「お母さん、ただいま。……ほら、叶美もおばあちゃんにご挨拶して」
「おばあちゃん、こんにちは!」
「あらあら、二人ともいらっしゃい。……ふふ、かなちゃんは前に来た時よりも大きくなった気がするねぇ」
「ほんと!? わたし、鏡で見てくる!」
古い畳とお線香の匂いがするおばあちゃんの家には、大きな鏡台があった。なんでも、おばあちゃんの嫁入り道具で、もう何十年も現役らしい。
古めかしいというよりは、アンティーク調のお洒落な木彫りのデザインの、立派な鏡。お母さんも、小さな頃からこの鏡がお気に入りだったのだと言う。
まだ小学生になったばかりだったわたしも、例に漏れずその鏡台が大のお気に入りだった。
おばあちゃんの家にはゲームも本もなくて退屈だったけれど、あの素敵な鏡を覗き込めば、それだけで何だか少し大人になれた気がしたのだ。
「ふふ、もう小学生のお姉さんだもんね! これからもっともっと大きくなるんだ」
鏡台の前に立って、背丈の確認ついでに髪に結んだお気に入りのリボンを眺めている時だった。
開けっぱなしだった障子の隙間から風が吹いて、わたしの髪が波のように揺れる。その拍子に、リボンが解けて畳の上に落ちてしまった。
「あっ」
また風が吹いて飛ばされる前にと、わたしは急いでリボンを拾おうとする。
ふと、一瞬俯いた間に、視界の端で鏡が水溜まりのように小さく揺らいだ気がした。
「え……?」
すぐに顔を上げると、鏡には本来映るはずのリボンが解けて長い髪を乱したわたし……ではなく、ボブヘアーに紺色のセーラー服を着た、知らないお姉さんが映っていた。
「……ひ!?」
ものすごく驚いて、わたしは思い切り尻餅をつく。
いつの間にか知らない人が部屋に入ってきたのかと、思わず後ろを振り向いたけれど、そこには畳の部屋が広がるのみだった。
「なに……これ、どうなってるの……? 鏡なのに、ここに居ない人が映るなんて……」
正面の鏡に向き直るけれど、セーラー服のお姉さんはすぐ目の前で痛がるわたしには気付かないようだ。
朝の身支度みたいに、鏡を覗くような仕草で、可愛らしい赤いヘアピンの付いた髪を指先で直している。
「……もしかして、鏡の中の世界に居るの……?」
わたしの言葉にも返事はない。お姉さんは少しの間、わたしがいつも鏡の前でするみたいに、顔を動かしたりスカートをひるがえしたりして、色んな角度から身だしなみをチェックしていた。
そして、この状況を上手く理解出来ない内に、再び鏡が水面に小石を落としたように揺らいで、彼女はそのまま居なくなってしまった。
「……何だったの、あれ……」
しばらく呆けた後、ようやく立ち上がったわたしは鏡台の裏のほんの少しの隙間を覗いたり、冷たい鏡面にぺったりと頬をくっつけてみる。
けれどもう、表面が揺らぐこともなければ目の前のわたしの姿しか映さない、何の変哲もないいつもの鏡に戻っていた。
「おばあちゃん、おばあちゃん! 今鏡の中にね、知らない女の子が居たの!」
「おやまあ、そうかい。よかったねぇ」
はっとしたわたしは部屋を出て、靴下で滑りながら廊下を曲がり、おばあちゃんの元へ走って行った。
持ち主のおばあちゃんなら、何か知っているかもしれない。けれどおばあちゃんは炬燵でお茶を飲みながら、随分とのんびりした様子だ。
隣のキッチンから聞こえたお母さんの声も「危ないから走るんじゃありません!」なんて、わたしの行動をたしなめるだけで、全然話を聞いてくれない。
「本当なんだよ! 向こうは、わたしのこと見えてないみたいだったけど……」
「うんうん。ほら、かなちゃん、そこは寒いだろう、こっちへおいで」
「う、ん……」
おばあちゃんに手招きされるまま炬燵に潜り込むと、わたしの好きなざらめの付いたお煎餅を渡される。
一応話を聞いてはくれるものの、この驚きを一切分かち合ってくれないおばあちゃん。
あまりの反応の悪さに、夢か作り話だと思われているのではと、わたしはお煎餅を齧りながら懸命に説明した。
「えっとね、その子はセーラー服を着てて、赤いヘアピンをつけててね、髪の毛はわたしより短くて……」
「ほう……その女の子は、元気そうだったかい?」
「え、うん……かわいい制服のスカート、ひらってしてた……。わたしも大きくなったら、ああいうの着たい」
予想外の問い掛けに戸惑うけれど、わたしは少し考えて頷く。
少なくとも、あの女の子は髪型や服装を気にするだけ元気ではある。それにどこからどう見ても、彼女は普通の女の子だった。
だからこそ、この驚きや興奮は幽霊に遭遇したような怖さよりも、他人の鏡の前に透明になって立っているような、そんな不思議な感覚だったのだ。
「そうかい、そうかい。よかったねぇ……おばあちゃんも、いつか会えるかねぇ」
「次あの女の子が映ったら、真っ先に呼ぶからね……!」
「ふふ、そうさねぇ。会えるのを楽しみにしているよ」
おばあちゃんの、理解しているのかしていないのかわからない、相変わらずのんびりとした受け答え。
わたしも段々と、自分の見たものが現実だったのか、そんなに慌てるほどのものなのだったのか、自信がなくなっていった。
「叶美ー、お夕飯そろそろ出来るから、テーブル拭いておいて」
「はぁい」
「ところで、さっきは何を騒いでたの?」
「んー……なんでもない」
「そう? ならいいけど……あんまりおばあちゃんに迷惑掛けちゃダメよ」
「わかってるよ」
そうしてお母さんがキッチンから夕飯を運んで来る頃には、なんとなく現実味を失ってしまったその話題をわざわざ口にすることはなく、ざらめのお煎餅を食べすぎてお腹が空いていない言い訳をどうするかで、頭がいっぱいになっていた。
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