そろりと宴会場の襖を開けると、既に全員着席していた。最前列に座っている両親と妃花の元へそろりと足音をたてないように歩き、こっそり座ったのだが、楪が帰って来たことに気が付いた両親は目を吊り上げた。
「どこへ行っていたの。先程貴方の夫が会いに来てくださったのよ?」
楪は、げっと顔を顰めた。
十和とのことですっかり忘れてしまっていたが、この場には楪が嫁ぐ予定だった男も来ているのだった。
どうやら十和に会っている間に男との接触があったらしい。部屋を出て正解だったと内心でほくそ笑んだ。
「この後挨拶をすることになったから次はどこにも行くな」
両親の言葉におざなりに返事をして、時間を確認すると約束の時間一分前になっていた。
「これ、どうしたの?」
姫花が十和から貰った装飾品を指さしながら聞いた。
咄嗟にどう答えるべきかわからなかった。誤魔化すことも出来ずに素直に「貰った」と答える。
「貰った? それにその蝶は?」
楪の肩に乗っている蝶を訝し気に見つめていた姫花にどう答えるべきか悩んでいた時、前方の扉が開いた。そこから十和が宴会場に入って来た。その瞬間、室内に満ちていたざわめきが止まり、静まり返った。皆が十和の顔を見て息を飲む。
呼吸を忘れる美しさだ。
十和の後を季龍が追い、中心にやってくると頭を下げた。
「この度はお忙しいところ足を運んでいただき、ありがとうございます。この方が龍ヶ崎家次期当主、龍ヶ崎十和様でいらっしゃいます」
季龍の説明に一瞬空気が緩みかけた。
「突然の招待に応じてくれてありがとう」
十和の声に再び空気が引き締まる。
神秘的な人形が口を開いた。客達はまるで不可思議なものを見ているような視線でじっと十和を見ていた。着物を身に纏う十和は綺麗さに磨きがかかり、異形の様な美しさがある。
十和に見惚れていた人間の中で復活が早かったのは夢子だった。
「十和様。本日は招待いただきありがとうございます」
客人を代表して頭を下げた夢子に十和が頷き返す。
「招待状でも書いていた通り、本日は正式な婚約者のお披露目をいたします」
早速本題に入り、先程とは違う緊張感が部屋を包む。そわそわと落ち着かない娘と笑みを浮かべる名家の人間達をしり目に楪の緊張感も最高潮になっていた。
この部屋の中に犯人がいる。部屋を見渡してみるが、誰が怪しいかなど判別できない。
十和に視線を向けると目があったような気がした。その目に緊張の色はなく、大丈夫だと安心させるような視線に先程言われたことを思い出す。十和は絶対に守ると言った。それならば安心して囮役に全力を注ごう。
楪はぎゅっと拳を握り、段取りを頭の中で思い浮かべ、その時を待った。
部屋中の緊張感が最高潮になった時、十和が口を開いた。
「楪、こっちへ」
部屋中がざわめいた。
楪は十和の言葉に従い、十和の隣に座ると、戸惑いが室内を包んだ。
「この度、龍ヶ崎十和は椎名楪と婚約した」
十和が高らかに宣言しても空気は引き締まる事無く、戸惑いと困惑で全員が顔を見合わせ、部屋中が騒がしくなった。
あの女は誰なのか。
椎名家とは無名の家では。
当たり前だ。これだけ名家の人間が集っているのに選ばれたのがどこの馬の骨とも分からない女なのだから困惑するのも当然のことだ。推名家は名の知れた名家などではない上に能力も高くない楪が選ばれたことに困惑は次第に怒りに変わる。
一番に声を上げたのは、楪の両親だった。
「何かの間違いではないですか? 龍ヶ崎様が選ばれたのはそちらではなく、ここに座っている姫花では? そのはずです。そちらの娘は選ばれる理由がありません」
「そうです、龍ヶ崎様。何か勘違いをしていらっしゃるのではないですか?」
酷い言い草だが、両親の言葉は正しい。
そして、それは招待客の総意だ。
両親が声を上げたことで、他の人間も意見し始めた。
「何故、その娘を? 失礼ながら魅力があるとは思えません」
「私の娘こそ器量が良く、龍ヶ崎家のために尽力出来るでしょう」
「十和様、どうか。考えないしてくださいませんか」
「十和様」
「十和様、お願いします」
悲痛な叫びを十和は一蹴した。
「俺が選んだ相手に何か不満があるのか?」
声を張ったわけでもない、凛としたその一言で、騒いでいた人達は口を閉じ、顔色を悪くしながら俯いた。
この場に集まっている殆どの人間は祓い屋をしている人間ならば頭が上がらない様な名家の出ばかりだ。その人達ですら龍ヶ崎家に反発することは出来ない。
わかっていたつもりでいたが、とんでもない者と婚約してしまったようだ。
「納得してくれたようで良かった。では、そろそろ食事を始めようか」
誰も納得していないまま宴会が始まった。
「何か、気になることはあるか?」
箸を止めた十和の質問に首を振って答える。
宴会は、無事進行していた。食事をとる者、十和に擦り寄ろうと話しかける者、十和と楪を観察する者、多種多様だったが感情のまま文句を言う人間はあれ以来現れない。両親は楪を鋭い目つきで睨んできたが、それ以上は何もない。
姫花と目が合うと、小さく笑って手を振って来たので振り返した。
「犯人ってこの中にいるんですよね? もう少し絞り込めませんか?」
宴会場には三十人以上いるので、誰を警戒すればいいか分からない。
「無理だな。犯人は女ということしかわかっていない。……ちなみにだが、あれは君の知り合いか?」
十和が指をさした先にいたのは、怒りで顔を歪めた藤沢だった。
「はい、クラスメイトの藤沢さんです。あの人は前からあんな感じですよ」
「藤沢、ということは瑠璃川家の分家か? 前からって、一体何をしたらあんなに嫌われるんだ」
「それが心当たりが無くて……」
楪は彼女の事を殆ど知らない。瑠璃川家というのは夢子の家だ。その分家に当たることも今初めて知った。
藤沢とは三年になって初めて同じクラスになった。初対面の時から彼女は楪だけではなく多方面に対して威嚇するような振る舞いをしていた。心を開いているのはいつも共にいる友人くらいだろう。
「極力関わらないようにしていたんですけどね」
何が原因で嫌われたのかわからないのであまり踏み込まないようにしていたのだが、もしかしたら逆効果だったかもしれないと藤沢の怒りで歪んだ顔を見つめながら思った。
宴会は一時間続いたが、犯人が現れることはなかった。
宴会がお開きになり、帰って行く招待客を見送りながら犯人が呼ばれていない可能性はないかと十和に耳打ちすると、彼は考え込む様な仕草をした後で首を振った。
「婚約者を名乗っていた人間は全て呼んだ。もしこの中に犯人がいないのなら現状はお手上げだ」
証拠がない犯人を捜すことは出来ない。打つ手なしだ。
「だが、楪が正式に婚約者になったと知れば必ず向こうから接触してくるはずだ」
「囮役続行ですね」
ふうと溜め息を吐き出す。覚悟を決めて囮役をやったのに何だか裏切られたような気分だ。来るなら一思いに来てほしい。
いつ来るかわからない状態というのはかなりストレスだと知り、やはり姫花に役が回って来なくて良かったと思った。
大勢の人間から視線を集めていたせいで変な緊張感がまだ残っている気がする。
「ちょっと外に出てきても良いですか?」
新鮮な空気を吸いたくて言うと即座に十和は答えた。
「俺も行く」
すくりと十和が立ち上がったのでぎょっとした。慌てて肩を掴んで座らせる。
「犯人がどこに潜んでいるかわからないんだから、一人では行かせないぞ」
「分かっています。だから式神を着けてくれているんですよね? この子がいれば大丈夫では……」
「あまりそれを信頼しすぎるな。強い力は込めているが万能ではないんだ」
「でも」
「俺を連れて歩くのは嫌なのか?」
露骨に拒否してしまったせいか、十和はむっと顔を歪めた。
怒っているというよりも拗ねているように見える顔は子供っぽく、断っている方が悪い気がしてきたが、了承することはできない。
「十和、は、その目立つから……騒ぎになりそうで」
十和は良くも悪くも目立つ。十和が歩いているだけで擦り寄ってくる人間は多いだろうから、外に出るだけでも一苦労しそうだ。だからどうしても断りたかった。
思い当たる節があるのか十和は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「確かにそうだが、俺と婚約した楪も十分目立つぞ」
「確かに……」
注目を集めるタイプではないので失念していたが、婚約を発表した今は嫌でも目立つ。どうしようかと頭を捻っていた時。
「私がお伴しましょう」
声のした方を見ると伊崎が微笑みを携えながら立ったいた。
「声をかけてくる相手がいれば私が上手く対処いたします。ずっと室内に居続けるのはストレスでしょう」
伊崎の後押しで十和は渋々ながら了承した。
「それでは行きましょう」
廊下には、帰らずに話し込んでいる人間がいた。その人達にばれないように伊崎に隠れながら廊下の縁を歩くと色々な人を見た。廊下には婚約できなかったことを嘆く者、怒りをぶつける者、中には泣いている令嬢の姿もあった。
その人の隣を通る時には緊張で吐きそうになり、あの部屋を出るべきではなかったと後悔もした。
何とかばれることなく外へ出ると新鮮な空気を吸い込むと体に入っていた力が抜けた。
「すみません、ついて来てもらって」
「私も外の空気を吸いたいと思っていたところだったので、お気になさらず。ずっと警戒していたら誰でも疲れてしまいますからね。息抜きは必要です」
警護をしなければいけない伊崎達は楪よりもずっと気を張っていただろうに、その表情は何処までも柔和だ。
「すみません、ありがとうございます」
「感謝しなければいけないのはこちらの方ですよ。襲撃事件の犯人が何をしてくるかわからないのに囮役など、怖いでしょう」
伊崎は申し訳なさそうに頭を下げた。
「頭を上げてください。確かに少し怖いですけど、でも嬉しくもあるんです」
「嬉しい?」
「私、これまで誰かの役に立った事とか全然ないんです。だから十和に必要だって言われて嬉しかったんです。期待してもらっているのなら、治癒要因でも囮役でもやりますよ。それに十和が龍ヶ崎家の警備は完璧だと言っていたので、そんなに不安はないです」
「そうですか。楪さんはお優しいのですね」
「自分勝手なだけですよ。絶対私よりも適任の人がいるのに、それを言わずにこうしているんですから」
ここにいるのは楪の我儘だ。
そう言ったが、伊崎は首を振った。
「それでも、やはり私は貴方を優しいと思いますよ」
伊崎は孫を見るような目で楪を見ていた。その表情に祖母の事を思い出し、楪は照れたように頬を染めながら感謝を口にした。
「そろそろ戻らないと十和様が心配しますから、帰りましょうか」
十分休息になったので了承して家の中に戻ろうとした時、手に持ち歩いていたスマホが震えた。
実は先程からずっと震えていたのだが、画面を見るのが怖かったので無視していたのだが、戻る前に一度目を通しておこうと画面に目をやると画面には夥しい数の着信が入っていた。その殆どが両親のものでげんなりした。メッセージも多く、薄眼で見た限りかなりご立腹のようだったので無視をした。
その中で、姫花からのメッセージが一件だけ入っていた。
『監視されているから電話はできないかも。落ち着いたら学校で話聞かせてね! 絶対だよ!』
ほんの数分前の送られているメッセージはいつも通り明るいもので安心すると同時に監視されているという言葉が引っ掛かった。
恐らく監視しているのは両親だろう。
電話をすれば両親のどちらかが出るようなのでできない。メッセージも見られているかもしれないが、当たり障りのないことを打ち、じゃあ学校でと締めくくる。
「ごめんなさい、伊崎さん。戻りましょう」
またあの廊下を歩くのは嫌だったが、あそこを通らないと戻れない。
気合を入れて家の方へ足を向けた。
「――あら、もしかして楪さん?」
伊崎の背後、今しがた家から出て来たのは夢子だった。可愛らしく小首を傾げ、薄い唇を上げて笑う。
「夢子さん? どうしてここに」
「ふふ、それは私の台詞では? 私は今から帰る所なんですよ」
入口の方が騒がしくなった。誰かが出て来るかもしれない。
「少しお話ししませんか? こちらへ」
夢子に連れられて入り口から離れ、家から出て来る客に楪達の姿が見えない位置まで移動した。
「ごめんなさい、連れ出してしまって。どうしても楪さんとお話ししてみたかったの」
「どうして私と?」
「十和さんとお話ししているのを見て、二人は本当に思いやっているんだなと思ったから。ほら、十和さんってちょっと他人と線を引くところがあるでしょ?」
そうだろうか。十和との付き合いが数日の楪では知らないことが多い。それを夢子は知っているのだろう。夢子の言葉には十和への親しみが込められている。
「十和さんの事、好き?」
「えっ」
急に聞かれ、思わず声を上げた。
夢子の不思議そうな顔に慌てる。
婚約者なのだからここは好きだと即答すべきところだった。不審がられる前に答えるべきだと思うのに、かあっと顔が熱くなるだけで口が空まわる。好き、などと言ったことは人生で一度もないのだ。本人に伝えるわけでもないのに緊張で手汗が滲む。
真っ赤になりながら「あの、あの」と繰り返す様は滑稽だっただろう。そんな楪を見かねたのか、夢子は優しく笑いながら首を振った。
「そのお顔を見ればわかることでしたね。野暮なことを聞きました」
どんな顔をしているのか、羞恥心から顔を隠したかったが失礼に当たる気がして曖昧に笑うことしか出来なかった。
「龍ヶ崎家を支えるもの同士、これからはよろしくお願いします」
夢子がそっと手を差し伸べて来たので握ろうとすると、ふわりと楪の肩口から水色の蝶が飛び出した。夢子は突然現れた蝶に目を丸くてしてその不規則な動きを目で追う。
「これは、十和さんの式神ですか?」
「そうです、ちょっとの間借りることになってて」
「へぇ、良いですね。こんな綺麗な蝶と共にいられるなんて羨ましいです」
蝶を愛でるように追う夢子は、自称婚約者襲撃事件のことを知っているのか疑問に思った。十和は龍ヶ崎の人間は知っていると言っていたから近しい関係らしい夢子にも話しているのではないだろうか。
「龍ヶ崎の婚約者というか、特殊な血すじの当主の婚約者は危険が付き物ですものね」
話そうとしていた言葉は、夢子の一言で飲み込んだ。
「どういうことですか?」
「十和さんから聞いていませんか? 龍人の血が入った龍ヶ崎家や鬼の血が入った百鬼家など、特殊な家はそれだけ力を持ち、それだけ敵も多い。力の弱い婚約者は敵の狙い目になります。十和さんと結婚するということは危険と隣合わせになるということなんです」
夢子は真剣な顔をした後にすぐに笑顔に戻った。
「でも、問題ないですね。その式神がいるかぎり。守って貰えて良いですね」
「あ、はい。そうですね。私は強くはないので……」
何だか、夢子の言葉に棘がある様な気がした。気のせいかもしれないが、すっと胸が冷えるような嫌な感じだ。
「敵の狙い目にならないように気をつけてくださいね。ほら、十和さんのお邪魔になったら困りますもの」
言いたいことを言って夢子は優美に会釈をすると、去って行った。
その背を目で追いながら楪は「うーん」と口の中で唸った。
龍ヶ崎家の入ることへの忠告は有り難いことのはずなのに何故か気分が沈んだ。夢子はきっと悪い人ではないと思うのに一方で首を傾げる自分がいる。
どうしよう、苦手かもしれない。
「どうかしましたか?」
背後で待機していた伊崎に声をかけられ首を振る。
所詮かりそめの婚約者に過ぎないのだから深く考える必要はないと頭を切り替えた。
そう言えば襲撃事件のこと話していなかったと思い至ったのは十和の元に戻った後だった。
「瑠璃川夢子と話を? どういった話をしたんだ」
夢子の話になった時に驚いたのは、十和が夢子の事を他人行儀に呼んだことだった。
「どういったって、龍ヶ崎家の人間と婚約することの心得的な物でしたね。あの、夢子さんとは、どういったご関係なんですか?」
「どういう……。そうだな。瑠璃川家は祓い屋の名門で、呪符などの呪具と呼ばれるものの製造を得意とているから龍ヶ崎家も懇意にしている。瑠璃川夢子は瑠璃川家の中でもかなりの実力者で、昔から顔を合わせていたな」
「それだけ?」
「ああ。仲は別に悪くないぞ。特別良くもないが」
十和は嘘を言っているようには見えない。しかし、夢子の言葉に含まれていた親しみは十和の言葉からは感じられない。言葉の通り特別仲が良いわけではないように思えた。
「じゃあ、襲撃事件のことは」
「勿論知らない。あの話は龍ヶ崎家の者にしか言っていない。他人に話すことではないからな」
そうか、と納得すると同時に、話さなくて良かったと心底ほっとした。あの時話していたらきっと十和から信用されなくなっていただろう。口が軽い女だとは思われたくなかった。
夢子との仲を考えると今後積極的に関わることはなさそうだ、と安堵して一瞬気が緩んだ。しかし、直ぐに力を抜いている場合ではないことを思い出す。
今現在、楪達は場所を移動し、十和が普段生活している本家へとやって来た。先程いたのは催しで使う家だったらしく、十和曰くかなり狭いらしい。あの大きさでも椎名家よりは大きかったので、もしかしたら十和は椎名家を見たら犬小屋と勘違いするかもしれない。
龍ヶ崎の本家は、敷地のど真ん中にあり、十和が言った通り大きかった。
平屋の日本家屋は美しく、見る物を圧倒する。楪は家の見た目の圧に言葉を失っていた。
この中に入り、両親に挨拶をすると言われた時には卒倒しそうになった。
夢子の話題が出たのは、楪があまりにも緊張しているので気分転換にと十和が振ってくれた雑談からだった。その話が終わると緊張がぶり返してきたが、そろそろ覚悟を決めて入らなくてはいけない。
「よし、行こう」
「本当に大丈夫か? 今日は止めて置いても良いんだぞ」
「止めたらどこで寝る気ですか」
「ホテルでも取ればいい」
「大丈夫です。今いかないと一生行けない気がするから一思いに行ってしまいたい」
楪が顔を強張らせながら何とか頷くと十和は頷き返し、躊躇いなく扉を開けた。
開いた扉の先は、圧巻だった。
左右にずらりと並んだ人、人、人。
綺麗に並んだ人々が十和の帰りを待っていた。
「ただいま……」
「おかえりなさい、十和様」
先頭に立っていた女性がはっきりとした声で挨拶をすると後ろに控えていた人達が輪唱して頭を下げる。統率のとれた軍隊を見ているようで、楪は呆気にとられた。
「はあ、気合が入っているのは分かるが、そんなに前のめりになるな」
「そうはいいますけどね、十和様。私は本当に嬉しいのですよ。まさか十和様が婚約者を連れて帰って来る日が来るとは思っておりませんでしたから」
