「け、結婚ですか?」
 目の前に座る父親は不機嫌な顔で、母親は不気味なほど笑顔で頷いた。
「ええ、貴方と結婚してもいいと言って下さる人が現れたのよ。こんな素敵なことってないわ」
 母親は上機嫌で相手がどれだけ素晴らしいか誉め称えているが、そんなことを聞いている余裕は楪にはなかった。
「あの、私まだ学生ですが」
「そんなの関係ないわ。もう結婚できる年齢なんだから。それにいつ気が変わったと言われるかわからないんだから、今の内に結婚しておかないと」
「でも」
 反論しようとした楪の声を低い父親の声が遮る。
「お前のような能力もない、おまけに傷がある人間を娶ってやると言ってくださっているんだ。その好意を無下にする気か?」
 有無を言わさない口調と厳しい目つきで睨まれ、びくりと肩が跳ねる。
 責めるような目で見られると、まるで自分が悪いような気分なり、楪は口を閉じた。
 両親の世界には楪がいないように進んでいき、楪が黙ると父親の口はぺらぺらとよく回った。
「向こうは椎名の本家筋で、あやかしの血筋ではないが地位は高い御仁だ。今は確か四十代だったか。まあ、年齢など些細なものだろう」
「よん……」
「文句はないだろう?」
 文句しかないが、口に出すと下手をすれば拳が飛んでくるので黙って頷いた。頷くしか選択肢がなかった。
 話は終わりだと言われ、立ち上がると二人は上機嫌には話をし始めた。
「これで姫花と龍ヶ崎家の次期当主との縁談が進められるわね」
「向こうはまだ花嫁を見つけていないらしいからな。早めに売り込めば姫花以上に適任はいないだろう」
 その声を聞きながら楪は自室へと帰った。
 殺風景な部屋は家主が帰還しても寂し気な雰囲気を崩すことがなかった。よろよろと覚束ない足取りでベッドまで行くと、その上にどかりと倒れ込む。上質とは言えないベッドは音を立てながらも健気に主の体重を受け止めた。
「結婚かぁ」
 ぼんやりと天井を見上げながら呟くと憂鬱な気分が更に沈む。
 文句はないだろう、と父親は言っていたが、文句しかない。
「したいわけないでしょうが」
 ぼそりと呟く。感情を抑えていないと喚き散らしそうなので枕で口を押える。
 まだ学生なのに結婚。しかも相手は四十代の見ず知らずのおじさん。誰が望んで結婚すると言うんだ。
 そんな人間と結婚するくらいなら一生独身の方が百倍ましである。いや、そもそも楪は一生独身でいるつもりだったのだ。それが何故か結婚させられる羽目になってしまった。
 両親の楪への関心は幼少期から薄かった。それは楪に才能が無かったからだ。
 
 妖魔と呼ばれる存在が人々の生活を脅かす現代で、それを祓う力がある人間は少数だが存在している。楪の家、椎名家も昔から祓い屋として活動していた。椎名家は昔から結界術に長けており、昔は一目置かれる存在だったようだが、時代が移り変わり術者の能力が陰りを見せ始めたせいで、昔の名声は消えた。
 楪は特に結界術が苦手だった。殆ど使えない。代わりに治癒能力があるが、それが椎名家で認めて貰えることはない。治癒能力などあっても妖魔を倒すことが出来ないからだ。直すばかりの能無しと言ったのは父親だった。
 両親の関心は、結界術の才能がないことで楪から無くなった。
 能力というのは努力で補うことも出来るが、楪には努力で補える才能もなかった。それに対して妹の姫花には結界術の才能があった。いや、結界術だけではなく、多種多様な才能があり姫花は生まれた時から椎名家の宝物になった。
 姉妹で扱いに差はあったが、酷い扱いを受けたことはなかった。
 森で妖魔に襲われた、あの時までは。
 気絶した姫花を背負って帰って来た楪に両親は血相を変え、すぐに専門医を呼び姫花を見て貰った。結果、男の子の予想通り身体的な損傷はなく、その内起きるだろうと判断された。その診断が下されるまでに楪は父親に姫花を危険に晒したことを怒鳴られ、家に入れて貰えなかった。
 姫花が一安心だと分かると医者は額から血を流している楪を置いて帰って行った。
 椎名家の宝を危険に晒した楪の扱いはそれから酷いものになった。
 更に悪いことに怪我を放置したせいか、額と背中に傷が残ってしまった。それを見て父親は治癒能力があるくせにと楪を軽蔑した目で見て、母親は傷物じゃ結婚できないわねと溜め息を吐いた。
 そっと額に触れると未だに眉の上がぽこりと膨らんでいる。鏡で見ると白い線上の傷跡がくっきりと残っている。
