2月13日。
私の家で美月と『お菓子作り苦手な私、卒業!』に挑戦している。
「でもさくらがお菓子作り苦手なの意外」
学校帰りにあるスーパーの袋から板チョコを出しながら美月が言った。「だってお母さんの代わりにご飯とかよく作ってるんでしょ?」
「料理は適当でもなんとかなるから」
「逆に難しそうだけど」
「お菓子は分量も手順もきっちりしてるから苦手」
「意外ー」
美月はザザッとスーパーの袋をさかさまにする。100均で買ったラッピング用品が飛び出した。
しっかり者の鎧を着込んでいるけれど、私がきっちりしているなんて、きっと爽汰が聞いたら笑うだろう。今日だってだらしない部屋をなんとか全てクローゼットに押し込んできたのだから。
私はデジタルの計りにキッチンペーパーを敷いて、小麦粉を乗せていった。
・・
「わー!できたできた!」
オーブンから出てきたガトーショコラに美月は歓声を上げた。私は竹串をそっと差し込んでみる。
「うん、大丈夫そう」
「やったー!これ完璧じゃない?」
焼きあがったワンホールのガトーショコラはきれいに膨らんだし、焦げてもいない。粉砂糖をかれれば、参考にしたレシピの写真通りになりそうだ。
「粗熱が取れてから切り分けるね」
「もう食べたい」
「ガトーショコラは焼きたてよりも次の日まで寝かした方がしっとりして美味しいよ」
「それは彼氏にあげる!私は今味見したいー!」
匂いがリビングに充満して、胸にまで広がって、本当は私もかぶりつきたいくらいだ。
チャイムが鳴る。時計を見上げれば時刻は17時半。
「爽汰かも」
「あ、今日入試か。マンション同じなんだっけ」
「うん、爽汰は5階だけどね。ちょっと出てくる」
玄関に向かうとやはりそこには制服姿の爽汰がいた。東京から帰ってきてその足で来てくれたのかもしれない。
「うわ、めっちゃいい匂いする。チョコ作ってた?」
リビングに向かって顔を向けて目を閉じてにやつく。
「白々しいなあ、チョコもらいに来たくせに」
「バレてた。ま、お邪魔しまーす」
「明日渡すって言ったのに」
「入試お疲れチョコをくれるって言っただろ」
言い合いながらリビングに戻ると、美月が待っていた。
「彼氏の登場だ、ほら愛するさくらからのチョコ」
美月はそう言いながら焼きあがったガトーショコラを自慢げに見せつける。
「彼氏じゃないから」
「わ、うまそう。ほんとに2人が作ったわけ?」
私はいちいち照れて言い返してしまうけど、爽汰は美月の言葉はどうでもよさげにガトーショコラしか見ていない。
「もう食べていいの?」
「少し冷まして寝かせた方が美味しいよ」
「えーでもあったかいのも絶対うまいって。めっちゃいい匂いするもん。俺の分、今ちょうだい」
「だよね、私もそう思うー。ね、いいよね?さくら」
「仕方ないなあ」
私はナイフを取り出してガトーショコラを切っていく。ナイフがべたつくこともなく、しっとりと出来上がっている。我ながら自信作が出来た。
焼きたてを切ったから少し崩れてしまったけれど、半分以上はきれいなまま残っているから、美月の彼の分は後でここから切り分ければいい。
「うっま」
「あっつ」
ひとくちサイズを手掴みで爽汰と美月は口に入れた。フォークを人数分出したところだったけど、2人にならって私も手でつかんで口に入れた。
少しほろ苦いガトーショコラが広がってすぐに溶けていく。
「これは『お菓子作り苦手な私、卒業!』と言ってもいいでしょ?」
全て飲み込んだ美月はニヤリと宣言した。
やはり14日の『#卒業日カレンダー』は『#卒業日報告』で埋まっていた。
1番多いのは告白報告だ。恋の切なさを歌ったBGMに合わせて、カレンダーの日付欄には丸やハートがつき、コメント欄には詳細が綴られていた。
『勇気出しました。返事はOKで、片思いからも卒業しました!』
『卒業日カレンダーのおかげで頑張れた!俺も好きって言われた;;』
そんな幸せな報告が溢れていたが『勇気出したけど振られちゃいました;でも、勇気を出した自分のことを好きになれた。背中を押してくれた人ありがとう!』『ダメ元ってわかってたけどダメでした。もうすぐ卒業だから心残りはない!弱気な自分からは卒業できた!』という失恋報告もあった。
成功する、とわかっている人だけが勇気を出したわけじゃない。
1月に流行っていた小さな目標と違って、相手がいる目標だ。自分の努力だけでは実らない。
