荒い息を吐き出す口の中はいつの間にか血塗れになっていた。気にしている余裕はなく妹を抱えたまま全速力で走る。
 体全体が痛い。泣き出してしまいそうになりながら必死で足を動かす。どたどたと足音が背後から迫って来る。
「もうちょっと、もうちょっとだからね」
 背中に背負った妹に言い聞かせるが、意識のない妹は返事をしてくれない。
 どうしてこんなことになったんだろう。こんな所へ来なければ良かった。
 いつも家の近くにある公園でばかり遊んでいるから今日は少し遠出をして森の中で遊ぼうと言い出したのは楪と妹の姫花のどちらだったか分からない。二人で手を繋いで森で落ち葉や木の実を拾ったり、鬼ごっこをしたりして遊んでいた。日が暮れるまでに帰ろうともう一度妹と手を繋いだ時、森の奥から不気味な声がした。
 うううううう、と森全体が唸っているような低い声に背筋が凍る。
「お姉ちゃん……」
 姫花が怯えたように楪の腕を掴んで身を隠す。
 音はどんどん近づいて来る。こっちに向かって来ている。
 その瞬間、楪は姫花の手を引き、駆け出していた。
 足場の悪い森の中を走るのは難しく、直ぐに姫花が木の根に引っ掛かり転んだ。姫花に引っ張られ楪の足も止まる。
「姫花!」
 姫花の傍にしゃがみ込み怪我を確認すると足や手が擦り剥けて血が滲んでいる。
「うわあああん、お姉ちゃん、いたいよお」
「痛くない、痛くない。大丈夫だから。泣かないで姫花」
 姫花の膝に手を置き、力を込めるとみるみる内に傷が塞がって行く。ほっと安堵の息を吐く出したと同時に猛烈な勢いで何かが楪達の前に踊り出た。
 ううううううう、あああああ。
 それは大きな妖魔だった。大きく太い腕。指は三本で長く鋭い爪が生えている。赤黒い顔をした異形の怪物の姿に二人は悲鳴を上げた。妖魔の険しい形相と血を這う様な唸り声に気圧されて咄嗟に動くことが出来なかった楪達に妖魔が突進してくる。
「姫花! 逃げて」
 反応が一瞬遅く、妖魔の太い腕が二人にぶつかり、小さな体は吹き飛ばされる。どんと木に背中が木を打ち付け、鈍い痛みに声も出せずに蹲る。
 痛みでじんと顔が熱くなり、涙が滲んだが、すぐに耳に飛び込んで来た悲鳴に顔を上げた。
「姫花!」
 木の前で倒れ込んでいる姫花に向かって妖魔の手が振り上げている。今にも振り下ろされそうになっている手を姫花が無防備に見上げる。
 その光景を見た瞬間、楪は駆け出していた。姫花を抱き込んで地面に伏せた時、振り下ろされた妖魔の爪が額を抉った。しかし痛みは感じなかった。
「姫花、姫花、立って」
 腕の中にいる姫花は目を閉じたまま答えない。ぶつかった衝撃か、妖魔の恐怖で気を失ってしまっていた。
 幸いなことに振り下ろした妖魔の爪が木に食い込んで外れなくなったらしく、木の前で呻き声をあげるばかりで楪達から意識が逸れている。その間に姫花を背中に背負い走り出した。無我夢中で森の中を走る。額と打ち付けた背中が痛むが、気にしていられなかった。
 木から爪を取ることに成功した妖魔が猛烈な速度で追いかけて来るのが音で伝わって来る。
 がさがさがさ、どんどんどん、木が揺れ、なぎ倒される音が森の中に響く。
 ここまで走って来たが楪の足はもう限界だった。ふらふらになりながらの歩みは遅く、音は直ぐ傍まで迫ってきている。
「もう、駄目だ……姫花、起きて」
 どうにか姫花だけでも逃がしたいのに姫花はぐったりとしていて起きる気配が無い。
 音を真後ろに感じ、振り向いた時、妖魔の姿が目に入った。
 妖魔の血走った目を見た瞬間、体が硬直して動くことができなくなってしまった。その場に姫花共々へたりこむ。妖魔は目の間で来ると腕を振り上げた。
 もう駄目だ、死ぬんだ。そう思うとつんと鼻の頭が痛み涙が零れそうになる。
 守れなくてごめん、姫花。
 衝撃に備えてぎゅっと目を閉じた。

 しかし、予想していた痛みは訪れなかった。
 びゅうと風が吹き込み、妖魔の咆哮が轟いた。思わず目を開くと、真っ白い大きな物が飛び込んで来た。龍だ。真っ白の龍が妖魔の横腹に噛み付いていた。妖魔は抵抗しているようだが、龍の力が強くすぐに力尽き、龍が口を離すと地面に転がった。小さく呻いた後にすうっと姿が溶けるように消えて行く。その様を呆然と見ていた楪を龍は一瞥した後に木々の後ろに姿を隠した。
「あ、待って」
