楪は一日だけ学校を休み、体の不調が無くなったのを確認して翌日登校した。襲撃事件は箝口令がしかれていたので、噂の一つも回っていなかった。楪は風邪で休んでいたことになっていた。
 登校すると桃がいつも通り声をかけて来たので、日常にほっと安堵の息を吐く。
 まさか妖魔と対峙し、逃げ惑うことになるなんて一月前の自分は思っていなかっただろう。それ以前に一月前の自分は十和のことすら知らなかったのだ。婚約何て夢のまた夢だった。
 人生何があるかわからないな、と一月前の自分と比べていた。
 藤沢が話しかけて来たのは、昼休憩の時だった。固い顔をしたまま隣で立ち尽くす藤沢に楪は少しだけ笑った。
「少し、良い?」
 心配そうな桃に大丈夫だと手を振り、藤沢と二人で誰も使っていない空き教室へやって来た。扉を閉めるなり、藤沢は頭を下げた。
「ごめんなさい。本当にすみませんでした」
 土下座でもしそうな勢いに呆気に取られていたが、藤沢の手が震えていることに気が付き、直ぐに顔を上げさせる。一昨日ぶりに見た藤沢の顔は目が真っ赤で、顔は相変わらず白かった。もしかしたらこの間よりも顔色が悪いかもしれない。
 どうしたのか問うと、藤沢は首を振った。
「夢子が何をしたのか話を聞いた。椎名が大きな怪我をして休んでるって聞いた時、ああとんでもないことしちゃったと思った。私は助けてもらったのに、私は助けてあげられなかった」
「それは、だって脅されていたんでしょ」
「そんなの理由にならない」
「なるよ」
 楪の目に藤沢が妖魔と対峙していた時の凛々しさが浮かぶ。楪にとって藤沢はずっと強い人だった。その藤沢があそこまで取り乱したのだから、夢子への恐怖心を推し量るには十分だった。
「いきなり知らない人間と結婚しろって言われたら怖いよ。自分の道が塞がれそうで辛いよ。藤沢は私のこと好きじゃないし、夢子に渡すくらいいいかって思うのが普通だよ」
 藤沢が驚いた顔をしたので「ごめん、十和から聞いちゃった」と頭を下げる。
 気分を害したかと思ったが、そんなことはなかった。
「……私、ずっと椎名が嫌いだった。弱いくせにへらへらしてて、それなのに怖い物なんてないっていう振る舞いをするから。私はこんなに夢子さんが怖いのにどうしてこいつは弱いのに笑ってられるんだってずっと思っていた」
「へらへらしていたかな」
 自覚が無かったので口が引きつる。まさかそんな理由だと思っていなかった。
「全然椎名のこと知らないのにね。勝手にこうだと決めつけて嫌ってたごめん。ごめんなさい」
「や、全然。気にしてなかったよ」
 楪の言葉は嘘ではない。家でまるで居ない者のように扱われていた時期もあり、空気のように扱われるよりは嫌いだと態度で示されるのは存在を認められているようで安心していた。
 そう言ったら家庭環境を心配されそうなので言わないが。
「……あ、あのさ。龍ヶ崎家からお咎めの件は椎名に直接聞けって言われたんだけどさ、あれって」
「ああ、そうだった」
 藤沢へのお咎めはなし、と楪は言ったが、龍ヶ崎家としては婚約者を危険な目に合わせた人間に対して罰を与えないのは問題があった。龍ヶ崎家は婚約者に手を出しても何も言わないなどと噂が広がれば楪が危険な目に遭う可能性が格段に増す。しかも龍ヶ崎家が他の家からその程度だと思われる可能性もある。なので、表向きには何かしらの咎が必要だった。そこで藤沢家には処分は楪が直々に娘の美月に伝えると言ってあった。
「龍ヶ崎家から処罰があるのか当然。どんな罰だって受けるわ」
「そう? じゃあ、呪符の作り方を教えてくれないかな」
「……え? 呪符?」
 藤沢は数回瞬いた。
「実はさ、夢子さんと戦闘になった時に呪符を使ったんだけど、全然効かなくて。自分の実力からして当たり前だと思っていたんだけど、十和が気にしてて」
 瑠璃川家で夢子と使用人の投げつけた呪符の残骸を見た十和は、逢魔で三年間習っているんだよなと驚愕していた。それぐらい楪の呪符は酷い物だったらしい。見た目は完璧だが、力の籠め方が悪い。子供の方がまだましと散々な言われ方をした。十和にあそこまで言われたのは初めてだったので、余程酷いのだろうなと少し危機感を覚えた。
