」
 突然出てきた美咲さんの話題に、どきりと心臓が跳ねた。
「なんか知らない?」
 再びパタパタと下敷きを動かしながら訊いてくる笹原。そこには疑いの色も、何かを伺うような素振りもない。
 これは別に知ってるわけじゃなさそうだな。
 彼の様子に安堵しつつも、墓穴を掘ってはサプライズがパーだ。平静を装うためパックジュースを一口飲んでから、慎重に言葉を選ぶ。
「んー……てか、知ってるわけないだろ。僕が笹原の姉さんに会ったのはこの前が初めてなんだぞ?」
「まぁ、そりゃそうだよな」
 僕の言葉に納得したのか、彼はそれだけ言うと体重を後ろへと傾けた。その動きに合わせて、椅子の前足がふわりと浮く。
「ご機嫌って、どんな感じなんだ?」
「んー、なんかさ」
 話しながら彼は器用にバランスを取り、シーソーみたいに椅子を揺らす。
「一ヶ月前から修学旅行を楽しみにしてる中学生、みたいな」
「なんだそりゃ」
 笹原の言葉に、僕は危うく吹き出しそうになった。
 美咲さん、態度に出過ぎだろ。
 笹原の誕生日サプライズに向けてあれこれと準備しつつ、鼻歌混じりに待つ美咲さんが容易に想像できた。
「まぁなんか、楽しみなことでもあるんじゃねーの」
「んーまぁそうだなー」
 どうにか吹き出すのを堪えた僕の返事に、笹原も適当に相槌を返してくる。
 キーンコーン、カーンコーン。
 そこで、昼休み終了の予鈴がいつものように校内に響き渡った。
「そろそろ行くか。次、移動教室だし」
「あぁ、そうだな」
 どちらともなく椅子から立つと、必要な教材を小脇に教室の入口へ向かう。
「あんまり、無理しないといいんだけどな」
 彼が何気なく放ったこの時の言葉を、僕はもう少ししっかりと、聞いておくべきだったのかもしれない。

 放課後。僕はまた美咲さんからメッセージで呼び出しをくらい、病院へと足を運んでいた。
「美咲さん、人をパシリにしないでください」
 ベッドの傍にあるサイドボードの上に、頼まれていたお菓子の袋を雑に置く。
「アハハ、ごめんごめん。ありがと〜」
 美咲さんはプレゼント作りの手を止めて謝ると、早速バリバリとお菓子の包みを開いていた。本当にわかってるのか、この人。
「こぼさないでくださいね。僕は光里と違って面倒見は良くないので」
「しないって〜。それに、君も十分、面倒見いいと思うけどね〜」
 袋からつまみ上げたポテチを、彼女は見せつけるようにヒラヒラと振った。そしてそのまま、口の中へ。
「……別に。ただ、気が向いただけです」
 居心地の悪い視線から逃げるように、足元に置いた鞄から飲み物を取り出す。そしてそのまま、乾いてもいない喉にお茶をグビグビ流し込んだ。
 ここ最近、美咲さんと接する機会が増えてわかったこと。
 彼女は、美咲さんは……姉に似ている。
 自分勝手でわがままで、とにかく自由奔放。
 でも、どこか憎めなくて、優しくて、周りを振り回しつつも笑顔にしていて。
 僕はきっと、美咲さんの中に姉を見てしまっている。だから……
「ふーん、そっか〜。まぁ、なんでもいいんだけどね〜」
 美咲さんは特に気にした様子もなく、香ばしい匂いを振り撒きながらお菓子を食べ続けている。少し開いた窓から生温かい風が吹き込み、彼女の髪をしなやかに揺らした。子供っぽい動作に、大人っぽい雰囲気。なんとも不釣り合いだ。
「そんなことより、美咲さん気をつけてくださいね。あいつ、『姉さんが変だ』って気にしてましたよ?」
 これ以上、この話題は続けたくなかったので、僕は学校での出来事を持ち出した。
「えっ⁉ うそ〜! バレたの?」
 すると、びっくりしたように彼女は僕の方を見た。その拍子に手からポテチがこぼれ落ちる。
「いや、バレてはいませんけど、今のままだと時間の問題のような気も……」
 主にあなたの態度のせいで、とまでは言わない。さすがにその辺りは自分でもわかっているだろうし……
「ぐぬぬ〜……さすが私の弟。一切素振りは見せていないのに、その慧眼……賞賛に値する」
 お腹あたりに転がっている食べ損ねたポテチを拾い食いしつつ、彼女は唸った。
 あ、ダメだこりゃ。
 僕の中で、サプライズを成功させるために一度は釘を刺さねばという僅かばかりの思いやりと、いくばくかの妙な悪戯心が芽生えた。
「いや、美咲さんのわかりやすい態度が問題だと思います」
「え!」
「すごくご機嫌だって言ってましたよ」
「えぇ⁉︎」
「一ヶ月前から修学旅行を楽しみにしてる中学生だとかなんとか……」
「そ、それ以上言わないで〜」
 矢継ぎ早に放った言葉に、美咲さんはみるみる顔を赤くさせて布団にうずくまってしまった。少しやり過ぎたか。
「ま、まぁ……態度に出さないようにしていきましょう!」
「ぜ、善処します〜……」
 明らかにトーンの落ちた声が、モゴモゴと聞こえてきた。その打ちひしがれた様子には、ただただ苦笑するしかなくて。
 でもその声は、やっぱりどこか上擦っているようで。
 本当に笹原のことを想っているんだな、というのが伝わってきて。
 少しだけ、羨ましかった。

 歓談混じりのお菓子タイムが終わると、美咲さんはプレゼント作りを再開した。
 今作っているのは、サプライズボックスの仕掛けのひとつ。蓋を開けた時に、最初に目に飛び込んでくる中心部分だ。
「すご……」
 そのあまりに素早く慣れた手つきに、思わず驚嘆の声が漏れた。等間隔に付けられた印に沿って、小さく切った台紙をミリ単位でずらして貼り合わせている。さらによくよく見ると、台紙には用途不明の非常に小さな切れ込みや折り跡もあり、すぐに僕如き不器用の出る幕はないと悟った。
「ふふっ、ありがと〜。手先の器用さだけは自信あるのよ〜」
「そ、そうなんですね」
 そんな手際の良さとは対照的に、美咲さんの声はどこまでものんびりとしている。本当につかみどころのない人だ。
 他にやることもなく、本来ならこの辺でお暇して学校に戻り、文化祭の準備をするのがいいんだろう。
 でも、お菓子タイムが終わった時に、「まだもうちょっといるよね〜?」と嬉しそうに言われたばかりで、さすがに「そろそろ帰ります」とは言い出しにくかった。手持ち無沙汰になって何となく視線を彷徨わせていると、ふと、少し開いたサイドボードの引き出しに目が留まった。
「これ……」
 そこにあったのは、プリクラより一回りほど大きいミニ写真。空気で膨らませたおもちゃのプールで笑い合う男の子と女の子が写っている。
「あぁ、それ? 小さい頃の、私と幹也だよ〜」
 美咲さんは作業の手を止め、引き出しからその写真を取り出した。
「このサプライズボックスに貼る写真なんだ〜。親に頼んで、サイズも調整してもらったの」
「そうなんですか」
 写真を眺める彼女の眼差しは優しかった。きっと当時のことを思い出しているんだろう。
「あの頃は楽しかったな〜。一緒にお風呂とかも入ったりしてさ〜。まぁ、幹也ももうすっかり大きくなって、今じゃ入ってくれないけどね」
「いや、当たり前でしょ」
 この歳になってまで一緒に入っていたら、それこそいろいろと問題がある。
「ん〜まぁ、そうなんだけどさ〜」
 彼女はそっと写真を撫でる。楽しかった昔を懐かしむように。
「やっぱりちょっと、寂しいっていうか……」
「美咲さん?」
 彼女の声色が不意に歪んだ気がして、思わず名前を呼ぶ。でも、美咲さんは小さく首を横に振ると、「ちょっと感傷的になっちゃった〜」といつもの調子で笑いかけてきた。
 窓の外では、いつの間にか広がっていた灰色の雲から、疎らに雨が降り始めていた。

「ところで、光里ちゃんとはどうなの〜?」
「へ?」
 窓を閉めようと立ったところに、唐突に美咲さんの上擦った声が飛び込んできた。
「隠さなくたっていいよ〜。光里ちゃん、可愛いもんね〜」
 横目で見ると、目尻は少し垂れて口角は上がっている。これは、完全に面白がっている時の表情だ。
「あのですね。僕と光里はそんなんじゃありませんよ」
 視線を戻し、ガチャリと窓の鍵を閉める。外は結構な本降りになっていた。
「え〜。うそだ〜」
「うそじゃありません。ただ隣のクラスってだけですよ」
 確かに最初会った頃に比べると仲良くなっていると思うし、あの喧嘩というか疎遠になった一件以来、距離が近くなったのも事実だ。でも恋愛対象かと言われれば、それは違う気がする。
「ふ~ん?」
 明らかに納得のいっていない声が、僕の背中を微かに刺激する。
「ただ隣のクラスってだけ……ね」
「なんですか」
 意味深なつぶやきの連続に、僕は堪らず振り向いた。
「いや、なんでもないよ~。ただ……」
 台紙に切り込みを入れる作業を再開しつつ、彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「伝えられない後悔だけは、しないようにね」
 また、少し重みのある声が、僕の鼓膜を震わせた。
「え?」
「君を見てるとさ、なんか昔の私を思い出すんだよね〜」
 ゆっくりな口調に対し、相変わらず切り込みを入れるスピードが速い。でも、その目線は台紙の、その先を見ているようだった。
「……私、学生の頃は結構頑固でさ。意固地になって、大切な人に気持ちを伝えられなかったことがあるの」
「それは、告白……とかですか?」
「まぁ、そんなところ」
 恥ずかしそうに笑いながら、美咲さんは肩をすくめる。
 恋愛話。いつもなら、興味がないと言って打ち切っているところだが、不思議とそんな気は起きなかった。
「喧嘩、しちゃってさ。好きなのに、結局そのまま言えずに……ここまで来ちゃったんだ」
 そこでまた彼女は手を止めた。視線を徐に持ち上げると、窓を叩く風雨の出所へ向ける。
「その……その人とは……?」
「それ以来、会ってないよ」
 それは。やっぱりどこか、寂しそうで。
「だからさ。君もつまらない意地とか張ってないで、気持ちは伝えられる時にしっかり伝えておきなよ〜」
 そしてやっぱり……優しかった。
「は、はい……」
 雨音だけが響く病室で、美咲さんが醸し出す雰囲気にあてられ、僕は頷くことしかできなかった。だから……
「……ぷっ。アハハッ! や〜っぱり! やっぱり光里ちゃんのこと好きなんだ〜!」
「な、な、なっ⁉︎」
 こんなふうに態度を百八十度変えるなんて、思ってもみなかった。
「ほらほら、お姉さんに話してよ〜。この前のショッピングモールで、何があったかとかさ〜」
「美咲さん!」
 悪戯っぽい微笑みを浮かべ、あれやこれやと追求してくる彼女の勢いに比例するように、激しさを増した雨風が頻りに窓を揺らしていた。

 翌日の朝。
 登校するには少し早く、人影も疎らな生徒玄関前。
 雨除けの屋根を支える石柱の前で、今度は光里に呼び出されていた。
「私たちのクラスはこの辺りまで席とか置くから、陽人たちのクラスはこの辺りからテント置いてくれると助かる!」
「了解」
 まぁ、ただの打ち合わせなんだけど。
 でも。昨日美咲さんにあんなことを言われると、否が応でも多少なり意識してしまう。
 身振り手振りに合わせて揺れる艶やかな黒髪や、生き生きと一生懸命に説明する彼女の表情。
 朝から照り付ける眩しい陽射しに負けない笑顔に、ふとした拍子に香る甘い匂い。
「どしたの?」
「いや、べつに」
 やっぱり、美咲さんに今度改めて文句を言っておかねば。
 不思議そうにこちらを見つめてくる光里から目を背け、僕は密かにそんなことを決意する。
「あ、そういえば、さっき美咲さんからメッセージが来たよ!」
「えっ⁉︎」
 タイミング良くその名前が出て、どきりと心臓が跳ねた。
「え、なに、どしたの?」
「い、いや……と、ところで、どんなメッセージが来たんだ?」
 油断も隙もないズボラなお姉さんに内心舌打ちを返しつつ、心の動揺を気取られないよう、僕は慌てて話題を逸らしにかかる。
「え? えと……なんかね、サプライズボックスが半分ほど完成したみたい」
 納得のいかない顔をしつつも、光里は特に追求することなくスマホの画面を見せてくれた。ほっと安堵する……間もなく、今度は画面の奥に釘付けになる。
「え、これ……マジで?」
「ね、すごいよね! 私もさっき見た時はびっくりして思わず一人で声あげちゃった」
 恥ずかしそうに光里は笑うが、無理もない。画面に写し出されたサプライズボックスは、想像以上の出来だった。
 一見すると、白い箱にいくつかのイラストが施されたシンプルな箱。何枚か角度を変えた写真が載っているが、どれも大して変わらない。
 ところが。蓋を開けた写真は、その様相が一瞬で変わっていた。
 まず目を引くのは、箱の中央部分。びっくり箱のようにバネを使って飛び出す細工が施されており、実に彼女らしい。でも、その先端にあるのは舌を出した顔ではなく、幼い頃の笹原と美咲さんを撮ったピースサインのツーショット。お手製のカラフルなバネの側面にも、キャンプや海、誕生日、旅行と、たくさんの写真が貼られている。そして四つある側面部のうち二つにも、ミニアルバムやらパラパラ漫画やらと仕掛けがなされていた。
「美咲さん、すごいな」
「うん。ほんと尊敬しちゃう」
「それと、スピードもすごい。昨日はまだパーツ作ってたのに……」
 口に出してから、しまったと思った。
「え? 昨日?」
 案の定、光里は訝しげな表情を浮かべて僕を見ている。
「昨日、美咲さんのところに行ったの?」
「あ、あぁ……まぁ」
 ちょっと変なことを言われただけで、別に後ろめたいことは何もない。なのに、僕の声は若干上擦ってしまった。
「何をそんなに慌ててるの?」
 彼女の綺麗な瞳に光が宿る。まるで恋バナの種を見つけたかのような、そんな眼光が……
「おい待て。何を勘違いしてる」
「美咲さんと何かあったの? ねっ! どうなのっ?」
 嬉々とした表情で迫ってくる光里。もはや打ち合わせはそっちのけ。後ずさる僕に、彼女はグイグイと距離を縮めてくる。
「何もない」
「うそだー!」
 何度鼻孔に触れても慣れない独特の香りに、
 ――あの傷って、一組の?
 ――だろ。それと、二組の光里さんか。
 ――ったく、なんで……
 再三晒された、好奇と嫉妬と羨望が入り混じった周囲の視線。
 いつもなら、苛立ちと諦めが渦巻いている心中が、
「教えてよー! いいじゃん、私と陽人の仲なんだし!」
「そんな親しい仲になったつもりはない!」
 照れくささと、高揚らしき感情に満ちていることに、
「けちー」
「ほら、もう予鈴鳴るし行くぞ」
 今さらながら、僕は驚いていた。

 どうにかこうにか光里の追求を逃れると、登校してきた時間の割にはいつもより遅く教室に入った。
「おーっす」
 席に着くなり、笹原がいつもの調子で絡んでくる。しかし、その表情は心なしかニヤけており、次に発する言葉が嫌でもわかった。
「なんにもないぞ?」
「まだ何も言ってねーよ」
「顔に書いてあるんだよ」
 それだけ言うと、我慢しきれなくなったのか、笹原はさらに悪戯っぽい笑みを深めた。
「朝っぱらからお熱いこって」
「だから、そんなんじゃないって」
 光里の次は笹原か。どうしてこうも僕の周りには好奇心旺盛な人ばかりがいるのか。
「んじゃ、何をそんなに盛り上がってたんだよ?」
「え? いや、それは……」
 彼の言葉に、つい視線を逸らす。
 さすがに、お前のプレゼントのことだとは言えない。どう返答したものかと頭を巡らせるため、一瞬でも口籠ったのがいけなかった。
「ほらー! やっぱりそうじゃん!」
「だぁーもう! だから違うって!」
 彼の顔からはこれでもかと興味が溢れていて、弁明を受け入れるような余地は微塵もない。
「早く吐いて、楽になっちまいな」
 挙げ句の果てに、変な刑事のモノマネまでする始末。そろそろ予鈴が鳴る時間だが、一向にその気配もない。
「はぁー、マジで何もないって」
 本当にどうしたものか。ここは敢えて受け入れてサプライズに気づかれないようにするか。あーでも、それだと……
「ふ〜ん? お前の顔はとてもそうは見えなかったけどな?」
 妙な気恥ずかしさが浮かんだのと、彼の変に真面目なトーンの言葉が飛んできたのは、ほぼ同時だった。
「は? おい、どういう意味だ?」
「いんや、なんでも~」
 その言葉を最後に、待ち焦がれていたはずの予鈴が鳴り響いた。ガタガタとみんなが自分の席に着き始め、笹原も軽く手を振って戻っていく。
「なんなんだよ」
 僕の心には、何とも言えない靄だけが漂っていた。

 それから、なんとなく身の入らない授業を受け、昼休みに笹原を問い質すものらりくらりとかわされ、気がつけば調理の予行練習の時間になっていた。
「調理かー。俺苦手なんよねー」
 家庭室への道すがら、事前に持ってくるよういわれたエプロンをくるくる振り回しながら、笹原がぼやいた。
「まぁ、文化祭まであと少し、らしいからな」
 文化祭は、七月最後の土日だ。つまりは、あと二週間ちょっと。この時期になると、僕たちの高校では文化祭の模擬店で出す料理を試しに一度作り、試食することになっていた。個人的には、まだ二週間もあるのにと言いたいところだが。
「まぁ、しゃーねーか。それに、隣のクラスと合同だからな」
 ニヤリと笹原が笑う。ったく、またこいつは。
 そう。面倒なことに、試し作りはクラス数の関係もあって二クラス合同で行われるのだ。
 当日家庭室を使うのは、調理担当に割り当てられた生徒で、人数としてはちょうどクラス全体の半分くらい。今回の試し作りも当日調理をする人だけなので、授業との兼ね合いや日数の関係上、必然的に二クラスが合同になる。つまりは……光里のクラスと一緒なのだ。
「なんでよりにもよって……」
 しかも、光里も当日の担当は調理らしい。本当にタイミングというものは、悪い時はとことん悪い。まるで、何か別の力が働いているみたいだ。
「んなこと言って、本当は楽しみなんじゃないか?」
「はぁ?」
 どうにも、今日のこいつはやたらとしつこい。
 諦念を抱きつつも、文句のひとつでも言おうと口を開くと、ちょうど家庭室に着いた。中では既に、エプロン姿のクラスメイトが何人かいて、楽しそうに談笑している。そして、
「りんちゃーん! その材料はこっちだよー!」
 薄い茶色の、ギンガムチェックのエプロンと三角巾に身を包み、明るく笑う光里が見えた。
「あの柄……」
 前に、サプライズボックスを買いに行ったショッピングモールでの会話を思い出す。
 ――ねねっ! これ可愛くない?
 壁にかけられていたカラフルな布を指差して、無邪気にはしゃいでいたっけ。
 ――ふふん、陽人もまだまだだね
 僕が意外そうにしていると、得意そうに笑ってもいたな。何がそんなに嬉しいのか。
 本当に、まったく……――
「おい? 陽人? 早く着替えないとチャイム鳴るぞ?」
「あ、あぁ。今行く」
 どこかむずがゆくて、感じたことのない温かな気持ちがひっそりと心の中に満ちていくのを、僕は感じていた。

 慣れないたい焼き作りを終えた放課後。僕たちはせっせと後片付けに勤しんでいた。
「くっそー。たい焼きって意外に難しいのな」
 皿を洗いながら、悔しそうに笹原がうめく。
「そうか? 家でやるような小さいやつよりも焼きやすかったけど」
 彼が洗った皿を拭きつつ、僕はつい数十分前のことを思い返す。
 使ったたい焼き器は、当たり前だが家庭用のものではなく、業務用。試し作りは当日の練習も兼ねているので、生地担当も含めて調理班全員が一度は焼くことになった。
 そして、さすがは業務用のたい焼き器だった。家庭用のたい焼き器よりも大きく、火力も強いのでしっかりと焼ける。右に左にと、ひっくり返す時なんかは少し楽しいくらいだった。
 あんまり難しい要素はなかった気もするが、笹原はとんでもないというふうに首を振った。
「焼きやすさはな。でもあんこをはみ出さないようにするには最初の生地の入れ方が重要だし、クリームとかあんこより難しいし……」
「こ、こだわってるんだな」
 まるでたい焼き奉行のような語り口調に、思わず苦笑する。たい焼き、ましてや業務用のもので焼いたことなんてないだろうに。
「まぁな。姉さんも呼びたいし、その……良いやつ食べさせたいじゃんか」
 朝の仕返しにちょっとからかってやろうか、なんて思っていると、彼は唐突にそんなことを言った。こいつ……
「……ははっ、やっぱ姉弟だな」
「え? なんて?」
「なんでもねーよ」
 もはやいじる空気でもなく、僕は皿拭きを再開した。
 いつもはあれやこれやと言い合いをしては、どうにも憎たらしいことばかり。でも、心の底では大切に思っていて、何かあれば助けたくて、特別な日には喜んでもらいたくて。本当に懐かしくて……。まったく、羨ましい限りだ。
「へぇ〜、お姉さん想いだね!」
「うぇっ⁉︎」
「へっ⁉︎」
 柄にもなく感慨に浸っていると、不意に明るい声が耳元で聞こえた。反射的に振り返ると、そこにはエプロン姿の光里が、笑顔を浮かべて立っていた。
「ども! 二人も後片付け?」
「そ、そうだけど」
 あーびっくりした。皿落とさなくて良かった。てか、絶対今のわざとだろ。
「ねぇ……今の俺の話、聞いてた?」
 呆れつつも心を落ち着けた僕とは違い、笹原の顔はさっきよりも数段赤く、引きつっている。しかし、光里は気にするふうもなくパッと目を輝かせて大きく頷いた。
「うん、もちろん! さすが笹原くん、優しいね!」
「わ、わ、忘れてくれーー!」
 笹原はさらに耳まで赤くすると、後で捨てるつもりだったゴミを引っ掴んで一目散に家庭室を飛び出していった。
「……私、何か変なこと言った?」
「姉弟がいればわかる」
 彼女に悪気はないんだろう。でも、シスコンとか思われたくないし、何より人に指摘されるととにかく恥ずかしいのだ。
「そ、そうなんだ……後で謝っておかないと」
「いやそこまでする必要はない」
「へ?」
「まぁ、難しいんだよ。それより、何か用があったんじゃないのか?」
 とりあえず、洗った皿まで拭き終わってから、僕は光里に向き直った。すると、今度は光里が驚いたように目を丸くした。
「え、なんでわかったの?」
「え、いや、なんとなく?」
 言われて僕もハッとする。そういえば、なんでわかったんだろう。
「ふふっ。なんでわかったのー?」
「お前は、また……!」
 笹原に向けたのと同じ笑顔に、次は僕の番かと身構えた、その時だった。
「――天之原! ちょっといいか?」
 聞いたことのある声が、家庭室に響いた。張りのある、爽やかな声。この声は、確か……
「え? うん、わかった。それじゃあ、また後でね!」
「あ、ああ……」
 光里は僕に軽く手を振ると、声をかけた男子の元へ走っていった。そしてそのまま二言三言話すと、徐に家庭室を出て行く。
「そうか。あの時の……」
 パタンと閉まった家庭室のドアを、呆然と見つめる。
 僕は、あの夕暮れ時の屋上での出来事を、思い出していた。