十和の一歩後ろに立つ楪と目が合うと、その女性はわっと声を上げた。
「貴方が楪様ですね! ようこそいらっしゃいました」
「は、はい。椎名楪と申します。よろしくお願いします」
爛々と輝く目で見つめられながらなんとか挨拶を返すと、十和が間に入った。
「ここでする話じゃないだろう。とりあえず中に入らせてくれ。それから楪を部屋に案内してやってくれ。あと着替えだが」
「勿論承知しております。この夕凪にお任せください」
胸を張って言い切った夕凪という女性に連れられ、楪は広い和室に連れて来られた。龍ヶ崎家は広く精錬された雰囲気で、華美な装飾はあまりなく落ち着いていた。
夕凪に案内された部屋は楪の部屋よりも広い和室だった。家具はテーブルと小さな棚だけだ。部屋が広いせいか寂し気な印象だ。
「ここが楪様のお部屋になります。家具はご本人の意向に沿った方が良いと思い、最低限な物だけを入れております。欲しい家具がありましたら直ぐに教えてください」
テーブルの上にカタログがあるのに気が付いた。表紙からして安い物はなさそうだ。
「大丈夫です。ありがとうございます」
頭を下げると夕凪は慌てた様子で言った。
「頭を上げてください。私はこの龍ヶ崎家の使える者。当然のことをしているだけです。それに貴方は次期当主の婚約者。そんなに簡単に他者に頭を下げては駄目ですよ」
「は、はい。すみませ……んん」
再び謝りそうになり、慌てて口を閉じると夕凪は微笑ましそうな目で見て来た。
「お可愛らしい。髪飾りを頂いて喜んでいらっしゃる時から可愛らしいと思っておりましたが、本当に可愛らしい。まさか、あの十和様がこんな可愛らしい子を迎えなさるとは思っておりませんでいた」
髪飾り、と言われて記憶が刺激されて思い出した。控室で十和が髪飾りを持ってくる時に話していた女性と夕凪の姿と重なる。
あの場面を見られていたと思うと恥ずかしくてたまらなくなる。
赤くなった顔を見た夕凪が可愛らしい可愛らしいと言うので、更に顔を赤くした。
「ああ、こんなことをしている場合ではないですね。早く着替えないと」
そう言って夕凪は部屋の奥の襖を開けた。そこに広がっていたのは、たくさんの服だった。着物の類もあるが、ワンピースなどの洋装もある。
「これは?」
「楪様の服ですよ。この中から選んでください。あ、好みの物が無かったら直ぐにおっしゃってくださいね。用意いたします」
夕凪は冗談を言っているようには見えない。楪が一言好みじゃないと言えば新しい服を新調しそうだ。
金銭感覚の違いに戦きながらなんとか服を選ぶ。いつも家で着ているのはTシャツに短パンだが、そんな格好でこの家をうろつくわけにはいかないので、手触りの良い白いワンピースにした。
夕凪に手伝ってもらいながら着替えをし、惜しかったがワンピースには合わないので髪の装飾も取る。
これは十和に返さなくてはいけない。
「楪、終わったか?」
部屋の外から十和の声が聞えたので、扉を開けると着替えた十和が立っていた。しかし、部屋着というにはかっちりしている和服姿に服装の選択を間違えたかと思ったが、どうやら十和はこれから出かけるらしかった。
夕凪と入れ替わりで十和が部屋に入る。
「任務が入ったからこれから出ることになった。一人にして悪い」
「大丈夫です。夕凪さんとても優しかったので」
「それにさっきの事も。皆には普通にしていろと言ったんだが、変に張り切ってしまったらしい。驚いただろう」
あの熱烈な歓迎の事を言っているのだと気づき、苦笑が漏れた。
「歓迎されているみたいで嬉しいんですけど、申し訳なさが勝ちました」
「申し訳ない?」
「婚約って言っても契約ですから、あんなに喜んでいるのに騙しているみたいで申し訳ないです」
「ああ、そんなことか。それなら問題ないから気にするな」
どうしてか聞こうとしたが、頭を撫でられ黙らされた。
「そろそろ出ないといけない」
「うん、気を付けて、いってらっしゃい」
手を振ると、十和は少し驚いた顔をした後に目元を優しく和らげた。見たことがない優しい笑みに楪は片手を上げたまま動けなくなる。
「行ってくる」
どうしてそんな風に笑うのだろうか。分からないまま楪は十和を見送った。
「あ、返しそびれた」
手に髪飾りを持ったままだった。帰って来た時に返さなくては。
髪飾りを棚の上に置き、一息つく。
さて、これからどうするべきか。
十和がいないのに家の中を出歩くわけにはいかないが、一人で取り残されても暇を持て余してしまう。部屋の中で暇を潰せるものと言ったら家具のカタログぐらいだろうか。しかし頼むわけでもないのに見るのもな、と思い直し、スマホを取りだすと桃からメッセージが届いていた。
『龍ヶ崎十和と婚約したって本当? 面白いことになってるね』
「げっ。もう伝わっているの……」
恐らく学校に行く頃には周知の事実になっているだろう。好奇の目に晒されるのは確実だ。
憂鬱な気分になりながら桃に返信していると部屋の前に誰かが立っていることに気がついた。
夕凪だろうか、と思ったが、それなら直ぐに扉をノックするはずだ。
まさか襲撃者だろうか、と警戒しながら立ち上がると、恐る恐る扉を開けた。
部屋の前に立っていたのは綺麗な女性だった。丁寧に作られた人形のような顔をしている。後ろで上品に髪を結い上げ、一目で質が良いと分かる着物を身に着けている。襲撃者には見えない。その雰囲気で直ぐに龍ヶ崎家の十和の血縁だと気が付いた。
目を丸くする女性に、もしかしたら楪の事を聞かされていないのかもと疑念が浮かぶ。女性からしたら知らない女が家に上がり込んでいる状態だ。
楪は慌てて手を上げて弁明した。
「すみません、あの私、怪しいものではなくて、十和、さんの、その」
「こ、こちらこそ、ごめんなさい! ノックしようと思っていたのに全然勇気が出なくて」
突然の親族乱入で気が動転している楪と同じくらい目の前の女性も動揺していた。
しかし直ぐに立ち直り、楪の顔を正面から見据えると「十和の婚約者の楪さん?」と聞いた。
「はい、椎名楪と申します」
女性の目に既視感を覚える。薄紫の神秘的な目をここ数日よく見ていた。
「もしかして、十和さんのお母様ですか?」
美しい薄紫色の目が驚きで大きくなる。
「ど、どうしてわかったの? 私、十和にあまり似ていないって言われるのに」
「綺麗で温かい目がそっくりで」
もしかして龍ヶ崎家の人間は皆綺麗な瞳をしているのかもしれないと思ったが、十和は母親の反応を見る限り違うらしかった。十和の母親は口元に手を当てて「まあ」と嬉しそうに目を細めた。
その優しい笑顔は行って来ますと言って部屋を出て行った十和とよく似ている。
「そんな風に言われたの、初めて。あの子は冷たい印象を受けがちだから。きっと貴方の前では優しくいようとしているかもしれないわ」
そう言われた時、車で脅されたことを思い出したが、それ以降の十和は確かに優しかった。結い上げた髪を彩る髪飾りを貰った時は、とくに優しかった。不意に目の下にキスをされたことを思い出して顔が赤くなりそうになり、慌てて話題を変える。
「あのどうしてここへ?」
「それは十和に夕食は一緒に食べられるか聞きたかったんだけど、部屋にいなくて。もしかしてこっちかもしれないと思って来たんだけど……」
「十和さんはさっき任務に行かれましたよ」
「あら、そうなのね。それなら、もしかしたら一緒に食べるのは無理かもしれないわね。任務の内容によっては夜の内に帰れない時もあるから」
「そうなんですね。早めに帰るとは言っていたんですけど」
声が自然と沈んでしまったせいか、慰めるように肩に手を置かれた。
「十和が帰って来るまで良かったらお話ししません? お暇でしたら、話し相手になってくださると嬉しいのだけど」
少しだけ視線を下げて窺う様に見られて断れるはずがなかった。それに一人残された楪は暇を持て余していた。
部屋から移動してやって来たのは洋風の部屋だった。本と花に囲まれた部屋は図書館の様な匂いがした。そこへ龍ヶ崎家の使用人が紅茶を運んで来たので、部屋の中は一気に紅茶の良い匂いに包まれる。
部屋の中央にある机に向き合って座ると、十和の母親――龍ヶ崎雪は運ばれて来たクッキーを一口齧った。
「あの、楪ちゃんは、クッキー好き?」
「はい。好きです。甘いものは何でも好きです」
「そうなのね。私も甘いものは好きで……ってそんなことどうでもいいわね。そんなことが聞きたいんじゃなくて、その……楪ちゃんは、十和のどこが好きなの?」
何という質問を。
楪は思わずクッキーを潰しそうになった。ぱきりと折れたクッキーを何でもない様な顔をして口に運びながら、そうですねと思案しているように口の中で呟く。動転しているせいで噛むことも出来ずにそのまま嚥下し、必死に頭を巡らせる。
十和の好きな所と言われても契約の上に成り立っている婚約なので、咄嗟に答えられない。
あまり黙ると不審がられてしまうと必死に頭を捻る。十和は優しく、頼りになる。しかし、それは何だか安直過ぎて答えるのは気が引けた。顔は世界で一番綺麗だと思っているが、それを言うわけにはいかない。
「……答え辛いよね。ごめんね」
中々答えない楪に雪は困ったように眉を下げた。
「違うんです。一つに絞るのが難しいというか……」
「そうなの?」
途端、雪は目を輝かせて前のめりになった。
「こういうのってあまり聞かない方がいいかしらね。ふふ、ごめんね」
「いえ、いいんです」
十和は気にするなと言ってくれたが、龍ヶ崎家の人を、今は雪を騙しているようで心苦しかった。襲撃犯を捕まえるためには仕方ないとはいえ、十和の母親には真実を打ち明けた方が良いのでは、と思う一方で、真実を告げて雪が悲しむ様子は見たくなかった。
「十和はね楪ちゃんの強くて優しい所が好きって言っていたのよ。あ、これ、私が言ったって言っちゃ駄目だからね」
「え?」
「こんなこと言っちゃ駄目だったかしら。私、浮かれているわ。十和はもしかしたら一生結婚なんてしないと思っていたから」
「それ、他の人も同じようなことを言っていたんですけど、どうしてですか? 十和は凄くモテて、選り取り見取りなのに」
雪は辺りをきょろりと見渡し、周りに誰も居ないことを確認すると楪の方へ顔を寄せた。
「これは本当は言っちゃ駄目なんだけどね、十和は昔から恋愛結婚がしたいって言っていたの。こういう名家って政略だとか色々な下心が結婚に関わって来ることが多いんだけど、十和はそんなの絶対に嫌だってずっと突っぱねていてね、その癖に恋愛をしている様子もなくて、このまま一生独り身なんだろうなって考えていたところだったのよ」
「恋愛結婚?」
十和と楪の間に恋愛はないはずだ。雪の話が本当ならば、この婚約は十和が嫌がっているものではないのか。
恋愛結婚の夢を諦めるくらい治療してくれる人間が近くにいて欲しかったのだろうか。
十和の考えていることが分からなかった。
「十和は、好きな人とかいなかったんですかね」
「好きな人、というか気になっている人はずっといたみたい。もしかしたらそれが楪ちゃんじゃないかと思っていたんだけど、違う?」
楪は答えることが出来なかった。
十和と楪が出会ったのは、数日前だ。ずっと気になる人がいたのならそれは別人だ。恋愛結婚がしたくて、気になる人がずっといるのに、治療のために楪との結婚を選んだと思うと胸がぎゅっと痛んだ。
十和の体が誰の治癒でも受けられる体だったのなら、もしかしたらその人と婚約しているかもしれない。
ふと、今からでも遅くないのでは、と気が付く。
襲撃事件を解決し、事情を説明すれば龍ヶ崎家の人間は分かってくれるはずだ。その後で婚約破棄をすれば十和は好きな人と結ばれ、楪は家に帰ることはできないので治療役として雇ってもらえばいい。名案だとばかりに頷く。
優しい人だから、幸せになってほしい。
少しだけ胸が痛んだ気がしたが、気のせいだと思った。
十和が帰って来たのはそれから五時間後のこと。夕食には間に会わなかった。
龍ヶ崎当主、十和の父親も急遽長期の任務が入ったようで、結局夕食は雪と二人でとった。夕食を食べ終え、雪に促されるまま風呂に入り、部屋でぼんやりしている所にノックの音が響いた。
「どうぞ」と返すと、すぐに扉が開いた。
十和は部屋に入って来るなり、楪の事を見て一瞬言葉を止めた。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
「風呂に入ったのか?」
「うん、ご飯食べた後に雪さんに言われて、先に入りました」
家主よりも前に入ることに気が引けたが、雪も十和も気にした様子はない。
「怪我はない?」
帰って来た十和は任務を熟したとは思えないほど出た時と同じく綺麗だった。傷どころか乱れ一つない。
任務と言っても激しい動きはしないのだろうか。
「ない、が少し疲れた。癒しをくれないか?」
治癒には身体の傷を治すだけではなく、疲れを癒す効果もある。楪は頷き、十和の手を握る。
ごつごつした男の手だ。しかし表面は滑らかで傷一つついていない。ふっと息を吐くと握っている手が微かに光り、温かくなる。
じんわりとした光は傷を治し、疲労を回復する。
「ありがとう。こんなに体が軽いのは久しぶりだ」
「大したことはしていないですよ。これは初歩的なもので……あっ!」
今まで忘れていたが、先日公園で会った時に腕を治して貰っていたことを思い出した。
「あの時は腕を治していただきありがとうございました。治癒が出来る人があまり周りにいないので、あんな簡単に直して貰ったの初めてで、嬉しかったです。お礼が遅くなってしまってごめんなさい」
「普段は、どうしているんだ?」
「皆と同じですよ。普通に保健室で治療します」
「そうか、自分の傷は治せないんだったな」
十和の手が楪の腕をそろりと撫でる。そこには茶色く残っている傷跡がある。周りの人間を治すことが出来る楪は、クラスメイトが怪我をするとその傷を治した。しかし自分の傷は治せなかった。どう頑張っても治らず、弱い楪は体の傷を増やしていった。
十和みたいに綺麗な手じゃないことが恥ずかしかった。
そっと手を引こうとすると、逆に十和に腕を引かれ、傷跡に口づけられた。
愛おしむように、慈しむように。優しく口づけられ、一瞬呆けたが、すぐにかっと顔が熱くなる。
「治らないな」
口を離した十和がぼそりと呟いた。
当たり前だ。十和が口付けたのは数年前にできた傷で、痕は残っているが傷自体は治っている。
「な、な、なんで」
「ん?」
「何で、すぐキスするの」
楪は赤くなった顔を両腕で隠しながら言った。
十和は直ぐにキスをしてくる。公園や車の中、人の目が合っても変わらない。他国はキスが挨拶だと言われているが、ここは日本だ。キスで挨拶はしない。楪は好きな人としかキスはしないものだと認識して生きて来た。
十和は昔から気になる人がいるらしい。それは楪ではない。それなのに何故楪にキスをするのかわからなかった。
「他に好きな人がいるくせに」
混乱して、雪に口止めされていた言葉を喋ってしまった。
その瞬間、至近距離にある十和の顔がぐっと歪んだ。
「はあ? 何を言っているんだ」
「……風の噂で聞きまして、ずっと前から気になっている人がいるとか。恋愛結婚しかしたくないとか。だから、私、事件が解決したらすぐに婚約破棄を――」
「ちょっと待て」
ぴしゃりと冷静な声が暴走気味な楪の言葉を止める。
「お前……君は、俺が好きでもない人間に口付けるような男だと思っているのか?」
「い、いや、そういうわけじゃないけど」
「俺は好きな人としかキスしない」
薄紫の美しい瞳は少しも揺れることなく言い切った言葉に、楪は混乱した。ずっと混乱している気がするが、頭の中がぐちゃぐちゃで自分が何を言うべきなのかも分からない。言葉が上手く出て来ない。はく、と口が息だけを吐き出す。
何を言われたのか分かった時、これ以上ないぐらい顔が熱くなり、叫び出しそうになった。
「私の事、好きってこと? 何で? 私達、この間初めてあったばっかりなのに」
十和が顔を隠している腕を剥ごうとしてくるので、必死に止めながら言うと、十和の手がぴくりと震え、力が弱くなった。
腕の隙間から窺うと、十和は複雑な顔をして楪を見ていた。
「……覚えていないのなら別にいい。ただ忘れないでくれ」
目が切なく細められる。
「俺はあの時から楪が一番大切だ」
あの時って、いつ。そう聞きたいのに十和があまりにも切ない声を出すから聞くことが出来なかった。
「今日は、この辺にしておこう。忙しかったし、疲れだだろう。ゆっくり休め」
十和は部屋を出る間際、楪の頭を撫でた。
「お休み」
「お、おやすみなさい」
震えそうになる口で何とか挨拶をすると、十和はふっと笑みを浮かべて部屋を出て行った。
残された楪は赤くなった顔を抑えながら唸り声を上げた。
「明日から、どんな顔をすれば……」
告白などされたことがない。いや、そもそも今のは告白だったのだろうか。好きと言われたわけではない。暗に言われた気がしなくてもないが、直接的な表現じゃなかったのでされていないことにしよう。
「……とりあえず、寝よう」
深く考えることは明日の自分にまかせて。楪は布団に転がった。
髪飾りを返すのをまた忘れたことに気付いたのは、翌日の事だった。
雲一つない晴天だと言うのに楪の内心は憂鬱の曇天だった。
龍ヶ崎家での宴会という名のお披露目が終わり、土日を龍ヶ崎家でのんびりと過ごした。当主は土日不在で、十和も午後から任務だったので殆ど雪や夕凪などの使用人と共に過ごした。龍ヶ崎家の人は優しく、楽しい休日を過ごしたのだが、楽しみはそう長くは続かない。
休日が終わり、本日から学校が始まる。
「はあああ」
「でかいため息だな」
「だって……」
十和と婚約したことは恐らく学校中に広まっている。横目で見られながらひそひそと話しをされるところを想像すると嫌な気持ちになった。
「人の視線何て気にしなければいい」
自身に溢れた顔で言ってのける十和は実際人の視線など気にしないのだろう。
現在、楪は季龍が運転する車で学校へ送ってもらっている。隣に座っている十和はこれから任務らしい。
襲撃事件のことがあるので送ってもらっているのだが、こんな高級車で楪が登校すれば噂話は加速しそうだ。
「妹と話すんだろ?」
「うん……」
「何かあったらすぐに電話していいから。任務中でも楪からの電話には出る」
「いや、任務はちゃんとして」
じっと見つめて来る十和に思わずうっと声が詰まった。
土曜日に告白まがいの事をされてから十和は感情を隠す素振りが無い。言動もそうだが、目が雄弁に語りかけて来る。薄紫の綺麗な目が優しく細まると、どうしていいのか分からなくなる。
