目覚ましの音を止めると、ゆっくりと起き上がる。外では鳥が陽気に囀り、輝かしい太陽の明かりが窓から入り込んでいると言うのに楪の顔色は悪かった。それもそのはず、一睡もしていないのだ。
 龍ヶ崎との邂逅で混乱した頭は一向に落ち着かず、考え込んでいたら気が付いたら朝になっていた。
 頭が重い。今更眠気がやってきて瞼を重くしている。このまま寝たら幸せだろうが、残念ながら今日も学校だ。放課後に十和と会う約束もあるので休むわけにはいかない。
 そもそも両親は簡単に楪を休ませてはくれない。もしかしたらもう学校など行かなくてもいいなどと言って休ませてくれるかもしれないが、そうなったら今日は家から出られなくなるだろう。
 ぞっとしながら重い体を起した。ぐっと両腕を上げ伸びをすると、幾分か体が軽くなった気がする。
 今日こそ直ぐに家を出ようと決意して部屋を出ると廊下を歩いていた母親に捕まってしまい、強制的に朝食の席に着くことになった。その前に顔を洗いに洗面台に行って顔を洗うとさっきよりもすっきりした。しかし、鏡に映る自分の顔は隈がうっすらと浮き、顔色は最悪だ。
 朝食が用意していある部屋へ行き、昨日と同じ席に着くと楪を一瞥した父親が言った。
「何だその顔は。そんな顔では相手にされないだろうが。明日はちゃんとしろ。ただでさえお前は美人ではないのだから最低限見れるようにしておけ」
「そうよ。隈が酷いわ。もしかして緊張して眠れなかったのかしら。そんなんじゃ駄目よ、しっかりしないと」
 両親の話に適当に相槌を打っていると、姫花が部屋に入って来た。顔色の酷い楪とは違い、艶のある肌はうっすら桃色に輝いている。眠たげに欠伸している様すら可愛らしく、鏡で見た楪の顔とは雲泥の差があり、ため息を吐きそうになった。
「ゆずちゃん、どうかした?」
「何でもないよ。姫花は今日も可愛いね」
「やった、ゆずちゃんに褒められちゃった。ふふ。……そういうゆずちゃんは顔色悪いね、眠れなかったの?」
「うん、まあ」
 頷こうとした時、二人の界隈に母親が割り込む。
「そうよ、明日はいよいよ結婚相手が来るからって緊張して眠れなかったみたい。姫花は緊張してもきちんと眠らないと駄目よ? 龍ヶ崎家に嫁ぐんだから身なりをきちんとしていないと」
「私の顔合わせはいつなの?」
「そうねえ」
 母親がちらりと父親の顔を窺う。すると父親は顔を顰めて首を振った。
「まだ龍ヶ崎家から良い返事がないんだ。全く、実力のある姫花が嫁ぐと言っているのだから悩むことなど何もないだろうに」
 どうやら龍ヶ崎家からの返答はないようだ。学校で聞いた話が本当なら自称婚約者候補は山ほどいるらしいので、花嫁の選定に悩むのは当然だろう。
 両親の話など普段なら興味はないが、今日に限ってはじっと耳を澄ませていた。どうしても龍ヶ崎家の次期当主の名前が知りたかった。昨日出会ったあの男は別れ際に龍ヶ崎と名乗った。あの身なりからして事実の可能性が高い。そうなると問題なのはあの男が何者なのかになってくる。もし次期当主ならば姫花の結婚を邪魔することになってしまう。それは出来れば避けたい。
 本当はさっさと名前を聞いてしまいたいが、口を挟むと怒りを買いそうなのでじっと聞き耳を立てることしかできない。
 しかし残念ながら目当ての名前が出ることはなかった。
 また話題が楪の結婚に移るのは避けたいので、食パンを口に頬張り立ち上がった、丁度その時バイクの音が聞えてきた。玄関先で止まったその音に両親は驚き、興味が楪から移る。
「誰かしたらこんな時間に」
 玄関の方を覗いてみると、玄関前に誰かが立っている気配がするが、インターホンが押されることはない。不審者だろうかと思い始めた時に、かたんとポストが鳴った。
「あら郵便屋さんかしら」
 こんな時間に?