なのに、どうしてみんな1歩踏み出せて。そしてダメだった自分をさらけ出すことができるんだろう。
・・
「みんな告白してるよ?」
翌日、美月はまたしても目で訴えかけてくる。「まさか爽汰にあげたチョコってあの日のだけ?」
「うん。昨日も今日も滑り止めの入試に行ってるから」
「げー!ラッピングもしてないし、なんなら味見でしょあれ」
「ダメだったかな」
「幼馴染としてはいいよ、でも好きな相手にはダメ」
私はひた隠しにしているし、それ以外のことは割とうまく隠せてきたはずなのに、爽汰への気持ちだけは周りから見るとダダ漏れらしい。否定することもできず曖昧に頷く。
「ほら見て。今回告白できなかった人たちもこれから告白するってさ」
美月がスマホを開いて『#卒業日カレンダー』を見せる。目に飛び込むのは3月のカレンダー達だ。
『バレンタインに卒業した人たちに勇気をもらいました!』
『最後のチャンスです、頑張ってみます』
『バレンタインにもらえなかったけど、ホワイトデーは自分から勝負!』
とまたもや告白予告がずらっと並んでいる。恋の勇気は伝染するらしい。それはとてもいいことだけど……。
「あ、じゃあ。この日は?」
3月30日を指さす、私の18歳の誕生日だ。
「18歳になる時に、告白できないさくらから卒業っていうのは?」
「うーん、考えておく」
「その日は私がかわいくしてあげるからさ。あ、今日も触ってもいい?」
「いいよ」
美月は私の後ろに立つと髪の毛を掬った。時々美月はこうして私の髪をアレンジする。そんな時は決まって嬉しそうだ。
私たちの学校は進学校で、その中で美月は学年首位を取ったことだってある。でも先生やご両親の反対を押し切って、美容学校に進むのだと言う。
ずっと人を可愛くするのが好きで、どうしても夢を諦められなかったと笑っていた。
強い。でもそんな美月にも悩む夜があることを知った。強いだけじゃないはずなんだ。
私は悩むことからも逃げているから、弱い。いい子を作っていれば何も考えなくて済むから。いい子に逃げている。
爽汰には夢がある、美月にも夢がある。
私はなりたい自分がよくわからない。
夢はないけど、この先の私の道はある程度決まっている。
田舎でも都会でもないこの街で、看護師として働く、予定。
お母さんは口癖のように言った。「手に職をつけなさい」「資格を取りなさい」
小学校6年生の時に、両親は離婚した。離婚なんてよくある話でクラスに同じような子もたくさんいる。そうわかっていても当たり前の毎日が一瞬で消え去るというのは、12歳の私には大きな衝撃だった。
「資格は大事なのよ」お母さんは言った。
「看護師で本当によかった」何度もそう言った。
心からそう思っているようでもあり、言い聞かせているようでもあった。そして、事実でもあった。
お父さんは私たちにマンションを残してくれたし、養育費だって払ってくれている。でもお母さんだけで私たち2人を育てるのはそれなりにお金が必要だ。
「看護師じゃなかったら正社員に戻れてなかったかも、やっぱり資格よ」
「さくらは将来何になるの?何でもいいけど資格があるものにしなさい。いざという時に役に立つから」
「何か資格が取れる大学に行ったほうがいいし、そのためには推薦がもらえるようにしないとね。」
お母さんの言うことは正しい。
でも、お母さんが看護師じゃなくて、正社員に戻れなくて、高給でなければ。まだお父さんはいてくれたんだろうか。
お母さんには絶対に聞けないけど。
お母さんには絶対に言えないけど。
どんな理由があって2人が別れたのかはよく知らない。喧嘩ばかりでも、それでも私はお父さんにいてほしかった。
「推薦のためには……いい子でいるべきよ」
お母さんは12歳の私に繰り返し言った。これから中学に入ってその後に待つ高校受験のためには、内申点と生活態度が重要なのだと言う。
「いい子にしないといけないの?」
「大人はいい子が好きだから。先生の前だけでいいから、いい子でいるのよ。推薦をもらうために」
でも、私は気づいていた。
お母さんだっていい子が好きなことを。
もしかすると……いい子ならお父さんも帰ってきてくれるかもしれない。
いい子でいなくちゃ。
お母さんが求めるいい子、先生が求めるいい子、お父さんが帰ってきてくれるくらいのいい子。
でも、いい子ってなに?