 最初は十和に教えてもらっていたのだが、天才肌の十和は教えるのが絶望的に下手だった。その上楪には十和の予想の数倍才能が無かったので、楪の呪符は殆ど効力が無いままだ。
「藤沢さんは呪符を作るの上手だから教えて欲しいんだけど、いいかな?」
「いいけど、そんなことでいいの? もっとこう、下僕になれとか、学校来るなとかそういう命令とかはないの」
「ないよ、なにそれ。処罰ってそんなことするの?」
「いや、私も知らないけど。それくらいされても当然な事はやったと思っていたから、そんな軽くていいの?」
「軽くないよ。私本当に呪符とか作る才能ないから、色々教えて貰える方がありがたいよ」
 呪符が作れるようになれば、妖魔と対峙した時に慌てることも無力を嘆くこともなくなる気がした。
「わかった。私で良ければよろしく」
 そっと出された手を握る。これでこの話は全部終わりにしようと言うと藤沢は渋ったが、頷いた。
 藤沢の手は思っていたよりもずっと温かく、部屋に入って来た時の緊張はなくなっていた。
「そう言えば、一個聞きたかったんだけど、どうして十和の婚約者候補を名乗っていたの?」
 藤沢の両親は娘に結婚を強要していないのなら十和と結婚する必要はなかったはずだ。その疑問に藤沢はさも当然とばかりに胸を張って答えた。
「そりゃあ、あの龍ヶ崎十和と結婚できるのならしたいわよ。容姿が完璧な上に実力も祓い屋界隈でトップクラス。龍ヶ崎家との縁が出来るなんて最高。そんな男なら誰でも結婚したいと思うでしょ」
「そ、そっか」
「まあ、龍ヶ崎十和はあんたに夢中みたいだけど」
「え?」
 すっかりいつもの調子に戻った藤沢に胡乱な目を向けられ、どきりとした。
「あんなに愛されているくせに、まさか気づいてないわけないよね? あんたがいないって分かった時の龍ヶ崎十和の動揺具合凄かったわ。怒鳴ったりはなかったけど、触れたら切れるような雰囲気で、すごく必死で、ああこの人本当に椎名の事好きなんだなって、思った、んだけど……自覚はあるみたいね」
 楪の顔は真っ赤になっていた。
 愛されているのは言動からわかっていたつもりだった。でも楪が見えている部分でしか愛情を測ることが出来ていなかった。きっとすごく心配をかけたのだろう。十和の手を思い出すと無性に会いたくなった。
 それと同時に何故そんなに愛してくれるのか疑問だった。

 疑問を抱えたまま、楪は十和と共に実家の前にいた。
「来ちゃった……」
「どうした? 大丈夫か?」
「だ、大丈夫」
 本当は全く大丈夫ではないが、無理やり浮かべた笑みを見せた。
 襲撃事件が解決し、十和の任務が忙しいこともあって今後の話し合いができないまま数日たった金曜日の夜の事だった。
 龍ヶ崎家に楪の両親から連絡があった。それは、たまには家に帰って来なさい。皆寂しくしています。顔を見せて欲しい。という内容だったが、受け取った楪は勿論、雪や夕凪、他の使用人も信用していなかった。
 行かない方が良いと言ったのは雪だった。母親と玄関越しに対峙して動揺する楪の事を間近で見ていた人間は皆反対した。何をされるか分からないとまで言われた。その一方で、楪の判断を仰いだのは十和だった。
 会いたいなら行けばいい。会いたくないなら行かなくていい。誰も咎めない。そう言ってもらい、楪は逡巡した後に答を出した。
 けじめをつけよう。騙し討ちのように家を出たから、最後の挨拶をしようとそう決めた。
「わかった。俺もついて行く」と言う十和の任務がない日曜の昼間に実家までやってきたのだが、家が目に付いた途端胃が重くなった。ずっと自分が暮らしていた家なのに見るのすら嫌だった。
 嫌悪感に吐きそうになりながらインターホンを押すと、すぐに母親が顔を出した。十和が一緒に来ることを事前に知らせていたこともあり、その顔に驚きはない。それどころか楪に対しての嫌悪感もなくて驚いた。
「良く帰って来たわね。十和さんもいらっしゃい。どうぞ入って」
