そろりと宴会場の襖を開けると、既に全員着席していた。最前列に座っている両親と妃花の元へそろりと足音をたてないように歩き、こっそり座ったのだが、楪が帰って来たことに気が付いた両親は目を吊り上げた。
「どこへ行っていたの。先程貴方の夫が会いに来てくださったのよ?」
 楪は、げっと顔を顰めた。
 十和とのことですっかり忘れてしまっていたが、この場には楪が嫁ぐ予定だった男も来ているのだった。
 どうやら十和に会っている間に男との接触があったらしい。部屋を出て正解だったと内心でほくそ笑んだ。
「この後挨拶をすることになったから次はどこにも行くな」
 両親の言葉におざなりに返事をして、時間を確認すると約束の時間一分前になっていた。
「これ、どうしたの?」
 姫花が十和から貰った装飾品を指さしながら聞いた。
 咄嗟にどう答えるべきかわからなかった。誤魔化すことも出来ずに素直に「貰った」と答える。
「貰った? それにその蝶は?」
 楪の肩に乗っている蝶を訝し気に見つめていた姫花にどう答えるべきか悩んでいた時、前方の扉が開いた。そこから十和が宴会場に入って来た。その瞬間、室内に満ちていたざわめきが止まり、静まり返った。皆が十和の顔を見て息を飲む。
 呼吸を忘れる美しさだ。
 十和の後を季龍が追い、中心にやってくると頭を下げた。
「この度はお忙しいところ足を運んでいただき、ありがとうございます。この方が龍ヶ崎家次期当主、龍ヶ崎十和様でいらっしゃいます」
 季龍の説明に一瞬空気が緩みかけた。
「突然の招待に応じてくれてありがとう」
 十和の声に再び空気が引き締まる。
 神秘的な人形が口を開いた。客達はまるで不可思議なものを見ているような視線でじっと十和を見ていた。着物を身に纏う十和は綺麗さに磨きがかかり、異形の様な美しさがある。
 十和に見惚れていた人間の中で復活が早かったのは夢子だった。
「十和様。本日は招待いただきありがとうございます」
 客人を代表して頭を下げた夢子に十和が頷き返す。
「招待状でも書いていた通り、本日は正式な婚約者のお披露目をいたします」
 早速本題に入り、先程とは違う緊張感が部屋を包む。そわそわと落ち着かない娘と笑みを浮かべる名家の人間達をしり目に楪の緊張感も最高潮になっていた。
 この部屋の中に犯人がいる。部屋を見渡してみるが、誰が怪しいかなど判別できない。
 十和に視線を向けると目があったような気がした。その目に緊張の色はなく、大丈夫だと安心させるような視線に先程言われたことを思い出す。十和は絶対に守ると言った。それならば安心して囮役に全力を注ごう。
 楪はぎゅっと拳を握り、段取りを頭の中で思い浮かべ、その時を待った。
 部屋中の緊張感が最高潮になった時、十和が口を開いた。
「楪、こっちへ」
 部屋中がざわめいた。
 楪は十和の言葉に従い、十和の隣に座ると、戸惑いが室内を包んだ。
「この度、龍ヶ崎十和は椎名楪と婚約した」
 十和が高らかに宣言しても空気は引き締まる事無く、戸惑いと困惑で全員が顔を見合わせ、部屋中が騒がしくなった。
 あの女は誰なのか。
 椎名家とは無名の家では。
 当たり前だ。これだけ名家の人間が集っているのに選ばれたのがどこの馬の骨とも分からない女なのだから困惑するのも当然のことだ。推名家は名の知れた名家などではない上に能力も高くない楪が選ばれたことに困惑は次第に怒りに変わる。
 一番に声を上げたのは、楪の両親だった。
「何かの間違いではないですか? 龍ヶ崎様が選ばれたのはそちらではなく、ここに座っている姫花では? そのはずです。そちらの娘は選ばれる理由がありません」
「そうです、龍ヶ崎様。何か勘違いをしていらっしゃるのではないですか?」
 酷い言い草だが、両親の言葉は正しい。
 そして、それは招待客の総意だ。
 両親が声を上げたことで、他の人間も意見し始めた。
「何故、その娘を? 失礼ながら魅力があるとは思えません」
「私の娘こそ器量が良く、龍ヶ崎家のために尽力出来るでしょう」
「十和様、どうか。考えないしてくださいませんか」
「十和様」
「十和様、お願いします」
 悲痛な叫びを十和は一蹴した。
「俺が選んだ相手に何か不満があるのか?」
 声を張ったわけでもない、凛としたその一言で、騒いでいた人達は口を閉じ、顔色を悪くしながら俯いた。
 この場に集まっている殆どの人間は祓い屋をしている人間ならば頭が上がらない様な名家の出ばかりだ。その人達ですら龍ヶ崎家に反発することは出来ない。