何故そんなに想われているのか楪にはわからない。人違いでは、と思ったが、それも十和に否定された。
「お守りはきちんと着けているな」
「うん、着けてます」
そっと髪に触れると小さなピンが付いている。守りの術を施したピンで、何かあった時に発動する様になっているらしい。可愛らしい見た目のピンの周りを水色の蝶が飛ぶ。式神の蝶は龍ヶ崎家ではまるで空気の様に消えてしまうのだが、家を出るとどこからともなく現れた。何かあった時のためにと蝶も連れて行くことになっている。
「貰ってばっかりで、ごめんなさい」
あの髪飾りは日曜の朝に返しに行ったのだが、あれは贈ったものだから返さなくていいと言われてしまったので、楪の部屋の棚の上に飾ってある。
十和から贈られるものに対して、楪は何も返せていない。
「俺が好きで渡しているんだ。気にするな。と言っても気にするんだろうな」
十和は苦笑を溢した。
「何か返したいと思うのなら敬語を止めて話して欲しい」
「そんなことで返したことになる?」
「なる。何かを贈ってくれるのも嬉しいが、対等に話してくれる方が嬉しい」
十和は本当に嬉しそう顔を綻ばせた。
雪が十和の事を冷たく見られると言っていたが、この顔を見たら誰もそんなことを思わないだろう。
「そろそろ学校だな。何かあったらすぐに連絡してくれ」
「うん。わかった」
逢魔学園に通う生徒の中には名家の人間も多いので、車で通学する人は珍しくもない。なので黒塗りの高級車が校門の前に止まっても誰も注目しなかった。
「じゃあ、行って来ます。十和も気を付けて」
「ああ、いってらっしゃい」
十和の手が頬に伸びて来た。何をされるか察した楪は素早く扉を開けると外へ出た。
不満そうな十和を無視して手を振ると、仕方がないといった風に息を吐いて手を振り返した。
楪の方が我儘を言っている風の対応に疑問が浮かぶが、気にせずくるりと振り返る。
その場にいる全員の視線が楪に向いていた。
「え、あの人って、噂の人じゃない?」
「そうだよね。え、ていうことは、車に乗っているのが龍ヶ崎様?」
「見たい。見えないかな」
「あの人でしょ、妹の婚約者奪った人」
「性格悪すぎ」
多方面から聞こえてくる声に楪は驚き、思わず車に逆戻りしかけた。姫花と話さなくてはいけないと思い、踏ん張って学校へと踏み出す。
心配そうに車の中から窺う視線に気づいたので、一度振り返って手を振ると少しして車は走り去った。すると車内を盗み見ようとしていた一部の生徒から不満げな声が上がる。
見世物じゃないぞ、と内心思いながら足を止めずに学校へと入った。
廊下を歩けばすれ違った人全員に見られ、あることないこと囁かれ、教室に辿り着く頃には疲労困憊になっていた。
これが名門中も名門龍ヶ崎家か。と知名度の凄さをしみじみ実感しながら、漸く辿り付いた教室の扉を開けた。
予想していた通り、教室中の視線が楪に向けられた。それも良いものとは言えない類の物だったが、もう既に廊下で散々浴びたものだったので思ったより傷つかなかった。
「おはよう。有名人じゃん」
桃は揶揄う様な調子で言った。
「おはよ。全く嬉しくないけどね」
「訳あり?」
席に着くと、桃が他に聞こえないように小声で聞いた来たので、一度頷く。
「そう。じゃあまた落ち着いたら教えて。面倒ごとが終わった頃に」
「巻き込まれたくないからでしょ」
「当たり前。そういう話は笑い話になった頃に聞くのが一番楽しいのよ。まあ、本当にやばそうだったら相談くらいなら乗るから」
「桃ちゃん……」
つんとしているが、楪が本当に辛くなったら駆けつけて助けてくれるのだろう。今だって他の皆が陰口を叩こうが関係ないと率先して話しかけてくれた。その優しさに胸が熱くなった。
感動していた楪の横から大きな声が聞こえ来た。
「どういうつもりなのよ」
きんと刺すような声が教室中に響いた。般若の様な顔をした藤沢とその友人達が楪を睨みながら声を上げる。
「一体どんな手を使って龍ヶ崎様に取り入ったのよ」
「あんたじゃ釣り合ってないんだから今すぐ婚約解消しなさいよ」
藤沢達の騒ぎはすぐに収まった。何故なら楪は朝礼ギリギリの時間にやって来たので、直ぐに担任が教室に入って来たからだ。担任の先生も祓い屋の一人なので楪の騒動を知っているだろうが特に言及することなく、いつものように生徒に座るように促した。するといつもの教室の雰囲気に戻り、ほっと息を吐いた。
今日のメインイベントの時間となった。
昼休憩に入った途端に全員の視線から逃れて、教室を出る。背後から呼び止めるようなきんきんとした声が聞こえて来たが、無視をして小走りで図書室を目指す。教室で落ち合うと目立つからと待ち合わせ場所は静かな図書室にしていた。
昼休憩が始まって直後の図書室は誰もいなかった。
「ゆずちゃん」
楪が部屋に入って来た直ぐ後に小さな体が図書室に飛び込んで来た。
「姫花。会えて良かった」
抱き着いて来た姫花を抱きしめ返す。
「ゆずちゃん、大丈夫? 龍ヶ崎家で嫌なことされていない?」
「されてないよ。姫花は? 家で酷いことされてない?」
二人は机に向かい合って座ると、お互いの近況を報告しあった。と言っても楪が話した内容は、とても健やかに過ごしていますというだけの物だったが。
姫花の話によると、両親は楪に怒り狂っていたが今は大分落ち着いているらしい。姫花に対しては婚約者を取られてしまった哀れな妹として気持ち悪いぐらい甘やかしているらしい。
「私のことは良いよ。それよりゆずちゃんの婚約の事が知りたい。本当はうんと年上の人と結婚する予定だったって本当?」
楪が十和に髪飾りを貰っている間に両親と姫花は、楪が結婚する予定だった男と会っていた。
男の話をしていると姫花は顔を歪めて不快感を露わにした。
「あんな人と結婚しなくて良かったよ。でもどうして突然龍ヶ崎家の人と婚約することになったの?」
「それは……」
契約の事を他者に話すのは禁じられている。姫花の事は信じているが、だからと言って話すことは出来ない。かといって嘘の経緯など話したくなかった。
なんといって誤魔化すべきか悩んでいると、何かを察したらしい姫花が首を振った。
「話せないのなら、今か聞かない。落ち着いたら教えてくれる?」
「勿論。ごめんね、落ち着いたら全部ちゃんと話すよ」
それから他愛もない話をしていたら腹の虫が鳴いたので、教室に戻ることにした。お互い昼食のことなど忘れていた。
図書室から出る直前、姫花が楪を引き留めた。
「ゆずちゃん。嫌なことがあった直ぐに連絡してね。幸せでも連絡して。私に幸せだって笑ってね」
姫花はきらきらと目を輝かせていたが、その顔は少し泣きそうにも見えた。
一日の授業を終え、誰かに絡まれる前に教室を出て、校門に走ると待機していた車に飛び乗った。
「疲れた……」
「お疲れさま」
誰も乗っていないと思っていたのに十和の声が聞え、崩れ落ちそうだった体がびくりと跳ね起きた。
「あれ、と、十和? 何で」
「迎えに来た。と言っても、俺はこれから任務で途中で降りるが」
「私よりもずっと疲れてそうなのに、わざわざ迎えに来てくれてありがとう。降りるまでに疲れを取ろう」
手を出してと言うと、すぐに手が楪の手の上に乗せられた。
「疲れてはいないが、お言葉に甘めて癒して貰おう」
「合点承知」
優しく両手で包み込み、力を込めると手が微かに光り熱を帯びる。いつもなら数秒で終わるが、ちらりと盗み見た十和が静かに目を閉じていたので、そのままの姿勢から動けなくなった。
術は終わったのに、手が離れない。握っている熱が引いて行くので術が終わったことは分かっているだろうに十和は手を離そうとしなかった。
「あ、あの」
どうしていいかわからず、恐る恐る声をかけると、十和は目を開け、意地悪く口角を上げた。
揶揄われていると気づき、すぐに手を離した。
「ずっとこのままでも良かったのに」
「良くないよ。揶揄わないで」
「揶揄っていない。本気だ」
じっと見つめて来る目が本気を伝えようとしてくるので、視線をそらして車窓から外を見つめた。
つれなくしても十和は楽しそうに笑い、身を寄せて来たが、それ以外は触れ合わなかった。
甘い、甘すぎる空気感に自室に戻ってきた楪は頭を抱えていた。
疑ってぃたわけではいが、どうやら本当に十和に好かれているらしい。想いを隠さない十和は、楪に触れて来ようとする。想いは十二分に伝わるが、好かれる理由は見当もつかない。
思ってもらっているのに、思いを返すことが出来ない現状が良いとは思えなかった。十和に好意はある。しかしそれは友愛や親愛といった類の感情で、恋愛ではない……はずだ。そもそも恋愛をしたことがないので、感情の正解が分からない。
「誰かに相談、も出来ないし」
はあ、と溜め息を吐いた。
溜め息を吐くと幸せが逃げると言うが、吐き出した呼吸に呼応するように、この時十和が居ない龍ヶ崎邸宅に不穏分子が入り込もうとした。
「楪さん? 少しよろしいでしょうか?」
「はい、どうしました?」
夕凪の声に居住まいを正すと、焦りを滲ませた夕凪が扉を開けた。
「お休み中の所申し訳ないのですが、玄関に楪さんの母と名乗る方がいらっしゃっていて」
「母……」
何故母がここに?
「おかえりいただきますか?」
楪の顔色が曇ったのを見た夕凪がすかさず声をかけて来たが、楪は悩んだ後に首を振った。
「私が話をします。すみません迷惑をかけてしまって」
「迷惑などではないです。しかしお話しするのは良いですが、玄関越しで、何があるかわかりませんから玄関は開けないようにしてください」
母は怖い人ではない。ヒステリックな部分があり、金切声をあげたり怒鳴ることはあったが、暴力に訴えかけることはなかった。だから夕凪の心配は杞憂に終わると思っていた。
玄関へ向かう途中で聞こえて来た声に、自分がいかに甘い考えだったかを知る。
廊下にはきんきんと劈く様な母の声が響いている。何を喚いているのかは聞き取れないが、楪に対す怒りは伝わってきた。それは昔、気絶する姫花をおぶって帰った時と同じような取り乱し方だった。
「止めておきますか?」
夕凪が優しく楪の袖を引く。振り返ってみると廊下にいた使用人達が心配そうに楪を見ていた。
その時、安全地帯でぬくぬくしている自分が卑怯に思えた。姫花はこの母親と同じ空間にいるのに、自分だけという思いが、部屋に帰ろうとする足を止めさせた。
「大丈夫です。話します」
玄関前へ行くと、深呼吸をして母に声をかけた。
「お母さん」
玄関の向こうで騒いでいた声がぴたりと止まった。
「あのさ、ここは龍ヶ崎の家だから、あまり騒ぐと迷惑が……」
「どうして貴方なの」
「え?」
「どうして姫花じゃないの? どうやって取り入ったの? 恥ずかしくないの? 姫花が可哀想だと思わないの? 姫花を危険に晒した挙句に、今は姫花から婚約者を奪って。私達を置いてさっさと家を出て……今まで育てた恩も忘れたの? 厚かましい子」
母の声は今まで聞いたことがないくらい低く、嫌な気を纏っていた。
人を傷つけるために吐く言葉だ。母の言葉には明確な悪意があった。
「あんたはいつも悪いことしかしない。大したことない能力で恥ずかしげもなく龍ヶ崎家の婚約者を名乗っていいと思っているの? 今すぐに姫花と変わりなさい」
母の言葉を聞いていると自分は呼吸さえしてはいけない存在のように思えてきた。息を止めて、じっと扉の方を見ることしか出来ない。
体の芯が冷えてきて、泥の中に沈むような錯覚に陥る。
泥の中では息ができないからそこで生きるべきなのかもしれない。
玄関越しで見えないのに母がどんな顔をしているのか楪にはわかっていた。
あの時と同じ顔。気絶した姫花を背負って帰ってきた楪に向けた怒りと侮蔑の混じった顔。その顔で楪を睨んでいるのだ。
母はあの時からずっと楪を責め続けている。
「お言葉ですが」
不意に凛とした声が響いた。
「楪さんは龍ヶ崎家次期当主に婚約者として選ばれた人です。そんな風におっしゃるのは止めてください」
いつの間にか隣にやって来ていた雪がじっと玄関を見据えながら言葉を吐き出す。その顔は平時の朗らかな様子からは想像できないぐらい凛としている。
「貴方誰よ、貴方には関係ないわ。これは家の問題で」
「私は龍ヶ崎家現当主の妻、雪と申します。関係ないと仰りますが、ここは龍ヶ崎家で、楪さんは息子の婚約者です。いくら母親だからと言っても貴方の暴言を許すことはできません。どうぞ、お引き取りを」
母が反論しようとする空気が伝わって来たが、それよりも早く雪が追撃した。
「もう一度言います。ここは龍ヶ崎の家です。一階の術者如きが踏み入れていい地ではない。それがお分かりになりませんか? 楪さんの母親だから招き入れたのです。貴方が汚い口を聞くのならここにいるべきではない。早くお帰りを」
その声に母は少しだけ冷静さを取り戻した様で、ぼそぼそと聞えないくらいの声量で何かを呟きながら玄関の前から去って行った。
足音が完全に聞こえなくなった瞬間、楪はその場に崩れ落ちかけた。
「ああ、大丈夫? 楪さん」
「大丈夫です。ごめんなさい」
雪と夕凪に支えて貰いながら近くの部屋に入ると、ソファに深く腰掛ける。
「顔色が悪いわ。何か飲み物を用意しましょうね」
「大丈夫です。少し休めば治るんで」
楪は雪達の顔をまともに見ることが出来なかった。
自分で話をすると夕凪に言っておきながら結局何も言えなかった。ただ黙って母の言葉を受け止めていただけだ。いや、受け止めることさえできなかった。雪が入って来なければ、玄関の床にみっともなく崩れ落ちていたかもしれない。
情けなくてたまらなかった。
「すみません、本当に。ご迷惑をおかけしてしまって」
「迷惑なんかじゃないわ。楪さんが謝ることなんて何もないんだからそんな顔をしないで」
雪の優しい手で背を撫でられると自分が本当にちっぽけな人間に思えた。
「楪様の親だからとお通ししたのが間違いでした。今後はこのようなことが無いようにいたします」
「そうね。あちらが落ち着くまで会わないほうがいいかもしれない」
二人は母の言葉の意味や事情について何も聞かなかった。
楪が顔を上げると、雪の優しい微笑みが目に入った。その表情からは先程の凛とした雰囲気が抜け落ちている。
「雪さんは、強いですね」
ぼんやりと言葉を吐き出すと雪は驚いた顔をした後に目を逸らした。
「そ、そうかしら」
「雪さんは穏やかで優しい雰囲気の人だから、さっきは凛としていて驚きました」
「あらあら、えへへ。凛としてた? そうかしら」
んふふふと照れた様子は可愛らしい。
一頻照れ笑いした雪は、こほんと咳ばらいをした後に真剣な表情で楪と向き合った。
「あのね。楪さん。私は元から強かったわけじゃないし、いつも強くいられるわけじゃないの。あんな風に酷いことを言われたら悲しくて辛いし、言い返せないことも多い。でもね、私は龍ヶ崎家の当主の妻で、彼が居ない時はここを守らなければいけない立場にある。だから強くなきゃいけない時があるの。だから頑張って虚勢を張る。強くなきゃいけないから嘘でも胸を張って前を見る。それだけで人は少しだけ強く見えるから」
雪は少しだけ表情を和らげた。
「それにね。今回は楪ちゃんがいてくれたから」
「え?」
「一人じゃ怖くても人がいてくれたら怖くない。それに守りたい人がいると不思議と人は強くなれる。さっきの私が強く見えたのならそれは貴方を守りたかったからよ」
強くあり続けなくてもいい。ただここぞという時は強くありなさい。雪の言葉は真っ直ぐに楪に届く。
どれだけ弱くても誰かを守ろうとするときに強くあればいい。それはずっと楪が求めていたことのように思えた。大切なものを損なわない様に誰かが悲しまないように。
龍ヶ崎家当主の妻として雪にはたくさん背負うものがあるのだろう。薄紫の美しい目には計り知れない覚悟が見えていた。
「きっとこれから大変なことや辛いことがたくさんあると思うけど、泣きそうな時ほど上を向きなさい。相手に弱いと思われなければ人は強くあれるものだから」
雪の言葉を胸に留め、深く頷いた。
いつ帰って来るか分からない当主や十和を待っていると食べるのが遅くなるので、今日も雪と二人で夕食を取ることになった。夕食を取るのは広い洋間だ。ダイニングテーブルに向かいあって座り、他愛もない話をしながら運ばれて来たご飯を食べる。
当主は和食が好きらしいので、当主がいる時は和食中心になるが、不在時は洋食や中華と何でも出て来る。こちらは雪の要望らしい。
「和食も好きなんだけど、他の物も食べたくて」
「ここのご飯は何でも美味しいですね」
「そうなの。だからいっぱい食べちゃってすぐに太っちゃうの。楪さんも気を付けて」
今日は洋食で、目の前には大きなハンバーグがどんと鎮座している。かなり大きい。
食べられるだろうか、と不安が過る。
凄まじい存在感を放つハンバーグを雪は幸せそうに食べている。昨日も思ったが、雪は細い見た目に反して大食いだ。気持ちの良い食べっぷりを見ながら楪も切り分けたハンバーグを口に運ぶ。
口に入れた瞬間、肉汁が溢れた。肉の旨味と酸味のあるソースが口の中に広がり自然と口角が上がる。
「こんなに美味しいハンバーグ食べるの初めてです」
感動と驚きが一緒に来て顔がにぎやかになる。
「そうよね。このハンバーグは世界で一番おいしいの」
雪は楽しそうに笑った後、少しだけ言い難そうな顔をした。まるで大切な宝物を見せるような慎重さで楪に秘密を打ち明ける。
「あのね。このハンバーグは私が一番好きな料理だから楪さんにも食べて欲しかったの。共感してくれたら嬉しいなって思っていたから喜んでもらえて良かった」
嬉しそうに微笑む雪の言葉にきゅんと胸が鳴った。可愛らしい理由に打たれた胸を抑える。
夕凪を含めた使用人もそうだが、十和の母親である雪もどこまでも楪に優しかった。どこの馬の骨とも分からない人間が突然現れて息子の婚約者を名乗ったら普通はもっと警戒するはずだ。もし楪が同じ立場だったならここまで優しくは出来ないだろう。
「どうして、そんなに良くしてくださるんですか?」
箸を置いて真剣に問いかけると雪は不思議そうに首を傾げた。
「良くしているつもりはないの。ただ私が楪さんと仲良くなりたいのよ」
「十和の婚約に少しも反対しなかったんですか?」
「しなかったわ。だって私の自慢の息子が選んだ人だもの。きっと素敵な人だろうと思っていたの」
雪の顔からは十和への愛情と全幅の信頼が見て取れる。息子を信じているからこそ、その婚約者である楪の事を信じているのだろう。
楪は、その信頼を裏切っている。
本当の婚約者だと嘘を吐き、この場に居続けることは許されないことだ。早く真実を言った方が良い。そう思うのに。真実を知った雪から冷たい目を向けられるのが嫌だった。雪から向けられる温かい愛情が消えてしまうのが怖かった。