 いけないことだとはわかっていた。
 でも。気がつくと、足は勝手に動いていた。
 僕は皿を拭いていたタオルを机に放り投げると、足早に家庭室を出た。家庭室前の廊下には、午後の日差しがさんさんと降り注いでおり、数人の生徒が放課後の歓談で盛り上がっている。
「光里たちは……」
 視線を右に左にと彷徨わせると、遠くの角に消えていく二つの人影が見えた。ごくりと唾をひとつ飲み、小さな覚悟を決めてから、早足でその影が消えた角に向かう。
 何をやってるんだ、僕は。
 足を動かしながら、自分の心を問い質してみるも答えは返ってこない。いや、もしかしたらもうわかっているのかもしれない。自分の、気持ちに……――
「ねぇ、話って何?」
 小さく響いた声に、僕は足を止めた。この先の角を曲がった、階段の踊り場からだった。
「その、この前言ったことなんだけど……」
 家庭室に響いた声よりも、いくぶんか張りのない声。緊張や恥ずかしさ、照れくささが混ざったような、そんな声だった。
「この前?」
「うん。俺さ……」
 そこで、スッと息を込める空気が伝わってきた。離れているのに、やたらと明確かつ鮮明に。
「やっぱり、天之原のこと好きだ」
 今度は、淀みのない真っ直ぐな声が、僕の鼓膜を震わせた。
「明るくて素直で、テキパキと割となんでもこなしているけど、所々抜けてるところがあって」
 さっきまでの緊張や自信のなさはすっかり消え、
「そんなところも可愛いな、なんて思っちゃってさ……気がつくと目で追ってしまってるんだ」
 想いの芯が通っているように感じた。
「なんか、こう……上手く言葉にできないけど、一度フラれたくらいじゃ諦められないんだ。諦めたく、ないんだ……」
 この、彼の想いに光里は……――
「だから、もう一度考えてほしい」
 その言葉を境に、沈黙が流れた。
 全く関係のない僕の心臓も、なぜかドクドクといつもより脈打っている。
 光里は、なんて答えるんだろう。
 前は断ったと言っていたけど、今回はどうなんだろう。
 ぐるぐると思考が渦巻き、手にはじんわりと汗が滲んだ。
 おそらくは、数秒か数十秒程度の沈黙。その間、驚くほどあれこれと、思考が浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。
 最終的には、どうしてこんなところで立ち聞きしているのか、という考えに辿り着き、僕はそっと踵を返した。
「ありがとう。でも、やっぱり……付き合えないよ」
 聞き慣れないトーンの、聞き馴染みのある声に、僕の足は再び動きを止めた。向きを変えていた足先が、ゆっくりと元の位置に戻っていく。
「どうして?」
「……どうしても」
「ほかに好きな人でもいるのか?」
「秘密」
 いくつかのやりとりが交わされた後、沈黙がまたその場を支配した。離れていてもわかる空気の重さと気まずさが肌を刺す。もう手遅れかもしれないが、さすがに離れないと……
「――顔にやけどの痕がある、あいつか?」
 ピシッと、体が硬直した。と同時に、手や足が鉛のように重くなり、動かなくなる。
 顔にやけどの痕がある……。 
 もしかして……いや、もしかしなくても、僕のことだ。
「そんな言い方やめて」
 そこで、鋭い声が響いた。別に向き合っているわけでもないのに、びくりと肩が震える。
「あ、ごめん……えと……」
「陽人のことだよね? 私がさっきまで話してた」
 刺すような光里の声に、それっきり男子生徒の声は聞こえなくなった。
 三度目の沈黙が、静まり返った廊下に立ち込める。
 それは、今までで一番長い沈黙だった。外から差し込む陽射しは随分と弱まっており、夏の日は長いと言えど、辺りにはもうすっかり夕方の様相が満ちて始めていた。
「陽人は…………」
 今度は、光里が沈黙を解いた。
 でもそれは、今までで一番か細い声で、
「陽人は……関係ないよ」
 それは、今までで一番、はっきりと……僕の耳の奥に残った声だった。

 階段での一件は、結局そのまま終わった。光里の言葉を最後に、男子の方から去っていったみたいだった。光里はしばらく立ち尽くしていたようだが、その後のことは僕も知らない。
 ――陽人は……関係ないよ
 彼女の言葉が耳の奥で残響して、それ以上、静寂に満ちたあの場所にいたくなかったから。
 なぜか、心の奥底が冷たかった。ズキズキと胸のあたりが痛んだ。
 さっきまでの鼓動のせいか? 聞いているのがバレないか、結構緊張していたからな。
 そんなふうに考え、深呼吸を二度、三度と繰り返してみるも、全く癒える気配がない。
「はぁ……はぁ……」
 気づかれないようにそっと歩いていたはずなのに、いつの間にか僕は走っていた。校内練習をしていた運動部とすれ違い、ぶつかりそうになる。怒号のような声が聞こえた気がするけど、足は止めない。止まらない。止まって、くれない。
「はぁ、はぁ……」
 気がつくと、僕は生徒玄関前にいた。青色が随分と薄くなった空の下、名前も知らない虫たちが鳴いていた。陽の光は弱く、風も夏にしては冷たい。
「はぁ、はぁ……」
 普段、たいして走りもしないからだろう。足が、腕が、軋んでいるような気がする。
 喉も、肺も痛い。深く息を吸うと、唾液が絡んでひどくむせた。
 でも……やっぱり一番痛いのは、胸だった。
「はぁ……くそ」
 近くに立っている石柱へと背中を預ける。夏なのに、思いの外ひんやりとしていた。
「僕は……」
 でも。背中に向いていた意識は、すぐに過去へと還る。
 朝。光里と待ち合わせて、ふざけながら打ち合わせをしていた数時間前に。
「光里を……――」
 口の中で転がした想いが、心の中で形を帯びる。
 僕はただ、ひたすらに、胸の痛みを我慢するしかなかった。

 蝉時雨が、澄んだ青空に響き渡っていた。太陽は容赦なく午後の日差しを校庭に浴びせ、南風は嫌がらせのごとく砂埃を舞い上がらせている。
「夏だなー」
 前方で、ピッと短い笛が鳴った。それを合図に、目の前の背中にかけていた手の力を緩める。そして今度は、その向きを右から左へ。
「七月も中盤だからな」
 もう一度鳴った笛に合わせて、再び手に力を込め背中を倒していく。すると、どこかでポキリと小さな音が弾けた。
「いってーな! 相変わらず力強すぎるんだよ!」
「いやだから、笹原の体が硬すぎるんだって」
「くっ……校内でも有数の人気女子と親密なご関係なんだから、少しは俺に優しくしろーー!」
「はぁ? お前はいったい何を……」
 その時、ピーーーーッと一際長い笛の音が鳴り響いた。
「そこ、まだ授業中だぞ。柔軟体操を終えるまでが体育だ」
 家に帰るまでが遠足、に因んだような言葉で注意され、僕らは一先ず謝る。先生は満足そうに頷くと、高らかな笛の音とともに柔軟体操を再開した。もちろん、それに伴って僕らの会話も密やかに続くわけだが。
「んで? 最近どうなんよ?」
「なにが?」
「とぼけんなよ。近頃、天之原さんとよく一緒に出かけてんだろ?」
 笹原の言葉に、どきりと心臓が跳ねた。でも、次の瞬間にはこの前の出来事が脳裏をよぎり、それはすぐに落ち着いていく。
「……光里とは、何もないよ」
「は? マジ?」
「ないって」
 言葉の終わり際、ぐいっと手に込める力を強めた。「ぬあっ!」という小さな悲鳴が聞こえた気がしたが、力は緩めない。その先を、追求されないために。
 そう。僕と光里は何もないし、何かあるはずもない。光里はただの友達で、隣のクラスの人気者で、デタラメな能力を持っていて、なぜか僕の生き返らせたい人を聞いてくる、かなり不思議な女の子。ただ……それだけだ。
「はい、そこまで! これで今日の体育の授業は終わり。各自しっかり水分補給をするように!」
 夏の青空にこだます指示の下、僕らも立ち上がった。隣で笹原がなにやら喚いているが聞き流し、他の生徒に付いて校舎の方へ歩いていく。
 そうだ。今は、光里とのことは忘れないと。だって、今日は……
「なぁ、そんなことより、今日大丈夫なんだよな?」
「そんなことってやられた身にもなって……って、え?」
「え? じゃねーよ。今朝言っただろ? 今日、お前の家で光里とお祝いするって」
「……あ、あぁ! もちろん、大丈夫。なんか、悪いな」
 しかめ面から一転、こそばゆそうに笹原は視線を逸らした。
「今日くらい気にするなって。改めて、誕生日おめでとう」
「おう、サンキュー!」
 ここ二週間の、集大成を見せる日だ。

 六時間目。
 体育の時にあれほど照り付けていた日差しは雲間に隠れ、幾分涼しい風が頬を撫でた。
 数学の先生が微積の解説をしている中、僕はぼんやりとこの後にすべきことを考えていた。
 今日の作戦はこうだ。
 まず朝のうちに、笹原に「誕生日おめでとう」をサラリと言って、サプライズの気配を消す。美咲さんは、「誕生日忘れているフリからのサプライズ大作戦」をやってみたかったようだが、さすがに漫画やドラマでやり尽くされているし、気づかれそうなので却下になった。
 そして、笹原の家で誕生日パーティーをする約束をとりつけ、放課後の帰り道でお菓子やジュースを買い込んで笹原宅へ。その道中には、カモフラージュとして、いかにも誕生日プレゼントが入ってそうな紙袋を光里に持ってもらうことになった。ちなみに、中身は本当に僕と光里で買った笹原へのプレゼントなので、何か言われても問題はない。
 とりあえずこれで、笹原のささやかな誕生日パーティーの体裁は完成する。まさか、玄関に入ってすぐのところで、美咲さんや笹原の両親が待ち構えているとは夢にも思わないだろう。
 あとは、帰り道での現在地を笹原に気づかれないよう美咲さんにメッセージで伝えるだけだ。
「頑張らないと、な」
 クッキーやビスケットを頬張りながら嬉々として話す美咲さんと、それを呆れつつもどこか楽しそうに見つめている光里の顔を思い出す。
 美咲さんは見事な技術で、本当にサプライズボックスを二週間ばかりで完成させた。その完成品は僕もまだ見ていないが、前に写真で送ってくれた製作途中のものを見る限り、あの百均グッズが驚くような代物に変貌しているのだろう。
「本当にすごいな……」
 美咲さんだけではない。光里も、文化祭の準備の合間を縫っては、美咲さんから頼まれた追加資材を買いに行ったり、僕らも何か贈り物を用意しようといろいろな案を提示してくれた。
 そういった行事や祝い事から離れていたとはいえ、本当は僕のような時間のあるやつが率先すべきなのに。本当に、あの二人はすごい。
 そこでふと、僕はどうなんだろうと思った。
 最近は本当に目まぐるしく日々が移ろい、気づけば一週間が終わっている。
 朝に自分の頬にあるやけどの痕を気にすることも減ったし、人の視線やひそひそ声にイライラすることも少なくなった。
 笹原や光里に持つ感情も、あの花火祭りの日に自覚して以降、さらに少しずつ変わってきている。話していて楽しいと素直に思えるようになったし、二人のことをもっと知りたいとさえ思うこともある。
 そして光里には……特別な感情を抱いてしまっているのだと思う。
 確実に、変わった。変われた。それは間違いなく、光里たちのおかげだ。
 でも。本当にそれでいいのだろうか。
 あの日。僕が、僕だけが生き残ってしまった。
 助けて、と姉に言ってしまった。
 結果。今こうして僕だけが助かって、それなりに楽しく毎日を過ごしている。
 あの事故の原因も、対向車の行方すらわかっていないのに。
 本当に……こんな毎日を過ごして、いいのだろうか。
 キーンコーン、カーンコーン――。
 そこで、僕の意識は引き戻された。チャイムが鳴り終わると同時に、学級委員の生徒が号令をかける。慌てて立ち上がると、視線が手元のノートへと留められた。
「やっべ……」
 そこにある数学のノートには、僅か数行しか書かれていない。後で笹原に頼み込んで見せてもらわないとな……誕生日だけど。
 そんな、以前なら思わないようならしくない思考に、また苦笑して。
「おーい! 行くよーー!」
 数学の先生と入れ違いに飛び込んできた明るい声を合図に、勝負の放課後が始まった。
 ……いや、まだHR残ってるぞ?

「アハハハッ! いやー、ごめんごめん!」
 曇天が広がる夏空の下。住宅街に走る人通りの少ない道の上を、透き通った笑い声が響いた。
「ごめんごめん、じゃねーだろ。慌て過ぎだ」
 振り返った拍子に、右手に持った袋が揺れる。ついさっきコンビニで買ったお菓子やジュースが触れ合い、音を立てた。
「そ、そんなに楽しみにしてくれてたのか〜〜! ありがとう……!」
 苦笑を浮かべた光里の隣で、笹原がおいおいと泣いていた。いや、正確には泣く仕草をしていた。さすがに、今のやりとりで泣くやつはそういない。
「それで、とりあえず最寄りまで来たけど、この後はどう行けばいいんだ?」
「あー、そこの角曲がって、とりあえず真っ直ぐ」
 案の定すぐに泣き止んだ笹原の声に従って、三つの足音が移動を始める。
 放課後。担任の先生の軽い注意を受けてから、僕たちは予定通り笹原の家へと向かっていた。あれだけ晴れていたのに、今はかなり曇っていて、気温も夏にしては比較的穏やかで過ごしやすい。ひと雨さえ来なければ、これ以上はない天気だ。
 そして。美咲さんへの現在地報告も、滞りなく完了している。学校を出たことを伝えた時に、可愛らしい猫の了解スタンプが送られてきたきり返事がないが、おそらく準備にでも手をとられているんだろう。とりあえずまた、最寄り駅を降りたこと伝えないとな。
「でもほんと、笹原くんの時間が空いてて良かったー。部活は大丈夫なの?」
「あぁ、元々今日はオフなんだ。それより、文化祭まであと一週間だけどそっちは大丈夫なの?」
「んー、多分? まあ、一日くらいなら大丈夫だよ!」
 僕の後ろでは、光里が笹原とあれこれ話をしており、うまく引き付けてくれていた。光里は隠れて連絡するみたいなことは苦手らしく、光里が引き付け役、僕が連絡役になった。まぁ、光里が静かにしているところとかあんまり想像できないので、確かに妥当な線……
「それに、美咲さんも頑張って準備……わっ⁉」
 光里が言い切る前に、僕は彼女の手にあったお菓子の入った袋を半ば強引に奪った。そしてその数瞬を使って、素早く耳打ちをする。
「おい! 光里!」
「ご、ごめんごめん。ついうっかり……」
 申し訳なさそうに、光里はまた苦笑いを浮かべた。よくよく見ると、表情もどこか固い。どうやら、僕が思っていた以上に緊張しているらしかった。
 その辺りも含めてまだ言いたいことはあったが、後ろでは、「へ? 姉さん?」と笹原が不思議そうにしているので、それ以上の追求は諦めることにした。
「あー、今気づいたけど、こっちの袋の方が軽いみたいだから交換しよう」
「あ、そ……そうだね……?」
「よし、じゃあ光里はこっち持ってくれ。それにしても、ほんとに笹原の姉さんも来られれば良かったのにな。今も入院してるんだろ?」
 手早く光里と袋を交換してから、平静を装いつつそんなことを訊いてみる。かなり無理矢理だとは思ったが、さすがにこの状況で美咲さんの話題に触れないのは厳しい。
「ん? あぁ、そうなんだよ。この前の検査も良かったみたいだし、せめて一時帰宅とかできたらいいんだけどな」
「そ、そうか……」
 タイミング良く出た一時帰宅というワードにヒヤリとしたが、どうやら大丈夫なようだった。それからも度々ヒヤリとする場面はあったがどうにか乗り越え、気づけば笹原の家の近くまで来ていた。
 笹原の家は、駅からほど近いところにある住宅街の端にあるらしい。以前美咲さんから、「時報用の味気ない鉄塔が目印だよ〜」と聞かされていて、まさにそれが数十メートル先にポツリと立っているのが見えた。ちなみに、美咲さんがデザイナーを志したのも、幼い頃、その鉄塔をもっとオシャレにしたらいいんじゃないか、と思ったのが始まりだとか。
「全く、独特だよな」
「なにが?」
「あぁ、いや。なんでもない」
 危ない危ない。僕も口に出ていたのか。
 笹原に気づかれないよう、小さく深呼吸をする。サプライズまであと少しとなったからか、どうやら僕自身も気づかないうちに緊張していたようだ。
 さて、鉄塔が見えたら最後の連絡をするんだったな。
 光里にアイコンタクトをして意図を伝え、笹原の気を逸らしてもらっている隙に、僕はそっとメッセージアプリを開いた。
 相変わらず返信は来てないが、既読にはなっているし大丈夫そ……――
「――え?」
 後ろから、驚いたような声が聞こえた。
 反射的にスマホから顔を上げ、声のした方を見ようとして……それは目に飛び込んできた。
 鉄塔から少し離れたところにある家の前。先ほどまで、立ち並ぶ家々の影に隠れて見えていなかった部分に……救急車が停まっていた。
「うそ、だろ……?」
 笹原が走り出したのと、救急車のサイレンが鳴り始めたのは、ほぼ同時だった。

 僕は、俯いていた。
 腰掛けている長椅子は、蒸し暑いのに、どこか冷たさすら感じる。受付時間はとうの昔に過ぎており、辺りには、緑色の非常灯やナースステーションから漏れ出る最低限の光しかない。
 隣には、光里が座っていた。
 でも、僕たちの間に会話はない。美咲さんが救急車で搬送され、笹原のお父さんに車でここに連れてきてもらうまで、一言も話していない。というより、話す気力がなかった。
 ……ここに来て、どれくらい経っただろうか。
 笹原は病室で美咲さんに付き添い、笹原の両親は別室で医師からの説明を聞いている。美咲さんは面会謝絶のため、僕らは病院のエントランスで待っていた。
 笹原の両親からは、もう夜だし帰った方がいいと言われたが、いさせてほしいと頼んだ。説明に時間がかかるとも言われた。でも僕は、僕たちは……待つことにした。
 倒れるほど、病気がひどくなっているなんて思ってもみなかった。
 病室に行けば、いつも美咲さんは元気に笑いかけてきて。
 パリパリとポテチを頬張っていて。
 のんびりマイペースに僕らを振り回した、そんな美咲さんが……
「――ありがとう……ございました」
 薄暗い廊下の先から聞こえてきた声に、僕らは反射的に立ち上がった。それから暫くもしないうちに、二つの影が近づいてくる。
「み、美咲さんは……⁉」
 僕が訊くより先に、光里が声をあげた。彼女の澄んだ声は、夜の病院によく通った。
「静かに、光里さん。ここは病院、それも夜だから……ね?」
 駆け寄った光里を、笹原のお母さんが優しく制した。
「は、はい……すみません」
「うん。でも、ありがとう……あの子のことを、心配してくれて……」
 そして、その小さな腕でそっと光里を抱きしめた。彼女は堪え切れず、笹原のお母さんの手の中で小さく震えていた。
「その……美咲さんの容体は?」
 光里が落ち着くのを少し待ってから、僕は笹原のお父さんに向き直った。
「うむ……まぁ、君たちならいいだろう。峠は越えたが、正直言ってあまり芳しくない」
 低い声で発せられた言葉が、想像以上の重さを伴って心に落ちてきた。目の前が軽く揺れたが、どうにか堪える。
「最近の検査結果は良かったんだ。それは、美咲からも聞いていたと思う。だから私たちも、美咲の案に乗った。……だが、今の美咲の容体は、最悪に近いものであるらしい」
「そ、そんな……」
 光里の悲しそうな声が、鼓膜に届く。
 ――ど、どうにかならないんですかっ⁉
 いつかの叫びが、その後に重なった。
 でも、小さく頭を振ってそれを掻き消す。
「み、美咲さんは……大丈夫なんです、よね……?」
 それが、答えられない問いであることはわかっていた。いやむしろ、それを知りたいのは笹原のお父さんやお母さんの方であることも。
 でも、訊かずにはいられなかった。
「……とりあえずは、大丈夫らしい。だが……」
 僕の問いかけに、笹原のお父さんは一度、言葉をつぐんだ。その悲痛な表情に、聞かなければ良かったと思った。
 ――残念ながら、お姉様は、もう……
 だって。その顔は……その声は……
「やはり美咲は…………そう長くは、ないらしい」
 あの時と、同じだったから。
 十年前に、姉を看取った時の、看護師さんと……――。

