ようこそ皆様こんにちは。
 わたくし、この世界の案内人。
 名等はございませんが、お好きに呼んでくださいな。
 さてさて、それではわたくしの話など切り上げて、さっそく物語の舞台に参りましょう。

 それでは開幕。これは小さな小さな1つの物語。
 
 ここは雪が深く積もる雪の世界。
 音も無く、色も無い。寂しい世界に一人の少年が立っておりました。

 少年の目の前には雪が積もった大きな建物が一つあるだけです。
 名前は悟。何の変哲もないごく普通の少年でございます。

 悟は一人この白銀世界に立っていて、はてさてと、首をかしげていました。
 と言うのも、彼はつい先ほどまで自宅にいたからでございます。

 彼はそれはもうごく普通の学生で、今日もいつも通り学校へ行く筈でした。
 そんな彼がどうしてこんな白銀の世界に立っているか、さっぱりこれっぽっちも思い出せません。

 ただ、家を飛び出した時、何か大きなものにひかれたような?
 彼が覚えているのはたったそれだけの事です。

 気が付けばこの通り、見たこともない場所に立っていたのです。

 悟は首をかしげながらあたりを見渡します。
 目に入るのは雪の積もった枯れ木の森。なんとも寂しい場所です。

 首を傾け、上を見上げれば、大きな古い建物がポツリ。
 他には何も見当たりません。

 取り敢えず、寒くてたまらず
 この家の住人に助けを求めてみようかと、大きな扉を叩いてみようかと思い始めた頃でございます。
 
 ――ぎぃ……。

 と、目の前の扉が突然に音を立てて開き始めたのは。
 勿論悟は驚きました。大いに驚きました。

 そして、彼に目に入ったのは、
 微かに開いた扉から飛び出してきたのは、
 ――ぴょこん…と飛びだしてきたのは、

 なんとまぁ、大きな可愛らしい狐の耳。
 
 同時に扉の隙間から白い細い手が伸びてきて、
 大きな扉を「よいしょよいしょ」と開けたのでございます。

 建付けの悪い扉を必死に開けて、中からでき来たのは一人の少女。
 夕焼け色の髪に夕焼け色の大きな狐の耳をぴょこんと立てて、ふわふわのしっぽを揺らめかしながら、悟に深々とお辞儀をするのです。

 驚く悟に少女は、お辞儀をしたまま口を開きました。

 「ようこそ!宿屋『子ぎつね亭』へ。私、女将の小雪と申します。たった一日の短い時間ですが、これから異世界に向かう貴方の為に精神真心で名一杯、頑張らせて頂きます!」

 そう言って、寒さで赤くなった顔を上げて、太陽の様な笑顔を浮かべるのです。


 ◇


 「さぁさぁ。こちらにどうぞ!お部屋の準備は出来ています!」
 
 こんこん、こんろろと狐のお宿。
 悟は手を引かれるまま宿の中に入りました。

 手を引かれながら、ついつい目が行くのは少女の姿。
 桜色の着物に身を包み、楽しそうに前を歩く小雪の姿です。

 もっと詳しく言えば、彼女の頭の上の狐耳。
 それもふわふわ尻尾もついているので、ついつい見てしまします。
 
 「さぁ。こちらがお客様のお部屋となります」

 ついつい耳と尻尾に気を取られていると
 小雪は一つの部屋の前で止まりました。

 中をのぞき込めば、6畳ほどの和室が一部屋。
 隅々まで綺麗に掃除され、ピカピカの和式机が目に入ります。

 部屋の中を見て、改めて悟はあたりを見渡しました。
 わたってきた長い廊下、大きな窓、窓から見えるは雪の積もった小さな庭。
 まるで、まさに、そこは綺麗な旅館そのものでございました。
 
 少しして悟は目の前の少女に「ここはどこか」と尋ねました。
 ようやく、こんがらがった頭が追い付いてきた所です。
 少女は微笑みます。

 「ここは、狐のお宿。異世界に行くお客様が時たまに迷い込む迷い宿。これから巻き込まれる大変な行く末の前に、ほっと一休みの為のお宿です!」

 少女の言葉に悟は考えました。
 少し考えて、長く考えて、彼女の耳と尻尾を再び見つめて。
 恐る恐ると口を開いたのは数十秒後――。
 
 ――つまりは異世界…?
 ぽつりと結論を出したのでした。

 はいはい。驚くことなかれ。
 悟の結論は正解でございます。

 ここは狐のお宿。
 とある理由から異世界へと呼ばれた者たちが
 何の因果か迷い込む異世界のお宿。

 転生、転移。どちらでもようございますが。
 呼ばれた世界に行きつく前の。
 たった一日だけの、一休みの為の異世界のお宿となります。
 小雪はその宿屋の女主人なのです。――えっへん!