 その場にいた全員が頭に浮んだ疑問に立ち上がったのは父親だった。すたすたと部屋出て行った。
 戻って来た父親の手には手紙が握られている。玄関前で読んだようで、封が開いている。
「あなた何の手紙だったの?」
 母親の問いかけに父親は破顔し、手紙を掲げた。
「龍ヶ崎家で行われる宴会への招待状だった! どうやらそこで花嫁が決まるらしい。家からは四人全員参加するように書かれている」
「やったじゃない! それで、日にちは?」
「明日だ」
「明日? 随分急なのね。それに明日はあの方が来られるんじゃなかった? ああ、この子だけ置いて行けばいいのね」
 母親は楪の事などどうでもいいと言った様子で直ぐに切り替えたが、父親は首を振った。
「そうしたいのはやまやまだが、招待状に四人でと書かれてある以上四人で行くべきだろう。一人足りないと言うのが欠点として扱われる可能性もある。先方には事情を話そう」
 父親は早速楪の結婚相手に連絡を取り始めた。浮かれている両親をしり目に楪は内心焦っていた。
 おじさんとの顔合わせが延期になったのは喜ばしいことだが、十和と契約結婚の話をした翌日に宴会の誘いがあるのは偶然だろうか。今まで龍ヶ崎と何の関わりもない家が呼ばれることなどあるのだろうか。ご丁寧に手紙には四人で来いと明記されているのも気になる。
 そろりと窺うように姫花が楪の手を握った。
「ねえ、ゆずちゃん。私が向こうに嫁いだら私達って会えなくなるのかな?」
 姫花は楪を見ていなかった。じっと前だけを見る目に困惑しながらも安心させるように小声で言葉をかける。
「会えるよ、学校も一緒なんだから」
 姫花が何か言おうとしたが、その前に両親の視線が楪に向けられた。
「どうやら先方も招待を受けているらしいから、お前の顔合わせもそこで行うことになった」
「え」
 延期されたと油断していたので反射的に顔が歪む。
「何だその顔は。明日はそんな表情を絶対にするなよ。いいな」
「貴方は愛想が良くないんだからきちんとしなさい」
 両親の言葉に楪は乾いた笑みを溢した。
 楪この時自分のことでいっぱいいっぱいで姫花の事を気に掛ける余裕がなかった。

 寝不足で重い体を引きずりながらなんとか学校へ行ったが、教師の声が子守唄のように聞こえ授業中は殆ど意識が無かった。
 今日は実技が無くて良かった。もしあったなら昨日よりも酷い有様だっただろう。
 昼食の時に桃に顔色が酷すぎると心配されたが、何とか一日を無事に乗り切り、十和と約束した放課後になった。迎えに来ると言っていたが、果たして本当に来るのだろうかと学校を出た所で数メートル先に見たことがある高級車が止まっていることに気が付いた。
 周りを警戒つつ恐る恐る近寄ってみると、後部座席の窓が開き十和が顔を出した。
「入れ、中で話そう」
 高級車に乗るなんて初めてどぎまぎしながら十和の隣に乗り込む。恐ろしく柔らかい座席に戦いていると、車が発進した。
「さっそくだが本題に……顔色が悪いな、大丈夫か?」
「ああ、はい。大丈夫です。少し寝不足で」
 色々考えていたら眠れなかったと欠伸を押し殺すと、十和は苦笑を漏らした。
「万全な体調じゃない時に悪いな。最初に謝っておく、すまない」
 体調が悪い時に連れ出したことを言っているのかと思ったが、どうやら違うようだ。
「今朝、宴会の招待状が届いたと思うが、あの場で俺達の婚約発表をすることになった。本当は内密に話を進める予定だったが、家の人間が嬉々として準備を始めてしまって、止める間もなく……」
「ちょ、ちょっと待ってください。確認しておきたいんですけど、十和さんって龍ヶ崎家の次期当主様なんですか?」
 そうじゃなければいい。どきどきしながら返答を待っていると十和は小首を傾げて何でもないことのように言った。
「なんだ、言っていなかったか? そうだ。俺が龍ヶ崎家の次期当主だ」
 願いは呆気なく否定され、楪は一瞬呼吸を忘れた。
 悪い予感は当たる。
 十和は姫花と結婚する予定の人間だった。十和と婚約すれば姉である楪が姫花から横取りしたようになる。
 この泥棒猫、と両親から頬を殴られる想像が一気に頭を巡り一層気分が悪くなった。
 両親は絶対に楪と十和の結婚を反対するだろうが、それは一旦どうでもいい。問題は姫花がどう思うかだ。ゆずちゃんが幸せならいいよと微笑んでくれそうな気もするが、陰で泣いていたらどうしよう。
「……む、無理です」
「は?」
「やめましょう、婚約するの」
『今さら何を言っている」
「そもそも十和さん的には治療できる人間がいればいいんですよね? だったら結婚なんてしなくてもいいじゃないですか」