 背中の傷は思っていたよりも酷く、木で切ったのか右側の肩甲骨から背中の中央にかけて傷跡が残っている。背中の傷は普段人目に触れることはないし、額の傷は前髪で隠しているので生活する上で目立たないのは不幸中の幸いだった。
 その傷が消えないことが分かった時に結婚は諦められたはずだったのに、今回のこの縁談である。
 結婚は女の幸せという古い考えに捕らわれているらしい母親は相手がどんな人間でも問題ないと思っているのか、それとも楪の事など一切考えておらず、厄介払いできて幸せくらいに思っているのか。
「どっちもかなあ」
 その証拠に大切にしている姫花にも縁談を持ちかけようとしていた。
 部屋を出る時に両親がしていた話を思い出す。
 龍ヶ崎家の次期当主との縁談。龍ヶ崎家といえば、祓い屋分野に詳しくない楪でも知っている名前だった。現代には人とは違う存在、あやかしの血が混じった人間が一定数存在しているのだが、その中で龍ヶ崎家とは龍人と言われる特別な力を持った種族の混血で、人よりも霊獣の様な存在に近いらしい。彼らは姿は人と変わらないが、美しい容姿を持ち、強力な力を持って妖魔を祓っているらしい。
 その龍ヶ崎家との縁談が実れば、椎名家は祓い屋界隈で凄まじい力を持つことになる。両親の狙いはそれだ。力を持つためならば姫花の意思を無視するのだろうか。
 姫花は婚姻に前向きだったなら楪に反対する意思はないが、というか反対した所で楪の主張など通らないのだが。
 楪は欝々とした気分になりながら、目を閉じた。

 翌日、両親と顔を合わせたくなったので、何も食べずに家を出ようと思ったのだが部屋を出た所で母親に捕まり、共に朝食を取る羽目になった。
 最悪な気分で朝食が用意してある部屋へ行くと、父親が上機嫌な様子で座っていた。母親がその隣に座り、楪がその前に腰を下した途端、父親が口を開いた。
「お前の結婚の件だが、今週の土曜に先方がこちらへ来て下さることになった」
「こ、今週の土曜日、ですか」
 思わず視線を部屋のカレンダーに向ける。今日は木曜なので、あと二日しかない。
「顔を合わせるだけですか?」
「ああ、向こうはお前の顔を見たいと言っているから、ここで顔を合わせることになった」
 顔を合わせるだけならば問題ない。その時に何か粗相でもして縁談が無くなってしまえばいい。その考えが顔に出たのか父親の表情が険しくなった。
「あちらがお前を気に入れば、そのまま嫁入りになる。絶対に粗相はするな。粗相をすればお前を勘当する」
「えっ」
「何を驚いている? 当たり前だろう。この縁談はお前にとって最後に与えられたチャンスだ。失敗したならば用済みになって当然だろう」
「でも、粗相をしなくても、向こうが私の顔を気に入らない可能性もありますよね。その時は」
 父親が大きくため息を吐く。
「言っただろう? これは最後のチャンスだと。才能もなく何も貢献できないお前をこの家に置いておくことはできない。今まで置いてやっていた恩をその身で返せ」
 つまり、この縁談が上手く行けばそのまま四十代の男に嫁ぐことになり、破談になれば粗相をしなかったとしても家を追い出される。どちらにしてもこの家に居られるのは土曜日までらしい。
 家を出た所で持ち金など殆どない高校生の楪が一人で生活するなど到底できるわけがない。
 結婚するしか道はない。
 絶望的な気持ちになり、朝食を前にしても食欲が沸かず食べられそうになかった。
 その時、襖が開き、眠そうな顔をした姫花が顔を出した。
「あら、おはよう姫花」
「おはよう、皆。おまたせ」
 ふわふわした髪に可愛らしい顔はいつ見ても愛らしく、名前の如くまるでお姫様のようだ。覇気のない楪とは違い、姫花の顔はいつもぴかぴかと輝いている。
 楪の隣に腰を下した姫花は楪の顔を見て、驚いた様子で目を見開いた。
「あれ、ゆずちゃん、どうしたの。顔色悪いよ」
「何でもないのよ。ちょっと寝不足らしいわ」
 姫花の言葉に答えたのは母親だった。両親は姫花と楪が言葉を交わすのを嫌がり、よく二人の会話に入り込んで妨害する。
 どうやら話をしたら姫花に悪影響があると思いこんでいるらしい。
「そうなの?」
「うん、大丈夫。何でもないよ」
 両親の鋭い視線を受けながら頷くと、視線を逸らして手を合わせた。
 両親と姫花とゆっくりと食事する中、楪は無理やりご飯を詰め込む。すぐにでも食べ終わって家を出たかった。食べ終わるなり、早々に立ち上がろうとした楪を止めたのは母親の言葉だった。
