雲一つない晴天だと言うのに楪の内心は憂鬱の曇天だった。
 龍ヶ崎家での宴会という名のお披露目が終わり、土日を龍ヶ崎家でのんびりと過ごした。当主は土日不在で、十和も午後から任務だったので殆ど雪や夕凪などの使用人と共に過ごした。龍ヶ崎家の人は優しく、楽しい休日を過ごしたのだが、楽しみはそう長くは続かない。
 休日が終わり、本日から学校が始まる。
「はあああ」
「でかいため息だな」
「だって……」
 十和と婚約したことは恐らく学校中に広まっている。横目で見られながらひそひそと話しをされるところを想像すると嫌な気持ちになった。
「人の視線何て気にしなければいい」
 自身に溢れた顔で言ってのける十和は実際人の視線など気にしないのだろう。
 現在、楪は季龍が運転する車で学校へ送ってもらっている。隣に座っている十和はこれから任務らしい。
 襲撃事件のことがあるので送ってもらっているのだが、こんな高級車で楪が登校すれば噂話は加速しそうだ。
「妹と話すんだろ?」
「うん……」
「何かあったらすぐに電話していいから。任務中でも楪からの電話には出る」
「いや、任務はちゃんとして」
 じっと見つめて来る十和に思わずうっと声が詰まった。
 土曜日に告白まがいの事をされてから十和は感情を隠す素振りが無い。言動もそうだが、目が雄弁に語りかけて来る。薄紫の綺麗な目が優しく細まると、どうしていいのか分からなくなる。
 何故そんなに想われているのか楪にはわからない。人違いでは、と思ったが、それも十和に否定された。
「お守りはきちんと着けているな」
「うん、着けてます」
 そっと髪に触れると小さなピンが付いている。守りの術を施したピンで、何かあった時に発動する様になっているらしい。可愛らしい見た目のピンの周りを水色の蝶が飛ぶ。式神の蝶は龍ヶ崎家ではまるで空気の様に消えてしまうのだが、家を出るとどこからともなく現れた。何かあった時のためにと蝶も連れて行くことになっている。
「貰ってばっかりで、ごめんなさい」
 あの髪飾りは日曜の朝に返しに行ったのだが、あれは贈ったものだから返さなくていいと言われてしまったので、楪の部屋の棚の上に飾ってある。
 十和から贈られるものに対して、楪は何も返せていない。
「俺が好きで渡しているんだ。気にするな。と言っても気にするんだろうな」
 十和は苦笑を溢した。
「何か返したいと思うのなら敬語を止めて話して欲しい」
「そんなことで返したことになる?」
「なる。何かを贈ってくれるのも嬉しいが、対等に話してくれる方が嬉しい」
 十和は本当に嬉しそう顔を綻ばせた。
 雪が十和の事を冷たく見られると言っていたが、この顔を見たら誰もそんなことを思わないだろう。
「そろそろ学校だな。何かあったらすぐに連絡してくれ」
「うん。わかった」
 逢魔学園に通う生徒の中には名家の人間も多いので、車で通学する人は珍しくもない。なので黒塗りの高級車が校門の前に止まっても誰も注目しなかった。
「じゃあ、行って来ます。十和も気を付けて」
「ああ、いってらっしゃい」
 十和の手が頬に伸びて来た。何をされるか察した楪は素早く扉を開けると外へ出た。
 不満そうな十和を無視して手を振ると、仕方がないといった風に息を吐いて手を振り返した。
 楪の方が我儘を言っている風の対応に疑問が浮かぶが、気にせずくるりと振り返る。
 その場にいる全員の視線が楪に向いていた。
「え、あの人って、噂の人じゃない?」
「そうだよね。え、ていうことは、車に乗っているのが龍ヶ崎様?」
「見たい。見えないかな」
「あの人でしょ、妹の婚約者奪った人」
「性格悪すぎ」
 多方面から聞こえてくる声に楪は驚き、思わず車に逆戻りしかけた。姫花と話さなくてはいけないと思い、踏ん張って学校へと踏み出す。
 心配そうに車の中から窺う視線に気づいたので、一度振り返って手を振ると少しして車は走り去った。すると車内を盗み見ようとしていた一部の生徒から不満げな声が上がる。
 見世物じゃないぞ、と内心思いながら足を止めずに学校へと入った。
 廊下を歩けばすれ違った人全員に見られ、あることないこと囁かれ、教室に辿り着く頃には疲労困憊になっていた。
 これが名門中も名門龍ヶ崎家か。と知名度の凄さをしみじみ実感しながら、漸く辿り付いた教室の扉を開けた。
 予想していた通り、教室中の視線が楪に向けられた。それも良いものとは言えない類の物だったが、もう既に廊下で散々浴びたものだったので思ったより傷つかなかった。
「おはよう。有名人じゃん」
 桃は揶揄う様な調子で言った。
「おはよ。全く嬉しくないけどね」
「訳あり?」
 席に着くと、桃が他に聞こえないように小声で聞いた来たので、一度頷く。
「そう。じゃあまた落ち着いたら教えて。面倒ごとが終わった頃に」
「巻き込まれたくないからでしょ」
「当たり前。そういう話は笑い話になった頃に聞くのが一番楽しいのよ。まあ、本当にやばそうだったら相談くらいなら乗るから」
「桃ちゃん……」
 つんとしているが、楪が本当に辛くなったら駆けつけて助けてくれるのだろう。今だって他の皆が陰口を叩こうが関係ないと率先して話しかけてくれた。その優しさに胸が熱くなった。
 感動していた楪の横から大きな声が聞こえ来た。
「どういうつもりなのよ」
 きんと刺すような声が教室中に響いた。般若の様な顔をした藤沢とその友人達が楪を睨みながら声を上げる。
