どうして、と女は暗い部屋で呟いた。
 月明かりに照らされている鏡を覗き込むと、美しい顔が映って居る。そのことに安堵すると同時に十和の隣に座っていた女の顔を思い出して怒りで可笑しくなりそうだった。
 私の方が何倍も可愛いのに。可愛くて、力もあって――なのに。選ばれなかった。
 あんな無能が選ばれて、私が選ばれないのはおかしい。何かの間違いだ。もしかしたら十和は騙され、脅されているのかもしれない女は思った。
 怒りに思考を乗っ取られたまま口角を無理矢理上げる。

 椎名楪を十和から引き離す。
「十和に相応しいのは私だから」
 女は美しい顔を撫でながらぎらついた目で鏡を見据えた。

 不穏な影が、楪に迫っていた。


「その隈、酷くなってない?」
 桃が心配そうにのぞき込んで来るのに苦笑を返して誤魔化す。
 昨夜、十和は夕凪が風呂の準備が出来たと知らせに来るまで楪を離さなかった。
 流石に長い時間抱きしめられていたら慣れるかと思ったが、十和が耳元で喋るせいでずっと緊張しっぱなしだった。しかし、十和の匂いと体温に落ち着く効能でもあるのか、緊張しているのに落ち着くという奇妙な状態になっていた。
 漸く離れ、風呂に入って落ち着くかと思ったが、部屋に帰るとお休みを言いに来た十和が頬にキスをしたせいで、治まっていた心臓が再び活気付いていた。
 そのせいで眠気が来ず、抱きしめられたことや、自信の感情を自問自答していたせいで全く眠れずに朝を迎えた。
 朝、隈を作った楪の顔を見た十和が優しく笑って体を癒してくれたので、体調は悪くないが、酷く眠いし隈が治らなかったせいで、顔色も悪い。
「ちょっと寝不足なだけだから大丈夫。体調は良いよ」
「それならいいけどさ、新しい環境でストレスとか溜まってない?」
「それは大丈夫。皆いい人だから」
 龍ヶ崎家の人は皆楪に優しく。寧ろ実家にいた時の方が人間関係のストレスを感じていた。出来るだけ両親の目に触れないように生きていた楪にとって、今の環境は過ごしやすい。食事も美味しく、文句の付け所がない。
「旦那は家にいるの?」
「だ、旦那?」
「まだ結婚してないんだっけ?」
「してないよ。婚約者ってだけで」
 十和の話題になると直ぐにかっと顔が赤くなった。その顔を見て桃が「へえ」と新しい玩具を見つけた子供みたいな顔をして笑う。
「面白い話ないの」
「ない。全くない」
「婚約者とは同じ部屋で寝てる? 忙しいだろうから夜はいないとか?」
「違う部屋だし、夜任務に行くけど帰って来るよ」
「へえ、そうなんだ。……どこまでいってんの?」
 無言で桃の頭に手刀を落とした。桃は頭を抑えて文句を言っていたが、どう考えても桃が悪い。
 教室内でクラスメイトがいる中でする話ではないだろう。
 朝礼前の教室には既に全員揃っている。
 全員ではないが、周りにいる生徒達が聞き耳を立てていることには気づいていた。本当は十和の話題にも触れたくなかったのだが、桃曰く堂々としていた方が変に絡まれることもないらしいので、言える範囲の事は答えて行く。
 しかし、気になるのは藤沢の事だった。
 ちらりと見た先にいる藤沢は椅子に腰かけ、じっと机を見つめている。その顔は昨日よりも青白く今にも倒れてしまいそうだ。周りで友人達が背中を撫でたりしているが、それに答える様子もない。
「藤沢のこと?」
 桃が顔を寄せて来た。他に聞こえない声量の質問に頷き返す。
「体調悪そうだから」
「家の連中に何か言われたんじゃないかな。藤沢の家って、噂によるとかなり古風な考え方を持っているらしいから」
「古風?」
 桃がそよ風くらいの声量で話す。