その答えがわからないから、大人の求める私を探した。
夜勤の日に夕食を作れば褒められた。だから「お母さんの代わりの木崎さくら」になる。
誰もやりたがらない委員に立候補すれば喜ばれた。だから「委員長の木崎さくら」になる。
近況報告をお父さんにメッセージすると、嬉しそうな声で電話がかかってくる。だから「まだお父さんの子供の木崎さくら」になる。
そうして誰かの求めるいい子の私が完成して、誰に対しても「求められている木崎さくら」になるのが楽だと気づいた。私の考えたいい子は、優しいしっかり者。いつの間にか友達の前でも同じように振る舞っていた。でもその「木崎さくら」でいれば嫌われることもない。
中学生になったある日、私はお母さんに言ってみた。
「私もお母さんみたいに看護師になろうかな」
その時のお母さんの喜びようは今だって鮮明に思い出せる。胸に突き刺さって痛いほどに。
「大賛成!お母さんも看護師がいいと思っていたの!」
私は気づいていた、お母さんの望んでいることを。
そう言えばきっと喜んでくれることを。お母さんが望むいい子になれることを。だから「看護師を志す木崎さくら」になった。
そんな風に、大人にとっての「いい子探し」をしているうちに私は私のことがわからなくなってきていた。
大人のための「木崎さくら」を卒業したい。
でもこの「木崎さくら」から卒業してしまったら、私からはすべてなくなってしまう気がした。私は夢もない、空っぽだ。
「勉強からの卒業っ!」
2月16日の放課後、爽汰はそう叫んだ。
昨日の試験が最後で、爽汰はついに受験勉強から解放されたらしい。
「最高の卒業じゃん、おめでとー」
美月がカバンからグミを出して「1粒しかないけどお祝いってことで」と爽汰に渡した。
「はー、本当に最高の卒業だ」
もらったグミをすぐに口に入れて爽汰は清々しい顔を見せた。
「結果はいつ?」
「来週。今は結果のこと考えたくない、その話はやめて」
美月の質問に爽汰は悲痛な声をあげてから笑う。
「まあお疲れ!」
「お疲れさま!」
あとほんの少しで爽汰が東京に行くのが確定してしまうのか。……本命以外は地元を受けていたけど。でも爽汰は間違いなく東京に行く、そんな予感がした。
「塾ももう終わり?」
「まだあるけど、もう行かなくてもいっかな。塾も卒業!」
春からのことを考えるのは怖くて私は思考を停止した。
今は自由の身になった爽汰と過ごす時間が増えることだけ考えよう。
「あっそうださくら。今日は一緒に帰れない」
「塾?」
「あー……」
爽汰は歯切れの悪い返事をした。なんと言えばいいか迷っているらしい。
「今日はちょっと塾の後輩に用があるって言われてさ」
瞬間、胸にスゥッと風が入り込んだ気がした。なんとなく意味を察してしまった気がする。だから、それ以上聞けない。
「塾の後輩?」
私の気を知らずに美月が質問する。
「うん、うちの高校の子だけどね」と爽汰は返した。
高校の子――相手が女の子なのだということはすぐにわかる。
「なんの用?」
「チョコくれるんだってさ。受験お疲れ様の」
「バレンタイン学校来てなかったから今日ってことか」
「そうそう」
美月とやり取りをしながら爽汰はマフラーを巻き始めた。爽汰に告白する女の子のもとに行ってしまう。美月が私をちらりと見た、美月の目が「止めなくていいの?」と無言で訴えてくる。
でも今日もそれに気づかないふりして「いってらっしゃーい。じゃあ私は先に帰るわ」と明るい声を出した。
『ねえこの子じゃない?チョコ渡したの』
爽汰がきっと告白を受けた――翌日の土曜日、予定なく部屋でゴロゴロしている私に美月からメッセージが届いた。
