――僕の時間は、3年前で止まっている。

 この世の時間は、何にも逆らうことなく今日も進んでいるはずなのに、僕の時間だけがなぜか止まっている。

 まるで真っ暗闇の洞窟で迷子になっているかのようだ。こんなの、不公平じゃないか。でも、何を恨んでいいのかなんて分からない。そもそも何かを恨んでいいのかすら分からない。

 今日もまた、空いた窓から部屋に漏れ出す風が僕の心を冷たくした。痛い。体にしみる。

 僕は何であんな時に、病気になんかになってしまったんだろう。

 冷蔵庫にあるわざとキンキンに冷やした缶ビールを一本開け、今日もまた押し入れから高校の卒業アルバムを持ってきて、それを眺めながらビールを飲む。皆、いい顔だ。体育祭、文化祭、修学旅行……どの行事の写真も幸せで溢れている。本当に楽しかったんだなということが写真だけでも伝わってくる。もちろん、普段の一部を切り取った写真も同じように。僕の表情も今では少しムカつくぐらい楽しそうだ。僕はそれがたまらなくなって卒業アルバムを閉じてしまった。昨日も、一昨日もその前もこんな感じだ。こうなることが分かっているのに、何で続けてしまうんだろう。一体、いつまで続くんだろう。

 その時、テーブルに置いていたスマホが急にピロリン! と鳴った。僕はそれを癖ですぐに確認する。

 ――あいつから?

 どうやら今の通知はラインのようだ。その相手は高校時代一番仲がよかった泰斗(だいと)という人。とは言っても相手が大学に入ってからは一度も連絡を取ってなかったから、実に連絡を取るのは3年ぶりだ。今更なんの用だと思いながらも、その内容に目を通す。

『久しぶり。今日は君に朗報だ。急遽だけど3月2日の土曜日にクラスの皆でもう1回高校の卒業式をやる。もちろん、色々あるからクラスの皆全員が来られるかは怪しいけど……皆を集めるの苦労したんだから感謝しろよ! いつまでたってもその調子じゃ困るからな。それにお前が一番楽しみにしてたんだしな! だから卒業式、来いよ!』

「そつぎょう……」

 思わずその単語を言葉に出してしまう。ただ漢字が追いつかなかった。でも、それもほんの一瞬だった。卒業。

 そう、僕はまだ卒業できていない。3年前――高校を卒業する前の記憶が僕の脳裏にふと映し出される。



 僕は今では昔の面影がないほど物静かな性格になってしまったが、高校3年のときには副学級委員長を務めクラスのまとめ役を担っていた。

 僕は卒業式で、皆に贈り物をすることともう一つ――恋をしてしまった学級委員長に告白するということを考えていた。僕にとって卒業式という高校生活最後の日は今までで一番大事で大切な日になるはずだった。全ての青春を注ぐ日になるはずだった。 

 でも、僕は卒業式まで残り3日を切った時に突然、学校で倒れてしまったのだ。昼休みだったが、友達がいち早く先生を呼んでくれたり、対応してくれたおかげで最悪の事態にはならなかった。だけど、僕は救急車で運ばれた病院で心臓の病気だと診断され、そのまま卒業式に参加することなく数ヶ月の間、ずっと悔しさで涙を流しながらベッドに横になっていた。

 卒業式が終わった後にクラスの子が何人か来て僕の病室に卒業証書や花束を持ってきてくれたときは、今までは悔しくて泣いていた涙が嬉し涙に変わるほど本当に嬉しかった。そしてそれ以外にも「今までありがとう」だとか「お世話になりました」とか言葉の贈り物をしてくれた。でも、僕から皆に贈り物をすることはできなかった。それに来てくれた中には僕の好きな学級委員長も混ざっていたが、とてもじゃないけどこの状況でその時に告白することなんて僕にはできなかった。

 こんな風に皆は僕の卒業のために色々と尽くしてくれた。でも、僕の心の中ではまだ高校生を卒業できていない。あの日から時が止まっている。だから退院した後も受かった大学には行かず、駅前のアパートを借りて、バイトをして、それ以外は家で過ごすという生活をしている。

 ――だから、僕はちゃんと高校生を卒業したいし、この生活からも卒業したい。少しでも黄色い星のように輝きたい。

 そうすれば僕は新しい人生を歩むことができる気がする。

 だから、この泰斗からのラインは正直に言えばとても嬉しかった。3年前から止まった時間をやっと動かすことができるかもしれない。ちゃんと僕は高校生を卒業できるかもしれない。

『本当にありがとう。この恩は一生忘れないよ』

 僕はそう打って送信する。するとすぐに既読が付き、

『なんだよ、大げさだな。完璧な卒業式とまでは言えないかもしれないけど、3月2日、ちゃんと卒業しろよ』

 という返信が来た。本当に僕はいい友達を持った――そう思った。なんだか涙が出そうだ。でも、今出したって……せめて泣くのなら卒業式本番なんじゃないだろうか。そう思って、なんとかスマホを強く握ることでこの気持ちを押さえた。

 僕は卒業式に出るのならそれなりの物が必要だなと思って、少し外に出ることにした。バイトやご飯の買い物以外で外に出るのはいつぶりだろうか。新鮮な気持ちに自然となってしまう。それに、気のせいかもしれないけれどいつもよりも空気が吸いやすいような気がする。

『あー、いい忘れてたけど、会場は高校の体育館が休みで使えるみたいだからそこになった。別に服装は自由だからスーツとかじゃなくてもなんでもいいぞ』

 信号が赤になったところで再び泰斗から補足のラインが来た。今からスーツでも買おうかとも思っていたが、どうやらその必要はなさそうだ。だって、まだ高校の制服が押し入れにしまわれているし。多分それは僕がまだ、卒業していないから残っているんだろう。

 じゃあ、僕は卒業式に皆に渡せなかった贈り物を今度こそ渡すために準備しようと思い、その物を買うためにここから近いところにあった文房具店に寄って少しの間買い物をした。こういうところに久しぶりに来たせいか、僕の見たことのない機能がついている文房具がいくつもあって驚くとともに時の流れを感じてしまった。

 買い物が終わると、別にブランド品のものを買って少しおしゃれなところを見せたいわけでもない僕が買いたいものは特にはなかったため、家路につく。

 駅に近づくにつれて何年生なのかは見ただけでは分からないけれど、学校帰りとみられる高校生の姿も増えてきた。僕も3年前までは――いや、今でもそうなのかもしれないけれどそういう姿だった。なんだかその姿を見ると少し悔しいような、どこか僕が果たせなかった青春を応援したいような不思議な感覚に襲われる。できれば僕もあの中に混じりたいな。

「じゃあな、また明日! 明日はコーラの一気飲みでもしようぜ!」

「いやー、何考えてるんだよ! でも、卒業まであと3日、頑張ろうな!」

「そうだな! ちゃんと皆で卒業しような!」

 高校3年生と思われる男の子3人組の姿が僕の目に止まりその場に立ち止まってしまった。それぞれ家の方向が違うのか、それぞれが違う方面に足を向ける。僕も泰斗たちとこうやってふざけたことを言いながらよく帰っていたことを懐かしく思う。単純に羨ましいな。もう、見ない方がいいんじゃないだろうか。僕には関係ないことで処理しよう。これ以上考えると、自分の頭で処理しきれなくなってしまう気がする。

 僕はその3人組から目を離した。僕も帰ろう。

 ――ドダ。

 僕がその3人組から目を離してからすぐに、何か僕の耳の奥を刺激するような音がした。特別その音が大きかったわけではないけれど、僕にはなぜだか妙に大きく聞こえてしまったのだ。

 振り返ると、さっき僕が目に止まった高校生のうちの1人が倒れていたのだ。

 僕は何も考えることなく、一目散に彼に駆け寄った。もう、他の2人は遠くに行ってしまったみたいだし、あいにく今この辺を通っている人の姿はなかった。だから僕は彼に駆け寄ると、まず救急車を呼んでからその彼の状況を確認した。

 心臓は動いてるみたいだけれど、僕が呼びかけたところでちゃんとした反応がない。どこかに大きな外傷があるわけではないから、何かしらの病気だろうか。僕はある一つのことが頭をよぎった。

 ――あの時の僕に、似ている。

 僕が卒業式の3日前に起きたあの出来事と。症状もこんな風だったと僕を助けてくれた人は言っていたし、それを考えるとまさか彼は僕と同じ状況なんじゃないだろうか。でも、今はそのことを考えずに僕の頭の中にある知識を使って、彼の応急処置にあたった。

 救急車は僕が呼んでから10分ほどで来てくれた。来てくれた救急隊員の人にタジタジだったけれど僕は彼が倒れていたときにどんな状況だったかを説明した。それから僕は何か自分とリンクしているところがあるような彼のことが気になってしまったし、心配でもあったので許可をもらって救急車にそのまま同乗させてもらった。何で僕は彼のことがこんなにも気になってしまうのだろうか。あくまでも全く知らない人――赤の他人なのに。そのことを救急車の中でずっとずっと考えていた。