「女は強い祓い屋にならず力を持った家の男と結婚し、強い力の子供を産むのが仕事とか、それが幸せだとか。兎に角子供を産んで家との縁を作るのを強要されるらしい」
「祓い屋にならない? あんなに強いのに」
「どれだけ強くても関係ないよ。女に生まれた瞬間に祓い屋の道は閉ざされるらしい。藤沢系列の家はそういう家なんだって。割と有名な話だよ」
「だから十和と結婚したかったのか……」
 藤沢系列の家ということは、夢子の家もそうかもしれない。
 夢子は十和に好意を持っているので、家の事は関係なさそうだ。
「龍ヶ崎って言ったら超名家だからね。誰にも文句は言えないよ。大した実力もない家が名門と言われている所以はそんなものだよ。別に珍しいことじゃない。楪が気にすることじゃない」
 龍ヶ崎家との縁が出来れば藤沢家は安泰だ。かつて力を持っていた家が、時代と共に力が衰えて衰退していくのは珍しい話ではない。楪の家もそうだった。両親が姫花と十和を結婚させようとしたのも同じ理由だ。ただ藤沢家は椎名家とは比べ物にならないくらい昔から貪欲に名家との縁を結ぼうとしていただけのこと。
 よくある話だ。そう思うのに引っ掛かるのは、楪が全く知らない男と結婚させられそうになっていたからだろうか。
 龍ヶ崎との縁が無くなった今、藤沢家はどうするのだろうか。
 龍ヶ崎家は祓い屋界隈で右に出る者は殆どいない。龍ヶ崎家との縁が築けなかったとなった時、藤沢家は娘に何を求めるのだろうか。
 ふと、藤沢が顔を上げて楪を見た。
 酷く疲れた顔をしている。その目は焦りと絶望で揺れていた。

 実技の授業は好きではないが、これまで休まずに真面目に受けて来た。しかし今日は妖魔と戦うクラスメイトを見ながら校庭の隅でちまちまと草を毟っている。
 楪は授業に出ようと思っていたのだが、実技担当の教師が難色を示した。
 曰く、龍ヶ崎の婚約者に怪我をさせるわけにはいかないから、らしい。
 万が一楪が怪我を負った場合の責任が取れないからと見学を言い渡された。
 逢魔学園の教師は現役の祓い屋が殆どなので、龍ヶ崎家を敵に回すのが怖いのだろう。だから仕方なく楪は校庭の隅に移動した。
「婚約している間はずっと特別扱いかな」
 ぽつりと呟くと透明の蝶が肯定するように周りとふわふわと漂う。指に乗せて可愛がると指先が冷たくなった。龍ヶ崎家は水と縁が深いと言っていたので、この蝶も水から作り出した式神なのだろう。羽ばたくと羽が水面のように揺らめき、光を綺麗に反射する。
 蝶はふわふわと飛び、楪の髪留めに止まった。
「あ、そう言えばこれがあったね。これって弱い妖魔にも反応するのかな」
 十和から貰った髪留めは何かあった時に楪を守ってくれるらしい。
 弱い妖魔からの攻撃にも反応するのなら実技の最中に発動していたかもしれない。そう思うと見学になったのは良かった。
 後で十和に確認しなくては、と顔を上げた時、丁度藤沢の番が回って来ていた。二足歩行の妖魔と相対した藤沢の表情に怯えや恐れはない。ただじっと妖魔を見つめ、教師の合図を待っている。
「はじめ!」
 教師の声が響き、藤沢が懐に入れていたお札を素早く取りだすと何事か唱えて妖魔に投げつけた。藤沢が作った札は強力で、ぶつけられた妖魔は悲鳴を上げる事無く消えた。一連の洗練された動作で藤沢の実力がかなり高いことは誰の目には明らかだ。
「流石だな」
 教師もクラスメイト達も皆、藤沢を褒める。それに笑って答えていたが、人がいなくなると藤沢は浮かない顔をした。
