さて、お休みを与えられたらあなたはどんなことをしますか?
 借金大魔王の両親を持つ十八歳女子の、普通かはわかりませんが一例をご紹介しましょう。
 まず、寝る。
「むにゃむにゃ」
 キングサイズのダブルベッドでひたすら惰眠をむさぼる。
 時計もないしカレンダーもない。起こす人がいないと自制心も働かない。
 しかもいくらでも眠れる。起きたら起きたでベッドの上をごろごろ転がっている内にまた眠っている。
 毛布はふかふか、枕の肌触りも抜群。撫子はこれまでせんべい布団か安ホテルの二人部屋の予備ベッドでしか眠ったことがないから、この柔らかさには言葉もなかった。
 不思議なことにお腹も空かなかった。時間感覚が麻痺していて正確なことはわからないが、たぶん一週間は眠っていた気がする。
「寝すぎた!」
 さすがに一週間はやりすぎたと思って、撫子は跳ね起きた。
 そうなると次は人間の三大欲求の内の一つ。
「食べるもの」
 性欲と言うと照れるくらいには乙女だと主張したいので、食欲が優先だ。
 撫子はむくりと起き上がって、キッチンの方に向かった。
「おお。冷蔵庫にコンロにオーブンまで」
 文明の利器にあふれているキッチンに満足しつつ冷蔵庫を開けると、そこには様々な生鮮食品が詰まっていた。野菜に肉に飲み物、それも今日用意されたかのようにどれも新鮮だった。
 キッチンにはどんな料理にも対応できるように台所用品がずらりと並んでいる。
「これ、何に使うんだろ?」
 通信販売でしか見ないようなマニアックな便利グッズまで置いてあって、撫子は首をひねった。
 料理は得意だ。意気込んで腕まくりをしたところで、不安がよぎる。
「代金は大事な問題だ」
 冷蔵庫の中のものを消費すると、後でフロントにて支払いを要求されてしまう。
 料金表が見当たらなかったので、撫子はベッドルームの電話でフロントに訊いてみることにした。
 ホテルマニュアルを開いてフロントの番号を調べていたら、電話がかかってきた。
「お困りですか? こちらフロントです」
 えっ、ちょっと親切すぎない?
 思わず受話器を取ってしまってから慌てた撫子だった。
「こ、この電話って有料ですか」
「いいえ、無料でございます」
「よかった! 自動で加算されるシステムかと」
 そういう悪質なホテルに泊まったこともあった。受話器を持ったまま撫子は脱力して、ベッドの脇に膝をついた。
「どうされましたか?」
 お医者さん的に訊いてくるお姉さんの声に、撫子は頬をかいて訊ねる。
「あ、あの。冷蔵庫の食料の料金表が見当たらなくて」
「無料でございますよ」
 撫子が驚く顔を知ってか知らずか、お姉さんはおっとりと答えた。
「当ホテルの備品は何をどれだけ使われても無料です」
「それじゃ採算合わないんじゃ」
「そもそも当ホテルは滞在にあたってお客様から費用を請求いたしません」
「人件費とか材料費とか維持費とか!」
 撫子が焦ってもどうしようもないが、お姉さんはあくまで落ち着いていた。
「死出の世界ではこれが普通なのです」
 常識が私の知っている世界と違う。
 撫子は黙って遠い目をした。お姉さんは優しく続ける。
「ところで、お食事でしたら下のレストランで召し上がるのはいかがですか? 降りていらっしゃる間にご用意いたします」
「しつこいようですが、それも無料なんですよね」
「もちろんでございます。何か希望のものや苦手なものはありますか?」
 撫子は受話器を持って少し首を傾げて、すぐに悩む必要なんてなかったと気づく。
「それではぜひ。何でもおいしく食べられる体質です。……あ」
 撫子は来た時と変わらないTシャツとデニムスカートを見下ろして、小さく息をつく。
「ちょっとお風呂に入ってから行きますので、遅れるかもしれません」
 お姉さんは最初に通話に出たときから変わらない、実におだやかな声で締めくくった。
「はい、どうぞごゆっくり。レストラン「ハバナ」でお待ちしております」
 撫子は受話器を置いて、バスルームに向かうことにした。
 洗面所にはぴかぴかに磨き上げられた鏡があった。撫子はそこに、実に血色のいい自分をみつける。
 男の子みたいに短い黒髪とぱっつんの前髪、日焼けした手足。背は女の子としては高い方だったと思い出す。死出の世界に来てからますます健康に磨きがかかって、いつもほっこり頬が赤い。
「美人には今更なれないけど、身だしなみはきちんとしないとね」
 洗面所から扉を開けて、お風呂の中に入る。
 そこはお椀をひっくり返したような大きな円型のお風呂だった。五人は体を伸ばして入れそうな広さがあって、横には香り玉のようなものが揃えてある。
 撫子はお湯を張りながら、試しに白い玉を一つ放り込んでみた。着替えを探すために一旦バスルームから出る。
「浴衣でもないかな。お、何だこれ」