ぎゅっと膝の上で手を握りしめる。
「それにね、最初に言ってくれたでしょ。綺麗で温かい目が十和と似ているって。私の目は生まれつきね、龍ヶ崎家系でも珍しい物なの。人は自分と違うものを嫌がる傾向にあるから凄く、嫌な目で見られたこともあった。冷たく見えるみたいなのよ、この目って。変な目の色って言われたことも多かった」
「うそ……そんなに綺麗なのに」
「ありがとう。楪さんと初めて会った時に綺麗で温かい目って言ってくれたの凄く嬉しかった。本心から言っているんだろうなって直ぐに分かったから、嬉しくて堪らなくて、その瞬間に私は楪さんと仲良くなりたいって思ったの」
「私、上手に褒められていないのに」
「あら、もっと褒めてくれるの? うれしい」
「だって、雪さん、初めて見た時に綺麗過ぎて驚いたんです。すごく綺麗で、特に目が、優しそうで、十和と似てて、私……」
きゅっと喉の奥が変になった。ああ、泣きそうなのだと気づく。
こんな風に愛情を向けられたことはなかった。十和が向けてくれるものとは違う、桃とも姫花とも違う柔らかく暖かい愛情に体が震える。
「ごめんなさい、上手く表せなくて」
「十分よ。すごくすごくうれしい」
二人は泣き笑いの様な顔をしてハンバーグを食べた。どの料理も美味しくて、食べられないかもしれないと思っていたのに皿は空っぽになっていた。
廊下から二人の食事風景を覗き込んだ使用人達は、その様子を微笑ましそうに頬を緩ませていた。何気ない平和な夕食だった。
夕食後に運ばれて来たカフェオレを飲みながら談笑していた時。
平和な時間が唐突に終わった。
最初に飛び込んで来たのは、玄関が開く音だ。その後に数人の話し声が聞こえてきた。
「十和が帰って来たのかしら」
それにしても玄関の方が騒がしかった。
雪と顔を合わせ、立ち上がると、扉が音を立てて開いた。
「お食事中失礼します! 大変です。怪我人が出ました」
そう叫ぶ様に言ったのは使用人の一人だった。
怪我人と聞き、一瞬背筋が冷える。
頭の浮かんだのは怪我を治すことが出来ない十和の事だ。
「十和は?」
「無事です。楪様を呼んで来いと」
その言葉に頷き、使用人に続いて廊下を走る。後ろからは雪もついて来ている。
玄関には、見たことが無い人達が犇めき合っていた。数人が焦った様子で何かを喚いている。尋常じゃない取り乱し方に嫌な予感が過る。
「楪、こっちだ」
玄関のすぐ隣の部屋が開き、十和が顔を出した。その顔はいつもと変わらない。使用人の言葉通り無事らしい。しかし、上げられた右手が赤く染まっていることに気が付き、ぎょっとした。
「ど、どうしたの。その手」
「大丈夫だ。これは、彼女の……」
十和が顔を向けた先、部屋の中央に一人の女性が寝かされていた。
「夢子さん?」
それは、瑠璃川夢子だった。
近寄ってみると、顔が青白く、力が入らないようでぐったりとしている。そしてその腹辺りの布は真新しい血でぐっしょり濡れている。
夢子の近くに立ち、意識を確認しようと目の前で手を振ると、うっすらと開いた目が宙を彷徨う。
荒い呼吸を溢す口が、何かを呟くが声にはならない。
「わかりますか? 今から治しますからね」
そっと服に手をかける。
「十和は出て」
「分かった」
十和が立ちあがり、部屋から出て行こうとした時、開いた扉から人が雪崩れ込んできた。先程玄関で喚いていた人達だ。かっちりしたスーツを着た男達は痛ましそうに夢子を見て、そして隣に座る楪と立ち上がる十和を見て、ぎょっとした様子で声を上げた。
「何故その女がそこにいるのですか? 十和様が治療を施して下さるのではないのですか?」
「治療は楪が担当する」
十和が何でもないことのように言ってのけると男達はこの世の終わりとばかりに喚き出した。
「何故です。夢子様がどうなっても良いと言うことですか? 死んでしまっても構わないと言うのですか?」
「そうじゃない。……楪、治療を」
「は、はい」
男達は十和にやってほしいようだが、良いのだろうかと思ったが、躊躇っているわけにはいかない。そう思い手を伸ばそうとした時。
「触るな!」
爆ぜる様な怒号に手が止まる。
「お前の様な女が夢子様に触れるな」
「そうだ。能無しのくせに十和様の前で良い格好したいだけだろう」
「今すぐに離れろ!」
酷い言われようだ。どうやら男達は瑠璃川家の人間で、楪の事を毛嫌いしているらしい。
触るなと言われても、今は夢子の傷を治すのが先だと無視をする。すると怒り狂ったような男達が阻止しようと立ち上がる。
「止まれ」
部屋の中に静かに落ちたその声だけで男達の動きが止まる。
「お前達はさっきから誰に口を聞いている? この龍ヶ崎十和の婚約者だぞ。それがわかった上で言っているのか?」
「い、いえ、その」
「能無しと言ったか? 誰のことだ? まさか楪のことではないだろうな」
十和の威圧感に男達が喘ぐ様に呼吸を繰り返すのを横目に楪は夢子の向き直る。今の様子からして男達は外へ出て行かないだろう。
自分の体で夢子の体を出来るだけ隠し、服を捲って傷を露わにする。腹部は鋭い爪で引っ掻かれたように抉れている。そこから赤黒い血が噴き出し続けている。
思っていたよりも傷は浅そうだ。これならばすぐに治せる。
楪は傷に手を翳し、ふうと深く息を吸って、吐き出す。
すっと周りの音が波の様に引いて行く。自分の呼吸を聞きながら傷に力を込めると手が暖かくなり、傷口に光の花が咲く。それがどんどん傷口を修復していく。
治療は、一分とかからなかった。
「終わったよ」
振り返ってみると、全員の視線が楪の手元に注がれていた。夢子の衣服は整えているで見えていないはずだが、何を見ているのだろうと不思議に思っていると、男の一人が呆然とした様子で言った。
「すごい……」
つい漏れてしまったというような呟きに、男達が顔を見合わせる。
「あんな光初めて見た」
「あの大怪我を一瞬で?」
「能無しという噂ではなかったのか」
ひそひそと囁かれる言葉達に目を白黒させる。男達の声には非難の色は消え、驚きなどの中に称賛が混じっている。
何が何だかと首を捻ると、隣に十和が教えてくれた。
「ここまで高度な治癒を使える人間は少ないから驚いているんだろう」
「え、でも十和も治せるよね?」
「小さい傷はな。ここまでのは無理だ」
そうなのか、と目を見開く。
楪はこれまで能力を評価されたことがなかった。椎名家では結界術や妖魔を祓うために術を身につけられなければ評価されない。治癒ごときで何が出来ると言うのが椎名家の見解だ。
それなのに、ここではそれが覆った。
椎名家がいらないと言ったものを十和は大切に救い上げた。
「楪に頼んで良かった」
「急に呼ぶから十和が怪我したのかと思った。十和は、怪我はない?」
「ない。そもそも俺の任務と瑠璃川の怪我は関係ないんだ」
隣で目を閉じていた夢子が身じろいだ。意識が戻ったのだろうと、覗き込むと薄っすらと目を開け天井に視線を這わせている。
「夢子様!」
男達が楪を押し退けて隣にやって来たので、楪は大人しく横にずれる。十和がむっとしているのに気が付く、苦笑が零れる。
「目が覚めましたか、夢子様」
「ここは?」
「龍ヶ崎様の自宅です。夢子様は怪我をされて……」
「龍ヶ崎……十和さんの? 十和さんはどこ?」
夢子の目が男達の中を彷徨い、やがて近くに控えている十和で止まった。その瞬間、花が綻ぶのを見た。
安堵と愛しさが混じった様な微笑みが夢子から洩れ、その口が十和の名前を呼ぶ。まるで恋人を呼ぶようなとろりと蕩けた声色に楪は居心地の悪さを覚えた。
「それにいらっしゃったのですね。あの、私」
「瑠璃川、何かあったか覚えているか?」
夢子の声に対して、十和のそれは何処までも冷淡だった。その声に夢子は冷や水を浴びせられたような顔をして起き上がった。
「あの、すみません。私ったら寝ぼけていたみたいです」
「良い。それで、何があったか教えて貰えるか?」
「はい……。実は家で本を読んでいた時に庭からやって来た何者かに襲われたのです。突然の事で犯人を祓うことも出来ず、逃がしてしまい申し訳ありません。妖魔であるのは間違いないと思ったのですが、その後に女の声が聞えたのです」
「女の声……」
それは襲撃事件と類似している。
「それで悲鳴を聞きつけた使用人達が助けてくれたのですが、瑠璃川家には治癒が出来る者がおりませんので、十和さんの所へ連れて来たのだと思います。そうですよね?」
瑠璃川家の使用人だという男の一人が頷く。
「十和さん、傷を治していただきありがとうございます。こんなに綺麗に治るなんて流石です」
「礼なら楪に言ってくれ。治したのは俺じゃなくて楪だ」
「え……」
その時初めて夢子の視線が楪に向けられた。ここにいることすら今気づいた様子だ。それだけ夢子の視線には十和しか映っていなかった。
夢子はすぐに驚いた表情を引っ込めると愛想の良い笑みを浮かべた。
「そうだったのですね。楪さん、ありがとうございます」
「い、いえ。大した事はしていないので」
「そんなことはないです。傷は割と深かったはずです。突然襲われて驚きながらお腹を見ると血が溢れていて、止まらなくて。腸が出るんじゃないか思いました。このまま死んじゃうんだと思いました。それで、私……」
夢子は途中で言葉を止め、顔を覆った。手が震えている。その震えが肩まで達した頃に彼女が泣いていることに気が付いた。
「怖かった……すごく……怖かったんです……」
震える声で訴え、次第に嗚咽が漏れ始める。使用人が夢子の肩に触れようとした時、顔を上げた夢子は泣き濡れている目で十和を見た。そして震える手を十和に伸ばし、袖を緩く引く。
「十和さん……あの、少しだけ、少しだけで良いから一緒にいてくれませんか? 私の震えが収まるまでお傍に。どうか、抱きしめてはくれませんか?」
夢子は悲し気な目を次は楪へ向けて懇願するように言葉を吐き出す。
「婚約者の前でこんなことを言うのは酷いと思っています。でも、今だけ、お願いします」
夢子の目からは次々と泣きだが溢れている。
その懇願は、孤独に涙する子供が親を求めるような物だと使用人は楪の耳に囁く。しかしそうではないことは夢子の目を見ていれば一目瞭然だ。
夢子は十和が好きで、悲しみを好きな人の腕の中で癒したいのだ。
「お願いします、楪さん」
嫌だな、と思った。そう思ったことに驚く。
契約の上の婚約者だろうが、婚約者という立場からなら嫌だときっぱり言える。しかし、何故嫌なのかも分からない状態で、否定することが楪には出来なかった。
汗の滲む手をぎゅっと握りしめ、溢れ出しそうな不快感を押さえつける。
十和の言葉を聞くのが怖かったので、十和が口を開く前に立ち上がった。
「私、部屋に帰ってますね」
十和を見ることも夢子を見ることも出来ず、十和が口を開く前に立ち上がると部屋を出た。
足早に自室に戻ると、扉を後ろ手に締めてその場に膝を抱えて蹲った。
夢子の恋する目を真正面から見て怖気づいた。
十和は楪の事が好きなのだと言う。しかし楪は十和の様な質感の感情を同じように返せる気がしていない。十和が夢子を抱きしめるのが嫌だと思うのに、それが恋しているからなのか、それともただの独占欲なのかわからない。
そんな中途半端な気持ちを見破られたくなくて、逃げだした。
いや、本当は違う。
十和は優しいから震えている夢子を放っておけないだろう。あの細い体を十和が抱きしめる所を見たくなかったのだ。
「情けない……」
ため息を吐き、よろよろと立ち上がると窓の傍まで膝立ちで移動する。
楪が生活している部屋は窓が大きく、床に座っていても外の景色が見える。楪は床に座って窓の外へ顔を出した。空に瞬くぼんやりとした星を見上げ、澄んだ空気を吸い込むともやついた気持ちが消えるような気がした。
不意に扉がノックされて体がびくりと跳ねた。
「楪? いるか?」
「十和?」
夢子と一緒にいるはずの十和の声に首を傾げる。楪があの部屋を出てから時間がたっていない。夢子を慰めて来たにしては早すぎる。
扉を開けて入って来た十和は窓辺でたそがれる楪と目が合うと微笑みながら近寄って来た。
「ここの景色、気に入ったか? この部屋から見ると丁度障害物がなく空が見えるんだ」
隣に座った十和は楪と同じように空を見上げた。夜空の下で見る十和の目は殊更輝いて見えて、体が震えるほど美しい。
その横顔を見ていると、胸につっかえて来た疑問がぽろりと零れた。
「夢子さんは?」
「傷も治ったから家に帰るらしい。何かあった時のために伊崎に送らせた」
「そっか、大丈夫になったんだ」
十和が抱きしめて慰めたことで安心して帰ったのだと思うと気分が重くなった。
「ああ、瑠璃川家は祓い屋の名門だ。妖魔に襲われること自体は初めてではないだろうし、使用人達も傍に付いている」
「十和が慰めたのが利いたんじゃないかな」
そう口をついて出た。非難するような言葉に唇を噛みしめる。
嫌な気持ちになって、十和に当たるなんてまるで子供の癇癪だ。こんな言い方をするはずではなかったと謝ろうとした。
「慰めてなんてない。どうして俺が好きでもない相手を抱きしめないといけないんだ。他を当たってくれと言っておいた」
「え」
それは完璧な拒絶だった。
抱きしめないでほしいとは思っていたが、そこまできっぱり拒絶するとは思っていなかったので二の句が継げない。
どうやら十和の中には女性を紳士的に慰めるなんて発想はないらしい。そのことに内心喜びがじわりと滲んだ。
「そんなことより、楪は大丈夫だったか? 母親が来と聞いた」
そう言えば、そんなこともあった。
夢子が来たことがあまりにも衝撃的で頭から抜けていたが、母親が龍ヶ崎家に来たのはほんの数時間前だ。思い出すと胃の辺りが重くなるので考えたくなかった。
「大丈夫。何ともなかったよ」
「本当に? 悪いが夕凪から話は聞いたから隠しても無駄だぞ」
「本当に大丈夫だよ。雪さんは追い払ってくれたおかげで直ぐに帰ったから、ここにも入ってきていないし」
「それでも、酷いことを言われたと聞いた。玄関扉が越しだろうが何だろうが、酷いことを言われたら傷つくだろう」
「じゃあ」
夢子の話を脳みそが勝手に引きずっていたから、口が滑った。
魔が差したと言っても良い。
「慰めてくれる?」
そう口にした瞬間、目の前の瞳が見開かれる。同じくらい楪の目も大きく見開かれていた。二人して目を大きくしながら見つめ合う。
自分の発言が信じられず、口を押えて「えっ」と驚いた声を上げた。
「変なこと言った」
「変じゃない」
「……今、私なんて言った?」
「抱きしめてって」
「それは言ってない」
十和が小さく舌を打った。
「今の流れだったら抱きしめても良い流れだっただろう」
「良くない。ごめん、ちょっと疲れているのかも」
両親のことだけではなく、夢子の事も精神に微かな傷を残しているようだ。少し一人になって頭を冷やしたいと言うと十和は首を振った。
「疲れているのなら癒しの方が必要だろう。楪ほどじゃないが、俺も治癒の力はある。手を貸してくれ」
右手を差し出すと、そっと握られる。柔らかい光が手を包み、光っている部分がじんわりと暖かくなってきた。その熱にほっと息を吐く。
気が付かないうちに体が強張っていたらしく、十和の与えてくれる熱がそれを癒した。
手を握っている間、二人は黙って身を寄せていたが、熱が引くのと同時に楪はぽろりと心の中に蟠っていた感情を吐露した。
「名前を呼ばれなくなったんだ。昔、妹を危険な目に合わせっちゃったことがあるんだけど、それ以降両親は私の名前を呼ばなくなった。扱いが悪いのは別に気にしてなかったけど、名前の事はずっと頭にあって、今日色々言われた時に、ああ、この人は私のこと娘だと思ってないのかもって気づいて、そしたら駄目になってた。今まで何を言われても平気だったのにな。強くなりたいって、思ってたのに」
両親が姫花のことばかり言っても気にしなかった。
酷く扱われても家族だと思ってた。しかし、玄関先で向けられた悪意は家族に向けるものではなかった。
それが、自分が思っていたよりもずっと深く刺さった。
それと同時に、そんなことで駄目になる自分は見放されても仕方ないとも思う。十和の隣に立つ権利がないと言われるのも、そうだろうなと思っていた。
「ごめん、本当は慰めて欲しくなんかないんだ。これは多分どうしようもないことだから自分の中で折り合いをつけたい。口に出しちゃったのは、自分が何に傷ついているのか整理したかっただけ」
「……楪は自分の事を弱いと言うが、俺はそう思ったことはない。治癒の能力は確かに妖魔討伐は出来ないが、他で活かせる素晴らしい能力だ。それに、どれだけ辛くても前を向いて歩ける人間は強い。楪は自分と向き合って乗り越えようとしているんだろう。それは強くないとできない」
弱いと言われたことは何度もあるのに強いと言われたことなど一度もなかった。
「慰めている?」
「そんなつもりはない。寄り添いたいだけだ」
十和はふっと顔を綻ばせると楪との距離を縮めた。肩が当たりそうな距離にびくりと体が跳ねかけたが、何とか抑えて平常を保とうとした。
「楪」
近くで十和に優しく名前を呼ばれると、鼓膜が震えて顔に熱が集まる。あまりに近い距離に視線を合わせることは疎か、体を動かすことすらできない。
「こっちを見て」
わざとらしい甘い囁きに、ひっと喉の奥で悲鳴が零れる。わざとやっているのだと分かっているのに声が震えてまともに抗議の声を上げられない。
「む、むり。むり」
「なんで」
「近すぎ、ちょっと、離れて。顔が近い」
「眼福だろう。近くで見ろ」
『自分で言うな……」
眼福なのはその通りなので、誘惑には勝てず、そろりと視線だけを向けると、美しい薄紫と目が合い悲鳴を上げそうになった。
思わず仰け反りながら後退する。
「こら、逃げるな。まだ話は終わってない」
「分かったから、少し離れて。心臓が止まる」
楪の必死の懇願に十和は笑いながら少しだけ距離を開けた。元の距離感に戻り、ほっと安堵の息を吐き出すと十和は更に笑みを深めた。
「そんなにあからさまに安心されると傷つくな」
「嘘だ、笑っているじゃん」
本題とは一体何なのか、話の続きを促す。途端に十和は真剣な顔になった。
空気が引き締まり、自然と楪も姿勢を正して十和に向き合う。
「瑠璃川が襲われた件に関して、状況から見て俺達が追っている襲撃事件に間違いないだろう。だが、今までの犯行は襲うと言っても妖魔に追いかけ回されたり、怪我をしても擦り傷程度だった。犯行が過激化している」
夢子の傷は内臓には達していなかったが、出血が酷く放っておけば命に関わるものだった。犯行が過激化しているのなら早く解決しなければ死人が出かねない。
そして、今一番被害者になりそうなのは楪だ。