 必死になって否定する楪と対照的に十和はずっと冷静だった。
「今更そんなことを言い始めたのは君の妹が婚約者候補だからか?」
 まさか把握しているとは思わなかった。藤沢の話によると数々の名家が自称婚約者を名乗っているらしいが、それ全部を把握しているのだろうか。
「全員把握しているわけではないが、君の両親が俺の家に直接手紙を送って来たからそれには目を通した。残念だが俺は万が一君との結婚がなくなっても妹と結婚することはない」
「どうしてですか?」
「はあ? どんな人間か分からない奴と何か結婚できるか」
 ふんと鼻を鳴らした十和に楪は首を傾げた。
 十和と楪が出会ったのは昨日が初めてで、そんなに会話を重ねたわけでもない。殆ど姫花と条件は変わらないと思うのだが、それを問う前に十和が続ける。
「それに事情を聞けば君はこの結婚を受けたくなる」
「事情?」
「さっき招待状の話をしたな。本当は宴会など開かずに俺が君の家に赴いて両親と話をつけるだけにして内密に話を進めようとしていたのだが、上の人間が勝手に君の家や名家に手紙を送りつけてしまった。その理由は、ここ最近頻発している事件が関係している。何か知らないか?」
「いえ、事件って何かあったんですか?」
「俺の婚約者を名乗っている人間が妖魔に襲われる事件が頻発している。幸いまだ死者は出ていないが、その内取り返しにつかないことになりかねない。祓い屋として何とか早期に解決したいのだが、妖魔がどういう出没条件なのかもわかっていない。ただ被害者が俺の婚約者を自称しているとしか、何も分からない」
 十和の言わんとすることを察し、楪は顔を青くした。
「ま、まさかこの宴会って、犯人をおびき出すためのもの、ですか?」
「そうだ」
 神妙な顔で頷いた十和に楪はひっと悲鳴を上げかけた。
 つまり龍ヶ崎家は楪を囮に犯人を誘き出そうとしているらしい。四十代の男との結婚から逃れたと思ったら殺されるかもしれない懸念が生まれる事態になった。全く笑えないが、引きつった口からは笑いが漏れた。
「宴会で危ない目にあうかもしれないってことでしょうか」
「それはない」
 きっぱりと断言した十和に目を丸くすると、紫色の神秘的な目が真剣な熱を帯びて楪を見た。
 綺麗過ぎる瞳に見つめられ、ぎくりと体が固まる。
「俺が絶対に楪を守る。だから安心してくれ」
「ひえ」
 美しすぎる顔面を目の前にすると人間は思考力が下がるらしい。小さく悲鳴を上げて思わす頷きそうになってしまったが、慌てて首を振る。
「その婚約所候補を襲っている妖魔が出なかったらどうするんですか?」
「妖魔が出ない可能性はある。だが、絶対に犯人はその場に現れる」
「犯人?」
 その言い方ではまるで人間が関わっているみたいだ。楪の疑問に十和は真剣な顔で頷いた。
「ああ、この襲撃事件には裏で人間が糸を引いている。だから婚約者候補を狙っているその人間は必ず宴会に顔を見せるはずだ」
「でも宴会って完全招待制なんですよね? どうやって犯人を呼ぶんですか?」
「襲われている人間が共通して証言しているのが、意識を失う直前に女の声で『私が婚約者に選ばれるんだから邪魔をしないで』と言われているらしい。つまり犯人も婚約者を名乗っていると考えた方がいい。万が一呼んだ人間の中にいなかったとしてもそこまで俺に執着している人間ならば必ず宴会には来る筈だ。どんな手段を使ってもな」
 犯人像は見えないが、自称婚約者を名乗っているだけで襲ってくるなんて相当十和に執着している。十和の言う通りなんとしてでも宴会にやって来て婚約者になる人間を殺しそうだ。
 十和は守ると言ってくれたが、果たして信用できるのだろうかと怪しむ気持ちが表情に出た。
「不安そうにするな。家の警備は万全だ。危険なことなんてない」
 龍ヶ崎家と言えば祓い屋のエキスパートだ。実力は楪が想像している以上に強いのだろう。しかしやはり不安は消えない。
「言っておくが、君が嫌だと言っても俺は楪以外と結婚する気はない」
 その言葉にどきっとしたのもつかの間、十和はとんでもないことを言い始めた。
「……君に断られても妹とは結婚しないと言ったが、あれは嘘だ。もし君が断るのなら俺は妹をおとりに……妹と結婚して犯人を捕まえる。優しい君は妹を危険に晒したりしないはずだよな」
 十和はそう言うとにっと口角を上げた。
 美しいが悪魔のような笑みにぽかんと口を開けて呆ける。何を言われているのか一瞬を分からなかったが、何となく口を開いた。
「まさか、いま、私脅されてますか?」
「ああ、そうだ。俺は今、君を脅している」
 すがすがしいほどのきっぱりとした口調に事態を把握した楪は狼狽えた。