「一体どんな手を使って龍ヶ崎様に取り入ったのよ」
「あんたじゃ釣り合ってないんだから今すぐ婚約解消しなさいよ」
 藤沢達の騒ぎはすぐに収まった。何故なら楪は朝礼ギリギリの時間にやって来たので、直ぐに担任が教室に入って来たからだ。担任の先生も祓い屋の一人なので楪の騒動を知っているだろうが特に言及することなく、いつものように生徒に座るように促した。するといつもの教室の雰囲気に戻り、ほっと息を吐いた。

 今日のメインイベントの時間となった。
 昼休憩に入った途端に全員の視線から逃れて、教室を出る。背後から呼び止めるようなきんきんとした声が聞こえて来たが、無視をして小走りで図書室を目指す。教室で落ち合うと目立つからと待ち合わせ場所は静かな図書室にしていた。
 昼休憩が始まって直後の図書室は誰もいなかった。
「ゆずちゃん」
 楪が部屋に入って来た直ぐ後に小さな体が図書室に飛び込んで来た。
「姫花。会えて良かった」
 抱き着いて来た姫花を抱きしめ返す。
「ゆずちゃん、大丈夫? 龍ヶ崎家で嫌なことされていない?」
「されてないよ。姫花は? 家で酷いことされてない?」
 二人は机に向かい合って座ると、お互いの近況を報告しあった。と言っても楪が話した内容は、とても健やかに過ごしていますというだけの物だったが。
 姫花の話によると、両親は楪に怒り狂っていたが今は大分落ち着いているらしい。姫花に対しては婚約者を取られてしまった哀れな妹として気持ち悪いぐらい甘やかしているらしい。
「私のことは良いよ。それよりゆずちゃんの婚約の事が知りたい。本当はうんと年上の人と結婚する予定だったって本当?」
 楪が十和に髪飾りを貰っている間に両親と姫花は、楪が結婚する予定だった男と会っていた。
 男の話をしていると姫花は顔を歪めて不快感を露わにした。
「あんな人と結婚しなくて良かったよ。でもどうして突然龍ヶ崎家の人と婚約することになったの?」
「それは……」
 契約の事を他者に話すのは禁じられている。姫花の事は信じているが、だからと言って話すことは出来ない。かといって嘘の経緯など話したくなかった。
 なんといって誤魔化すべきか悩んでいると、何かを察したらしい姫花が首を振った。
「話せないのなら、今か聞かない。落ち着いたら教えてくれる?」
「勿論。ごめんね、落ち着いたら全部ちゃんと話すよ」
 それから他愛もない話をしていたら腹の虫が鳴いたので、教室に戻ることにした。お互い昼食のことなど忘れていた。
 図書室から出る直前、姫花が楪を引き留めた。
「ゆずちゃん。嫌なことがあった直ぐに連絡してね。幸せでも連絡して。私に幸せだって笑ってね」
 姫花はきらきらと目を輝かせていたが、その顔は少し泣きそうにも見えた。

 一日の授業を終え、誰かに絡まれる前に教室を出て、校門に走ると待機していた車に飛び乗った。
「疲れた……」
「お疲れさま」
 誰も乗っていないと思っていたのに十和の声が聞え、崩れ落ちそうだった体がびくりと跳ね起きた。
「あれ、と、十和? 何で」
「迎えに来た。と言っても、俺はこれから任務で途中で降りるが」
「私よりもずっと疲れてそうなのに、わざわざ迎えに来てくれてありがとう。降りるまでに疲れを取ろう」
 手を出してと言うと、すぐに手が楪の手の上に乗せられた。
「疲れてはいないが、お言葉に甘めて癒して貰おう」
「合点承知」
 優しく両手で包み込み、力を込めると手が微かに光り熱を帯びる。いつもなら数秒で終わるが、ちらりと盗み見た十和が静かに目を閉じていたので、そのままの姿勢から動けなくなった。
 術は終わったのに、手が離れない。握っている熱が引いて行くので術が終わったことは分かっているだろうに十和は手を離そうとしなかった。
「あ、あの」
 どうしていいかわからず、恐る恐る声をかけると、十和は目を開け、意地悪く口角を上げた。
 揶揄われていると気づき、すぐに手を離した。
「ずっとこのままでも良かったのに」
「良くないよ。揶揄わないで」
「揶揄っていない。本気だ」
 じっと見つめて来る目が本気を伝えようとしてくるので、視線をそらして車窓から外を見つめた。
 つれなくしても十和は楽しそうに笑い、身を寄せて来たが、それ以外は触れ合わなかった。
 甘い、甘すぎる空気感に自室に戻ってきた楪は頭を抱えていた。
 疑ってぃたわけではいが、どうやら本当に十和に好かれているらしい。想いを隠さない十和は、楪に触れて来ようとする。想いは十二分に伝わるが、好かれる理由は見当もつかない。
 思ってもらっているのに、思いを返すことが出来ない現状が良いとは思えなかった。十和に好意はある。しかしそれは友愛や親愛といった類の感情で、恋愛ではない……はずだ。そもそも恋愛をしたことがないので、感情の正解が分からない。
「誰かに相談、も出来ないし」
 はあ、と溜め息を吐いた。
 溜め息を吐くと幸せが逃げると言うが、吐き出した呼吸に呼応するように、この時十和が居ない龍ヶ崎邸宅に不穏分子が入り込もうとした。
「楪さん? 少しよろしいでしょうか?」
「はい、どうしました?」
 夕凪の声に居住まいを正すと、焦りを滲ませた夕凪が扉を開けた。
「お休み中の所申し訳ないのですが、玄関に楪さんの母と名乗る方がいらっしゃっていて」
「母……」
 何故母がここに?
