どうにかして十和に連絡を取らなければ。楪は窓の外に視線を向けながら考えを巡らせていた。連絡手段はスマホだけだが、現在そのスマホは夢子の手中にある。しかも強い力で握られたせいで壊れている可能性がある。
 他に連絡手段は、と視線を前方へ向けると、ルームミラー越しに運転手と目が合い、すぐに逸らされた。その表情はどこか暗く、引きつっているように見えた。
 楪を拉致ことは瑠璃川家の総意ではなく、夢子の独断で行われたことなのだろう。運転手の顔には龍ヶ崎十和の婚約者を誘拐したことへの焦りが見えている。
「どうしてこんなことを?」
 答えは返って来ないかもしれないと思っていたが、意外にも答えは直ぐに返って来た。
「吊り合っていないからです。十和さんに。龍ヶ崎家に嫁入りしたなどと愚かなことを口走った女共に身の程を弁えさせているのです。本当は美月も同じようにする予定でしたが、変更しました。だって貴方が一番身の程知らずで、邪魔なんですもの」
 その言葉からこれまでの襲撃事件も夢子の犯行だと分かった。
 夢子は十和の婚約者候補を自称する女性を飼っている妖魔で襲い、もう二度と婚約者を名乗らないように警告したらしい。嬉々として話す夢子に恐怖が募るが、表情に出ないように努める。
 不意に夢子がぐるりと首だけで振り返り、にっこりと笑った。
「楪さんは帰しません。というか、帰れないと思います」
 何でもないことのように言ってのける夢子に危機感を覚え震えそうになる腕を掴んで必死で平静を装う。こんなことで怯えていると思われるのが嫌だった。
「着きましたよ」
 車が大きな屋敷の前で停車した。

 車が停車したのは日本家屋の大きな屋敷の前だった。椎名家よりもずっと大きいが、普段龍ヶ崎家を目にしていると狭くすら感じる。
 車を降りると顔色の悪い運転手に引きずられながら門を潜る。その瞬間、空気が変わった、ざわりと肌を撫でる空気は澱み、呼吸がしにくい。外なのに空気が籠っているような気がする。
 門の中は異様だった。
 立派な平屋には人の気配がなく、背庭に生えている木は完全に枯れてしまっている。小さな池があるが、中には水草の類さえ見られない。この家には普通の生物はもういないのだろうと思われた。
 ただ、家の中に妙な気配がある。力の弱い楪でも感知できるほどの大きく邪悪な気配に足が竦み、その場で立ち止まった楪の背を夢子が乱暴に押し、運転手が腕を引っ張って家の中に入れようとする。
「ちょ、ちょっと待って」
「これは試験よ。十和さんに相応しい人間ならばあれくらいの妖魔は倒せてしかるべきでしょう。他の婚約者候補とか名乗っている女は妖魔を見ただけで泣いて逃げて、祓い屋としての秩序もない。最悪だったわ。あれでよく婚約者を名乗れたものよね」
「襲撃事件は貴方の仕業だったんですよね。昨日のは自作自演ですか?」
「そう。私に疑いが向くと困りますし。それに十和さんに触って治して欲しかったから……まあ、治したのは貴方らしいですけどね」
 夢心地の様子から一変して夢子は舌を打つと乱暴に玄関を開けて楪を押し込んだ。玄関の冷たい床にぶつかり、文句を言おうと振り返った時。みし、と木が軋む様な音がした。いつもなら気にしない些細な音に体が跳ねて、飛び起きると玄関の隅に体を隠した。辺りを観察してみるが、視界に映る範囲には何もいないように見える。
 部屋の中は外観よりも更に異様で、気が滅入りそうなほど空気が籠っている。人の出入りはあったはずなのに、何故か廃墟の様になっている。
 瑠璃川家の人達は一体どこへいったのだろうか。疑問はすぐに夢子が答えた。
「家の人は本家にいます。ここは今無人なので気にしないで。さて、正式な婚約者様なら妖魔の一つや二つ簡単に祓ったくださいますよね」
 待って、と楪が声を上げるよりも早く玄関の扉が閉まった。