 あの日は、雨だった。
 病院に搬送されたのは僕と姉だけで、両親はその場で死亡が確認されたと後から聞いた。
 僕は事故の翌日には目を覚ましていたけれど、姉は違った。
 重度の火傷に、大量の出血。まだ生きているのが不思議だと言われた。
 対する僕は、手足や顔に火傷や傷を負ったが、命に別状はなかった。
「うっ……ううっ……」
 僕は、姉が横たわるベッドのそばで泣いていた。
 来る日も来る日も、泣いていた。
 早く目を覚ましてほしかった。僕を抱きしめてほしかった。不安で不安で、仕方なかった。
 そして。事故から三日経った日の夕方に、姉は目を覚ました。
「お姉ちゃん!」
「はる、と……?」
 あの時の嬉しさは、今でも覚えている。
 でも、姉の目はどこか虚ろで、ぼんやりと僕の方を向いているだけといった感じだった。
「ケガとか……してない?」
「僕は少しだけ! でも、お姉ちゃんが……」
「ふふっ……私は、大丈夫。お姉ちゃんは……強いん、だから」
 弱々しくて、今にも消え入りそうな声だった。だから僕は一字にも聞き逃すまいと、必死にすがりついていた。
「ねぇ……陽人」
「なに? お姉ちゃん」
「ひとつだけ……お願いを、聞いてくれない、かな……?」
「いいよ! 何個でも!」
 幾重にも包帯が巻かれた手を、壊れないようにそっと握りしめた。白いはずの包帯は夕日の光を受け、オレンジ色に染まっていた。
「ふふっ……ありが、とう……」
 姉も小さく、僕の手を握り返してくれた。そして微かに笑い、あの言葉を言ったんだ。
 ――あの事故を、どうか……恨まないで。
 それっきり、姉が僕の手を握り返してくれることは、二度となかった。

 美咲さんの病状について説明を受けた後、僕たちは帰路についていた。時刻は二十時を回っており、夜空には夏の月が煌々と輝いていた。夕方まで空を覆っていた雲は、そのほとんどが散り散りになり、行くあてもなくゆっくりと流れている。
 笹原のお父さんからは、夜も遅いから送っていくと言われたが、歩きたい気分だったので丁重にお断りした。それは光里も同じだったようで、こうして僕らは並んで夜道を歩いている。
「……まさか、美咲さんの病気があんなに悪かったなんて、ね……」
 閑静な住宅街に、光里の暗い声が小さく響く。どこかで、驚いたように蝉が一匹、星空へと飛んでいった。
「あぁ、ほんとにな……」
 虫嫌いな僕は、本来なら多少なりとも反応するが、最早そんな元気も気力もない。ただ、彼女の言葉に頷くので精一杯だった。
「笹原くん、大丈夫かな……」
 光里の言葉に、右頬のやけどの痕が軽くうずく。
 自分の姉が、病床で臥せっている姿が浮かんだ。傍らで手を握るも、握り返してくれることはない。モニターが時節発する心電図の音ばかりが病室に響き、望んでいる声は僅かばかりも聞こえてこない。
 そんな、幾重もの不安に押し潰されそうな部屋の中は、生き地獄そのものだった。
「そうだな……後でメッセージ送ってみるよ」
 安心させるように、努めて優しく返事をした。
 笹原はきっと、今も病室で美咲さんに付き添っているだろう。明日学校に来るのも難しいと思う。何より……
「……笹原くん、今日誕生日なのにね……」
「あぁ……ほんとに、な……」
 本当にあんまりだと思った。と同時に、その原因の一端を担ってしまったことが悔やまれた。
 もっと気を遣っていれば、こうはならなかったかもしれない。美咲さんがプレゼント作りを頑張りすぎないように、身体に負担をかけないように、僕にも何かできたんじゃないか。
 でも、今さら悔いたところでどうにもならない。ただただ、良くなることを祈るしかなかった。
「そういえば……美咲さん、いつからそんなに悪かったのかな……」
 ――姉さんさ、実は病気なんだ。
 光里のつぶやきに、花火祭りでの笹原の言葉が唐突に蘇った。
 ――神経難病っつーの? 原因わかんないけど、神経が仕事してくれなくて、それで上手く歩けないみたいでさ。
 あの時の笹原は、確かに少しおかしかった。いつもなら話さないような話を、やけに饒舌に喋っていた。そして……
 ――だからさ、こうやっていつも通り、前みたいに笑ってお祭りに行けるのが、幸せだなぁって思っただけ。
 らしくもなく、不恰好な笑顔を向けてきたんだ。
 もしかしたら、あいつは美咲さんの死の影を悟って、花火祭りに……?
「……もっと前から、なんだと思う」
 きっと、僕らが会った時には、既に……。
 沈黙が、僕らの間に漂った。
 僕は、美咲さんに振り回された日々を、思い返していた。
 あんなに元気そうにしていたのは、僕らのためなんだろうか。
 気を遣わせないために……?
 ……いや。多分それだけじゃない。
 きっと、死が近いからこそ全力でやりたいことをやっていた。
 好きなお菓子を食べたい、なんて身近なことから。
 弟のためにサプライズをしたい、なんて少し大掛かりなことまで。
 本当に、その時その時にやりたいことをやっていたんだと思う。
 後悔しないために。
 最期まで、しっかり生きるために……。
 ――生き物は……死があるからこそ、こうして頑張って生きようとする。
 そこでふと、あの時の言葉が脳裏をよぎった。
 ――少しでも死に抗って、今を懸命に生きようとするの。
 二週間前の、ショッピングモールで。
 いつもと違った様子の光里が、僕に問いかけてきたことを。
「……あ」
 そこで、僕は思い出してしまった。
 黙って隣を歩く少女の、不思議な能力を。
 ……僕は、彼女に言うべきなんだろうか。
 もし、美咲さんが亡くなったら。
 僕は、彼女に、そのことをお願いするべきなんだろうか。
 ――陽人はさ、人を……生き物を生き返らせることって、いいことだと思う?
 あの時の問いかけが、リフレインする。
 ――人を……生き物を生き返らせることって、いいことだと思う?
 僕は、僕は、ぼくは……………――――
「――なぁ、光里。もし、もし美咲さんが亡くなったら……生き返らせて、くれるか……?」
 やっぱり、生きていてほしいと思った。
 自分勝手かも知れないけれど、大切な人には生きていてほしい。直前まで迫った死と向き合って、懸命に生きようとするその努力を薄くしてしまうとしても。
 僕はやっぱり……美咲さんには生きていてほしい。
 ――そう、思った。
「…………そっか」
 月光の下、足音が止まる。
 夜の闇にさえ紛れない黒髪を翻し、彼女は淀みのない所作でゆっくりと、振り返った。
「………………でも。それはできない」
 それは、溢れ落ちたような声だった。
「だって……――陽人から家族を奪ったのは、私だから」
 彼女の瞳は真っ直ぐ、いっぱいの涙を溜めて……僕を、見ていた。
 開け放たれた教室の窓から、生温い風が吹き込んできた。その拍子に、壁に貼られた掲示物がパラパラと捲れ、机に置いてあったプリントが数枚、床に落ちた。僕の近くにも一枚落ちてきたので、拾い上げて机に戻す。
「いよいよ今週の土日か」
 それは、文化祭のビラだった。高校のイメージカラーにもなっているオレンジを基調に、可愛らしいイラストやアレンジされたたい焼きが描かれた、クラスのリーフレット。姉弟で才能があるのか、これをデザインしたやつは……今日も学校を休んでいる。
「大丈夫かな……笹原」
 美咲さんが倒れた日から、今日で五日目。倒れた翌日に送ったメッセージに、落ち着いたら学校に来ると返信があったきり、連絡はない。
 笹原の両親からは、もし良かったら会いに来てほしいと言われているが、結局この土日にも行かなかった。
 ……というより、行けなかった。まだ僕の中には、病床に臥している美咲さんに、その傍らで悲しそうに美咲さんを見つめている笹原に、会う勇気がなかった。そうした場所に足を踏み入れることが、怖かった。
 きっとまだ、心のどこかで、十年前のあの日のことが消化しきれないでいる。
 でも。それがわかったところで、その後どうしたらいいのかわからない。そんなことを考えていたら、土日が終わっていた。
「……やるか」
 これ以上悩んでいても仕方ないので、止めていた色塗りを再開する。僕が担当しているのは、当日の屋台のテントの上に乗せる看板の飾り。お見舞いには行けなかったが、せめて、同じ担当メンバーだった笹原の分までしっかり仕事をしておきたかった。
 ただ、僕は笹原や美咲さんと違って、デザインのセンスも手の器用さもない。できるとすれば、決められた場所に決められた色を塗るくらいだ。それですら、きれいに塗るのは結構難しくて危うい。
「な、なぁ。ここの色って、こんな感じでいいか?」
 早速自信がなくなって、笹原と一緒にリーフレットや看板のデザインを担当していた女子にアドバイスを求める。
「え? んー……もう少し明るい色を乗せるともっと良くなるかな?」
 彼女は少し驚きつつも、丁寧に説明をしてくれた。使う絵の具の色に、水の量やバランス。僕には何をどう考えたらその塩梅に辿り着けるのかわからないが、とりあえず言われるがまま混ぜ合わせ、色を塗っていく。 
「おぉ。確かに、きれいになった」
 そこにはさっきよりも全体的に明るみが増し、華やかさが増した向日葵があった。
「でしょ? またわからないことあったら聞いてね」
「あ、あぁ。その、ありがとう」
 立ち去る彼女に慌ててお礼を言うと、また彼女は驚いたように目を丸くした。なんだ? なんか変なこと言ったか……?
「橘くんさ、なんか最近変わったよね」
「え?」
 思いもよらない返事に、今度は僕が呆気に取られた。
「あぁ、ごめん。変な意味じゃなくて。なんか前は分厚い壁が反り立ってたんだけど、今は薄い板が数枚あるだけ、みたいな?」
「いや、板はあるのかよ」
「アハハッ、そういうとこだって」
 彼女は短く笑うと、他の助けを求める声の方へ駆けていった。
「変わった、か……」
 なんだか少し、くすぐったかった。前に笹原にも言われたし、それは僕も実感している。今の彼女への質問も、以前だったら絶対にしなかったし、何よりこんなにも真剣に準備をしようとは思わなかっただろう。
 確かに、僕のことをあれこれ言う人はいるし、好奇の視線もなくなったわけじゃない。ただ、なんだか前よりも、そうした人が少なくなったようにも感じていた。なぜかは、わからないけれど。
 でもこの変化は、間違いなく笹原と……光里のおかげだ。
 明るい黄色が付いた筆を置き、代わりにポケットからスマホを取り出す。まだ、既読にはなっていない。
「光里……」
 悩みの種は、尽きてくれない。

 土日を含めたこの五日間。笹原だけでなく、光里ともほとんど連絡をとれていなかった。
 あの日の言葉は、今も消えずに耳の奥に残っている。
 美咲さんが倒れた日。その帰り道に、僕は美咲さんを生き返らせてくれないかと訊き、断られた。そして、彼女は続けた。
 僕の家族を奪ったのは、自分だと……――。
 結局、その後光里は走って帰ってしまい、それ以上のことは聞けていない。電話はしたが出てくれず、メッセージで訊いてみるも「言えない」の一言しか返ってこなかった。それ以降、光里にいろいろメッセージを送ってみるが一向に既読はつかず、未読スルー状態が続いている。
 本当に、光里が奪ったんだろうか。
 ボランティア遠足でのことを思い出す。あの時、確かに僕は光里のことを疑った。僕の父を、母を、姉を、崖下に突き落として逃げた対向車の親族か何かなんじゃないかと思って、避けた。
 でも。光里の無邪気な笑顔を見て、真っ直ぐな優しさに触れて、他人のための涙を知って、違うと思った。違うと……思いたかった。なのに……――。
 ――陽人から家族を奪ったのは、私だから。
 彼女の声が、また脳裏に響く。聞きたくない言葉だった。
 彼女は、あの事故を知っている。僕の生き返らせたい人を、知っている。
 彼女は、光里は…………――あの事故の、関係者だ。
 だけど。
 やっぱり……違うと思った。
 光里は、あの事故の加害者側なんかじゃない。僕から家族を……奪ったはずが、ない。
 光里のおかげで、僕は日常の大切さを思い出すことができた。彼女と過ごした日々は、本当に楽しかった。
 光里が流した涙は、僕にくれた言葉は、笹原と美咲さんへの優しい眼差しは……――間違いなく、本物だった。
 もう、わからなかった。
 ――あの事故を、どうか……恨まないで。
 ふと、姉の最期の言葉が蘇る。姉は、どうしてあんなことを言ったんだろう。十年経っても、姉と同じ年齢になる年になっても、僕は未だにあの言葉の意味がわからない。
 光里と会うまでは、憎くて憎くて仕方なかった。あの言葉に縛られて、自分の気持ちとの矛盾に苦しんで、ただただ毎日を惰性のように過ごしていた。姉と同じ年齢になればわかるかもと、そう自分に言い聞かせて今まで生きてきた。
 そして結果的に、今はあの言葉を肯定したい気持ちになってしまっている。
 それに、何よりわからないのが……
 どうして、美咲さんを生き返らせられない理由が、「僕の家族を奪ったから」なんだ?
 なぜ? どうして……――?
 頭の中がぐちゃぐちゃだった。
 光里は、どうしたいんだろう。
 僕は、どうすればいいんだろう……――

 休み時間。今日もダメ元で光里のクラスに行ってみたが、やはり来ていなかった。
「光里ちゃん、大丈夫かな……。こんなに休んだことなかったのにな」
 教室の入り口付近で、か細い声がポツリと漏れた。声の主は、僕が唯一話せる光里の友達。僕よりも頭一つ分背は低く、肩ほどまで伸びた髪を後ろでひとつに束ねている。目尻は少し垂れていて、おっとりとした雰囲気を醸し出しており、名前は確か……光里からは「りんちゃん」と呼ばれてたっけ。
「何か言ってなかった? えっと……」
 光里と同じように「りんちゃん」と呼ぶわけにもいかず、口ごもる。すると、彼女は小さくはにかみ、「遅ればせながら、天音凛です」と自己紹介してくれた。
「えと、光里ちゃんだよね。うーん……風邪をひいたとしか聞いてないや」
「そっか」
 おそらく本当は風邪でなく、僕との一件で休んでいるんだと思う。口をきいてくれないとか、避けられるとかは予想できたが、文化祭直前のこの時期に学校を休み続けるというのは計算外だった。
「文化祭の準備も大詰めだし……光里ちゃんいないと不安だな……」
「あぁ、そういえば、光里は学級委員だったっけ」
「うん。まぁ、文化祭での学級委員の事前準備はほとんど終わってるみたいなんだけど、カフェの外装とか接客用の制服作成のスケジュール管理もやってくれてたから……」
「光里、そんなにいろいろやってたのか……」
 僕との渉外係での調整もそうだし、そのうえ美咲さんのサプライズ計画の手伝いまで……。さすがだと思う反面、どうしてそこまでやるのか不思議だった。
「なぁ、光里って……――」
「お、橘! ちょうどいいところに」
 彼女のことを天音さんに訊こうとした時、張りのある声が上から降ってきた。と同時に、逞しい手が僕の肩を掴む。
「先生、声大きすぎです」
 振り返ると、そこには男子の体育を指導しており、笹原が散々お世話になっている陸上部顧問の先生が苦笑を浮かべていた。
「あー、すまんな。ついクセで」
「まぁいいですけど。それで、何かご用ですか?」
「あぁ、そうだった。橘、お前確か、笹原や天之原と仲良かったよな?」
「え?」
 唐突に出た二人の名前に、思わず呆けた声が出た。
「あれ? 違ったか?」
「いえ……まぁ」
 仲は良いと思う。でなければ、毎朝変なやりとりをしたり毎日一緒に昼食を取ったりしない。
 でも今は、状況が悪かった。そのせいで、結局僕は曖昧な言葉しか返せなかった。
「どした? もしかして今は喧嘩中とか?」
「いや、そんなわけでは……。でもまぁ、はい。仲は、いいですよ」
 歯切れの悪い僕の言葉に先生は首を傾げていたが、やがて割り切ったように表情を戻した。
「実はな、あの二人に渡してほしいプリントが溜まっているんだ。文化祭関係のものもあるし、悪いが届けてやってくれないか?」
 続けて出てきた突然の提案とプリントの束。今度はもう驚きのあまり声も出ない。このタイミングで……? 一周回って、そういえばこの先生は隣のクラスの担任もしてたなー、なんてどうでもいいことが頭に浮かんだ。
「橘?」
「あ、いえ。その……わかりました」
 名前を呼ばれて我に返る。と同時に、僕の中でひとつの意思が生まれた。
 これはきっと、チャンスだ。

 その日の放課後。切りのいいところまで看板の色塗りを終えてから、事情を言って準備を早抜けさせてもらった。
 まだ日が高い午後の蝉時雨の中、僕はなだらかな坂を下っていた。
「あっついな……」
 いよいよ夏も本番。日を追うごとに強くなる日差しや高くなる気温が恨めしい。快晴の青空を滑る雲も、身体を吹き抜ける南風も、夏の気配を濃く深くまとっている。
「えーっと、確か光里の家は……」
 地図アプリを凝視しつつ、僕は案内通りに突き当たりの角を曲がった。
 先生から聞いた光里の家は、思いのほか僕の家から近いところにあった。初めて会ったのが、駅から僕の家までの道中だったのも合点がいく。まぁ、あの時は待ち伏せていたような感じだったけど。
「……あと少し、だな」
 点在する田畑の間を通り抜け、住宅街の角をさらに数回曲がると、急勾配の短い坂が姿を現した。地図アプリによると、この坂を登り切って真っ直ぐ行ったところに、光里の家はあるらしい。
 この坂を登れば……。
 目の前にそびえる坂の前で、僕は足を止めた。道中も考えないようにしていたけれど、もう目と鼻の先というところまでくれば考えない方が無理だ。
 僕は、光里に会って……なんて言えばいいんだろう。
 そんな問いが、頭の中にずっと渦巻いていた。一度考え始めれば、それは瞬く間に思考を覆い尽くしていく。
 どう切り出そうか。何から話そうか。そもそも何を話せばいいんだろうか……――。
 でも、答えはわかり切っている。美咲さんのこと。光里の能力のこと。これからのこと。そして……過去のこと。
 これまでずっと目を逸らしてきて、しっかりと話していなかったことを、話さなければならない。時間だって、もうほとんど残っていないのだ。
「よしっ」
 自分の心に喝を入れるように一声叫び、僕は足を前へ進めた。
「あら? あなた、もしかして光里ちゃんの彼氏さん?」
 唐突に聞こえた女性の声に、反射的に振り返る。そこには……――
「お久しぶりです。七宮春子です」
 僕が知る限り、この世で二人しかいない生き返った人のうちの一人……――七宮さんが、柔和な笑みを浮かべて僕を見ていた。

「ありがとうございます」
 淀みなく流れるような所作で出された麦茶に、僕は恐縮して頭を下げた。
「あらあら、いいのよ。そんなにかしこまらなくて」
 柔らかな微笑を湛えたまま、七宮さんは向かい側に腰を下ろす。
 僕が今いるのは、玄関から進んで少し中に入ったところにある座敷の部屋だ。い草の匂いがふわりと香っており、手入れの行き届いた床の間や書院などは僕の家とは大違いだ。おそらく、客間としていつ誰が来てもいいように、普段からしっかり掃除がされているんだろう。
「それで……今日は光里ちゃんに会いに来てくださったんですよね?」
 麦茶をひと口飲んでから、ゆるりと彼女は切り出した。
「えぇ、まぁ。風邪で休んでる光里さんに、先生から欠席中のプリントを渡してくるよう頼まれまして」
「そうでしたか。でも、ごめんなさい。光里ちゃん、少し散歩に行ってくるってさっき出かけてしまったの。入れ違いになっちゃったわね」
「あぁ、そうだったんですね」
 七宮さんの言葉に、図らずもほっとしたのがわかった。なんとも情けないな、と思う。そんな自分に苦笑しつつ、僕も彼女に倣って麦茶を口へと運んだ。
「ところで、光里ちゃんとはいつから付き合ってるの?」
「っ⁉」
 危うく、麦茶を吹き出しそうになった。が、どうにか堪え、喉へと流し込む。
「いや、その……僕と光里さんは、そんなんじゃないですよ」
「あら、そうなの? でもあなた、光里ちゃんのことが好きでしょう?」
「えっ⁉」
 今度は、声が裏返った。
「違うの?」
「いや、えと……」
「違わないでしょう?」
「え、え、えぇ……?」
 いきなり何を言ってるんだ、この人は。
 やっと落ち着いた心が、またザワザワと波打ち始めていく。
「だって、あなたの顔に書いてあるもの」
「か、顔に……?」
「そう、顔に。人の表情は、思っている以上に豊かなものよ」
 優し気な微笑みが、幾重もの皺が刻まれた口元に浮かぶ。まるで、全てを見透かされているような気分だった。
 思い返せば、初めて会った時も七宮さんはこんな感じであれこれ訊いてきていた。
 あの、夕方の墓地で。
 確か、複雑そうな顔をしていた光里が叫んで、その追求を止めたんだっけ……
「……ふふふっ。意地悪して、ごめんなさい」
 つい二ヶ月ほど前のやりとりを思い出していると、不意に七宮さんが小さく頭を下げた。思わず、僕の口から「え?」と呆けた音が漏れる。
「あなたの顔が、あの時の光里ちゃんと似てたからつい……ね」
「あ……」
 夕暮れに浮かぶ、光里の顔が思い起こされた。
 焦ったような、戸惑いのような、そんな表情をしていた。
 どうしてかわからなくて、僕自身も驚いて……――
「その表情を浮かべた理由は、きっと違うんでしょう。もしかすると、とっても大変なことで悩んでいるのかもしれない」
 彼女はひどく真面目な顔つきで、僕を見ていた。そこには、先ほどまでの少しふざけたような色は微塵もない。
「でも私は、どちらも見過ごせなかった。少し肩の力を抜いて、小さく笑って、そして向き合って欲しかった。空元気でもいいの。物事はね、それくらいの方がうまくいくものよ。そんな、おばさんのお節介」
「七宮さん……」
 ふふふっ、と今度は笑って、七宮さんは残った麦茶をひと息に飲み干した。やがて、氷が音を立ててコップの底へと落ちる。
「さて。おばさんのお節介も済んだことだし、今度はあなたの番ね」
「え?」
「何か私に、訊きたいことがあるんでしょう?」
 チリン、と風鈴が音を立てた。夏の風が室内へ舞い込み、軽く肌の表面を滑っていく。
「…………どうして、そう思うんですか?」
 たっぷりと間を置いてから、僕は尋ねた。
 正直、まだ迷っている。七宮さんに聞きたいことはもちろん、たくさんある。
 僕は、光里と、光里の能力について向き合わないといけない。その中で、実際に能力で生き返った人に話を聞けるのは僥倖だ。
 だけど、果たしてそのことに触れていいんだろうか。
 一度亡くなり、そして文字通り、この世に蘇った人。そのきっかけとなる能力について、訊いていいんだろうか。
 ある種、その人にとっては最大の謎であったり、不安の源であったり、唯一の希望であったりする。むしろ知りたいのはこっちだと逆ギレされてもおかしくない。そんなデリケートな問題に、触れていいんだろうか。
「きっとあなたは、光里ちゃんの不思議な能力について気にしているんでしょう?」
「え…………あ、はい」
 今しがた悩んでいたことが、予想外にも音となってストレートに飛んできた。あまりに直球すぎる質問に、思わず正直な返事が口をついて出る。
「だったら、光里ちゃんの能力で生き返った当人である私に、訊きたいことがないはずがないじゃない。ね?」
「ね? って言われましても……」
 なんだか、想像以上に軽い。もしかして、僕が考えすぎているんだろうか。
「優しいのね。大丈夫よ。おばさんはそんなことで取り乱したりしないわ」
「……わかりました」
 僕は再度気を引き締め、七宮さんに目を向けた。チリン、と風鈴がまた涼やかな音を立てる。
 けれど、僕の頭にはそんな音を楽しむ余裕はなかった。