 あまりに唐突であり得ない現象に愕然とする悟に小雪は頭を下げます。

 「驚くことはございましょうが。私に出来る事があれば何なりと!お食事まではまだまだ時間はかかりますが、冷えた身体を温めるなら温泉はどうでしょう!自慢ではありませんが我が宿屋の温泉は源泉かけ流し!ひとたびは入れば身体もぽかぽか。疲労も吹っ飛びますよ!それになんと今日はアヒル風呂!楽しいこと間違いなし!」

 なんて。また、えっへん。
 笑顔を浮かべて、小雪は楽しそうに尻尾を揺らすのです。


 ◇


 あれから数分。
 悟は温泉にいました。
 呆然としているうちに背中を押され、あれよあれよと温泉に入る事になったのです。

 服を脱いで、体を洗って、温泉へ。
 温かな心地よいお湯が身体に染み渡ります。

 白く濁ったお湯には、ぷかぷかと沢山のそれは沢山のアヒルのおもちゃが浮いていて、アヒル風呂とはこの事でございました。

 悟は思わず笑みを浮かべてしまいます。
 先ほどまで突然のことに戸惑い頭が真っ白になっていましたが、状況を整理しつつありました。
 
 まず、分かったことは、ここは異世界だと言う事。
 二つ目に、それも辿り着く筈であった異世界とは別の異世界、と言う事。

 信じられない事でありますが、自分は異世界転移してしまったと言う事を理解したのでございます。

 いいえ。悟は思います。
 自分の最後の記憶は自宅から出て何か大きな物に『ぶつかった』と言う事。

 何となくですが、アレは、あの時に、自分は死んでしまったのだろう。
 そう、判断しました。

 つまりは、コレは異世界転生。

 何故だか悟の中にその事実がすとんと落ちてきました。
 あまり驚きません。恐怖もありません。

 あの時感じた筈の痛みは一切なく、こうして温泉に入りゆっくりと温まっているのですから、不思議なことに事実を受け入れることが出来てしまったのです。

 何よりも先ほどの少女。
 彼女の様に獣耳の人間なんて見たこと無いし、彼女の温もりをしっかり感じ取れて、自分はまだ生きているのだと思えるようになったのです。

 そして、ついつい思ってしまいます。
 ――さっきの小雪ちゃん…可愛かったなぁ。

 まぁ、仕方がない事です。思春期の男の子ですから。

 「失礼いたします!」
 
 そんな悟の思考と同時、小雪の元気の良い声が響き、悟は仰天する事となりました。
 慌てて振り返れば、さらに仰天。

 着物の裾を肩まで上げて、白い二の腕を出した小雪がニコニコと微笑んで温泉の入口に座っているのです。

 小雪は笑顔ですが、悟からすればたまったものじゃございません。
 反射的に隠れるようにお湯に肩まで浸かります。

 「お客様。お背中流しに来ました!」

 悟が今どんな気持ちか気づく様子もなく、小雪は笑顔で問いかけてきました。
 
 ――いや、いや、いや。無理です。悟には無理です。

 悟は大きく首を横に振りました。
 ついさっき自分で洗ったから十分だと、顔を真っ赤にさせて慌てました。

 小雪は笑顔のまま「失礼しました」と頭を下げます。
 そのまま下がってくれれば良かったのですが、小雪は心配そうに悟を見つめました。

 「お客様?顔が赤いようですが大丈夫ですか?」

 小雪の問いに悟は先ほどよりも激しく首を横に振ります。
 「温泉に入っているから!」なんて動揺しまくった様子で首を振ります。
 小雪はまだ心配そうでしたが頭を下げました。