 先に家の中に入った母親の背を見ながら楪は隣に立つ十和の袖を握った。
「楪?」
「どうしよう、こわい」
 悪意が感じられないのが怖い。母親の顔は悪いものが表に出ないように塗り固めた能面の様だった。それは嫌悪感を向けられるよりもずっと恐ろしい。
「帰ろう」
 手を握った十和が躊躇いなく引き帰ろうとするので、慌てて止める。
「ごめん、嘘。大丈夫。大丈夫だから」
「楪の意思を尊重するが、嫌なら会わなくていい。怖いことなら逃げた方が良い」
 このまま十和の手を握って逃げてもきっと誰も咎めない。よく頑張ったね、怖かったねと言って慰められるかもしれない。でも、それでは自分が納得出来なかった。
 楪は大きく息を吐くと気合を入れて、十和に笑いかけた。
「ごめん、もう大丈夫。行こう」
 ついて来ない楪達を呼ぶ母親の声に言葉を返しながら中に入った。
 通された客間には既に父親の姿があり、目が合うと体が否応なしに体が強張った。姫花も部屋にいたのだが、その表情はどこか暗く、楪と目が合うと小さく首を振った。
 何か恐ろしいことがある。予想していた通りただ顔が見たいだけではないらしい。
「おかえり。十和さんはいらっしゃいませ。今日はわざわざお越し下さりありがとうございます」
「招かれていないのに押しかけて申し訳ない。楪が心配だったもので」
「いえいえ、来ていただけて嬉しいですよ。十和さんにも話があったので」
「話?」
 楪と十和が正面に腰を下すと、父親がこれまで見たことが無い笑みを浮かべた。
「何かの手違いで、そちらが嫁いでしまったようなのですが、本来龍ヶ崎家に嫁ぐべきなのは娘の姫花です。今日は姫花を紹介しようと思いまして」
「何を言っている?」
 十和の声が低く剣呑さを帯びたが、両親は気づいていないようだった。
「どうやって取り入ったのかは分かりませんが、その子には何の力もなくて、十和さんの役に立つとは思えません。それに顔も、十和さんの隣に立つには恥ずかしいでしょう」
「恥ずかしい?」
「はい。婚約者などと厚かましく名乗っていますが、それの背中には――」
 がん、と鈍い音が部屋に響いた。
 隣を見ると十和が拳をテーブルに打ち付けていた。俯いていた十和の視線が持ち上がると、怒りで燃える目が両親を射抜く。
「話はそれだけか? ぺらぺらと良くもまあくだらないことを言ったものだ。楪の両親だからと大目に見ていたが、これ以上楪を貶めるようならそれ相応の罰を受けて貰う」
 そう言い捨てると楪の手を取って立ち上がろうとした。
 突然帰ろうとし始めた十和に混乱した母親が声を張り上げた。
「待ってください。十和さん。それは駄目です。その子は、傷物なんですよ」
 母親の言葉に楪の体がぎくりと強張った。
 思わず開いている手で額の傷を抑えると、蒼白になった楪の顔を見て母親が嗤った。やはり傷の事は言っていないんだな、と嘲るような笑みに呼吸が止まる。楪は額の傷も背中の傷も十和に言っていない。告白することにばかり気を取られていて忘れていた。
「額と背中に傷があるんですよ。女の傷は致命的でしょう。さあ、もうそれとの婚約は止めて」
「それがどうした?」
「え?」
「傷があるからなんだと言うんだ。傷如きで楪の魅力が損なわれるわけがないだろう」
 帰ろうと十和は言ったが、楪はその場から動かなかった。
「楪?」
 現金なもので不安が消えると人は強くなれる。十和が傷如きと言うならば、楪もそうして笑い飛ばしたかった。
 しんどい時こそ胸を張る。心の中で呟き正座をしたまま両親に向き直った。
「お父さん、お母さん。二人の期待に答えられず、姫花を危険に晒してしまいすみませんでした。私は自分の行きたい場所で生きます。もうここへ帰って来ません。今まで育ててくださりありがとうございました」
 心地いい場所ではなかったが、育てられたのは事実だ。謝罪と感謝を口にして、いらない物は置いて行く。もうここへは帰って来ない。
 その言葉は楪なりのけじめだった。
 一息で言い切ると、二人の顔を見ずに立ち上がり十和と共に外へ出る。背後から両親が追ってくることはなかった。