 病院に着くと彼の意識はみるみる回復し、今は病院の人と普通に話せたり、歩くことも出来るようになっている。でも、どうやら彼は僕と同じ病気が原因で急に倒れてしまったみたいなのだ。

 今、彼は病室のベッドにいる。家族に連絡はいったみたいだけれどもまだこの病室には着ていない。僕は少しでも彼に安心感を与えようと彼のそばにいることにした。でも、僕が近くにいることで彼が本当に安心することができるのかは分からない。この沈黙が気になる。

「あの、お兄さん――」

 その沈黙を破るかのように、彼が僕に向かって話しかけてくれた。僕は窓の外の景色を見ているふりをしていたので、彼の方に振り返る。

「本当にありがとうございました」

「いや、どういたしまして」

 彼は動かせる範囲でのお辞儀を僕に向かってしてきた。さっきまでは友達とあんなにもはしゃいでいた彼だったけれど、今ではかなり小さく見える。僕は彼を少しでも安心させようとあまり得意ではないけれど、作り笑顔を見せた。

「……正直、ここまで気遣っていただけるとは。本当に、あなたはお優しい方なんですね」

「……そ、そんなこともないよ」

 彼の素直な言葉に僕は少し恥ずかしさを感じる。体が少し痒い。でも、今、そんなことを感じている場合ではない。彼がこんな状況なんだから。

 彼にあのことを言おうか――数年前の僕と同じ状況だということを。同じ病気で、卒業式には出れなかったこと。ふと言ってしまったが、お医者さんいわく彼は残念だけど彼の高校で3日後に行われるという卒業式に出ることはこの状況ではかなり厳しいらしい。彼の未来はあの時の僕と同じで真っ黒になってしまったのだ。

「……もし、僕の言ったことに対して気分が悪くなったらそこで辞めるから言ってほしい。君はさっき、少し卒業式の話をしていたけど、それに出れないことを本当に悲しんでいる。ちゃんと式に出て卒業したいし、最後の思い出を作りたい……そう思ってるよね? だって、ちゃんと未来を見たいから」

 もしかしたら、この言葉は人によってはかなり傷つく言い方をしたのかもしれない。でも、なんて言えばいいのか分からなかった。この数年間コンビニのバイト以外で特に誰かとコミュニケーションを取ることもなかったので、コミュニケーション能力が欠けてしまっていたから。

「……はい、そうです。もう3日後の3月1日に迫った卒業式に僕は出ることはほぼ不可能です……。その現実はちゃんと受け入れます。でも、妙に僕の気持ちを分かってくださいますね」

 特に彼は傷ついたわけではないのか、さっきと変わらない口調でそう言った。もう、ここで言ってしまおうか、自分も同じ立場にあったことを……。

 でも、勇気は少しいるようで、数秒間、僕の口は動かなかった。でも、なんとか僕は口を動かすことができた。

「実はさ、僕も3年前、君と同じ立場だったんだよ。君と同じ病気でそれも卒業式の3日前に倒れて……もちろん、卒業式には参加できなかった。そのこともあってか、妙に君のことを考えてしまう。だから、僕は少しでも君の力になりたいと思っている……また、来てもいいかな……」

 僕はこの窓から見える青々とした大きな木を眺めながら、はっきりと、事実のみを濁らせることなく彼に言った。彼は最後まで何も言うことなく黙って僕の話を聞いてくれた。彼が今僕の話しを聞いて何を感じ、何を思っているのかは分からない。

「……よければ、また、来てほしいです。あと今から言うこと、上から目線になってたらごめんなさい。卒業式、出れなくてどうでしたか?」

 ……出れなくて、どうだったか。僕の頭に何かが落とされたような感覚がした。それはもちろん……。でも、ここで本当のことを言ったら彼は今後、余計にこの時にこの病気になった自分を恨むんじゃないだろうか。だから、少し軽い言葉を選ぼうと思った。

 でも、彼の目を見ると、その目は何かに耐えてみせるというような力強い目だった。この目を見て思った。彼は濁したりせず本当のことを言ってほしいんだなって。だから、僕は恐れずに本当のことを言うことにした。

「僕、こう見えても高3のときは副学級委員長をやってたんだよね」

「へー」

 僕がそう言うと、彼は少し驚いた感じで相槌を打ってきた。まあ、今のこの姿を見ればそうだろうな。当然のことだ。

「君、今、こんな人が副学級委員長してたんだーと思ったでしょ?」

「あ、ごめんなさい! でも、悪気はないんです!」

「まあ、気にしてないから別にいいよ。で、話しを戻すと……僕がその立場だったから皆のために少し計画してたことがあったんだけど、僕が出れなくなって水の泡に……。それに僕はまだ、高校を卒業した気がしないんだよ……。3年前から時間が止まったかのような気分なんだ。少しもあの時から成長してない」

「そうなんですか……」

 彼は少し寂しそうな、自分の未来もそうなってしまうんだろうかという不安そうな顔をしていた。でも、僕は彼にまでもこんなことを思ってほしくないし、ちゃんと卒業してほしい。

「大丈夫だよ。僕がなんとかできる限りのことはするから。そんな心配するな。ちゃんと卒業させるからな」 

「はい!」

 さっきまでとは対照的に、彼は花が咲いたような笑顔を見せた。この空間が一瞬、僕の視界がオレンジ色にさせた。そしてこの笑顔が大切なものを閉まっておく脳の部分に保存されてしまった。

 僕は一礼してから彼の病室を出る。もうすっかりと外は時間の経過を表す空に変わっていた。僕は彼にできる限りのことはしてあげると言った。だけど、具体的に彼に何をしてあげることができるんだろうか。正直に言えば分からない。でも、何もしなければ僕は嘘をついたことになってしまうし、僕ができる限りのことをすると言ったあの時の彼の瞳を思い出してしまっては何もしないわけにはいかないなと強く感じてしまう。

 彼の卒業式まであと3日。そして僕の卒業式まで4日。もう、すぐ先の世界なのだ。いつの間にか来るものなのだ。

 でも、僕はどちらのことについても今日はもう何もできそうになかったので家に帰るとカップラーメンを食べてからお風呂をシャワーだけで済ませ今日はもう寝ることにした。



 太陽の明るい光で目が覚めた。まだ眠気の残る中、体をなんとか起こし、何時なのかを見るためにスマホの電源を付けると、誰かからラインが来ていた。

 ――!

 そのラインの相手に少し驚いてしまう。その相手は昨日卒業式の話しをしてくれた泰斗ではなく、僕の好きだった女の子――学級委員の子だ。初めての――いや、唯一1回だけ彼女の方から僕が病気になった時にメッセージをくれたけどほぼ初めてに等しいラインに僕はまだ内容は見ていないけれど、少し驚いてしまった。

『久しぶり。卒業式、無事にできるみたいでよかったね! 私もなんとかその時は仕事がないから行けそう! 君のための卒業式だけど、私も皆に会えるのってなんだか楽しみだな(笑) 興味ないと思うけど、ちなみに今日は夜までオフです!(笑)』

 特別仲がよかったわけでもないのにわざわざ僕にこういうものを送ってくれるのは彼女のことが好きだとかそうじゃないとか関係なくそれ以前に嬉しい。

 今日は夜までオフ……?

 じゃあ、僕が誘ったら彼女は少し僕と付き合って――相談に乗ってくれるだろうか? 