「姫花、あのね、実はお姉ちゃんの結婚が決まったのよ」
「えっ」
 姫花が箸を落とした。
「ゆ、ゆずちゃん、好きな人いたの? 知らなかった!」
「好きな人というか」
「いつから付き合ってたの? なんで私に言ってくれなかったの?」
「ええっとー……」
 何と言ったものか。
 本当の事を言えるような空気ではなくなってしまった。どうしたものか、と思っていると父親がこほんと咳ばらいをした。
「それで、いい機会だから姫花にも縁談を持ってきたんだ。まだ正式に決定したわけではないが、あの龍ヶ崎家の次期当主との結婚だ」
「え、結婚って、私まだそんな年齢じゃないよ」
「すぐに結婚するわけじゃない。年齢に達するまでは婚約という形になるかな」
「私、龍ヶ崎さんのことよく知らないし」
「知らなくても結婚は出来る。あの家との繋がりが出来れば椎名家は安泰だ。お前の才能をみれば龍ヶ崎家は必ずお前を娶るというはずだ。わかるな、姫花」
 父親の言葉には拒否権がなかった。
 姫花は顔を強張らせながら膝に置かれた楪の手を握って来た。楪よりも小さな手に縋るように握られ、どうにか不安を和らげようと手を握り返す。こんなことしかしてあげられないのが悔しくてたまらない。
 姫花を守ろうと決めたのに、ちっとも守れやしない。
「ゆずちゃん」
 朝食を食べ終え、学校へ行こうと家を出た直後に姫花に呼び止められた。楪は徒歩で通学しているが、姫花はいつも車で通学しているのでまだ家を出る時間ではないはずだ。振り返ってみると姫花はまだ制服すら着替えていなかった。
 急いで出て来たのか靴もきちんと履いていない。
「どうしたの?」
「朝の話、本当? 結婚するって。あれって、好きな人と? それともお父さんたちが勝手に選んだ人?」
 龍ヶ崎との縁談が突然舞い込んできた話を聞き、楪の結婚の話にも疑問を持ったらしい。
「ゆずちゃんが幸せならいいんだ。私は龍ヶ崎さんってどんな人か分からないけど、祓い屋の頂点みたいな人達だからきっと悪い人ではないと思うの。だからやっていけると思うの。ゆずちゃんは? ゆずちゃんは誰と結婚するの?」
 そう聞かれて初めて相手の名前を知らないことに気が付いた。
「えっと」
「あのね、ゆずちゃんが結婚したくないのならしなくてもいいんだよ。龍ヶ崎家の人に言ってゆずちゃんも一緒に住まわせてもらうから、そしたら結婚なんてしなくていいよね」
 姫花は楪の手を握り、真剣な目で言った。しかし、それは現実的ではない。
 姉が一緒に嫁いでくるなんて話聞いたこともない。それにそんな条件をつけたせいで姫花の結婚に問題が発生すれば楪どころか姫花も父親に何をされるかわからない。
「姫花、私のこと考えてくれてありがとう。でも、大丈夫。私も結婚生活うまく行くと思うんだ。だって私が良いって言ってくれた人だから」
 そっと姫花の手を離して、笑いかける。
 きっと全部上手く行くよ、と何の保証もない言葉を吐き出し、楪は一人で学校へ向かった。

「かっこつけすぎた」
 机に伏せながら頭を抱える。
 姫花には大丈夫なんて笑って見せたが、全く大丈夫ではない。
 このままでは知らないおじさんと結婚させられるか、家を追い出されるかの二択だ。
「どうすればいいかな。桃ちゃん」
「どうすればって、あんたね。何でそんな近々で相談するのよ」
「私だって昨日の深夜に知ったばっかりだからだよ」
 楪の前の席に座って頬杖をつくのは友人の松風桃だ。綺麗な黒髪にクールな表情が美しい才色兼備な少女は、楪が事情を話すと大きくため息を吐いた。
「四十代で十代の子娶ろうとしている時点でやばいわよ、そいつ。あんたが幸せになれるとは思えないけど」
「それは、まあ、うん。どうとでもなるよ。正直結婚する気は一ミリもないから。問題は家を出た後どうするかだよ」
 家を出て働くのは容易いことではない。バイトで食いつなぐしかないが、この近辺の店では楪の顔は割れてしまっている。両親が楪を放っておいてくれればいいが、結婚予定の相手はそれなりの地位の人間らしいので、もし圧力をかけられたらどこにも行けない。
 妖魔討伐で生計を立てている人もいるが、それこそ圧力がかかって仕事が出来るとは思えない。
「もしかしたら明日で桃ちゃんともお別れかも」
「そう。一人卒業式しなきゃね」
「もっと残念がってよ」
「残念がってるわよ。何かあったら家で面倒見てあげるから、すぐに来なさいよ。あと相談も迅速に」