 伸ばした手は空を掴み、慌てて玄関扉に飛びついた。
 みし、みし、と再び軋む音がする。それとどたどた大きな物の廊下を歩く音が聞える。それは段々と楪の方へと近づいてきている。
 異様な気配に息を殺し、そっと隅に隠れると、みしみしみしと音を立ててそれが現れた。
 天井に達するほどの大きさの妖魔だ。腕が異様に太く、先には人間の手程の爪が三つ生えている。顔は良く見えないが、牙が口からはみ出しているのが見えた。それは、昔山で襲って来た妖魔に似ていた。
 似ているだけで別もモノだ。なのに体が勝手に震えあがり息が上がる。悲鳴が漏れそうになった口を両手で抑えた。
 落ち着け。落ち着け。心の中で繰り返して呼吸を落ち着かせる。心音が聞こえてしまうのではないかと思うほど大きく高鳴っているが、数回深く呼吸を口返すと少しだけ落ち着いた。
 妖魔の種別は授業で習っている。あのタイプの妖魔は知能が低く、巧妙なことがしてこないはずだ。妖魔は玄関の開いた音に反応していたのか、きょろりと辺りを見渡す仕草をしたが、すぐにのそりのそりと大きな体で廊下を歩いていく。すぐ横にいる楪に気付く様子はない。このまま息を殺していればやり過ごせるはずだ。
 呼吸の音さえ殺しながら妖魔が去るのを待つ。
 もう少しで楪の視界から消える、と汗の滲む手を握りしめた。
 ぱちぱちぱちと破裂音が聞えて来た。外から聞こえてくるそれが手拍子だと気が付いた瞬間、楪は頭が真っ白になった。
 ――まずい。
「こっちよ、こっちへおいで」
 夢子の声がそれを呼ぶ。すると足音が止まり、妖魔が玄関の方を向いた。ぎょろぎょろした血走った目が楪を捉えたと同時に楪は走り出した。妖魔に背を向け、廊下を走ると背後から地を這う様な唸り声と廊下を踏む轟音が追って来る。
 背後は振り返らず、長い廊下を只管走り、角を曲がったところが目についた部屋に飛び込んだ。
 ぴしゃりと襖を閉めたと同時に目の前を大きな影が通過する。息を殺して妖魔が去るのを待ち、廊下を走る音が小さくなったのを確認して息を吐き出した。
 恐怖で体が震えている。息を吐いた拍子に涙が出そうになり、ぐっと唇を噛みしめて耐えた。
 これからどうするべきか、必死で頭を巡らせる。
 迎えに来ていた十和達が異変に気付き、藤沢や残してきた蝶にたどり着いてくれればいい。そうすればいつかはここにたどり着いて助けてくれるだろう。しかし、それまで妖魔に襲われないとは断言できない。それに外に控えている夢子が何か仕掛けて来る可能性も高い。
 どうすればいいんだろうか。
 不安を和らげようと無意識に十和に貰った髪飾りに手を伸ばしていた。小さな髪飾りは普通の物と見た目は変わらないのに、きゅっと握り込むと少しだけ落ち着いた。
 幾分か冷静になった頭で考える。
 夢子は車に結果を張っていたから、恐らく家の中にも結界を張っている。雰囲気が一変していたことを考えると、門の中、家の中の二段階で張ってあると考えていいだろう。車の中に式神の蝶が入って来られなかったから、十和達も結界内に入れない可能性がある。そうなると楪が結界の外へ出なければいけないが、家の中には妖魔、外では夢子と使用人が待ち構えている。この状況で外へ出られる自信が無い。
「十和……」
 縋りつくように小さく名前を呼ぶと薄紫色の輝きを思い出す。不安で堪らない。昨日の熱が恋しくて仕方なかった。
 不意に十和の言葉を思い出した。
 ――龍人の血が濃い人間。本家の一握りは特に水との繋がりが深いから水がある場所へなら飛んでいける。もしどうしようもなく危ない時は水のある場所で俺を呼べ。
「水……」
 どういう原理か分からないが、水がある場ならば十和が来てくれるかもしれない。結界を貫通できるかは賭けだが、やるしかない。すぐに行くと言った十和の言葉を信じるしかない。