「過激化している原因は婚約発表したことだろうが、何故瑠璃川を襲ったのか分からない。本命の婚約者が現れたんだからそちらを狙えばいいのに、何故まだ違う人間を襲う必要がある?」
「犯人が婚約発表をしたことを知らないとか?」
「それはありえない。祓い屋界隈で俺達の婚約を知らない人間はまずいない。それに自称婚約者を正確に狙える情報収集能力がありながら発表を知らないとは思えない」
「だとしたら考えられるのは、夢子さんに狙われる理由があった、とか。例えば、本当は婚約者候補を狙っているわけじゃないとか」
「それなら犯人の発言の真意が分からない」
妖魔を操っているらしい犯人が最後に残している「私が婚約者に選ばれるんだから邪魔をしないで」という言葉からは、やはり十和との結婚願望が強く表れている。
「うーん……」
「犯人の真意から考えて答えは出そうにない。なんにせよ楪が一番危険なのは変わりない。龍ヶ崎家で妖魔が出現することはまずないが、学校や送迎の時に襲われる可能性はある」
学校に妖魔が入り込めば、経験豊富な祓い屋でもある教師陣が出て来るだろうが、もしそれが間に合わなかったら。襲われるのが楪だけだったらまだいいが、他の生徒が巻き添えになる可能性がある。それは避けなければいけない。
夢子の腹の傷を思い出し、ぞっとする。
どんな形状の妖魔なのか分からないが。生徒達で対処できるものなのだろうか。
「もし何かあったら戦わずに逃げろ。兎に角逃げろ。それで……」
十和が一瞬言葉を止めた。真剣だった顔に苦みが混じり、苦しそうな表情になる。
「どうしたの」
「いや、悪い。言わなければとはずっと思っていたんだ。でも中々決心がつかなかったことがある」
十和の目が少しだけ揺れる。
「楪は、龍ヶ崎家についてどれくらい知っている?」
「祓い屋の名家で、龍人の血が入っているってことしか」
「その認識で間違いない。龍ヶ崎家の人間には龍人の血が入っている。つまり純粋な人間ではない。龍ヶ崎家の人間は普通にしていれば人間に見えるが、血が濃い人間は特に変異することが出来るんだ」
「変異? 変身できるってこと?」
「そんなところだ。人によっては角が生えたり、鱗が出たりするだけだが。それでも普通の人間からすれば、普通ではない扱いになる。だから龍ヶ崎家の人間は他の人間の前で変異しない。基本的には。人は自分と違うものに対してどこまでも冷酷になれる生き物だから」
そう言って十和は少しだけ寂しそうに笑った。
それは人と目の色が違うことについて触れた雪と同じ表情だった。恐らく、十和も雪と同じように他者と違うだけで、酷い扱いを受けたことがあるのだろう。
「この目もそうだ。他とは違う」
「十和は、その目、嫌い?」
聞くべきか悩んだが、聞かずにはいられなかった。すると十和はふっと先ほどとは違う柔らかい笑みを浮かべた。
「いや。嫌いじゃない。だって、楪はこの目が好きだろう?」
「えっ」
「結構な頻度で目をじっと見つめてくるだろう。流石に照れる」
「ご、ごめん。無意識だった。十和の目ってそのままでも綺麗だけど、光の当たり方が変わると色が少しだけ変わって、宝石みたいで綺麗だから、つい。見ないように気をつける」
「……いや、気を付けなくていい。楪に見られるのは好きだから」
「そうなんだ、それなら、よかった」
何だか気まずい空気になったのを十和が咳払いで消し、話の軌道を戻す。
「それで、本題だが、変異するのは俺も例外ではない。殆ど制御できるが、力を使った反動で制御が出来なくなるときもある。もしかしたら楪の前で変異するかもしれない。その時すごく驚くかもしれない。もしかしたら嫌な気持ちになるかもしれない。でもこれだけは覚えておいてほしい。俺は絶対に楪の味方だ」
揺れる瞳を見て、いつも自信に満ち溢れている十和の弱い所に触れているのだと気が付く。きっとこのまま楪が手を滑らせれば十和の心には簡単に傷がつく。だから慎重に言葉を選ばなければいけないと思いつつ、頭に浮んだのは一つだけだった。
「嫌な気持ちになんかならないよ。変異した所で十和の本質が変わるわけじゃないんでしょ?」
「……そうだな。目も紫のままだ」
「そっか。じゃあ凄く綺麗なままだね」
十和は少しだけ目を閉じて、頷いた。
「うん」
楪は人の心に寄り添うのが得意なわけではない。何と言うのが正解だったのかは分からないが、十和の顔が穏やかになったので、不正解ではなかったのだろうとこっそり安堵した。
その時、目を開けた十和がじっと楪を見た。今までにない真剣な目つきに何か間違ったのかと冷や汗が流れる。
もしや、不正解を引いていたのか、と苦みが胸に広がる。
「十和、ごめ」
「抱きしめていいか?」
「……は?」
そっと手を持たれ、引き寄せようとしてくる十和に楪は慌てて手を突っぱねた。
「ちょ、ちょっと待った。え、どういう話の流れで、そういう流れに? 私、聞き逃してた?」
「聞き逃してないから安心しろ。兎に角、抱きしめたい。駄目か?」
「うぐっ」
この世の物とは思えない美貌で、しかも少なからず好意を持っている男に抱きしめたいと言われ、しかも小首を傾げながら尋ねられて断れる人間がいるとは思えなかった。
「わざとやってる?」
「当たり前だろう。俺は使えるものは何でも使う主義だ」
手を引かれ、今度は抵抗しなかった。十和の腕が優しく背名に回る。緊張でがちがちに固まった楪の体はあっという間に十和の腕に囲われていた。肩口に顔をつけると、ふわりと十和の匂いが漂い、どうしていいのか分からなくなる。
今までの人生で男に抱きしめられたことが無いので、手をどこへ置けば良いのかも分からずに宙ぶらりんのままでいると十和が耳元で囁いた。
「背中に回して」
笑いを含んだ声にかっと顔を赤くしながら、恐る恐る十和の背に手を回す。
「楪は体温が高いな」
十和の口元は変わらず楪の耳元にあるので、できれば喋らないで欲しかったが、口を開くと悲鳴のような声が出そうだったので口を閉じたまま額を十和の方に押し当て続けた。
「龍人は水を司る。だから龍ヶ崎の人間は水と深い繋がりがある。そのせいか体温がすごく低いんだ」
十和に触れている場所は冷たい。よく触れ合う姫花よりもずっと冷たい。
しかし、十和とは逆に楪は体温が高いので、その冷たさが心地よかった。
「龍人の血が濃い人間。本家の一握りは特に水との繋がりが深いから水がある場所へなら飛んでいける。もしどうしようもなく危ない時は水のある場所で俺を呼べ。すぐに行く。わかった?」
「わ、分かった」
何とか頷くと、十和は楽しそうに笑い、更にぎゅっと楪を抱きしめた。
死ぬかもしれない。
楪は十和の腕の中でどこどこと煩い心臓の音を聞きながら思った。
どうして、と女は暗い部屋で呟いた。
月明かりに照らされている鏡を覗き込むと、美しい顔が映って居る。そのことに安堵すると同時に十和の隣に座っていた女の顔を思い出して怒りで可笑しくなりそうだった。
私の方が何倍も可愛いのに。可愛くて、力もあって――なのに。選ばれなかった。
あんな無能が選ばれて、私が選ばれないのはおかしい。何かの間違いだ。もしかしたら十和は騙され、脅されているのかもしれない女は思った。
怒りに思考を乗っ取られたまま口角を無理矢理上げる。
椎名楪を十和から引き離す。
「十和に相応しいのは私だから」
女は美しい顔を撫でながらぎらついた目で鏡を見据えた。
不穏な影が、楪に迫っていた。
「その隈、酷くなってない?」
桃が心配そうにのぞき込んで来るのに苦笑を返して誤魔化す。
昨夜、十和は夕凪が風呂の準備が出来たと知らせに来るまで楪を離さなかった。
流石に長い時間抱きしめられていたら慣れるかと思ったが、十和が耳元で喋るせいでずっと緊張しっぱなしだった。しかし、十和の匂いと体温に落ち着く効能でもあるのか、緊張しているのに落ち着くという奇妙な状態になっていた。
漸く離れ、風呂に入って落ち着くかと思ったが、部屋に帰るとお休みを言いに来た十和が頬にキスをしたせいで、治まっていた心臓が再び活気付いていた。
そのせいで眠気が来ず、抱きしめられたことや、自信の感情を自問自答していたせいで全く眠れずに朝を迎えた。
朝、隈を作った楪の顔を見た十和が優しく笑って体を癒してくれたので、体調は悪くないが、酷く眠いし隈が治らなかったせいで、顔色も悪い。
「ちょっと寝不足なだけだから大丈夫。体調は良いよ」
「それならいいけどさ、新しい環境でストレスとか溜まってない?」
「それは大丈夫。皆いい人だから」
龍ヶ崎家の人は皆楪に優しく。寧ろ実家にいた時の方が人間関係のストレスを感じていた。出来るだけ両親の目に触れないように生きていた楪にとって、今の環境は過ごしやすい。食事も美味しく、文句の付け所がない。
「旦那は家にいるの?」
「だ、旦那?」
「まだ結婚してないんだっけ?」
「してないよ。婚約者ってだけで」
十和の話題になると直ぐにかっと顔が赤くなった。その顔を見て桃が「へえ」と新しい玩具を見つけた子供みたいな顔をして笑う。
「面白い話ないの」
「ない。全くない」
「婚約者とは同じ部屋で寝てる? 忙しいだろうから夜はいないとか?」
「違う部屋だし、夜任務に行くけど帰って来るよ」
「へえ、そうなんだ。……どこまでいってんの?」
無言で桃の頭に手刀を落とした。桃は頭を抑えて文句を言っていたが、どう考えても桃が悪い。
教室内でクラスメイトがいる中でする話ではないだろう。
朝礼前の教室には既に全員揃っている。
全員ではないが、周りにいる生徒達が聞き耳を立てていることには気づいていた。本当は十和の話題にも触れたくなかったのだが、桃曰く堂々としていた方が変に絡まれることもないらしいので、言える範囲の事は答えて行く。
しかし、気になるのは藤沢の事だった。
ちらりと見た先にいる藤沢は椅子に腰かけ、じっと机を見つめている。その顔は昨日よりも青白く今にも倒れてしまいそうだ。周りで友人達が背中を撫でたりしているが、それに答える様子もない。
「藤沢のこと?」
桃が顔を寄せて来た。他に聞こえない声量の質問に頷き返す。
「体調悪そうだから」
「家の連中に何か言われたんじゃないかな。藤沢の家って、噂によるとかなり古風な考え方を持っているらしいから」
「古風?」
桃がそよ風くらいの声量で話す。
「女は強い祓い屋にならず力を持った家の男と結婚し、強い力の子供を産むのが仕事とか、それが幸せだとか。兎に角子供を産んで家との縁を作るのを強要されるらしい」
「祓い屋にならない? あんなに強いのに」
「どれだけ強くても関係ないよ。女に生まれた瞬間に祓い屋の道は閉ざされるらしい。藤沢系列の家はそういう家なんだって。割と有名な話だよ」
「だから十和と結婚したかったのか……」
藤沢系列の家ということは、夢子の家もそうかもしれない。
夢子は十和に好意を持っているので、家の事は関係なさそうだ。
「龍ヶ崎って言ったら超名家だからね。誰にも文句は言えないよ。大した実力もない家が名門と言われている所以はそんなものだよ。別に珍しいことじゃない。楪が気にすることじゃない」
龍ヶ崎家との縁が出来れば藤沢家は安泰だ。かつて力を持っていた家が、時代と共に力が衰えて衰退していくのは珍しい話ではない。楪の家もそうだった。両親が姫花と十和を結婚させようとしたのも同じ理由だ。ただ藤沢家は椎名家とは比べ物にならないくらい昔から貪欲に名家との縁を結ぼうとしていただけのこと。
よくある話だ。そう思うのに引っ掛かるのは、楪が全く知らない男と結婚させられそうになっていたからだろうか。
龍ヶ崎との縁が無くなった今、藤沢家はどうするのだろうか。
龍ヶ崎家は祓い屋界隈で右に出る者は殆どいない。龍ヶ崎家との縁が築けなかったとなった時、藤沢家は娘に何を求めるのだろうか。
ふと、藤沢が顔を上げて楪を見た。
酷く疲れた顔をしている。その目は焦りと絶望で揺れていた。
実技の授業は好きではないが、これまで休まずに真面目に受けて来た。しかし今日は妖魔と戦うクラスメイトを見ながら校庭の隅でちまちまと草を毟っている。
楪は授業に出ようと思っていたのだが、実技担当の教師が難色を示した。
曰く、龍ヶ崎の婚約者に怪我をさせるわけにはいかないから、らしい。
万が一楪が怪我を負った場合の責任が取れないからと見学を言い渡された。
逢魔学園の教師は現役の祓い屋が殆どなので、龍ヶ崎家を敵に回すのが怖いのだろう。だから仕方なく楪は校庭の隅に移動した。
「婚約している間はずっと特別扱いかな」
ぽつりと呟くと透明の蝶が肯定するように周りとふわふわと漂う。指に乗せて可愛がると指先が冷たくなった。龍ヶ崎家は水と縁が深いと言っていたので、この蝶も水から作り出した式神なのだろう。羽ばたくと羽が水面のように揺らめき、光を綺麗に反射する。
蝶はふわふわと飛び、楪の髪留めに止まった。
「あ、そう言えばこれがあったね。これって弱い妖魔にも反応するのかな」
十和から貰った髪留めは何かあった時に楪を守ってくれるらしい。
弱い妖魔からの攻撃にも反応するのなら実技の最中に発動していたかもしれない。そう思うと見学になったのは良かった。
後で十和に確認しなくては、と顔を上げた時、丁度藤沢の番が回って来ていた。二足歩行の妖魔と相対した藤沢の表情に怯えや恐れはない。ただじっと妖魔を見つめ、教師の合図を待っている。
「はじめ!」
教師の声が響き、藤沢が懐に入れていたお札を素早く取りだすと何事か唱えて妖魔に投げつけた。藤沢が作った札は強力で、ぶつけられた妖魔は悲鳴を上げる事無く消えた。一連の洗練された動作で藤沢の実力がかなり高いことは誰の目には明らかだ。
「流石だな」
教師もクラスメイト達も皆、藤沢を褒める。それに笑って答えていたが、人がいなくなると藤沢は浮かない顔をした。
どれだけ他人から実力を褒められても意味が無いのかもしれないと思った。他人では藤沢の未来をどうにかすることが出来ない。藤沢家の決まりを変えられる人間に認めて貰わないといけない。しかし、これだけ実力があっても認められないのに他に打つ手はあるのだろうか。
「どうしたの」
気が付くと唸り声を上げて頭を抱えていた楪に桃が不思議そうな顔をしながら近寄って来た。
「えっと、ちょっと考え事」
「ふーん、まあいいけど、あんまり考え込まないようにね、禿げるよ」
「うん、わかった」
桃の腕にかすり傷が出来ていることに気が付いた。
患部に手を当てて撫でると、傷は直ぐに無くなった。
「あれ、傷があった? 気づかなかったわ、ありがとね」
「ん、かすり傷だったからね。こんなのならすぐに治せるよ」
ふふんと得意げに笑うと、桃は微妙な顔をした。
「どうしたの?」
「いや……治癒はかなり重宝される特異な能力なのに何で評価されないのかな、と思って」
「使える人がいないわけじゃないからね。それに妖魔と戦えない奴って印象がどうしても強くなるから仕方ないよ」
「楪の旦那は認めてくれているの?」
旦那じゃないと突っ込みながら、昨夜夢子の傷を前にした時の事を思い出す。十和は夢子の傷を見て他の誰でもなく楪を呼んだ。夢子の使用人達が抗議の声を上げても無視して楪を信じてくれた。
「認めてくれているよ」
両親に認められなかった能力を十和は優しく救い上げてくれる。それが嬉しくてたまらなかった。
自然と微笑みを浮かべた楪に桃は手を口に当て、驚いた様子で目を見開いた。
「あら、あらあら、とうとう楪に春が来たのね。訳ありっぽいから心配していたけど、杞憂だったみたいね」
「え、なんの話」
「好きなんでしょ、龍ヶ崎十和のこと」
声にならない悲鳴を上げ、楪は立ち上がった。
「な、なんで、え、そんな話してた今?」
「してた、してた。ていうか、もしかして無自覚? まさか向こうも無自覚とか」
いや、と反射的に否定しようとして慌てて口を閉じたが、遅かった。
桃は口角を上げて、にたにたと笑っていた。
「へえ、なるほどね。向こうから告白済みか。それで、返事はしていないの? さっさと返事して付き合いなさいよ、ってもう婚約しているのか」
「返事って、だってまだ好きかどうか……」
「本気で言ってるの? そんな顔をしておいて?」
「そんな顔ってどんな顔」
「龍ヶ崎十和の事が好きで好きでたまりませんって顔」
そんな顔をしていない、と否定したいのに頭が沸騰していて、言葉にならなかった。
「そんな顔をしておいて好きじゃないは通用しないわ」
桃の言う通りかもしれない。
十和に対する楪の想いは親愛の枠組みから外れ始めていることは自覚している。好きかと聞かれれば、答えは直ぐに出る。
「好き、なんだろうなあ」
「何だ自覚しているんじゃない」
「十和と一緒に過ごしていたら皆好きになると思うよ」
「惚気の糖分が濃いわ……」
惚気などではなく事実だ。十和に好きだと全身で伝えられて落ちない人間はいないだろう。それに十和は楪を尊重してくれた。それだけで好きになる理由は十分だ。そう言うと、また惚気だ何だと言われるので言わない。
赤くなりそうな顔を膝の間に埋めて隠した。
だから、周囲の異変に気が付くのが遅れた。
「きゃああああ」
悲鳴とざわめきを耳が拾い顔を上げると、生徒達が騒然としていた。
「なに?」
「わからない、何かあったみたいね」
近づいてみると生徒達は何かを囲う様に立っていた。口々に心配げに声をかけている。断片的に「傷が」や「血が」と聞こえて来たので、誰かが怪我をしたのだろう。妖魔との実技で怪我をするのは珍しくない。このざわめきは異常だった。
「何かあったの?」
近くにいた生徒に声をかけながら、生徒達の中心へと視線をやる。
「藤沢さんが妖魔の爪で怪我をしたらしいの」
女子生徒が教えてくれた時、丁度視界に座り込む藤沢の姿を捉えた。妖魔は近くにいないので祓い終わっているらしい。
教師が藤沢の腕を抑えて何事か呟いているので、治療を施しているように見えるが、藤沢の手からは絶え間なく血が流れ続けている。どうやら切った所が悪かったらしい。
流れ続ける血を見て顔を青くした生徒が「救急車呼んだ方が良くない?」と言い始め、周りの生徒達も不安そうに顔を見合わせる。しかし、教師はその声が聞こえていないのか、治癒を続ける。
「血が止まってない」
「楪、治せないの? あの教師じゃ無理みたい」
生徒達の不安げな声に教師が顔を引きつらせながら「大丈夫だからな、先生が治してやるからな」と大声を上げるが、一向に血は止まらない。
藤沢の顔は青白く、教師の言葉に小さく頷く目は不安でいっぱいだった。
「ちょっと通して」
楪は生徒達の間を縫って行き、何とか藤沢の隣に立つ。
「何だ椎名か。傷が深いからお前はあっちへ行っていろ」
「先生、ちょっと退いて」
退く気配が無いので、ため息を吐いて教師の体を押して藤沢から手を離させる。