 少し指は震えたけれども、なんとか僕は返信する。

『咲摘(さつみ)さん、わざわざメッセージありがとう! 僕も楽しみです……! あの、もしできたらでいいんだけど今日夜までオフなら少し聞きたいことというか、アドバイスをもらいたいというか……ちょっと会えないかな? 急にこんなこと言ってごめん!』

 どうだろう、少し言い方があれだろうか。別にそうでもないだろうか。僕はあの彼に対して何をしてあげられるのかのアドバイスをもらいたい(あと単純に久しぶりに話したい)と思って、僕は少し恥ずかしいなと思いながらもそう打った。やはりこういう人にラインするのは緊張してしまう。

 僕の送ったラインはすぐに既読が付き、それから少し経って返信が来る。

『うん、別に構わないよ。私が役に立てるのかは分からないけど……、それでもよければ!』

 難しいかなと思ったけれど、その心配をする必要もなかった。つまり、大丈夫らしいので僕らは午後、駅前のカフェで待ち合わせすることにした。

 というか、自分から誘っておいて思うが、2人って少し気まずい。あまり話したことない人とはどういう会話をするのが正解なんだろう。でも、そこはコミュニケーション能力のある咲摘さんがなんとかしてくれると思い、考えるのをやめた。

 久しぶりに洗面台にある鏡を長時間見た気がする。ひげ剃りで少し気になる部分まで細かく剃っていく。服も少しおしゃれなものにしようと、ずっと着る機会がないと思っていた親から送られてきたブランド物の服を着た。別に僕がどんな格好をしようが、少し髭が伸びていようが咲摘さんはなんとも思わないだろう。でも、一応人前に出るから以外のもう一つの大きな理由が僕をそうさせるのだろう。

 カフェでも軽くなにかを食べようと思って、昼食は昨日の夜の残りものを少し食べただけで済ました。約束の時間の10分前に僕はカフェに着いた。どうやらまだ咲摘さんは来ていないようだ。特に何もすることはなかったので、スマホをいじって適当に時間を潰していた。

「お待たせ……!」

「あ、今日はありがとう」

 僕がスマホをいじり始めてから5分ぐらい経ったところで、その声がした。たぶん咲摘さんだろうと思い、スマホから顔を上げる。そして、椅子から立ち上がる。

 そこには確かに彼女がいた。

 ただ、3年ぶりに会った彼女の姿はあの時よりも何倍も何倍も大人らしい顔をした素敵な女性になっていた。

 僕はそんな咲摘さんの姿を少し眺めてしまった。それが少し気になったのか咲摘さんはキョトンと小さく首をかしげた。

「どうかした? この服装、変だったかな?」

「いや、そんなことはないよ……ただ3年ぶりだから懐かしく思っちゃって……。そのカーディガン、桜の蕾が咲いた時みたいに綺麗で似合ってるよ」

「ふふっ、ありがとう。なんか高校の時も面白い褒め方してくれた気がする。変わってないなー」

 咲摘さんはそう言うと微笑を浮かべながら、僕と対面する形で席についた。僕も座り直す。シャンプーの匂いだろうか、咲摘さんから柑橘系の匂いがする気がする。

 懐かしく思ったと僕は言ったけど、正直に言えばそれは少し嘘になる。どちらかと言うと、いつの間にかこんなにも大人になっていた咲摘さんに少し驚いてしまったのだ。こんなにも目に見えるほど咲摘さんは成長していたのだ。

「今は、咲摘さんはどんなことしてるの?」

「今は美術大学に行って絵の勉強を中心にしているかな」

「そうなんだ」

 そうなのか、咲摘さんは今は美術大学に通って絵の勉強をしているのか。確か、高校生の時にそんなことに興味があるとか言っていた気もする。あの時言っていたことを、咲摘さんは自分の手で掴んだのだ。

 自分はあの日からの3年間、咲摘さんとは対照的に何も――少したりとも成長してない。だって、時間そのものが止まっているのだから。現在進行形で。でも、僕以外の同級生はそれぞれの道をしっかりとどこか遠くに向かって歩み始め、それぞれ成長していたのだ。あの時はほとんど同じ地点にいたはずなのに、いつの間にかその差は大きくなっていた。その現実がこれなのか。

 だけど、別に悔しいとかは思わない。自分でこうしたのだから。でも、どこかに何かしらのもどかしさはある。

「――逆に、君は?」 

 さっき、あんな質問をしなきゃよかったとその言葉を聞いて思った。咲摘さんは僕が今どんな状況で流れることのない日々を送ってるのかなんて少したりとも知らない。普通に考えればどこかの大学に行っているか、どこか会社に就職しているか……そう考えるのが妥当だろう。

 でも、僕はそうではない。咲摘さんが想像しているような世界に僕の姿はないのだ。この言葉を言った咲摘さんに悪気なんてない。でも、その言葉を少なからず僕を苦しめた……それは事実だ。

「まあ、なんとなく過ごしてるよ」

「そうなんだ」

 こんな回答を咲摘さんが求めてないってことぐらい分かっている。でも、僕にはこういうような答えしか出せないんだ。ただ、咲摘さんはこの話題について深掘りしてきそうな感じはなく、この後は、高校時代のエピソードで盛り上がった。この行事が楽しかったよねとか、この時にあの人がこんなことを言っていたよね……とか。この時にはもう気まずさなんていうものは桃色の桜の花びらが散って、その花びらがどこにいってしまったのかなんて誰も気にかけないかのように、忘れてしまっていた。

「……そんなこともあったよねー。なんか、懐かしいな……というか、私に相談したいことがあって呼んだんだよね!? ごめん、違う話になってた!」

 そうだ、僕は今どんなことをしてるのかや、高校の思い出を語り合ったりしたいから咲摘さんを呼んだのではない。彼の卒業式について相談したいから呼んだのだ。咲摘さんと特別な世界に入ってしまったのがいけなかった。彼を卒業させることが今の僕の役目なのだ。

「あのさ、僕、昨日ある人と出会って――」

 僕はできるだけ短くなるよう話を時系列順にまとめながらその少年について話していく。コミュニケーション能力の欠ける僕の話は分かりづらいかなとも思ったが、摘咲さんは終始うなずきながら聞いてくれていたので、なんとなくは理解してくれてるようだった。

 僕の話が一通り終わったところで、咲摘さんは閉じていた口を開いた。
 
「どうして君はその少年に強いそんなに想いを持っているの?」

 唐突にそう聞いてきた。その問いにどんな意味があるのか、どんな答えを待っているのかなんて咲摘さんの顔を見ただけでは分からなかった。だから僕の心を真っ直ぐに伝えることにした。

「自分と同じ思い、してほしくないから――自分と重ねちゃったから。僕、実はまだ卒業できてないんだよね、心の中では。だから……」

 何の嘘もない。素直に言った。彼を赤の他人なんかには思えない。まるで自分の過去を見ているようだから。僕はなぜか何の意味もないはずなのに地面を見つめてしまった。

「……やっぱそうか。うん、じゃあ、私もできる限り手伝うよ」

「えっ、本当!?」

「うん、だって君、一人でできるの?」

 ――えっ。そういう意味? ただ単に優しさで手伝ってるれるのかと思ったけど、ただ単純に僕一人じゃ心配だってことか。たしかに僕はあの時のままだ。だけど、あの時の僕も自分で言うのもあれだけれど、そんなに頼りないやつではない気がする。

「いや、それぐらい僕にだってできるよ!」

 僕は反論するように口調を少し強くしてそう言った。

「じゃあ、手伝わなくてもいっか!」

 僕がそういった後、その口調とは対照的に明るい声でそう言ってくる。

 ――そうか、咲摘さん、はめたな。

 僕がそう理解した後、咲摘さんは笑った。そのかわいらしい顔に少し似合わないように大げさに笑っていた。僕もそれにつられて笑ってしまった。なぜ笑っているのかといわれると正直分からない。でも、なぜか笑みがこぼれてしまうのだ。ここがカフェだという空間だということは少しの間、忘れていた。

「おっ、ちょっと笑ってくれたね。なんかさ、君、最近笑ってないように思えたから……違ってたらごめんね」

 確かに、最近笑っていないかもしれない。だから、久しぶりに笑ったような気がする。時の進まない中で楽しさとか面白さとかそういうのを見つける余裕なんてなかったから。もしかしたら、咲摘さんは僕の心を少し読めるのかもしれない。もしくは僕が自分の心を誰にでも読めるようにしてしまってるのかもしれない。

「まあ、それはともかく手伝うからそこは心配しないで。んー、彼は卒業式に参加するのは状況的に考えれば非現実的って言うことか……。んー」

 咲摘さんの表情は面白いほどコロコロと変わる。僕が小さい頃に好きな色が頻繁に変わった時のようだ。今度は咲摘さんは数学の難しい問題に挑戦してるかのような真面目な顔をしていた。咲摘さんだけに考えさせるのは流石によくないと思い、僕も考えるが、急に気温が上がりいつの間にかピンク色のチューリップが咲き、春の訪れを感じられるようになった……そんなようにはアイデアは出てこなかった。

「あ、じゃあ直接出るのは難しいけど、オンラインでの参加なら少しはましになるんじゃないかな! もちろん直接出るよりあれな部分はあれけれど、出ないよりは!」

 たしかに、と僕は思わず言葉が出てしまった。直接出ることは難しくても病室からオンラインで参加することなら彼の今の状況を考えてもできる。咲摘さんの言った通り直接出るよりは劣る面があるかもしれないけれど、出ないよりはきっとましなはずだ。

 そのことを伝えに行くために僕らは早速、彼のもとへ向かった。

 僕が病室に入る時、彼は時々窓の方を向きながら何か手紙のようなものを書いていた。僕らが来たことが分かるとそれを隠すような素振りをした。たぶんなにか見られたくないものなんだろうから、特に触れることはしなかった。でも、今どき手紙を書くのは少し珍しい光景だな。

