私の心は沢山のことで充たされ、幸せだった。うかれた数週間を終えると、僅かながら私にも冷静さが戻ってきて、おざなりになっていた母への連絡を再開することにした。

 母は電話をなかなかしない私に文句は言わなかった。ただ、LINEで『ご飯はしっかり食べているの? 食べられなくなったりしたら連絡するようにね』と、母親らしい優しい言葉と気遣いで私の連絡を待ってくれていたのだと思う。
 やはり母はどこにでもいるような愛情溢れる母親で、昔から感じていたように私たち親子は気の毒などではない普通の家庭だった。……それは私の思うところの普通の家庭で、他の家庭とは違うかもしれないが、とにかく不幸でも気の毒でもない愛情のある関係だと断言出来るのだ。

 ある日、私はやっと思い立って母に電話をかけた。
 私の作った夕飯をリクと二人で食べ終えてリクが食器を洗ってくれる時、少しだけ時間が空くので食器を下げようとしていたリクに母と電話をするけど良いかとことわり、勿論構わないよと言ってくれたので、カチャカチャとリクが食器を洗う音を耳にしながら電話をかけたのだった。
「もしもし?」
「あらぁー姫乃、久しぶり。もうママの事忘れちゃったのかしらって思っていたところよ。連絡がないのは元気な証拠って言うじゃない。この間も野上鉄工所の所長さん、あ、わかる? 常連さんのちょっとぷっくりしたほっぺをした、いつもキレイな作業服姿のあの人がね……」
 母は電話の相手が私であることがわかっているから、電話に出て直ぐに一方的とも言える会話を毎回繰りひろげる。大方言いたい事を言い終えるまで、それは止まらないことが常だった。
「ああ、待って! ちょっと話したいことがあって、先に話してもいい?」
 私はリクの食器を洗う姿を見つめつつ、母にそう切り出した。母の調子に合わせていたら食器が洗い終わってしまいそうだし、油断すると母の言いたいことだけ聞かされて電話を切られてしまう可能性もあった。母の話に強引に割って入って話すことなんて普段はしないことなので、母は「あら? なに?」と、瞬時に聞き手に切りかわってくれた。
「うん。私ね、お付き合いしている人がいるの。大学の人、リクって言うんだ」
 どうしてか声が上擦ってしまい、そんなことで自分が緊張していることに気が付いた。母は私の報告にちょっとだけ間を置いて「おめでとう」と言葉を絞り出してから、また少し間が空いた。母からも緊張が伝わってきたような気がするが、母のその何ともいえない間が本当に緊張なのかは不明だ。
「ええっと……いい人だから心配しないで?」
 私がそう言ったのは母が心から祝福しているわけではないと感じ取ったからだが、母は電話口で息を吐き出しながら笑い「私の姫乃が選んだ相手なら大丈夫。心配なんて、してないのよ」と、気になるところで言葉を切ったし、語尾に何か含みを持たせるから、私は何と返そうか迷った。母は何かを言いたそうだが、それを言いたくないのだとも感じる。
「うん……あの、リクは本当に良い人だよ」
「わかってる。ああ、今度の月曜日二人でいらっしゃいな。三人でうな源に行きましょう。お祝いをしなければ」
「お昼ごろ?」
「何いってるのよ、大学あるでしょ? 夜でいいわ、夜ね」
 夕飯を一緒にということらしいが、夜はアルバイトをしていることを失念しているらしくそれを伝える前に、母は接客中だから行かなくちゃと、電話を切った。こちらの言いたいことは辛うじて伝えられたが、やはり母のペースに乗せられたともいえる。