「何ですか! それ! この状況でよく脅せましたね! いくら顔が良くても誤魔化されませんからね、酷い! 最低! この外道!」
「なんとでも言え、俺はどんな手を使っても君を手に入れる」
 無我夢中で言い合っていたせいで二人の距離はかなり近くなっていた。楪に至っては十和の胸倉を掴んでいる。そのことに気が付いたのは、運転手がこほんと咳ばらいをしたからだった。はっと我に返るとお互い目を逸らし、正面を見て座り直す。
 こほん、としきり直すように十和が咳ばらいをした。
「……脅して悪かった。事件に巻き込んだのも済まないと思っている」
「良いです。大丈夫です。姫花の事もありますし、断ったりしません」
 姫花を囮に使われるわけにはいかないという思いもあるが、そもそも姫花は龍ヶ崎の家との結婚に前向きではなかった。前向きだったのは両親だけだ。
「私、治癒しか取り柄が無くてまともに戦えないので、守ってください。まだ死にたくないので」
 じっと十和の目を見つめると紫の瞳がすっと細められた。
「必ず守る。絶対に傷一つつけさせないと誓おう」
 力度強く頷いた十和の言葉には積極力があった。きっと大丈夫だと安心して任せられる気がした。

 明日の段取りを決めた後、契約書を渡された。婚約と言っても契約が絡んでいるので、目を通せと言われたのでその通りに上から順に目を通していく。契約書には概ね既に聞いていた内容が書かれていたが、中には目を引く文面もあった。
 まず、この婚約は契約であること。龍ヶ崎十和に何かあった時にすぐ駆け付けられるように一緒に暮らすこと。
「一緒に暮らす?」
「ああ、俺は頻繁に仕事に出かけるからな。怪我するたびに呼び出すんじゃ効率が悪い」
「はあ、たしかに」
 どうせ家を追い出される身なので新しい家が決まって良かったくらいに考えようと、次の文章に目をやり、気になる所が無いか改めたが、特に問題なさそうだった。ハンコを持って来ていなかったので十和が持ってきた朱印をかり、指で印を押した。
 こうしてあっさりと二人の婚約関係が成立した。
 送って行くという申し出は断ったのだが、却下され妥協案で昨日と同じ公園まで送ってもらうことになった。
「どうかしたか」
 殆ど揺れない高級車でぼんやりとしていると十和が顔を覗き込んできた。
「なんか拍子抜けしたと言うか、こんなにあっさり婚約してしまっていいものかと」
「実感が無い?」
「そんな感じですね」
 頷くと目当ての公園が見えて来た。
 龍ヶ崎家の次期当主と婚約しておいて拍子抜けしたというのは失礼かと思ったが、十和は全く怒っていなかった。反対に口角を上げて笑っていた。
「あ、あの、十和さん」
「十和。十和で良い」
 頬をするりと撫でられ、それに気を取られていたので十和の顔が近づいてきていることに気付けなかった。
 ちゅっ、と可愛らしい音と共に頬に柔らかい感触が触れ、離れて行く。
「え」
 何をされたのか理解できる前に車が停車した。
「着いたぞ」
「あ、はい」
 運転手が楪が乗っている方の扉を開けてくれたので、車を降りる。運転手に頭を下げ、開いた窓から覗いている十和と向き合った。
「じゃあ、明日はよろしく。気を付けて帰れよ、お休み。楪」
「お、おやすみなさい」
 片手を上げる仕草をしたので、反射的に手を振ると十和は楽しそうに笑った。
 車が発進したのを呆然と見送っていたが、車が視界から消えた途端に呪縛が解けた。思考がぐるぐると巡る。
「き、キスされた?」
 何故、何故、頬にキス。
 実感が沸かないと言ったからだろうか。それとも龍ヶ崎家では頬にキスなど日常的にするのだろうか。
 どちらにせよ。
「心臓、もたないよ」
 急激に顔に血が巡り、頬が赤く染まる。うわあと叫び出したい衝動に駆られたが、何とか抑えてその場に蹲った。
 あの男は自分が他者にどれだけ影響を与えるか分かっていない。何気ない仕草ですら楪は立ち上がれなくなってしまった。
「明日、大丈夫かな」
 楪の口から熱いため息が零れた。

「十和様」
 契約書をじっと眺めていると運転席から窘めるような声がかかった。
「なんだ」
「何だじゃありませんよ。良いんですか、犯人は思っている以上に危険な奴かもしれませんよ。それなのに囮にして」
 昨夜婚約の事情を龍ヶ崎家で実権を握っている上の人間に話したところ、婚約の件は了承されたが、その後に件の自称婚約者襲撃事件をどうにかするチャンスではないかと言い始めて止める間もなく婚約者お披露目の計画が立てられ、迅速に各方面に招待状が送られた。