「おかえりいただきますか?」
 楪の顔色が曇ったのを見た夕凪がすかさず声をかけて来たが、楪は悩んだ後に首を振った。
「私が話をします。すみません迷惑をかけてしまって」
「迷惑などではないです。しかしお話しするのは良いですが、玄関越しで、何があるかわかりませんから玄関は開けないようにしてください」
 母は怖い人ではない。ヒステリックな部分があり、金切声をあげたり怒鳴ることはあったが、暴力に訴えかけることはなかった。だから夕凪の心配は杞憂に終わると思っていた。
 玄関へ向かう途中で聞こえて来た声に、自分がいかに甘い考えだったかを知る。
 廊下にはきんきんと劈く様な母の声が響いている。何を喚いているのかは聞き取れないが、楪に対す怒りは伝わってきた。それは昔、気絶する姫花をおぶって帰った時と同じような取り乱し方だった。
「止めておきますか?」
 夕凪が優しく楪の袖を引く。振り返ってみると廊下にいた使用人達が心配そうに楪を見ていた。
 その時、安全地帯でぬくぬくしている自分が卑怯に思えた。姫花はこの母親と同じ空間にいるのに、自分だけという思いが、部屋に帰ろうとする足を止めさせた。
「大丈夫です。話します」
 玄関前へ行くと、深呼吸をして母に声をかけた。
「お母さん」
 玄関の向こうで騒いでいた声がぴたりと止まった。
「あのさ、ここは龍ヶ崎の家だから、あまり騒ぐと迷惑が……」
「どうして貴方なの」
「え?」
「どうして姫花じゃないの? どうやって取り入ったの? 恥ずかしくないの? 姫花が可哀想だと思わないの? 姫花を危険に晒した挙句に、今は姫花から婚約者を奪って。私達を置いてさっさと家を出て……今まで育てた恩も忘れたの? 厚かましい子」
 母の声は今まで聞いたことがないくらい低く、嫌な気を纏っていた。
 人を傷つけるために吐く言葉だ。母の言葉には明確な悪意があった。
「あんたはいつも悪いことしかしない。大したことない能力で恥ずかしげもなく龍ヶ崎家の婚約者を名乗っていいと思っているの? 今すぐに姫花と変わりなさい」
 母の言葉を聞いていると自分は呼吸さえしてはいけない存在のように思えてきた。息を止めて、じっと扉の方を見ることしか出来ない。
 体の芯が冷えてきて、泥の中に沈むような錯覚に陥る。
 泥の中では息ができないからそこで生きるべきなのかもしれない。
 玄関越しで見えないのに母がどんな顔をしているのか楪にはわかっていた。
 あの時と同じ顔。気絶した姫花を背負って帰ってきた楪に向けた怒りと侮蔑の混じった顔。その顔で楪を睨んでいるのだ。
 母はあの時からずっと楪を責め続けている。
「お言葉ですが」
 不意に凛とした声が響いた。
「楪さんは龍ヶ崎家次期当主に婚約者として選ばれた人です。そんな風におっしゃるのは止めてください」
 いつの間にか隣にやって来ていた雪がじっと玄関を見据えながら言葉を吐き出す。その顔は平時の朗らかな様子からは想像できないぐらい凛としている。
「貴方誰よ、貴方には関係ないわ。これは家の問題で」
「私は龍ヶ崎家現当主の妻、雪と申します。関係ないと仰りますが、ここは龍ヶ崎家で、楪さんは息子の婚約者です。いくら母親だからと言っても貴方の暴言を許すことはできません。どうぞ、お引き取りを」
 母が反論しようとする空気が伝わって来たが、それよりも早く雪が追撃した。
「もう一度言います。ここは龍ヶ崎の家です。一階の術者如きが踏み入れていい地ではない。それがお分かりになりませんか? 楪さんの母親だから招き入れたのです。貴方が汚い口を聞くのならここにいるべきではない。早くお帰りを」
 その声に母は少しだけ冷静さを取り戻した様で、ぼそぼそと聞えないくらいの声量で何かを呟きながら玄関の前から去って行った。
 足音が完全に聞こえなくなった瞬間、楪はその場に崩れ落ちかけた。
「ああ、大丈夫? 楪さん」
「大丈夫です。ごめんなさい」
 雪と夕凪に支えて貰いながら近くの部屋に入ると、ソファに深く腰掛ける。
「顔色が悪いわ。何か飲み物を用意しましょうね」
「大丈夫です。少し休めば治るんで」
 楪は雪達の顔をまともに見ることが出来なかった。
 自分で話をすると夕凪に言っておきながら結局何も言えなかった。ただ黙って母の言葉を受け止めていただけだ。いや、受け止めることさえできなかった。雪が入って来なければ、玄関の床にみっともなく崩れ落ちていたかもしれない。
 情けなくてたまらなかった。
「すみません、本当に。ご迷惑をおかけしてしまって」
「迷惑なんかじゃないわ。楪さんが謝ることなんて何もないんだからそんな顔をしないで」
 雪の優しい手で背を撫でられると自分が本当にちっぽけな人間に思えた。
「楪様の親だからとお通ししたのが間違いでした。今後はこのようなことが無いようにいたします」
「そうね。あちらが落ち着くまで会わないほうがいいかもしれない」
 二人は母の言葉の意味や事情について何も聞かなかった。
 楪が顔を上げると、雪の優しい微笑みが目に入った。その表情からは先程の凛とした雰囲気が抜け落ちている。
「雪さんは、強いですね」
 ぼんやりと言葉を吐き出すと雪は驚いた顔をした後に目を逸らした。
「そ、そうかしら」
「雪さんは穏やかで優しい雰囲気の人だから、さっきは凛としていて驚きました」
「あらあら、えへへ。凛としてた? そうかしら」
 んふふふと照れた様子は可愛らしい。
 一頻照れ笑いした雪は、こほんと咳ばらいをした後に真剣な表情で楪と向き合った。
「あのね。楪さん。私は元から強かったわけじゃないし、いつも強くいられるわけじゃないの。あんな風に酷いことを言われたら悲しくて辛いし、言い返せないことも多い。でもね、私は龍ヶ崎家の当主の妻で、彼が居ない時はここを守らなければいけない立場にある。だから強くなきゃいけない時があるの。だから頑張って虚勢を張る。強くなきゃいけないから嘘でも胸を張って前を見る。それだけで人は少しだけ強く見えるから」