「こんにちは」

 僕が彼に挨拶するよりも先に咲摘さんが軽い会釈を交えながら挨拶していた。彼はその人を見て少し疑問に思っていた感じだったが、丁寧に会釈した。

「こんにちは」

 僕も遅れて挨拶する。彼は僕に対しても丁寧に挨拶を返す。その動きは昨日より少し大きくなっている気がする。

「今日は、君に提案しに来たんだ、卒業式の」

「あー、考えていただきどうもありがとうございます。でも、難しいですよね……。別に、難しかったらいいですからね。卒業式がなくても、僕はきっと……」

 彼の声は最後の方にかけて段々と風に言葉が飛ばされてしまったかのようにすぐに消えてしまうような声になっていた。

「いや、オンラインで参加するのはどうかな? 昨日、君の学校聞いたから、その学校に相談してみたんだよ。そしたらなんと特別にいいって! もちろん、直接よりはあれだけど」

 僕がこの提案をした瞬間、彼の瞳が黄色いお月様のように輝いた。そして彼は唇を動かし、誰にも聞こえない声で何かを言った。口の動きだけでは分からなかったが、その後に僕らにもちゃんと聞こえるような声で「それなら、僕もできる」と言った。

「お兄さん、天才ですよ! 天才すぎる!」

 そこまで褒めるのはいくらなんでも過大評価な気がする。なんだか僕のいいところをそっと耳元で言ってくれたときのように照れくさい。ただ、これは僕の案ではないのだ。

「あー、これ実は、僕の隣りにいるこの人が決めてくれたんだ」

 僕は誤解を解くために隣にいる咲摘さんを紹介した。彼はあーと言いながら納得したように大きくうなずく。

 机に文字が書かれていない面が上になっている紙――さっき彼が書いていた手紙のようなものが外から吹く風でほんの少し揺れる。でも、なんと書いてあるのかは見えなかった。

「ちなみに、お2人は恋人関係なんですか?」

 その手紙に視線がいっていたから、彼の質問が頭の中に入るまで少し時間がかかった。
 
 ――お2人は恋人関係なんですか?

 この2人はこの空間を考えても1通りしかない。僕と咲摘さん。もちろん僕らはそんな関係ではない。仲も今日で少し深まった気がしなくもないが、高校の時の僕らはほぼ接点がないので友達と言えるかも微妙な範囲だ。言えたとしても中の下の関係の友達。咲摘さんがこの問いに答えそうな感じはない。なら、僕が言うしかない。

「いや、ただの高校時代の同級生。というか、男女が一緒にいるだけでそう決めつけるのは男女が一緒に居づらくなっちゃうだろー。そう思うのは程々にしとけよ」

「いや、そういうつもりはなくて、冗談のつもりで言いました。そもそもの話、お二人の場合、見たらそれぐらいわかりますよ。そういう感じの関係だって」

 今、僕は『男女が一緒にいるだけでそう決めつけるのは男女が一緒に居づらくなっちゃうだろ』と言ったばかりであるが、彼の言葉は地味に僕のどこかを攻撃する。そう見えてほしいとかじゃないけど、やっぱり僕と咲摘さんは同じ立場にない……そういうことを言われているように感じてしまった。

「そうか、まあな」

 どう反応すればいいのか分からず、ぎこちない感じなってしまう。

 その時、誰かに肩をぽんっと叩かれた。

「あの、ごめん今日夜までオフとか言ったけど、友達が体調を崩しちゃったみたいでバイトの代わりに行ってもいいかな? 今、そのラインが来て」

 急に咲摘さんからボディータッチをされてさっきの言葉と重なりかなり動揺してしまったが、どうやら用事が入ったのでそろそろ帰るということだった。

「あー、うん全然大丈夫! 今日はいろいろとありがとう。また、今度卒業式で!」

 僕は今の状況をできるだけ悟られないような口調で話すことを心がけながらそう言う。

「うん、じゃあ。ごめんね、行ってくる」

 咲摘さんはそう言い残すと、足早にこの病室から出ていく。少しだけ好きな人に会えたのに、その人がいなくなってしまうのは仲のいい友達が学校を休んでその人の席だけがぽつんと一つ空いているときのように少し寂しい。でも、この空間に柑橘系の匂いを残していった。

「そう言えば、僕らの来る前に書いてた手紙みたいななつは誰に送ろうとしてるやつなの?」

「……」

 何かまずいとでも言ったのか、彼は黙ってしまった。

 そういうことか。ははぁ。なんとなくわかった気がする。誰に送ろうとしてたのか。

「……そういう感じの人か。いいじゃないか。素敵だよ」

 少し大人げないなと思いながらも、さっき僕に『お2人は恋人関係なんですか?』と言ったお返しも込めて少しニヤリとした顔で僕は彼にそう言った。自分も案外、悪いやつだ。

「……そうですよ。僕の好きな人ですよ」

 やっぱりそうだった。僕の予想通りだ。彼はもうバレたならという感じでそう言ってきた。彼は今まで見せたことのない顔をしていた。それが少し面白かった。でも、これも僕と同じような状況だ。僕も3年前、渡すことはできなかったけれど咲摘さんにそのような手紙を書いていたのだ。その手紙は今でもアルバムの間に挟まれている。

 やっぱりこの少年は僕と同じなんだ。だから、僕はこの少年を卒業させないといけないのだ。それはもう僕の義務なんだ。

「ちょっと見ちゃだめ……?」

「……まあ、お兄さんがいなかったら僕はこの手紙を書くこともできてなかったかもしれないし……ちょっとだけなら……」

 見せてくれないだろうなとダメ元でお願いしたつもりだったのに、彼は助けてくれた人だからという理由で見せてくれた。僕を少しいじってきたりする彼だけど心の奥深くでは僕に対してちゃんと感謝してくれてるみたいだ。

 僕はなぜか分からなけれど、失礼しますと言ってからその手紙を見た。丁寧な字で書かれた文字を僕は目で追っていく。やっぱりこういう手紙を読むのは自分宛てではないと分かっていてもドキドキしてしまう。でも、これは普通の高校生が書くラブレターとはどこか違うような気がする。もちろん、その人のことが好きだとか、こういうところが好きだとかそういうところは書かれていた。でも、最後の文が僕は妙に気になるのだ。


 ――もし、よかったら僕と仲良くなってくれませんか。でも、こういうと結局どういう関係になりたいのって思うかもしれません。僕は、君との関係に名前なんかつけない……そういう関係になりたいです。

「君と関係に名前なんかつけない……そういう関係……」

 僕にはこの言葉をもっと分かりやすい言葉に置き換えることができなかった。そもそもどういうことなのかも分かってない。名前のない関係って……。知り合いでも、友達でも、親友でも、恋人でも、赤の他人でも……どれでもない関係ってことなんだろうか。名前のないってことは。

「ここってどいう意味が含まれてるの?」

 僕は『君との関係に名前なんかつけない……そういう関係になりたいです』の部分を指さしながら彼に聞いた。僕が聞いたことがない初めての言葉だったから。

「ああ、そこですか」

 僕からの問いに彼は分かってたかのように頷く。

「僕の考えは少し変わってるかもしれませんが、なんか名前のある関係って少なからず縛られてしまう気がするんですよね。仲のいい友達なら、親友なら、恋人なら……これするのがどうとか、これぐらいするのが当たり前だろって感じに。僕のお姉ちゃんも言ってたんです。付き合ってる人と毎日ラインをしてるけど正直それは私の中では彼のことは好きだけど、少し辛いって。他にも色々ある中、毎月どこかに行くのは少し負担になってるんだけど、どうしようかなって……。でも、相手から恋人ならそれぐらい普通でしょ? むしろ恋人ならもっと会いたいぐらいだよって言われたらしいんです。だから僕はそんなの考えることのない関係になりたいなって。お互い近づきたいときは近づいて、少し距離を置きたいときは距離を置いて。連絡を取る頻度だって、会う回数だって……そんな感じに。その時々によって名前のない関係なんだから変えられるし、縛られることもない。そっちのほうが僕は過ごしやすいんだと思ったんです。縛られないからこそ本当に好きになれると思うんですよね」

 この子は高校生だ。まだ人生を17、8年しか生きていない。でも、僕よりも何倍も何倍も大切なことを見つけられる力があるのかもしれない。確かに、少なからず人は言葉に縛られてしまうのかもしれない。それはもちろん人との関係だけじゃない。例えば同じ人でも先輩と聞いたときと後輩と聞いたときでは全然感じ方が違う。

「……変ですよね? この考え方」

 さっきまでは堂々と自分の考えを述べていた彼だが、急に不安そうな目をして僕に聞いてきた。この考えが変かどうかと。

「いや、いいと思うよ。もちろん全員が全員ってわけじゃないけど、人によっては恋人っていう関係になったら、その言葉にどこか縛ったり、縛られてしまうからな。だから、名前のない関係なら縛られることがない。だからこそその分ちゃんと思ってあげられる……そこで本当の好きが見つかるのかもな。でも、馬鹿な僕にはよく分からないけどさ。だけど、素敵だよ、君の考えは」

