私の夜は長い。物心がついたときから長かった。

 うちはいわゆる母子家庭で、母の職業は水商売という世間一般からみると典型的な『可哀想な家庭』に当てはまる。それは外から見た印象であって、私はこれっぽっちも可哀想ではなかった。
 確かに、幼稚園でお父さんの似顔絵を描きましょうと言う時間に、お父さんイコール中年の男の人だと思っていた私は園長先生を描いてしまったのは、今思うと気の毒な子だ。でも、年少さんの画力など丸と線のなにかなのだから、特段誰かに憐れみの目で見られたりはしなかったはず。
 なぜ、幼い時の事をハッキリ覚えているのかと問われれば、覚えていたわけではない。
母が事あるごとに「姫乃は園長先生を描いて危機を脱したのよね。本当に賢い子」と、褒め称えたからに他ならない。そんな深いことを考えて描いた訳ではなかったけれど母が嬉しそうにしているのは好きだったから黙っておくことにした。
 何度も母が話すそれをどこかムズムズしながら聞いていたので、私は覚えてもいない園長先生の似顔絵が直ぐに思い浮かべられるようになってしまった。きっとヘンテコな顔に髭を生やしていたに違いない。園長先生の写真を見ると顎髭を生やしているから、絶対丸に線を描いて髭をビビビっと引いたはず。

 母はごく一般的なお母さんとは確かに違っていたが、至って普通に私を可愛がり、親として叱りもするし褒めてくれもした。
 たとえばおねしょをしてしまって、母に教えられていた通り着替えをし、シーツを剥いで二つまとめて洗濯機に入れ、こたつでうとうとしながら母を待っていたりすると、母はやたら大袈裟に私を褒め称えた。
 おねしょをしてしまったことを咎めたりなど間違ってもしない、ただひたすらに出来たことを褒めてくれるから私は恥ずかしさより嬉しさが勝り、次におねしょをするのが待ち遠しく思ったりした。

 夜は六時に家を出て、近くにある『月華』とかいう、いかにもそれらしい店名のキャバクラに母は出勤する。母は雇われママとかいうものなのだと自慢そうに話していたが、その頃の私には難しくて意味がわからなかった。
 ただ愛ちゃんという綺麗なお姉さんが実は男の人だという事は知っていて、その愛ちゃんが大好きだった。大きくて細くてとっても優しくて、いつも私を抱っこしてくれる愛ちゃん。愛ちゃんが私のパパになってくれたらいいのにとすら思っていたが、それは愛ちゃんが困ってしまうから言ってはいけないと母に指切りげんまんをさせられた。なぜ困ってしまうのだろうと疑問だったが、言ってはいけないと言われたら、私はそういうものなのだとすんなり受け入れるタイプだった。
 『月華』は母と愛ちゃんがメインのホステスさんで、あとは基本アルバイトの若い人で成り立っていたはずだ。若い子は定着しなくって困ると母はいつも嘆いていた。そんな訳で万年人手不足だったから、母は常に忙しい日々を送っていたのを記憶している。

「いい、ママが出掛けたら誰が来ても鍵を開けちゃダメ。誰も家に入れてはダメだからね」
 母は仕事に向かうとき、必ずそれを私に約束させ、私が頷くのを確認してから投げキスをする。真っ赤なディオールが塗りたくられた唇から放たれるキスを、私は唇を突き出して受け取っていた。小学校低学年まではその儀式を疑うことなくしていたが、ある時から恥ずかしく思いやらなくなると、母は悲しそうに微笑んで「照れくさいのね。大きくなっちゃって」と呟いた。
 必要ではないことなら強要はしない、それが寂しくても、そんな母。私は母の残念そうな表情をいつまでも覚えていて、暫くは見送りをするとき胸が痛んだものだった。

 夜に一人残された私は、教育テレビを見ながら母が作ってくれた夕飯を食べる。
 大抵はおかずが一品、お味噌汁、そんなものだった。でも、毎日毎日ちゃんと作ってくれていたことには感謝しかない。千切りキャベツは買ったものでも、コロッケは手作り。手の抜き方を心得た、手抜きの達人だと母は自負していた。それ千切りキャベツが手作り、コロッケが総菜でも十分母の気持ちが籠っていると私は感じていただろう。
 小さいうちはお味噌汁も白米もよそってから出勤してくれていた。だから、お箸を自分で出してきて、手を合わせていただきますをしてから食べ始める。