 どれだけ他人から実力を褒められても意味が無いのかもしれないと思った。他人では藤沢の未来をどうにかすることが出来ない。藤沢家の決まりを変えられる人間に認めて貰わないといけない。しかし、これだけ実力があっても認められないのに他に打つ手はあるのだろうか。
「どうしたの」
 気が付くと唸り声を上げて頭を抱えていた楪に桃が不思議そうな顔をしながら近寄って来た。
「えっと、ちょっと考え事」
「ふーん、まあいいけど、あんまり考え込まないようにね、禿げるよ」
「うん、わかった」
 桃の腕にかすり傷が出来ていることに気が付いた。
 患部に手を当てて撫でると、傷は直ぐに無くなった。
「あれ、傷があった? 気づかなかったわ、ありがとね」
「ん、かすり傷だったからね。こんなのならすぐに治せるよ」
 ふふんと得意げに笑うと、桃は微妙な顔をした。
「どうしたの?」
「いや……治癒はかなり重宝される特異な能力なのに何で評価されないのかな、と思って」
「使える人がいないわけじゃないからね。それに妖魔と戦えない奴って印象がどうしても強くなるから仕方ないよ」
「楪の旦那は認めてくれているの?」
 旦那じゃないと突っ込みながら、昨夜夢子の傷を前にした時の事を思い出す。十和は夢子の傷を見て他の誰でもなく楪を呼んだ。夢子の使用人達が抗議の声を上げても無視して楪を信じてくれた。
「認めてくれているよ」
 両親に認められなかった能力を十和は優しく救い上げてくれる。それが嬉しくてたまらなかった。
 自然と微笑みを浮かべた楪に桃は手を口に当て、驚いた様子で目を見開いた。
「あら、あらあら、とうとう楪に春が来たのね。訳ありっぽいから心配していたけど、杞憂だったみたいね」
「え、なんの話」
「好きなんでしょ、龍ヶ崎十和のこと」
 声にならない悲鳴を上げ、楪は立ち上がった。
「な、なんで、え、そんな話してた今?」
「してた、してた。ていうか、もしかして無自覚? まさか向こうも無自覚とか」
 いや、と反射的に否定しようとして慌てて口を閉じたが、遅かった。
 桃は口角を上げて、にたにたと笑っていた。
「へえ、なるほどね。向こうから告白済みか。それで、返事はしていないの? さっさと返事して付き合いなさいよ、ってもう婚約しているのか」
「返事って、だってまだ好きかどうか……」
「本気で言ってるの? そんな顔をしておいて?」
「そんな顔ってどんな顔」
「龍ヶ崎十和の事が好きで好きでたまりませんって顔」
 そんな顔をしていない、と否定したいのに頭が沸騰していて、言葉にならなかった。
「そんな顔をしておいて好きじゃないは通用しないわ」
 桃の言う通りかもしれない。
 十和に対する楪の想いは親愛の枠組みから外れ始めていることは自覚している。好きかと聞かれれば、答えは直ぐに出る。
「好き、なんだろうなあ」
「何だ自覚しているんじゃない」
「十和と一緒に過ごしていたら皆好きになると思うよ」
「惚気の糖分が濃いわ……」
 惚気などではなく事実だ。十和に好きだと全身で伝えられて落ちない人間はいないだろう。それに十和は楪を尊重してくれた。それだけで好きになる理由は十分だ。そう言うと、また惚気だ何だと言われるので言わない。
 赤くなりそうな顔を膝の間に埋めて隠した。
 だから、周囲の異変に気が付くのが遅れた。
「きゃああああ」
 悲鳴とざわめきを耳が拾い顔を上げると、生徒達が騒然としていた。
「なに?」
「わからない、何かあったみたいね」
 近づいてみると生徒達は何かを囲う様に立っていた。口々に心配げに声をかけている。断片的に「傷が」や「血が」と聞こえて来たので、誰かが怪我をしたのだろう。妖魔との実技で怪我をするのは珍しくない。このざわめきは異常だった。
「何かあったの?」