 雪は少しだけ表情を和らげた。
「それにね。今回は楪ちゃんがいてくれたから」
「え?」
「一人じゃ怖くても人がいてくれたら怖くない。それに守りたい人がいると不思議と人は強くなれる。さっきの私が強く見えたのならそれは貴方を守りたかったからよ」
 強くあり続けなくてもいい。ただここぞという時は強くありなさい。雪の言葉は真っ直ぐに楪に届く。
 どれだけ弱くても誰かを守ろうとするときに強くあればいい。それはずっと楪が求めていたことのように思えた。大切なものを損なわない様に誰かが悲しまないように。
 龍ヶ崎家当主の妻として雪にはたくさん背負うものがあるのだろう。薄紫の美しい目には計り知れない覚悟が見えていた。
「きっとこれから大変なことや辛いことがたくさんあると思うけど、泣きそうな時ほど上を向きなさい。相手に弱いと思われなければ人は強くあれるものだから」
 雪の言葉を胸に留め、深く頷いた。

 いつ帰って来るか分からない当主や十和を待っていると食べるのが遅くなるので、今日も雪と二人で夕食を取ることになった。夕食を取るのは広い洋間だ。ダイニングテーブルに向かいあって座り、他愛もない話をしながら運ばれて来たご飯を食べる。
 当主は和食が好きらしいので、当主がいる時は和食中心になるが、不在時は洋食や中華と何でも出て来る。こちらは雪の要望らしい。
「和食も好きなんだけど、他の物も食べたくて」
「ここのご飯は何でも美味しいですね」
「そうなの。だからいっぱい食べちゃってすぐに太っちゃうの。楪さんも気を付けて」
 今日は洋食で、目の前には大きなハンバーグがどんと鎮座している。かなり大きい。
 食べられるだろうか、と不安が過る。
 凄まじい存在感を放つハンバーグを雪は幸せそうに食べている。昨日も思ったが、雪は細い見た目に反して大食いだ。気持ちの良い食べっぷりを見ながら楪も切り分けたハンバーグを口に運ぶ。
 口に入れた瞬間、肉汁が溢れた。肉の旨味と酸味のあるソースが口の中に広がり自然と口角が上がる。
「こんなに美味しいハンバーグ食べるの初めてです」
 感動と驚きが一緒に来て顔がにぎやかになる。
「そうよね。このハンバーグは世界で一番おいしいの」
 雪は楽しそうに笑った後、少しだけ言い難そうな顔をした。まるで大切な宝物を見せるような慎重さで楪に秘密を打ち明ける。
「あのね。このハンバーグは私が一番好きな料理だから楪さんにも食べて欲しかったの。共感してくれたら嬉しいなって思っていたから喜んでもらえて良かった」
 嬉しそうに微笑む雪の言葉にきゅんと胸が鳴った。可愛らしい理由に打たれた胸を抑える。
 夕凪を含めた使用人もそうだが、十和の母親である雪もどこまでも楪に優しかった。どこの馬の骨とも分からない人間が突然現れて息子の婚約者を名乗ったら普通はもっと警戒するはずだ。もし楪が同じ立場だったならここまで優しくは出来ないだろう。
「どうして、そんなに良くしてくださるんですか?」
 箸を置いて真剣に問いかけると雪は不思議そうに首を傾げた。
「良くしているつもりはないの。ただ私が楪さんと仲良くなりたいのよ」
「十和の婚約に少しも反対しなかったんですか?」
「しなかったわ。だって私の自慢の息子が選んだ人だもの。きっと素敵な人だろうと思っていたの」
 雪の顔からは十和への愛情と全幅の信頼が見て取れる。息子を信じているからこそ、その婚約者である楪の事を信じているのだろう。
 楪は、その信頼を裏切っている。
 本当の婚約者だと嘘を吐き、この場に居続けることは許されないことだ。早く真実を言った方が良い。そう思うのに。真実を知った雪から冷たい目を向けられるのが嫌だった。雪から向けられる温かい愛情が消えてしまうのが怖かった。
 ぎゅっと膝の上で手を握りしめる。
「それにね、最初に言ってくれたでしょ。綺麗で温かい目が十和と似ているって。私の目は生まれつきね、龍ヶ崎家系でも珍しい物なの。人は自分と違うものを嫌がる傾向にあるから凄く、嫌な目で見られたこともあった。冷たく見えるみたいなのよ、この目って。変な目の色って言われたことも多かった」
「うそ……そんなに綺麗なのに」
「ありがとう。楪さんと初めて会った時に綺麗で温かい目って言ってくれたの凄く嬉しかった。本心から言っているんだろうなって直ぐに分かったから、嬉しくて堪らなくて、その瞬間に私は楪さんと仲良くなりたいって思ったの」
「私、上手に褒められていないのに」
「あら、もっと褒めてくれるの? うれしい」
「だって、雪さん、初めて見た時に綺麗過ぎて驚いたんです。すごく綺麗で、特に目が、優しそうで、十和と似てて、私……」
 きゅっと喉の奥が変になった。ああ、泣きそうなのだと気づく。
 こんな風に愛情を向けられたことはなかった。十和が向けてくれるものとは違う、桃とも姫花とも違う柔らかく暖かい愛情に体が震える。
「ごめんなさい、上手く表せなくて」
「十分よ。すごくすごくうれしい」
 二人は泣き笑いの様な顔をしてハンバーグを食べた。どの料理も美味しくて、食べられないかもしれないと思っていたのに皿は空っぽになっていた。
 廊下から二人の食事風景を覗き込んだ使用人達は、その様子を微笑ましそうに頬を緩ませていた。何気ない平和な夕食だった。
 
 夕食後に運ばれて来たカフェオレを飲みながら談笑していた時。
 平和な時間が唐突に終わった。

 最初に飛び込んで来たのは、玄関が開く音だ。その後に数人の話し声が聞こえてきた。
「十和が帰って来たのかしら」
 それにしても玄関の方が騒がしかった。
 雪と顔を合わせ、立ち上がると、扉が音を立てて開いた。
「お食事中失礼します! 大変です。怪我人が出ました」
 そう叫ぶ様に言ったのは使用人の一人だった。
 怪我人と聞き、一瞬背筋が冷える。