「――……それじゃ、光里さんのあの能力については……」
「残念ながら、私も橘さん以上のことについては知らなくて。自信満々に言ったのに……ごめんなさいね」
「いえ……」
 おそらく、二十分ほど経過しただろうか。その間、光里自身のこと、光里の能力のこと、能力で生き返った前後のことなど、内容に気を遣いつつあれこれ訊いてみた。そして今のところわかったのは、まとめると三つ。
 光里の母はシングルマザーで、光里が小学生の時に亡くなってしまったこと。
 それからは、ここ祖母宅で暮らしていること。
 光里の能力の詳細については本人しかわからないこと。
 中でも驚いたのは、光里も僕と同じで両親がいないということだった。なんでも、光里が五歳くらいの時に父親が行方不明になり、光里の母親はそれから女手一つで光里を育ててきたらしい。でも、過労がたたって、それから暫くして亡くなったとのことだった。
 塞ぎがちで他人とは壁を作っているような僕とは違い、光里はいつも前向きで明るくて、笑顔の絶えない人気者だ。光里にそんな過去があったなんて想像もできなかったし、何より僕は光里のことを何も知らなかったんだと悔しくなった。
 そして一方、肝心の光里の能力については、何もわからないということがわかった。
「私も生き返ってから光里ちゃんといろいろお話したんですが、能力についてはあまり話したくなさそうにしていて……」
「いえ、大丈夫です。むしろ、彼女が話したくないことを別の人から聞いてしまわなくて良かったです」
「あなた、本当に優しいのね。おばさんも惚れちゃいそうだわ」
「きょ、恐縮です……」
 光里の両親のことを、光里以外から既に聞いてしまっている時点でどうかとも思うが、そこは言わないでおいた。光里も僕の過去を知っているようだし、ここはおあいこということにしてほしい。
 そこで会話が途切れ、お互い緩くなった麦茶を口へと運んだ。思っていた以上に僕の喉は渇いていたらしく、一気にコップの分を飲み干す。そんな僕を見て、七宮さんは小さく笑っていた。なんだか恥ずかしくて壁の時計に視線を移すと、針はそろそろ五時を指そうとしていた。
「光里ちゃん、遅いわね〜。ちょっと散歩に出てくるって言ってたのに」
「いえ。プリントを届けに来ただけですし、光里さんに渡しておいていただければ」
「そうですか。ごめんなさいね、せっかく来ていただいたのに」
「いえいえ。貴重なお話を聞かせていただいてありがとうございました」
 なんとなく帰る雰囲気になったので、麦茶のお礼を言い、立ち上がった……時だった。
「あれ? これって……」
 ふと、そばの棚の上に置いてあった紙に目が留まった。
 それは、手書きの簡単な地図だった。いくつも四角が並んでいて……どこかで、見た気がする……
「あらいけない。出しっぱなしにしちゃってて、ごめんなさい。それは、光里ちゃんに渡した手紙よ」
「手紙……」
「あら? 私を生き返らせてくれた時に、光里ちゃんから見せてもらってないかしら?」
 私を生き返らせてくれた時…………あ。
「あの時! 光里が確か、お墓の場所が書いてあるって……!」
「そうなの。光里ちゃんがお母さんを亡くした時に送った手紙でして。私たちもいい歳だったから、もし私たちも亡くなって、光里ちゃんが寂しくなったら、光里ちゃんの能力で少しの間だけ生き返らせてねって、送ったんです」
 懐かしそうに、そして嬉しそうに話す七宮さんの隣で、僕は呆然としていた。僕はひとつ、大切なことを訊き忘れていたから。
「あの……七宮さん」
「はい、なんですか?」
「えと……あの墓地で生き返った後、確か光里と約束をしたって、おっしゃってましたよね? もしかして今のが、その約束ですか?」
「えぇ、そうですが……」
「その約束をしたのは……いえ、七宮さんが初めて光里の能力を見たのは、いつなんですか?」
 僕はすっかり忘れていた。そういえばあの時、光里は七宮さんと何かを約束して、それで来たと言っていた。そしてその約束が、今七宮さんが言った内容なら、光里が能力を得たのは、おそらくかなり前……
「私が初めて光里ちゃんの力を見たのは、十年も前ですね。そういえば……ちょうど光里ちゃんが、お母さんを亡くしたばかりの頃でした」
「十年前……」
「光里ちゃんのお婆ちゃんに用があって、この家を訪ねてきた時に、たまたま見たんです。確か……雀か何か、小さな鳥を生き返らせていたような気がします」
「雀……」
 ショッピングモールでの出来事が脳裏をよぎった。いつもの光里とは違う、壊れてしまいそうな表情が何度もちらつく。
 頭が割れそうなくらいに痛んだ。でも、ここで考えることを止めてはいけない。
「その時はびっくりして、腰を抜かしそうになったわ。だって、目の前で横たわっていた動物が、急に元気になって羽ばたいて行ったんですもの。まぁ、一緒にいた優ちゃんは、腰を抜かしていましたけれど」
「優ちゃん?」
「あぁ、ごめんなさい。私と、光里ちゃんのお婆ちゃんの友達で……そうね、一ノ瀬優子と言った方がわかるかしら?」
「一ノ瀬優子っ⁉」
「そう、女優のね。本名は原田優子。まさかあのおっちょこちょいの優ちゃんが女優になるなんて思っても見なかったわ〜」
 マイペースに笑う七宮さんの前で、僕はさらに追加された情報に顔を歪めるしかなかった。
 一ノ瀬優子。
 一人目の、生き返った人だ。
 まさか、ここでその名前が出るなんて……。
「そ、それで……?」
「あぁ、そう。それで、びっくりはしたんですが、その時の光里ちゃん、泣いててね……。さすがにあれこれ訊くわけにもいかなかったから、その後しばらく優ちゃんと相談して、私たちは光里ちゃんを見守ろうってことにしたんです。手紙は、その時に私と優ちゃんが送ったものなの」
「そう、だったんですか……」
 どうやら、話は終わりのようだった。
 でも、僕の頭は以前、フル回転していた。
 十年前。光里のお母さん。雀の生き返り。一ノ瀬優子……――。
 ――ピリリッ!
「わっ⁉」
「ひゃっ⁉」
 僕のポケットから、突然着信音が響き渡った。この音は……電話だ。
「あ、僕のスマホです……」
「そ、そう……。ふふっ、あなたの声にびっくりしちゃったわ。さ、私にお構いなく」
「は、はい。すみません……」
 この間も鳴り続けるスマホを取り出し、画面を見る。そこに書かれていた名前に、僕は急いで通話ボタンを押した。
「笹原っ⁉」
「ぬあっ⁉ うるせーな。ふつー、電話の第一声は『もしもし?』だろ」
 五日ぶりに聞く笹原の声に、軽口。さっきまで高鳴っていた心音が少しずつ落ち着いていく。
「あぁ、悪い。それで、どした? 美咲さんの容体は……?」
「親友である俺の調子より、その姉を優先かよ。まぁ、いーけど」
 小さく笑う彼の口調に、そうでないとほぼ確信する。でも、直接聞くまでは安心できなかった。別の要因で、心臓がドキドキと再び音を立てている。
「さっき、目を覚ましたよ。お前に会いたいから来てくれ、とさ」
 窓の外では、午後五時を知らせる音楽がやけにゆったりと、茜色の空に流れていた。

 七宮さんに事情を言って光里の家を後にすると、僕は大急ぎで駅に向かい、電車を乗り継いでどうにか飛田総合病院へと辿り着いた。
「落ち着け……きっと、大丈夫……」
 そう自分に言い聞かせてみるも、緊張は和らぐところを知らなかった。
 高鳴る心臓。暑さとは異なる冷や汗。若干揺らいでいるような気さえする視界……
 リノリウムの床を踏み締め、一歩ずつ前へと進んでいく。何度か深呼吸を繰り返し、ようやくその病室へと辿り着いた。
 ドクン、と心臓が一際大きく跳ねる。
 病室と廊下を隔てる大きな扉の前には、一枚の札がかかっていた。
 面会謝絶。
 笹原からの電話でも、受付でも話を聞いていたから、驚くことはなかった。まだ目を覚まして間もない美咲さんは、例え元気でも一般の来院者では会うことができない。今回僕は、本人が希望したから特別に会うことができる。
「……大丈夫」
 もう一度息を深く吸い、そして吐き出した。汗の滲む手を持ち上げ、目の前にそびえる扉を小さく叩く。
「よう。やっと来たか」
 想像よりも軽やかに扉が開き、聞き慣れた声が鼓膜を震わせた。たった五日程度なのに、それはひどく懐かしかった。
「元気そうだな」
「ああ、なんとかな」
 扉のレールを境に、僕らは軽く挨拶を交わす。彼は少し痩せていたけれど、顔色は良さそうだった。そして、促されるまま僕はその病室へと、足を踏み入れた。
「やほ〜! 元気してた〜?」
 そこには……倒れる前と全く変わらない、のんびりとした口調で笑いかけてくる、美咲さんがいた。
「……美咲さん?」
「そうだよ〜。え、もしかして、顔忘れちゃったとか〜?」
 パリパリパリ。
「いや、なんか……思ったより元気そうですね?」
「え〜、そんなことないよ〜。生死の境を彷徨ってたんだから〜」
 呆然とする僕の様子に満足したのか、美咲さんはあけすけに笑った。そしてその間も、美咲さんの口からは香ばしい音が規則正しく響いており……っていやいや、ちょっと待て。
「そのポテチは?」
「ん〜? 弟の差し入れ」
「うそつけ。姉さんが買ってこいって俺をパシらせたんだろ。マジでバレたら洒落にならないし、身体も本調子じゃないんだから小袋で我慢しとけよな」
 ベッド横の丸椅子に腰掛けた笹原は、不満そうな声をあげた。でも、そんな口調とは裏腹に表情は穏やかで、口元を緩ませながら美咲さんを見つめている。
「もう〜わかったわよ〜。じゃあここは、陽人くん。大袋の……」
「元気に退院してくれたら、いくらでも買ってきますよ」
 美咲さんの軽口を受け流しつつ、僕は笹原の隣に腰掛けた。「ちぇっ」と小さく舌を鳴らす彼女は、本当にいつも通り。
 けれど。ここまで彼女と一緒に誕生日サプライズ計画を進めてきた僕には、そのらしくなさが際立って見えた。
「言質とったからね⁉ とか、言ってくれないんですね」
「……」
 美咲さんは答えない。むしろそれが、彼女の今の状況を雄弁に物語っていた。
「美咲さん、やっぱり……」
「うん。多分、陽人くんの思ってる通りだよ。聞いちゃったんだね。私の病気のこと」
「……ごめんなさい」
「いや〜、謝ることないよ〜。言ってなかった私も悪いし。それに、今日話したかったことのひとつでもあるから」
「今日話したかったことの、ひとつ?」
 意味深な言い方だった。
 美咲さんはクスリと小さな笑みをこぼすと、笹原に少し席を外してくれるよう言った。事前に話していたのか、笹原は何も言わずに頷くと、足早に病室を出て行った。
「今日話したかったのはね。私の病気のことと、君自身のこと。そして……」
 美咲さんはそこで、一度言葉を区切った。黒い大きな瞳が、僕を見据える。
「――君の、お姉さんのことだよ」
 窓の外では、分厚い雲が立ち込め始めていた。

「…………えと、なんで美咲さんが、僕の姉のことを……?」
 夏空を覆う雲から水滴が零れ、疎らに窓を叩く頃になって、漸く僕は口を開けた。
「美沙とは、友達だったの。……ううん、親友って言った方がしっくりくるかな。それくらい、仲が良かった」
 僕とは対照的に、美咲さんはほとんど間を置かず返事をした。久しぶりに聞く姉の名前に、思わず身体がびくりと跳ねる。
「高一から同じクラスでね。名前が似てるねーって美沙から話しかけてくれて、すぐに意気投合したの。美沙は本当に真っ直ぐで、明るくて、誰にでも優しくて、眩しかった。美沙といると不思議と元気になって、笑顔になれた。私にとって美沙は大切で、かけがえのない親友だったんだ」
 でも、美咲さんは僕に構うことなく続けた。姉のことを、美咲さんはすごく無邪気に話してくれた。
 何気ないお喋りが楽しかったこと。
 音楽やドラマだけでなく、男子の好みも同じだったこと。
 二人で学校をサボって遠出したこと。
 海に行ったこと。
 カラオケに行ったこと。
 あれも、これも……思い出をたくさん、語ってくれた。
「でも。高二になったある日……私たちは、喧嘩をしてしまった……」
 遠くで雷鳴が轟いた。雨は勢いを増し、割れるんじゃないかと思うほど激しく、窓を打ち付けている。
「あの頃、美沙は悩んでたの。偶然公園で仲良くなった女の子が家庭不和の問題を抱えてて、それで相談に乗ってあげてたみたいで」
 初めて聞く話だった。あの頃、姉の悩んでいるような姿を見たことはなかった。僕の記憶にあるのは、くだらない話を楽しそうに喋っていて、憎たらしいくらい喧嘩の種を蒔いてくる、そんな姿ばかり。
「あの子、困ってる人は放っておけない性格だったから。でも、あまりにも悩んでたから見てられなくて……他人の家のことでそんなになるまで悩むことないって、言っちゃったの。バカだよね、私。しっかり話し合っていれば、喧嘩にはならなかった。すぐに仲直りできた。でも私たちは……それから疎遠になっていった」
「疎遠に?」
「うん。学校でもあまり話さなくなって、目が合うと気まずくて避けて……。何度も仲直りしようと思ったんだけど、私たち意地っ張りだったからなかなかできなくて…………辛かったな」
 美咲さんの顔が苦しそうに歪んだ。そして徐に、窓の方へと視線を向ける。
「あの日も、雨だった。私は、今日こそは仲直りしようと思って、早めに学校に来てた。朝イチで謝らないと、またズルズルいっちゃいそうだったから。だから、美沙が好きなお菓子を買って、どうにか生徒指導の先生の持ち物検査をかい潜って、自分の席でドキドキしながら美沙を待ってた。そして……」
 彼女の顔が、再び僕の方に向く。
 窓の外を眺めていたのは、僅か数分。
 僅か数分で……彼女の顔色は変わっていた。
「朝のHRで、私は……もう二度と、美沙に会えないことを知ったの」
 薄く、彼女は笑った。とても悲しそうな笑顔だった。
「その時の事情は……きっと、君の方が詳しいよね?」
「……はい」
 思い出したくもない、橙色の記憶。
 揺らめく炎。泣き叫ぶ声。降り頻る雨音と、赤くただれた肌。そんな地獄の中から姉は僕を救い出してくれて……亡くなった。
「前にも、少し話したよね? 私は、大切な人に自分の気持ちを伝えられなかったことがあったって」
 彼女は目元を軽く拭ってから、またゆっくりと雨音の方へ顔を向けた。美咲さんらしくない、寂しそうな横顔が脳内に浮かんで、目の前の彼女と重なる。
「確か……喧嘩して、好きなのに伝えられなかったって…………あ」
「そ。あれは告白じゃなくて、謝罪と感謝の気持ち」
 ある意味告白だけどね、と美咲さんは自嘲気味に肩をすくめた。
「私は、伝えられなかったの。そして、ここまで来てしまった。社会人になって、病気にかかって、そんなに長くないかもって言われた時、美沙の顔が頭に浮かんだ。やっと謝れるんだって……思った」
「美咲さん!」
 思わず叫ぶ。その意味するところを、続けさせたくなくて。
 でも、彼女は首を小さく横に振った。
「大丈夫。知ってるよ。美沙は、そんなふうに諦めて死んだ人の謝罪なんて、聞いてくれない。絶交だって言われる。だから、私は最期まで生き抜いて、胸を張って死んでから、美沙に謝りたい。そう思って、今日まで生きてきた」
「美咲さん……」
「サプライズ計画も、そのひとつだった。弟に、幹也に何かしてあげたくて。ずっと、気を遣わせちゃってたから。だから、協力してくれてありがとう」
 美咲さんは、そっと僕の手を握った。柔らかくて、温かい手だった。なんだか、懐かしいなと思った。
「私もまだ生きることを諦めたわけじゃないけど、どうしても君には言っておきたくて。……そして、これは君にも当てはまることだと思ってる」
「え?」
「私は……君にも、後悔のないように生きてほしい」
 黒曜石のような瞳が、僕を真っ直ぐ見据えた。そして、徐に空いた方の手を伸ばすと、僕の右頬――やけどの痕がある場所に優しく触れた。
「多くは語らない。君は、きっとわかっているだろうから。ただ、美沙なら多分、今を良しとはしない。そう思う」
 熱を帯びた言葉が心に落ちてきた。
 でも僕は、すぐには受け止められなかった。
「ありがとう、ございます……。でも、僕の中で、まだあの過去を清算できてないんです。それに……」
 言葉が続かない。言えるはずもない。
 そもそも、どうやったら過去を清算なんてできるのか。
 光里と話して、もし僕の中の仮定が合っていたら……僕はそれで、あの過去を乗り越えられるのだろうか。
「大丈夫。自分の中で、それがわかっているなら大丈夫だよ。焦らないで。きっと君なら、大丈夫――」
 手が引き寄せられた。僕の額が、彼女の肩に当たる。病衣特有のツンとくる匂いが鼻孔を衝き、そして後から、柔らかな香りにふわりと包まれる。
「大丈夫だから――」
 首筋と背中が温かい。まるで、そこから心にまで熱が伝わってくるような。
 肩も、腕も、顔も、胸も、温かくて。
 目尻だけが、少し熱くて――。
 規則的な雨音が響く病室で、僕はしばらく震えていることしかできなかった。

 やばい。
 僕は、もう生きていられないかもしれない。だって……
「手を放してください、美咲さん。恥ずかしいので帰りたいです」
「ダーメ。写真撮らないからせめてもうちょっといてよ~」
 泣き顔を見られるなんてどんな仕打ちだ。確かに心は軽くなったけれども。それでもこう、人には見られたくない一面みたいなのがあるわけで……。
「写真なんてもっての外です」
「じゃあ、いいじゃん〜。ね? ほら、ここに座って、ここに」
 美咲さんは僕の服から手を放すと、先ほどまで僕が座っていた丸椅子をポンポンと叩いた。そして、なにやら含みを持った笑顔を向けてくる。
「……どうしても?」
「どうしても〜っ!」
「はぁ……わかりましたよ」
 まぁ僕自身、本当に帰ろうとは半分程度しか思ってなかったので、渋々腰を下ろした。
「ただし、笹原が戻ってくるまでですからね」
「わかったって〜。それに、別にいいんじゃない? 辛い時とか、いっぱいいっぱいの時は、誰かに寄りかかったって」
「……僕、そんなに思い詰めた顔してました?」
「そりゃ〜もう。今から戦場にでも行くのかって感じだったよ〜」
 ケラケラと笑う美咲さんは、すっかりいつもの調子に戻っていた。ただそれでも、この場の空気が重くならないように、気を遣ってくれているのがわかった。やっぱり、美咲さんには敵わない。
「そんなにですか。ならまぁ……ありがとうございます、と言っておきます」
「ふふっ。素直じゃないなぁ〜」
「ほっといてください」
「はいは〜い」
 のんびりとした彼女の口調とは対照的に、外の雨はさらに強まっていた。こんな大雨になるなんて天気予報では言ってなかっただけに、ついつい視線は窓の方へと向けられる。
「私……やっぱり、夏に降る雨って苦手なんだよね」
 僕と同じように雨を見ていた美咲さんが、ポツリとつぶやいた。
「はい……僕もです」
 あの日を、あの時期を思い出す夏の雨は、どれだけ時間が経っても心をざわつかせる。
 オレンジ色で世界を染める夕陽。
 唐突に空を覆う、薄暗い雲。
 湿気の多い、じめっとした空気。
 空の彼方で轟く雷と稲光。
 激しく降り注ぐ、大粒の雨――。
 そのどれもが、あの日と似ていた。酷似していた。ただの夕立なのに。それは重く、深く、心に浸透してくる雨音だった。
「……美咲さん。僕にまだ、何か言いたいことがあるんじゃないんですか?」
「え?」
 美咲さんは驚いたように振り返った。
「そんなに驚かなくても……。だって、美咲さんが僕を呼び止めるのは、何か用事がある時ですから」
 サプライズ計画の準備をしている時。美咲さんが僕を引き留め、光里についてあれこれ聞いてきた日のことを思い出す。いつもみたいにお菓子を食べ終わって、「まだいるよね〜?」とにこやかに言われて、結局その後に質問攻めに遭ったんだ。 
「アハハッ。さすが陽人くんだね〜。やっぱり、姉弟そっくり……」
 美咲さんは小さく苦笑いを浮かべると、何かを思い出すようにそっと目を閉じた。
「……そうだよ。もしかしたら、お節介かもしれない。関係ないことかもしれない。でも……今は、伝えられることは伝えておきたいの」
 再び目を開いた美咲さんは、僕をじっと見つめてきた。黒くて大きくて、混じり気のない澄んだ瞳。さっきは受け止めきれなかったけど、今なら……美咲さんのおかげで少し吹っ切れた今なら、大丈夫だと思った。
「……わかりました」
「ありがとう」
 僕の返事に、美咲さんはまた短く笑った。
「話っていうのは……光里ちゃんのこと」
 窓ガラスをたたく雨は、まだまだ止みそうにない。