 すぐに追いかけようとしたが、背中の傷が痛み立ち上がれなかった。
 痛みが引くまで蹲っていた楪は、傍にやってきた男の存在に気が付くのが遅れた。
「おい、大丈夫か」
 はっと顔を上げると、男の子が立っていた。薄暗いせいで顔ははっきり見えないが、歳は楪とそう変わらないように見えた。
「あの、龍を見ませんでしたか?」
「……見ていないが」
「そっか……さっき襲って来た大きな妖魔を祓ってくれたの」
 自分達を助けるためだったのかは定かではないが、救われたことに違いないのでお礼が言いたかった。
「龍なんて間近で見て怖くなかったのか?」
 男の子は硬い声で言った。
「全然。すごく綺麗でかっこよかった! あんなに綺麗な生き物を見たのは初めてだった」
 あまりに美しさに息をするのも忘れた。
 そう言うと男の子は何故か少しだけ恥ずかしそうに顔を逸らし、話題を変えた。
「怪我の具合は?」
「私は平気。でも妹があまり大丈夫じゃなくて」
「俺からしたらお前の方が大丈夫じゃなさそうだけどな」
 そう言って男の子は楪の額を指さしたので、そっと手に平で額を拭うとべったりと血が付いた。
「わっ」
 予想以上に出血をしているようだ。しかし、それよりも意識のない姫花が心配だった。
 急いで姫花を地面に寝かして、目に見える傷に手を翳し、力を込めると手元がゆっくりと暖かくなり傷が消えて行く。一通り直しても姫花は目を覚まさない。
「どうしよう、どうして目を覚まさないんだろう」
「恐らくただ気絶しているだけだろう。それよりもお前治癒能力があるのか? じゃあ自分の傷も直せ」
「ううん、治癒できるのは他人の物だけで自分のは直せないの」
 そう言いながら姫花を背負おうとしたが、背中に傷が痛み、息が詰まった。
「背中にも怪我をしているのか?」
「うん、少し……」
 見せて見ろと言われ、背中を捲られる。きっと酷い傷が会ったのだろう背後で息を飲む音が聞えて来た。
「これは、早く医者に見せた方が良い」
「血が出てる? 痕が残っちゃうかな」
「少しだけ。治癒で綺麗に治るはずだから痕は残らない。安心しろ」
 夜は妖魔が活発になって危ないから送って行くという男の子の言葉に甘えて、自宅付近まで姫花を背負ってもらうことになった。傷に障らないように気を付けながら家までの道を急ぎ気味で歩く。いつの間にか空は夜の色で方が覆われていた。
「お母さんに怒られちゃうな」
「俺が何か言い訳をしてやろうか」
「ううん。いいの。門限過ぎたのは私の責任だから」
 家までもうすぐという所で、家が騒がしいことに気が付く。大声で姫花の名前を呼ぶ声が聞こえて来た。門限はとうに過ぎているので心配した家の人達が探しに出ているのだろう。
「ここまでで大丈夫。送ってくれてありがとう」
 頭を下げて男の子に別れを告げる。
「本当にありがとう。君が来てくれて良かった」
「大したことはしていない。妹の命が助かったのはお前が勇敢だったからだ。泣かずによく頑張ったな」
 そっと頭を撫でられ、楪は思わずぽかんと口を開けた。
 今まで楪の事を褒めてくれる人は遠くに住んでいる祖母だけだった。両親は楪に興味がないようで、何をしても褒めてくれない。まさか泣かなかっただけで褒められるとは思っていなかった。
「何にもしていないよ。私、全然、何もできなかった」
「そんなことはない。こんな傷を負ってまで妹を守ったんだろう」
 すごい、と男の子は言った。
 さっき治まったと思っていたのに、つんと鼻の頭が痛む。
 妖魔に襲われるなんて初めてのことで怖くてたまらなかった。泣き出してしまいたかった。体も痛くてくじけてしまいそうだった。
「本当は、不安でたまらなかったの。ごめん、ごめんね」
 男の子の手が頭を優しく撫でてくれる。その手の温かさに抱えていた不安感が消えて、堪えていた涙が溢れて来た。
 名前もわからない男の子は楪が落ち着くまで傍にいてくれた。
「変な所見せちゃって、ごめんね。ありがとう」
 姫花を受け取り、じゃあね、と泣いて赤くなった目のまま手を振ると、男の子も片手を上げて答えてくれた。
 名前はお互いに聞かずに二人はそこで別れた。
 男の子の背が消えるまで楪はその背を見送り続けた。楪と年齢の変わらないように見えた男の子の背は大きく見えた。
 強くなりたい。
 全部を守れるように。もう二度と怖くて泣かないように。