 わかっていたつもりでいたが、とんでもない者と婚約してしまったようだ。
「納得してくれたようで良かった。では、そろそろ食事を始めようか」
 誰も納得していないまま宴会が始まった。

「何か、気になることはあるか?」
 箸を止めた十和の質問に首を振って答える。
 宴会は、無事進行していた。食事をとる者、十和に擦り寄ろうと話しかける者、十和と楪を観察する者、多種多様だったが感情のまま文句を言う人間はあれ以来現れない。両親は楪を鋭い目つきで睨んできたが、それ以上は何もない。
 姫花と目が合うと、小さく笑って手を振って来たので振り返した。
「犯人ってこの中にいるんですよね? もう少し絞り込めませんか?」
 宴会場には三十人以上いるので、誰を警戒すればいいか分からない。
「無理だな。犯人は女ということしかわかっていない。……ちなみにだが、あれは君の知り合いか?」
 十和が指をさした先にいたのは、怒りで顔を歪めた藤沢だった。
「はい、クラスメイトの藤沢さんです。あの人は前からあんな感じですよ」
「藤沢、ということは瑠璃川家の分家か? 前からって、一体何をしたらあんなに嫌われるんだ」
「それが心当たりが無くて……」
 楪は彼女の事を殆ど知らない。瑠璃川家というのは夢子の家だ。その分家に当たることも今初めて知った。
 藤沢とは三年になって初めて同じクラスになった。初対面の時から彼女は楪だけではなく多方面に対して威嚇するような振る舞いをしていた。心を開いているのはいつも共にいる友人くらいだろう。
「極力関わらないようにしていたんですけどね」
 何が原因で嫌われたのかわからないのであまり踏み込まないようにしていたのだが、もしかしたら逆効果だったかもしれないと藤沢の怒りで歪んだ顔を見つめながら思った。
 宴会は一時間続いたが、犯人が現れることはなかった。

 宴会がお開きになり、帰って行く招待客を見送りながら犯人が呼ばれていない可能性はないかと十和に耳打ちすると、彼は考え込む様な仕草をした後で首を振った。
「婚約者を名乗っていた人間は全て呼んだ。もしこの中に犯人がいないのなら現状はお手上げだ」
 証拠がない犯人を捜すことは出来ない。打つ手なしだ。
「だが、楪が正式に婚約者になったと知れば必ず向こうから接触してくるはずだ」
「囮役続行ですね」
 ふうと溜め息を吐き出す。覚悟を決めて囮役をやったのに何だか裏切られたような気分だ。来るなら一思いに来てほしい。
 いつ来るかわからない状態というのはかなりストレスだと知り、やはり姫花に役が回って来なくて良かったと思った。
 大勢の人間から視線を集めていたせいで変な緊張感がまだ残っている気がする。
「ちょっと外に出てきても良いですか?」
 新鮮な空気を吸いたくて言うと即座に十和は答えた。
「俺も行く」
 すくりと十和が立ち上がったのでぎょっとした。慌てて肩を掴んで座らせる。
「犯人がどこに潜んでいるかわからないんだから、一人では行かせないぞ」
「分かっています。だから式神を着けてくれているんですよね? この子がいれば大丈夫では……」
「あまりそれを信頼しすぎるな。強い力は込めているが万能ではないんだ」
「でも」
「俺を連れて歩くのは嫌なのか?」
 露骨に拒否してしまったせいか、十和はむっと顔を歪めた。
 怒っているというよりも拗ねているように見える顔は子供っぽく、断っている方が悪い気がしてきたが、了承することはできない。
「十和、は、その目立つから……騒ぎになりそうで」
 十和は良くも悪くも目立つ。十和が歩いているだけで擦り寄ってくる人間は多いだろうから、外に出るだけでも一苦労しそうだ。だからどうしても断りたかった。
 思い当たる節があるのか十和は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「確かにそうだが、俺と婚約した楪も十分目立つぞ」
「確かに……」
 注目を集めるタイプではないので失念していたが、婚約を発表した今は嫌でも目立つ。どうしようかと頭を捻っていた時。
「私がお伴しましょう」
 声のした方を見ると伊崎が微笑みを携えながら立ったいた。
「声をかけてくる相手がいれば私が上手く対処いたします。ずっと室内に居続けるのはストレスでしょう」
 伊崎の後押しで十和は渋々ながら了承した。
「それでは行きましょう」
 廊下には、帰らずに話し込んでいる人間がいた。その人達にばれないように伊崎に隠れながら廊下の縁を歩くと色々な人を見た。廊下には婚約できなかったことを嘆く者、怒りをぶつける者、中には泣いている令嬢の姿もあった。