 ここまで早々に事態が動いたのは、襲撃事件の早期解決が一番の理由だが、そもそも婚約者を勝手に自称している人間を戒める意味合いもあった。正式な婚約者を発表すれば婚約者を自称をする人間がいなくなり、色目を使って擦り寄って来る人間が減ってくれればいいと言う龍ヶ崎家の思惑があった。
 十和自身は別段気にしていなかったが、祓い屋業をしていると名家の人間と関わる機会は多く、ぜひ自分の娘を正式な婚約者にと推してくる人間が後を絶たず、龍ヶ崎家の人間はかなり辟易していたらしい。
 楪を囮にすることへの賛否は別れた。十和は勿論反対したが、何かあれば全員で全力で守ればいいと最終的には案が通ってしまった。
「絶対に怪我などさせない。皆にも全力で守る様に言ってあるから大丈夫だ」
 不安がないわけではないが、口に出すわけにはいかない。口に出した言葉は言霊となり、実際に起きてしまいそうだからだ。
「それならいいですが。それよりも何ですか、あの脅しは」
「うっ」
「まさか女性とあんな至近距離で言い合いをするとは思いませんでしたので、止めていいのか悩みましたよ」
「あの時はどうにかしてたんだ」
「貴方が取り乱すなんて珍しいですね」
「別に取り乱してはいない」
 そう言うと十和は話は終わりだとばかりに契約書に視線を戻した。運転する季龍もそれ以上苦言はないようで黙って運転に集中する。静けさが戻った車内で十和は先程の楪とのやりとりを思い出していた。
 頭の中で回想が巡り、契約書の内容など頭に入って来ない。
 脅したのは完全に失敗だった。悪い印象を持たれたかもしれない。そう思うと頭を抱えそうになったが、何とか深く息を吸い込み考えを打ち消す。
 契約書はこうして手元にあるのだから何も問題はない。問題があるとすれば明日だ。犯人が何をしかけてくるか分からない以上警戒を怠るわけにはいかない。集中すべきだ。
 ふう、と大きく息を吸い込み、十和は目を閉じて余計な考えを払うついでに思った。
 キスはやり過ぎたかもしれない、と。

 翌日、両親が用意した着物に身を包み、迎えが来るのを門の前で今か今かと待っていた。両親はそわそわと落ち着かない様子で何度も鏡を見に行ったり、娘二人の格好に粗がないかと視線を巡らせていた。
 母親が「私、大丈夫? 変な所はないかしら」と何度目かわからない質問を父親に投げかけた時に楪はそっと姫花に視線を向けた。姫花は可愛らしい桃色の着物を着ている。結い上げた色素の薄い髪には華やかな装飾が煌めき、息を飲む様な美しさだ。
 対して楪は青色の落ち着いた色味の着物を着て、髪にも装飾品を着けているんだが、姫花程の煌めきはない。体裁を気にしてか娘二人に分かりやすい優劣はないのだが、よく見ると着物と装飾の質も量も遥に楪の方が劣っている。両親からすれば今日の主役は姫花なのだから当たり前の対応かもしれない。
 ふうと溜め息を吐くと目ざとく気付いた母親が目を吊り上げた。
「ちょっと辛気臭い溜息なんて吐かないでよ。先方の前では絶対に止めてちょうだい」
「龍ヶ崎家からの印象も悪くなったら困るからな。それにお前も未来の旦那様と対面するのだからもっと愛想を良くしなさい」
 未来の旦那様という言葉に何とも言えない気持ちになった。
 父親からすれば未来の旦那様というのは四十代の男の事だろうが、楪からしたら十和のことだ。契約とはいえ、あの男と婚約した事実を思い出し落ち着かない気持ちになる。他の事を考えようと視線を上げると姫花と目が合った。
「姫花、どうかした?」
「ううん、何でもない。ゆずちゃんこそ何かあった?」
 ぎくりと肩が跳ねそうになり、慌てて取り繕う。
「少し緊張しているだけだよ。姫花は緊張しないの?」
「私も緊張してる。ゆずちゃんは、結婚しても私と一緒にいてくれる? 離れてなんかいかないよね」
 姫花の目が不安げに揺れる。
 そして両親には聞こえないくらいの声で呟いた。
「私、結婚なんかしたくないよ……」
 震える声に楪は姫花へと体を寄せる。着物が着崩れてしまわないようにそっと姫花に腕を回す。楪よりも小さな体は微かに震えているようで、両親の視線が無いうちにぎゅっと一瞬強く抱きしめて離れた。
「大丈夫、全部上手く行くよ」
「ゆずちゃん?」
 姫花の戸惑いに揺れる目に笑いかけ、ぐっと拳を握って覚悟を決めた。
 今から名家の娘達を襲った犯人と対峙するかもしれない。普段なら力不足で何もできない楪も誰かの力になれるかもしれない。
 きっと囮役は姫花の方が適任だ。姫花は結界術に長けているし、実力もあるから楪よりもずっと上手く立ち回れるだろうが、それでも姫花には囮役をやってほしくなかった。頭の中に浮ぶのは小さい頃に妖魔に襲われて気を失う姫花の姿だ。
 あの姿を思い浮かべると腹の奥がぞっと冷える。
 あんな目には二度と合わせたくない。例えそれがエゴだったとしても。