 家を出てすぐに、追って来た姫花に呼び止められて足を止める。
「ゆずちゃん……」
 姫花は何か言おうとして口を開け、また閉じ、ぐっと噛みしめるような仕草をした後に笑った。
「幸せになって」
 目を潤ませる姫花を堪らず抱きしめると、背に小さな腕が回る。
「ごめん、ごめんね、姫花」
「何で謝るの。謝るのは私のほうなのに。ずっとゆずちゃんに甘えて、お父さんたちから守ってあげられなかったのに」
 一人だけ地獄から解放されるような気分だった。実家は思っていたよりもずっと息苦しく、呼吸もままならない。そこへ姫花を置いて行くのが忍びなかった。しかし、姫花は首を振った。
「私はここでも大丈夫。ゆずちゃんがいないのは寂しいけど、学校で会えるもんね」
 ぎゅっと抱きしめた後、二人は離れた。いつ両親が家から出て来るか分からない。ずっとここへはいられなかった。
「龍ヶ崎十和さん。ゆずちゃんのことよろしくお願いします」
 姫花が頭を下げると、十和は真剣な表情で頷いた。
「必ず幸せにする」

 迎えの車はここから離れた所に呼び、そこまで歩くことにした。
 隣に立つ十和の手が楪の手をしっかりと握っている。冷たい大きな手に握られると守られているようで安心した。
「ごめん」
「なんで楪が謝るんだ」
「不快な思いをさせたから。何となく、こうなるとは思っていたんだ。期待していなかったというか」
 母親が扉を開け、楪達を招き入れたときに母親は楪の名前を呼ばなかった。その時に両親の思惑は分かっていた。しかし帰らなかったのはきちんと終わりにしたかったからだ。両親に対する蟠りを家に置いて行きたかった。
「問題ない。腹は立つがな」
 ふんと鼻を鳴らした十和は、腹が立つと言いながら怒っている様子はなかった。
「傷、本当に気にしない?」
「しない。けど」
「けど?」
 不意に十和が足を止めた。
「楪は傷の事で色々言われていたのか? だったら治癒が使えなかった昔の俺に腹が立つ」
「十和のせいじゃないよ。私が自分で治せたら良かったんだよ」
「いや、昔は治癒何てできなくても問題ないと修行をしていなかったんだ。修行をしていれば、治せた」
 拗ねた様な顔に口元が緩んだ。
「あの時、助けてくれてありがとう。命の恩人なのに気付くのが遅くなってごめん」
「あんなことがあったんだ。覚えていなくても仕方がない。それに暗がりだったからお互いに顔が良く見えていなかっただろう」
「そうだけど、十和は気づいていたんでしょ」
「まあな。俺は人よりも目が良いからな。楪だって龍の姿の俺を見て気付いたんだろう?」
「そうだね。忘れられないよ」
「それなら良い」
 十和が上機嫌で歩き出した。
 向けられた笑顔にきゅっと胸が疼いた。
 先を行く背中にずっと胸につかえていた言葉を吐き出した。
「私、まだ十和の婚約者でいて良い?」
 十和が足を止め、驚いた様子で振り返る。
「あ、いや、違う。こんなこと言いたかったんじゃなくて」
「楪」
 そっと手を引かれ、十和との距離が近づく。見上げた先にいた十和は焦がれるような顔で楪を見ていた。
 甘く名前を呼ばれると、言おうとしていた言葉が喉奥に引っ掛かって上手く出て来ない。
「は、はわ……」
 十和の手が頬を撫でる。
 近い、近すぎる。そう思うのに抵抗することが出来なかった。
「楪、俺は――」
「十和様」
 突如入り込んできた声が二人の十和を動きを止めた。
 ちらりと視線を向けると、いつの間にか隣に止まっていた高級車の運転席から季龍が顔を覗かせていた。
「公共の場ですから、慎んでください」
「は、はい。すみません」
 自分達の事で夢中になりすぎて周りが見えなくなってしまっていた。幸い、人がいなかったが、公共の場ですることではなかった。
 慌てて十和から離れ、赤くなった顔を抑えたまま車に乗り込んだ。
 家に着くまで口を聞けなかった。

 挨拶もそこそこに、ずかずかと部屋に入り込んできた十和は楪の正面に正座をした。
「じゃあ、続きを」
「え」
「こんなことを言いたいんじゃなくて、の続きが聞きたい」