「はい」
 クールに見えるが、桃は優しく友人思いだ。残念がっているという言葉も面倒をみてくれるという言葉も嘘ではないだろう。
「まあ、楪に関しては何とかなれって感じだけど、妹の方はどうなの」
 桃が身を乗り出し、他の人の聞こえないように小声で話す。
「龍ヶ崎家ってあの龍ヶ崎でしょ? 次期当主が花嫁を探しているっていう話は有名だけど、本当に嫁ぐつもりなの?」
「両親はそのつもりだったよ」
「まあ、妹ぐらい顔が良くて実力も兼ね備えていたら目に留まるか」
 姫花は妖魔対策に特化した逢魔学園での成績も優秀で学力、実践共に学年一位の成績を収めている。対して楪は学力は低くないが、術を使ってのテストの点は学年で最後から数えた方が早いくらい悪い。術に関しては治癒しかできないので、もうどうすることもできないと諦めている。
 桃の言う通り姫花くらい才能が有れば龍ヶ崎の家からお呼びがかかっても不思議ではない。
「桃ちゃんは龍ヶ崎の次期当主がどんな人か知っている?」
 桃の家も祓い屋界隈ではそこそこの地位にあるので詳しいかと思ったが、桃は首を振った。
「全然。顔は見たことあるけど、遠すぎて覚えていないよ。そんなに興味もないしね。気になるんなら藤沢に聞いてみればいいじゃない。あの子なら知っているでしょ」
「藤沢さん?」
 首を傾げた時、横から声がした。
「私がなに?」
 声の方へ視線を向けると、藤沢美月が腕を組みながら楪達を見下ろしていた。
 吊り上がった目元が印象的な美人だが、気が強く触ると噛みつかれそうな鋭さがある。
「えっと、今ちょうど龍ヶ崎家の事を話していて」
「はあ? 何であんたが龍ヶ崎様の事を? 接点ないでしょ、一生」
 藤沢の言う通り楪自身は接点を持つことはないだろう。
「接点が無くてもあの龍ヶ崎家のことなら誰でも気になるわよ。だから婚約者候補のあんたにどんな人か聞きたいんだけど」
「婚約者候補?」
「そう。龍ヶ崎家の次期当主様の花嫁を探している話は知っているでしょ? そのせいで自称婚約者候補の人間が大勢いるのよ。名家の人間に特に多くて、藤沢もその一人って聞いたんだけど」
 桃の言葉に藤沢はぎゅっと顔を顰めて楪達を睨んだ。
「それがなに? 美月が候補に挙がるのは当然のことでしょ?」
 そう言ったのは藤沢の友人の一人だった。
「そうよ、万年ビリのあんたとは違って美月は綺麗だし成績も優秀だから龍ヶ崎家に認められるに決まっているでしょ」
 藤沢含めた友人は何故か楪を目の敵にしている。何かをした覚えはないので、単純に成績の悪い楪が苛つくのかもしれない。ちなみに万年ビリは誤解だ。
 龍ヶ崎家の自称婚約者候補がたくさんいるのなら姫花も同じ立場ということだろう。そんなたくさん人がいる中で姫花が選ばれる確率はどれくらいだろう。
「それで、藤沢は龍ヶ崎様に会ったことがあるの?」
「あるわ。とにかく美しい人だった。人知を超えた美しさってあの人のためにある言葉だと思う。あんなに美しい人を見たのは初めてだったから忘れられない」
 藤沢は思い出に耽る様に遠くを見つめた。その目はとろりと溶け、頬が赤く染まっている。
「絶対に私が結婚する。あの人に嫁ぐのは私。誰にも譲らない」
 強い意思を持った目が楪を睨む。
「あんたの妹だろうが負けないから」
 藤沢の宣言に聞き耳を立てていたらしい教室にいるクラスメイトに激震が走った。
「え、姫花ちゃんが候補になっているってこと?」
「うそだろ、俺の姫花ちゃんが」
「あんたのじゃないわよ。でも確かに姫花ちゃんなら龍ヶ崎家に気に入られる可能性高そう」
「ていうことは、姫花ちゃんと美月の一騎打ち?」
「いや、他の名家も」
 など一気に騒がしくなったクラスメイト達の間で噂話が飛び交う。噂になっている家の中には楪でも知っているような名家もあった。そんな名家でも龍ヶ崎の家に嫁ぎたいと思うほど龍ヶ崎は力は絶大だ。
 この学校で上位の実力がある姫花の名前があがるのは必然だった。
 噂話は担任が教室に入ってくるまで続いた。

 逢魔学園の授業は普通の学校と変わらないが、妖魔討伐の専門的な授業も設けてある。楪は筆記授業は何も問題が無いのだが、実技の授業は苦手だった。なので実技の授業の前は憂鬱になる。
 内容は日によって異なり、仮想妖魔と戦ったり、クラスメイト達で手合わせをしたり、実際に弱い妖魔と戦ったりするのだが、楪はどれも苦手だった。