 楪の決意は固かった。
 ぐっと顔に力を入れて顔を上げたその時、家の前に真っ黒い高級車が止まった。見たことのある車に思わず後部座席を確認したが、十和の姿はなかった。
 運転手は白髪を後ろに撫でつけた老齢の男だった。ドラマや漫画で見かける執事然とした風貌に椎名家の面々に緊張が走る。
「おはようございます。お待たせしてしまったみたいで申し訳ありません。私、龍ヶ崎家の使用人の伊崎と申します」
 伊崎はすっと腰を折ると、直ぐに元の体制に戻り、後部座席の扉を開けた。スマート過ぎる所作に口を挟める人間はその場におらず、放心状態の両親が間の抜けた返事をしてから車に乗り込んだ。
 その車は十和が乗っていたよりも広い、所謂リムジンというものだった。
「み、皆こんな待遇なのかしら」
 宴会にどれぐらい招待されているのか知らないが、犯人が絞り込めていない以上、数は少なくないだろう。その人数全員迎えに行っているのだろうか。リムジンが何台あっても足りない気がすると思っていると、伊咲が答えた。
「大体のお客様は自分の車でいらっしゃいますよ。今回椎名様達は特別待遇とさしていただいております故お迎えに上がったのです」
 特別待遇という言葉に両親の機嫌が分かりやすく上がった。
「そうなんですね。ということは婚約の件は姫花が選ばれたということなんですね」
「それは私の口からは何も」
 ふふ、と伊咲が笑う。不意にルームミラー越しに目が合い、飛び上がりそうになった。まるで予定通り進んでいますよと言っているかのような視線に楪は動揺した。
 伊咲は龍ヶ崎の人間なのだから事情を知っていて当然だ。右往左往するようなことではない。両親に何も悟られないように精一杯の笑みを浮かべて頷いた。
 車は三十分ほど走らせた辺りで停車した。
「到着しました。ここが龍ヶ崎家です」
 後部座席を伊咲が開けてくれたので、一番に外へ降り立ち――驚愕した。
「えっ!」
 今度こそ飛び上がりそうだった。
 目の前に広がっているのは日本家屋の豪邸だった。椎名家も決して狭いわけではないが、比べると椎名家が犬小屋ぐらい小さく見える。
「す、すごい。凄いわ貴方! ここに私達も住むことになるのね」
 車から降りて来た母親の声に気分がすんと萎えた。
 まさかとは思っていたが、龍ヶ崎家に姫花が嫁入りしていたら両親も越して来ようとしていたらしい。
 何故そこまで自分勝手になれるのか分からない。今も周りの目など気にした様子もなく大きな声で騒いでいる。楪達が降りた豪邸の前には他の客らしき顔もあり、母親の発言に皆眉を顰めている。
 楪は姫花の隣に立って、両親から少し距離を取った。

 伊咲に案内されるままに家の中に入ると、広い和室に案内された。ずらりと小さな机が並んでいる。
「宴会が始まりましたら十和様がいらっしゃいますから、この部屋でお待ちください」
 伊咲はそう言うと奥の部屋へ消えて行った。
 ここまでは十和から話を聞いている内容そのままだ。基本的に楪は案内役の指示に従って動けばいい。ここで待てと言われれば待てばいい。打ち合わせどおりならば後十分くらいで十和が現れるはずだ。
 両親は特別待遇という言葉に後押しされ、大した家柄もないのに前の方へ座った。周りの批判的な目が痛かったが、両親について行く。
 緊張しながら姫花と並んで座っていると、突然強い力で肩を掴まれた。
「ちょっと、何であんたがいるのよ」
 振り返ると藤沢が怒りを露にした様子で立っていた。
「あれ、藤沢さんも招待されたの?」
「そうよ、当たり前でしょ。それよりもあんたは何でいるわけ? どう考えてもこの場に相応しくないでしょ」
 藤沢はちらりと隣に座る姫花を見た。
「能力が高くても地位が無きゃ相手にされないわ」
 小馬鹿にした様子でふっと笑った藤沢に反応を示したのは母親だった。
「何を言っているの? 姫花は正式な婚約者よ。ここに来るのも龍ヶ崎様がわざわざお迎えを寄越してくださったのよ、特別待遇だからと言ってね。貴方は何で来たの? もしかして自分の家の車かしら?」
「はあ? 迎え何て嘘でしょ? そんなわけないわよね?」
 藤沢はぎろりと楪を睨む様に見た。
 巻き込まないで欲しいと思うのだが、その場にいた全員が楪を見ていることに気付き、無視できる状況ではない。
「ま、まあ、迎えは本当ですが」
 頷くと藤沢はありえないと声を上げて、楪に詰め寄った。
「嘘つかないでよ。特別待遇なわけないじゃない。そんなんだって本当に……」
「婚約者みたい?」
 姫花の透き通る様な声に周りにいた全員が押し黙った。姫花は目を引く容姿をしている上に声を張ると凛としてい聞こえるので、周りにいた全員が気圧された。