「何するんだ、手を離したら出血が」
「良いから退いてって」
もう既に出血が酷い。傷が深く、腕がぱっくりと割れていた。昨日の夢子の傷よりも見た目は酷いが、治せない傷ではない。
楪の物言いに憤り始め、大きく口を開けた教師に楪は一言。
「十和に言いつけますよ」
と言うと直ぐに黙った。
虎の威を借る狐のようで嫌だったが、耳元で騒がれると集中できないので仕方がない。
周りの生徒は余程不安なのか、いつもならくってかかって来る藤沢の友人達も震えながら楪を見ていた。
「あんたになんか、治せないよ」
藤沢の声は震えている。出血の多さと傷口がグロテスクなせいだろうな、と思いながら楪は藤沢の傷口を手で覆う。
呼吸を意図して深くすると手が暖かくなり、花の形になった光が藤沢の傷口に伸び、するすると撫でていく。周りが固唾を飲んで見守る中、治癒は一分もかからずに終わった。
温もりと光が消え、藤沢の腕から手を離すと、そこにはもう傷はない。傷跡もなく綺麗に消えたことにほっと息を吐く。
「出血が多かったから一応病院行った方が良いかも」
そう言って顔を上げ、やけに周りが静かなことに気が付いた。
「え、なに」
「な、何で治せるの?」
藤沢が目を見開きながら傷の治った手を見た。
「いつも治しているでしょ」
「それは小さい傷でしょ! こんな大きな傷治せるなんて聞いてない」
「大きい傷を作る機会なんて早々ないから」
実技の授業で生徒達を治すことはあったので何故驚かれているのか分からなかったが、どうやら小さな傷しか治せないと思われていたらしい。
ちらりと隣を窺うと教師も目と口を大きく開いて驚愕していた。そんなに驚くことだろうか。楪にとっては普通の事だったので、周りの反応に戸惑う。
「美月、良かった」
生徒の一人が藤沢に泣きながら抱き着くと戸惑いの空気が飛散して、傷が治った安堵に変わる。
「ありがとう、ありがとう椎名」
良かった、ありがとう、と口々に言う生徒達の声に答えながら桃の元に戻ると、ハイタッチを求められた。
ぱちん、と手を合わせると、何故か桃は楪以上に得意げな顔をしている。
「どうしたの」
「いやあ、今まで落ちこぼれだとか能無しとか馬鹿にしていた奴らが手の平返してんの見てるの気分が良いわ」
「小さい傷しか治せないと思っていたらしいよ」
「まあ、基本的に治癒って疲労回復とか小さい傷を治す程度だからね。プロの祓い屋の中には大きい傷を治す人もいるけど、数は少ないから普通は治せるとは思わないか」
「そうなの? 知らなかった」
疲労回復などが主だとは知っていたが、傷の大きさで治せないものがあるとは知らなかった。だから十和は夢子の傷を治せなかったのかと納得した。
治癒できて凄いという空気が漂っているが、自己治癒ができないという決定的な欠点があり、妖魔も祓えないので。落ちこぼれているのは変わりない気がした。
「まあ、何にせよ治って良かったよ」
ふと藤沢と目があった。その目は何故かまだ不安に揺れていた。
藤沢は立ちくらみや体の不調がないからと病院には学校帰りに行くことになったらしい。一応保健室にいる治癒が出来る先生に見せた所問題ないという判断がくだったようだ。
実技の後は一教科だけあり、怪我の一件でクラス中がどこか浮ついていて誰も集中していないようだ。それは楪例外ではない。と言っても怪我のことで集中できないのではない。
桃と校庭で話をしたことがきっかけで自覚した恋心に頭を抱えていた。
自覚したからと言って十和に伝える勇気は無い。というか、十和と楪の関係は、表面上婚約者ということもあり、付き合ってくださいと告白するのはおかしな気がしてならない。
桃にそれとなく話すと好きだと伝えるだけで良いと言われたが、十和に見つめられながら思いを伝えられる気がしなかった。自覚する前から至近距離で見つめられるとどぎまぎしてしまうのに自覚してから目を見て話せるかすら分からない。
はあ、と吐き出した息はどこか浮ついている。
想いを自覚したせいか浮かれている自分を自覚し、頭を振って考えを打ち消す。
告白よりも先に片付けなければいけないことがある。襲撃事件の事だ。いつ襲われるか分からない状況で浮かれてばかりはいられない。
十和から貰ったピンや式神がいるから大丈夫だとは思うが、安心はできない。
一日の授業が全て終わり、ホームルームが終わると同時に立ち上がり桃に声をかけて急いで教室を出た。教室の窓から校門前に龍ヶ崎家の高級車が止まっているのは確認済みだ。
靴を履いて、外へ出ようとした時。
ぐいっと腕を引かれた。
襲撃者の文字が頭に浮び、咄嗟に手を振り払おうとしたが、背後に立つ人物を見て動きを止めた。
「藤沢さん?」
「ちょっと来て」
ぎゅっと顔を顰めた藤沢に手を引かれ校舎を出ると、裏門の前に連れて行かれた。
「何の用時? 私、帰らないと」
裏門は教師が利用するがこの時間には人気がなく、喧騒からも遠い。どれだけ叫んでも声が届かない想像にかられて、打ち消す様に口を開く。
すると、藤沢は顔色を悪くしながら口を開いた。
「あの、さ、何で傷を治したの?」
「え?」
「私、いつも酷いことがばかり言ってるし、優しくなんてしたことないのに、何で? 普通いい気味だって思わない? 放っておいてやろうって思わなかったの?」
藤沢の言葉が一瞬理解できず、瞬きを繰り返しながらゆっくり咀嚼する。
「ええっと、別に思わなかったな、そんなこと考えもしなかった」
「なんで?」
「何でって……うーん。別に治すのに理由なんてないよ。治せると思ったから治しただけ。藤沢さんでも別の人でも変わらないよ。痛そうだったから治しただけだよ」
藤沢は口を震わせて眉をぐっと寄せた。怒っているのかと思ったが、目が潤んでいるので泣きそうなのだと気が付く。
どうして泣くのか分からず、肩に触れようとした時、藤沢が切羽詰った様子で言った。
「あ、あの私、ごめん、本当にごめん、行こう、行かなきゃ。やっぱりこんなことしちゃ駄目だった」
「え、なに、藤沢さ」
藤沢の手に引っ張られ、元来た道を戻ろうとした時だった。
鈴のような声がその場に落ちた。
「どこへ行くの? 美月」
刺すような声だと思った。
聞いた瞬間、ぞわりと肌が粟立つ。
しかりつけるような可愛らしいものではなく、声だけで人を従わせることが出来る声だった。その声に名前を呼ばれた藤沢はひっと悲鳴を上げて泣きながら振り返る。楪も緊張で固まりそうな顔をゆっくりと動かして藤沢の視線を追った。
裏門の前に女が立っていた。
「夢子さん」
「はい、こんにちは、楪さん」
その声は優し気なのに纏う雰囲気は突き刺す様で、恐怖を感じる。
いつもと違う様子に蝶が警戒するように楪の前に躍り出る。
「どうしてここに」
「私、楪さんにお話があって来たんですよ。一緒に来てくれます?」
「あの、すみませんが、迎えの車を待たせているので」
一刻も早く逃げたくて足を引くと、夢子は逆に距離を詰めて来る。
楪の手を握る藤沢の手が驚くほど体温を失い震えている。その手を握り返して体温を分け与えながら後退していくと、夢子が小首を傾げた。
「駄目ですよ。お迎えの車は置いて行きましょう。私とお話ししないといけませんから」
「いえ、あの帰らないといけないので」
「帰る? どこへ。まさか不相応にも十和さんの元へ?」
低くなった声にぎくりと体を震わせると、夢子は笑みを深めた。
「私の言うこと聞かないと、ここに妖魔を放ちますよ。まだお友達は学校の中ですか? 来てくれないとお友達から殺します」
ひっと悲鳴が漏れそうになった。
夢子の目を見れば、それが本気だと直ぐに分かる。はったりではない。夢子と一緒に行かなければ桃が死ぬ。
「椎名、ごめん、ごめん」
背後で藤沢が泣いている。藤沢家は瑠璃川家の分家だ。恐らく楪をここに連れて来るように脅されたのだろう。だからと言っても藤沢を責める気にはなれない。上の人間に脅されたのならしょうがない。
ふっと息を吐き、最後にぎゅっと藤沢の手を握ってから離した。
「一緒に行きます」
声や手が震えないように意識しながら声を出すと、夢子がにっこりと笑みを深くする。
「そう。良かった。あ、その式神は置いておいてね。まあ私の車には結界が張ってあるから入れないでしょうけど」
「一緒に行けば皆に手を出さないんですよね」
「うん、来てくれさえすれば後は関係ないから」
裏門に止めてある瑠璃川家の車の後部座席に乗り込む。蝶が楪を追って中に入ろうとしてくるが、見えない壁に阻まれ入って来られなかった。本当に車に結界が張ってあるらしい。健気に結界にぶつかる蝶に止めるよう手で制して、呆然としている藤沢と一緒にいる様に指示を出す。すると蝶は少しだけ躊躇いを見せた後に言う通りに藤沢の方へ飛んで行った。
夢子が機嫌良さげに助手席に乗り込むと音もなく車が発進した。
「スマホ出して、連絡手段はこれだけよね。駄目よ、助けなんか呼んじゃ」
素直に従いスマホを出すと、丁度画面に十和からの連絡の通知が表示された。
『校門の前で待ってる。今日は一緒に夕食をとれそうだ』
校門の前にいた車には十和もいたらしい。その一文を目にして、楪は涙腺が緩むのを感じ、顔に力を入れた。
そして夢子はその一文を冷たい目で見降ろしていた。
バキ、と音がして画面にひびが入った。
「あら、ごめんなさい。割っちゃった」
悪びれるようすのない夢子は、ふふっと声を出して笑うと歌う様に言った。
「もう必要ないからいいですよね」
心細さに十和から貰った髪留めに伸びかける手を膝の上で握り、出来るだけ澄ました顔で窓の外を見た。
窓には泣きそうな顔をした楪が映って居た。
どうにかして十和に連絡を取らなければ。楪は窓の外に視線を向けながら考えを巡らせていた。連絡手段はスマホだけだが、現在そのスマホは夢子の手中にある。しかも強い力で握られたせいで壊れている可能性がある。
他に連絡手段は、と視線を前方へ向けると、ルームミラー越しに運転手と目が合い、すぐに逸らされた。その表情はどこか暗く、引きつっているように見えた。
楪を拉致ことは瑠璃川家の総意ではなく、夢子の独断で行われたことなのだろう。運転手の顔には龍ヶ崎十和の婚約者を誘拐したことへの焦りが見えている。
「どうしてこんなことを?」
答えは返って来ないかもしれないと思っていたが、意外にも答えは直ぐに返って来た。
「吊り合っていないからです。十和さんに。龍ヶ崎家に嫁入りしたなどと愚かなことを口走った女共に身の程を弁えさせているのです。本当は美月も同じようにする予定でしたが、変更しました。だって貴方が一番身の程知らずで、邪魔なんですもの」
その言葉からこれまでの襲撃事件も夢子の犯行だと分かった。
夢子は十和の婚約者候補を自称する女性を飼っている妖魔で襲い、もう二度と婚約者を名乗らないように警告したらしい。嬉々として話す夢子に恐怖が募るが、表情に出ないように努める。
不意に夢子がぐるりと首だけで振り返り、にっこりと笑った。
「楪さんは帰しません。というか、帰れないと思います」
何でもないことのように言ってのける夢子に危機感を覚え震えそうになる腕を掴んで必死で平静を装う。こんなことで怯えていると思われるのが嫌だった。
「着きましたよ」
車が大きな屋敷の前で停車した。
車が停車したのは日本家屋の大きな屋敷の前だった。椎名家よりもずっと大きいが、普段龍ヶ崎家を目にしていると狭くすら感じる。
車を降りると顔色の悪い運転手に引きずられながら門を潜る。その瞬間、空気が変わった、ざわりと肌を撫でる空気は澱み、呼吸がしにくい。外なのに空気が籠っているような気がする。
門の中は異様だった。
立派な平屋には人の気配がなく、背庭に生えている木は完全に枯れてしまっている。小さな池があるが、中には水草の類さえ見られない。この家には普通の生物はもういないのだろうと思われた。
ただ、家の中に妙な気配がある。力の弱い楪でも感知できるほどの大きく邪悪な気配に足が竦み、その場で立ち止まった楪の背を夢子が乱暴に押し、運転手が腕を引っ張って家の中に入れようとする。
「ちょ、ちょっと待って」
「これは試験よ。十和さんに相応しい人間ならばあれくらいの妖魔は倒せてしかるべきでしょう。他の婚約者候補とか名乗っている女は妖魔を見ただけで泣いて逃げて、祓い屋としての秩序もない。最悪だったわ。あれでよく婚約者を名乗れたものよね」
「襲撃事件は貴方の仕業だったんですよね。昨日のは自作自演ですか?」
「そう。私に疑いが向くと困りますし。それに十和さんに触って治して欲しかったから……まあ、治したのは貴方らしいですけどね」
夢心地の様子から一変して夢子は舌を打つと乱暴に玄関を開けて楪を押し込んだ。玄関の冷たい床にぶつかり、文句を言おうと振り返った時。みし、と木が軋む様な音がした。いつもなら気にしない些細な音に体が跳ねて、飛び起きると玄関の隅に体を隠した。辺りを観察してみるが、視界に映る範囲には何もいないように見える。
部屋の中は外観よりも更に異様で、気が滅入りそうなほど空気が籠っている。人の出入りはあったはずなのに、何故か廃墟の様になっている。
瑠璃川家の人達は一体どこへいったのだろうか。疑問はすぐに夢子が答えた。
「家の人は本家にいます。ここは今無人なので気にしないで。さて、正式な婚約者様なら妖魔の一つや二つ簡単に祓ったくださいますよね」
待って、と楪が声を上げるよりも早く玄関の扉が閉まった。
伸ばした手は空を掴み、慌てて玄関扉に飛びついた。
みし、みし、と再び軋む音がする。それとどたどた大きな物の廊下を歩く音が聞える。それは段々と楪の方へと近づいてきている。
異様な気配に息を殺し、そっと隅に隠れると、みしみしみしと音を立ててそれが現れた。
天井に達するほどの大きさの妖魔だ。腕が異様に太く、先には人間の手程の爪が三つ生えている。顔は良く見えないが、牙が口からはみ出しているのが見えた。それは、昔山で襲って来た妖魔に似ていた。
似ているだけで別もモノだ。なのに体が勝手に震えあがり息が上がる。悲鳴が漏れそうになった口を両手で抑えた。
落ち着け。落ち着け。心の中で繰り返して呼吸を落ち着かせる。心音が聞こえてしまうのではないかと思うほど大きく高鳴っているが、数回深く呼吸を口返すと少しだけ落ち着いた。
妖魔の種別は授業で習っている。あのタイプの妖魔は知能が低く、巧妙なことがしてこないはずだ。妖魔は玄関の開いた音に反応していたのか、きょろりと辺りを見渡す仕草をしたが、すぐにのそりのそりと大きな体で廊下を歩いていく。すぐ横にいる楪に気付く様子はない。このまま息を殺していればやり過ごせるはずだ。
呼吸の音さえ殺しながら妖魔が去るのを待つ。
もう少しで楪の視界から消える、と汗の滲む手を握りしめた。
ぱちぱちぱちと破裂音が聞えて来た。外から聞こえてくるそれが手拍子だと気が付いた瞬間、楪は頭が真っ白になった。
――まずい。
「こっちよ、こっちへおいで」
夢子の声がそれを呼ぶ。すると足音が止まり、妖魔が玄関の方を向いた。ぎょろぎょろした血走った目が楪を捉えたと同時に楪は走り出した。妖魔に背を向け、廊下を走ると背後から地を這う様な唸り声と廊下を踏む轟音が追って来る。
背後は振り返らず、長い廊下を只管走り、角を曲がったところが目についた部屋に飛び込んだ。
ぴしゃりと襖を閉めたと同時に目の前を大きな影が通過する。息を殺して妖魔が去るのを待ち、廊下を走る音が小さくなったのを確認して息を吐き出した。
恐怖で体が震えている。息を吐いた拍子に涙が出そうになり、ぐっと唇を噛みしめて耐えた。
これからどうするべきか、必死で頭を巡らせる。
迎えに来ていた十和達が異変に気付き、藤沢や残してきた蝶にたどり着いてくれればいい。そうすればいつかはここにたどり着いて助けてくれるだろう。しかし、それまで妖魔に襲われないとは断言できない。それに外に控えている夢子が何か仕掛けて来る可能性も高い。
どうすればいいんだろうか。
不安を和らげようと無意識に十和に貰った髪飾りに手を伸ばしていた。小さな髪飾りは普通の物と見た目は変わらないのに、きゅっと握り込むと少しだけ落ち着いた。
幾分か冷静になった頭で考える。
夢子は車に結果を張っていたから、恐らく家の中にも結界を張っている。雰囲気が一変していたことを考えると、門の中、家の中の二段階で張ってあると考えていいだろう。車の中に式神の蝶が入って来られなかったから、十和達も結界内に入れない可能性がある。そうなると楪が結界の外へ出なければいけないが、家の中には妖魔、外では夢子と使用人が待ち構えている。この状況で外へ出られる自信が無い。
「十和……」
縋りつくように小さく名前を呼ぶと薄紫色の輝きを思い出す。不安で堪らない。昨日の熱が恋しくて仕方なかった。
不意に十和の言葉を思い出した。
――龍人の血が濃い人間。本家の一握りは特に水との繋がりが深いから水がある場所へなら飛んでいける。もしどうしようもなく危ない時は水のある場所で俺を呼べ。
「水……」
どういう原理か分からないが、水がある場ならば十和が来てくれるかもしれない。結界を貫通できるかは賭けだが、やるしかない。すぐに行くと言った十和の言葉を信じるしかない。
楪は決意を固めて立ち上がった。目指すは庭にあった池だ。
そろりと慎重に襖を開け、廊下を確認するが妖魔の気配は遠い。音もしない。
ほっと息を吐き、廊下へ出ると外に面した障子を開けようとしたが、結界の影響を受けているのかびくともしない。こっそりと外へ出るため他の出口はないか見て回ることにし、そろりそろりと床が軋まないように注意を払いながら廊下を歩く。幸い、裏口は直ぐに見つかった。
奇妙なことに扉の中央にお札が張られている。結界を張るために護符か何かだろうか、と恐る恐る扉に触れた。その瞬間、札がパンと鋭い音を立てて爆ぜた。衝撃は少ないが、その音は静かな家屋には良く響いた。
「やばい!」
さあっと血の気が引く。
音に釣られた妖魔がどたどたと廊下をかける音が近づいて来る。
すぐに音の反対方向へ駆け出す。
裏口に貼ってあったのは、触れると音が出る呪符だ。そう言えば十和が瑠璃川は呪符の製造に長けていると話していたことを思い出して、迂闊に触れたことを悔んだ。ああいった罠が他にも仕掛けられているかもしれないが、それを考えている暇はない。
音は直ぐ後ろまで迫ってきている。振り返ると猛然と走る妖魔の姿が見え、楪は悲鳴を上げた。
このままでは玄関にたどり着く前に追いつかれてしまうと思った瞬間だった。転がる様に走る楪に向かって、妖魔が雄叫びを上げ飛躍するような大股で距離を一気に縮めた。そして、大きな爪を楪に振り下ろした。
一瞬辺りが眩い光に包まれ、ばちん、と弾かれる音と共に妖魔が吹っ飛んだ。
「なにが……」