 頭の浮かんだのは怪我を治すことが出来ない十和の事だ。
「十和は?」
「無事です。楪様を呼んで来いと」
 その言葉に頷き、使用人に続いて廊下を走る。後ろからは雪もついて来ている。
 玄関には、見たことが無い人達が犇めき合っていた。数人が焦った様子で何かを喚いている。尋常じゃない取り乱し方に嫌な予感が過る。
「楪、こっちだ」
 玄関のすぐ隣の部屋が開き、十和が顔を出した。その顔はいつもと変わらない。使用人の言葉通り無事らしい。しかし、上げられた右手が赤く染まっていることに気が付き、ぎょっとした。
「ど、どうしたの。その手」
「大丈夫だ。これは、彼女の……」
 十和が顔を向けた先、部屋の中央に一人の女性が寝かされていた。
「夢子さん?」
 それは、瑠璃川夢子だった。
 近寄ってみると、顔が青白く、力が入らないようでぐったりとしている。そしてその腹辺りの布は真新しい血でぐっしょり濡れている。
 夢子の近くに立ち、意識を確認しようと目の前で手を振ると、うっすらと開いた目が宙を彷徨う。
 荒い呼吸を溢す口が、何かを呟くが声にはならない。
「わかりますか? 今から治しますからね」
 そっと服に手をかける。
「十和は出て」
「分かった」
 十和が立ちあがり、部屋から出て行こうとした時、開いた扉から人が雪崩れ込んできた。先程玄関で喚いていた人達だ。かっちりしたスーツを着た男達は痛ましそうに夢子を見て、そして隣に座る楪と立ち上がる十和を見て、ぎょっとした様子で声を上げた。
「何故その女がそこにいるのですか? 十和様が治療を施して下さるのではないのですか?」
「治療は楪が担当する」
 十和が何でもないことのように言ってのけると男達はこの世の終わりとばかりに喚き出した。
「何故です。夢子様がどうなっても良いと言うことですか? 死んでしまっても構わないと言うのですか?」
「そうじゃない。……楪、治療を」
「は、はい」
 男達は十和にやってほしいようだが、良いのだろうかと思ったが、躊躇っているわけにはいかない。そう思い手を伸ばそうとした時。
「触るな!」
 爆ぜる様な怒号に手が止まる。
「お前の様な女が夢子様に触れるな」
「そうだ。能無しのくせに十和様の前で良い格好したいだけだろう」
「今すぐに離れろ!」
 酷い言われようだ。どうやら男達は瑠璃川家の人間で、楪の事を毛嫌いしているらしい。
 触るなと言われても、今は夢子の傷を治すのが先だと無視をする。すると怒り狂ったような男達が阻止しようと立ち上がる。
「止まれ」
 部屋の中に静かに落ちたその声だけで男達の動きが止まる。
「お前達はさっきから誰に口を聞いている? この龍ヶ崎十和の婚約者だぞ。それがわかった上で言っているのか?」
「い、いえ、その」
「能無しと言ったか? 誰のことだ? まさか楪のことではないだろうな」
 十和の威圧感に男達が喘ぐ様に呼吸を繰り返すのを横目に楪は夢子の向き直る。今の様子からして男達は外へ出て行かないだろう。
 自分の体で夢子の体を出来るだけ隠し、服を捲って傷を露わにする。腹部は鋭い爪で引っ掻かれたように抉れている。そこから赤黒い血が噴き出し続けている。
 思っていたよりも傷は浅そうだ。これならばすぐに治せる。
 楪は傷に手を翳し、ふうと深く息を吸って、吐き出す。
 すっと周りの音が波の様に引いて行く。自分の呼吸を聞きながら傷に力を込めると手が暖かくなり、傷口に光の花が咲く。それがどんどん傷口を修復していく。
 治療は、一分とかからなかった。
「終わったよ」
 振り返ってみると、全員の視線が楪の手元に注がれていた。夢子の衣服は整えているで見えていないはずだが、何を見ているのだろうと不思議に思っていると、男の一人が呆然とした様子で言った。
「すごい……」
 つい漏れてしまったというような呟きに、男達が顔を見合わせる。
「あんな光初めて見た」
「あの大怪我を一瞬で?」
「能無しという噂ではなかったのか」
 ひそひそと囁かれる言葉達に目を白黒させる。男達の声には非難の色は消え、驚きなどの中に称賛が混じっている。
 何が何だかと首を捻ると、隣に十和が教えてくれた。
「ここまで高度な治癒を使える人間は少ないから驚いているんだろう」
「え、でも十和も治せるよね?」
「小さい傷はな。ここまでのは無理だ」
 そうなのか、と目を見開く。
 楪はこれまで能力を評価されたことがなかった。椎名家では結界術や妖魔を祓うために術を身につけられなければ評価されない。治癒ごときで何が出来ると言うのが椎名家の見解だ。
 それなのに、ここではそれが覆った。
 椎名家がいらないと言ったものを十和は大切に救い上げた。
「楪に頼んで良かった」
「急に呼ぶから十和が怪我したのかと思った。十和は、怪我はない?」
「ない。そもそも俺の任務と瑠璃川の怪我は関係ないんだ」
 隣で目を閉じていた夢子が身じろいだ。意識が戻ったのだろうと、覗き込むと薄っすらと目を開け天井に視線を這わせている。
「夢子様!」
 男達が楪を押し退けて隣にやって来たので、楪は大人しく横にずれる。十和がむっとしているのに気が付く、苦笑が零れる。
「目が覚めましたか、夢子様」
「ここは?」
「龍ヶ崎様の自宅です。夢子様は怪我をされて……」
「龍ヶ崎……十和さんの? 十和さんはどこ?」
 夢子の目が男達の中を彷徨い、やがて近くに控えている十和で止まった。その瞬間、花が綻ぶのを見た。
 安堵と愛しさが混じった様な微笑みが夢子から洩れ、その口が十和の名前を呼ぶ。まるで恋人を呼ぶようなとろりと蕩けた声色に楪は居心地の悪さを覚えた。
「それにいらっしゃったのですね。あの、私」
「瑠璃川、何かあったか覚えているか?」
 夢子の声に対して、十和のそれは何処までも冷淡だった。その声に夢子は冷や水を浴びせられたような顔をして起き上がった。
「あの、すみません。私ったら寝ぼけていたみたいです」