 近くにいた生徒に声をかけながら、生徒達の中心へと視線をやる。
「藤沢さんが妖魔の爪で怪我をしたらしいの」
 女子生徒が教えてくれた時、丁度視界に座り込む藤沢の姿を捉えた。妖魔は近くにいないので祓い終わっているらしい。
 教師が藤沢の腕を抑えて何事か呟いているので、治療を施しているように見えるが、藤沢の手からは絶え間なく血が流れ続けている。どうやら切った所が悪かったらしい。
 流れ続ける血を見て顔を青くした生徒が「救急車呼んだ方が良くない?」と言い始め、周りの生徒達も不安そうに顔を見合わせる。しかし、教師はその声が聞こえていないのか、治癒を続ける。
「血が止まってない」
「楪、治せないの? あの教師じゃ無理みたい」
 生徒達の不安げな声に教師が顔を引きつらせながら「大丈夫だからな、先生が治してやるからな」と大声を上げるが、一向に血は止まらない。
 藤沢の顔は青白く、教師の言葉に小さく頷く目は不安でいっぱいだった。
「ちょっと通して」
 楪は生徒達の間を縫って行き、何とか藤沢の隣に立つ。
「何だ椎名か。傷が深いからお前はあっちへ行っていろ」
「先生、ちょっと退いて」
 退く気配が無いので、ため息を吐いて教師の体を押して藤沢から手を離させる。
「何するんだ、手を離したら出血が」
「良いから退いてって」
 もう既に出血が酷い。傷が深く、腕がぱっくりと割れていた。昨日の夢子の傷よりも見た目は酷いが、治せない傷ではない。
 楪の物言いに憤り始め、大きく口を開けた教師に楪は一言。
「十和に言いつけますよ」
 と言うと直ぐに黙った。
 虎の威を借る狐のようで嫌だったが、耳元で騒がれると集中できないので仕方がない。
 周りの生徒は余程不安なのか、いつもならくってかかって来る藤沢の友人達も震えながら楪を見ていた。
「あんたになんか、治せないよ」
 藤沢の声は震えている。出血の多さと傷口がグロテスクなせいだろうな、と思いながら楪は藤沢の傷口を手で覆う。
 呼吸を意図して深くすると手が暖かくなり、花の形になった光が藤沢の傷口に伸び、するすると撫でていく。周りが固唾を飲んで見守る中、治癒は一分もかからずに終わった。
 温もりと光が消え、藤沢の腕から手を離すと、そこにはもう傷はない。傷跡もなく綺麗に消えたことにほっと息を吐く。
「出血が多かったから一応病院行った方が良いかも」
 そう言って顔を上げ、やけに周りが静かなことに気が付いた。
「え、なに」
「な、何で治せるの?」
 藤沢が目を見開きながら傷の治った手を見た。
「いつも治しているでしょ」
「それは小さい傷でしょ! こんな大きな傷治せるなんて聞いてない」
「大きい傷を作る機会なんて早々ないから」
 実技の授業で生徒達を治すことはあったので何故驚かれているのか分からなかったが、どうやら小さな傷しか治せないと思われていたらしい。
 ちらりと隣を窺うと教師も目と口を大きく開いて驚愕していた。そんなに驚くことだろうか。楪にとっては普通の事だったので、周りの反応に戸惑う。
「美月、良かった」
 生徒の一人が藤沢に泣きながら抱き着くと戸惑いの空気が飛散して、傷が治った安堵に変わる。
「ありがとう、ありがとう椎名」
 良かった、ありがとう、と口々に言う生徒達の声に答えながら桃の元に戻ると、ハイタッチを求められた。
 ぱちん、と手を合わせると、何故か桃は楪以上に得意げな顔をしている。
「どうしたの」
「いやあ、今まで落ちこぼれだとか能無しとか馬鹿にしていた奴らが手の平返してんの見てるの気分が良いわ」
「小さい傷しか治せないと思っていたらしいよ」