 楪は決意を固めて立ち上がった。目指すは庭にあった池だ。
 そろりと慎重に襖を開け、廊下を確認するが妖魔の気配は遠い。音もしない。
 ほっと息を吐き、廊下へ出ると外に面した障子を開けようとしたが、結界の影響を受けているのかびくともしない。こっそりと外へ出るため他の出口はないか見て回ることにし、そろりそろりと床が軋まないように注意を払いながら廊下を歩く。幸い、裏口は直ぐに見つかった。
 奇妙なことに扉の中央にお札が張られている。結界を張るために護符か何かだろうか、と恐る恐る扉に触れた。その瞬間、札がパンと鋭い音を立てて爆ぜた。衝撃は少ないが、その音は静かな家屋には良く響いた。
「やばい!」
 さあっと血の気が引く。
 音に釣られた妖魔がどたどたと廊下をかける音が近づいて来る。
 すぐに音の反対方向へ駆け出す。
 裏口に貼ってあったのは、触れると音が出る呪符だ。そう言えば十和が瑠璃川は呪符の製造に長けていると話していたことを思い出して、迂闊に触れたことを悔んだ。ああいった罠が他にも仕掛けられているかもしれないが、それを考えている暇はない。
 音は直ぐ後ろまで迫ってきている。振り返ると猛然と走る妖魔の姿が見え、楪は悲鳴を上げた。
 このままでは玄関にたどり着く前に追いつかれてしまうと思った瞬間だった。転がる様に走る楪に向かって、妖魔が雄叫びを上げ飛躍するような大股で距離を一気に縮めた。そして、大きな爪を楪に振り下ろした。
 一瞬辺りが眩い光に包まれ、ばちん、と弾かれる音と共に妖魔が吹っ飛んだ。
「なにが……」
 何が起こったのか理解できなかったが、直ぐにはっとした。
「髪飾りの力……」
 そっと触れると髪飾りは熱を持っている。
 あの大きな妖魔を吹き飛ばすくらいの力を持っていると思っていなかったので、驚き過ぎて直ぐに動くことが出来なかったが、妖魔が呻き声を上げながら起き上がるのを見て、直ぐに駆け出した。
 髪飾りの力がどこまで保つか分からない。もしかしたらもう使えないかもしれない。不安が滲みそうになった時に雪の言葉を思い出した。
 ――私は龍ヶ崎家の当主の妻で、彼が居ない時はここを守らなければいけない立場にある。だから強くなきゃいけない時があるの。だから頑張って虚勢を張る。強くなきゃいけないから嘘でも胸を張って前を見る。それだけで人は少しだけ強く見えるから。
 ――きっとこれから大変なことや辛いことがたくさんあると思うけど、泣きそうな時ほど上を向きなさい。相手に弱いと思われなければ人は強くあれるものだから。
 辛い時こそ前を向き、泣きそうな時ほど上を向く。相手に弱い自分を決して見せないように。
 泣き言を言っている場合ではない。泣いていても事態は好転しないのなら前を向いて虚勢を張るしかない。雪の言葉を胸に楪は目に力を入れた。
 背後で立ち上がった妖魔が楪に向かってくる音が聞えて来たが、悲鳴は喉の奥で押し潰し、玄関まで走り抜けた。
 音を立てて玄関扉を開くと、目の前には驚き目を見開く夢子と使用人が立っていた。
 急いで外に出て扉を閉めると妖魔が扉にぶつかる衝撃が伝わって来る。どん、どんと体当たりする音がしたが、扉が開く様子はない。恐らく結界が作用しているのだろう。
 間一髪だった。
「まさか、出て来るなんて」
 息を整えていた楪の耳に呆然とする夢子の呟きが届いた。言ってやりたいことはたくさんあったのに、感情が喉の奥につっかえて言葉が出て来ない。殴ってやりたい気分なのに怒りも沸いてこない。
 荒い息のまま顔を上げると夢子は拍手をし始めた。
「すごい褒めてあげる……ああ、でも自力ではないのね。その髪飾り、気が付かなかったけど十和さんの霊力を感じるわ。ずるね。やっぱり守られないとなにも出来ないのね」