「良い。それで、何があったか教えて貰えるか?」
「はい……。実は家で本を読んでいた時に庭からやって来た何者かに襲われたのです。突然の事で犯人を祓うことも出来ず、逃がしてしまい申し訳ありません。妖魔であるのは間違いないと思ったのですが、その後に女の声が聞えたのです」
「女の声……」
 それは襲撃事件と類似している。
「それで悲鳴を聞きつけた使用人達が助けてくれたのですが、瑠璃川家には治癒が出来る者がおりませんので、十和さんの所へ連れて来たのだと思います。そうですよね?」
 瑠璃川家の使用人だという男の一人が頷く。
「十和さん、傷を治していただきありがとうございます。こんなに綺麗に治るなんて流石です」
「礼なら楪に言ってくれ。治したのは俺じゃなくて楪だ」
「え……」
 その時初めて夢子の視線が楪に向けられた。ここにいることすら今気づいた様子だ。それだけ夢子の視線には十和しか映っていなかった。
 夢子はすぐに驚いた表情を引っ込めると愛想の良い笑みを浮かべた。
「そうだったのですね。楪さん、ありがとうございます」
「い、いえ。大した事はしていないので」
「そんなことはないです。傷は割と深かったはずです。突然襲われて驚きながらお腹を見ると血が溢れていて、止まらなくて。腸が出るんじゃないか思いました。このまま死んじゃうんだと思いました。それで、私……」
 夢子は途中で言葉を止め、顔を覆った。手が震えている。その震えが肩まで達した頃に彼女が泣いていることに気が付いた。
「怖かった……すごく……怖かったんです……」
 震える声で訴え、次第に嗚咽が漏れ始める。使用人が夢子の肩に触れようとした時、顔を上げた夢子は泣き濡れている目で十和を見た。そして震える手を十和に伸ばし、袖を緩く引く。
「十和さん……あの、少しだけ、少しだけで良いから一緒にいてくれませんか? 私の震えが収まるまでお傍に。どうか、抱きしめてはくれませんか?」
 夢子は悲し気な目を次は楪へ向けて懇願するように言葉を吐き出す。
「婚約者の前でこんなことを言うのは酷いと思っています。でも、今だけ、お願いします」
 夢子の目からは次々と泣きだが溢れている。
 その懇願は、孤独に涙する子供が親を求めるような物だと使用人は楪の耳に囁く。しかしそうではないことは夢子の目を見ていれば一目瞭然だ。
 夢子は十和が好きで、悲しみを好きな人の腕の中で癒したいのだ。
「お願いします、楪さん」
 嫌だな、と思った。そう思ったことに驚く。
 契約の上の婚約者だろうが、婚約者という立場からなら嫌だときっぱり言える。しかし、何故嫌なのかも分からない状態で、否定することが楪には出来なかった。
 汗の滲む手をぎゅっと握りしめ、溢れ出しそうな不快感を押さえつける。
 十和の言葉を聞くのが怖かったので、十和が口を開く前に立ち上がった。
「私、部屋に帰ってますね」
 十和を見ることも夢子を見ることも出来ず、十和が口を開く前に立ち上がると部屋を出た。
 足早に自室に戻ると、扉を後ろ手に締めてその場に膝を抱えて蹲った。
 夢子の恋する目を真正面から見て怖気づいた。
 十和は楪の事が好きなのだと言う。しかし楪は十和の様な質感の感情を同じように返せる気がしていない。十和が夢子を抱きしめるのが嫌だと思うのに、それが恋しているからなのか、それともただの独占欲なのかわからない。
 そんな中途半端な気持ちを見破られたくなくて、逃げだした。
 いや、本当は違う。
 十和は優しいから震えている夢子を放っておけないだろう。あの細い体を十和が抱きしめる所を見たくなかったのだ。
「情けない……」
 ため息を吐き、よろよろと立ち上がると窓の傍まで膝立ちで移動する。
 楪が生活している部屋は窓が大きく、床に座っていても外の景色が見える。楪は床に座って窓の外へ顔を出した。空に瞬くぼんやりとした星を見上げ、澄んだ空気を吸い込むともやついた気持ちが消えるような気がした。
 不意に扉がノックされて体がびくりと跳ねた。
「楪? いるか?」
「十和?」
 夢子と一緒にいるはずの十和の声に首を傾げる。楪があの部屋を出てから時間がたっていない。夢子を慰めて来たにしては早すぎる。
 扉を開けて入って来た十和は窓辺でたそがれる楪と目が合うと微笑みながら近寄って来た。
「ここの景色、気に入ったか? この部屋から見ると丁度障害物がなく空が見えるんだ」
 隣に座った十和は楪と同じように空を見上げた。夜空の下で見る十和の目は殊更輝いて見えて、体が震えるほど美しい。
 その横顔を見ていると、胸につっかえて来た疑問がぽろりと零れた。
「夢子さんは?」
「傷も治ったから家に帰るらしい。何かあった時のために伊崎に送らせた」
「そっか、大丈夫になったんだ」
 十和が抱きしめて慰めたことで安心して帰ったのだと思うと気分が重くなった。
「ああ、瑠璃川家は祓い屋の名門だ。妖魔に襲われること自体は初めてではないだろうし、使用人達も傍に付いている」
「十和が慰めたのが利いたんじゃないかな」
 そう口をついて出た。非難するような言葉に唇を噛みしめる。
 嫌な気持ちになって、十和に当たるなんてまるで子供の癇癪だ。こんな言い方をするはずではなかったと謝ろうとした。
「慰めてなんてない。どうして俺が好きでもない相手を抱きしめないといけないんだ。他を当たってくれと言っておいた」
「え」
 それは完璧な拒絶だった。
 抱きしめないでほしいとは思っていたが、そこまできっぱり拒絶するとは思っていなかったので二の句が継げない。
 どうやら十和の中には女性を紳士的に慰めるなんて発想はないらしい。そのことに内心喜びがじわりと滲んだ。
「そんなことより、楪は大丈夫だったか? 母親が来と聞いた」
 そう言えば、そんなこともあった。
 夢子が来たことがあまりにも衝撃的で頭から抜けていたが、母親が龍ヶ崎家に来たのはほんの数時間前だ。思い出すと胃の辺りが重くなるので考えたくなかった。