 「そうですか。のぼせない様。湯あたりしない様にお気を付け下さいませ!」

 元気いっぱいに言い切って、小雪はようやく温泉からできていきました。
 彼女が出ていったのを確認して、悟は一息つきます。

 温泉で同い年ぐらいの女の子に「背中を流します」
 なんて言われたのは初めてです。
 顔が火照って仕方がありゃしません。

 大慌てで断ってしまいましたが、少し残念。
 洗って貰えばよかったかな。
 なんて頭の隅で思ってしまうのは、それも仕方がない事でございましょう。

 考えていると頭に血が上っていくのを感じ取れました。このままでは本当にのぼせてしましそうだと、悟は温泉を上がります。

 温泉から上がり、脱衣所に向かうと、かごの中にタオルと青い浴衣が入っているのを見つけました。先ほどまで入っていた制服は何処にもありません。

 代わりに一枚。
 「お召し物は洗濯して、明日お返ししますね」
 そう、愛らしい文字で書かれたメモが置いてあるのでした。


 ◇


 悟は窓の外を見つめます。
 しんしんと空から降り注ぐ雪を見つめます。

 温泉から上がって、部屋に戻る途中の事です。
 悟からして、雪なんてめったに見られないものでした。

 住んで居た処は都会であったし、季節は冬も終わり桜の咲く季節であったからです。
 だから彼にとって、こうも降り注ぐ雪は初めてでした。

 ですが、初めてなだけ。
 その光景は特別な物には見えませんでした。
 異世界と言いますが、悟の世界と変わらない風景でした。

 「お客様?如何なさいました?」

 ぼうっ―と外を見ていると隣から声がします。
 小雪です。

 大きな青い瞳がぱちくりと悟を見つめています。
 ふわふわな尻尾を揺らめかしながら、ニコニコにっこり笑顔を浮かべて顔をのぞき込んできます。

 「お腹がすきましたか?軽食でもお持ちましょうか?」

 そんな小雪に、悟は困ってしまいました。
 お腹は別にすいてはいません。

 すいてはいないのですが。
 彼女を見ると、そう、なんだかとても胸が締め付けられるのです。

 ただ、それがどうしてか分かりません。
 笑顔を浮かべて親身に接してくれる小雪を邪険に扱う訳にもいかず。

 だから、悟は困ったように「なんでもないよ」と小さく笑みを浮かべるしかないのです。
 悟の様子を見て、小雪はやっぱり頭を下げました。

 「そうですか…」

 彼女が頭を下げて数十秒。悟は首をかしげました。

 中々小雪が頭を上げないのです、ただ手ももじもじさせて、耳をピクピク動かして、尻尾をゆらゆら揺らめかします。まるで何かを悟に言いたいような…。まさにそんな感じ。

 不思議そうに彼女を見つめ、少しの間。
「どうかしたの」と問いかけようとした時でございます。

 小雪が勢いよく顔を上げたのは。
 あまりの勢いに悟とぶつかりそうに成る程。
 驚く悟に小雪は言ったのです。

 
 「あ、あのお客様!何かありましたら、なんでも私に言いつけてくださいね!力及ばないかもしれませんが!私も精一杯精進させて頂きますから!少しでも力になりたいのです!」

 眉をキリっとあげて、顔を真っ赤にして、それはもう精一杯と言う様子で。

 ――少しの間。

 悟はそんな小雪を見てクスリと笑ってしまいました。
 何せ彼女があまりにもフンスっと一生懸命で、あまりにも愛らしかったので、思わず笑ってしまったのでございます。

 笑う悟を小雪はキョトンと見つめます。
 何か笑われるようなことをしてしまったのだろうか。彼女は気づいておりません。

 何か顔に泥でも付いていただろうか。思わず袖で顔を拭います。
 そんな様子もあまりにも愛らしくて、あまりに普通の少女らしくて、悟は声を上げて笑うのです。

 「お客様…?」

 少しして、不安そうに小雪が悟を見上げます。
 そんな少女を見て、悟は謝りながら目にたまる涙を無ぐいます。
 そして「ごめんごめん」と謝りながら彼女に一つの頼みごとをするのです。
 