 感情の籠っていない声で言い、拍手を止めると懐から何か取りだした。
「本当に煩わしい」
 夢子の手が楪に伸びる。危険を察知して腕を振り払うと使用人に体を両腕を掴まれた。使用人の顔は青白いが、ここまで来たら引き下がれないという決意が見えた。
「離してよ、この……」
 掴まれている腕に衝撃が加わり、声が途中で止まる。
 腕を見ると血が滴っていた。夢子が血のついた小刀を持っていることに気が付き、あれで切り裂かれたのだとわかった。分かった途端、痛みが駆け抜けた。
 じくじくした痛みが腕全体に広がり、患部が熱を帯びる。
「痛い? 痛いよね。もう切られたくないのなら十和さんと別れて。貴方じゃ相応しくないから」
 そう言って夢子がもう一度小刀を振おうとした。
「嫌だ!」
 楪は叫ぶような声を上げ、腕を持っている使用人に体当たりすると、踏鞴を踏んだ使用人の手の力が弱まる。その隙に手を抜き、懐に手を差し入れると実技で使う予定だったよれよれの呪符を二人めがけて投げつけた。
 大した力のない呪符だが、髪飾りから十和の霊力を感じ取った夢子ならばこれも十和が作ったものかもしれないと警戒するはずだ。予想通り二人は驚いたように後退すると呪符を渾身の力で弾いた。呪符は呆気なく破れ、単なる紙になって地面に落ちる。
 それで十分だ。
 隙をついて楪を走った。池だけを見据えて全力で走る。
「解除」
 夢子の声がぽつりと落ちた。次の瞬間、弾けるような音と衝撃が楪を遅い、振り返ってみるとびくともしなかった玄関が弾け飛んでいた。そこから妖魔が飛び出した。
 結界を解いたのだ。
 使用人が恐怖で逃げ出すが、夢子は薄ら笑いを浮かべながら楪を見ていた。その口が動く。
「殺せ」
 主の命令を聞いたのか、それとも血に反応したのか分からないが、妖魔は大きな目で楪を捉えると、地を震わせるような雄叫びを上げて楪目掛けて走って来た。
 池まではまだ距離がある。早く早くと焦る楪を嘲笑う様に妖魔は跳躍し、背に追いつくとその大きな爪を振るった。
 ばちん。まだ効力を持っていた髪飾りに弾かれ、妖魔が転がる。しかし、今度はすぐに起き上がった。
 三度目の攻撃はもう防御できないかもしれない。
 水があれば十和は来ると言ったが、結界を貫通できるかは定かではない。今から作戦変更して外へ出ることも考えたが、距離からして妖魔に追いつかれるだろう。池にかけるしかない。賭けに負ければ楪は死ぬ。
 ぐっと血が出るくらい唇を噛みしめ、池を目指した。
 もう背後を振り返らなかった。
 つんのめりながら池に辿り付くと、池を覗き込む。
「とわ、十和、十和、お願い、十和」
 名前を呼ぶと自分がちっぽけでみすぼらしい人間の様な気がした。一人でどうにか出来る人ならば良かった。十和に助けを求めなくてもいいくらい強く、隣に立っても何も言われないような人間ならば良かった。
 そんな人間はきっとどこかにいて、十和の隣を切望しているかもしれない。
 でも、譲りたくなどない。十和の隣に立っていたい。
 夢子の言う通り、相応しい人間ではないけれど、強くなるから、頑張るから今だけは縋らせてほしい。
「助けて、十和」
 背後に立った妖魔の爪が楪に振り下ろされた時――池の中から眩い光と共に大きな何かが躍り出た。
 それは、大きな白銀の龍だった。
 幼少期に大きな妖魔から楪を助けてくれた、あの龍だった。美しいと焦がれた姿がそこにはあった。
 龍は池から飛び出すと妖魔に牙を剥き、怯えて逃げようとした妖魔の体を咥え頭を振ると妖魔はおもちゃのように簡単に飛ばされて屋敷にぶつかり地面に倒れる。その上から龍が爪を立てると、妖魔は短く叫び声を上げて消えた。
 一瞬の出来事に呆然としていると、龍の目が楪を見た。
 薄紫の美しい目に「あ」と声をあげる。
「十和?」