「まあ、基本的に治癒って疲労回復とか小さい傷を治す程度だからね。プロの祓い屋の中には大きい傷を治す人もいるけど、数は少ないから普通は治せるとは思わないか」
「そうなの? 知らなかった」
 疲労回復などが主だとは知っていたが、傷の大きさで治せないものがあるとは知らなかった。だから十和は夢子の傷を治せなかったのかと納得した。
 治癒できて凄いという空気が漂っているが、自己治癒ができないという決定的な欠点があり、妖魔も祓えないので。落ちこぼれているのは変わりない気がした。
「まあ、何にせよ治って良かったよ」
 ふと藤沢と目があった。その目は何故かまだ不安に揺れていた。

 藤沢は立ちくらみや体の不調がないからと病院には学校帰りに行くことになったらしい。一応保健室にいる治癒が出来る先生に見せた所問題ないという判断がくだったようだ。
 実技の後は一教科だけあり、怪我の一件でクラス中がどこか浮ついていて誰も集中していないようだ。それは楪例外ではない。と言っても怪我のことで集中できないのではない。
 桃と校庭で話をしたことがきっかけで自覚した恋心に頭を抱えていた。
 自覚したからと言って十和に伝える勇気は無い。というか、十和と楪の関係は、表面上婚約者ということもあり、付き合ってくださいと告白するのはおかしな気がしてならない。
 桃にそれとなく話すと好きだと伝えるだけで良いと言われたが、十和に見つめられながら思いを伝えられる気がしなかった。自覚する前から至近距離で見つめられるとどぎまぎしてしまうのに自覚してから目を見て話せるかすら分からない。
 はあ、と吐き出した息はどこか浮ついている。
 想いを自覚したせいか浮かれている自分を自覚し、頭を振って考えを打ち消す。
 告白よりも先に片付けなければいけないことがある。襲撃事件の事だ。いつ襲われるか分からない状況で浮かれてばかりはいられない。
 十和から貰ったピンや式神がいるから大丈夫だとは思うが、安心はできない。
 一日の授業が全て終わり、ホームルームが終わると同時に立ち上がり桃に声をかけて急いで教室を出た。教室の窓から校門前に龍ヶ崎家の高級車が止まっているのは確認済みだ。
 靴を履いて、外へ出ようとした時。
 ぐいっと腕を引かれた。
 襲撃者の文字が頭に浮び、咄嗟に手を振り払おうとしたが、背後に立つ人物を見て動きを止めた。
「藤沢さん?」
「ちょっと来て」
 ぎゅっと顔を顰めた藤沢に手を引かれ校舎を出ると、裏門の前に連れて行かれた。
「何の用時? 私、帰らないと」
 裏門は教師が利用するがこの時間には人気がなく、喧騒からも遠い。どれだけ叫んでも声が届かない想像にかられて、打ち消す様に口を開く。
 すると、藤沢は顔色を悪くしながら口を開いた。
「あの、さ、何で傷を治したの?」
「え?」
「私、いつも酷いことがばかり言ってるし、優しくなんてしたことないのに、何で? 普通いい気味だって思わない? 放っておいてやろうって思わなかったの?」
 藤沢の言葉が一瞬理解できず、瞬きを繰り返しながらゆっくり咀嚼する。
「ええっと、別に思わなかったな、そんなこと考えもしなかった」
「なんで?」
「何でって……うーん。別に治すのに理由なんてないよ。治せると思ったから治しただけ。藤沢さんでも別の人でも変わらないよ。痛そうだったから治しただけだよ」
 藤沢は口を震わせて眉をぐっと寄せた。怒っているのかと思ったが、目が潤んでいるので泣きそうなのだと気が付く。
 どうして泣くのか分からず、肩に触れようとした時、藤沢が切羽詰った様子で言った。
「あ、あの私、ごめん、本当にごめん、行こう、行かなきゃ。やっぱりこんなことしちゃ駄目だった」
「え、なに、藤沢さ」