 今日はクラスメイトとの手合わだったのだが、不幸なことに相手は藤沢だった。どうやら本当に嫌われているらしく手加減のない攻撃に担当の教師からそこまでという声がかかる頃には、ぼろぼろになっていた。
「もう一歩も歩きたくない……」
「あんた顔酷いよ、洗ってきなよ」
「はい……」
 よろよろと重い体を引きずりながら校舎裏にある水道に向かう。校舎裏は人の気配がなく、しんとしているので表よりもずっと息がしやすい。
 手合わせの授業はクラス全員に見られながら行われるので特に憂鬱だった。術が使えない楪への評価が上がら無いのは当然で、藤沢の友人に笑いものにされるのが恒例になっている。
 笑いたければ笑えばいいと無視をしているが、疲れはする。
 水道で顔を洗い、他の生徒達の手合わせが終わるまではどうせ暇だから少し休もうと木陰に向かう。校舎裏の大きな木の下には誰が設置したのか分からないが、ベンチがある。そこへ向かい時間になるまで寝ていようと思っていたのだが、ベンチの傍で足を止めた。
 ベンチには先客がいた。
 艶のある黒髪に目を閉じていても整っている顔立ちの男。制服ではなくカジュアルな服装なので外部の人間なのだろう。
 先客がいるのなら別に移動しようと踵を返そうとした時、身体の上に乗っかる男の右手が目に入った。右手の甲に真新しい傷が出来ている。血は出ていない浅い傷だが、放っておくと痛がゆくなって大変だろうとそっと近づく。
「失礼しますよ」
 不審者ではありません、と寝ている男に呟きなからその手にそっと触れる。
 ふっと息を吐き出すと触れている男の右手が暖かい光に包まれ、手を離すと傷はすっかりなくなっていた。
「余計なお世話かもしれないけど、治って良かった」
 これぐらいしか自分の取り柄はないと自嘲気味の笑みが零れた。
 さて、傷も治したことだから帰ろうと今度こそ足を引いた。その時。
 唐突に長く美しい睫毛が震える。
 ゆっくりと瞼が開くと、奥から出てきたのは宝石を閉じ込めたような薄紫色の目だった。目を閉じていても綺麗だったが、目を開けると人間離れした美しさだ。
 美の暴力。目の前がちかちかしている気がして数回瞬き繰り返す。
 美の化身かゆっくり楪を見て、目を細めた。
「誰だ」
 剣呑な響きを持っていて明らかに警戒されているのに、楪は、うわ声まで良いなと呑気に考えていた。
「えっと、すみません。眠っている中。私はここの生徒でして、えっと少し休みに来たら貴方が寝ていたので……」
 どぎまぎしながら話すと、男は「生徒?」と不思議そうにしながら辺りを見渡した。
「ああ、そうか。確か学校に来ていたんだったな。場所を取ってしまって悪かった」
「私の席というわけではないので、気にしないでください」
 顔の目の前で手を振ると、男は何故かじっと楪の顔を見つめた。
「あの、何か?」
「いや。どこかで見た顔な気がするが、気のせいか」
「私は覚えが無いので、気のせいかと思います。こういう顔の人間は割といますし」
 目の前の男ぐらい美しい容姿の人間と会っていたなら忘れることはないだろうから、気のせいに違いない。それなのに男は中々納得しなかった。
「……君、名前は」
 普段なら初対面の得体の知れない人間に名前を聞かれても答えないのだが。あまりに綺麗な瞳で見つめられると名乗りたくなってしまう。これが顔の力か。
 すんなり名前を名乗ろうとしていた楪の耳に授業終了のチャイムの音が届いた。その瞬間、はっとした。
「まずい。戻らないと。すみません、さようなら」
 成績が散々な上に授業態度も悪いとなると目も当てられないと足早に戻る。背後から声が掛かったが、すみませんと謝ってそのまま校庭に戻った。

「十和様、ここにおられたのですね」
 ベンチに座って女がいなくなった方を見つめているとスーツ姿の男が隣に立った。
「季龍か。話は終わったのか?」
「ええ。どうやら花嫁候補を名乗っている人間がいるというのは本当らしいですよ。学園長と話をしましたが、ぜひうちから花嫁をなんて言われてしまいましたよ」
「当主になる人間は花嫁がいるべき、などという古い考えはさっさと捨てたほうがいいな」
 十和と呼ばれた男は立ち上がると一つ欠伸を溢した。
「眠っていたんですか?」
「ああ、少し休んでいた」
「昨日の深夜から立て続けに任務をこなしておられましたからね。疲れて当然です。家に帰るまではお休みください」