 大きな目が驚いたように見開かれる。
 いつもより大きな目は人であった時と変わらず宝石のように美しい。あの美しい色を忘れるはずがない。そう思い近づくと、龍は一瞬怯んだように逃げようとしたが楪が手を伸ばすと顔を近づけて来た。龍の体は大きく、顔だけでも楪の体より大きい。その大きさに夢子がひっと悲鳴を上げたが、楪は少しも恐怖を感じなかった。
 目の下に触れ、硬質な鱗を撫でると十和は嬉しそうに目を蕩けさせる。
「十和、来てくれてありがとう。頼りっぱなしでごめんね」
 額を付けると体温の低い十和の体に熱を吸い取られる。それが気持ち良かった。
 ぎゅっと抱き着くと、十和の体はするすると小さくなり、あっという間にいつもの人間の姿に戻った。
 ああ、そうか。昔助けてくれたのも十和だったのかと漸く気が付いた。
「……治癒は出来ないって言っていたのに」
「あの時はできなかった。あれから習得したんだ」
 戯れるように言葉を交わしながら十和は楪の体を強い力で抱きしめた。
「無事で良かった……心配した。心臓が止まるかと思った」
「心配かけてごめん。来てくれて良かった」
「すぐに行くと約束していただろう。……俺は怖くなかっただろうか」
 不安げな声を安心させたくて顔を上げると、龍の時にしたように目の下を撫でた。
「怖くなんかないよ、変わらず綺麗だった」
「そ、そうか。それなら良かった。安心だ」
 少しだけ顔を赤くした十和が口を震わせる。照れている十和を見ながら楪は自分が今あまり冷静ではないことに気が付いた。アドレナリンが多量に分泌しているせいだろうか。それとも生死をかけた戦いから解放されたからだろうか。兎に角高揚していた。普通ならば十和の頬を撫でるなんてこと出来るはずもない。冷静になった時に頭を抱えそうだ、と他人事のように思った。
「と、十和さん」
 二人の空間に女の悲痛な声が割り込んできた。視線を向けると夢子が焦がれる様な表情で十和を見ていた。
「あの、あの私」
「自分が何をしたのか理解しているか?」
「え?」
 十和の声は今まで聞いたことないくらい低く、威圧的だ。自分に向けられているわけでもないのに背が震える。
「十和さん、怒っているのですか? でも、だって、その女は不相応にも婚約者を名乗るから……」
「黙れ」
 ぴしゃんと切って捨てる様に十和が夢子の言葉を遮る。
「お前は、龍ヶ崎家の婚約者を危険に晒したんだぞ。それがどういうことかわかっているのかと聞いているんだ」
「あ、あ、あの」
「すぐに処分を下す。お前だけではなく、瑠璃川家全体に責任を取ってもらう。覚悟していろ」
 夢子は泣きながら顔を抑えた。処分という言葉よりも十和の冷たい視線が堪えているようだった。
「どうして、その女だったんですか? どうして私じゃなかったの……」
「答えてやる義理はない」
 十和が外に向けて払う様な仕草をすると空気が一変した。淀んでいた空気に清潔な風が入り込んでくる。結界が消えたのだ。
 すると外で待機していたらしい季龍や他の龍ヶ崎家の人間が次々と入って来ると、夢子を拘束した。泣き続ける夢子は抵抗する気力が無いのか成すがままになっている。
「楪さん、大丈夫ですか」
「はい、十和が来てくれたので、なんとも」
 ない、と言おうとしたが、肩を掴まれて言葉が止まった。
「怪我をしている……」
 驚愕の顔をして十和が切りつけられた腕を見ていた。今まで忘れていたが、まだ血は止まっていない。
 そう言えば怪我をしていたなと呑気に考えていた楪とは対照的に十和と季龍は大いに慌てた。
「治療を……今すぐ治癒が出来るものを呼べ。腕が良いものを探せ」
「その前に救急車を呼ぶべきですか? これは妖魔の傷ですか?」
「いや、そんなに深くないですし、救急車はいらないです。あと妖魔から受けた傷ではないです」