PikPokのURLが添えられている。心臓が変な音を立てた気がする、こわばった手でおそるおそるタップしてみると『#卒業日カレンダー』の投稿に飛んだ。
淡いピンクの卓上カレンダーがうつしだされ、2月16日の日付までズームされる。そこには『ただの後輩から卒業!』という手書き文字が見える。
ドクンと胸の音がこめかみにまで響く。
恋の歌がBGMで流れ、女の子の細い指がカレンダーに伸びてぷっくりしたクリアのハートシールを貼った。動画はそこで終わっている。
『ずっと片思いしていた先輩に告白しました! #卒業日報告』
爽汰は春にはいなくなる、東京に行ってしまって。
でもなぜか。爽汰はずっと爽汰のままで、私と変わらずにいてくれるとどこかで思っていたのだ。
春にならなくても。
私が何も言えないうちに、幼なじみに甘えている間に。変わってしまうことはある。
「……そりゃそうだよね」
投稿を見た瞬間は心臓が跳ねて体温は一気に上がったけれど。今は身体の芯が冷えたように手先まで凍っている。
永遠を誓った夫婦でも、永遠なんてない。
愛なんていつか壊れるものだから、恋にしたくなかったのに。幼馴染でずっといたかったのに。
私たちが恋愛にならなくとも、壊れてしまうんだ。
後輩の女の子のコメント欄を見ると『結果は残念だったけど、先輩が上京する前に伝えられてよかった』と添えられていて、ホッとしてしまう自分が情けない。
まっすぐ伝えて、弱音を人に見せることができる爽やかな彼女と。幼馴染の立場に甘えてくすぶったままの自分を比べて、ますます情けない気持ちになる。
彼女の投稿から『#卒業日報告』をタップしてみると、様々なカレンダーがずらっと並んでいる。
目に付いたものをタップしていくと、やはりバレンタインにちなんだ卒業報告が多い。告白を受け入れられた人、受け入れられなかった人、それは様々だけど投稿は清々しく誰も後悔をしているようには見えなかった。
『ただの後輩からの卒業』
『バイト仲間からの卒業』
『友達からの卒業』
きっとその関係はぬるま湯のような関係で。ずっと浸かっていられる温度だ。一歩踏み出そう!と決心しなくては簡単に抜け出せもしない。
『幼馴染からの卒業』
その投稿に目を奪われる。全く知らない高校生の投稿だ。
動画に添えられたコメントには『高校卒業を機に離れ離れになるから勇気を出しました。これからは恋人です!』と書かれていた。
私の家から300キロは離れた県で、顔も知らない、本名すら知らない。でも私と同じように幼馴染が好きで、春から離れてしまう予定で、そして勇気を出した人がいる。
『怖くなかったですか?』
気付けば私はコメントをしていた。
『怖かったです!』
たったそれだけの返事だ。
どうして怖かったのか、どうして告白しようと思ったのか、どうやって勇気が湧いたのか。
たくさん聞いてみたいことはあったけど『怖かった』それに全て詰まっている気もした。
みんな怖いんだ。
卒業するのって、今の私とさよならすることだから。
でも、さよならと引き換えに手にするものがある、それがきっと卒業だ。
胸がざらりと波立てる。
いてもたってもいられなくなって私は立ち上がった。はやる気持ちをなだめながらメッセージを送る。
『今何してる?』
「こんなとこで何してんの?」
「動画撮影してた」
「動画?」
「うん」
爽汰から『マンションの公園にいるけど、来る?』と返事が来た。
私たちが住むここは、ベッドタウンにありがちないくつかの棟が並ぶ規模の大きなマンションだ。爽汰は私たちの棟にある公園で待っていた。
シンプルな滑り台と砂場があるだけの小さな公園。砂場ではよちよち歩きの男の子とお母さんがお山を作っている。
小さな滑り台の上に爽汰は立っていて、私を見つけるとお尻を詰まらせながらゆっくりと降りてきた。