 その人の隣を通る時には緊張で吐きそうになり、あの部屋を出るべきではなかったと後悔もした。
 何とかばれることなく外へ出ると新鮮な空気を吸い込むと体に入っていた力が抜けた。
「すみません、ついて来てもらって」
「私も外の空気を吸いたいと思っていたところだったので、お気になさらず。ずっと警戒していたら誰でも疲れてしまいますからね。息抜きは必要です」
 警護をしなければいけない伊崎達は楪よりもずっと気を張っていただろうに、その表情は何処までも柔和だ。
「すみません、ありがとうございます」
「感謝しなければいけないのはこちらの方ですよ。襲撃事件の犯人が何をしてくるかわからないのに囮役など、怖いでしょう」
 伊崎は申し訳なさそうに頭を下げた。
「頭を上げてください。確かに少し怖いですけど、でも嬉しくもあるんです」
「嬉しい?」
「私、これまで誰かの役に立った事とか全然ないんです。だから十和に必要だって言われて嬉しかったんです。期待してもらっているのなら、治癒要因でも囮役でもやりますよ。それに十和が龍ヶ崎家の警備は完璧だと言っていたので、そんなに不安はないです」
「そうですか。楪さんはお優しいのですね」
「自分勝手なだけですよ。絶対私よりも適任の人がいるのに、それを言わずにこうしているんですから」
 ここにいるのは楪の我儘だ。
 そう言ったが、伊崎は首を振った。
「それでも、やはり私は貴方を優しいと思いますよ」
 伊崎は孫を見るような目で楪を見ていた。その表情に祖母の事を思い出し、楪は照れたように頬を染めながら感謝を口にした。
「そろそろ戻らないと十和様が心配しますから、帰りましょうか」
 十分休息になったので了承して家の中に戻ろうとした時、手に持ち歩いていたスマホが震えた。
 実は先程からずっと震えていたのだが、画面を見るのが怖かったので無視していたのだが、戻る前に一度目を通しておこうと画面に目をやると画面には夥しい数の着信が入っていた。その殆どが両親のものでげんなりした。メッセージも多く、薄眼で見た限りかなりご立腹のようだったので無視をした。
 その中で、姫花からのメッセージが一件だけ入っていた。
『監視されているから電話はできないかも。落ち着いたら学校で話聞かせてね! 絶対だよ!』
 ほんの数分前の送られているメッセージはいつも通り明るいもので安心すると同時に監視されているという言葉が引っ掛かった。
 恐らく監視しているのは両親だろう。
 電話をすれば両親のどちらかが出るようなのでできない。メッセージも見られているかもしれないが、当たり障りのないことを打ち、じゃあ学校でと締めくくる。
「ごめんなさい、伊崎さん。戻りましょう」
 またあの廊下を歩くのは嫌だったが、あそこを通らないと戻れない。
 気合を入れて家の方へ足を向けた。
「――あら、もしかして楪さん?」
 伊崎の背後、今しがた家から出て来たのは夢子だった。可愛らしく小首を傾げ、薄い唇を上げて笑う。
「夢子さん? どうしてここに」
「ふふ、それは私の台詞では? 私は今から帰る所なんですよ」
 入口の方が騒がしくなった。誰かが出て来るかもしれない。
「少しお話ししませんか? こちらへ」
 夢子に連れられて入り口から離れ、家から出て来る客に楪達の姿が見えない位置まで移動した。
「ごめんなさい、連れ出してしまって。どうしても楪さんとお話ししてみたかったの」
「どうして私と?」
「十和さんとお話ししているのを見て、二人は本当に思いやっているんだなと思ったから。ほら、十和さんってちょっと他人と線を引くところがあるでしょ?」
 そうだろうか。十和との付き合いが数日の楪では知らないことが多い。それを夢子は知っているのだろう。夢子の言葉には十和への親しみが込められている。
「十和さんの事、好き?」
「えっ」
 急に聞かれ、思わず声を上げた。
 夢子の不思議そうな顔に慌てる。
 婚約者なのだからここは好きだと即答すべきところだった。不審がられる前に答えるべきだと思うのに、かあっと顔が熱くなるだけで口が空まわる。好き、などと言ったことは人生で一度もないのだ。本人に伝えるわけでもないのに緊張で手汗が滲む。
 真っ赤になりながら「あの、あの」と繰り返す様は滑稽だっただろう。そんな楪を見かねたのか、夢子は優しく笑いながら首を振った。
「そのお顔を見ればわかることでしたね。野暮なことを聞きました」
 どんな顔をしているのか、羞恥心から顔を隠したかったが失礼に当たる気がして曖昧に笑うことしか出来なかった。