 何気なくベッドルームの隅にあるクローゼットを開けると、そこには女性物の服がずらりと詰め込まれていた。
「これはちまたで話題のパーティードレス」
 ひやっと背中が寒くなった。
 レストランと言うのは相当格式が高いのかもしれない。ジーンズでは行けないと思ったが、ドレスなんて着るのはとても勇気が足らない。
 仕方なくおとなしめのスカートとカッターにカーディガンを合わせることにした。それ以外のベッドに広げた服たちをもう一度クローゼットに詰めて、バスルームに戻る。
 湯船には白い湯気の中に無数の泡が湧きあがっていた。
 撫子はしばし無言でぷるぷると震えると、服を脱ぎ捨ててバスタブに飛び込む。
「うわぁい! ぶくぶくだぁ!」
 君はいくつの子だねと笑われても構わない。
 撫子は憧れの泡風呂に笑み崩れて、ばしゃばしゃとはしゃいで満喫した。
 このまま一日中浸かっていてもいいと思ったくらいだったが、食事に行くと言った手前仕方なくほどほどのところで上がる。
 用意した服に着替えて、鍵を持ってエレベーターに乗り込んだ。
 ホテルマニュアルによると、レストラン「ハバナ」は二階の奥にあるらしい。
「いらっしゃいませ」
 レストランではやはり猫の耳を持つ長身の老紳士が出迎えてくれた。
「撫子様ですね。こちらへどうぞ」
 格式が高いかもと緊張していたが、ウェイターの柔らかい物腰に少し落ち着いた。
 そしてこれが大事なことだが、彼のふさふさの尻尾があまりに見事なので席に着くまで周りなど全く見ていなかった。
「尻尾が気になりますか?」
「うわ、ごめんなさい! じろじろ見て」
 ふいに振り返られたので撫子が慌てて謝ると、彼はにっこりとほほえむ。
「とんでもない。私はペルシャ猫ですから、この尻尾は自慢なのです」
「さ、触っても」
「ええ、どうぞ」
 撫子は猫ウェイターの尻尾をそうっと撫でてみる。
 最初は恐る恐るだったが、そのシルクのような手触りについ夢中でなでなでしてしまう。
「ふわぁぁ」
「喜んで頂けると嬉しいです」
 彼にとってのアイデンティティーなのだろうか。撫子ははっと手を離す。
「でも猫の方は尻尾を触られると嫌なんですよね」
「ああ、オーナーの尻尾を触ってしまわれましたか」
 このホテルの従業員さん、たぶん心が読める。撫子がびっくりしていると、彼はゆるりと笑って答える。
「オーナーはまだお若いですから。でも撫子様に触られることは嫌ではないはずですから、そっと触って差し上げてください」
「は、はぁ」
 なぜか声をひそめて言われるので、いけないことを話しているような気分になった撫子だった。
 まもなく白いテーブルに案内された。壁と床が灰色なので浮かび上がるような白さで、テーブルの上のキャンドルがほんのりと灯りを添える。
「今日は和風の料理にいたしました」
 猫ウェイターが目の前に並べた料理に、撫子は目を輝かせる。
 目を喜ばせている時間ももったいなくて、ごくりと息を呑んで箸を取った。
 とろけるような刺身に香り立つ土瓶蒸し、一粒一粒立っているご飯に鯛、どこか懐かしい味わいの煮物、色とりどりの野菜の蒸し物、ちょうどいい苦味のお茶など、エトセトラ。
「ウェイターさん。試しに私のほっぺたを力いっぱい引っ張ってもらえませんか」
 わなわなと震えている撫子に、先ほどの猫ウェイターは紳士的に首を横に振る。
「女性にそのようなことはできません」
 撫子は自分で頬を引っ張った。
 普通に痛かったから、痛覚は生きているらしい。
「そういえば、ここにある私の体は何なんでしょう?」
「ええ、不思議に思われるでしょうね」
 三杯目のおかわりをした後、撫子はようやく知的好奇心が湧いてきて訊ねた。ウェイターは嫌な顔もせず応じてくれる。
「撫子様の体は魂が形を持ったものです。魂が消えて本当の死ですから、撫子様が今見ている体は撫子様のイメージですが、一応存在してはいますよ」
「だから生ごみ」
 オーナーのたとえは表現としてはシビアだが、まあ合っている。もう生きるための体としては役目を終えているが、消えてはいないということだ。
「ウェイターさんもその姿は生前のイメージということですか?」
「いいえ。私は死出の世界出身です」
 また不思議な存在だ。死の世界で生まれるというのはそもそも生きているのだろうか。
 撫子は腕組みをして考えたが、ほっこりお腹が満たされた状態で生命のメカニズムを真剣に考えるつもりはなかった。
「ま、いっか。現にいるんだし」
 あっさり考えを切り上げて、撫子はうなずく。
「どれもおいしくてほっぺたが落ちそうです」
「ありがとうございます。ではそろそろデザートはいかがですか?」
「もちろんいただきます」
 それよりすばらしい食事を胃に収められる幸せを感じる方が、よほど有意義だと思った。
 撫子はきっとおいしいであろうデザートをわくわくしながら待っていた。