「それで……光里の、何の話ですか?」
 外では、雨に加えて風も強くなっていた。ガタガタと窓枠を揺らす音は少しうるさいくらい。そんな音に負けないよう僕は小さく息を吐き出してから、徐に切り出した。
「まぁそうね。いくつか話したいことはあるんだけど……まず、何かあったんだよね?」
 やはりか。
 思っていた通りの問いかけ。おそらく、笹原に頼んで電話やメッセージをしてもらったけど反応がなかったってところだろう。
「まぁ、ちょっと……喧嘩とかじゃないんですけど……ギクシャクというか、疎遠な感じになってて……」
「……そっか。うん、深くは聞かないよ。それで今、君は光里ちゃんのことをどう思ってるの?」
 言葉を選ぶようにゆっくりと、美咲さんは訊いてきた。いつものゆったりとした喋り方とは違う、静かで研ぎ澄まされたような口調。
 そして、今日何度目かになる真剣な眼差しに見つめられ、僕はしばらく口をつぐむしかなかった。回数を重ねても、その意味合いの重さが軽くなることはない。
「……僕は、光里のことを……――」
 不意に、風の音が止んだ。 
 病院特有の匂いや椅子の感触、微かな蒸し暑さが遠ざかっていく。
 きっと、僕は考えていた。
 ここに来るまでずっと……いや、光里にあの言葉を突き付けられた日から。
 ――僕は今、光里のことを、どう思っているんだろう。
 少し前に、自分の奥底で溜まっていた気持ちに気づいた。それは、ずっとずっと前から少しずつ器に溜まっていて。知らないうちに、溢れそうになっていた。
 そこへ落とされた一滴の雫と、広がっていく波紋。
 光里に向けられた真っ直ぐな想いと、それを拒絶する彼女の言葉は、今も覚えている。そしてその後に続けられた、僕への気持ちも……――。
「……大切で、かけがえのない人だと、思ってます」
 それでも。
 関係ないと言われようとも、光里があの事故に何らかの形で関わっているかもしれないとしても、僕は……光里のことが大切だ。そして、多分……
「――好きなんだと、思います」
 僕は、彼女の笑顔に救われた。
 彼女と過ごす日々に、また生きようと思えた。
 周囲の環境に合わせて抜け殻のように生きていくんじゃなくて。
 悩んで、笑って、怒って、ふざけて、心配して、泣いて、また笑って――。
 僕はもう一度、そんな日常を過ごしていきたいと思ったんだ。
「……そっか。良かった」
 視線の鋭さが、ふっと緩んだ。
「今もそう言えるなら、そう思えるなら、きっと大丈夫だね」
「今も?」
「この前も、そうだったでしょ?」
 今度は、少し悪戯っぽく笑って僕を見る。
「あの時はそんなこと言ってないです!」
「でも、思ってたことは否定しない、と」
「ぐっ……」
 事実その通りだったので、何も言い返せない。でもなぜか、それが妙に心地良かった。
 美咲さんはそんな僕を満足そうに見て、また短く笑った。
「ふふっ。その気持ち、忘れないでね。とっても大切なものだから。そしてその気持ちで、光里ちゃんの力になってあげて」
「光里の?」
 僕が聞き返すと、美咲さんはゆっくりと頷いた。
「うん。光里ちゃんは……きっと何か大きなことで悩んでる」
「それは……」
「私も詳しくはわからない。けれど……お祭りの時も、サプライズ計画の準備の時も、光里ちゃんは何かに悩んで、苦しんでた」
 美咲さんの言葉に、一ヶ月も経っていない記憶が蘇る。
 光里の様子について一番印象に残っているのは、弱った雀が倒れていた時だ。確かにあの時の光里は何か変だったし、苦悩しているようにも見えた。
 でも……。もしかしたら、おかしなところは他にもあったんじゃないだろうか。
 花火祭りの時も。買い物の最中も。学校で会っていた時や、文化祭の打ち合わせの時。すれ違った時、隣で歩いていた時……。
 何気ないと思っていた日常の中で、
 僕の気づかないところで、
 もしかしたら光里は……ずっと悩んでいたんじゃないだろうか。
 ――陽人から家族を奪ったのは、私だから。
 あの言葉を思い出す。
 事故当時、光里はまだ七歳だ。
 父親は行方不明でおらず、母親に至っては亡くなっている。
 もし最初から、出会った時から……そんなふうに思っていたんだとしたら。
 光里はいったい、どんな気持ちで、覚悟で、僕と笑い合っていたんだろう――。
「僕は……バカだな」
 思い切り、両手で頬を叩く。
「は、陽人……くん?」
「いやこれ、思ったより結構痛いんですね」
 ジンジンと両頬が痺れている。そして多分、赤くなっている。
「……覚悟、決まったみたいだね」
「はい。おかげさまで」
 僕は、光里と向き合いたい。
 これまでのことも。これからのことも。
 全部受け止めて、そして……伝えたい。
 しなければならないじゃなくて、したいんだ――。
「でも! 今日はもう遅いから、明日にするんだよ〜?」
「……わかってますよ」
 出鼻を挫く言葉にムッとしたが、外の様子に合点がいった。
 そんなに時間は経ってないと思っていたのに、窓の外はいつの間にか真っ暗になっていた。雨はかなり弱くなっていて、傘を持っていなくてもなんとか帰れそうだ。それに、夕ご飯の支度もしないと。
「まっ、何かあったらこの美咲お姉ちゃんに相談しなさいな〜」
「期待せずに頼らせていただきますね」
「ちょっと〜!」
 お互いに軽口を言い合い、笑い合ってから僕は席を立ち、病室の扉の方へと向かう。
 本当に、今日は来て良かった。
 直接お礼なんて言うのも恥ずかしいから、心の中でこっそり…………いや――。
「……美咲さん、今日はありがとうございました。またみんなで、お菓子食べましょう」
 病室の扉に手をかけたまま、振り返る。あんまり得意じゃない笑顔を浮かべ、恥ずかしさと悲しさを押し殺して、僕はそんな言葉を投げかけた。 
 特に返事はなかったけれど、彼女は嬉しそうに笑い、手を振っていた。

「速報です。先日蘇ったと噂されていた元女優の一ノ瀬優子さんが、昨日、亡くなっていたことがわかりました――」
 居間のテレビから流れたニュース速報に、結局、僕は夕ご飯を作ることができなかった。

 昨日通った時は、見慣れない景色だった。
 近所にはない平屋。青々と生い茂った稲。歩いたことのない畦道――。
 けれど。二回目ともなれば話は別。真新しさは薄れ、多少なりとも慣れてしまい、気持ちは楽になる。だいたい何事も、二回目は心に余裕があるものだ。
 ――でも。今の僕は、全くの逆だった。
「はぁ、はぁ……」
 寝不足の体に鞭を打ち、必死に足を前へと進める。周囲を気にしている余裕はなく、何度も転びそうになった。でも、走るのを止めるわけにはいかない。
「はぁ……はぁ……」
 肺が痛い。足が重い。
 まだ朝も早く、陽はそんなに高くないのに、僕は全身汗だくだった。いつもなら、「今日も暑くなりそうだな」なんて思いながら朝ご飯を作っている頃。だけど今日は、独特の蒸し暑さや蝉の鳴き声など、汗を滴らせるに十分な夏の気配の中を駆けていた。
「はぁ……ふぅ……」
 住宅街を抜け、田畑を突っ切り、僕はどうにか目的地の近くまで辿り着いた。あとは、この短いながらも急な坂道を登るだけだ。
「ふぅ…………」
 小さく息を整える。ドクドクと脈打っていた胸のあたりが、呼吸に合わせて落ち着きを取り戻していく。まぁそれも、ある一定程度までの話だが。
「……っ、くそっ。やっぱダメか……」
 小休止の間、メッセージアプリを立ち上げてみるも、相変わらず光里のアイコンは沈黙を貫いている。昨夜の鬼電も合わさって、アプリのメッセージ欄はちょっと引くレベルだ。
「……まぁでも、行くしかないよな」
 事情が事情なだけに、こっちも諦めるわけにはいかない。
 昨夜のニュースは、あまりにも衝撃的だったから。

「速報です。先日蘇ったと噂されていた元女優の一ノ瀬優子さんが、昨日、亡くなっていたことがわかりました」
 緊張したような、焦ったような、そんなアナウンサーの声がテレビから聞こえたのは、ちょうど夕ご飯を作ろうとしていた時だった。
「えー、繰り返します。元女優の一ノ瀬優子さんが昨日、亡くなっていたことが――」
 速報なだけに、大した情報はない。けれど、それすら頭に入るのに時間がかかった。
 一ノ瀬優子。光里の能力で生き返った、おそらく最初の人。
 その人が……亡くなった?
 続報のニュースを聞いていくと、死因は病死で、数日前から体調がすぐれなかったらしい。しかし、所々曖昧な報道で、どうやら詳しいことは何一つわかっていないようだった。
 さらに、ネットニュースやSNSでは物凄い数の推測や憶測が飛び交っていた。幽霊説や集団催眠説、人体実験説なんてものまであり、タイトルだけで吐き気がして読むのをやめた。
 直前に病院で美咲さんから諭された手前、光里に連絡することは躊躇われたが、さすがに連絡しないわけにはいかなかった。
 既読すらついていないのにメッセージを送り続け、コール音しかしないのに電話をかけまくった。
 そしてもちろん、光里からは一切反応がなかった。
 どうしようもなくなって途方に暮れていたところに祖父が帰ってきて、かなり心配された。けれど相談できるはずもなく、体調が悪いと言い訳をして自室に閉じ籠った。
 その間。月明かりだけが差し込む薄暗い部屋の中であれこれと考え、思い出していた。
 光里の能力は、一時的に人を生き返らせるだけなのだろうか。
 今日話した七宮さんは、間違いなく生身の人間だった。幽霊や催眠な訳がないし、光里が能力を使うところも見ているから人体実験というのも有り得ない。
 つまり、光里の能力にはまだ僕が知らない何かが隠されている――。
 ……まぁ。だから何だというのか。
 光里と過ごした学校での日々や、ボランティア遠足。花火祭り、買い物、文化祭の準備。どれも、僕の日常に彩りを取り戻させてくれた大切な思い出だ。
 どれだけ考えようと、もはや僕の気持ちは変わらなかった。
 僕は、光里と向き合いたい――。
 これまでのことも。これからのことも。
 光里の能力も含めて、全部受け止めて、そして……伝えたいのだ。
 ――覚悟、決まったみたいだね。
 数時間前に聞いた優しい声が、脳裏で響く。
 僕の、もう一人の姉のような、そんな存在だ。
「大丈夫です。心配しないでください」
 覚悟は、とっくに決まっている。そして――

「はい。どちら様ですか?」
 呼び鈴が鳴り止むと同時に引き戸が開いて、一日振りとなる女性が現れた。
「おはようございます。また会えて良かったです……七宮さん」
 ――それを証明するために僕は、ここにいるのだ。

 早朝の高台に、一陣の風が吹き抜けた。緑の木々を揺らし、枝葉をなびかせて青空へと舞い上がる。それに驚いた小鳥が二羽、鳴き声をあげて何処ともなく飛び去っていった。
「あなたは…………おはようございます。どうしたんですか? こんな朝早くに」
 昨日と変わらない丁寧な物腰のまま、七宮さんは驚いた表情を浮かべた。時刻はおそらく六時を少し過ぎたあたりなので、時間という意味では驚くのも無理はない。しかし、さすがに来た理由がわからないはずがない。
「……ニュースを見て、来ました。その……光里は、いますか?」
「……」
 彼女は何も言わない。何かを考えるように、迷うように、僕のことを見ていた。
「七宮さん。僕は、光里と向き合いたいんです。僕はずっと、彼女と本当の意味で向き合うことを避けてきました。だってそれは、この顔にある傷痕とも、向き合うことになるから……」
 自分の右頬に触れる。乾燥した肌に、少し硬い皮膚の感触。なんだか、久しぶりに触ったような気がした。
「この傷は、昔事故で負ったものです。その時に、家族を亡くしました。その過去を引きずって生きていた時に光里と会って……そして、問われたんです。生き返らせたい人はだれかと」
 あれから三ヶ月しか経っていないのに、随分と遠いことのように感じた。
 それは多分、光里と、笹原と、美咲さんと……みんなと過ごした日々が、それだけ濃かったからだ。
「彼女と向き合うには、僕はこの過去とも向き合わなければいけません。そして薄々、その過去に光里が関わっていることも感じていました。だからこそ……僕は、怖かった。光里と向き合うことが怖くて、逃げていました」
 最初は素っ気なく突き放して、文字通り避けようとした。
 でも彼女は強引で、どんどん踏み入ってきて、笹原もそれに合わせて……気がつけば三人で過ごす日々を心地良く感じていた。
 と同時に。今度はその日々にのめり込むことで、僕は逃げていた。……過去と向き合うことから、目を背けていた。
「正直、今でも怖いです。僕は、僕だけが生き残ってしまったあの事故と向き合うのが……すごく怖い。光里がどんなふうに関わっているのか知るのも怖い。……でも。きっとそれは……光里も同じなんだと、気付きました」
 あの日の夜。月明かりの下に浮かぶ、光里の顔を思い出す。
 彼女は、今にも零れ落ちそうなくらい、涙を溜めていた。
 でも、泣いていなかった。
 目を逸らすことなく、真っ直ぐ、僕を見つめていた。
 それは、どれだけ苦しかったんだろう。
 光里と過ごした日々は、うそ偽りのない楽しさに溢れていた。それは間違いない。きっと彼女も、僕や笹原や美咲さんと過ごした日常を、楽しんでくれていたはずだ。
 でも実は。そんな日々の後ろに、あんな悲しい気持ちを抱えていて……
 その気持ちを我慢して、押し込めて、隠して、笑って、はしゃいで、楽しんで……そして、突然日常が壊れそうになった。そんな矢先に……――
 僕から家族を奪ったのだと言うのは……――どれだけ怖かったんだろう。
「僕はまた、光里と、みんなと、心の底から毎日を楽しみたいんです。だからこそ、そのために、僕は……」
 スッと息を吸う。蝉の鳴き声が、止まった。
「――僕は、光里と向き合いたいんです」
 また、一際強い風が夏の気配を運んできた。
 砂が舞い、葉が舞い、光が舞う。
 そんな中でも動じることなく、七宮さんは僕の目を見つめ続けていた。
「…………わかったわ。少し、待ってて」
 それだけ言うと、彼女はフイッと中に引っ込んだ。しばらくすると、ある一冊のノートを手に戻ってきた。
「それは……?」
「これはね……光里ちゃんの日記」
「え?」
「私は見ていないけれど……光里ちゃんはいつもこれだけは肌身離さず持っていた。これはきっと、光里ちゃんの気持ちのノートなの……」
 七宮さんは神妙な顔でそれだけ言うと、無言でノートを差し出してきた。
「……光里ちゃんは、とっくに家を出たわ。あなたが来たら適当に受け答えをして、そして、『出会った場所で待ってる』とだけ伝えてと言われてるの。これだけ言えば、あとは走り出すだろうからって」
「あいつ……」
 確かに、気持ちの決まっていなかった時だったら、光里の思惑通りに行動していただろう。ったく、どこまでも先回りしやがって。
「橘陽人さん」
「はい」
「光里ちゃんを…………どうか、救ってあげてください」
 今までで一番深いお辞儀に、僕はもう一度返事をしてから……
 ――元来た道へと、駆け出した。

「随分遅かったね」
 その場所に着くと、光里はあの日と同じように制服を身にまとい、小さく微笑みながら立っていた。長く艶やかな黒髪も、陽光に輝くクラスバッチも、あの日と変わらない。違うとすれば、制服が夏服になっていることと、僕が彼女に気づいていることくらいだ。
「まぁ、ちょっとな」
「ふーん……そっか。さっ、学校行こ? 今から行っても遅刻確定だけど」
 僕の曖昧な返答を気にすることなく、光里は短く笑い、そして歩き出した。その様子は、きっと出会った頃なら普通だっただろう。僕も素っ気なくしていたし、彼女も必要以上に訊いてはこなかったから。でも、美咲さんが倒れる前の僕たちからすれば……少し、異常だ。
「訊かないのか?」
 堪らなくなって、僕は思わず訊いていた。
「何を?」
「何をって……遅れた理由とか」
「んー……じゃあ、なんで遅れたの?」
「じゃあってなんだよ」
「訊いてほしそうな顔してたし」
「そんな顔してねー」
「してたよー」
 夏色の日差しの下で交わされる、軽口の応酬。これは前と同じだけど、やっぱりどこかぎこちない。
「訊いてほしそうな顔って、どんな顔だ」
「こんな顔?」
 ムスッとした、どこか不機嫌そうな表情を彼女は作る。
「僕はそんな顔してない」
「えーいつもしてるじゃん」
「だったらヤバいやつじゃねーか」
 僕のツッコミに、ふっと光里の表情が和らいだ。そのまま、二人して顔を見合わせて小さく吹き出す。これは、僕ら二人が過ごしてきた日常の先に築かれた、一場面だ。
「ふふっ。さ、学校いこ?」
 ――でも。僕が望む一場面じゃない。
「いや、今日はサボろう」
「…………え?」
 彼女の顔が、驚きで固まる。
「今日は一日、僕に付き合ってもらうぞ」
 立ち止まっている彼女を追い越して、僕は駅の方へと歩き始めた。

 *

 四月七日。
 今日、やっと彼と話せた。すごく緊張した。
 私は、うまく笑えていたかな。話せていたかな。心配だな。
 私の能力を見せても、信用するまでは生き返らせたい人は教えないって言われちゃった。当然だよね。
 でも。なんとか、彼の家族を生き返らせないといけない。じゃないと、この力を得た意味がない。
 この力については、わからないことも多い。優子さんを生き返らせてわかったこともあるけど、まだ足りない。せめてあと一回は、やらないと。
 優子さん、七宮さん、ごめんなさい。でも私は、この力について知らないといけない。寂しいって気持ちもあるけど、それとは別に、お手紙に甘えさせていただきます。ごめんなさい。
 私はやらないといけない。
 そして、彼自身のことも。