「なんかあった?」
「爽汰にちょっと会いに来ただけ」
「えっ、本当に何かあった?」
「ううん、特になんにもないんだけど。試験も終わったし暇かなと思って。私も暇だったから」
「ふうん。じゃあちょっと付き合ってよ」
爽汰は私の返事を待たずに歩き出した、小さな公園を出てマンションの敷地を突き進んでいく。
「どこに行くの?」
慌てて爽汰に追いついて私は聞いた。
「特に決めてないけど、動画を撮りたくて」
爽汰をよく見れば歩きながらスマホを構えて、歩いている今も動画を撮っているようだった。
「マンションの動画?」
「うん、まあマンションも」
「何を撮ってるの」
「色々。組み合わせて30秒の動画にしたい」
「30秒?」
目の前の背中が止まって、私も足を止めた。爽汰はマンションの敷地の真ん中にそびえる大きな木の下の前に立つ。爽汰のスマホが木を見上げた。
「CM作りたいって言っただろ?」
「うん」
「その練習」
「こんなところで?」
「うん、こんなところだから」
爽汰が撮っているのは、もうだいぶ年季が入ってきたマンションとその敷地だ。何か特別なものがあるとは思えない。
「カメラマンになるんだっけ」
「違う、CMプランナー。カメラの才能は全くない。でもどんなものにしたいかっていう出来上がりの理想はある」
「そうなんだ」
「カメラの腕前はひどいけど。今作りたいのを撮ってCMっぽく編集してみようかなと思って」
「出来上がったら見てみたい」
「うん、いいよ。――じゃあ次に行こう」
そう言ってまた歩き出したから私も慌てて追いかけた。何の変哲もない私たちの住処を抜けて、近くの道を歩く。慣れた道を迷いなく歩いて私たちの通っていた幼稚園や小学校なんかに入ったりもした。
きっと東京に行く前に、地元の様子を撮っておきたくなったのだと理解した。
私たちにとっての日常が、いつもの風景が、これから爽汰にとっては「懐かしい思い出」に代わっていくのだと思うと、胸がぎゅっと痛んだけれど。私は夕方になるまで爽汰の日常辿りに付き合った。
「めっちゃ歩いたね」
私たちは公園に戻ってきていた。夕方に染まった公園にはもう誰もいない。
ベンチに2人で座って、帰り道に買ったミルクティーの缶で手のひらを温める。
「付き合ってくれてありがと。俺も忘れてた場所に行けたわ」
「私たちが出会ったリトミックの教室を忘れてはいけません」
「はは。いい映像ができそう」
今日撮影した動画を眺めながら満足気にはにかむ爽汰を見ると、劣等感がうずいて直視できずにうつむいた。
「爽汰は夢があってすごいな」
「さくらだってあるだろ、看護師」
「私のは……夢っていうのかな」
「看護師になりたいって夢じゃないの?」
「うーん……お母さんが手に職をつけなさい、国家資格を取ってって言うから、消去法だよ」
愚痴っぽくなってしまってたかな。気を遣わせてしまうかもと思って、顔を上げる。
――爽汰はスマホを私に向けている。
「ちょっと、なんで撮ってるの」
「今日さくら撮るの忘れてたと思って」
「このタイミング?」
「ごめんごめん。でも今撮りたくなっちゃって」
「もう」
でも、場の空気はいくらか明るくなる。私だってシリアスな雰囲気にしたいわけではないし、言わなければ良かったと思ったのだ。
「さくらの看護師も夢だと思うけど?」
「でも、爽汰とは違うよ。こうやって好きなことを見つけて……すごいよ」
「俺は昔見たCMに憧れて、そういうの作りたいだけ」
「それがすごくない?自分だけの好きなものを見つけて、夢にできる人ってなかなかいないよ」
「えー?それならさくらも夢じゃん」
