笛の音が聞こえた。
思い出したのは三年前、例によって借金に追われた両親と四国から列車に乗って出発した時のことだ。
田舎の方はまだ笛で発車の合図をしているんだなぁと思いながら、新天地について両親と笑っていた他愛ないひととき。
その笛と同じ音が響いたということは、そろそろこの列車は発車するということだ。
あの時は両親と一緒にカウントした。父がさあそろそろだぞと言って、母がそうねとうなずいて。
三、二、一。
ほら、ガタン。
始まりの振動を体全体で感じ取って、撫子は目を開ける。
目の前の座席に座っていた青年と目が合った。緑色の瞳に細長い瞳孔を見返して、まずはてなと思った。
人体において瞳孔は縦長だっただろうかと首を傾げて、青年の白い髪にこれまた違和感を覚える。まだ二十歳くらいで輝くような白髪なんてなかなかない。
しかし黒いスーツ姿がやけに似合っていて、フレッシャーズとは違う雰囲気がする。膝の上に乗っている白い尻尾とのコントラストが鮮やかだ。
尻尾? そういえばさっき、もっと違和感のあるものを見た。
そこで青年の頭に猫のような耳が二つ出ていることに気付いて、撫子は声を上げた。
「耳!」
撫子は思わず席を立って、頭上の荷物置きに頭をぶつける。
撫子が声もなく頭をおさえてうずくまると、そっと手が差し伸べられる。
「ああ、ありがとうございます」
撫子は青年の手を借りて席に座りなおしたが、やはり視線は彼の耳に行く。
カチューシャなのか。でも今ぴくりと動いた。ということは可動式のハイテク猫耳なのか。そしてそれをつけている意味は?
「失礼ですが、その耳はいったい」
とりあえずきいてみると、青年は短く答えた。
「アイデンティティーです」
人格に触れてはいけませんね。
一人納得したところで、撫子ははっとした。
青年の耳が何なのかより、もっと重要な問題がある。
「あの、この列車はどこ行きなんでしょうか?」
ずいぶん天井が低いが、撫子が知る限りここは電車の中だと思う。
青年はその質問に喜んだようだった。
「いい質問です」
どうしてこの列車に乗ったのかは思い出せないが。撫子が首をひねっていると、青年はうなずいた。
「この列車はあなた方の言うところの、あの世行きです」
にっこりと愛想よく笑って、青年は続ける。
「あなたは死んだんです」
撫子はその言葉を信じたのではなく、起き抜けで頭が働かなかったので反射的に相槌を打った。
「コッペパンで?」
「なぜコッペパンが出てくるんです?」
「いえ、思い浮かんだのがそれしかなくて」
軽い頭痛を覚えて撫子は頭を押さえる。
どうも先ほどから頭の中の回路が混線して記憶がつながらない。
列車に乗った記憶どころか、どこへ行くつもりだったかも思い出せないなんて。
「難しく考えるのはよしましょうよ」
青年の緑の猫目がぎゅっと細められる。
「あなたは生きている間ずいぶん苦労してきました。ようやく煩わしい生から解放されたんです。もっと喜んでいいことだと思いますよ」
「そういうものですか」
「ええ」
撫子は曖昧にうなずく。
言われてみれば生前苦労した気がするし、死ぬような目にも遭った気がする。
でも死んだことに全然ぴんとこないので、喜んでいいのか悲しんでいいのかもわからなかった。
青年は気象予報士が解説するように言う。
「ただ本当の死は終着駅まで行って出来上がりですので、今のあなたはまだ土に還る前の生ごみみたいなものです」
「ずいぶんなたとえですが、幽霊ってことですか?」
「そうともいいます」
愛想全開の輝かしい笑顔とは対照的に、言っていることは結構シビアな人だった。
青年は淀みなく言葉を続ける。
「ただあなたが死なない手段が一つだけあります」
「ほう?」
「終着駅の前で降りてしまえばいいんです」
「おお!」
ナイスアイディア。撫子はうなずきながら続きを促す。
「そこから逆の電車に乗って戻るんですか?」
「戻りたいんですか? 苦労と苦痛しかない生の世界に」
訊き返されて、撫子は思わず言葉に詰まる。
「いえ、しんどいのと苦しいのは嫌です」
「結構です。そんなあなたを私は愛しています」
今、変な言葉が聞こえた。あまりに突拍子もないセリフだったので撫子は聞こえなかったふりをすることにした。
青年はじっと撫子を見て言う。
「停留所で下りて、この世の世界の住人になってしまえばいいんですよ」
彼はそこで撫子の両手を取って顔の前で握る。
「撫子。死にたくなければ、私の妻になりなさい」