* *

 電車を降り、学校まで続く道の途中を曲がって、住宅街の中をしばらく歩いていく。早朝よりも暑い日差しがさんさんと照りつけており、額からは汗が噴き出していた。
「あちぃな」
「そりゃあ、夏だもん」
「まぁそうなんだけど。でもさ、僕らの通学路にある登ったり降りたりするあの坂道、あれがなかったらもう少し快適に登下校できたと思うんだよな」
「あーまぁ、それには同感かな。なんであんなふうにしたんだろうね」
 ここまで来る途中、意外にも沈黙は少なかった。学校の授業や文化祭の準備の様子、平日の午前中の新鮮さなど、他愛のない会話が僕らの間に飛び交っていた。
 そんな雑談をしつつ歩くこと二十分。住宅街を抜け、多目的グラウンドや田畑を通り過ぎた先にある土手の上に漸く辿り着いた。
「やっぱこの辺りは気持ちいいな〜」
 青空に向かって手を伸ばし、思う存分伸びをする。川から吹き付ける風が肌を滑り、火照った身体を冷やしていく感覚がなんとも心地良い。
「ここって……」
「そう。ボラ遠で来た土手だよ。もう少し行ったら、あのアイス売ってる店があるから食べようぜ」
「陽人……」
 光里はまだ何か言いたげな様子だったが、僕が構わずに歩き始めると後を追うようについて来た。そこからはなんとなく無言でアイスを買い、前と同じように近くの芝生の上に座る。
「美味いな」
「うん。美味しいね」
 川に臨み、夢中でスプーンを口へと運ぶ。バニラアイスのほのかな甘さが口に広がったかと思えば、この暑さで上がった体温に溶けていく。
 ――んーっ! おいしいっ!
 いつかの叫びが、風に乗って聞こえた気がした。ハッとして隣を見るも、黙々とアイスを頬張る光里がいるだけだ。あの時とは違い、満足そうな声も、幸せそうな表情もしていない。でもきっと、こっちが本当なんだ。
「……ねぇ、陽人?」
「ひょっ、え⁉ な、なに?」
 彼女の顔を盗み見ていた矢先に名前を呼ばれ、つい変な声が出た。「アハハッ、なにその声!」と笑われるかと思ったが、光里は特に反応を見せることもなく、川の方を見つめたまま言葉を続けた。
「陽人はさ、あのニュース見たんだよね?」
「……一ノ瀬優子が亡くなったってやつか?」
 僕の言葉に、彼女はこくりと頷いた。
「どう、思った?」
「どうって……メッセージでも送った通り、めっちゃ驚いたよ」
「……そう、だよね」
 光里は俯く。悲しそうな横顔に、ズキリと胸が痛んだ。彼女はきっと、その目的にばかり囚われて、肝心なことを忘れている。
「まぁでも……優子さんは、生き返らせてくれて嬉しかったんじゃないかな」
「え?」
「たとえ短い間だったとしても、理由がなんであっても、多少なり自分に会いたいと思ってくれて、そして会って……成長した光里の姿を見れて、嬉しくないわけないだろ」
 光里の家で見た、七宮さんと優子さんが光里に送ったという手紙。
 きっと二人は、両親を失い、さらに意味不明な能力を持ってしまった幼い光里のことが、心配で心配で仕方がなかった。
 でも、両親を失った喪失感と、未知の能力への恐怖の両方を和らげることは簡単じゃない。それに年齢的にも、いつまで見守れるかわからない。
 だから、あの手紙を送った。
 光里はひとりじゃないと、伝えるために。
 生きているうちはもとより、亡くなってからも彼女の心に寄り添えるように。
 そして何かあった時は、自分たちを生き返らせてもいいのだと。それで少しでも、彼女の心に漂う喪失感と恐怖が薄れるならと――。
「……だから。一度生き返らせるって決めたなら、後悔なんてするなよ」
 彼女には、そのことを忘れてほしくない。生き返らせた理由がどうであれ、光里の気持ちの根底にはあの手紙からもらった心強さがあったはずだ。そして、手紙を書いた二人の気持ちも、わかっていたはずだ。だから――二人の気持ちを無視するような後悔なんて、してほしくなかった。
「陽人……」
 僕が言い終わると、光里はなにやら物言いたげに僕の方を見た。
 あ、まずい。
 その先に続きそうな言葉に思い当たり、僕は慌てて残りのアイスをかき込んで勢いよく立ち上がる。 
「さ、さぁ! 次はまた電車だ! 早く行くぞ!」
「あ、待ってよー!」
 彼女の慌てた声が、キーンと冷えた頭に響く。軽く頭を振って夏特有の頭痛を紛らわし、歩を進めた。
 今は、これでいい。
 まだ……気づかれるわけにはいかないから――。

 *

 四月二十七日。
 やっちゃった。どうしよ。陽人に、気づかれちゃったかな。
 どうしてあんなこと言っちゃったんだろ、私。気をつけてたはずなんだけどな。ここ二週間も大丈夫だったのに。それになんだか、最近楽しくなってきてるような。
 ダメ。ダメダメダメダメダメ!
 この日常を楽しいって思っちゃダメ!
 続いてほしいって思っちゃダメ!
 彼を元気にして、彼の家族を生き返らせるのが、私の役目なんだから!
 彼が元気になってくれてるからって、それが嬉しいからって、私まで楽しんでたらダメ!
 素っ気ないままでもあれこれ気にかけてくれたり、からかってくれたり、笑わせてくれたりするのは、その先にいるのがふさわしい人は、私じゃなくて、美沙さんでしょ! 彼の家族でしょ!
 受け入れてほしいなんて思うな、私!
 私は、陽人に、笑っていてほしいんだ。だから、だから、私は、

* *

 夏の日差しにあてられながら駅まで歩き、さらに電車を乗り継ぐこと二十分。僕たちは、つい三週間前にも来たショッピングモールの入り口の前にいた。
「どうしてショッピングモールに……?」
「んー約束したし、どうせならちょっと良いものの方がいいかなって」
「良いもの?」
「まぁとりあえず行こうぜ」
 まだ納得していない様子の光里を促し、中へと入る。
 そこは、平日の昼間の割にはそれなりに混んでいた。どうやら、一足先に夏休みに入った学生や家族連れが買い物を楽しんでいるらしい。スマホを覗き込んで目当てのお店を探している女子グループに、父親に抱っこをせがむ五歳くらいの男の子、ベンチで休憩している大学生くらいのカップルと、客層も多様だ。
「何買うの?」
「一応、お菓子の予定」
 彼女の質問に答えつつ、スマホに指を走らせる。前来た時は百均やら雑貨やらがメインだったし、普段来ることもないので、当然お菓子を売ってるお店がどこにあるのか知らない。時間もあまりないし、さっさと検索して行かないと……
「んー、だったら一階の中央エリアに、洋菓子とか焼き菓子とか売ってるお店並んでるから、そこ行こうよ」
「え?」
 検索欄に一文字目を打ち込むより早く出た答えに、僕は驚きを隠せなかった。
「ん? どしたの?」
 しかし当の本人は、不思議そうに僕を見ているばかり。いや、だって……
「光里、そんな乗り気になってなかったんじゃ……?」
「んーまぁ、そうだったんだけど」
 僕の疑問に、光里は困ったような笑顔を浮かべた。
「せっかくだし、ね?」
 それだけ言うと、彼女は再び歩き始めた。いつもより幾分早いその歩調に、思わず手に力が入る。
「……ぜってー諦めないからな」
 置いて行かれないように、僕は急いでその背中を追った。

 *

 七月六日。
 サプライズボックスの材料を買いに、陽人とショッピングモールに行った。
 最初は、とても楽しかった。陽人とあちこち回って、くだらない物で笑ったりなんかもして、すごく充実してた。
 ダメだって、わかってるのにな。しかも最後に、あんなの見ちゃうなんてついてない。思い出しちゃうし。
 陽人、なんて思ったかな。不思議がってたし、ここで私が変に接したらダメだよね。いつも通り、いつも通りでいなきゃ。
 うん。いつも通りは、得意だから大丈夫。
 そう、いつも通り。私は陽人と、みんなと過ごしたい。過ごしていきたい。
 あと、少しだけ。もう少しだけでいいから、お願い。

* *

「え〜! これどうしたの〜⁉」
 想像以上の叫び声に、耳の奥が震えた。思わず手で耳をふさぐも、目の前で興奮気味の彼女は声量を抑えるどころか、むしろ食い気味に身を乗り出している。
「あの、もう少し声のボリュームを下げてください」
「え~いいじゃん! 嬉しいんだし~! それに……っ!」
 ショッピングモールで光里オススメの洋菓子、そして特売のポテチを買い、電車を乗り継いで、一日振りに彼女の元へ足を運んだらこれだ。倒れてこの先も危ぶまれる状況だというのに、そんな気配はほとんど消し飛んでいる。
 まぁでも、これでいいのか。
 僕の隣。すぐ近くにある丸椅子には座らず、どこか気まずそうに立ち尽くしている光里の様子を見ると、そう思わずにはいられなかった。
「その……すぐ来れなくて、ごめんなさい」
 光里は、申し訳なさそうに頭を下げた。
 ここへ来ることに、光里は随分と渋っていた。けれど、今の病状や美咲さんも会いたがっていたことを伝えると、戸惑いながらもついてきてくれた。そして――
「もう〜っ! そんなのいいの! 来てくれてすっごく嬉しいよ〜! 光里ちゃん!」
「美咲さん……」
 ひしと抱き合う二人を見て、心の底から連れてきて良かったと思えた。
「……お前、どんな説得したの?」
 ベッドを挟んだ向かい側から、笹原の不思議そうな声が聞こえた。なんでも、まだ姉に付き添いたいからと今日も学校を休んでいるらしい。
「いや。まだ説得できてない」
「は?」
「まぁ……また落ち着いたら説明するよ」
「……わかった。絶対だからな」
「あぁ」
 もっとも。まだ何も解決していないし、先に進んでいるわけでもない。だからこそ、そんな悪友の問いかけに、僕は曖昧に答えるしかなかった。
 それから僕たちは、持ってきたお菓子をつまみながら、楽しいひと時を過ごした。
「それでさ。春ごろのこいつの頑固さとひねくれ具合といったら、もうそれはそれは……」
「うっせーな!」
「あ、ほら。こんな感じでいつも怒っててね!」
「光里も! うっさい!」
「アハハッ!」
 花火祭りの時のように、何気ない会話に花を咲かせて。
「幹也。結局いろいろあって渡すの遅れちゃったけど、これ……」
「えっ! 何これ!」
「サプライズボックス。開けてみて」
「わっ……! え、ヤバッ! すご……」
「気に入ってくれた?」
「ハハハッ……グスッ、ありがと。姉ちゃん……」
 いつの日かに渡せなかった、約束の贈り物を届けたりして。
「それより〜、光里ちゃんと陽人くんさ。うちの幹也の恋バナとか知らない〜?」
「はっ⁉ 姉ちゃん、いきなり何訊いてんのっ⁉」
「いやだってさ〜、光里ちゃんと陽人くんは付き合ってるわけでしょ〜? だったら幹也もそろそろ〜」
「ストップ! 僕と光里はそんな関係じゃ……」
「え? 陽人?」
「え。なに光里、その反応……?」
「おーっと、これは?」
「修羅場か……?」
「……ぷっ。アハハッ! 陽人、その顔!」
「な、なっ、光里……! お前なぁ!」
 いつかの言葉を。
 いつかの想いを……忘れないように。
 顔を赤らめながら、話して――。
「……あれ? 光里は?」
「あぁ。お前がトイレに行った後に、同じようにトイレに行ったと思うんだけど……すれ違わなかった?」
 彼女に、かけがえのない日常を思い出してほしくて――。
「いや、すれ違わなかったけど……」
「あれ? そうなのか。まぁすぐ戻ってくるだろ」
 だからこそ僕はこれまでをなぞって、二人を巻き込んで、過ごそうと思った。そうしたら、彼女も考えを改めてくれると思ったから。
 だけど――。

 *

 七月十五日。
 陽人、ごめん。本当に、ごめんなさい。
 私も、美咲さんには生きていてほしい。そのために、できることならこの力を使いたい。
 でも、でも、できないの。だって、

* *

 その時。ポケットの中でスマホが振動した。
 ほとんど無意識に取り出し、画面に表示されたメッセージを見て、背筋が凍りついた。

 *

 だってこの力は、私の寿命を与える能力だから。

* *

 ≫≫今日はありがとう。本当に楽しかった。もう悔いはないよ。私は、先にいくね。
 二人に断るが早いか、僕は病室を飛び出した。

 幅の違う石段を一心不乱に降っていく。
 そこは、橙色に染まっていた。
 僕は何度、この色を見ただろう。
 そして、考えただろう。思い出しただろう。
 僕にとって、橙色は不吉な色だ。
 真っ先に思い浮かぶのは、炎。家族を失ったあの日を思い起こさせ、僕の顔にその痕を残した、忌むべきものだ。どれだけ日が経とうとも、身を焼かれるあの痛みだけは、記憶の奥深くに根付いてしまっている。
 それだけじゃない。
 橙色は、夕焼けの色だ。
 光里の能力を見た時。彼女に向けられた告白を聞いた時。美咲さんが倒れた時……。
 この色は、僕にとって目を背けたくなるような時ばかりを思い出させる――。
「ひかりぃぃーーーっ!」
 彼女の名前を、全力で叫ぶ。声に驚いたのか、カラスが一羽、夕陽の方へ飛び去っていった。
「おいっ! 聞こえてんだろーーっ⁉」
 相変わらず、墓地に人気はない。幾分か弱まった蝉の鳴き声や、すぐ近くの公道を走る車の走行音ばかりが響いている。でも、彼女がここにいるのは間違いない。
「おーいっ! 勝手に、力なんか、使うなよーっ! 僕は、僕は……そんなこと、一言も、頼んで、ないから、なーーーっ!」
 息も絶え絶えになりながら、僕は最後の石段を蹴った。舗装されていない砂利道に、小石の擦れる音が鳴る。小さな凹凸に足をとられるもなんとか立て直し、僕は再び駆け出した。
 どこだ? どこにいる?
 薄暗い墓地で、僕は必死で辺りを見渡した。足を踏み締める度に、嫌な思考が次々と浮かんでくる。
 もし、光里が能力を使っていたら。
 もし、光里が能力を使い終わっていたら。
 もし、僕の家族が不思議そうに立ち尽くしていたら……。
「くっ……!」
 そんなわけない。まだ大丈夫だ。きっと、大丈夫だ……。
 頭を振って無理矢理思考をかき消すと、僕はさらに足を前へと進めた。
「――っ!」
 視界の先。墓地の入り口がみるみる大きくなっていくと同時に、人影がひとつ、佇んでいた。逆光でその姿はほとんどシルエットだけど、間違いない。あれは――
「光里っ!」
 僕の叫び声に応えるように、その影はゆっくりとこちらを向いた。落ちた影の中でも輝きを失わない瞳が、僕を見据える。
「ふふっ、早かったね」
 柔和な笑みが浮かぶ。嬉しさとも、悲しみとも違う笑顔。あれは……
「うるせー! そんな、何もかも悟ったみたいな顔で笑うなよ!」
 彼女に掴みかからんばかりの勢いで、僕は叫ぶ。その笑みが意味するところを、僕は絶対に認めたくなかったから。
「んーじゃあ、どんな顔をすればいいの?」
 相変わらず落ち着いた口調で、彼女は続けた。無性にイライラして、つい拳に力がこもる。
「素直な表情してろよ。いい加減、そうやって自分の気持ちを偽るのはやめろ」
「……」
 強めの風が吹き、彼女の長い髪がなびく。その細く長いシルエットが彼女の口元を隠した刹那に、笑顔は消えていた。
「……わかった」
 無感情な表情で光里はそれだけを言った。あれほど響いていた蝉時雨も、今ではどこか遠い。
「光里……お前、まさかもう能力を……?」
 数瞬の沈黙の後、僕はここに来るまでに一番気になっていたことを尋ねた。心臓が肋骨の下で、一際大きく脈打つ。
「……ううん。まだ、だよ」
 彼女は少し躊躇うように、首を横に振った。その反応を見て、僕は思わず膝から崩れ落ちた。
「よ、良かった……」
 彼女が能力を使う。
 しかも、今彼女が立っている場所は、紛れもなく僕の家のお墓の前だ。この状況での肯定は、僕にとって最悪の言葉でしかない。
「……どうして?」
 膝立ちのようになっている僕に近づくと、彼女はまた無感情な声で、そう聞いてきた。
「え?」
「だって……陽人は家族を、生き返らせたいんじゃないの?」
 色のない声が、また僕の鼓膜を震わせる。僕は、彼女の顔をしばらく見上げてから、ゆっくりと立ち上がった。
「……確かに、僕は家族に生きていてほしかった。できることなら……生き返ってほしいと、思ったこともあった」
「……だったら」
「でも。僕が家族に生きていてほしいのは、家族が大切な人だからだ。かけがえのない人だからだ。そしてその意味では……僕は君にも生きていてほしい」
「…………っ」
 光里の顔が、一瞬歪んだのがわかった。でも、瞬く間にそれは元の無機質な色を帯び、冷たく僕を見据えた。
「……なんだよ?」
「陽人は……何もわかってないよ」
「なに?」
「陽人、私の日記を読んだでしょ?」
 光里は、事実だけを確認するように淡々と聞いてきた。そこには、日記を読んだことを責めるような色はない。なぜかそれが、無性に僕をイラつかせた。
「……あぁ。読んだ」
「だったら、まだわからないことがあるんじゃない?」
「それは…………」
 図星だった。あの日記のおかげで、光里のこれまでの言動の理由や気持ち、何より光里の能力について知ることができた。決してその内容は良いものではなかったけど、それでも知らないよりはずっとマシだった。
 でも。あの日記には……事故については、ほとんど書かれていなかった。
「……事故について書いてなかったのは、私自身、日記にも書きたくなかったから」
 話しながら、彼女はくるりと身を翻した。
「でも、話すよ。最後だから。陽人には、知っていてもらわないといけない。私のせいで起こった、悲惨な事故の真相を――」
 どこか遠くで、一羽のカラスが夕暮れ時を告げていた。

 十年前、私は母と二人で暮らしていた。
 父の記憶はほとんどない。私が五歳くらいの時に、突然いなくなったと聞いている。
 それ以来、母は病弱ながらも必死に働き、私を育ててくれた。父との結婚は家族に激しく反対されていたらしく、実家に帰るといったようなことはなかった。
 私は幼心に家庭の事情を理解していたので、なるべく母の負担にならないよう、家が暗くならないよう、明るく振る舞っていた。けれど、本当は寂しくて、母のいないところでこっそり泣いていた。
 それは、あの日もそうだった。
 十年前のあの日、私は公園の東屋で涙が乾くのを待っていた。
 母の帰りは遅い。誰もいない部屋にひとりでいたくなくて、私はいつも図書館や公園で時間をつぶしていた。その日も、東屋のベンチの上で私は足を抱え込み、目頭を押さえて、ただひたすらに時間が過ぎるのを待っていた。
 けれど。その日は疲れていたのか、そのまま眠ってしまったみたいで、気がつくとすっかり辺りは暗くなっていた。
 お母さんに怒られる。
 そんな幾ばくかの不安と、それでも早く母に会いたい一心で、私は走って帰った。
「ただいまー!」
 なるべく明るく、元気に私は叫んだ。「何時だと思ってるの!」と怒られるかもしれなかったけれど、私にとっては母に会えるのならそれだけで良かった。
 でも、そんな母の声は聞こえなかった。
 代わりにあったのは……廊下で倒れている、母の姿だった。
 私は、呆然としていた。
 ただただ、呆然としていた。
 ゆすっても起きない。呼びかけても、叫んでも起きない。求めていた温もりを確かめたくて触った母の手は……ゾッとするほど、冷たかった。
 まだ七歳だったけれど、私はすぐに母がもう生きていないことを直感した。
 でも不思議と、泣き喚くようなことはしなかった。……というより、できなかった。
 心の中の何かが壊れていく。
 そんな音にならない音ばかりが頭の中に響いて、目の前が真っ白になっていって……――気がつくと、私はお気に入りの服を着て、独り山道を登っていた。
 そこは、春に母と桜を見に行った場所だった。確かな温もりを右手に感じ、幸せな気持ちに満たされて、心の底から笑い合えた場所。そこに行けば、母に会えると思ったのかもしれない。
 でも、現実は違う。
 降り頻る雨の中、私は無我夢中で山道を登っていた。周囲には誰もおらず、夏なのにすごく寒かった。途中で道に迷い、何度も転んでボロボロになって、時間も場所もわからないまま私はひたすらに歩いていた。
 しばらく歩いていくと、開けた場所に出た。あまり大きくはない、舗装された道路が左右に伸びていた。夜だからか車通りもなく、そこは暗闇一色だった。
 なんで、私はこんなところにいるんだろう。
 全身ずぶ濡れで、お気に入りだったバックも雨でふやけて、髪の先からは水滴が滴り落ちている。とにかく、ひどい格好だった。
 でも、そんなことはもうどうでも良かった。壊れた感情の中、また私は歩き始めた。
 その時、目の前を水が大きく波打った。反射的に身を引くも間に合わず、ずぶ濡れだった全身がさらに濡れた。視線を左にやると、車の赤いテールランプが遠ざかっていくのが見えた。
 そっか。ここが……。
 ――この場所はスピードを出す車が多いから、渡るときは気を付けなさいね。
 お花見に来た時の母の言葉が、脳裏に響いた。と同時に、私の壊れた心の中にたったひとつの感情が戻った。
 お母さんに会いたい。
 その感情の意味するところを自覚しても、全く怖くなかった。むしろ、母に会えるのが楽しみで楽しみで仕方がなかった。続けて走ってきた車のライトに目を細めながらも、私の心は決まっていた。
「ふう……」
 さっき引いた一歩を、私は進めた。泥だらけになった白い靴の中に、じんわりと冷たい水が染みていくのがわかった。
 ――信号が青になったら、まず右を見て。
 少し前に聞いたはずなのに、頭の中に響く声はすごくすごく懐かしかった。
 ――車が来ないことを確認してね。
 変わりない闇の中、私はそっと祈った。
 ――今度は左よ。
 夜の帳の中に舞う小さな光は、希望の光。
 ――最後にもう一度、右を見て。
 母に会うのに必要な、代償の光。
 ――大丈夫なら、手を挙げて渡りましょう。
 その光の中で、母に会えることを祈って歩き始めた…………はずなのに。
 やっぱり、私は怖かった。
 光の中に行くことが……車に、轢かれることが――。
 その後の結果は、言わずもがなだ。
 私を避けようとして車が反対車線に飛び出し、そこへちょうど走ってきた別の車の前へ。衝突はしなかったものの、反対車線を走っていた車は、飛び出してきた車をかわそうとして木に激突。そのままバランスを崩し、崖下に落ちてしまった。そしてそれが……――陽人の家族の車だと、後で知った。
「あ……あぁぁぁ……」
 数十メートル先で揺らめく炎を前に、私は何もできなかった。目を背けるように、一目散にその場から逃げ出した。
 そこから先は、ほとんど覚えていない。無事家に辿り着けたのか、はたまた途中で力尽きたのか。気がついた時には、祖母の家の布団で丸まっていた。
 そして、何がなにやらわからないうちに、お通夜、お葬式、お引っ越し、転校……と環境がどんどん変わっていった。私はただ呆然と、その場の流れに身を任せ続けていた。
 それから暫く経って、自分が置かれている状況を理解すればするほど、耐え難い後悔の念が襲いかかってきた。
 私が公園で居眠りさえしなければ、母は死なずに済んだかもしれない。
 私が飛び出しさえしなければ、山での事故は起きなかったかもしれない。
 私が逃げずにすぐ助けを呼んでいれば、崖下に落ちてしまった人は助かったかもしれない。
 私が、私が、わたしが……――。
 そんな頃だった。
 私が、自身の寿命と引き換えに、生き物を生き返らせる能力を得たのは。
 神様が、私に言っているように思えた。
 自分の命でもって、その過ちを償えと。
 それこそが、私の残りの命の、使い方なのだと――。
 ……ありがたかった。願ったり叶ったりだった。
 高校生になって、陽人のことを見かけて、私の決意は固まった。
 私は、この命に代えて、必ず陽人の人生に光を取り戻させる。
 私のせいで失われた光を。全く元通りとはいかないかもしれないけれど。
 生き返った人が社会復帰できるのかとか、野暮な問題も山積みだろうけど……。
 命さえあれば、
 目の前に、手の触れる距離にいてさえくれれば……
 きっと……――また、笑えるようになるから。
 ……これが私の、
 天之原光里の、
 ――生きる、意味なんだ。