「龍ヶ崎家を支えるもの同士、これからはよろしくお願いします」
 夢子がそっと手を差し伸べて来たので握ろうとすると、ふわりと楪の肩口から水色の蝶が飛び出した。夢子は突然現れた蝶に目を丸くてしてその不規則な動きを目で追う。
「これは、十和さんの式神ですか?」
「そうです、ちょっとの間借りることになってて」
「へぇ、良いですね。こんな綺麗な蝶と共にいられるなんて羨ましいです」
 蝶を愛でるように追う夢子は、自称婚約者襲撃事件のことを知っているのか疑問に思った。十和は龍ヶ崎の人間は知っていると言っていたから近しい関係らしい夢子にも話しているのではないだろうか。
「龍ヶ崎の婚約者というか、特殊な血すじの当主の婚約者は危険が付き物ですものね」
 話そうとしていた言葉は、夢子の一言で飲み込んだ。
「どういうことですか?」
「十和さんから聞いていませんか? 龍人の血が入った龍ヶ崎家や鬼の血が入った百鬼家など、特殊な家はそれだけ力を持ち、それだけ敵も多い。力の弱い婚約者は敵の狙い目になります。十和さんと結婚するということは危険と隣合わせになるということなんです」
 夢子は真剣な顔をした後にすぐに笑顔に戻った。
「でも、問題ないですね。その式神がいるかぎり。守って貰えて良いですね」
「あ、はい。そうですね。私は強くはないので……」
 何だか、夢子の言葉に棘がある様な気がした。気のせいかもしれないが、すっと胸が冷えるような嫌な感じだ。
「敵の狙い目にならないように気をつけてくださいね。ほら、十和さんのお邪魔になったら困りますもの」
 言いたいことを言って夢子は優美に会釈をすると、去って行った。
 その背を目で追いながら楪は「うーん」と口の中で唸った。
 龍ヶ崎家の入ることへの忠告は有り難いことのはずなのに何故か気分が沈んだ。夢子はきっと悪い人ではないと思うのに一方で首を傾げる自分がいる。
 どうしよう、苦手かもしれない。
「どうかしましたか?」
 背後で待機していた伊崎に声をかけられ首を振る。
 所詮かりそめの婚約者に過ぎないのだから深く考える必要はないと頭を切り替えた。
 そう言えば襲撃事件のこと話していなかったと思い至ったのは十和の元に戻った後だった。

「瑠璃川夢子と話を? どういった話をしたんだ」
 夢子の話になった時に驚いたのは、十和が夢子の事を他人行儀に呼んだことだった。
「どういったって、龍ヶ崎家の人間と婚約することの心得的な物でしたね。あの、夢子さんとは、どういったご関係なんですか?」
「どういう……。そうだな。瑠璃川家は祓い屋の名門で、呪符などの呪具と呼ばれるものの製造を得意とているから龍ヶ崎家も懇意にしている。瑠璃川夢子は瑠璃川家の中でもかなりの実力者で、昔から顔を合わせていたな」
「それだけ?」
「ああ。仲は別に悪くないぞ。特別良くもないが」
 十和は嘘を言っているようには見えない。しかし、夢子の言葉に含まれていた親しみは十和の言葉からは感じられない。言葉の通り特別仲が良いわけではないように思えた。
「じゃあ、襲撃事件のことは」
「勿論知らない。あの話は龍ヶ崎家の者にしか言っていない。他人に話すことではないからな」
 そうか、と納得すると同時に、話さなくて良かったと心底ほっとした。あの時話していたらきっと十和から信用されなくなっていただろう。口が軽い女だとは思われたくなかった。
 夢子との仲を考えると今後積極的に関わることはなさそうだ、と安堵して一瞬気が緩んだ。しかし、直ぐに力を抜いている場合ではないことを思い出す。
 今現在、楪達は場所を移動し、十和が普段生活している本家へとやって来た。先程いたのは催しで使う家だったらしく、十和曰くかなり狭いらしい。あの大きさでも椎名家よりは大きかったので、もしかしたら十和は椎名家を見たら犬小屋と勘違いするかもしれない。
 龍ヶ崎の本家は、敷地のど真ん中にあり、十和が言った通り大きかった。
 平屋の日本家屋は美しく、見る物を圧倒する。楪は家の見た目の圧に言葉を失っていた。
 この中に入り、両親に挨拶をすると言われた時には卒倒しそうになった。
 夢子の話題が出たのは、楪があまりにも緊張しているので気分転換にと十和が振ってくれた雑談からだった。その話が終わると緊張がぶり返してきたが、そろそろ覚悟を決めて入らなくてはいけない。
「よし、行こう」
「本当に大丈夫か? 今日は止めて置いても良いんだぞ」
「止めたらどこで寝る気ですか」
「ホテルでも取ればいい」