撫子は数秒間手をつかまれたまま沈黙した。
さて、そろそろ寝起きというだけで適当に相槌を打てなくなってきた。
「私の両親はあなたにどれほどの借金をしたのでしょうか」
見ず知らずの人に嫁になれと脅迫される理由としては、両親の借金が最有力候補だった。
警戒心をまとって恐る恐る言った撫子に、彼はまるで動じなかった。
「あなたのご両親は関係ありませんよ。私はあなたの名前が気に入りました。名前に無を持っているのが、いかにも生に執着がなくすばらしい」
彼は感心したようにため息をついて告げる。
「私たち死出の住人は生き汚い人間が嫌いですが、あなたはそういう匂いがしない。しかも死に急ぐ様子もない。実に無生産で無為に暮らしてくれそうじゃありませんか」
「人の好みはそれぞれですが」
撫子はとりあえず話についていこうとする。
「たかが名前で妻を決めていいのでしょうか」
「おや、名は重要ですよ。死者たちが最後まで覚えているのは名前なんですから。性格や記憶などというものは、列車で終着駅に運ばれるまでに消えていくものです」
「でも私とお兄さんは初対面ですし」
彼はぴくりと猫の耳を動かした。撫子はそれに驚いてびくっと動いた。
青年は撫子の反応に構わず問いかける。
「コッペパンで覚えはありませんか?」
「コッペパン……」
撫子は首をひねる。生前の記憶というものをたどりよせるように集めてみると、確かにコッペパンがはっきりと頭に残っている。
もしかして自分はコッペパンを喉に詰まらせて死んだのだろうか。
「何て情けない死に方を」
撫子がちょっと涙ぐむと、青年は手を伸ばして撫子の頭に触れた。
「つらければ思い出さなくてよろしい」
子どもにするように頭を撫でられる。
撫子はしぱしぱとまばたきをする。先ほどから笑顔と裏腹に言葉がきつい人だと思っていたが、その手はとても優しかったから。
撫子は気恥ずかしくなって早口につぶやく。
「ふむ、名前ですか」
撫子は青年に問いかけていた。
「お兄さんの名前は?」
「オーナー」
彼は王者のようにその名前を告げた。
「キャット・ステーション・ホテルのオーナー。ホテルの支配人を生業にしております」
職業名が名前というのは不思議だった。けれどまっすぐみつめてくる目と向き合って、その言葉を疑う必要はないように思った。
撫子はうなずいて言う。
「ありがとうございます。お褒めにあずかった名前もまあ、私の一部です」
撫子は頭をかきながら上目づかいでオーナーをうかがう。
「ただ私は未成年で、いきなり結婚というのも気が早いお話ですので。少しこの収まりの悪い頭と相談する時間が欲しいのですが」
「それもそうですね」
オーナーはうなずいて、意外とあっさりと猶予をくれた。
「では我々の目的地に着くまでに決めてください」
「目的地?」
「次の停車駅です」
「到着まで何時間くらい?」
「さあ。死出の世界では時間は適当です。太陽も月も昇りませんから」
不便でないのだろうかと撫子は首をかしげた。しかしここに来てまだおよそ少しのハイパー初心者の撫子では、お前に何がわかると片付けられてしまいそうだった。
死者にとっては死んでからの時間なんてどうでもいいかもしれないし。そう思って、いやいや死んだと認めるのは早すぎないかと冷や汗を流す。
「私と結婚するのはそんなに抵抗のあることですか?」
そんなことを撫子が考えていたら、オーナーは宝石じみた緑の瞳を向けてくる。
「異種婚なんて昔からよくあることですよ」
「いしゅこん?」
「種族の違う者同士の婚姻のことです。あなたは人間、私は……見ればおわかりでしょう?」
撫子はオーナーの耳を思わず見て、いえ、と言葉を挟む。
「いえ、私はオーナーが猫であることに不満があるわけではなくて」
「では何があなたを迷わせているんです?」
「無難なところで価値観の違いとか」
離婚理由の定番だそうだ。もっともカチカンとは何ぞと訊かれても、撫子もわかっていない。
「そういうものは結婚してから考えればよいでしょう」
オーナーは終始完璧な笑顔だ。だから何を考えているのか読めない。
それが不気味でもあって、撫子は首を横に振った。
「じゃ、じゃあちょっと列車の中を散歩してきますね」
とにかくこのまま彼と顔を合わせていると雰囲気に飲まれてしまいそうで怖い。撫子は慌てて立ちあがった。
「つ……っ!」
また頭を荷物置きにぶつけて、撫子は頭頂部を押さえてうずくまる。