 ――なんでも聞いてくれるのなら、俺と少し話をしてほしい…っと。

 小雪は再びキョトンとして、そして太陽の様に笑うのです。

 「はい!勿論です!」


 ◇


 宿屋の悟に割り当てられた六畳の間。
 小雪は悟の前にお茶とお菓子を置きました。
 とても可愛らしい金平糖と茶柱が立った緑茶。

 「こんなものしかないけれど、お話のお供にしてください」

 そう小さく笑って、小雪は机を挟んで悟の前に座ります。
 ニコニコ微笑みながら、

 「さてさてお話は何ですか?」

 と、問いかけるのです。
 悟はそんな彼女を見て、少し悩んでから口を開きます。

 まず、この小雪()について、聞かせてほしい。そう頼みます。
 小雪は少し驚き、そして。首をかしげます。

 「私の事ですか?」

 問いかけると、悟は首を縦に動かします。

 「そういわれましても…」
 小雪は少し戸惑いました。何を彼に伝えればいいのか、悩みます。

 「ええっと。改めて、私はこの宿屋の女将、小雪です」
 悟は「小雪ちゃんね」と頷きます。

 「ええと。歳は…じゅ、16になります!」
 悟は少し驚きました。自分と同い年で、あったからです。

 「ええと…。得意なことはお料理とお裁縫です!」
 えへんと胸を張る小雪に悟は、はにかみました。

 ここまで胸を張って料理が得意と言う少女は初めて出会いましたから。
 少し彼女の作った食事が楽しみになりました。

 そして、少しだけ、少しだけ思い出します。
 ああ、母さんの料理もおいしかったな…なんて。

 「お客様?」

 ふと、小雪が顔をのぞき込ませておりました。
 愛らしく整った顔が目に映ります。

 悟は慌てたように「なんでもない」とはにかみます。
 「他には?」と問うと、小雪はうーん。と少し頭を悩ましました。

 そして、耳をぴくん。

 「私は人間じゃありません!」

 またまた、えへんとドヤ顔。
 「知っている」と悟ははにかみました。

 当たり前でしょう。狐の耳と尻尾を持った人間なんていやしませんから。
 小雪が何かに気づいて慌てだしたのは直ぐ後。

 「ああ、でもこの姿は本当の姿なんですよ!狐が化けた姿ではないのです!べつに変化が下手で耳と尻尾が消えなかったわけではないのです!」

 「本当ですよ!」と何故か慌てふためいたように小雪は言いました。その様子はやはり愛らしい。その一言です。

 悟は「分かった分かった」と彼女を宥めました。
 どうやら彼女は年の割に精神的には少し幼い所があるようです。

 彼女に対して微笑みながら、悟は口を噤みました。
 少しだけ考えて、間を開けて、彼は次を問いかけます。

 次は、この世界について教えて欲しい――と。
 慌てていた小雪は、その問いに目をキョトンとさせました。
 キョトンとさせて。

 「お任せあれ!」
 ニコリと、そう笑うのです。
 
 ええと。と間をおいて、小雪は改めてこの宿屋について話し始めました。

 「この宿屋はお客様からすれば異世界です」
 それは聞いた、と悟。

 「ここは、春が訪れない雪の世界でございます」
 悟は首をかしげました。春が訪れないとは?

 「……そんな世界なのです。魔法や、私の様なモノが存在するだけで、特別特殊なことはありません。」
 魔法や獣耳人間がいるだけで、悟には特別に思えます。
 彼の世界には魔法もありませんし、ただの“人間”しかいませんから。

 「ああ、でも魔法って言ってもこれぐらいですよ!」

 そんな悟の視線に気づいたからでしょうか。
 小雪は慌てたように手を胸元に出すと、ポンっと音と共に赤い炎を掌に出しました。

 ゆらゆら揺らめく炎は、それは魔法と言うより。
 彼女が使うと、それはどちらかと言うと狐火――。

 残念ながら魔法には見えません。悟は苦笑いを浮かべました。
 まぁ、それぐらいでも悟にとっては特別でございましたが。

 小雪は苦笑いを浮かべる悟を前に笑顔を浮かべました。
 自信たっぷりに悟に言います。

 「大丈夫です!お客様!お客様はこれからもっと凄い力がわんさかな世界に行きますから!」

 あまりに彼女が自信たっぷりに言うので悟は少し戸惑います。
 すこし口を噤み、悟は思い切って小春に問いかけました。

 異世界に行き、自分はどうなるのか?
 生まれ変わるのか?
 それとも、この姿のまま転生するのか?

 小雪は酷く困った表情を浮かべました。

 「…ごめんなさい。それは分かりません…」
 耳をぺたんと下げて、心から申し訳なさそうに呟きました。

 彼女からすれば異世界の話です。分からないのは当然です。
 しかし、これから自分が行く世界は、どんな世界なのか、不安になるのも仕方が有りません。

 「ごめんなさいお客様。私はお客様がどのような世界に行き、どのような力を授かるかは分からないのです」

 彼女の答えに悟は少し残念に思いました。
 「分からない」と言われましたが、彼女なら自分の転生先の世界も分かるのではないかと心のどこかで願っていましたから。

 そんな悟に小雪は少し慌てて、顔を上げ、自身の胸を叩きました。

 「けれど、きっと、いえ。とっても良い世界なのは分かります!」
 自信満々に胸を叩き彼女は悟を真っすぐに見つめます。

 「きっと魔法も沢山使えて、特別な力もあって、大変だけれど楽しい事に間違いはありません!私が保証します!」

 この先、悟がどのような人生を送るか分からにと言うのに。
 彼女は「それだけは確かです」と真剣な顔で言いました。

 悟は思わず笑います。
 そうだな、そうなったらどうしよう。冒険者にでもなろうかな。――なんて。

 この先について笑いながら思い浮かべます。
 これから(自分)が転生し、どのような人生を送る事になるか想像します。

 出来る事なら、出来る事なら魔法がある世界で、冒険できる世界で。
 そして――前世の前の記憶もなく、新しい人生を送りたい。
 そう、心のどこかで願ってしまうのです。
 