「貴方、誰? ゆずちゃんの知り合い?」
「え、ええ。クラスメイトよ」
「そう。クラスメイトだからっていきなり肩を掴むのは止めて。肩が外れたらどうするの?」
 楪の肩幅は姫花よりも広いのでそう簡単に外れることはないのだが、口を挟める雰囲気ではないので押し黙ったまま遠くを見つめる。
 早く十和が来ることを願ったが、奥の扉は沈黙している。
 楪が心の中で十和を呼んでいると、新しい嵐が舞い込んできた。
「あら、正式な婚約者がいらっしゃるの?」
 砂糖菓子を溶かしたような甘い声が響いた。
 その瞬間、その空間にいた全員が口を閉じて声のした方へ視線を向けた。
 声がした方から悠々と歩いて来たのは、赤い着物を見に包んだ美しい少女だった。長い黒髪を耳にかける仕草は妙に色気があり、少女というよりも女性的だ。
 楪も姫花もその人に心当たりが無かったのだが、藤沢達からしたら有名人らしい。
「夢子さん……」
「おはようございます。藤沢美月さん。そちらの方達は?」
「椎名楪です。こちらは妹の姫花です」
 藤沢が説明を聞き、夢子と呼ばれた女性は楽し気に微笑んだ。
「貴方が姫花さん? 噂は聞いています。凄い優秀方なんですよね。楪さんもおはようございます」
 夢子は姫花と楪、両方に同じように柔和な笑みで挨拶をした。
「色々と事情はありますけど、今日は一緒に楽しみましょうね」
 微笑みながら夢子は去っていった。すると緊張感が緩和して、皆が一様に息を吐き出した。
「あれ誰ですか?」
「あんた知らないの? 瑠璃川夢子。龍ヶ崎家とは昔から繋がりがあって、あの人が一番の婚約者候補だって言われているの。許嫁だって噂もあるし……」
「許嫁?」
「単なる噂というか、夢子さんの周りが囃し立ててるのよ……って何であんたにこんな事言っているんだろ」
 藤沢は苦い顔をした後にどこかに去って行った。
 残された椎名家は気圧された空気を払拭すべく両親と姫花はが明るく話始めた。
 本当に嵐の様な人だった。
 十和から許嫁の話など聞いていないので、藤沢の言う通り単なる噂の可能性が高いのだが、何だか癪算としない。それに夢子の圧倒的な空気に飲まれたせいで、ここに来るまでに決めた覚悟が揺らぎそうだ。
「ちょっと外の空気を吸ってくる」
 まだ十和が出てくるまで時間がある。姫花に一言告げて部屋を出た。

 部屋を出たは良いが、勝手に出歩いていいものなのだろうか。
 伊崎が近くにいてくれればいいが、と思った時、目の前にすいっと何かが通った。視線で追ってみると、それは半透明な蝶だった。
 その蝶からは微かに感じたことがある気配がしている。
「十和さん?」
 名前を呼んだ途端、それはふわりと浮き上がり、まるでついて来いと言う様に廊下を進んでいく。
 ついて行くべきだろうか。何かの罠かもしれないと警戒心が沸くが、十和の気配に結局はついて行くことにした。
 蝶は殆ど透明で、まるで水で出来ているようだ。
「式神かな。可愛い」
 蝶の式神が十和の周りを飛んでいる所を想像するのは容易い。ふわりと浮き上がる蝶を指で遊ぶ様子は絵になるだろう。しかし、何となく十和はもう少しいかつい式神を従えているような気がした。
 十和は水のように洗練された雰囲気を持っているが、それと同時に荒々しさもあると思ってしまうのは、昨日脅されたことが原因だろうか。
 そんなことを思いながら蝶について廊下を歩いていると、左側にあった襖が開き、中から十和が顔を出した。
「来たか。おはよう」
 十和は一目で質がいいと分かる着物を着ていた。次期当主が婚約者を発表する大事な場なのだから当たり前なのだが、その洗練された空気に気圧されると同時に見惚れた。
 それと同時に自分の格好に不安を覚えた。着物は安物ではないが、値が張るわけでもない。髪の装飾も地味だ。そして残念なことに容姿も平凡だ。婚約者という立場で十和の隣に立つのに相応しい見た目とは思えない。今からどうこう出来る問題ではないので、諦めるしかないが、着物姿だと不釣り合いさが目立って居た堪れない。
「どうした?」
 十和に顔を覗き込まれ、はっとして慌てて挨拶を返す。
「いえ、何でもないんです。おはようございます」
「何か気がかりでもあるのか? それなら今の内に言っておいてくれ」
「ええっと」
 じっと見つめられ、言うまで追及は終わらなそうな雰囲気に口を開く。
「私の格好大丈夫かなって」
「かわいいから大丈夫だ」
「かわ……」
 がばりと顔を上げて十和を凝視するが嘘を言っているようには見えない。
「何だ?」
「いえ、男性には初めて言われたので」