この列車の座席、どう考えても天井が低すぎる。恨めしい思いとそんな天井に負けたような悔しい思いが混じり合ってうめいた。
オーナーはさらりと撫子に言う。
「二度目ですよ。あなた、先ほどの失敗覚えてます?」
うわ、ストレートに嫌味言われた。
「あ、あはは。失礼しました」
撫子が気まずさにわたわたとして立ちあがろうとすると、再び手を取られて助け起こされた。
「お馬鹿さん」
ふっと息を漏らして笑われる。それは見守るような優しい笑い方で、撫子はみぞおちの上辺りが変な感じがした。
「貨物車両には近付かないようにしなさい」
通路に出た撫子に、オーナーは一言だけ声をかけた。
それから気まぐれな猫のように、そっけなく窓の外に顔を向けて目を閉じた。
「ふゎぁ!」
一歩席を離れた途端、撫子は情けない声で悲鳴を上げてしまった。
本気で信じたわけではなくとも、ここはあの世行きの列車の中らしい。多少おどろおどろしいものが出ることは覚悟していたはずだった。
「これもワンダーランドっていう」
無理やり開き直った撫子の前には、あらゆる動物たちが集っていた。
スズメやネズミがいるのはまあいい。カメレオンやペンギンがいるのもこの際珍しくはないとしよう。
しかし壁や床や天井にまでびっしりと張り付いている虫たちには、ちょっと悪寒を覚える。
撫子はどこかで聞いたことがあった。地球上の生き物の大多数を占めているのは虫だと。今更ながらその真実をこうして見せつけられるとびっくりする。
しかし生前かなりのボロ屋に住んでいた記憶が浮かんできて、その頃の虫との同居生活が再来したと思えばどうにか悲鳴を飲み込むことができた。
「人間だ」
「人間」
ざわざわと動物と虫たちが言葉をこぼす。
撫子は彼らが言葉を話したことに驚いた。怖っ!と一歩後ろに下がった。
「そうそう。受けるー」
「ありえないよねー」
でも彼らが撫子に意識を向けたのは一瞬で、すぐに自分たちのおしゃべりに戻っていた。
しかもたまたま耳に入ったのはゴキブリ同士の現役女子高生みたいな口調だった。撫子とて女子高生の端くれ。何を同年代にびくびくしていると、多少気が大きくなる。
「あ、どうも。お邪魔します」
ただゴキブリ相手に喧嘩したくはないので、とりあえず丁重にお願いして通路を通らせてもらう。
どうやら撫子とオーナーがいた席以外は座席すらほとんどないようだった。動物たちは思い思いに座ったり立ったりして列車に揺られている。
謝りつつ通路を歩いて車両の端までたどり着いたところで、撫子ははたと手を打った。
「すみません。人間はどこでしょう?」
辺りを見回しても人間らしい人間がいないので、撫子は温厚そうな大型犬に尋ねた。
「ああ、人間はこの列車の最後尾だよ。一人で行けるかい?」
「そうなんですか。後ろの方ですね。ありがとうございます」
紳士的に答えてくれた犬に感謝を述べて、撫子は列車を進行方向とは逆に向かって進む。
幸い通路に小さな生き物はいなかったので、踏む心配はなかった。扉を開けて、隣の車両に移る。
次の車両も似たようなワンダーランドだった。撫子はそれを横目に見ながら進むが、ざわめきに耳が慣れてくると気づいたこともあった。
「俺、試しに人型になって生活してみようと思うんだ」
「ああ、いいかもね。君どこに滞在するの?」
「さあ。行ってからのお楽しみなんだ。送迎してもらえるから安心だよ」
みなさん、これから遠足に行くかのようにうきうきしている。
本当に死んだんですかと訊きたくなるほどに明るい。ガサガサと動き回る虫たちの声は小さくて聞きとれないことも多かったが、何やら興奮が伝わってくる。
撫子は窓の外を眺めて思う。
外は真っ暗で、何も見えない。トンネルの中なのかもしれない。
車内は赤茶色の光が灯っていて、暖かかった。たぶん夜行性の動物がいるからか、暗いスペースもある。
列車としては撫子の頭がつくかつかないかの低さだが、ほっと心が和らぐ空間だった。撫子がお酒の飲める年だったら、動物たちと一緒に飲みかわすくらいしたかもしれなかった。
「あ」
いくつかの車両を歩いている内に当初の目的を忘れていた。結婚という大事な決断を目の前にして、アニマル天国に癒されている場合ではなかった。
「どうしようか」
それはまあ、生きている間なら「死ぬくらいなら何でもします」と土下座してありがたく結婚させてもらった。だが今の撫子は既に死んでいるらしい。無理にあの世に在住しなくても、たとえば生まれ変わるのも悪くないのでは?