 黄昏時の墓地に、風の鳴く微かな音が響いた。それ以外は、何も聞こえない。燃えるような橙色も身を潜め、少しずつ夜の闇が濃さを増してきていた。
「ひかり……」
 かけがえのない人が紛れてしまわないように、必死に呼びかける。
 でも、思った以上に声は出てくれなかった。
「わかったでしょ? ……十年前の、あの事故の原因は私なの。私が、陽人から家族を奪った」
 一方、彼女の声色は先ほどから全く変わっていなかった。まるで遠い国の物語を読み聞かせているように、淡々と言葉を繋げていた。
「だから、陽人が私に向けるべき気持ちは感謝や好意じゃない。そんな綺麗な気持ちは、私にふさわしくない」
 灰色に染まった声の出所に視線を向けると、目が合った。
「……もう一度言うよ。私は、あなたから大切な家族を奪った。それでも、あなたは同じことが言える?」
 ハッとした。光里の目元には涙が溜まっていた。消え入りそうな陽光を受けて、それは微かに光っていた。
 刹那に、あの日と重なる。
 美咲さんが倒れ、病院に搬送された日。月明かりの下、帰り道で見た彼女の、真剣で、今にも壊れてしまいそうな表情と――。
「――光里」
 ふわりと、いつかの香りが鼻をついた。
 それは、無意識だった。
 自分でも驚くほど反射的に――僕は光里を抱きしめていた。
「は、陽人……?」
「僕も、もう一度言う。素直な表情、してくれよ」
 光里は驚いたように身を硬くしていた。
 意外にも、抵抗はされなかった。思ったよりも細くて、柔らかな感触が制服越しに伝わってくる。僕は、壊れてしまわないように優しく、気持ちが伝わるように強く、手に力を込めた。
「もう一度、言う。いい加減、自分の気持ちを偽るのはやめてほしい」
 光里の話を聞くのが、怖かった。
 彼女の話を聞いて、もし僕が光里を憎んでしまったらと思うと……聞かない方が何倍もいいと思っていた。
 でも。実際に聞いて、生まれた感情は違っていた。
 僕の心の中は……ただただ辛く、悲しかった。
「もう一度……言う。僕にとって光里は……かけがえのない人で、生きていてほしい、大切な人なんだよ……」
 いつまで、独りでいるつもりなんだろうか。
 いったいいつまで、心を偽ってるつもりなんだろう。
 いったいいつまで……自分を苦しめるつもりなんだ?
 いったい、いったい……――
「光里はいつまで我慢しているつもりなんだよ!」
「…………っ!」
 強く胸を押された。咄嗟のことで思わず後ろに身を引くも、その力は随分と弱かった。
 そして。離れて露わになった彼女の瞳からは……涙が零れていた。
「光里……」
「……っ⁉」
 彼女は慌てて目元を拭うも、涙は止めどなく流れ続けていた。
「なんで……どうして……」
 まるで、これまでずっと溜めてきた気持ちが、
「どうして……やっと、やっと止まったのに……っ!」
 溢れているみたいだった。
「光里……」
「私は……っ!」
 絞り出すような声とともに、鋭く睨みつけられる。
「私は……陽人から、家族を……」
「知ってる」
「私は……ずっとそれを、陽人に隠し続けて……」
「あぁ、そうだな」
「そのくせ、一緒にいると少し……楽しいとか、思う時もあって……」
「それはなんか、嬉しいな」
「私は……わたしには……そんな資格なんて、ないのに……」
「いいから」
 僅か数十センチの距離にいる光里を、僕は再び抱き寄せた。夏の暑さとは別の熱が、確かな形を帯びていく。
「確かに、僕は家族を失って荒んだ。毎日が意味のないものに思えて、だれかもわからない相手を恨んで、ひとり生き残ってしまった自分を責めた」
 数ヶ月前まで、僕はそうやって生きてきた。毎日鏡の前でやけどの痕を見つめ、憎しみを忘れないよう心に刻みつけた。と同時に、当たり前だった騒がしさが鳴りを潜めた朝に、言い知れぬ不安と、悲しさと、罪悪感を覚えていた。
「僕はずっと、過去に囚われていたんだ。十年も経ったっていうのに、まだまだ受け入れられてなかった。そんな毎日がずっと続いていくんだろうって、そう思ってた。でも……あの新学期の日に光里と出会ってから、それは少しずつ変わっていった」
 無味乾燥な日々を生きていくのは、正直キツかった。
 一方で、楽だとも思っていた。周囲と距離を置いて、過去だけを引きずり、漫然と生きていく。これ以上、得るものもなければ、失うものもない。起伏の無い、平坦な人生を送っていくだけでいい。
 でも、そこに光里は現れた。
 彼女の言葉は、僕の人生を根幹から揺るがしかねないものだった。
「いきなり現れたかと思えば、不思議な能力を見せつけられてさ。さらに、あなたの生き返らせたい人はだれなんて訊くもんだから、マジでびっくりした」
「……だって、それは……」
「ああ、わかってる。多分、僕も同じ立場だったら同じことをしただろうから。あの場では突き放したけど、あの言葉で僕は確かに考えたよ。僕の生き返らせたい人について、さ」
 もし死んでしまった人が生き返るなら、だれを生き返らせるだろう。
 普通なら、身近な人。家族や親戚、恋人、友達などがあるだろうか。そしてもちろん、僕にとってもそれは同じだった。
「やっぱり、家族を生き返らせたいって思った。また、父さんにキャンプで火熾しを教えてもらって、母さんの料理の手伝いをして、姉ちゃんとあれこれ馬鹿な話をしたいって、思った」
「なら……!」
「でも! それから光里と過ごした日々も楽しかったんだ!」
 腕の中で響いた彼女の言葉に被せるように、僕は叫んだ。
「今まで対して話したこともないのに、いきなり朝に挨拶してきたり昼に弁当誘ってきたりして、ほんと何なんだよって思った。笹原もそれに乗っかってさ、僕の意見なんてそっちのけで机くっつけて食べだすし、話も雑に振ってくるし。ボラ遠の時もなぜか合流することになって、いつの間にか寄り道してアイス食うことになってるし。その後も、こっちが一方的に避けても絡んできて、仲直りしてからも強引で、真っ直ぐで……」
 早口にまくしたてた。というより、気持ちが口をついて溢れてきた。一度溢れるとそれは止まらなくて、止まってくれなくて……
「そんな、非日常的な日常が……僕はいつの間にか、楽しいと感じてしまってた。最初はあんなに煩わしくて、面倒くさかったのに。周囲との接点なんて、必要最小限で良かったと思ってたのに……。僕は、光里や笹原や美咲さんと過ごす日々が、本当に楽しかったんだ」
 抱き締めていた腕の力を弱めて、彼女を離す。遠ざかっていく温もりを惜しみつつも、僕はこれまでの彼女のように真っ直ぐ、その瞳を見据えた。
「だからこそ。僕は光里の命を犠牲にして、僕の家族を生き返らせるなんてことはしてほしくない。僕は、光里のおかげで過去に囚われていた日常を変えることができた。今が楽しいと思えるようになった。そして、これからしたいことだって考えるようになった」
 何度もドキドキさせられた彼女の瞳は、まだ潤んでいた。今だってドキドキしている。でも、もう目を逸らすことはしたくない。
「だから光里も、どうか前を向いて生きてほしい」
 強く、強く願いながら、僕は想いを吐露した。
 どうか、届いてほしい。
 どうか、思いとどまってほしい。
 どうか、どうか、どうか……――。
 無意識に、日記の内容が頭の中にイメージとして蘇った。
『だってこの力は、私の寿命を与える能力だから。』
 薄く、弱々しい文字で、ノートにはそう書かれていた。そして、
『私は、自分の寿命全てを使って、陽人の家族を生き返らせたい』
 日記の最後は、そんな言葉で終わっていた。だから、どうか…………
「陽人」
 光里の声が、すぐ近くで聞こえた。
「ごめんね。ありがとう――」
 そんな言葉とともに、淡い光が急速に、目の前を覆い尽くしていった。

 何が起こっているのかわからなかった。
 いや。初めてならまだしも、僕は何度かそれを目の当たりにしている。彼女と出会った新学期の日や、七宮さんを生き返らせた日に。
「ひか、り……?」
 口から零れたつぶやきが、闇の中に溶けていく。いつの間にか、辺りはすっかり暗くなっていた。空には煌々と月が輝き、わきの茂みからは虫の音が響いている。ぽつぽつと点在する街灯も、そこから伸びる細長い影も、何もかもがいつの日かに見た光景だった。
 でも。僕の視線の先には、そんな暗闇に決して紛れることのないか細い光が、確かにあった。
「ほんとに、ごめんね……?」
 淡い光の先で、彼女は涙を流しながら困ったように笑った。一緒に過ごした日常で、失敗した時や何かを誤魔化したい時に時折見せた笑顔と似ていた。そんな時、僕は決まって「しょうがないな」なんて思いながら、彼女に呆れた視線を送っていた。
 だけど、今は無理だ。とてもできそうにない。だって、だってこれは――
「光里……! お前、まさか能力を……っ⁉」
 叫んだ勢いのまま、僕は彼女の肩に掴みかかった。
「うん。実は、陽人がここに来てくれた時から使ってた。寿命の桁が違うからか、ようやく光り始めたけどね。……陽人だったら、もしかしたら、私の決心そのものを変えちゃうんじゃないかって、思ったから」
 一方彼女は、特に驚くふうでもなくそう答えた。声は落ち着いていて、言葉もずっとはっきりしている。でもそれは、今目の前で涙を流し続けている表情とは、ひどく対照的だった。
「それって……」
「……うん。もし能力を使ってなかったら、私はこれからも生きたい、生きていたいって、思ったかもしれない」
 彼女は涙を拭うこともせず、そんな言葉を吐いてきた。
 ……なんだよ、それ。
 イライラした。でもこれは、怒りじゃない。悲しみだ。手が震えて、足が震えた。息が苦しい。頭が、クラクラする……。
 その時。一際強く、彼女の背後で光の粒が輝きを増した。驚いて目を向けると、人の輪郭のようなものが薄っすらとできあがっていた。
「おい! 今すぐやめろよ! やめてくれ!」
 我に返った僕は、彼女の肩を揺らして必死に叫んだ。
「無理だよ。やめられない。もう……止められないの」
 でも、彼女は頑なだった。何度叫ぼうと、何度その肩を揺らそうと、光里は首を横に振り続けた。そうこうしているうちにも、光はみるみる濃さを増していく。
「嫌だ! 頼む、頼むから……やめて、くれよ……」
 焦りが心を支配していく。もはや、懇願するしかなかった。
 目の前が揺れた。目頭が熱い。なんだ、これ。光のせいだろうか。……いや、違う。これは…………涙だ。
「ね、ほら。泣かないで。これは、陽人のためだけじゃない。私のためでもあるんだから」
「光里の、ため……?」
 意味が、わからなかった。
「うん。私も、生きていてほしいって思うから。見ず知らずの私に、あんなに親身になって話を聞いてくれて、甘えさせてくれて、優しくしてくれた……美沙お姉さんに………………」

「――ここは……?」

 懐かしくて、憎たらしくて、愛おしい声が…………光里の背後で、静かに響いた。


 あの日は、雨だった。
 頻りに雨音が響く病室で、僕は姉を看取った。
 彼女の顔はなぜかとても安らかだった。
 たくさんしたいことがあっただろうに。
 苦しくて、痛くて、辛かっただろうに。
 姉の死に顔は、笑っているんじゃないかと思うくらい、穏やかだった。
「……ここは、お墓? それに…………陽人?」
 あの日。何度願っても返ってこなかった声が聞こえた。どれほど強く願っても、どれほど強く手を握っても、どれほど強く叫んでも返ってこなかった声が、言葉が、すぐ近くで聞こえた。
「ねえ……ちゃん?」
「……あはは、やっぱりそーだ。相変わらず、マヌケな顔してる」
 ウソだと思った。
 そんなはずがないと思った。
 けれど。現実だった。
 光里よりも短いショートな髪に、少し垂れた大きな瞳。
 よくチャームポイントだとか言っていた口元のホクロも、幾度となく喧嘩の種となった憎まれ口もそのままに、手を伸ばせば届くような距離で、姉は笑っていた。
 でもその輪郭はまだ曖昧で、薄らと透けていた。顔は比較的はっきりと見えるが、それ以外は目を凝らしてどうにか見える程度。白と黒のラフなボーダーTシャツに、デニムのショートパンツという姉らしい格好をしているとわかるのは、きっとあの日一緒の車に乗っていた僕と、僕の両親くらいだ。
 そして。姉の顔もあの時のままだった。僕と同じ十七歳の、高校二年生の、ままだった。
「……くっ!」
 心に芽生えた感情に戸惑った。
 それは、嬉しさと恐怖だった。
 待ち望んでいた声が聞こえて、僕の名前を呼んでくれて、変わらない笑顔を向けてくれて……すごく、嬉しかった。今すぐにでも、抱きつきたかった。泣き喚きたかった。甘えたかった。
 でも……。
 今、腕の中にある感触に、僕は恐怖していた。
「おい、光里っ!」
 必死で名前を叫ぶ。彼女は、軽く僕に寄りかかっていた。どうやら力が入らないみたいで、立っているのがやっと、という感じだった。
「ハハッ……やっぱり、一気に何十年分も寿命をあげようとすると、キツいね……」
「だから、やめろって!」
 よろめく彼女をどうにか支える。手足が震えていた。男子とは違い、華奢で細い手足だ。強く握りすぎたりなんかすれば、すぐに壊れてしまうんじゃないかとさえ思う。
 でも、彼女はそんな手足で自らを叱咤し、重い過去を抱えて、ここまで来ていた。今だって、苦しそうなのにまだ、能力を使っている。
 僕は、どうすればいい?
 何をすれば……光里を止められる?
 生き返らせられている姉が目の前にいるにもかかわらず、僕は懸命に光里が生きるための術を、能力の使用を止めさせる方法を、考えていた。
 その時、なんとなく変な感じがした。
 それは、本当に感覚的なものだった。
 光里から発する何かが、微かに……弱まった気がした。
「はぁ……はぁ……あと、少し……」
「おい、光里っ!」
 もう、どうしたらいいかわからなかった。
 光里は僕の言葉に頷くことなく、能力を使い続けている。最初は彼女の周囲をチラチラと舞っているだけだった光の粒も、その密度をさらに濃くしていた。
 止められないのか。
 もう、光里と……みんなと、楽しい日々を過ごせないのか。
 悔しかった。悲しかった。
 どこで間違えたんだろう。
 どうすれば良かったんだろう。
 これから、光里の能力で家族が生き返る。だからこそ……僕の心の中は真っ暗だった。
「まったく……。本当に成長してないんだから。陽人も……ひーちゃんも――」
 突如、光が弾けた。
 と同時に、あれだけ濃く深く舞い上がっていた光の粒が霧散していく。
「え……?」
「どう、して……」
 呆然とする僕と光里の傍らで、微かに輝く姉が見下ろしていた。