 僕の考えたことのないことを完全に認めるのはまだ早い。でも、僕にとっての答えもそうなのかもしれない。咲摘さんとそうなりたいのかもしれない。

「実は、あの僕の好きな子が学級委員の子で卒業式が終わった後、卒業証書とかを僕に持ってきてくれることになったんです。だから、その時にこの手紙、渡そうかなと」 

 また、僕と同じだ。でも、僕は卒業してないんだからという理由で渡せなかった。だから、彼も僕と同じになるかもしれないし、ならないかもしれない。僕ができなかったことを成し遂げるのかもしれない。

「こんな初告白、どうなろうと一生心に残って消えないんだろうなー」

 この上を見れば青空が見える――なんてことはないのに彼は上の方――天井の方を見てそう自分に言い聞かせるように呟いていた。そうなのか、これが彼にとっての初告白になるのか。そうだな、嫌なほど取り憑かれるんだろうな。

「じゃあ、僕ももうそろそろお暇しようかな」

「あ、今日もありがとうございました」

「じゃあ、ちゃんと卒業しろよな。僕もその翌日、ちゃんと卒業するから。お互い卒業だ」

 明日は僕は彼の元を訪れる気はない。毎日来たら彼の迷惑になるんじゃないだろうかとかそんな理由ではない。ただ、前日は僕がなにも干渉しないようにしたいから。自分の卒業式なんだから、僕がもう言うことはない。むしろ、僕が教えられている気がする。あとは彼の卒業式を見守り、彼を卒業させる。それだけだ。残りは彼が自分自身が卒業と向き合う。

 僕は家に帰ると、皆に渡す贈り物の準備をした。あと僕の卒業式まで少ししかないけれど、少し徹夜をすればなんとか終わりそうだ。別に、この贈り物を喜んでほしいとかそういうので渡したいんじゃない。ただ、僕がちゃんと感謝を伝えたいだけなんだろう。



 今日は僕の卒業式ではなく、彼の卒業式のはずなのになぜだか自分の卒業式かのように緊張してしまう。僕も特別にあの病室にいてもいいという許可をもらった。僕は画面に映らないから特別ちゃんとした格好をする必要もないのだけど、大学の入学式に着ていくはずだった母が買ってくれたスーツを初めて着た。少し感触とかが気になってはしまうが、サイズはぴったりだった。僕は鏡で髪を整えてから彼のいる病院に向かった。

 彼のいる病院にⅠ日ぶりに入ったけれど、この前入ったときよりも部屋が赤い色を思い浮かべられるかのように温かく感じたのは気のせいだろうか。彼の状態もよりよくなっている気がする。もう、入院する必要があるのだろうかと感じてしまうぐらいに。

「あっ、久しぶりです」

 僕が病室に顔を出すと彼はすぐに僕の存在に気づいた。

「おう。ついに卒業式だな。たぶん、色んな感情が混ざって昨日、よく寝られなかっただろ」

 この言葉に合うように僕はいつもより声のトーンを少し高くする。

「……おっ、当たってます。昨日全然寝られませんでした。卒業式ができることの喜びが5割、ドキドキが4割、行けないことに対する悔しさが1割――つまりいうと僕の心の大体は喜びとドキドキが占めています!」

「そうか。よかった。じゃあ、安物だけど僕から小さなプレゼント」

 僕はそう言って昨日買ったばかりの箱にしまわれているプレゼントを右ポケットから出して、彼のベッドに備え付けられているテーブルに置いた。小さな僕からの贈り物――卒業祝いだ。

「これ、開けていいですか?」

 彼の言い方は冷静だったけれど、僕には彼の心の中が見えるような気がする。きっと小さい頃サンタさんからどんなプレゼントが届いているかと考えながらその箱を開けるときのようにドキドキしているんだろう。僕はそんな彼を見てうんとうなずく。それから彼はラッピングされている箱を開け始める。

「――時計」

 彼はぱかっという音を立てながら箱を開けた後、それを見ながらそう呟いた。下を向いているはずなのにその呟いた声は僕の元にもちゃんと届いた。そうだ、僕がプレゼントしたのは腕時計。安物だと言ったが、僕にとっては少し高価な値段だった。でも、彼にはちゃんと時間を進めてほしい。時間を止めてほしくなんかない。ちゃんと卒業して、僕みたいに時間を止めることがありませんように……そういう思いから買ってしまったんだろう。その時計はほぼ一目惚れに近い状態だったから。

「ありがとうございます。大学生になったらつけさせてもらいます!」

 彼は晴れ晴れとした顔で僕に対して丁寧にお礼を言う。時計で喜んでくれるか少しドキドキしていたけれど、どうやら喜んでくれたみたいだ。

「そうか、こんなものだけど大事にしてくれ」

「はい。じゃあ、もうすぐ始まるので準備します」

 彼はそう言うと、タブレットなどの準備を手際よく始めた。僕はその何でもない動作をじっと眺めていた。気づいたときにはもう、高校の卒業式会場のカメラに接続していた。体育館の映像が映る。まだ、卒業式は始まっていないようで座席には誰も座っていなく広々としていた。ただ、保護者のざわめきがかすかに聞こえてきた。オンラインなのでここまで鮮明に聞こえてくるなんて少し驚いてしまった。

 卒業生の入場開始1分前になる。僕はもう一度ネクタイの位置を確かめる。僕は彼から少し離れたところに立って、彼を見守っていた。彼はどこか遠くにいる自分の姿を見つめてでもいるかのように目を大きく開いて始まるその瞬間を待っていた。彼にとって一度しかない人生の区切りの行事の一つである高校の卒業式。高校の卒業式はある意味子供から大人になった証明とも言える。そのことをしっかりと理解し、この瞬間を心の奥深くに収めるためにこの空間にある空気を全て自分のものにしているみたいだった。
 
『卒業生、入場――』

 画面の中から、そこの声が響き渡る。そしてその瞬間、保護者からの拍手を巻き込むかのように卒業生が一斉に入場してくる。堂々とした姿で何人もの卒業生が真っ直ぐと前だけを向いて歩いていく。彼はこの場で見ているだけだけど、きっと心の中では体育館の床をしっかりと踏みしめているのだろう。

 彼の分だろうか、一つだけ席が空いていた。でも、その空いているのを感じさせないように周りの人たちが卒業式を作ってくれていた。目をつぶれば彼もその場にいる景色が見えた。

 卒業生全員が席に着くと、国歌斉唱、卒業証書授与、校長先生の言葉などとプログラム進んでいく。もう、いつの間にか卒業式は終わりに近づき合唱の項目に入っていた。

 この瞬間まで一言も言わず、ただ皆の様子をしっかりと瞳に収めていた彼だけど、ピアノの前奏が始まり、合唱の歌詞に入った途端、歌い始めたのだ。

 その歌声はお世辞にもうまいと言えるものではなかった。でも、うまい歌声とは言えなくても僕の心を動かす何か力を持っていた。うまさよりも大切なものを彼の声は持っているんだ。

 もちろん、この歌声は何十キロも離れた彼の高校に届いていない。届いていないことを知っているはずなのに、彼は僕と彼しかないこの病室で最後まで歌った。歌いきった。最後まで自分の卒業式を離れたところからだけれども参加し、彼は無事に卒業したのだ。僕よりも早く大人になったのだ。



「よかったな、無事に卒業できて。もうそろそろ皆が来るんじゃないか?」

「そうですね」

「じゃあ、僕はもうそろそろお邪魔かな」

 卒業式が終わりだいぶ時間がたった。もう外には夕日が見え始めている。今日のオレンジ色の夕日はいつもよりも綺麗に、そして丸い形に見える。

 僕は彼を卒業させるという役目を終えたし、この後彼は好きな子に想いを伝えるんだから僕がいたらやりづらいだろうと思い、僕がこの病室から立ち去ろうとした。だけど、思わずびっくりしてしまうほど強い力で彼は僕のスーツを掴んできたのだ。僕はそれによって振り返ったが、彼は少し泣きそうな顔をしていた。

「――ん?」

「あの、まだ行かないでください。まだ、見守っててほしいです。皆にちゃんと挨拶して、彼女に僕の想いを伝え終わったときが僕の卒業になるんですから」

 確かに、そうだな。彼はまだ卒業してない。彼はまだ大人ではない。子供のままだ。これは子供のわがままなお願いそのものだ。だからまだ僕の役目は終わってないのだから彼を最後まで見守ろう。卒業できるまで。でも、生まれたのは僕のほうが3年早いのに、彼のほうが早く卒業するなんて少しずるい気がする。