 家に帰ればまた任務が舞い込んでくるのだろう。この学園から家まではそう離れていないので休めると言っても三十分ぐらいか。いつもなら不満だが、今は別段疲れを感じていなかった。少し寝たおかげか、かなり体の調子がいい。
「さて、用事が済んだなら帰るぞ。そもそも俺はここに来る必要はなかったな」
「候補者を名乗っている人間を見なくてもいいんですか?」
「いい。そんなことをすれば本当に花嫁候補になれるかもしれないと余計な期待をするだろう」
 帰ろうと足を進めた時、季龍が十和の手を見てから驚いたように目を見開いた。
「あれ、十和様。手の傷治ったのですか? 今朝の討伐でかすり傷を負っていたと思っていたんですが」
 深夜から朝にかけて行われた妖魔の討伐で十和は手の甲に軽い傷を負っていた。擦り傷程度のものだったので碌に治療もせずに放置していた。
「いや、構っていないが……」
 十和は自身の手の甲に傷がないことに気が付き、驚いた。
 左手と勘違いしているのかもしれないと思ったが、どちらの手の甲にも傷はない。
「傷が消えている……」
「誰かが治癒したということでしょうか」
 十和の頭の中に浮んだのは去って行く後姿だった。彼女が傷を治したのだろうか。
「季龍。調べて欲しいことがある」
 校庭を見つめる紫色の目は見えないはずの彼女の姿を見ているようだった。

「酷い目にあった」
 本日の実技の授業は二時間続けて行われ、クラスメイトとの組み手の後は、弱い妖魔と戦う授業が行われたのだが、その授業の結果も散々だった。弱いと言っても妖魔は妖魔。攻撃してくるのは変わりなかった。藤沢との組み手でよろよろだった楪には強敵に違いなかった。時間がかかったが支給されている魔封じの札で何とか妖魔を倒すことには成功したが、全身に細かい傷が出来た。
 実技で負った傷は保健室で治療してもらったが、まだ痛みが残っている。特に右腕の打撲は青痣になって熱を持っている。
 妖魔学園に入学して三年になるが、一向に強くなれる気がしない。妖魔討伐に特化している術というものがあり、学園内では札などを扱うのが得意な者、結界術を用いて祓う者、力を込めた刀などを使う者が多い。治癒に特化している人間もいるが、楪ほど特質して治癒に特化している人間は少ない。
「強くなるって決めたのにな」
 幼い頃、妖魔に襲われた時に強くなりたいと思ったのだが、その目標は果たされることなく、むしろ姫花の方が強いので姉の立場などない。
「治癒じゃなくて武力特化だったらもっと違っていたかな」
 今頃、結婚で悩むこともなかっただろう。
 実技のことで頭がいっぱいで忘れていたが、楪の未来の夫が家に来るのは後一日しかない。嫁ぐことになっても縁談が破談になっても学校も止めさせられるだろうから、学校に通うのは明日しかない。
 桃は表面上は残念がっていなかったが、泣きつけば寂しいと言ってくれるかもしれない。あまり甘えすぎると優しい桃は無理をしてでも楪を助けようとしてくれるだろうから、あまり泣きつくのも良くないかもしれないな。最後は笑ってお別れしたい。
 家が見えた途端、楪の足は止まった。
 帰りたくないと思ったことはこれまでもあったが、ここまで強烈に拒絶感を抱いたのは初めてだった。
 足が一歩も先に進みそうになく、楪は気が付いたら来た道を引き返していた。
 実技で疲れているから早くお風呂に入って寝てしまいたいのに、楪がやって来たのは家の近くにある公園だった。日が暮れ始めているからもう公園で遊んでいる子供はいない。人気のない公園のベンチに座り、大きく息を吐き出しながら力を抜く。
「結婚かぁ」
 自分には縁のないものだと思っていた。
 額の傷は大きくないし、目立ちもしない。それなのに両親が傷を見た反応が忘れられない。きっとトラウマになっているんだろう。
 ただ、五年前に亡くなった祖母は額の傷を見ても優しく微笑み、労わるように撫でてくれた。そして「この傷ごと愛して傷痕にキスをしてくれる人はきっと現れるわ」と言ってくれた。そんな人いるだろうか。
 四十代だからと決めつけるのは相手に失礼かもしれない、と言い聞かせながらも本音が口から飛び出した。
「嫌だなあ」
「何がだ?」
「何ってけ、こん、が」
 あれ、公園には誰もいないはずでは。独り言に返答があったことに驚き、辺りを見渡して漸く隣に男が立っていることに気が付いた。
「えっ!」
 その男は、昼間にベンチで会った顔の綺麗な人だった。
「こんばんは」