 「お客様」

 ふと、小雪の声が響きました。
 彼女を見ると此方を見つめる少女の姿が映ります。

 小雪は悟を真っすぐと見つめていました。
 真っすぐと見つめて、優しく微笑むのです。

 「今度はお客様のお話もお聞かせください」
 
 自分の話?
 悟は首をかしげました。

 彼からすれば、彼女とこの世界の話について聞きたかっただけであったからです。
 だから、小雪から自身の事を問われるとは思ってもいませんでした。

 今度は悟が悩んでしまう番でございます。
 何を話せばよいのか、ニコニコ微笑む小雪を前に口を噤みます。

 少しして、悟は口を開きました。
 まずは自分の名です。悟です。と告げると小雪は頷きました。

 「さとる、さまですね!素敵な名前です。どのような文字なのですか?」

 微笑む彼女を前に思えば、彼女に名前を名乗ったのは初めてであることに気づきました。
 悟は机に指で自身の名をかきます。
 小雪はそれを物珍しそうに見つめ、大きく頷きました。

 「さとるさま、悟さま。はい、覚えました!では、悟さまはおいくつですか?」
 小雪の次の問いに悟は照れたように「16」と口にしました。

 「……同い年ですね!」
 少しの間、小雪は微笑みます。

 「では、学生様ですね」
 微笑みながら彼女は言いました。

 これには悟は少しだけ驚きました。
 普通であるなら驚きませんが、ここは異世界。
 「学生」という単語がある事に少しだけ驚いたのです。

 「学生の方は良く来られますから」

 小雪は続けます。
 別にです。この世界に学生がある訳ではないのです。

 この宿屋には学生も良く訪れるから彼女は知っていた。それだけです。
 悟も事実に気が付きました。

 「学生様は学校と言うところに行かれるのでしょう?ここに来られる学生様は皆さん大体良く似たお召し物を着ています。学校は楽しいと聞きます。悟さまは如何でしたか?」

 小雪は問いかけました。
 悟は少し悩みました。

 別に楽しくなかったわけではないのです。
 ただ、あまりに普通な学校生活であったから、どう話してよいか分からなかったのです。

 それでも、少しして悟は学校の生活について話し始めました。

 自分は高校に通っていたこと。
 今年で2年生になって、クラスは2組で会った事。
 保育園から一緒の親友がいて、同じ学校、クラスで会った事。
 それから友達の事。すこし気になっていた女の子がいた事。
 部活は野球部に入っていて、毎日の練習が大変だった事。
 取り留めない毎日の日々を、一つ一つ話していきました。

 悟の話を小雪は楽しそうに聞いていました。
 ニコニコ微笑みながら、時折疑問に思ったことを聞き返しながら。
 真剣に、心から楽しそうに聞いてくれました。

 そんな彼女を見つめながら、自身の話をしながら、悟は気が付きます。
 自身も楽しそうに笑みを浮かべている事に気が付きます。

 悟は知りました。
 自分の人生はあまりに普通であったけれど、
 それでも楽しい物であったことに気が付きます。

 一つ一つが掛け替えのない物で、
 どれも大切であったことに気が付きます。
 
 学校だけではありません。
 家族も、そう。

 父親がいて、母親がいて、弟がいて。
 団地暮らしであったし、父は厳しくて、母は口うるさくて、弟は生意気で、うっとうしいと思った事もあるけれど。

 取り留めも無い普通の家族だったけれど、思い出すのは楽しい思い出ばかり。
 幼かった日の思い出も、家族みんなで行った旅行も、進路で悩んで親と喧嘩したことも、ただ皆でテレビを見て笑いあった事も、つまらない事なんて一つも無かった。

 悟は最後の朝を思い出します。

 何時もの朝。
 寝坊して、母親に叩き起こされて、慌てて家から飛び出た朝の事。
 呆れる父親と、生意気にからかう弟。
 母は急いでいると言うのに、口うるさく「ご飯を食べていきなさい」と怒るのです。