 ――コンコン。

 扉を叩く音だ。優しい音がこの空間に響き渡る。聞いていてなんだか気持ちよかった。

「失礼します」

 ピアノの優しい音色のような声がした。数人の生徒がこの病室に入ってくる。たぶん、これが彼の待っていた人たちで、そして彼が卒業するために必要な人たち。生徒たちはきっちりと彼の席を囲むようにして立った。

咲翔(さきと)くん、卒業、おめでとうございます」

 学級委員の子――この人が彼の好きな人だろうか。その人がそう言った後に、彼のテーブルに卒業証書と小さな花束を置いた。僕も3年前、学級委員長の子がこういうことをしてくれたんだ。まるで、3年前のその出来事をコピペしているようだった。同じ世界を見ているかのようだった。

 でも、全てが同じではない。彼は卒業しようとしている。でも、僕は卒業できなかった。僕と彼は同じような出来事を体験しているけれど、それは全く違うんだ。

「ありがとうございます」

 卒業証書をもらい、彼は卒業おめでとうという言葉を学級委員の子から贈ってもらった。でも、まだ本当の――彼にとっての卒業はしてないんだ。あと、彼の卒業までは少しなんだ。

「はい、これは先生からの贈り物だけど、先生が撮ったフォトアルバム。先生さ、なんてことない日常を撮ってたからいろんな日常が詰め込んであるよ」

 ある生徒が先生から預かってるというフォトアルバムを今度は他の人が渡した。彼はそれを受け取るとフォトアルバムを開いて一通り目を通した。表情はそのフォトアルバムに大切にしまわれている普段の思い出を見て、少し緩んでいるようにも思えた。でも、今行われていることは彼の卒業式であるからか、表情を大きく崩すことはしなかった。

「あと、これコーラ。一気飲み、まだしてなかっただろう?」

 あのときの子だろうか。3人で仲良くはしゃいでいたときの子。その子がコーラをテーブルに置くと周りの人だけではなく、流石にこれにはに彼も苦笑いしていた。

「おい。でも、そうだったな。卒業前にコーラの一気飲みするとか言ってたな。じゃあ、いただきます。一気飲みは体にあれだから、一口だけど」

「おう、全然いいぞ」

 彼はその言葉を聞いて、コーラの蓋を開けた後、一口だけコーラを飲んだ。彼の喉のあたりの動きに目がいってしまう。そして、その一口を飲み終わると一言声を出した。

「――卒業の味」

 彼がそういった途端、その場にいた人が拍手し始めた。僕もその拍手に合わせるように拍手する。ただの拍手なのに、なぜか特別な音楽のように思えた。

 この後も彼は贈り物をいくつかもらっていた。だから、いつの間にか彼のテーブルには物が溢れていた。

 皆はそれが終わると、卒業おめでとうだとか、これからも頑張れよなど一言ずつ言葉を言いながら病室を後にしていく。そんな言葉を胸にしまいながら彼は帰っていく仲間に向かって手を振っていた。

 最後にその言葉をかけたのは学級委員の子だった。

「咲翔《さきと》くん、本当に卒業おめでとう。一緒に卒業できて嬉しいな。高3のときも、私が勉強で困ってたところに声をかけてくれて、そして分かりやすく教えてくれてありがとう。おかげで無事に自分の行きたかった大学にいけるよ!」

 分かる気がする。彼がこの子を好きになるわけが。まだ、この子を見てから少ししか経っていない。でも、その少しの間で分かったことがある。それはこの子はちゃんと彼に向き合ってくれて、彼の世界を認めてくれるのだ。僕の好きな彼女もそんな人なんだ。

「あの、最後に君に渡したいものが」

 少し焦りが見える声だったけれど、彼は出ていこうとした彼女をその言葉でピタリと止めた。

 彼が、もうすぐ卒業する。彼の中でどんな未来を描いているのかは分からない。そして、その未来通りになるのかも分からない。でも、彼の卒業はその未来が描けるようになったらではない。自分の想いを伝え、それがどういう形でもいいから彼女に伝わることなんだ。

「どうしたの?」

 足を止めていて、頭の上にはてなマークを浮かべていた彼女だけど、ゆっくりと彼の元に近づいていく。

 ――ピュー。

 なにか運んできたような音――いや、これは違う。自然の音――風の音だ。その風が少し開いている窓から漏れ出す。今まで感じた風の中で一番爽やかで気持ちいい風だった。

 一体僕は今、2人の姿をどんな気持ちで眺めているんだろうか。

「あの、これ、読んでください」

 彼は頭を下げた後に、手紙を彼女に渡した。彼女は何も言わずにその手紙を受け取った。その手紙は今、彼が強く握ったせいか少しくちゃっとなっていた。でも、その紙が少しくちゃっとなっていようが彼が彼女に対する想いは変わらない。
 
 彼の心を読むのならきっと今は透明なはずだ。自分の体が頭から指示しなくとも勝手に動いている……そうなんじゃないだろうかと僕には思う。

 彼女は少しの間、手紙に書かれている文字を目で追った。彼女が手紙を読んでいる間、この空間にいる誰もが一言も喋らなかった。でも、その空間になにかがあるため、いやな沈黙ではなかった。初めていやじゃない沈黙の中にいるのかもしれない。

「ふふっ。君、変わってるね」
 
 手紙を最後まで読み終えた彼女が最初に言った言葉はそれだった。そして少し笑った。でも、それは彼をバカにしているとかいう笑いでは決してなく、彼と向き合った笑いだった。

「でしょっ」

 そして、彼が手紙を読み終えた彼女に最初に言った言葉がこれだった。そして彼も少し笑った。笑いで会話してるようにも思えた。

「ちょっと驚いたな。考えもしなかったな。少し、信じられない。でも、この君の書いてくれた文字がこれは嘘じゃないよと証明してくれている。だから、これが現実なのかどうかなんて確かめる必要もないよ」

「……」

 ゆったりとしたフルートみたいな音のよう。別に僕がいなくてもよかったんじゃないんだろうか。彼女はこんなにも素敵な人なんだから。僕が見守る必要がないぐらいな人を彼は好きになったんだから。

「でも、どうなんだろう。この君の書いてくれた想いになんて返せばいいんだろう。言葉の迷子だな――」

「僕は君の心をはっきりと読めるわけじゃないからどんな気持ちを今、持っているのか分からない。だけど、僕の想いをどこかで受け取ってくれたのなら君の今、心にあるものを簡単でもいいから何か言葉に変換してほしい」

「じゃあ。君は名前のない関係になりたいとここに書いたよね。だから、私はそれに答えというのは出さないよって言いたい。だって、名前のない関係なんだから」

「……うん」

 彼のその頷きで、彼は卒業した。

 僕はその卒業を近くで見守ることができて、この場には必要なかったのかもしれないけど、幸せだった。でも、少し悔しいさのある幸せだった。

 悔しいからこそ、僕も卒業したい。動かないままの時計を動かしたい。明日、僕はちゃんと卒業してちゃんと大人になるんだ。この2人のようになるかなんて分からない。どんな方向に行くかなんて分からない。わかりっこないんだ。でも、ちゃんと――。僕は『失礼するよ。あとは頑張れよ。卒業おめでとう』と書いた紙を残して、2人の世界を邪魔しないように静かに病室から出ていた。

 外に出ると、遠くの空の方になぜか虹が出ていた。さっきまであっちの方向では雨が降っていたんだろうか。あの虹が消える前に僕は――僕はその虹の出ている方向に全力で子供みたいに走り出した。



 入学式だとか、自分の誕生日だとか特別な日の前日は楽しみだったり待ち遠しかったりしてすぐには寝付けないはずなのに、今日は自然と寝付けてしまった。それに前回いつ夢を見たのかが全く思い出せないほど久しぶりに夢も見た。その夢は今日あったことを再生したようなそんな夢だった。いや、これは夢というより、思い出の振り返りみたい。現実と同じように彼が大きくうなずいたところで夢は終わった。次に目を開けたときは僕の卒業式の日になる。

 目が覚めた。カレンダーを確認する。カレンダーには今日の部分に丁寧な字で『卒業式』と書かれている。今日が僕の卒業式だ。3年ぶりに僕は自分の時間を動かす。たぶん、もう皆に追いつくことはできない。でも、せめて皆と同じように時間を進めたい――卒業したい。

 僕は3年ぶりに高校の制服を着る。鏡でその姿を確認したけれど少しだけ似合わはないなと感じてしまった。それに、少しだけ小さく感じる気がした。

 この道――通学路を歩くのも何年ぶりだろうか。街はいつの間にか少し春を感じられるまで時は流れていた。つい最近までは雪だるまを作っている子どもたちがいて、なんだかいいなと感じていたばかりなのに。この道路はそういえばでこぼこしていてこけやすいから気をつけないとなとか、このパン屋さんはアンパンが美味しかったなとか懐かしいと思うことがたくさんあった。でも、時は動いていない――つまり、昨日も一昨日も高校生だった……そう考えると不思議だ。