「大丈夫です。今いかないと一生行けない気がするから一思いに行ってしまいたい」
 楪が顔を強張らせながら何とか頷くと十和は頷き返し、躊躇いなく扉を開けた。
 開いた扉の先は、圧巻だった。
 左右にずらりと並んだ人、人、人。
 綺麗に並んだ人々が十和の帰りを待っていた。
「ただいま……」
「おかえりなさい、十和様」
 先頭に立っていた女性がはっきりとした声で挨拶をすると後ろに控えていた人達が輪唱して頭を下げる。統率のとれた軍隊を見ているようで、楪は呆気にとられた。
「はあ、気合が入っているのは分かるが、そんなに前のめりになるな」
「そうはいいますけどね、十和様。私は本当に嬉しいのですよ。まさか十和様が婚約者を連れて帰って来る日が来るとは思っておりませんでしたから」
 十和の一歩後ろに立つ楪と目が合うと、その女性はわっと声を上げた。
「貴方が楪様ですね! ようこそいらっしゃいました」
「は、はい。椎名楪と申します。よろしくお願いします」
 爛々と輝く目で見つめられながらなんとか挨拶を返すと、十和が間に入った。
「ここでする話じゃないだろう。とりあえず中に入らせてくれ。それから楪を部屋に案内してやってくれ。あと着替えだが」
「勿論承知しております。この夕凪にお任せください」
 胸を張って言い切った夕凪という女性に連れられ、楪は広い和室に連れて来られた。龍ヶ崎家は広く精錬された雰囲気で、華美な装飾はあまりなく落ち着いていた。
 夕凪に案内された部屋は楪の部屋よりも広い和室だった。家具はテーブルと小さな棚だけだ。部屋が広いせいか寂し気な印象だ。
「ここが楪様のお部屋になります。家具はご本人の意向に沿った方が良いと思い、最低限な物だけを入れております。欲しい家具がありましたら直ぐに教えてください」
 テーブルの上にカタログがあるのに気が付いた。表紙からして安い物はなさそうだ。
「大丈夫です。ありがとうございます」
 頭を下げると夕凪は慌てた様子で言った。
「頭を上げてください。私はこの龍ヶ崎家の使える者。当然のことをしているだけです。それに貴方は次期当主の婚約者。そんなに簡単に他者に頭を下げては駄目ですよ」
「は、はい。すみませ……んん」
 再び謝りそうになり、慌てて口を閉じると夕凪は微笑ましそうな目で見て来た。
「お可愛らしい。髪飾りを頂いて喜んでいらっしゃる時から可愛らしいと思っておりましたが、本当に可愛らしい。まさか、あの十和様がこんな可愛らしい子を迎えなさるとは思っておりませんでいた」
 髪飾り、と言われて記憶が刺激されて思い出した。控室で十和が髪飾りを持ってくる時に話していた女性と夕凪の姿と重なる。
 あの場面を見られていたと思うと恥ずかしくてたまらなくなる。
 赤くなった顔を見た夕凪が可愛らしい可愛らしいと言うので、更に顔を赤くした。
「ああ、こんなことをしている場合ではないですね。早く着替えないと」
 そう言って夕凪は部屋の奥の襖を開けた。そこに広がっていたのは、たくさんの服だった。着物の類もあるが、ワンピースなどの洋装もある。
「これは?」
「楪様の服ですよ。この中から選んでください。あ、好みの物が無かったら直ぐにおっしゃってくださいね。用意いたします」
 夕凪は冗談を言っているようには見えない。楪が一言好みじゃないと言えば新しい服を新調しそうだ。
 金銭感覚の違いに戦きながらなんとか服を選ぶ。いつも家で着ているのはTシャツに短パンだが、そんな格好でこの家をうろつくわけにはいかないので、手触りの良い白いワンピースにした。
 夕凪に手伝ってもらいながら着替えをし、惜しかったがワンピースには合わないので髪の装飾も取る。
 これは十和に返さなくてはいけない。
「楪、終わったか?」
 部屋の外から十和の声が聞えたので、扉を開けると着替えた十和が立っていた。しかし、部屋着というにはかっちりしている和服姿に服装の選択を間違えたかと思ったが、どうやら十和はこれから出かけるらしかった。
 夕凪と入れ替わりで十和が部屋に入る。
「任務が入ったからこれから出ることになった。一人にして悪い」
「大丈夫です。夕凪さんとても優しかったので」
「それにさっきの事も。皆には普通にしていろと言ったんだが、変に張り切ってしまったらしい。驚いただろう」
 あの熱烈な歓迎の事を言っているのだと気づき、苦笑が漏れた。
「歓迎されているみたいで嬉しいんですけど、申し訳なさが勝ちました」
「申し訳ない?」
「婚約って言っても契約ですから、あんなに喜んでいるのに騙しているみたいで申し訳ないです」