「そうなのか? その着物も落ち着いた雰囲気の楪に良く似合っている。どうして大丈夫かなんて思ったんだ? ……まさか、誰かに言われたのか?」
 十和の顔に剣呑さが滲み、慌てて否定する。
「違います。誰かに言われたとかじゃなくて、私が十和さんと釣り合っていないように見えただけです。今日の十和さんすごく綺麗だから」
「き、綺麗……」
「はい。いつも驚く程綺麗な顔をしているなと思いますけど、今日は特に」
 こほんと十和の物ではない咳払いが聞えて初めて十和以外の存在に気が付いた。
「お互いに褒め合うのは微笑ましくていいですが、あまり時間がありませんよ」
 そう言ったのは十和の運転手の男だ。
 褒め合っている自覚はなかったが、男の言う通りお互いに容姿を褒めていたことを思い出して、顔に熱が集まる。慌てて顔を逸らして運転手の男に頭を下げた。
「すみません、挨拶もせずに」
「いえ、良いんですよ。こちらこそ邪魔をしてしまってすみません。出来れば邪魔などしたくなかったんですが、そろそろ出ないと客人達が騒ぎ出し始めますよ」
 時計を確認すると十和がか来客に顔を見せる予定時刻まで十分を切っていた。
「じゃあ、私戻りますね」
 では、と言って踵を返そうと足を踏み出すと、十和に手を掴まれた。
「ちょっと待て」
 十和はそう言うと部屋の奥に向かい、誰かと話し始めた。
 残された楪は、そろりと部屋の中を見渡してみる。家具は殆どなく、畳の上には上質な帯や着物が置かれている。どれも男性の物で、どことなく十和が来ている着物と似ていることから、恐らく十和が着る候補だったものだろう。
 ここは控室のようで、奥には数人の男女がいた。その中に伊崎の姿を見つけ、目が合ったので会釈をすると、微笑みながら会釈を返された。
 十和はその中で髪を結った女性と話していたが、何かを手にしながら戻って来た。
「少し触るぞ」
 十和の手が楪の髪に伸ばされる。近くなった距離に驚いて離れようとすると「動くな」と笑いながら怒られた。
「直ぐに済む」
 そう言われても十和が近くで動く度に良い香りが漂い、どきどきと胸が高鳴った。
 何の匂いだろうか。水の様に澄んでいるのに甘く痺れるような匂いを嗅いでいると段々くらくらして来た。
 もういいですよね。と言って離れたいのを何とか誤魔化し、じっと我慢していると「よし」と言いながら十和が離れた。
「うん、良く似合っている。可愛い」
「え、な、なに?」
 顔が赤い自覚があるので、まじまじと見ないで欲しいと思い、そっと視線を逸らすと、丁度壁に立てかけてあった姿見が目に入った。そこに移る自分の姿に楪は驚いた。
「あれ、これ」
 頭についている装飾が増えている。
 元々ついていた小さな花の装飾はそのままに。煌びやかだが落ち着いた雰囲気の花々が追加で咲いていた。
「かわいい……」
「前のままでも良かったが、何か俺からも贈りたくなった。気に入ったのなら良かった」
「ありがとう、十和さん。すごくかわいい。すごく、嬉しいです」
 へへ、と笑みを溢すと、十和が身を屈めて顔を覗き込んできた。その顔は少しだけ機嫌が悪そうに見える。何か機嫌を損ねることを言っただろうかと首を傾げた楪に十和は言った。
「呼び方」
「え?」
「十和で良い。いや、そう呼んでほしい」
 十和が屈んだことで顔が近くにある。近距離で見つめられていることに今更ながら気が付き、顔が赤くなる。
「十和。はい。呼んでみろ」
「と、と、と、とわ」
 詰まりながらも何とか呼ぶと、十和は花が綻ぶ様に嬉しそうに笑った。
 いつの間にか十和の手が楪の首の後ろに回されていることに気が付いた時には、ちゅっと唇が目の下に触れていた。
「なっ」
「おっと、時間だ。名残惜しいがまた後で」
 抗議の声を上げるよりも早く十和が体を離し、真剣な顔つきで楪の顔を見た。
「何かあった時のために式神はそのままにしておく。龍ヶ崎家の連中は皆楪の仲間だ。絶対に守ると約束する」
 変わり身の早さについて行けず、あわあわしながらも何とか頷いた。
 時間が迫っているので、部屋の奥にいた人達や季龍と名乗った運転手に挨拶をして部屋を出る。
 扉を閉めて、一人になっても未だにどきどきと心臓が鳴り響いている。
「何で直ぐにキスすんだろう」
 キス魔なのだろうか。
 不思議に思いながら目の下に触れると十和の唇の感触を思い出し騒ぎ出しそうになった。
 頭を抱えて蹲まりそうになっていると、目の前を蝶が飛んだ。水の様な蝶は急かす様に羽ばたき、宴会場へと向かっていく。
「そうだった、行かないと」
 問題はこれからだ。軽く頬を叩き、浮いている気持ちを静める。犯人と対峙するかもしれない緊張感を思い出し、宴会場へと急いだ。