さらっとした言葉は、私を気遣ったようには聞こえない。不思議そうな顔をして爽汰は言った。
「さくら、子供の頃からずっと看護師なりたいって言ってたよ」
「子供って……中学生の頃ね」
「いや、幼稚園児の時から」
「えっ?」
「いっつもお医者さんごっこやらされてさ。でもさくらはいつも看護師なの、俺は患者。医者不在」
爽汰は懐かしそうに笑った。――全く記憶のない遊びだ。
「その時はまだおばさんは看護師に復帰してなかったけど、元看護師ってことはさくら知ってたみたいでさ。お母さんみたいな看護師になるってずっと言ってたよ」
「……」
「だから、俺と変わらんくない?憧れのものがあって、それを目指す。夢ってみんなそんなもんだろ。高尚なもんじゃないよ」
そう言われて思い出す、1番最初の小さな憧れを。
お父さんが教えてくれた、私たちを産む前はお母さんは看護師だったことを。
熱を出して寝込んだ日、私の頬に冷たい手を当て続けてくれたお母さんを。お母さんは看護師だからこんなに安心するんだ、そんなことを思ったかすかな記憶がある。それは看護師だからではなく、母だからだと今ならわかるけれど、その時は看護師ってすごい!って根拠もなく思ったんだっけ。
きっとお母さんはこうやって患者の心を励ましているのだと、そんな風に感じた。熱を出して病院に行くたびに優しい笑顔を向けてくれる看護師に母を重ねた。
心細い気持ちを、掬って温める。そんな看護師さんに憧れたのかも。
爽汰は私をじっと見ると「さくらはさ、頭でっかちに考えすぎなんだって」と笑った。
そして自分の巻いていたマフラーを取って、私の首にぐるぐるとまいていく。
「ありがとう」
冷えていた首をあっためたからか、爽汰の体温が残っていたからか、胸まで熱くなって、なぜか泣きたくなった。
「あ、また撮ってる!」
「いい顔してたからなー」
「不意打ち反対!」
爽汰と別れて玄関の扉を開くと煮物の匂いがする。「ただいま」と小さく声をかけると「おかえりー」と奥から声が聞こえてきた。
リビングまで向かうとやはりお母さんがキッチンで夕食の準備をしていた。
テレビは録画していた医療ドラマを流している、緊迫した手術のシーンだ。
「お母さんって一回辞めるまではオペ室の看護師だったんだっけ」
「そうそう」
「じゃあこんな風にメス!て言われて渡してたの?」
「そうよー」
「なんで病棟勤務になったの?」
まだ看護師についてまだ勉強を深めていない私でもオペ室と病棟の看護師は業務内容がまるで違うことを知っている。
「うーん。オペ看も好きだったけど、病棟もやってみたくなって」
対面キッチンの中にいるお母さんが包丁で沢庵を切り始めた、私が好きなものだ。トントンと規則的な音が始まる。
「小学校……低学年くらいだったかなあ?さくらが言ってくれたのよ。私もお母さんみたいになりたいって」
「私が?」
「うん。インフルエンザをこじらせてしばらく苦しいのが続いてたの。看病してたら『お母さんはやっぱりすごい看護師さんだ。入院してもお母さんがいたら安心。さくらもお母さんみたいな看護師さんになるって』って」
思い出したようにお母さんは微笑んだ。そういえばそんなこともあったような、なかったような。ほとんどない記憶だ。
「それ聞いて病棟も経験してみたいなあと思って。職場復帰した時はブランクもあったし、オペ看と病棟の違いもあるし、働く病院も違うから1からの経験で。それも今思えばいい経験だったけどね」
「その時、何歳?」
「えー40歳くらい?」
「すごい」
そうか、新しいことも、夢も、若者だけのものではないんだ。今すぐ探さなくてもいいんだ。突然ふと見つかったり、道が変わったりするものでもあるかもしれない。
「看護師って大変?」
「志す人に現実を教えるのもなあ」