「ああ、そんなことか。それなら問題ないから気にするな」
 どうしてか聞こうとしたが、頭を撫でられ黙らされた。
「そろそろ出ないといけない」
「うん、気を付けて、いってらっしゃい」
 手を振ると、十和は少し驚いた顔をした後に目元を優しく和らげた。見たことがない優しい笑みに楪は片手を上げたまま動けなくなる。
「行ってくる」
 どうしてそんな風に笑うのだろうか。分からないまま楪は十和を見送った。
「あ、返しそびれた」
 手に髪飾りを持ったままだった。帰って来た時に返さなくては。
 髪飾りを棚の上に置き、一息つく。
 さて、これからどうするべきか。
 十和がいないのに家の中を出歩くわけにはいかないが、一人で取り残されても暇を持て余してしまう。部屋の中で暇を潰せるものと言ったら家具のカタログぐらいだろうか。しかし頼むわけでもないのに見るのもな、と思い直し、スマホを取りだすと桃からメッセージが届いていた。
『龍ヶ崎十和と婚約したって本当? 面白いことになってるね』
「げっ。もう伝わっているの……」
 恐らく学校に行く頃には周知の事実になっているだろう。好奇の目に晒されるのは確実だ。
 憂鬱な気分になりながら桃に返信していると部屋の前に誰かが立っていることに気がついた。
 夕凪だろうか、と思ったが、それなら直ぐに扉をノックするはずだ。
 まさか襲撃者だろうか、と警戒しながら立ち上がると、恐る恐る扉を開けた。
 部屋の前に立っていたのは綺麗な女性だった。丁寧に作られた人形のような顔をしている。後ろで上品に髪を結い上げ、一目で質が良いと分かる着物を身に着けている。襲撃者には見えない。その雰囲気で直ぐに龍ヶ崎家の十和の血縁だと気が付いた。
 目を丸くする女性に、もしかしたら楪の事を聞かされていないのかもと疑念が浮かぶ。女性からしたら知らない女が家に上がり込んでいる状態だ。
 楪は慌てて手を上げて弁明した。
「すみません、あの私、怪しいものではなくて、十和、さんの、その」
「こ、こちらこそ、ごめんなさい! ノックしようと思っていたのに全然勇気が出なくて」
 突然の親族乱入で気が動転している楪と同じくらい目の前の女性も動揺していた。
 しかし直ぐに立ち直り、楪の顔を正面から見据えると「十和の婚約者の楪さん?」と聞いた。
「はい、椎名楪と申します」
 女性の目に既視感を覚える。薄紫の神秘的な目をここ数日よく見ていた。
「もしかして、十和さんのお母様ですか?」
 美しい薄紫色の目が驚きで大きくなる。
「ど、どうしてわかったの? 私、十和にあまり似ていないって言われるのに」
「綺麗で温かい目がそっくりで」
 もしかして龍ヶ崎家の人間は皆綺麗な瞳をしているのかもしれないと思ったが、十和は母親の反応を見る限り違うらしかった。十和の母親は口元に手を当てて「まあ」と嬉しそうに目を細めた。
 その優しい笑顔は行って来ますと言って部屋を出て行った十和とよく似ている。
「そんな風に言われたの、初めて。あの子は冷たい印象を受けがちだから。きっと貴方の前では優しくいようとしているかもしれないわ」
 そう言われた時、車で脅されたことを思い出したが、それ以降の十和は確かに優しかった。結い上げた髪を彩る髪飾りを貰った時は、とくに優しかった。不意に目の下にキスをされたことを思い出して顔が赤くなりそうになり、慌てて話題を変える。
「あのどうしてここへ?」
「それは十和に夕食は一緒に食べられるか聞きたかったんだけど、部屋にいなくて。もしかしてこっちかもしれないと思って来たんだけど……」
「十和さんはさっき任務に行かれましたよ」
「あら、そうなのね。それなら、もしかしたら一緒に食べるのは無理かもしれないわね。任務の内容によっては夜の内に帰れない時もあるから」
「そうなんですね。早めに帰るとは言っていたんですけど」
 声が自然と沈んでしまったせいか、慰めるように肩に手を置かれた。
「十和が帰って来るまで良かったらお話ししません? お暇でしたら、話し相手になってくださると嬉しいのだけど」
 少しだけ視線を下げて窺う様に見られて断れるはずがなかった。それに一人残された楪は暇を持て余していた。

 部屋から移動してやって来たのは洋風の部屋だった。本と花に囲まれた部屋は図書館の様な匂いがした。そこへ龍ヶ崎家の使用人が紅茶を運んで来たので、部屋の中は一気に紅茶の良い匂いに包まれる。
 部屋の中央にある机に向き合って座ると、十和の母親――龍ヶ崎雪は運ばれて来たクッキーを一口齧った。
「あの、楪ちゃんは、クッキー好き?」