何が起こったのか理解できなかったが、直ぐにはっとした。
「髪飾りの力……」
そっと触れると髪飾りは熱を持っている。
あの大きな妖魔を吹き飛ばすくらいの力を持っていると思っていなかったので、驚き過ぎて直ぐに動くことが出来なかったが、妖魔が呻き声を上げながら起き上がるのを見て、直ぐに駆け出した。
髪飾りの力がどこまで保つか分からない。もしかしたらもう使えないかもしれない。不安が滲みそうになった時に雪の言葉を思い出した。
――私は龍ヶ崎家の当主の妻で、彼が居ない時はここを守らなければいけない立場にある。だから強くなきゃいけない時があるの。だから頑張って虚勢を張る。強くなきゃいけないから嘘でも胸を張って前を見る。それだけで人は少しだけ強く見えるから。
――きっとこれから大変なことや辛いことがたくさんあると思うけど、泣きそうな時ほど上を向きなさい。相手に弱いと思われなければ人は強くあれるものだから。
辛い時こそ前を向き、泣きそうな時ほど上を向く。相手に弱い自分を決して見せないように。
泣き言を言っている場合ではない。泣いていても事態は好転しないのなら前を向いて虚勢を張るしかない。雪の言葉を胸に楪は目に力を入れた。
背後で立ち上がった妖魔が楪に向かってくる音が聞えて来たが、悲鳴は喉の奥で押し潰し、玄関まで走り抜けた。
音を立てて玄関扉を開くと、目の前には驚き目を見開く夢子と使用人が立っていた。
急いで外に出て扉を閉めると妖魔が扉にぶつかる衝撃が伝わって来る。どん、どんと体当たりする音がしたが、扉が開く様子はない。恐らく結界が作用しているのだろう。
間一髪だった。
「まさか、出て来るなんて」
息を整えていた楪の耳に呆然とする夢子の呟きが届いた。言ってやりたいことはたくさんあったのに、感情が喉の奥につっかえて言葉が出て来ない。殴ってやりたい気分なのに怒りも沸いてこない。
荒い息のまま顔を上げると夢子は拍手をし始めた。
「すごい褒めてあげる……ああ、でも自力ではないのね。その髪飾り、気が付かなかったけど十和さんの霊力を感じるわ。ずるね。やっぱり守られないとなにも出来ないのね」
感情の籠っていない声で言い、拍手を止めると懐から何か取りだした。
「本当に煩わしい」
夢子の手が楪に伸びる。危険を察知して腕を振り払うと使用人に体を両腕を掴まれた。使用人の顔は青白いが、ここまで来たら引き下がれないという決意が見えた。
「離してよ、この……」
掴まれている腕に衝撃が加わり、声が途中で止まる。
腕を見ると血が滴っていた。夢子が血のついた小刀を持っていることに気が付き、あれで切り裂かれたのだとわかった。分かった途端、痛みが駆け抜けた。
じくじくした痛みが腕全体に広がり、患部が熱を帯びる。
「痛い? 痛いよね。もう切られたくないのなら十和さんと別れて。貴方じゃ相応しくないから」
そう言って夢子がもう一度小刀を振おうとした。
「嫌だ!」
楪は叫ぶような声を上げ、腕を持っている使用人に体当たりすると、踏鞴を踏んだ使用人の手の力が弱まる。その隙に手を抜き、懐に手を差し入れると実技で使う予定だったよれよれの呪符を二人めがけて投げつけた。
大した力のない呪符だが、髪飾りから十和の霊力を感じ取った夢子ならばこれも十和が作ったものかもしれないと警戒するはずだ。予想通り二人は驚いたように後退すると呪符を渾身の力で弾いた。呪符は呆気なく破れ、単なる紙になって地面に落ちる。
それで十分だ。
隙をついて楪を走った。池だけを見据えて全力で走る。
「解除」
夢子の声がぽつりと落ちた。次の瞬間、弾けるような音と衝撃が楪を遅い、振り返ってみるとびくともしなかった玄関が弾け飛んでいた。そこから妖魔が飛び出した。
結界を解いたのだ。
使用人が恐怖で逃げ出すが、夢子は薄ら笑いを浮かべながら楪を見ていた。その口が動く。
「殺せ」
主の命令を聞いたのか、それとも血に反応したのか分からないが、妖魔は大きな目で楪を捉えると、地を震わせるような雄叫びを上げて楪目掛けて走って来た。
池まではまだ距離がある。早く早くと焦る楪を嘲笑う様に妖魔は跳躍し、背に追いつくとその大きな爪を振るった。
ばちん。まだ効力を持っていた髪飾りに弾かれ、妖魔が転がる。しかし、今度はすぐに起き上がった。
三度目の攻撃はもう防御できないかもしれない。
水があれば十和は来ると言ったが、結界を貫通できるかは定かではない。今から作戦変更して外へ出ることも考えたが、距離からして妖魔に追いつかれるだろう。池にかけるしかない。賭けに負ければ楪は死ぬ。
ぐっと血が出るくらい唇を噛みしめ、池を目指した。
もう背後を振り返らなかった。
つんのめりながら池に辿り付くと、池を覗き込む。
「とわ、十和、十和、お願い、十和」
名前を呼ぶと自分がちっぽけでみすぼらしい人間の様な気がした。一人でどうにか出来る人ならば良かった。十和に助けを求めなくてもいいくらい強く、隣に立っても何も言われないような人間ならば良かった。
そんな人間はきっとどこかにいて、十和の隣を切望しているかもしれない。
でも、譲りたくなどない。十和の隣に立っていたい。
夢子の言う通り、相応しい人間ではないけれど、強くなるから、頑張るから今だけは縋らせてほしい。
「助けて、十和」
背後に立った妖魔の爪が楪に振り下ろされた時――池の中から眩い光と共に大きな何かが躍り出た。
それは、大きな白銀の龍だった。
幼少期に大きな妖魔から楪を助けてくれた、あの龍だった。美しいと焦がれた姿がそこにはあった。
龍は池から飛び出すと妖魔に牙を剥き、怯えて逃げようとした妖魔の体を咥え頭を振ると妖魔はおもちゃのように簡単に飛ばされて屋敷にぶつかり地面に倒れる。その上から龍が爪を立てると、妖魔は短く叫び声を上げて消えた。
一瞬の出来事に呆然としていると、龍の目が楪を見た。
薄紫の美しい目に「あ」と声をあげる。
「十和?」
大きな目が驚いたように見開かれる。
いつもより大きな目は人であった時と変わらず宝石のように美しい。あの美しい色を忘れるはずがない。そう思い近づくと、龍は一瞬怯んだように逃げようとしたが楪が手を伸ばすと顔を近づけて来た。龍の体は大きく、顔だけでも楪の体より大きい。その大きさに夢子がひっと悲鳴を上げたが、楪は少しも恐怖を感じなかった。
目の下に触れ、硬質な鱗を撫でると十和は嬉しそうに目を蕩けさせる。
「十和、来てくれてありがとう。頼りっぱなしでごめんね」
額を付けると体温の低い十和の体に熱を吸い取られる。それが気持ち良かった。
ぎゅっと抱き着くと、十和の体はするすると小さくなり、あっという間にいつもの人間の姿に戻った。
ああ、そうか。昔助けてくれたのも十和だったのかと漸く気が付いた。
「……治癒は出来ないって言っていたのに」
「あの時はできなかった。あれから習得したんだ」
戯れるように言葉を交わしながら十和は楪の体を強い力で抱きしめた。
「無事で良かった……心配した。心臓が止まるかと思った」
「心配かけてごめん。来てくれて良かった」
「すぐに行くと約束していただろう。……俺は怖くなかっただろうか」
不安げな声を安心させたくて顔を上げると、龍の時にしたように目の下を撫でた。
「怖くなんかないよ、変わらず綺麗だった」
「そ、そうか。それなら良かった。安心だ」
少しだけ顔を赤くした十和が口を震わせる。照れている十和を見ながら楪は自分が今あまり冷静ではないことに気が付いた。アドレナリンが多量に分泌しているせいだろうか。それとも生死をかけた戦いから解放されたからだろうか。兎に角高揚していた。普通ならば十和の頬を撫でるなんてこと出来るはずもない。冷静になった時に頭を抱えそうだ、と他人事のように思った。
「と、十和さん」
二人の空間に女の悲痛な声が割り込んできた。視線を向けると夢子が焦がれる様な表情で十和を見ていた。
「あの、あの私」
「自分が何をしたのか理解しているか?」
「え?」
十和の声は今まで聞いたことないくらい低く、威圧的だ。自分に向けられているわけでもないのに背が震える。
「十和さん、怒っているのですか? でも、だって、その女は不相応にも婚約者を名乗るから……」
「黙れ」
ぴしゃんと切って捨てる様に十和が夢子の言葉を遮る。
「お前は、龍ヶ崎家の婚約者を危険に晒したんだぞ。それがどういうことかわかっているのかと聞いているんだ」
「あ、あ、あの」
「すぐに処分を下す。お前だけではなく、瑠璃川家全体に責任を取ってもらう。覚悟していろ」
夢子は泣きながら顔を抑えた。処分という言葉よりも十和の冷たい視線が堪えているようだった。
「どうして、その女だったんですか? どうして私じゃなかったの……」
「答えてやる義理はない」
十和が外に向けて払う様な仕草をすると空気が一変した。淀んでいた空気に清潔な風が入り込んでくる。結界が消えたのだ。
すると外で待機していたらしい季龍や他の龍ヶ崎家の人間が次々と入って来ると、夢子を拘束した。泣き続ける夢子は抵抗する気力が無いのか成すがままになっている。
「楪さん、大丈夫ですか」
「はい、十和が来てくれたので、なんとも」
ない、と言おうとしたが、肩を掴まれて言葉が止まった。
「怪我をしている……」
驚愕の顔をして十和が切りつけられた腕を見ていた。今まで忘れていたが、まだ血は止まっていない。
そう言えば怪我をしていたなと呑気に考えていた楪とは対照的に十和と季龍は大いに慌てた。
「治療を……今すぐ治癒が出来るものを呼べ。腕が良いものを探せ」
「その前に救急車を呼ぶべきですか? これは妖魔の傷ですか?」
「いや、そんなに深くないですし、救急車はいらないです。あと妖魔から受けた傷ではないです」
「何だと? あの女、今すぐ俺が直々に処分してやる」
「落ち着いて……顔と言動が凶悪すぎるよ」
二人を宥めていると、藤沢に所へ残してきた水の蝶がどこからか飛んできて楪の腕に止まった。すると幹部が暖かくなり傷が少しだけ癒される。
「これって治癒の力もあるのか」
「ああ、戦闘メインではあるが、治癒も可能にしてある。今回は大した役には立たなかったがな。後は俺が治そう」
混乱から回復したらしい十和に手を差し出すと、痛ましそうに血濡れの腕を撫でた。傷は数分で完全に塞がった。
「妖魔からの攻撃は髪留めが防いでくれたんだけど、夢子さんに切り付けられた時は何の反応もなかったんだよね、何でかな?」
「ああ、それは刃物に霊力が籠っていなかったからだろう。その髪留めは霊力に反応するようにしてあった。妖魔に関係する人間ならば霊力を使って攻撃して来るはずだと思い込んでいた。これも改善の余地ありだな」
血が出たせいか急激に眠くなり、ぼんやりしていると十和に手を引かれていつもの高級車に乗り込む。十和の肩に寄りかかると目を開けていられなくなった。どうにか目を開けようと格闘していると十和に目元を撫でられ、あっさり眠気に負けた。
「とわ……隣にいて」
「うん。ずっと傍にいる」
「とわ、あのさ、私――……」
伝えたいことがあるのに上手く口が回らなかったが、何とか口を動かした。それが声になっていたのか、それとも息が漏れただけだったのか楪には分からなかったが、十和は頭を撫でていた手を一瞬止めた。
「うん……今度は起きている時に教えてくれ。お休み」
優しい声を聞きながら楪は意識を手放した。
目が覚めると楪は自室の布団に寝かされていた。体が重く、頭痛に襲われて起き上がれずにいると、隣に座っていた十和が気づいて手を握った。
どうやら思っていたよりも体調が悪かったらしく、車で眠ってから半日以上起きなかったらしい。目が覚めると十和は安心した様子で笑い、雪は心配で生きた心地がしなかったと半泣きでやってきた。夕凪も伊崎も季龍も他の使用人達も顔を出すと安堵した様子で笑った。
漸く体を起すことが出来たのは、それから数時間後。夕食を食べ損ねたせいで空腹が限界だったので、雪と十和と朝食を囲いながら事件の話を聞くことになった。
十和は事情を説明し、時折楪が口を挟む。詳しい事情を知らない雪は聞き役に徹した。
学校に迎えに来た十和が異変に気が付いたのは、楪がいなくなったすぐ。蝶がぱたぱたと飛んで来たことからだった。近くにいた藤沢を捕まえ話を聞き、急いで瑠璃川家へ向かったが、瑠璃川への本家には夢子はいなかった。どうやら夢子は独断で妖魔を無人の分家の家で飼っていたらしく、本家の人間はやって来た十和から事情を聞き目を剥いていたらしい。それから夢子達の捜索を行ったが、難航した。妖魔がいる場所が特定できなかった。それは姿を眩ます呪具や高度の結界をかける呪符の効果が使われていたせいだった。
どれだけ探しても分家がどこにあるのか特定できなかった。
その後、十和の元に楪の声が届き、水を介して分家に侵入し、制圧することが出来た。
楪の予想通り藤沢は夢子に脅されていたらしい。瑠璃川家や藤沢家は強い縁を結ぶために女性に結婚を強いることがあると桃が言っていたが、藤沢の両親はどうやら恋愛結婚だったらしく娘に結婚を強要することはなく、娘自身の事を尊重し、祓い屋としての実力を評価した上で祓い屋として生きる道を示していたらしい。そんな藤沢に夢子は権力を振りかざし、楪を連れて来ないと年配の男と結婚させると脅した。藤沢が瑠璃川家に歯向かえばどうなるかわからない。藤沢は泣きながら十和に謝罪を口にしたらしい。
「藤沢美月の処罰は龍ヶ崎家に一任されている。俺の婚約者に手を出したのだから無事に返してもらえるとは思っていないだろうな。楪はどうしたい?」
静かな問いかけに楪は答えに悩んだ。
「楪が決めて良い。むかつくならそれ相応の罰を与えて良い。君にはその権利がある」
噛み砕くように言われ、楪は率直に思ったことを口にした。
「何も。藤沢さんが悪いわけじゃないから、何もしないで」
「そうか」
十和は口元にうっすら笑みを浮かべた。恐らく楪がこう答えることは分かっていたのだろう。その顔には少しも驚きが無い。
しかし、もし罰を与えて欲しいと言っても十和は叶えてくれる気がした。
「藤沢さん、私のこと逃がそうとしてくれたんだ。最近ずっと顔色が悪かったのもきっと思い悩んでいたからなんだろうな。知らない人と結婚させられる怖さは分かるよ、すごく」
楪も十和と出会ったいなかったらもしかしたら面識のない年上の男と結婚していたかもしれない。そう思うと藤沢を責める気持ちは沸いてこなかった。それに夢子は楪を脅す時に友人がいる学校に妖魔を放つと言っていた。もしかしたら藤沢も同じように脅されたのかもしれない。
「あの時、会えて良かった」
そう言ったのは十和だった。
「それは私の台詞では」
「いや。あの時会えていなかったら楪は別の人間と結婚していたかもしれないんだろう? そんなことにならなくて良かった、本当に」
「そうかなあ? 顔合わせしても嫌がられて破談になっていた可能性高いからなあ」
あはは、と笑うと十和が真顔で首を振った。
「それはないな。楪は魅力しかないから一目で気に入ったはずだ」
「みっ、魅力、しかない?」
どこらへんが。
自分の顔を思い浮かべるが、至って平凡な顔つきをしている。もしかしたら十和にはとんでもない美人に見えているのかもしれない。それか美しすぎる顔面を毎日見ているせいで美の価値観が可笑しくなっているのか。
「十和の審美眼が可笑しくて良かった……」
「おかしくない。楪は可愛い」
「か、かわ、かわいくはない。どこにでもいる顔をしているよ」
「いない。特に目が良い。すごく真っ直ぐで、綺麗な目をしている」
「ひっ、え、自己紹介? それは十和のことでしょ、真っ直ぐで、世界で一番綺麗な目をしているじゃん。宝石みたい。もしかして鏡越しで見ると色が変わるのかな? そうか、十和は自分の綺麗な目を直接見れないのか……」
「そんなに言うほど綺麗じゃない。楪は俺の事を綺麗綺麗言い過ぎだ」
「事実だから……」
十和は自分の事を褒められると途端に照れた様子で目を逸らした。
褒められるなんて日常茶飯事で慣れているはずなのに何故と首を傾げていると、あの、と控えめな声がした。声の方を向くと雪が顔を赤くしながら口を押えていた。
「いつもそんな会話しているの?」
「へ、変でしたか」
「変じゃない。可愛すぎてびっくりしちゃった」
「可愛い?」
どこにそんな要素があったのか分からず疑問を浮かべ十和と顔を見合わせると、雪はほのぼのした様子で楪と十和を見た。
「二人とも褒め合っててすごくかわいい。お互いのこと大好きなんだね」
全く意識していなかったが、確かに雪の前で十和の容姿を散々褒めていた。そして十和も楪の事を過剰に褒めていた。傍から見たらまるで迷惑なカップルの様ではないか。自覚したら恥ずかしくなり、十和からさっと目を逸らした。
雪は気にした様子もなく笑っているが、親の前でする話ではなかった、しかも婚約者と言っても偽物で、楪は未だに十和に告白も出来ていない。そもそも襲撃事件が解決した後はこの関係はどうなるのだろうか。そのまま継続するにしても、想いは伝えなければいけない。
十和は楪に対して愛情を示しているが、それがいつまで続くかわからない。
告白をしなければ。十和の想いが変わってしまう前に。
決意を固め、十和を見ると優し気に見つめられ、悲鳴を上げかけた。
楪は一日だけ学校を休み、体の不調が無くなったのを確認して翌日登校した。襲撃事件は箝口令がしかれていたので、噂の一つも回っていなかった。楪は風邪で休んでいたことになっていた。
登校すると桃がいつも通り声をかけて来たので、日常にほっと安堵の息を吐く。
まさか妖魔と対峙し、逃げ惑うことになるなんて一月前の自分は思っていなかっただろう。それ以前に一月前の自分は十和のことすら知らなかったのだ。婚約何て夢のまた夢だった。
人生何があるかわからないな、と一月前の自分と比べていた。
藤沢が話しかけて来たのは、昼休憩の時だった。固い顔をしたまま隣で立ち尽くす藤沢に楪は少しだけ笑った。
「少し、良い?」
心配そうな桃に大丈夫だと手を振り、藤沢と二人で誰も使っていない空き教室へやって来た。扉を閉めるなり、藤沢は頭を下げた。
「ごめんなさい。本当にすみませんでした」
土下座でもしそうな勢いに呆気に取られていたが、藤沢の手が震えていることに気が付き、直ぐに顔を上げさせる。一昨日ぶりに見た藤沢の顔は目が真っ赤で、顔は相変わらず白かった。もしかしたらこの間よりも顔色が悪いかもしれない。
どうしたのか問うと、藤沢は首を振った。
「夢子が何をしたのか話を聞いた。椎名が大きな怪我をして休んでるって聞いた時、ああとんでもないことしちゃったと思った。私は助けてもらったのに、私は助けてあげられなかった」
「それは、だって脅されていたんでしょ」
「そんなの理由にならない」
「なるよ」