「ふふ」
「今は高齢者が多い病棟だから力仕事は結構大変。でもおじいちゃんおばあちゃんって可愛いのよ」
お母さんとこんな風に仕事について話すのは初めてだ。話そうと、知ろうと思わなかっただけだ。
『さくらは頭でっかちに考えすぎ』爽汰の言葉が浮かんでくる。自分1人だけで考えていても結局ぐるぐるとその場にいるだけだったんだ。
2月も後半に入り『#卒業日カレンダー』はまた少し変化を見せていた。
卒業が目前に迫ってきて、自分の意志でない『卒業』が増えてきたのだ。
『数学から卒業!』
『就職するし、もう自力で計算なんてしないかも。そう思うと嫌いだったはずなのに寂しいかも』
『体育の丸岡から卒業!』
『嫌いなあいつの授業がようやく終わった!はーすっきり』
『バイトから卒業!』
『大学は違う県に行くから今日で辞めました。辞めたくなかった。もうすぐこの県からも卒業するの寂しい』
高校生活の終わりが見えてきた。1日ごとに最後の授業が増えていき、さよならするものは毎日いくつもある。
「また1つ授業が終わったね」
「ありをりはべり、もう2度と使うことなさそう」
古典を卒業した後に美月は笑った。きっと古語を使う場面なんてそうそうない。この3年間学んでいたものたちもここでお別れだ。
自分の意志で決別する爽やかな『卒業』と違って、過ぎていく日を意識させられる『卒業』はどこか寂しい。
いいことも嫌だったことも全部ひっくるめて、卒業したくないことまでも卒業してしまう。時の流れにすべてさらわれて。
そして『いつも隣にいる幼馴染』からも。
爽汰は希望の大学に合格した。もうひと月もかからずに爽汰は上京してしまう。
私が告白をしても、しなくても。幼馴染のままでいたくても、その日が来れば自動的に『いつも隣にいる幼馴染』を卒業することになってしまう。
『#卒業日カレンダー』は私と同じように決意出来ていない人たちの『#告白できない私からの卒業』が増えていた。
卒業前に、最後のチャンスとして、弱気な自分から卒業して恋の告白をする。そんな決意がたくさん並んでいた。
私は手帳を開いた。
2月17日 『夢がない私から卒業』の手書き文字の上にさくらのシールが貼ってある。
爽汰と過ごした夜、私は手帳にそう書いたのだ。
お母さんのせいにして、夢がない、なんて言い訳だった。爽汰の言うようにもっとシンプルに考えてみたくなったんだ。
幼い頃になりたいものではあったかもしれないけど、今の私が夢と呼ぶにはまだピンとこないところがある。やっぱりお母さんが「手に職をつけなさい」と言い続けたからこの進路を選んだところが大きいし。
でも今はまだそれでいい。大学に通ってから、ううん、働き始めてからでもいい、十年後でもいい。やりたかったと思う日がきっとくる。もしかしたらそんな日は来ないかもしれない、でもそれでもいいんだ。
お母さんと少しだけ話して思った。
「大人が求めるいい子」像も私が勝手に決めつけていたのかもって。だって「お母さんが求めるいい子」なんて本当のところはわからないんだから。
これからも「大人にとっていい子」を想定して演じてしまう、だってそういう性格なのだ。しっかり者だと思われると嬉しいし、褒められると嬉しい。
でも「大人が求めるいい子」の私も、私の1つなんだ。
私にいろんな側面があってもいいはずだ、そんな風に前向きに思えた。
これはPikPokには投稿はしていない。やっぱり私は人にあんまり弱さは見せられない。でもそれでもいい気がした。
爽汰の言う通り。考えすぎなくてもいいんだ。
だから、次の決意も全世界に公開はしない。
私と、それから爽汰だけが知っていればいいことだから。
3月3日 『幼馴染から卒業』