 玄関の前でお弁当を押し付けてくる母の姿を思い出します。
 笑顔で送ってくれる家族を思い出します。

 いつもと変わらない日常で、温かな毎日。
 それを思い出して、小さく笑みを浮かべてから、理解するのです。
 
 ――その毎日はもう二度とやってこないのだと。

 ……ぽつり。

 悟のきつく握りしめた拳に雫が落ちました。
 最初は、それが何だか悟には分かりませんでした。
 それでも雫はポツリポツリと落ちています。

 頬を伝って、静かに流れていきます。

 流れる雫に、自分の目元に触れて、悟は気が付きました。
 それが自分の涙である事に。
 
 悟自身はまだ気が付いていません。
 どうして、自分が泣いているか。
 気づきたく、ありません。

 それでも涙は溢れてくるのです。
 何度も何度も目をこすっても、止めどなく溢れ出てくるのです。

 「…悟さま」

 そんな、悟に小雪の静かな声が駆けられました。

 気が付けば、小雪は悟の隣に座っています。
 悲しそうに微笑んで、それでも悟を見つめています。

 悟は彼女から視線を外し、何度も謝りながら涙をぬぐいました。
 こんな姿を見せるはずは無かった。

 必死に頭で理解しようとするのに涙は止まりはしません。
 どうしようもなく、酷く自分が情けなく。

 それでも、せめて彼女には泣いている姿は見せたくなくて
 部屋を出て行ってくれとお願いしようとした時の事でした。

 小雪は静かに泣いている悟に対して大きく手を広げたのです。

 「悟さま。どうぞ私の膝をお使いください」

 小雪の言葉に悟は顔を上げました。
 小雪は続けます。

 「…悟さま。一人で抱え込まないでください。こんな時こそ一人にならないでください。情けなくなんてありません。何かを恋しいと想うとき、大切な家族を想うとき、我慢はしないで、誰かの膝を借りて思う存分、どうか涙を流してください。どうか貴方の為に泣いてください」

 小雪は何処までも優しく、悲しく、微笑んでいました。
 その頬笑みは、ぽかぽかと、まるで温かな木漏れ日の様で、
 だから、その温かみに、溢れ出した涙はもう止まらなくて、止めようも無くて。

 縋るように、幼い子供の様に、悟は彼女の膝に顔を埋めて泣いたのです。
 
 異世界に来た時、初めは理解が追い付きませんでした。
 彼女に温泉に案内され、そこでようやく、自分が死んだと頭で分かって、それでも理解したくなくて。

 宿屋の外で、しんしんと降り注ぐ雪を見て、その様子があまりにも異世界だとは感じられなくて、あまりに自分が住んで居た世界と似ていたから、本当は夢ではないかと何度も思いました。

 けれども小雪の姿を見て、彼女と会話をして、彼女の確かな温もりを思い出して、そのささやかな願いは砕かれました。

 ここは異世界で、
 自分は死んだのだと、
 家族の元には帰れないのだと、

 だったらせめて、今までの思い出……
 家族の事なんて忘れてしまいたいと思いました。

 死んで、転生するのなら。新しい人生で、新しい気持ちのまま、生きたいと。
 家族を思い出したくなかったから、大事な思い出を前に泣きたくなかったから。
 
 けれど本当は、そう。本当は。

 ――家族の事は忘れたくない。
 忘れたくなんか無いのです。

 もっと、もっと、あの温かな家族(彼ら)の傍で生きていたかった――。

 だから、悟は泣きました。
 大きな声で泣きました。

 2度と戻れない大切な思い出を想い出しながら、枯れる事のない涙を流し続けました。
 その温かな膝の温もりに縋るように、もう二度と会えない家族を想って泣くのです。
 
 小雪は何も言いはしません。
 ただ、優しく、優しく、悟の頭をなでるのです。
 彼が泣き止むまでずっと、ずっと――。
 

 ◇

 
 ……薄暗い、薄暗い、朝のひかり。
 鳥の鳴き声も響かない寂しい朝の中。

 悟は自室に有った鏡の前で、制服姿の自身を見つめておりました。
 鏡に映るのは何時もと変わらない、そして最後となる悟という少年の姿。
 もう二度と見る事も出来ない可能性が高い、自身の姿を悟は目に焼き付けたのでございます。
 
 ――悟はこれから、異世界へと旅立つのです。

 まだ、思うところは勿論あります。
 けれど、ああ、けれど。

 悟の心は昨晩と違って晴れ晴れとしておりました。

 宿屋の女将の膝を借りて、幼い子供の様に沢山、沢山泣いて。
 会えることもなくなった家族を想って、名一杯泣いて、沢山後悔も出来たから。
 悟は今、こうして自分の運命を受け入れることが出来たのです。