「何だと? あの女、今すぐ俺が直々に処分してやる」
「落ち着いて……顔と言動が凶悪すぎるよ」
 二人を宥めていると、藤沢に所へ残してきた水の蝶がどこからか飛んできて楪の腕に止まった。すると幹部が暖かくなり傷が少しだけ癒される。
「これって治癒の力もあるのか」
「ああ、戦闘メインではあるが、治癒も可能にしてある。今回は大した役には立たなかったがな。後は俺が治そう」
 混乱から回復したらしい十和に手を差し出すと、痛ましそうに血濡れの腕を撫でた。傷は数分で完全に塞がった。
「妖魔からの攻撃は髪留めが防いでくれたんだけど、夢子さんに切り付けられた時は何の反応もなかったんだよね、何でかな?」
「ああ、それは刃物に霊力が籠っていなかったからだろう。その髪留めは霊力に反応するようにしてあった。妖魔に関係する人間ならば霊力を使って攻撃して来るはずだと思い込んでいた。これも改善の余地ありだな」
 血が出たせいか急激に眠くなり、ぼんやりしていると十和に手を引かれていつもの高級車に乗り込む。十和の肩に寄りかかると目を開けていられなくなった。どうにか目を開けようと格闘していると十和に目元を撫でられ、あっさり眠気に負けた。
「とわ……隣にいて」
「うん。ずっと傍にいる」
「とわ、あのさ、私――……」
 伝えたいことがあるのに上手く口が回らなかったが、何とか口を動かした。それが声になっていたのか、それとも息が漏れただけだったのか楪には分からなかったが、十和は頭を撫でていた手を一瞬止めた。
「うん……今度は起きている時に教えてくれ。お休み」
 優しい声を聞きながら楪は意識を手放した。

 目が覚めると楪は自室の布団に寝かされていた。体が重く、頭痛に襲われて起き上がれずにいると、隣に座っていた十和が気づいて手を握った。
 どうやら思っていたよりも体調が悪かったらしく、車で眠ってから半日以上起きなかったらしい。目が覚めると十和は安心した様子で笑い、雪は心配で生きた心地がしなかったと半泣きでやってきた。夕凪も伊崎も季龍も他の使用人達も顔を出すと安堵した様子で笑った。
 漸く体を起すことが出来たのは、それから数時間後。夕食を食べ損ねたせいで空腹が限界だったので、雪と十和と朝食を囲いながら事件の話を聞くことになった。
 十和は事情を説明し、時折楪が口を挟む。詳しい事情を知らない雪は聞き役に徹した。
 学校に迎えに来た十和が異変に気が付いたのは、楪がいなくなったすぐ。蝶がぱたぱたと飛んで来たことからだった。近くにいた藤沢を捕まえ話を聞き、急いで瑠璃川家へ向かったが、瑠璃川への本家には夢子はいなかった。どうやら夢子は独断で妖魔を無人の分家の家で飼っていたらしく、本家の人間はやって来た十和から事情を聞き目を剥いていたらしい。それから夢子達の捜索を行ったが、難航した。妖魔がいる場所が特定できなかった。それは姿を眩ます呪具や高度の結界をかける呪符の効果が使われていたせいだった。
 どれだけ探しても分家がどこにあるのか特定できなかった。
 その後、十和の元に楪の声が届き、水を介して分家に侵入し、制圧することが出来た。
 楪の予想通り藤沢は夢子に脅されていたらしい。瑠璃川家や藤沢家は強い縁を結ぶために女性に結婚を強いることがあると桃が言っていたが、藤沢の両親はどうやら恋愛結婚だったらしく娘に結婚を強要することはなく、娘自身の事を尊重し、祓い屋としての実力を評価した上で祓い屋として生きる道を示していたらしい。そんな藤沢に夢子は権力を振りかざし、楪を連れて来ないと年配の男と結婚させると脅した。藤沢が瑠璃川家に歯向かえばどうなるかわからない。藤沢は泣きながら十和に謝罪を口にしたらしい。
「藤沢美月の処罰は龍ヶ崎家に一任されている。俺の婚約者に手を出したのだから無事に返してもらえるとは思っていないだろうな。楪はどうしたい?」