「大丈夫。何ともなかったよ」
「本当に? 悪いが夕凪から話は聞いたから隠しても無駄だぞ」
「本当に大丈夫だよ。雪さんは追い払ってくれたおかげで直ぐに帰ったから、ここにも入ってきていないし」
「それでも、酷いことを言われたと聞いた。玄関扉が越しだろうが何だろうが、酷いことを言われたら傷つくだろう」
「じゃあ」
 夢子の話を脳みそが勝手に引きずっていたから、口が滑った。
 魔が差したと言っても良い。
「慰めてくれる?」
 そう口にした瞬間、目の前の瞳が見開かれる。同じくらい楪の目も大きく見開かれていた。二人して目を大きくしながら見つめ合う。
 自分の発言が信じられず、口を押えて「えっ」と驚いた声を上げた。
「変なこと言った」
「変じゃない」
「……今、私なんて言った?」
「抱きしめてって」
「それは言ってない」
 十和が小さく舌を打った。
「今の流れだったら抱きしめても良い流れだっただろう」
「良くない。ごめん、ちょっと疲れているのかも」
 両親のことだけではなく、夢子の事も精神に微かな傷を残しているようだ。少し一人になって頭を冷やしたいと言うと十和は首を振った。
「疲れているのなら癒しの方が必要だろう。楪ほどじゃないが、俺も治癒の力はある。手を貸してくれ」
 右手を差し出すと、そっと握られる。柔らかい光が手を包み、光っている部分がじんわりと暖かくなってきた。その熱にほっと息を吐く。
 気が付かないうちに体が強張っていたらしく、十和の与えてくれる熱がそれを癒した。
 手を握っている間、二人は黙って身を寄せていたが、熱が引くのと同時に楪はぽろりと心の中に蟠っていた感情を吐露した。
「名前を呼ばれなくなったんだ。昔、妹を危険な目に合わせっちゃったことがあるんだけど、それ以降両親は私の名前を呼ばなくなった。扱いが悪いのは別に気にしてなかったけど、名前の事はずっと頭にあって、今日色々言われた時に、ああ、この人は私のこと娘だと思ってないのかもって気づいて、そしたら駄目になってた。今まで何を言われても平気だったのにな。強くなりたいって、思ってたのに」
 両親が姫花のことばかり言っても気にしなかった。
 酷く扱われても家族だと思ってた。しかし、玄関先で向けられた悪意は家族に向けるものではなかった。
 それが、自分が思っていたよりもずっと深く刺さった。
 それと同時に、そんなことで駄目になる自分は見放されても仕方ないとも思う。十和の隣に立つ権利がないと言われるのも、そうだろうなと思っていた。
「ごめん、本当は慰めて欲しくなんかないんだ。これは多分どうしようもないことだから自分の中で折り合いをつけたい。口に出しちゃったのは、自分が何に傷ついているのか整理したかっただけ」
「……楪は自分の事を弱いと言うが、俺はそう思ったことはない。治癒の能力は確かに妖魔討伐は出来ないが、他で活かせる素晴らしい能力だ。それに、どれだけ辛くても前を向いて歩ける人間は強い。楪は自分と向き合って乗り越えようとしているんだろう。それは強くないとできない」
 弱いと言われたことは何度もあるのに強いと言われたことなど一度もなかった。
「慰めている?」
「そんなつもりはない。寄り添いたいだけだ」
 十和はふっと顔を綻ばせると楪との距離を縮めた。肩が当たりそうな距離にびくりと体が跳ねかけたが、何とか抑えて平常を保とうとした。
「楪」
 近くで十和に優しく名前を呼ばれると、鼓膜が震えて顔に熱が集まる。あまりに近い距離に視線を合わせることは疎か、体を動かすことすらできない。
「こっちを見て」
 わざとらしい甘い囁きに、ひっと喉の奥で悲鳴が零れる。わざとやっているのだと分かっているのに声が震えてまともに抗議の声を上げられない。
「む、むり。むり」
「なんで」
「近すぎ、ちょっと、離れて。顔が近い」
「眼福だろう。近くで見ろ」
『自分で言うな……」
 眼福なのはその通りなので、誘惑には勝てず、そろりと視線だけを向けると、美しい薄紫と目が合い悲鳴を上げそうになった。
 思わず仰け反りながら後退する。
「こら、逃げるな。まだ話は終わってない」
「分かったから、少し離れて。心臓が止まる」
 楪の必死の懇願に十和は笑いながら少しだけ距離を開けた。元の距離感に戻り、ほっと安堵の息を吐き出すと十和は更に笑みを深めた。
「そんなにあからさまに安心されると傷つくな」
「嘘だ、笑っているじゃん」
 本題とは一体何なのか、話の続きを促す。途端に十和は真剣な顔になった。
 空気が引き締まり、自然と楪も姿勢を正して十和に向き合う。
「瑠璃川が襲われた件に関して、状況から見て俺達が追っている襲撃事件に間違いないだろう。だが、今までの犯行は襲うと言っても妖魔に追いかけ回されたり、怪我をしても擦り傷程度だった。犯行が過激化している」
 夢子の傷は内臓には達していなかったが、出血が酷く放っておけば命に関わるものだった。犯行が過激化しているのなら早く解決しなければ死人が出かねない。
 そして、今一番被害者になりそうなのは楪だ。
「過激化している原因は婚約発表したことだろうが、何故瑠璃川を襲ったのか分からない。本命の婚約者が現れたんだからそちらを狙えばいいのに、何故まだ違う人間を襲う必要がある?」
「犯人が婚約発表をしたことを知らないとか?」
「それはありえない。祓い屋界隈で俺達の婚約を知らない人間はまずいない。それに自称婚約者を正確に狙える情報収集能力がありながら発表を知らないとは思えない」
「だとしたら考えられるのは、夢子さんに狙われる理由があった、とか。例えば、本当は婚約者候補を狙っているわけじゃないとか」
「それなら犯人の発言の真意が分からない」
 妖魔を操っているらしい犯人が最後に残している「私が婚約者に選ばれるんだから邪魔をしないで」という言葉からは、やはり十和との結婚願望が強く表れている。
「うーん……」