「はい。好きです。甘いものは何でも好きです」
「そうなのね。私も甘いものは好きで……ってそんなことどうでもいいわね。そんなことが聞きたいんじゃなくて、その……楪ちゃんは、十和のどこが好きなの?」
 何という質問を。
 楪は思わずクッキーを潰しそうになった。ぱきりと折れたクッキーを何でもない様な顔をして口に運びながら、そうですねと思案しているように口の中で呟く。動転しているせいで噛むことも出来ずにそのまま嚥下し、必死に頭を巡らせる。
 十和の好きな所と言われても契約の上に成り立っている婚約なので、咄嗟に答えられない。
 あまり黙ると不審がられてしまうと必死に頭を捻る。十和は優しく、頼りになる。しかし、それは何だか安直過ぎて答えるのは気が引けた。顔は世界で一番綺麗だと思っているが、それを言うわけにはいかない。
「……答え辛いよね。ごめんね」
 中々答えない楪に雪は困ったように眉を下げた。
「違うんです。一つに絞るのが難しいというか……」
「そうなの?」
 途端、雪は目を輝かせて前のめりになった。
「こういうのってあまり聞かない方がいいかしらね。ふふ、ごめんね」
「いえ、いいんです」
 十和は気にするなと言ってくれたが、龍ヶ崎家の人を、今は雪を騙しているようで心苦しかった。襲撃犯を捕まえるためには仕方ないとはいえ、十和の母親には真実を打ち明けた方が良いのでは、と思う一方で、真実を告げて雪が悲しむ様子は見たくなかった。
「十和はね楪ちゃんの強くて優しい所が好きって言っていたのよ。あ、これ、私が言ったって言っちゃ駄目だからね」
「え?」
「こんなこと言っちゃ駄目だったかしら。私、浮かれているわ。十和はもしかしたら一生結婚なんてしないと思っていたから」
「それ、他の人も同じようなことを言っていたんですけど、どうしてですか? 十和は凄くモテて、選り取り見取りなのに」
 雪は辺りをきょろりと見渡し、周りに誰も居ないことを確認すると楪の方へ顔を寄せた。
「これは本当は言っちゃ駄目なんだけどね、十和は昔から恋愛結婚がしたいって言っていたの。こういう名家って政略だとか色々な下心が結婚に関わって来ることが多いんだけど、十和はそんなの絶対に嫌だってずっと突っぱねていてね、その癖に恋愛をしている様子もなくて、このまま一生独り身なんだろうなって考えていたところだったのよ」
「恋愛結婚?」
 十和と楪の間に恋愛はないはずだ。雪の話が本当ならば、この婚約は十和が嫌がっているものではないのか。
 恋愛結婚の夢を諦めるくらい治療してくれる人間が近くにいて欲しかったのだろうか。
 十和の考えていることが分からなかった。
「十和は、好きな人とかいなかったんですかね」
「好きな人、というか気になっている人はずっといたみたい。もしかしたらそれが楪ちゃんじゃないかと思っていたんだけど、違う?」
 楪は答えることが出来なかった。
 十和と楪が出会ったのは、数日前だ。ずっと気になる人がいたのならそれは別人だ。恋愛結婚がしたくて、気になる人がずっといるのに、治療のために楪との結婚を選んだと思うと胸がぎゅっと痛んだ。
 十和の体が誰の治癒でも受けられる体だったのなら、もしかしたらその人と婚約しているかもしれない。
 ふと、今からでも遅くないのでは、と気が付く。
 襲撃事件を解決し、事情を説明すれば龍ヶ崎家の人間は分かってくれるはずだ。その後で婚約破棄をすれば十和は好きな人と結ばれ、楪は家に帰ることはできないので治療役として雇ってもらえばいい。名案だとばかりに頷く。
 優しい人だから、幸せになってほしい。
 少しだけ胸が痛んだ気がしたが、気のせいだと思った。

 十和が帰って来たのはそれから五時間後のこと。夕食には間に会わなかった。
 龍ヶ崎当主、十和の父親も急遽長期の任務が入ったようで、結局夕食は雪と二人でとった。夕食を食べ終え、雪に促されるまま風呂に入り、部屋でぼんやりしている所にノックの音が響いた。
「どうぞ」と返すと、すぐに扉が開いた。
 十和は部屋に入って来るなり、楪の事を見て一瞬言葉を止めた。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
「風呂に入ったのか?」
「うん、ご飯食べた後に雪さんに言われて、先に入りました」
 家主よりも前に入ることに気が引けたが、雪も十和も気にした様子はない。
「怪我はない?」
 帰って来た十和は任務を熟したとは思えないほど出た時と同じく綺麗だった。傷どころか乱れ一つない。