 静かな問いかけに楪は答えに悩んだ。
「楪が決めて良い。むかつくならそれ相応の罰を与えて良い。君にはその権利がある」
 噛み砕くように言われ、楪は率直に思ったことを口にした。
「何も。藤沢さんが悪いわけじゃないから、何もしないで」
「そうか」
 十和は口元にうっすら笑みを浮かべた。恐らく楪がこう答えることは分かっていたのだろう。その顔には少しも驚きが無い。
 しかし、もし罰を与えて欲しいと言っても十和は叶えてくれる気がした。
「藤沢さん、私のこと逃がそうとしてくれたんだ。最近ずっと顔色が悪かったのもきっと思い悩んでいたからなんだろうな。知らない人と結婚させられる怖さは分かるよ、すごく」
 楪も十和と出会ったいなかったらもしかしたら面識のない年上の男と結婚していたかもしれない。そう思うと藤沢を責める気持ちは沸いてこなかった。それに夢子は楪を脅す時に友人がいる学校に妖魔を放つと言っていた。もしかしたら藤沢も同じように脅されたのかもしれない。
「あの時、会えて良かった」
 そう言ったのは十和だった。
「それは私の台詞では」
「いや。あの時会えていなかったら楪は別の人間と結婚していたかもしれないんだろう? そんなことにならなくて良かった、本当に」
「そうかなあ? 顔合わせしても嫌がられて破談になっていた可能性高いからなあ」
 あはは、と笑うと十和が真顔で首を振った。
「それはないな。楪は魅力しかないから一目で気に入ったはずだ」
「みっ、魅力、しかない?」
 どこらへんが。
 自分の顔を思い浮かべるが、至って平凡な顔つきをしている。もしかしたら十和にはとんでもない美人に見えているのかもしれない。それか美しすぎる顔面を毎日見ているせいで美の価値観が可笑しくなっているのか。
「十和の審美眼が可笑しくて良かった……」
「おかしくない。楪は可愛い」
「か、かわ、かわいくはない。どこにでもいる顔をしているよ」
「いない。特に目が良い。すごく真っ直ぐで、綺麗な目をしている」
「ひっ、え、自己紹介? それは十和のことでしょ、真っ直ぐで、世界で一番綺麗な目をしているじゃん。宝石みたい。もしかして鏡越しで見ると色が変わるのかな? そうか、十和は自分の綺麗な目を直接見れないのか……」
「そんなに言うほど綺麗じゃない。楪は俺の事を綺麗綺麗言い過ぎだ」
「事実だから……」
 十和は自分の事を褒められると途端に照れた様子で目を逸らした。
 褒められるなんて日常茶飯事で慣れているはずなのに何故と首を傾げていると、あの、と控えめな声がした。声の方を向くと雪が顔を赤くしながら口を押えていた。
「いつもそんな会話しているの?」
「へ、変でしたか」
「変じゃない。可愛すぎてびっくりしちゃった」
「可愛い?」
 どこにそんな要素があったのか分からず疑問を浮かべ十和と顔を見合わせると、雪はほのぼのした様子で楪と十和を見た。
「二人とも褒め合っててすごくかわいい。お互いのこと大好きなんだね」
 全く意識していなかったが、確かに雪の前で十和の容姿を散々褒めていた。そして十和も楪の事を過剰に褒めていた。傍から見たらまるで迷惑なカップルの様ではないか。自覚したら恥ずかしくなり、十和からさっと目を逸らした。
 雪は気にした様子もなく笑っているが、親の前でする話ではなかった、しかも婚約者と言っても偽物で、楪は未だに十和に告白も出来ていない。そもそも襲撃事件が解決した後はこの関係はどうなるのだろうか。そのまま継続するにしても、想いは伝えなければいけない。
 十和は楪に対して愛情を示しているが、それがいつまで続くかわからない。
 告白をしなければ。十和の想いが変わってしまう前に。
 決意を固め、十和を見ると優し気に見つめられ、悲鳴を上げかけた。