 何故ここにと困惑していると、軽く会釈をされ慌てて頭を下げる。
「こ、こんばんは! 昼間はどうも、え、なんでここに?」
「少し話がしたくて、座っても良いか?」
「どうぞ、どうぞ」
 腰を上げて横にずれると男が楪の隣に腰を下した。
「昼間はどうもありがとう。この傷、治してくれたんだよな?」
 そう言って男は傷のあった手の甲を撫でた。
「余計なお世話かと思ったんですけど、つい」
「へえ、やはりそうか」
 男の低い声に驚き、顔を上げると男の顔がすぐ目の前で迫っていた。
「えっ! 近い! ど、な、なんですか」
「俺は特殊な体質で治癒が効き難いんだ。今まで何人も俺の体を治そうとしたが誰も傷を治すことができなかった。それなのに何故君は治せたんだ。能力値が恐ろしく高いか、それとも相性がずば抜けていいのか……」
 男が何やら言っているが、あまりの近さに耐えきれなくなり男を押し退けて立ち上がる。
「び、美の暴力……ここまで近いと攻撃力が高すぎる」
「何を言っている? それで、どうなんだ?」
「え、何がですか?」
 肝心なことを聞いていなかったらしい。聞き返すと、もう一度座る様に指示され男の隣に今度は間を開けて座る。
「俺の専属治療員になってほしい」
「……え?」
 驚く楪の手を男は握りしめ、懇願するようにじっと目を見つめて来る。さっきよりかは遠くなったが、至近距離には変わりなく、そんな距離で紫の色の目を見つめていると何だかくらくらして来た。
「専門治療員とは何ですか?」
「言葉のままだ。俺が傷を負ったら治して欲しい。俺の傷を治せるのは今のところ君だけなんだ。勿論働きに応じてきちんと給料は払う」
 頼む、と言いながら手を握られた。その握る力強さから男がどれだけ困って居るのかが窺えた。
 治癒が効かないのなら傷は病院の治療に頼るしかない。普通の生活ならば問題ないが、妖魔と戦う身からすれば命取りになりかねない。楪が授業で戦った弱い妖魔でも攻撃されれば傷が残る。
 男は逢魔学園にいたことから間違いなく祓い屋だろう。身なりの良さから考えてまず間違いなく名家の出だ。祓い屋の名家の人間は妖魔討伐の最前線で活躍することが多いから恐らくこの男も最前線で戦っているはずだ。強い妖魔と戦えば、傷も多くなる。男の懇願は至極真っ当だ。
 思わず頷きそうになったが、あることを思い出して首を横に振った。
「そう言ってもらえるのは凄く有り難いんですが、すみません」
「何故だ? 悪くない話だと思うが」
「私、結婚するんです」
「はあ?」
 男は心底驚いた様子で目を見開き、すぐに顔を顰めた。
「……結婚するにしては若すぎるだろう。それに万が一結婚しても働くことは出来るはずだが」
「そう、なんですけど」
 普通の結婚ならば働けただろうが、楪の結婚は政略結婚だ。しかも楪は相手がどんな人間なのか全く知らない。働けたらいいが、働けない可能性も高い。そこまで考えて、はたと気が付いた。結婚が上手く行かなかった時、路頭に迷うと悩んでいたが、この男の頼ればいいのではないか。頼ると言うか、男の提案を飲み、働かせてもらえれば一人でも生活できるかもしれない。
 そうなればもしかしたら学校を辞めなくてもよくなるかもしれない。
 見えて来た希望に楪は真剣な顔で男に向き合った。
「あの、結婚が破談になったらお願いしてもいいですか? 破談にするんで」
「その結婚、同意か?」
「うっ」
「何か事情があるのなら話してほしい。力になれるかもしれない」
 少し悩んだが、意を決して昨日両親に言われ結婚することになった経緯を説明した。
 話している間、男は真剣な顔をしていたが、両親の楪への態度を説明すると顔を顰めた。オブラートに包んだがつもりだったが、それでも両親の楪に対する態度は酷く、その態度が日常化している楪にとっては酷いという認識はあまりなかった。
 痛みを感じる機関が麻痺してしまっている。
「なるほどな。政略結婚で四十代の男と結婚させられるか、縁談が破談になり家を追い出されるかの二択だから追い出された場合の援助が必要だと」
「そうです。都合が良い話かもしれませんが、結婚は破談にしますのでどうか雇ってもらえませんか」
 お願いします、と頭を下げると男は何やら考え込む様に顎を撫でた。
「難しい話でしょうか?」
「いや、全く問題ない。だが、その相手が君を気に入る可能性は十二分にある」
「そんなことはないと思いますが」