 僕のための卒業式の会場になっている体育館に着くとすでに何人かの人たちがいた。僕の知っている人で、関わったこともある人なのにこの場にいる全員が僕よりも何倍も何倍も大人に見えた。皆、やっぱ僕の知らなうちに成長してたんだな。僕だけ残されていたんだということを改めて実感する瞬間だった。

「おー、待ってたよ」

「久しぶりー!」

「卒おめー!」

 僕の姿に気づいた高校時代に仲のよかった男子たちが僕に声をかけてきた。そのうちの一人は手を僕の方に回す。ずっしりと体重がのしかかった。

「おう、おう!」

 そして僕の肩のあたりをポンポンと叩いてきた。

「見ないうちになんかイケメンになったな。今日は僕のために来てくれてありがとう」

「まあな、お前の卒業式だからな。っていうか、見ないうちには余計だぞ! 俺、元々イケメンだし」

「そうか? まあ、でもとりあえずありがとうな」

「お、待って、あれ、あいつじゃねー。なんか社長になったとか。挨拶してこよー」

「おー、行ってらっしゃい」

 僕と絡んできた人たちが社長になったやつのところに挨拶しに行くとか言い出し、その場から離れて僕が一旦空くと、まるでそれを待っていたかのように昨日ぶりだねーという声がしてきた。

「あー、咲摘さん。おはよう。でも、3日ぶりじゃない?」

 咲摘さんと話すときはやっぱ始めはドキドキしてしまう。そう言えば、僕らが会ったのはカフェで話した3日ぶりだ。

「うん、正式にはそうかもね。でも、君の時間は止まっているから。私、卒業式の前日にもお見舞いに行ったでしょ? それに――」

「それに?」

「いや、なんでもないかな」

 少し何を言おうとしたのか気になったけれど、大したことではないんだろうと思い、そこまでで留めておくことにした。でも、たしかに僕は時間が動いていなかったんだからと考えると、咲摘さんと会ったのは昨日ということになるのか。そうなると、彼と会ったのもあくまでも心の中の出来事に過ぎないのか。でも、彼から沢山のことを学んだ。彼は僕よりも大人になってしまっている。

「どう、卒業できそう?」

「うん。僕のために忙しい中皆が集まってくれて嬉しいよ。僕は幸せものだな」

「よかった。卒業できそうなんだね。皆も君が卒業できるのを楽しみにしてると思うよ」

 でも、卒業できるかどうかの最後は咲摘さんがということになるんだけど……とは流石に言えなかった。

「私も久しぶりにあえてテンション上がってるし、高校の制服なんて着たの3年ぶりだから懐かしく感じちゃったな」

「そうだね、皆、制服で来てくれたんだね」

「うん、だって高校の卒業式だからね」

 僕は卒業式が始まるまでの間、仲間たちとの歓談を楽しんだ。でも、やっぱ少しだけ話が合わないところがあるなと感じてしまった。3年の重みはやはり大きい。



 卒業式の5分前。僕は一人、体育館の扉の外にいる。その扉を開けるのは高校3年のときの担任の先生。(失礼かもしれないけど)先生は3年経ったけれどあまり変わった感じはなかった。

『卒業生、入場』

 時計の針が卒業式開始の時間を示した。その瞬間、僕が卒業式の日に合唱として歌うはずだった曲が流れた。そして、先生が扉を開けた。その先に僕の未来が待っているように感じた。

 僕しかこのレッドカーペットを歩いていないのに、拍手の音は大きい。僕がどんなに足音を立ててもそれが聞こえないんじゃないんかと思うほど大きかった。たぶん、このようなことを3年前にやったら恥ずかしさでたまらなかっただろう。でも、今は恥ずかしさなんかない。むしろ、誇らしさを感じる。体育館に漏れる太陽の光が僕をより目立たせてくれてるようにまで感じてしまった。

 卒業するのは僕だけど、その周りのは皆が座ってくれていた。そして、校歌や合唱は皆も歌ってくれた。3年ぶりの歌声が響いた。3年ぶりにこの歌を歌ったのに、歌詞を全部覚えていた。いや、3年ぶりじゃないか。

 卒業証明書も僕はしっかりと担任の先生から受け取った。この卒業証書はあの時のものだ。

 プログラムが一通り終わると、高校時代を写した思い出ムービーが流れた。もちろん行事の写真もあった。でも、日常の姿も多く写っていた。いつもはアルバムを見るとたまらなくなるが、今日はムカつくとか、たまらなくなるとかそんなのは一切感じなかった。むしろ、ずっとずっと見ていたい……そう思えた。

『卒業おめでとう。掃除当番が少なくて困ってた時、手伝ってくれてありがとう。すごく助かったよ。君はすごく優しい人だったな。だから、きっといい未来が待ってるよ!』

『卒業おめでとう。俺と仲良くしてくれてありがとうな。俺のためにつけてくれたあのあだ名、今でも気に入ってるぜ。一生忘れられないやつになっちゃったよ。これからも頑張れよ。一生応援してるぞ。いや、応援させてくれ』

『卒業おめでとう。お前との一番の思い出は、修学旅行のときに先生に内緒でこっそりホテルを抜け出したことかな……。あのときは俺の悪知恵に付き合ってくれてありがとうな。今ではいい思い出だ』

 次々と画面が変わっていく。皆からのビデオレターだ。こんなの、聞いてない。全部全部僕のためだけに作ってくれたんだ。こんなだめだめな僕のために。たった一人だけの卒業式のために。僕という存在を皆が認めてくれた。

 皆が僕への想いを少しの時間で詰めなきゃいけないにも限らず、それに収まりきらないぐらいに伝えてくる。僕への想いを言葉にして心の奥深くに訴えかけてくる。

 ――今日だけは卒業できてなくてよかったって感じちゃうじゃん。

 そんなこと感じたくもなかったのに。あの時からずっとずっと悔やんでいたのに。皆のことが少し憎くもあったのに。早く卒業したいってずっと思っていたはずなのに。

 周りの人は泣いていないけど、僕は構わず涙を流した。ありがとう、頑張れよ……同じような言葉が繰り返されているはずなのに、どれも違う言葉のように思える。言葉は同じでも使われ方が違う。だから、同じじゃない。

 高校というのは入ったばかりのときはほとんど知らない人たちだ。でも、僕は3年という短い中で沢山のものを得ていたんだ。沢山の大切なものを。

 いつの間にかビデオレターはあと残り2人になっていた。残りは泰斗と、咲摘さん。

『卒業おめでとう。今日は、来てくれてありがとうな。俺が企画したんだぜ、意外とやるだろ。色々世話になったな。辛いときに悩みを聞いてくれてありがとう。あの時、応援してくれたから今の俺はちゃんとやっていけてるんだぜ。お前はすげえ大人みたいだった。でも、今は俺のほうが大人だけどな。だけど、お前ならすぐついてこられるぞ。待ってるぜ!』

 泰斗だ。

 ――お前ならすぐついてこられるぞ。待ってるぜ、か。そうか、僕ならすぐ3年分の隙間を埋められるのか。じゃあ、待っててもらおうじゃないか。自分で言ったんだから、泰斗、待っててくれよ。絶対に逃げるなよ。

 最後は、咲摘さんだ。このクラスのまとめ役――学級委員長。

『卒業おめでとう。皆、待ってたよ。なんか不思議な気持ち。私たち、そこまで大きくは関わってないよね。でも、ずっとずっと見ていたい、そう感じてしまう……。私たちが3年前の卒業式の後に、卒業証書とかを届けに行ったでしょ? そしたら、君は一人ひとりにちゃんとありがとうと卒業おめでとうって言ってた。自分が苦しい状況にあるのに人に対してそう言えるのってすごいなって尊敬しちゃったよ。これからも、何かあったらいつでも私でも、私じゃないクラスの人でも頼っていいんだよ。もう、関わることないかもしれないけど、私たちが同じクラスだったって事実は一生変わらないんだから』

 咲摘さんが最後を締めくくった。僕は最後まで泣いていた。全員の想いがずっしりとのしかかる。僕は今、皆の想いを背負っている。重すぎるぐらいの想いを。一言一言が心に残ってしまうそんな最高のプレゼントだった。皆がこんなやつでよかった。今後どんな人生を僕が歩もうとも、この人たちと関わることがなかろうともこんないいクラスメートと関わったという事実は一生変わらない。それが僕にとっての一生の誇りだ。

 最後に担任の先生が、閉会の言葉を言い、卒業式は幕を閉じた。あっという間の卒業式だったけれど、すごく充実していた。怖いほど充実していた。

 じゃあ、今度は僕の番だ。ここから僕が皆に伝える番。そして僕が本当の卒業をする時。

 僕はまずステージにたった。皆は急に僕がステージに立ったことを少し疑問に思ってるかもしれない。少し会場がざわめいている。でも、お返しさせてくれ。そうしないと、終われない。僕はもう涙を拭き取っていた。