 外では何だか頭がぼんやりしていたので、つい口走りそうになったが改めて聞かれると羞恥が押し寄せて来た。
 じっと楪の言葉を待っている十和に覚悟を決める。
 ごくりと生唾を飲み込み、拳を握り、十和の目を見つめながら口を開いた。
「あのね、私、十和が好き。だからこれからも婚約者として隣に居させてほしい」
 言った。
 ついに言ってしまった。
 どこどこと忙しく鳴る心音を聞きながら十和の動向を注視していると、十和はふっと柔らかく笑みを浮かべた。
「俺も楪が好き。ずっと傍にいてほしい」
「十和は、私のどこが好きなの? いつ好きになってくれたの」
 この際だから聞いておきたかった。
「昔、楪が泣いたから。血塗れでぼろぼろのまま泣いていたのに、強くなろうとする目だな。月あかりに照らされた楪の事をずっと忘れらなかった。くじけることない強い目が印象的だったんだ」
「泣いたのに強いの?」
「泣くことは悪いことではない。楪は妹を守りながら立ち向かっただろう。勇気ある人間が安堵と不安で涙を流すのを笑う人間はいないだろう。あの日からずっと楪の事を忘れられなかった。だから学園で再会した時に治癒の能力関係なく絶対に一緒にいたいと思っていた。一緒に過ごすうちにさらに楪を好きになったよ。可愛くてたまらなくて」
 十和の目があまりにも甘いので、見ていると頭がおかしくなりそうでさっと目を逸らした。
 すると、十和の手が徐に楪の方へ伸び、頬を滑って前髪に触れた。優しくかき分けられ、白い傷跡が露出する。十和はその傷を撫で、それから顔を近づけて唇を寄せた。
 ちゅ、と小さく音がなり、傷跡にキスをされた。
 恥ずかしさよりもずっと満たされ、目を閉じると涙が滲む。
 傷痕があると結婚できない。誰も愛してくれないと言われていた自分が漸く救われたような気がする。

「私、雪さんには契約だったことを話しておきたい」
 結果的には嘘にならなかったが、騙していたことには変わりない。雪にはどうしても嘘を吐いて居たくなかったので打ち明けたいと言うと、十和は。
「ああ、それなら問題ない。母さんは全部知っていたぞ」
 と言った。
「……え? 全部って」
「俺がずっと楪の事を好きだったのも、最初は契約だったのも。因みに家の人間は全員知っている」
「な、何で? それで皆納得したの?」
「納得させたんだ。絶対に落として結婚するから安心して構えていろと言っておいたんだ」
「そんな……私結構悩んだのに。告白も勇気を振り絞ってしたんだけど」
「ああ、それも」
 十和が何かを言おうとしたが、直ぐに口を閉じた。
「なに?」
「いや、楪は覚えていない様だが、瑠璃川家から帰る時に車の中で俺に好きだと言っていたぞ」
 瑠璃川家、車。と聞き思い出したのは、眠る寸前に呟いた言葉だった。
 ――私、十和が好きだよ。
「わあああ」
 てっきり言葉にならなかったと思っていたのにしっかり口にしていたらしい。
 散々悩んだ自分が馬鹿みたいで、思わず顔を覆った。
「もっと早く言ってくれれば」
「楪から言って欲しかったんだから仕方ないだろう。両思いだとは分かっていたからな、気長に待つつもりだった」
「私は十和の掌の上だったのか」
 両想いなのは嬉しいが、何だかやりきれない。楪が少しだけむっとすると十和は苦笑を溢した。
「俺だって必死だったんだぞ。どうしても楪と生きていきたかったから」
「恋愛結婚しかしないって言っていたらしいけど」
「楪以外と結婚する気はなかった。どうして好きでもない相手と結婚なんかしないといけないんだ」
「昔から、ずっと好きでいてくれたの?」
 十和はふっと目元を和らげて笑った。
「俺は一途なんだ」
 一途過ぎる思いに驚くよりも感動を覚えた。
 それと同時に十和に見合う様な思いを返し、隣に立っても恥ずかしくない人間になりたいと思った。
「まずは、呪符かな……がんばろ」
「何の話だ? 努力するのなら、まず俺の事を癒してくれ」
 はい、と差し出された冷たい手を握り、美しい紫色の目を見つめながら楪は全力で癒しを与えた。

 これからもずっと隣で笑っていられますように、と願いを込めて。