 藤沢の手に引っ張られ、元来た道を戻ろうとした時だった。
 鈴のような声がその場に落ちた。
「どこへ行くの? 美月」
 刺すような声だと思った。
 聞いた瞬間、ぞわりと肌が粟立つ。
 しかりつけるような可愛らしいものではなく、声だけで人を従わせることが出来る声だった。その声に名前を呼ばれた藤沢はひっと悲鳴を上げて泣きながら振り返る。楪も緊張で固まりそうな顔をゆっくりと動かして藤沢の視線を追った。
 裏門の前に女が立っていた。
「夢子さん」
「はい、こんにちは、楪さん」
 その声は優し気なのに纏う雰囲気は突き刺す様で、恐怖を感じる。
 いつもと違う様子に蝶が警戒するように楪の前に躍り出る。
「どうしてここに」
「私、楪さんにお話があって来たんですよ。一緒に来てくれます?」
「あの、すみませんが、迎えの車を待たせているので」
 一刻も早く逃げたくて足を引くと、夢子は逆に距離を詰めて来る。
 楪の手を握る藤沢の手が驚くほど体温を失い震えている。その手を握り返して体温を分け与えながら後退していくと、夢子が小首を傾げた。
「駄目ですよ。お迎えの車は置いて行きましょう。私とお話ししないといけませんから」
「いえ、あの帰らないといけないので」
「帰る? どこへ。まさか不相応にも十和さんの元へ?」
 低くなった声にぎくりと体を震わせると、夢子は笑みを深めた。
「私の言うこと聞かないと、ここに妖魔を放ちますよ。まだお友達は学校の中ですか? 来てくれないとお友達から殺します」
 ひっと悲鳴が漏れそうになった。
 夢子の目を見れば、それが本気だと直ぐに分かる。はったりではない。夢子と一緒に行かなければ桃が死ぬ。
「椎名、ごめん、ごめん」
 背後で藤沢が泣いている。藤沢家は瑠璃川家の分家だ。恐らく楪をここに連れて来るように脅されたのだろう。だからと言っても藤沢を責める気にはなれない。上の人間に脅されたのならしょうがない。
 ふっと息を吐き、最後にぎゅっと藤沢の手を握ってから離した。
「一緒に行きます」
 声や手が震えないように意識しながら声を出すと、夢子がにっこりと笑みを深くする。
「そう。良かった。あ、その式神は置いておいてね。まあ私の車には結界が張ってあるから入れないでしょうけど」
「一緒に行けば皆に手を出さないんですよね」
「うん、来てくれさえすれば後は関係ないから」
 裏門に止めてある瑠璃川家の車の後部座席に乗り込む。蝶が楪を追って中に入ろうとしてくるが、見えない壁に阻まれ入って来られなかった。本当に車に結界が張ってあるらしい。健気に結界にぶつかる蝶に止めるよう手で制して、呆然としている藤沢と一緒にいる様に指示を出す。すると蝶は少しだけ躊躇いを見せた後に言う通りに藤沢の方へ飛んで行った。
 夢子が機嫌良さげに助手席に乗り込むと音もなく車が発進した。
「スマホ出して、連絡手段はこれだけよね。駄目よ、助けなんか呼んじゃ」
 素直に従いスマホを出すと、丁度画面に十和からの連絡の通知が表示された。
『校門の前で待ってる。今日は一緒に夕食をとれそうだ』
 校門の前にいた車には十和もいたらしい。その一文を目にして、楪は涙腺が緩むのを感じ、顔に力を入れた。
 そして夢子はその一文を冷たい目で見降ろしていた。
 バキ、と音がして画面にひびが入った。
「あら、ごめんなさい。割っちゃった」
 悪びれるようすのない夢子は、ふふっと声を出して笑うと歌う様に言った。
「もう必要ないからいいですよね」
 心細さに十和から貰った髪留めに伸びかける手を膝の上で握り、出来るだけ澄ました顔で窓の外を見た。
 窓には泣きそうな顔をした楪が映って居た。