「なんで……どうして……」
 すぐそばで、光里が取り乱していた。同じ言葉を繰り返したかと思えば、初めて会った日のように祈るポーズをとったり、なにやらつぶやいたりしている。でも、その身体から光が溢れることはなかった。
「ひーちゃん、こっち向いて?」
 すると、少し上から声が降ってきた。さっき僕へ向けてきた小馬鹿にする感じではなく、子どもをあやすような優しい口調だった。
「みさ……おねえさん……」
 声のする方へ、光里が頭をもたげる。
「そうそう。なぜか今、私は少し浮いてるみたいだから、ちょっと首が痛いかもしれないけれど我慢してね?」
「グスッ、なんで……なんで生き返らないの!」
「ほーら。そうやって、すぐ叫ばないの」
 ふわりと姉はこちらへ近づいてきて、僕もろとも光里を抱きしめた。でも、不思議と感触は微塵も感じられなかった。
「だって……私はあなたに、美沙お姉さんに生きてほしいの! 卑怯な私なんかより! ずっと優しくて、ずっと温かくて、ずっとずっと陽人のことを思いやれる……美沙お姉さんに……!」
「こーら。またそんなこと言わない」
 姉は、ひと息に捲し立てた光里の頭にチョップをかました。
「本当にもう。あれから十年くらい経ってるんでしょ? 少しは成長してないと、心配になるでしょーが。そこのヘタレ陽人も同様」
「は?」
 いきなり向けられた矛先にカチンときて、つい語気が強くなる。けれど、昔のようにすぐ言い返せるような余裕はなかった。
 突然光里の能力は止まるし、急に光里を「ひーちゃん」呼びして親しげに話し始めるし、本当にわけがわからない。
「だってそうでしょ? いつまでも過去を背負いこんで自分を責めてたかと思えば、今度は立ち直ったのになかなかひーちゃんに素直になれない弱虫弟」
「おい」
「アハハッ、ジョーダンよ。あんたのおかげで、こうして私は彼女から渡されそうだった寿命を拒絶できたんだし」
 サラリと、日常会話でもするみたいに姉は衝撃的な言葉を吐いた。
「寿命を……拒絶?」
「そ。生き返らせるための条件にも入ってたんじゃない? 相手のことを強く想うとか、決して迷いを持たないみたいなのが。でも、あんたのおかげでその信念がぐらついた。だから、そこは評価しよう。よくやった、ビビりな陽人くん」
「……どつくぞ」
 シリアスな場面だというのに、姉はちょくちょく僕をいじってくる。
 本当に、腹立つなあ。
 忘れていた感情が、懐かしさとともに心に沁みていく。
「そんな……でも、わたし……」
 一方、光里は絶望に満ちた表情をしていた。きっと、あれほど頑なに僕のお願いを拒んでいたのも、この条件を満たすためだったんだろう。
 でも、それが崩れ去った。僕の家族を、少なくとも姉を生き返らせることは、もうできない。
「ひーちゃん。初めて公園で会った日に、私が言ったこと覚えてる?」
 僕に向けたおどけるような雰囲気から一転、姉は優しく光里に問いかけた。光里は目元に溜まった涙を軽く拭い、何度か深呼吸を繰り返す。そして、
「もちろん……。忘れたことなんてない。ベンチでうずくまって泣いてた私に、『たくさん泣いたら、たくさん笑うんだよ』って、言ってくれた」
 ぎこちなく、笑った。
 でも。やっぱりその顔は、ひどく不恰好に思えた。
「そうそう。そしてそれは、なんでだったっけ?」
「頑張ろうって、前を向けるから……」
 光里は不細工な笑顔を浮かべたまま、ポツリと答えた。
 本当に、そうなんだろうか。
 光里の様子に、ついそんなことを思ってしまう。
 泣くのは、辛いから。悲しいから。その後に笑うなんて矛盾してるし、何より簡単じゃない。
「正解。笑顔の力ってすごいの。だから、たくさん泣いたら、たくさん笑って、前を向いてほしい」
 光里の言葉に、姉は満足そうに笑った。その仕草にあわせて、髪が小刻みに揺れる。
「――でもね、それだけじゃないの」
 揺れた髪先に小指を当て、そのまま耳にかけながら、姉は静かに言い切った。
「辛い時、悲しい時、切ない時、寂しい時、苦しい時……それらを乗り越えようと笑うと、どうしても変な感じになる。そして……その違和感に気づいてくれた人を、大切にしてほしい」
 そう言うと、姉は空を見上げた。どこか寂しそうな、そんな眼差しだった。視線の先には半分ほど欠けた月が輝いており、そのせいか星はあまり見えなかった。
「私は、結局その違いに気づいてくれた親友と仲直りする前に、死んじゃったから……」
「それって……」
「うん。笹原美咲。生涯で一番の、私の親友」
 夜空から目を離して、今度は屈託なく笑った。心の底から大切に想っている。それがわかる、綺麗な笑顔だった。
「ごめん、なさい……」
 そこで、光里が唐突に謝った。僕は少しびっくりして、彼女の方を見る。
「ごめんなさい……。私のせいで、美沙お姉さんが悩んで……美咲さんと喧嘩しちゃって……グスッ、そのまま……別れることになっちゃって……」
 しゃくりあげる声が響く。
 光里は知っていたのか?
 美咲さんが、僕の姉について話してくれた時、光里はいなかった。その前の、気持ちを伝えられなかった話の時もそうだ。別の時に、美咲さんから聞いたんだろうか。でも、もしそうなら、光里はずっと……
「ほんとにもう……大丈夫よ。私と美咲は喧嘩別れしちゃっても、お互いの気持ちには気づいてる。美咲も今では整理をつけて、しっかり生きようとしてくれてるみたいだから」
 呆れたように言いながら、「でもね」と姉は言葉を続けた。
「確かに、私は言葉に出して伝えたかった。直接、私の言葉で謝りたかった。お礼を言いたかった。大好きだって、言いたかった。でも、もう言えない。もう私は、美咲に会うことができない。触れることができない。
 でも、ひーちゃんは違う。しっかり向き合って気持ちを伝えることができる。なのに……自分の気持ちに蓋をして、自分から逃げるなんてダメ。もし私や美咲に対して見当違いの罪悪感なんて感じてるなら、代わりにひーちゃん自身が、ひーちゃんの大切な人に、しっかり伝えて」
 真っ直ぐな声だった。
 そして、思った。少し光里と似ている。いや……もしかしたら、光里が真似をしていたのかもしれない。
 この覚悟の決まった鋭い声は、強く心に落ちてくる。突き刺さってくる。沁み込んでくる。
「私の……大切な人……?」
「そ。ひーちゃんの、貼り付けた笑顔の裏を見守ってくれた、そんな人……」
 数瞬の逡巡の後、彼女はそっとこちらに目を向けてきた。ドキリと、心臓が跳ねる。
 脳裏に、夕焼けの空が浮かんだ。
 僕が、彼女への想いを自覚した日。僕は、屋上での告白を目撃してしまい、悲痛な気持ちで空を仰いでいた。
 日常の楽しさを思い出させてくれた光里。
 いつも笑顔で、強引な光里。
 実は不器用で、いろんなことを背負い込んでしまう光里。
 笑顔の裏で、悩んでいた光里。
 彼女に、心の底から笑ってほしいと思った。
 今は、あの時よりも強く、強く想っている。
 もう、僕は失いたくないから。それほど大切な存在だから、僕は光里に生きていてほしい。叶うなら、一緒に生きていきたい。
 彼女も、少しはそう思ってくれているんだろうか――。
「あ、でも今じゃなくていいからね? そういうのはこんなしけた場所じゃなくて、今週末の文化祭が終わった後にでもとっときなさい」
 ……沈黙を破ったのは、促した張本人の声だった。
「……姉ちゃんって、ちょいちょい雰囲気壊してくるよな。あとなんで今週末に文化祭あるの知ってるんだ?」
「え、今さらそこツッコむ?」
 ここに来て一番驚いた顔を見せる姉に、僕は苦笑した。まぁ確かに、さっきまでずっと事の顛末をまるで見てきたかのように話していたから今更感が……
「え、もしかして……?」
「そーよ。あんたが塞ぎ込んでるから心配で心配で、成仏できなかったのよ」
 脳裏に浮かんだ最悪の理由が、まさか本人の口から出てくるとは思いもしなかった。そして、申し訳なさという単語では言い表せられないほどの罪悪感が津波のように押し寄せてきた。
「姉ちゃん……その、ごめん」
「ったく。わかればいーのよ。いつまでもダサい傷痕なんか付けてるんじゃないわよ。治せるなら治してきなさいよね」
「はい……」
「まぁでも、おかげでひーちゃんに言いたかったことは言えたから、これでチャラにしておいてあげる。あ、あと――」
 その時。姉の身体から、消えていた光の粒が舞い始めた。
「え?」
 驚いて声をあげる。しかし、光里の身体は発光していない。まさか……
「あぁ、大丈夫。そろそろ消えるってだーけ。拒絶っていっても、数分間くらい寿命はもらっちゃったみたいだから」
「姉ちゃん!」
「美沙お姉さんっ!」
 何も気にしてないと言わんばかりの調子で話す姉に、僕らは一斉にしがみつこうとする。でも、僕らの指は空を切るばかりで、光の粒が収まることはない。
「もう。ほら! シャンとする! 最期なんだから私の言いたいように言わせなさい!」
 情けない僕らを叱咤するように、姉は叫ぶ。不思議と、その声だけで背筋が伸びた。
「まず、美咲に伝えてほしいことがあるの。あの子のことだから、精一杯生きて、胸張って死んでから私に会いに来るとか思ってると思うの」
「お、おおう……」
 まさに図星だった。確かに、この前美咲さんと話した時にそんなことを言っていた気がする。
「バカなんじゃないの、って叫んでおいて。最期の最期、一分一秒コンマ一瞬まで、生きてやるって気持ちで生きなさいって。まだ生きてるんだから、諦めたようなこと思ってんじゃないわよ! ……って、どついておいて」
「は、はーい……」
 これから消えるって感じじゃない姉の気迫に、光里も縮んだ声で返事をした。本当に、姉らしいな、と思った。
「それと……陽人とひーちゃんも、しっかり生きてね?」
 それでも。どんどん消えていく姉の身体に、僕の心は騙されてくれなかった。
「簡単にこっちに来たり、ましてや寿命を渡して入れ替わったりなんかしたら承知しないから」
 そしてきっと。それは僕のすぐ前で震えている、彼女も同じだ。
「それから、本当にありがとうね。二人のおかげで、私の人生、思った以上に良かった――」
「うそっ!」
 僕が言葉を発するより早く、光里が叫んだ。
「うそ……そんなの、うそだよ……っ! もっと、もっとたくさんしたいこと、あったんじゃないの? もっと知りたいこと、聞いてみたいこと、見てみたいもの……あったんじゃないのっ⁉ それなのに……グスッ、それなのに……っ!」
「光里……」
 まだ足元がおぼつかないらしい彼女を支えながら、そっと抱きしめた。
 彼女だって、もうわかってる。こんなこと言っても、困らせるだけだって。
 でも、言わずにはいられなかった。
 ……そしてそれは、僕も同じだった。
「姉ちゃん……僕も、そう思うよ。なんでそんなに、大人なんだよ。十年前だって、飛び出したのが光里だってわかってたんだろ。だから死に際に、『あの事故を恨まないで』って、言ったんだろ。もっと言いたいこと、あったはずなのに……。なんで姉ちゃんは、姉ちゃんは……っ!」
 今なら、あの言葉の意味がわかる。
 でも、つい最近まで僕は苦しんでいた。恨みたいのに、恨めない。あの言葉のおかげで、僕は道を踏み外さずに歩いてこれたけど……それと同時に、とてもキツかった。
「んーまぁ……私も心残りがないわけじゃないけど、私の生きた意味はあったなって思ったから、満足なんだ」
「生きた……意味?」
「そ。私もね、嬉しかったよ。二人にまた会えて。こうして話せて。想いを伝えられて。
 でも、もっと嬉しかったことがあったの。それは、また私に会いたいって思ってくれたこと。もう一度だけでいいから会いたい。そんなふうに思ってくれる人がいるのは、とてもとても幸せなこと。だってそれは、一緒に過ごした思い出が輝いている証拠だから。例え短くても、私の人生には意味があったんだって思えるから。だから、私を生き返らせたいと思ってくれて……私に、生きていてほしいと思ってくれて、ありがとう……!」
 ほとんど消えかけた手が、僕らの方へ伸びてくる。
「そしてね。それは、私も同じなの。陽人に、ひーちゃんに、生きていてほしい。もっともっと笑って、楽しく生きていてほしい。怒ってもいい。泣いたっていい。立ち止まったって、迷ったって、落ち込んだっていい。それが、生きてるってことだから。そしてまた前を向いて、生きていってほしい。今日だけじゃない。十年前、私と一緒にいた時の二人の顔は、笑っていたし、怒っていたし、泣いていたし、照れていたし、眩しかった。そんな日々を心に留めて、生きてほしいの」
 僕も、光里も、必死に手を伸ばす。
「二人が私に生きていてほしいと思うように、私も二人に生きていてほしいの。
 私の分までなんて言わない。私の人生は、十分すぎるくらい輝いていたから。
 だから。私のお願いは、私以上に人生を輝かせて。あんなに輝いた人生を歩んだ人に、生きていてほしいって思われたんだよって、私に自慢させて。そしていつか、たくさん話して聞かせてね。私はいつまでも、お父さんやお母さんと一緒に見守ってるから。ウジウジしてたら、叱り飛ばしに化けて出てやるからね! わかった⁉ 泣き虫ひーちゃんに、ヘタレな陽人!」
「姉ちゃん!」
「待って……っ!」
 指先が触れる前――。
「ずっと、大好きだから……――」
 夜がまたひとつ、色を濃くした頃に、姉の姿は空へと溶けていった。
 夏。蝉の鳴き声が青空を駆け巡り、さんさんと照り付ける太陽が額の汗を輝かせる季節。
 春に芽生えた生命の息吹が梅雨を越えて栄え、青々と茂った葉が緩やかな風に舞った。
「あっついなー」
 顎の汗を拭い、ペットボトルのお茶を喉へと滑らせる。すっかりぬるくなってしまったが、渇いた喉には十分すぎるご馳走だ。
「ほんと! もうちょっと涼しくならないかな〜」
 隣から澄んだ声が響く。僅かに不満げな色を含んでいるも、その大半は嬉々としていて、楽しそうな足取りと合っているように見えた。
「光里のクラスTシャツは黒だし余計暑そうだよな」
「そうなの! 私も陽人のクラスみたいに水色とかが良かったなー」
「でも黒は黒でカッコいいと思うけど」
「私はデザインより実用性重視です!」
 そんな何気ない雑談をしながら歩いていくと、いつもより華やかに彩られた校門が遠目に見えた。それだけで、つい心が躍ってしまいそうになる。
 カラフルなペーパーフラワーで飾り付けされたアーチを潜り、僕らは生徒玄関へと入っていく。すると、突然後ろからペシリと頭をはたかれた。
「おーっす! 二人ともおはよー!」
「笹原くん、おはよー!」
「ってーな。普通に挨拶できねーのかよ」
「なーに言ってんだ? 俺たちにとってはこれがいつもの挨拶だろ?」
「いつ、僕の頭をはたくのがいつもの挨拶になったんだよ?」
「まあまあ、二人とも」
 やいのやいのと騒ぐ僕たちを嗜める声に促され、渋々中へと入っていく。いつものように靴を履き替え、いつものように階段を登り、いつものように光里と別れてから教室に向かうと、そこは喧騒に満ちていた。
「私のシフト、何時からだっけ?」
「えーっと、昼からだねー。プラカード担当だから集客よろ~!」
 屋台のシフト確認に、
「今日どこから回るー?」
「やっぱり、お化け屋敷でしょ!」
 出し物の道順を決める会話。
「俺さ、文化祭終わったら告ろうと思うんだよね」
「マジ? え、だれだれ?」
 なんと告白の密談まで。
 予鈴が鳴るまでまだ時間に余裕はあるが、クラス内はもうすっかり文化祭モードだった。テンション高すぎだろ、と思う一方、既に僕も校門前で似た気持ちになっていたことを思い出して苦笑する。
 そこでふと、入り口でたむろしていた男子三人と目が合った。
「おは……」
 そのうちの一人が、そこまで言いかけて口をつぐんだ。残りの二人に至っては、特に言葉を発することもなく目を逸らしている。
 まっ、しゃーねーよな。
 これまで僕がとっていた行動を思い返せば、この反応にも納得がいく。むしろ、これが当然だとさえ思えた。だから、
「おはよー」
 僕は努めて普通に挨拶をした。少し緊張して上擦ってしまったけれど、そのくらいは勘弁してほしい。
「お、おう?」
「ウス」
「はよー」
 三人は意外だったのか、目を丸くしてぎこちなく返事をしてきた。なんとなく変な雰囲気になりかけたが、「おめーら、人見知りかよ!」とノリよくツッコむ笹原の声が後ろから飛んできて、場はまた元の色を取り戻した。そのままいつの間にか文化祭の出し物の話になり、オススメは光里のクラスの簡易カフェと、五組と七組の射的、そして今年から有志でやるらしいダンスショーだと教えてもらった。
 そんな話で盛り上がっていると予鈴が鳴り、僕らは慌てて席に着いた。
 なんだか、とても楽しかった。

 HRの後、前半組の僕は生地の準備のため家庭室に向かった。ちなみに笹原は後半組で、午前中はなにやら大事な用があるらしい。「告白か?」とからかったら、すごく呆れた目つきで睨まれた。
「そのイジり、ブーメランだからな?」
 別れ際、笹原はそんな意味深なセリフを残して去っていった。知ってるよ、と思ったが、敢えて口には出さなかった。
 それから、僕は時々同じ班の男子と談笑しながら生地を作っていたが、文化祭が始まって暫くしてヘルプに駆り出された。
「ごめん! どうしても焼き手が足りなくて!」
 どうやら、思った以上にお客さんが来て接客に手を取られているらしい。以前、笹原とあれこれ焼き加減やら形やらについて話していたのを聞かれていたようで、僕を含めた数人が表のテントへと向かった。
「あん三、クリーム五で! その後はあん七! あ、いや、追加あん三の計十個!」
「すみませーん! 今、チョコレートの方は少々お時間いただいておりますー!」
「あれ? そっちの包装紙もうないの? とってくるー!」
「おーい! ここ少し焦げてるからそっちのをくれー!」
 現場は……戦場と化していた。接客と並行して焼いていたクラスメイトに代わり、僕は次々とたい焼きを焼いていく。
「橘くん! そっち焼けたらどんどんここに並べていって!」
「りょーかい!」
「橘! ここに新しい生地とチョコ置いとくから、次はチョコ優先で頼む!」
「おけ!」
 普段あまり話したことのないクラスメイトともやりとりをしつつ、夢中で鉄板を返す。カタン、カタン、と金属のかち合う音が響き、生地の焼ける香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
「お待たせしましたー! こちらお熱いのでお気をつけてお持ちください!」
「追加注文ありがとうございます!」
「チョコレートもうすぐでーす!」
 背後からは、聞き慣れないクラスメイトのはつらつとした声が聞こえる。今まで、僕が耳を塞いでいたから聞こえなかった声だ。
「橘! もうそろそろ焼けそう?」
「今焼ける! もうちょい待って!」
 その声に、僕も応えてみたいと思った。
 なぜだろう。
 いや……問わなくてもわかる。
「ほい! チョコレートね!」
「サンキュー!」
 今を受け入れることができるのは、過去を受け入れられたから。
 光里が、笹原が、美咲さんが、姉ちゃんが……いてくれたから。
「おーい! 陽人ー!」
 チョコのたい焼きを並べるために振り返ったその瞬間、僕を呼ぶ声がした。
 見知った顔は二つ。
 一つは、ついさっきまで僕にアホな言葉をかけてきたやつのもの。
 そしてもう一つは、小さな画面越し。でも、アホなやつとよく似た優しい眼をしている。
 やれやれ、この忙しい時に。
 僕は笑って、手を振った。

 前半組のシフトが終わったお昼過ぎ。午前中の混雑具合からシフトの変更が行われ、僕と同じ生地担当だった笹原も焼き手に回されることになったらしい。
「ここからは俺に任せておけ! お前の十倍は美味いたい焼きを焼き上げてやるからな!」
 僕からエプロンを受け取る際、笹原はドヤ顔でそんなことを言ってきた。
「はいはい。調子に乗って焦がさないようにな」
 苦笑しつつ釘をさすと、彼の手元からも元気な声が飛んできた。
『幹也ー! その超美味いたい焼きとやら、後で持って来なさいよ~!』
「ういうーい」
 僕らからのせっかくの忠告も、彼はご機嫌な様子で軽く受け流した。
 本当に調子のいいやつだな、と思った。でも、こんな彼と一緒にいるのは嫌じゃない。気づいたのは最近だけど、きっともっと前から感じていたんだと思う。恥ずかしくて、直接伝えられるのはまだ先のことかもしれないけれど――。
「おっとそうだ」
 文化祭の熱に当てられたのか、そんなことをぼんやり考えていると、唐突に笹原がスマホを渡してきた。
「陽人。姉さんのこと、頼むわ」
 先ほどまでの適当な感じとは違い、今度はどこか真剣に彼は言った。
「ああ。了解」
 だから僕も苦笑を収めて、それを受け取った。
 タッチ交代。ここからは、僕が美咲さんに文化祭を見せる番だ。
「ちょっとー! なに陽人だけで行こうとしてるの! 私も行くんだからねー!」
 そんなやり取りをしていると、後ろから不満そうな声が飛び込んできた。振り返ると、夏の日差しに負けない笑顔がみるみる近づいてくる。相変わらずの眩しい表情は周囲の興味も引き寄せてしまうようで、何人かがチラチラとこちらを見てきた。
「悪かったよ。一緒に行こうぜ」
 小走りで駆けてきた光里を待って、僕たちは歩き出した。

 文化祭は、午前よりも活気な賑わいを見せていた。校門のすぐ目の前に伸びる玄関前広場には、ベビーカステラに、スムージーに、たこ焼きに……といろんな種類の出店が列を成していて、どこも繁盛しているようだった。
 さっきまで僕が必死に作業していたたい焼きの出店の前も、かなりの人が並んでいる。まぁ、さすがに光里のクラスには負けるようだが。
『いや~二人ともごめんね~? 私のわがままでこんなことさせちゃってさ~』
 手元のスマホから若干遠慮気味な声が聞こえて、僕は驚いた。
「え、今さら? 美咲さんらしくもない」
「そうですよー! 美咲さんならもっとグイグイあれこれわがまま言ってください!」
 どうやら光里も同じだったようで、僕に続いて画面の向こうに笑いかけた。
『二人とも、なんかひどくない~っ⁉』
 病室のベッドの上で、美咲さんは嬉しそうに小さく叫んでいた。
 姉との一件は、その日すぐに美咲さんへ伝えに行った。笹原は帰ってしまったようで、病室は美咲さん一人だった。
「美沙のバカ……」
 面会時刻ギリギリだったが、僕と光里は事の顛末を丁寧に説明した。初めは驚いていた美咲さんも、次第にいろいろと納得したようで涙を浮かべて聞いてくれた。
 そして。姉の言葉を伝えたところで、美咲さんは膝を抱えてうずくまってしまった。
「……でも。美沙の言う通りだね。私もバカだな~。あれから十年も経ってるのに、美沙よりずっとずっといろんなこと経験してきたのに……私ってほんと、美沙に甘えっぱなしだ」
 自嘲気味に、美咲さんはつぶやいた。でも、どこか嬉しそうでもあった。
「ふふっ。私も、いつまでもこんなんじゃダメだね。美沙に幻滅されないよう頑張らないと」
 そこで面会時刻のタイムリミットが来て、僕らは美咲さんと別れた。
 それから彼女とは会う機会がなく、文化祭の今日、画面越しだけど話ができて嬉しかった。
 やっぱり彼女は、姉と似ている。性格や雰囲気だけじゃない。僕が美咲さんの中に姉を見るのは、きっと、彼女の心に姉が生きているから。大切でかけがえのない思い出が、輝いているからなんだろう。そして、僕らの中でも――。

『ねっ! 私だったら、あれこれわがまま言ってもいいんだよね?』
 射的やお化け屋敷といった催し、文化部のマニアックな展示、クラスの男子から教えてもらったダンスショーなどを楽しみ、一日目の文化祭も終わりに近づいた頃。美咲さんが突如、思い出したように声をあげた。
「……なんですか?」
 嫌な予感しかしない問いに、僕は露骨に顔をしかめて見せた。すると彼女は、少し笑みを深めてから、通る声で言った。
『今日の残り時間は、二人で使って。今の時間だと、屋上あたりがいいんじゃないかな〜?』
 そして唐突に、ビデオ通話が途切れた。
「美咲さん……」
「屋上って……」
 顔を見合わせる。夕焼けが、窓の外から淡く、僕と光里の顔を照らしていた。
 まだ喧騒の止まない校舎内。笑い声や叫び声、賑やかな音楽などが、遠くから聞こえる。
 でも、僕らのいる場所は割と静かだった。教室を使った催しから少し離れているからだろう。
 少しだけ考えてから、僕らは夕陽でオレンジ色に染められた階段を上ることにした。
「……」
「……」
 僕らの間に、会話はない。とりあえず屋上に行こうか、なんて言葉を交わしたっきりだ。前を歩く光里が何を考えているのかはわからないけれど、少なくとも僕はいろんな意味で緊張していた。
 この階段を上るのも、久しぶりだな。
 以前上った時のことは、よく覚えている。あの時は必死に駆け上がっていた。
 素直になれなかった僕のことを、「顔だけは怖いけど本当は寂しがり屋の優しい人」だと評した光里に、いろいろ言いたくて。
 僕の思い込みで避け続けていたことを、謝りたくて。
 いつもみたいに楽しい日々を、一緒に過ごしたくて……。
 ふと、思った。
 ある意味では、今も同じだ。
 今も僕は……自分の想いを伝えたくて、この階段を上っている。
「わっ、見て!」
 先に一番上へと辿り着いた光里が、興奮した様子で振り返った。彼女が指差す先は、開け放たれた扉の向こう側、すなわち屋上だ。なんで屋上の鍵が開いてるんだろうと思いながらも、僕もその先が見える段に足をかけ……目を見張った。
「おぉ、これは……すごいな」
 そこは、文化祭の色で満ちていた。
 僕たちの高校は細長く、夕陽で赤く染められた屋上の床が彼方まで続いていた。その両脇にそびえる転落防止柵には、各クラスや部活、有志で作られた色とりどりの横断幕や花、華やかな飾りが三段に渡って結び付けられており、風を受けて気持ちよさそうになびき、舞っていた。その光景は、まるで……
「なんかさ、バージンロードみたいだね」
 光里が、照れくさそうにつぶやいた。
「学生専用の、だけどな」
 似たようなことを考えていた僕は、照れ隠しにそんな言葉を返した。
「じゃあ、青春のバージンロードだ」
「クサすぎだろ。てか、バージンロードの意味知って言ってるのか?」
「ふふっ。もちろんだよ」
 光里は、右手を差し出してきた。こんな時まで彼女先導なのが気に食わなかったけれど、僕らの始まりはいつもそうだった。
「そうか。まぁ、ならいいんだけど」
 なるべく優しく、その手を握る。想像以上に華奢で、柔らかくて、心配になるほどだ。
 でもそれ以上に、高鳴る鼓動が腕を伝って聞かれていないか、心配だった。
「バージンロードは、これまでの人生と、これからの人生を示す道。だから、改めて命を見つめることになった私たちにとっては、ピッタリの道だよ」
 嬉しそうに、光里は笑った。とても眩しい笑顔だった。夕陽のせいか、どこか赤くなっているようにさえ見える。
「確かに。姉ちゃんに呆れられないよう、しっかり歩いていかないとだな」
 そんな彼女の表情に、恥ずかしくてつい顔を背けたくなったけど、僕は堪えた。そしてどうにか笑い返してから、夕陽に輝く橙色の床へ一歩踏み出す。
「うん、そだね……!」
 僕に引かれるように、彼女も小さく足を進めた。
「陽人は……私の手、離さないでね」
「え? なんて?」
「んーん! なんでもなーいっ!」
 グイッと一気に左手を引っ張られた。その勢いに転びそうになりながらも、僕はどうにか体勢を立て直し、
「おい! 教えろって!」
「アハハッ! 知りたかったら当ててみてよー!」
 彼女と並んで、走り出した。

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