 任務と言っても激しい動きはしないのだろうか。
「ない、が少し疲れた。癒しをくれないか?」
 治癒には身体の傷を治すだけではなく、疲れを癒す効果もある。楪は頷き、十和の手を握る。
 ごつごつした男の手だ。しかし表面は滑らかで傷一つついていない。ふっと息を吐くと握っている手が微かに光り、温かくなる。
 じんわりとした光は傷を治し、疲労を回復する。
「ありがとう。こんなに体が軽いのは久しぶりだ」
「大したことはしていないですよ。これは初歩的なもので……あっ!」
 今まで忘れていたが、先日公園で会った時に腕を治して貰っていたことを思い出した。
「あの時は腕を治していただきありがとうございました。治癒が出来る人があまり周りにいないので、あんな簡単に直して貰ったの初めてで、嬉しかったです。お礼が遅くなってしまってごめんなさい」
「普段は、どうしているんだ?」
「皆と同じですよ。普通に保健室で治療します」
「そうか、自分の傷は治せないんだったな」
 十和の手が楪の腕をそろりと撫でる。そこには茶色く残っている傷跡がある。周りの人間を治すことが出来る楪は、クラスメイトが怪我をするとその傷を治した。しかし自分の傷は治せなかった。どう頑張っても治らず、弱い楪は体の傷を増やしていった。
 十和みたいに綺麗な手じゃないことが恥ずかしかった。
 そっと手を引こうとすると、逆に十和に腕を引かれ、傷跡に口づけられた。
 愛おしむように、慈しむように。優しく口づけられ、一瞬呆けたが、すぐにかっと顔が熱くなる。
「治らないな」
 口を離した十和がぼそりと呟いた。
 当たり前だ。十和が口付けたのは数年前にできた傷で、痕は残っているが傷自体は治っている。
「な、な、なんで」
「ん?」
「何で、すぐキスするの」
 楪は赤くなった顔を両腕で隠しながら言った。
 十和は直ぐにキスをしてくる。公園や車の中、人の目が合っても変わらない。他国はキスが挨拶だと言われているが、ここは日本だ。キスで挨拶はしない。楪は好きな人としかキスはしないものだと認識して生きて来た。
 十和は昔から気になる人がいるらしい。それは楪ではない。それなのに何故楪にキスをするのかわからなかった。
「他に好きな人がいるくせに」
 混乱して、雪に口止めされていた言葉を喋ってしまった。
 その瞬間、至近距離にある十和の顔がぐっと歪んだ。
「はあ? 何を言っているんだ」
「……風の噂で聞きまして、ずっと前から気になっている人がいるとか。恋愛結婚しかしたくないとか。だから、私、事件が解決したらすぐに婚約破棄を――」
「ちょっと待て」
 ぴしゃりと冷静な声が暴走気味な楪の言葉を止める。
「お前……君は、俺が好きでもない人間に口付けるような男だと思っているのか?」
「い、いや、そういうわけじゃないけど」
「俺は好きな人としかキスしない」
 薄紫の美しい瞳は少しも揺れることなく言い切った言葉に、楪は混乱した。ずっと混乱している気がするが、頭の中がぐちゃぐちゃで自分が何を言うべきなのかも分からない。言葉が上手く出て来ない。はく、と口が息だけを吐き出す。
 何を言われたのか分かった時、これ以上ないぐらい顔が熱くなり、叫び出しそうになった。
「私の事、好きってこと? 何で? 私達、この間初めてあったばっかりなのに」
 十和が顔を隠している腕を剥ごうとしてくるので、必死に止めながら言うと、十和の手がぴくりと震え、力が弱くなった。
 腕の隙間から窺うと、十和は複雑な顔をして楪を見ていた。
「……覚えていないのなら別にいい。ただ忘れないでくれ」
 目が切なく細められる。
「俺はあの時から楪が一番大切だ」
 あの時って、いつ。そう聞きたいのに十和があまりにも切ない声を出すから聞くことが出来なかった。
「今日は、この辺にしておこう。忙しかったし、疲れだだろう。ゆっくり休め」
 十和は部屋を出る間際、楪の頭を撫でた。
「お休み」
「お、おやすみなさい」
 震えそうになる口で何とか挨拶をすると、十和はふっと笑みを浮かべて部屋を出て行った。
 残された楪は赤くなった顔を抑えながら唸り声を上げた。
「明日から、どんな顔をすれば……」
 告白などされたことがない。いや、そもそも今のは告白だったのだろうか。好きと言われたわけではない。暗に言われた気がしなくてもないが、直接的な表現じゃなかったのでされていないことにしよう。
「……とりあえず、寝よう」
 深く考えることは明日の自分にまかせて。楪は布団に転がった。
 髪飾りを返すのをまた忘れたことに気付いたのは、翌日の事だった。