 「悟さま、ご用意出来ましたか?」

 部屋の外で、小雪の声が聞こえます。
 声を掛けると、彼女は障子をあけて悟を目にして、笑顔を浮かべました。

 「とってもお似合いです。悟さま!」

 相変わらず、裏も表も無い無邪気な笑顔。
 悟も思わず、笑みを浮かべました。
 小雪を見て思い出すのは昨晩の事です。
 
 「それでは悟さま。ご案内させて頂きます。」

 ……古い、古い宿屋。
 その軋む床を悟は小雪の後ろに続いて歩いていました。

 宿屋に来た時と違って、心は穏やかに、静かにあたりを見渡します。
 古くもきれいに掃除された大きな旅館。

 窓の外は今日も今日とて白い雪が降り注ぎ、世界を白く染め上げ、音を取り上げます。
 最初こそ寂しさを感じましたが、今はただ美しい風景だと悟は見つめていました。
 昨日の今日だと言うのに、酷く懐かしくすら感じられる宿屋を見つめています。

 「悟さま。到着いたしまいた。」

 
 ――と、前を歩いていた 小雪が立ち止まりました。
 彼女が立ち止まった先、彼女が指を差し示す先には、来た時と変わらない、大きな宿屋の門が建っていました。

 「この先、あの門をくぐると悟さまの、貴方の新しい世界です。」

 小雪が言います。
 悟は門を見上げました。

 白い雪が積もった、大きな扉。
 ここを通れば、小雪とも、自分ともお別れです。

 とても悲しいです。とても寂しいです。
 けれど、覚悟はもう決まっています。
 もう、泣くことはありません。

 悟はゆっくりと門の扉に手を掛けました。
 扉は相変わらず、大きな音をたてて開きます。

 来たときは、この扉の先は寂しい雪の積もる枯れ木が並ぶ森でした。
 ああ、けれど。

 悟が開いた扉の先に森はありませんでした。
 ただ、眩しい程の光だけが永遠と続いていました。

 「悟さま。」

 眩しい程の光を見つめていると、ふと小雪が声を掛けてきました。
 振り向けば、変わらず微笑む少女の姿があります。
 狐の耳をぴくぴく動かして、静かに悟を見つめています。

 「一夜だけでしたが、私のおもてなしはどうでしたか?満足いただけましたか?」

 小雪は尋ねました。
 悟は笑みを浮かべ僅かながらの彼女のことを思い出します。

 彼女が宿屋に出迎えてくれたことも、「お背中御流しします」と風呂場に入って来て慌てたことも。甘い甘い金平糖を出してくれたことも。
 勿論、彼女の前で子供の様に泣いたことも。

 その後、彼女が最後のおもてなしだと言って、沢山のご馳走を用意してくれたこともです。

 泣き続けて目が真っ赤になった悟の前に、とても一人では食べきれないような豪勢な食事が並べられて。
 食べたいとお願いした『すき焼き』迄用意してくれて。

 その料理がどれもこれも、あまりにほっぺが落ちてしまいそうなほどおいしくて、無我夢中でお腹に掻き込みました。
 なんどもお代わりをしたせいか、今朝の朝ご飯もかなりの大盛りでした。