 僕は真ん中に立ち、マイクを調整すると話し始める。

『まずは、皆、今日はありがとうございました。一生忘れない思い出を本当に本当にありがとう。皆、僕の大好きなクラスメートです。このクラスになれてよかったです。3年ぶりに僕は卒業できそうな気がします。でも、まだ僕が卒業するまでにやらないといけないことがあります。だから、まずそれをやらせてください』

 僕には卒業するまでにやらなきゃいけないことがあと2つある。そのうちの1つをまずここでやる。皆へ渡すものがあるのだ。

『さっきも僕に対して皆、ちゃんと向き合ってビデオレターを作ってくれました。だから、僕もちゃんと向き合いたい。そう思って僕はそれぞれ皆にあった色の色鉛筆を渡すことにしました。だから、皆、順番に来てください」

 僕は少し前に文房具屋さんで何十色も入った色鉛筆を買った。そして、その人の思い出とか、その人の特徴だとかとちゃんと向き合ってその人に一番合う色を選んだのだ。正直言えばあまり関わったことのない人の色を選ぶのは大変だった。でも、同じクラスメートで全くその人について知らない人はいない。だから、ちゃんとあまり関わったことない人とも向き合って僕は色を決めた。

 僕の言った通りに皆が順番にステージに来てくれた。この子は、太陽みたいな笑顔が素敵だから赤色を選んだり、この子は調理実習のときに作った玉子焼きがすごく上手だったから黄色。こんな感じそれぞれの色を選んでいった。今度は逆に皆の方が泣いていた。でも、僕は泣かなかった。

 それぞれの目をしっかりと見ながら僕は色鉛筆を渡していく。この色鉛筆全てを使ったらどんな絵が描けるんだろうか。きっと僕が見たことない絵が描けるんだろう。

 僕はもう少しで卒業できる。

 皆に色鉛筆を渡し終え、僕はもう一度皆に丁寧にお礼を言った後、この卒業式を終えた。ここから最後に、本当の卒業に向けて僕はあの人とやらなきゃいけないことをするんだ。

 皆が来たときと同じように歓談をしている中、僕は咲摘さんは前話した彼についてと、お礼がしたいからと言って体育館の外に来てもらった。その空間には僕ら以外誰もいない。

「今日は本当にありがとう。ずっと忘れられない充実した時間になった」

 体育館の外は春らしいちょうどよい陽気だった。なんという鳥なのかは分からないけれど、その鳥の声が春を教えているように思える。僕は今日、こんな陽気の中で卒業することができたのか。なんだか、少し自分がずるくも思えてくる。

「うんん、こっちこそ、感動をありがとう。無事、卒業できた?」

 やっぱ咲摘さん、優しいな。僕の卒業のことをちゃんと考えてくれる。こんな人を好きになれてよかった。

「それは後もう一歩かな。それより、前に話した彼、無事に卒業できたみたいだよ。僕よりも早く卒業しやがって……なんてね。彼、卒業できてよかったな」

 僕は彼の話に話題を移した。彼とはラインも交換したけれど、今日の朝、『先輩も今日、卒業ですね』という文とともに、あの子と写った笑顔が溢れてはみ出してしまうぐらいの写真が送られてきた。この写真を見た瞬間、もう彼は完全に卒業したんだなと僕は悟った。

「……よかったな」

 僕の今言ったことに対してなんと返せばいいのか少し分からなかったのか、摘咲さんはいつもよりも簡単な言葉でまとめて返した。

「で、あのさ。僕、少し咲摘さんに渡したいものがあって」

 渡したいもの――それは手紙。僕は読んでほしいという言葉を付け加えて、その手紙を咲摘さんに渡した。咲摘さんはてなマークを頭の上に浮かべながらもその手紙を開いた。

 僕はこの手紙に、彼女のいいところとか好きだという想いを綴った他にも、名前のない関係になりたいと書いた。この形、彼と被るかもしれない。咲摘さんは彼の手紙のことについては知らないはずだけど、彼が今ここにいたらたぶんパクったと思われるだろう。

 ――でも、そう思われても構わない。今の僕の想いや考えがこれなんだから。彼から教わったことだけど、僕の想いや考えも同じなんだから。でも、どこかは違うんだから。

 摘咲さんが手紙を読んでいる間、僕は人生の中で一番緊張したかもしれない。体がじっとしていられないのだ。
 
「ふふっ」

 最後まで咲摘さんは読み終えたのか、微笑を浮かべた。優しい微笑だった。

「その手紙に書いてある通り、僕は咲摘さんの優しいとことか、ちゃんと向き合ってくれるところ……他にも沢山あるけどそんなところを好きになってしまった。だから、僕はそれを――その想いをちゃんと伝えたかった。それで、もしよかったら僕は君と名前なんかつけない関係になりたいです。なんでかっていうと――」

 僕は咲摘さんにどうして名前のつけない関係になりたいかを言う前に、咲摘さんに言葉を挟まれてしまった。

「名前のつけない関係なら縛られることないからこそその時によってお互いの距離だとかを変えられる。だから、そっちの方が過ごしやすいし、縛られないからこそその人のことをちゃんと好きになれる……とかでしょ」

 文句ない、正解だ。僕の言おうとしていたことを、咲摘さんはスバリ言い当ててしまった。そのことに驚いてしまい、僕は何も言うことができない。僕の心が読める? いや、でもそんなはずはない。じゃあ、どうして?

「――弟の考え、真似したな」

「えっ、弟!?」

 僕の頭の中に弟というワードが駆け巡っている。弟って咲摘さんの? 頭の中が混乱し始めた。 

「ごめん、僕、咲摘さんの弟なんて知らないんだけど?」

 そもそもの話、咲摘さんに弟がいることなんて知らなかったし、ましてやその弟と会ったことすらない。

「いや、君は知ってるよ。お礼言ってほしいとまでいわれてるもん。私の弟は、君が昨日卒業させた彼だよ」

「えっ、彼?」

 僕は流石に驚きを隠せなかった。だって、あの彼が咲摘さんの弟!? ということは、彼と咲摘さんは姉弟!?

「私、初めてカフェでその子の話しを聞いた時、弟もそんな状況だったからもしかしたらそうかもって思っちゃったし、実際行ってみると本当に私の弟だったし、少し驚いちゃった。それにさっき、昨日ぶりだねって言ったでしょ。あれ、もう一つの意味があって、昨日弟の卒業式だから、弟と君の姿を遠くから見てたんだよ。君にバレないようにだけどね」

 確かに、振り返ってみれば辻褄が合わないこともない。さっきの言ったことに関してもそうだ。でも、彼が咲摘さんの弟だなんて少し不思議な気持ちだ。

 僕と彼は似ている。そして、僕と彼の好きになった人も似ている。他にも、たくさん似ている。3年時間が違ったんだ。僕らはどこかで繋がってるんだ。

「流石に、弟が好きになった人がこのことに対して何を言ったのかまでは聞いてないから分からないな。でも、私はこういうかな――」

 もう、咲摘さんは驚いた感じはなかった。むしろ、僕が安心できるように落ち着いていた。

 僕は、しっかりと咲摘さんの瞳を見た。その瞳には僕がはっきりと写っていた。ただの僕ではなく大人になった僕が。3年分の時間を取り戻した僕が。その僕から目が離せなくなった。そして、咲摘さんは目を一瞬、大きく閉じた。

「――私は、君が卒業した姿を見たいな」

 咲摘さんは一音一音をはっきりと丁寧に言った。ちゃんと僕の言ったことに対して答えないところは少しずるい。でも、僕は咲摘さんの言いたいことが分かった。そうなんだなと。

「うん、じゃあ、僕は君のお陰で今、卒業できました」

 僕はこの上に広がる青空を見上げた。太陽が眩しかったけれど、そんなのは関係ない。むしろ、もっともっと眩しくなってほしいぐらいだ。そして、僕のまねをするかのように咲摘さんもこの青空を見上げた。

「大学、もう一回目指そうかな」

 僕はその青空を見ながらそうつぶやく。嘘じゃない。本当だ。自分の時間が進み始めたんだから。誰かさんのお陰で僕は再出発
を目指す覚悟ができた。

「うん。私も勉強教えるから」

 そうだ、咲摘さんは学級委員を務めてるだけじゃなくて、成績も上位だった。ここに適任者がいた。

「うん、じゃあまかせた」

 僕は咲摘さんを、咲摘さんは僕を見て笑った。お互い笑ったのだ。 
 
 僕はきっと、この青空のようにこの先進んでいく人生を咲摘さんの力を借りて、輝かすことができるんだろう。咲摘さんはそう答えてくれたのだから。