「ゼロとは言い切れないだろう。それを完全に阻止する方法がある。絶対に破談になる方法が」
「何ですか?」
 男がふっと蠱惑的な笑みを浮かべ、楪の手を取った。そしてそのまま口元へ持って行き、軽く口をつける。ちゅっと、小さく音を鳴らし離れた後。
「俺と結婚すればいい」と言った。
「え?」
 幻聴かと思ったが、男は真面目な顔で続ける。
「その男が見定めに来る前に俺と結婚しておけば絶対に破談になる。結婚していれば家を出ることになっても俺の家に来ればいいだけだ。君は面識のないおっさんと結婚しなくてよくなり、俺は治癒が出来る人間を傍における両者得しかないと思う」
「た、確かに、そうですけど」
 男の言う通り話に乗れば結婚しなくてよくなる。それはあまりにも魅力的だ。
 結婚する相手が別の人間に代わるだけな気もするが、目の前の男の顔面を見ているとどうでも良くなる。
「何か不満か?」
 不満も何もできれば学生のうちで結婚などしたくないと言うのが本音だが、現状そんなことを言っていられないの理解している。
 それでも引っ掛かりを覚えるのは、きっと祖母の言葉だ。目の前の男は果たして傷ごと愛して傷痕にキスをしてくれる人だろうか。
 いや、そもそも恋愛結婚をするわけではないので、傷痕にキスなどしてもらわなくても良い。額の傷もだが背中だって見せる機会なんてない。
「何も今すぐ結婚するわけじゃない。婚約期間にすればいい。それに何も本気で結婚することはない」
「どういうことですか?」
「さっきも言ったが、この関係は両者ともに得がある。だから契約結婚とすればいい。本気で好きな相手が現れたら契約を破棄して別かれればいいだけだ。ただし治癒員としては傍にいてもらうが」
 あくまで契約なので本当に結婚したい人間が現れたら契約を破棄すればいいだけだ。もし好きな相手が現れなかった場合どうなるのか、などと疑問が浮かぶが、結婚を破談にしてやって行くには契約に縋るしかないので疑問は全て打ち消した。
 なるようにしかならないのだから、考えても仕方ない。
 楪は男の言葉に頷き、契約を受け入れた。
「それじゃあ、決まりだな、よろしく」
「よろしくお願いします」
「契約書は明日持ってくる。放課後迎えに行く」
「はあ、ありがとうございます」
 急だなと思ったが、土曜日には政略結婚の相手が来てしまうので、それよりも早く話を済ませなければならない。
 明日の事を話しながら公園の入り口まで行くと、車道に高級車が止まっていることに気が付いた。ぴかぴか光る黒塗りの車などドラマの中でしか見たことがなかったので、思わずじっと見つめてしまっていると、男がそちらに歩き出した。
 車の隣に立った男に家まで送ろう、と言われ眩暈を起しそうになる。身なりからわかっていたことだが、男はかなりの名家だ。今更ながら言葉遣いや礼儀が気になった。
「だ、大丈夫です。家まで歩いてすぐなので。走って行けば三分かからないので」
 頭を下げると、男は無理強いはしなかった。慌てる楪に優しく微笑みかけると軽く片手を上げた。
「それじゃあ、また明日」
「あ、はい。ありがとうございます」
 家に向かって歩き出しそうになった時、男の名前を聞きそびれていることに気が付いた。
「えっと、そう言えばお名前を教えてもらっても良いですか?」
 男はふっと笑みを浮かべた。
 真顔でも勿論綺麗だが、優しい笑みはまるで花が綻ぶような美しさである。わっと驚きそうになり、反射的に口を押える。
「そう言えば名乗っていなかったな。俺は、龍ヶ崎十和だ。これからよろしく楪」
 お休み、というと男は車に乗り込んだ。
「おやすみなさい」
 閉まった扉に声をかけると、車は発進した。
 公園の入り口に一人残された楪は、去って行く車を見ながら首を傾げた。
「りゅうがさきってどっかで聞いたことあるな……りゅうがさき、ん? 龍ヶ崎?」
 今日その名前を散々連呼されていたというのに咄嗟に思い出すことが出来なかったが、すぐに誰なのか思い至った。
「あああああ、龍ヶ崎って姫花の婚約者候補の家だ」
 さっきの男、十和が次期当主だと決まったわけではないが、嫌な予感がひしひしと背中を撫で始めていた。
「というか、さっき手にキスされた……?」
 あの時は咄嗟に反応できなかったが、確かに手にキスをされた。その手を持ち上げてみると、おかしな点に気が付いた。
「あれ、手の傷が消えてる」
 実技の時に妖魔につけられた青痣が綺麗さっぱり消えていた。