 そんな些細な一夜を思い出し
 悟は笑って「とっても」と彼女にお礼を言うのです。
 悟の言葉に小雪は嬉しそうに笑いました。

 ――……ああ、もうお別れの時間です。
 悟は再び前を向きます。
 
 「……悟さま。後で調べさせて頂きました。」

 最後の最後の事でございました。悟は振り向きます。温かな光を浴び、体が吸い込まれていくのを感じながら、彼女を見ます。

 「――悟。この字には『貴方の心を守る。迷いを退ける』……そう言った意味があると知りました。……本当に、良い名前を貰いましたね」

 ――最後に見たのは太陽の笑顔。
 悟は、温かな光の中で笑顔を浮かべました。

 また、泣きたくなったけれど、彼女の言葉が何故かとても嬉しくて嬉しくて。

 「ありがとう」

 それだけを小雪に伝えるのです。
 
 眩しい温かな光の中で、悟は最後に想い、願いました。
 出来る事なら、異世界へ行ったとしても。

 ――……『悟』としての記憶は無くなりませんように――と。


 「行ってらっしゃいませ!」

 そんな小雪の声が遠くで聞こえました。


 ◇


 ……ここで、少し昔話でもしましょうか。

 昔、昔の事であります。
 この世界には神さんが一人おられました。

 大層愛らしい神さんで、
 何よりも人間が大好きで、
 人の役に立つことが何より大好きな神さんでございました。

 神さんが微笑むと春が来ます。
 神さんが笑うと夏が来ます。
 神さんが誰かを想うと秋が来ます。
 神さんが悲しむと冬が来ます。

 彼女の周りは四季と笑顔で満ちておりました。

 そんな神さんを人間がほうっておく筈ございません。
 神さんの周りには沢山に人間が集まりました。

 人間は神さんに大きなお屋敷を立ててあげて、毎日沢山の貢物を送りました。
 その、見返りにちょっとした我儘を神さんに叶えて貰っていたのでございます。

 アレが欲しい、コレが欲しい。
 ああして欲しい、こうして欲しい。

 神さんは、そんな人間たちの願いを叶えていきました。
 にこにこ笑顔で叶えていきました。

 彼らが浮かべる笑顔が何よりも愛おしく、たまらなかったからでございます。
 神さんの周りは、いつも笑顔で満ち足りておりました。

 ある日の事です。
 一人の男が、神さんに願いました。
 肌寒い地域で生きていく彼は、寒さが辛くて「温かな春が欲しい」と願ったのです。

 神さんは自分から春をあげました。
 世界から春が消えました。

 ある日のとこです。
 一人の男が、神さんに願いました。
 海が大好きであった彼はいつも海と共にありたくて「暑い夏が欲しい」と願ったのです。

 神さんは自分から夏をあげました。
 世界から夏が消えました。

 ある日の事です。
 一人の男が、神さんに願いました。
 彼は何時もお腹が減っていて「実りの秋が欲しい」と願ったのです。

 神さんは自分から秋をあげました。
 世界から秋が消えました。

 神さんに残ったのは冬だけ。
 白くて静かで、
 寒くて辛くて、
 何にもない終わりの季節だけ。

 世界はただ白いだけの、そんな世界になってしまったのです。

 人間は寒くてたまらず、何時ものように神さんに願いました。
 心地よい春が欲しい。
 暑く活力がみなぎる夏が欲しい。
 恵の秋が欲しい。

 けれども神さんには、もう何一つ残っていません。
 寒い寒い冬しか残っていません。

 だから人間たちは、

 残念がって、
 恐ろしがって、
 憎しみをもって、
 一人一人と神さんから離れていきました。

 いつしか神さんは一人ぼっちになっていました。
 人間が大好きだった、だれからも愛される神さんは誰からも嫌われる存在となりました。

 もう彼女に近づく者は誰一人いません。
 悍ましがって近づこうともしません。

 神さんは泣きました。
 一人ぼっちになって泣きました。

 神さんは人間が大好きなのです。
 人間たちを苦しめて、悲しませてしまった事実に泣きました。

 だから神さんは願いました。
 自分の力に願いました。

 短い時間で良い。
 すぐにお別れが来てもいい。

 あの頃と同じように、誰かの笑顔を傍で見ていたい。

 ――そう、心から願ったのでございます。

 コレはきっと奇跡。
 だから神さんは、ここに訪れた彼らを心から精一杯に持て成すのです。

 だって神さんにとって彼らは、
 一人ぼっちの悲しさを無くしてくれる大切なお客様ですから…。


 ◇


 悟が消えていった。
 誰もいなくなった扉の先を神さんは微笑みながら見つめていました。
 涙をこらえて、また一人ぼっちになる事を我慢しながら見送りました。

 彼はこの先いったいどんな世界に行って、どんな人生を送るのか、小雪にはさっぱりこれっぽっちも分かりません。
 彼女が出来るのは、ここに訪れたお客様を持て成して笑顔で見送る事だけですから。

 小雪は自分自身をとても我儘に思います。
 本当は異世界で幸せに暮らすはずの彼らの貴重な一日を奪っておきながら、そんな一日が楽しくてたまらない小雪(自分)は、やはり何よりも化け物と思います。

 それでも小雪は、いつ訪れるかも分からない。
 そんな細やかな一日に笑顔で向き合うのです。
 太陽の様な笑顔で、精一杯に短い一日を心から楽しむのです。

 これは、一人ぼっちが嫌いな神さんの唯一の願いですから……。


 ◇
 

 これはある異世界のお話。
 異世界に行く、誰かが迷い込む宿屋の一夜限りのお話。

 ――こんこん、こんろろと狐のお宿。
 一人ぼっちの女将がお迎えする神のお宿。
 
 ささやかなおもてなししか出来ませんが、皆様も一泊如何ですか――?