楪の目に藤沢が妖魔と対峙していた時の凛々しさが浮かぶ。楪にとって藤沢はずっと強い人だった。その藤沢があそこまで取り乱したのだから、夢子への恐怖心を推し量るには十分だった。
「いきなり知らない人間と結婚しろって言われたら怖いよ。自分の道が塞がれそうで辛いよ。藤沢は私のこと好きじゃないし、夢子に渡すくらいいいかって思うのが普通だよ」
藤沢が驚いた顔をしたので「ごめん、十和から聞いちゃった」と頭を下げる。
気分を害したかと思ったが、そんなことはなかった。
「……私、ずっと椎名が嫌いだった。弱いくせにへらへらしてて、それなのに怖い物なんてないっていう振る舞いをするから。私はこんなに夢子さんが怖いのにどうしてこいつは弱いのに笑ってられるんだってずっと思っていた」
「へらへらしていたかな」
自覚が無かったので口が引きつる。まさかそんな理由だと思っていなかった。
「全然椎名のこと知らないのにね。勝手にこうだと決めつけて嫌ってたごめん。ごめんなさい」
「や、全然。気にしてなかったよ」
楪の言葉は嘘ではない。家でまるで居ない者のように扱われていた時期もあり、空気のように扱われるよりは嫌いだと態度で示されるのは存在を認められているようで安心していた。
そう言ったら家庭環境を心配されそうなので言わないが。
「……あ、あのさ。龍ヶ崎家からお咎めの件は椎名に直接聞けって言われたんだけどさ、あれって」
「ああ、そうだった」
藤沢へのお咎めはなし、と楪は言ったが、龍ヶ崎家としては婚約者を危険な目に合わせた人間に対して罰を与えないのは問題があった。龍ヶ崎家は婚約者に手を出しても何も言わないなどと噂が広がれば楪が危険な目に遭う可能性が格段に増す。しかも龍ヶ崎家が他の家からその程度だと思われる可能性もある。なので、表向きには何かしらの咎が必要だった。そこで藤沢家には処分は楪が直々に娘の美月に伝えると言ってあった。
「龍ヶ崎家から処罰があるのか当然。どんな罰だって受けるわ」
「そう? じゃあ、呪符の作り方を教えてくれないかな」
「……え? 呪符?」
藤沢は数回瞬いた。
「実はさ、夢子さんと戦闘になった時に呪符を使ったんだけど、全然効かなくて。自分の実力からして当たり前だと思っていたんだけど、十和が気にしてて」
瑠璃川家で夢子と使用人の投げつけた呪符の残骸を見た十和は、逢魔で三年間習っているんだよなと驚愕していた。それぐらい楪の呪符は酷い物だったらしい。見た目は完璧だが、力の籠め方が悪い。子供の方がまだましと散々な言われ方をした。十和にあそこまで言われたのは初めてだったので、余程酷いのだろうなと少し危機感を覚えた。
最初は十和に教えてもらっていたのだが、天才肌の十和は教えるのが絶望的に下手だった。その上楪には十和の予想の数倍才能が無かったので、楪の呪符は殆ど効力が無いままだ。
「藤沢さんは呪符を作るの上手だから教えて欲しいんだけど、いいかな?」
「いいけど、そんなことでいいの? もっとこう、下僕になれとか、学校来るなとかそういう命令とかはないの」
「ないよ、なにそれ。処罰ってそんなことするの?」
「いや、私も知らないけど。それくらいされても当然な事はやったと思っていたから、そんな軽くていいの?」
「軽くないよ。私本当に呪符とか作る才能ないから、色々教えて貰える方がありがたいよ」
呪符が作れるようになれば、妖魔と対峙した時に慌てることも無力を嘆くこともなくなる気がした。
「わかった。私で良ければよろしく」
そっと出された手を握る。これでこの話は全部終わりにしようと言うと藤沢は渋ったが、頷いた。
藤沢の手は思っていたよりもずっと温かく、部屋に入って来た時の緊張はなくなっていた。
「そう言えば、一個聞きたかったんだけど、どうして十和の婚約者候補を名乗っていたの?」
藤沢の両親は娘に結婚を強要していないのなら十和と結婚する必要はなかったはずだ。その疑問に藤沢はさも当然とばかりに胸を張って答えた。
「そりゃあ、あの龍ヶ崎十和と結婚できるのならしたいわよ。容姿が完璧な上に実力も祓い屋界隈でトップクラス。龍ヶ崎家との縁が出来るなんて最高。そんな男なら誰でも結婚したいと思うでしょ」
「そ、そっか」
「まあ、龍ヶ崎十和はあんたに夢中みたいだけど」
「え?」
すっかりいつもの調子に戻った藤沢に胡乱な目を向けられ、どきりとした。
「あんなに愛されているくせに、まさか気づいてないわけないよね? あんたがいないって分かった時の龍ヶ崎十和の動揺具合凄かったわ。怒鳴ったりはなかったけど、触れたら切れるような雰囲気で、すごく必死で、ああこの人本当に椎名の事好きなんだなって、思った、んだけど……自覚はあるみたいね」
楪の顔は真っ赤になっていた。
愛されているのは言動からわかっていたつもりだった。でも楪が見えている部分でしか愛情を測ることが出来ていなかった。きっとすごく心配をかけたのだろう。十和の手を思い出すと無性に会いたくなった。
それと同時に何故そんなに愛してくれるのか疑問だった。
疑問を抱えたまま、楪は十和と共に実家の前にいた。
「来ちゃった……」
「どうした? 大丈夫か?」
「だ、大丈夫」
本当は全く大丈夫ではないが、無理やり浮かべた笑みを見せた。
襲撃事件が解決し、十和の任務が忙しいこともあって今後の話し合いができないまま数日たった金曜日の夜の事だった。
龍ヶ崎家に楪の両親から連絡があった。それは、たまには家に帰って来なさい。皆寂しくしています。顔を見せて欲しい。という内容だったが、受け取った楪は勿論、雪や夕凪、他の使用人も信用していなかった。
行かない方が良いと言ったのは雪だった。母親と玄関越しに対峙して動揺する楪の事を間近で見ていた人間は皆反対した。何をされるか分からないとまで言われた。その一方で、楪の判断を仰いだのは十和だった。
会いたいなら行けばいい。会いたくないなら行かなくていい。誰も咎めない。そう言ってもらい、楪は逡巡した後に答を出した。
けじめをつけよう。騙し討ちのように家を出たから、最後の挨拶をしようとそう決めた。
「わかった。俺もついて行く」と言う十和の任務がない日曜の昼間に実家までやってきたのだが、家が目に付いた途端胃が重くなった。ずっと自分が暮らしていた家なのに見るのすら嫌だった。
嫌悪感に吐きそうになりながらインターホンを押すと、すぐに母親が顔を出した。十和が一緒に来ることを事前に知らせていたこともあり、その顔に驚きはない。それどころか楪に対しての嫌悪感もなくて驚いた。
「良く帰って来たわね。十和さんもいらっしゃい。どうぞ入って」
先に家の中に入った母親の背を見ながら楪は隣に立つ十和の袖を握った。
「楪?」
「どうしよう、こわい」
悪意が感じられないのが怖い。母親の顔は悪いものが表に出ないように塗り固めた能面の様だった。それは嫌悪感を向けられるよりもずっと恐ろしい。
「帰ろう」
手を握った十和が躊躇いなく引き帰ろうとするので、慌てて止める。
「ごめん、嘘。大丈夫。大丈夫だから」
「楪の意思を尊重するが、嫌なら会わなくていい。怖いことなら逃げた方が良い」
このまま十和の手を握って逃げてもきっと誰も咎めない。よく頑張ったね、怖かったねと言って慰められるかもしれない。でも、それでは自分が納得出来なかった。
楪は大きく息を吐くと気合を入れて、十和に笑いかけた。
「ごめん、もう大丈夫。行こう」
ついて来ない楪達を呼ぶ母親の声に言葉を返しながら中に入った。
通された客間には既に父親の姿があり、目が合うと体が否応なしに体が強張った。姫花も部屋にいたのだが、その表情はどこか暗く、楪と目が合うと小さく首を振った。
何か恐ろしいことがある。予想していた通りただ顔が見たいだけではないらしい。
「おかえり。十和さんはいらっしゃいませ。今日はわざわざお越し下さりありがとうございます」
「招かれていないのに押しかけて申し訳ない。楪が心配だったもので」
「いえいえ、来ていただけて嬉しいですよ。十和さんにも話があったので」
「話?」
楪と十和が正面に腰を下すと、父親がこれまで見たことが無い笑みを浮かべた。
「何かの手違いで、そちらが嫁いでしまったようなのですが、本来龍ヶ崎家に嫁ぐべきなのは娘の姫花です。今日は姫花を紹介しようと思いまして」
「何を言っている?」
十和の声が低く剣呑さを帯びたが、両親は気づいていないようだった。
「どうやって取り入ったのかは分かりませんが、その子には何の力もなくて、十和さんの役に立つとは思えません。それに顔も、十和さんの隣に立つには恥ずかしいでしょう」
「恥ずかしい?」
「はい。婚約者などと厚かましく名乗っていますが、それの背中には――」
がん、と鈍い音が部屋に響いた。
隣を見ると十和が拳をテーブルに打ち付けていた。俯いていた十和の視線が持ち上がると、怒りで燃える目が両親を射抜く。
「話はそれだけか? ぺらぺらと良くもまあくだらないことを言ったものだ。楪の両親だからと大目に見ていたが、これ以上楪を貶めるようならそれ相応の罰を受けて貰う」
そう言い捨てると楪の手を取って立ち上がろうとした。
突然帰ろうとし始めた十和に混乱した母親が声を張り上げた。
「待ってください。十和さん。それは駄目です。その子は、傷物なんですよ」
母親の言葉に楪の体がぎくりと強張った。
思わず開いている手で額の傷を抑えると、蒼白になった楪の顔を見て母親が嗤った。やはり傷の事は言っていないんだな、と嘲るような笑みに呼吸が止まる。楪は額の傷も背中の傷も十和に言っていない。告白することにばかり気を取られていて忘れていた。
「額と背中に傷があるんですよ。女の傷は致命的でしょう。さあ、もうそれとの婚約は止めて」
「それがどうした?」
「え?」
「傷があるからなんだと言うんだ。傷如きで楪の魅力が損なわれるわけがないだろう」
帰ろうと十和は言ったが、楪はその場から動かなかった。
「楪?」
現金なもので不安が消えると人は強くなれる。十和が傷如きと言うならば、楪もそうして笑い飛ばしたかった。
しんどい時こそ胸を張る。心の中で呟き正座をしたまま両親に向き直った。
「お父さん、お母さん。二人の期待に答えられず、姫花を危険に晒してしまいすみませんでした。私は自分の行きたい場所で生きます。もうここへ帰って来ません。今まで育ててくださりありがとうございました」
心地いい場所ではなかったが、育てられたのは事実だ。謝罪と感謝を口にして、いらない物は置いて行く。もうここへは帰って来ない。
その言葉は楪なりのけじめだった。
一息で言い切ると、二人の顔を見ずに立ち上がり十和と共に外へ出る。背後から両親が追ってくることはなかった。
家を出てすぐに、追って来た姫花に呼び止められて足を止める。
「ゆずちゃん……」
姫花は何か言おうとして口を開け、また閉じ、ぐっと噛みしめるような仕草をした後に笑った。
「幸せになって」
目を潤ませる姫花を堪らず抱きしめると、背に小さな腕が回る。
「ごめん、ごめんね、姫花」
「何で謝るの。謝るのは私のほうなのに。ずっとゆずちゃんに甘えて、お父さんたちから守ってあげられなかったのに」
一人だけ地獄から解放されるような気分だった。実家は思っていたよりもずっと息苦しく、呼吸もままならない。そこへ姫花を置いて行くのが忍びなかった。しかし、姫花は首を振った。
「私はここでも大丈夫。ゆずちゃんがいないのは寂しいけど、学校で会えるもんね」
ぎゅっと抱きしめた後、二人は離れた。いつ両親が家から出て来るか分からない。ずっとここへはいられなかった。
「龍ヶ崎十和さん。ゆずちゃんのことよろしくお願いします」
姫花が頭を下げると、十和は真剣な表情で頷いた。
「必ず幸せにする」
迎えの車はここから離れた所に呼び、そこまで歩くことにした。
隣に立つ十和の手が楪の手をしっかりと握っている。冷たい大きな手に握られると守られているようで安心した。
「ごめん」
「なんで楪が謝るんだ」
「不快な思いをさせたから。何となく、こうなるとは思っていたんだ。期待していなかったというか」
母親が扉を開け、楪達を招き入れたときに母親は楪の名前を呼ばなかった。その時に両親の思惑は分かっていた。しかし帰らなかったのはきちんと終わりにしたかったからだ。両親に対する蟠りを家に置いて行きたかった。
「問題ない。腹は立つがな」
ふんと鼻を鳴らした十和は、腹が立つと言いながら怒っている様子はなかった。
「傷、本当に気にしない?」
「しない。けど」
「けど?」
不意に十和が足を止めた。
「楪は傷の事で色々言われていたのか? だったら治癒が使えなかった昔の俺に腹が立つ」
「十和のせいじゃないよ。私が自分で治せたら良かったんだよ」
「いや、昔は治癒何てできなくても問題ないと修行をしていなかったんだ。修行をしていれば、治せた」
拗ねた様な顔に口元が緩んだ。
「あの時、助けてくれてありがとう。命の恩人なのに気付くのが遅くなってごめん」
「あんなことがあったんだ。覚えていなくても仕方がない。それに暗がりだったからお互いに顔が良く見えていなかっただろう」
「そうだけど、十和は気づいていたんでしょ」
「まあな。俺は人よりも目が良いからな。楪だって龍の姿の俺を見て気付いたんだろう?」
「そうだね。忘れられないよ」
「それなら良い」
十和が上機嫌で歩き出した。
向けられた笑顔にきゅっと胸が疼いた。
先を行く背中にずっと胸につかえていた言葉を吐き出した。
「私、まだ十和の婚約者でいて良い?」
十和が足を止め、驚いた様子で振り返る。
「あ、いや、違う。こんなこと言いたかったんじゃなくて」
「楪」
そっと手を引かれ、十和との距離が近づく。見上げた先にいた十和は焦がれるような顔で楪を見ていた。
甘く名前を呼ばれると、言おうとしていた言葉が喉奥に引っ掛かって上手く出て来ない。
「は、はわ……」
十和の手が頬を撫でる。
近い、近すぎる。そう思うのに抵抗することが出来なかった。
「楪、俺は――」
「十和様」
突如入り込んできた声が二人の十和を動きを止めた。
ちらりと視線を向けると、いつの間にか隣に止まっていた高級車の運転席から季龍が顔を覗かせていた。
「公共の場ですから、慎んでください」
「は、はい。すみません」
自分達の事で夢中になりすぎて周りが見えなくなってしまっていた。幸い、人がいなかったが、公共の場ですることではなかった。
慌てて十和から離れ、赤くなった顔を抑えたまま車に乗り込んだ。
家に着くまで口を聞けなかった。
挨拶もそこそこに、ずかずかと部屋に入り込んできた十和は楪の正面に正座をした。
「じゃあ、続きを」
「え」
「こんなことを言いたいんじゃなくて、の続きが聞きたい」
外では何だか頭がぼんやりしていたので、つい口走りそうになったが改めて聞かれると羞恥が押し寄せて来た。
じっと楪の言葉を待っている十和に覚悟を決める。
ごくりと生唾を飲み込み、拳を握り、十和の目を見つめながら口を開いた。
「あのね、私、十和が好き。だからこれからも婚約者として隣に居させてほしい」
言った。
ついに言ってしまった。
どこどこと忙しく鳴る心音を聞きながら十和の動向を注視していると、十和はふっと柔らかく笑みを浮かべた。
「俺も楪が好き。ずっと傍にいてほしい」
「十和は、私のどこが好きなの? いつ好きになってくれたの」
この際だから聞いておきたかった。
「昔、楪が泣いたから。血塗れでぼろぼろのまま泣いていたのに、強くなろうとする目だな。月あかりに照らされた楪の事をずっと忘れらなかった。くじけることない強い目が印象的だったんだ」
「泣いたのに強いの?」
「泣くことは悪いことではない。楪は妹を守りながら立ち向かっただろう。勇気ある人間が安堵と不安で涙を流すのを笑う人間はいないだろう。あの日からずっと楪の事を忘れられなかった。だから学園で再会した時に治癒の能力関係なく絶対に一緒にいたいと思っていた。一緒に過ごすうちにさらに楪を好きになったよ。可愛くてたまらなくて」
十和の目があまりにも甘いので、見ていると頭がおかしくなりそうでさっと目を逸らした。
すると、十和の手が徐に楪の方へ伸び、頬を滑って前髪に触れた。優しくかき分けられ、白い傷跡が露出する。十和はその傷を撫で、それから顔を近づけて唇を寄せた。
ちゅ、と小さく音がなり、傷跡にキスをされた。
恥ずかしさよりもずっと満たされ、目を閉じると涙が滲む。
傷痕があると結婚できない。誰も愛してくれないと言われていた自分が漸く救われたような気がする。
「私、雪さんには契約だったことを話しておきたい」
結果的には嘘にならなかったが、騙していたことには変わりない。雪にはどうしても嘘を吐いて居たくなかったので打ち明けたいと言うと、十和は。
「ああ、それなら問題ない。母さんは全部知っていたぞ」
と言った。
「……え? 全部って」
「俺がずっと楪の事を好きだったのも、最初は契約だったのも。因みに家の人間は全員知っている」
「な、何で? それで皆納得したの?」
「納得させたんだ。絶対に落として結婚するから安心して構えていろと言っておいたんだ」
「そんな……私結構悩んだのに。告白も勇気を振り絞ってしたんだけど」
「ああ、それも」
十和が何かを言おうとしたが、直ぐに口を閉じた。
「なに?」
「いや、楪は覚えていない様だが、瑠璃川家から帰る時に車の中で俺に好きだと言っていたぞ」
瑠璃川家、車。と聞き思い出したのは、眠る寸前に呟いた言葉だった。
――私、十和が好きだよ。
「わあああ」
てっきり言葉にならなかったと思っていたのにしっかり口にしていたらしい。
散々悩んだ自分が馬鹿みたいで、思わず顔を覆った。
「もっと早く言ってくれれば」
「楪から言って欲しかったんだから仕方ないだろう。両思いだとは分かっていたからな、気長に待つつもりだった」
「私は十和の掌の上だったのか」
両想いなのは嬉しいが、何だかやりきれない。楪が少しだけむっとすると十和は苦笑を溢した。
「俺だって必死だったんだぞ。どうしても楪と生きていきたかったから」
「恋愛結婚しかしないって言っていたらしいけど」
「楪以外と結婚する気はなかった。どうして好きでもない相手と結婚なんかしないといけないんだ」
「昔から、ずっと好きでいてくれたの?」
十和はふっと目元を和らげて笑った。
「俺は一途なんだ」
一途過ぎる思いに驚くよりも感動を覚えた。
それと同時に十和に見合う様な思いを返し、隣に立っても恥ずかしくない人間になりたいと思った。
「まずは、呪符かな……がんばろ」
「何の話だ? 努力するのなら、まず俺の事を癒してくれ」
はい、と差し出された冷たい手を握り、美しい紫色の目を見つめながら楪は全力で癒しを与えた。
これからもずっと隣で笑っていられますように、と願いを込めて。