「犯人の真意から考えて答えは出そうにない。なんにせよ楪が一番危険なのは変わりない。龍ヶ崎家で妖魔が出現することはまずないが、学校や送迎の時に襲われる可能性はある」
 学校に妖魔が入り込めば、経験豊富な祓い屋でもある教師陣が出て来るだろうが、もしそれが間に合わなかったら。襲われるのが楪だけだったらまだいいが、他の生徒が巻き添えになる可能性がある。それは避けなければいけない。
 夢子の腹の傷を思い出し、ぞっとする。
 どんな形状の妖魔なのか分からないが。生徒達で対処できるものなのだろうか。
「もし何かあったら戦わずに逃げろ。兎に角逃げろ。それで……」
 十和が一瞬言葉を止めた。真剣だった顔に苦みが混じり、苦しそうな表情になる。
「どうしたの」
「いや、悪い。言わなければとはずっと思っていたんだ。でも中々決心がつかなかったことがある」
 十和の目が少しだけ揺れる。
「楪は、龍ヶ崎家についてどれくらい知っている?」
「祓い屋の名家で、龍人の血が入っているってことしか」
「その認識で間違いない。龍ヶ崎家の人間には龍人の血が入っている。つまり純粋な人間ではない。龍ヶ崎家の人間は普通にしていれば人間に見えるが、血が濃い人間は特に変異することが出来るんだ」
「変異? 変身できるってこと?」
「そんなところだ。人によっては角が生えたり、鱗が出たりするだけだが。それでも普通の人間からすれば、普通ではない扱いになる。だから龍ヶ崎家の人間は他の人間の前で変異しない。基本的には。人は自分と違うものに対してどこまでも冷酷になれる生き物だから」
 そう言って十和は少しだけ寂しそうに笑った。
 それは人と目の色が違うことについて触れた雪と同じ表情だった。恐らく、十和も雪と同じように他者と違うだけで、酷い扱いを受けたことがあるのだろう。
「この目もそうだ。他とは違う」
「十和は、その目、嫌い?」
 聞くべきか悩んだが、聞かずにはいられなかった。すると十和はふっと先ほどとは違う柔らかい笑みを浮かべた。
「いや。嫌いじゃない。だって、楪はこの目が好きだろう?」
「えっ」
「結構な頻度で目をじっと見つめてくるだろう。流石に照れる」
「ご、ごめん。無意識だった。十和の目ってそのままでも綺麗だけど、光の当たり方が変わると色が少しだけ変わって、宝石みたいで綺麗だから、つい。見ないように気をつける」
「……いや、気を付けなくていい。楪に見られるのは好きだから」
「そうなんだ、それなら、よかった」
 何だか気まずい空気になったのを十和が咳払いで消し、話の軌道を戻す。
「それで、本題だが、変異するのは俺も例外ではない。殆ど制御できるが、力を使った反動で制御が出来なくなるときもある。もしかしたら楪の前で変異するかもしれない。その時すごく驚くかもしれない。もしかしたら嫌な気持ちになるかもしれない。でもこれだけは覚えておいてほしい。俺は絶対に楪の味方だ」
 揺れる瞳を見て、いつも自信に満ち溢れている十和の弱い所に触れているのだと気が付く。きっとこのまま楪が手を滑らせれば十和の心には簡単に傷がつく。だから慎重に言葉を選ばなければいけないと思いつつ、頭に浮んだのは一つだけだった。
「嫌な気持ちになんかならないよ。変異した所で十和の本質が変わるわけじゃないんでしょ?」
「……そうだな。目も紫のままだ」
「そっか。じゃあ凄く綺麗なままだね」
 十和は少しだけ目を閉じて、頷いた。
「うん」
 楪は人の心に寄り添うのが得意なわけではない。何と言うのが正解だったのかは分からないが、十和の顔が穏やかになったので、不正解ではなかったのだろうとこっそり安堵した。
 その時、目を開けた十和がじっと楪を見た。今までにない真剣な目つきに何か間違ったのかと冷や汗が流れる。
 もしや、不正解を引いていたのか、と苦みが胸に広がる。
「十和、ごめ」
「抱きしめていいか?」
「……は?」
 そっと手を持たれ、引き寄せようとしてくる十和に楪は慌てて手を突っぱねた。
「ちょ、ちょっと待った。え、どういう話の流れで、そういう流れに? 私、聞き逃してた?」
「聞き逃してないから安心しろ。兎に角、抱きしめたい。駄目か?」
「うぐっ」
 この世の物とは思えない美貌で、しかも少なからず好意を持っている男に抱きしめたいと言われ、しかも小首を傾げながら尋ねられて断れる人間がいるとは思えなかった。
「わざとやってる?」
「当たり前だろう。俺は使えるものは何でも使う主義だ」
 手を引かれ、今度は抵抗しなかった。十和の腕が優しく背名に回る。緊張でがちがちに固まった楪の体はあっという間に十和の腕に囲われていた。肩口に顔をつけると、ふわりと十和の匂いが漂い、どうしていいのか分からなくなる。
 今までの人生で男に抱きしめられたことが無いので、手をどこへ置けば良いのかも分からずに宙ぶらりんのままでいると十和が耳元で囁いた。
「背中に回して」
 笑いを含んだ声にかっと顔を赤くしながら、恐る恐る十和の背に手を回す。
「楪は体温が高いな」
 十和の口元は変わらず楪の耳元にあるので、できれば喋らないで欲しかったが、口を開くと悲鳴のような声が出そうだったので口を閉じたまま額を十和の方に押し当て続けた。
「龍人は水を司る。だから龍ヶ崎の人間は水と深い繋がりがある。そのせいか体温がすごく低いんだ」
 十和に触れている場所は冷たい。よく触れ合う姫花よりもずっと冷たい。
 しかし、十和とは逆に楪は体温が高いので、その冷たさが心地よかった。
「龍人の血が濃い人間。本家の一握りは特に水との繋がりが深いから水がある場所へなら飛んでいける。もしどうしようもなく危ない時は水のある場所で俺を呼べ。すぐに行く。わかった?」
「わ、分かった」
 何とか頷くと、十和は楽しそうに笑い、更にぎゅっと楪を抱きしめた。
 死ぬかもしれない。
 楪は十和の腕の中でどこどこと煩い心臓の音を聞きながら思った。