しかし古今東西、生まれ変わることができるかははっきりしない。死んでそのままおしまいというならちょっと粘りたくなる。
死ぬか生きるかならともかく、死ぬか結婚するかの選択で悩むとはなぁ。撫子は歩きながらうなる。
撫子がそんなことを考えている内に、開かない扉の前に辿り着いた。
「運転車両かな?」
窓を開けて後ろをのぞいてみるが、どうやら貨物車両のようだった。一般車両からは入れないようにできている。
――貨物車両には近付かないようにしなさい。
オーナーが言ったことを思い出して、撫子は窓から体を引っ込めようとする。
「んっ?」
突然上に引っ張られて、撫子は反射的に窓枠に体を突っ張った。
「え、えええっ!?」
ところが上に引っ張る腕が増えて、撫子の足は床から離れた。
ばたばたと足を振ったが、一度離れてしまった地面は戻って来るはずもなく。撫子は有無を言わさず屋根の上に引っ張り上げられてしまった。
「来るんだ。あんた人間だろう」
「俺たちはあんたと同じ。仲間だ」
車両の上には男の人が三人ほどいた。彼らが言う通り、彼らはオーナーのようなアニマル的特徴を持っていない、普通の人間のようだった。
「貨物車両に来てくれ。話がある」
「い、いえ。貨物車両には近付かないように言われていて」
「あんた死にたいのか」
あれ、脅されてる? 撫子が喉を詰まらせると、男たちは撫子の脇を抱えて連れて行く。
「え、ちょっ、待っ!」
「どうやらあんたはまだ若いらしい。命の大事さがわかってないようだ」
屋根伝いに貨物車両に運ばれていって、天井に空いた穴から中に落とされた。
「いたた」
天井が低いのでまだよかったが、それでも尻もちをついたので多少痛い。
「これで人間は全員集めたか?」
「そのはずだ。後は動物だけだ」
貨物車両の中には十人ほどの人間がいた。男女の差はあるものの全員若い。二十歳から三十歳くらいの間の健康そうな人たちばかりだった。
撫子は不穏な空気を感じ取って、恐る恐る問いかける。
「あの……みなさん、どうして貨物車両に?」
「閉じ込められたんだよ」
撫子を連れてきた男の一人が悔しそうに言う。
「背中に羽が生えていたり、顔が牛でできてる化け物連中にな。奴らは俺たち人間を目の敵にしてる」
別の女の人もうなずいて続けてくる。
「私たち人間は貨物車両で動物は一般車両よ? 人間を恨んでるんじゃないかしら」
「……うん?」
撫子は一般車両の動物たちを思い出して間抜けな相槌を打つ。
彼らは最初、人間の撫子を不思議そうに見た。でもすぐに興味を失った。彼らの興味はこれからの旅行にあるように見えた。
禍々しい空気をまとっているのは、むしろここにいる人間だけのように思った。
「確かに猫耳の御方なんかは言ってること変わってましたけど。途中の駅で降りて結婚しようとか」
「馬鹿か。奴隷みたいにこき使われるに決まってるだろう」
撫子のつぶやきは一蹴された。肩をつかまれてかわいそうなものを見る目で見られる。
「奴らは変な術を使う。奥の連中を見てみろよ」
明かりの届かない貨物車両の奥の方には、壁にもたれかかっている数人の男女がいた。
彼らは手足を投げ出して、幸せそうに遠くをみつめている。中には小さく鼻歌を歌っている人もいた。
「列車に乗せられる前は元気だったんだ。けど家に帰してくれって少し騒いだら、霧みたいなものを浴びせられてこうなった。話しかけてもほとんど反応しやしない」
撫子は黙って頭を押さえる。
「死にたくないって渋るのは人間なら当然だろう? それを普通、廃人みたいにして列車に放り込むか?」
さきほどから、撫子はうなずくにうなずけなかった。
死にたくない。彼らの言っていることは普通のようで……彼らが放つものは黒い悪意のように思えてくる。
撫子の直感は当たってほしくなかったのに、彼らの一人が恐れていた言葉を告げる。
「逃げるぞ。この列車を脱線させて、その隙に脱出する」
思わず撫子は立って声を上げていた。
「だめです!」
「大丈夫だ。直前に運転車両に行く連中から合図がくる。大した速度で走っちゃいないから、せいぜい倒れるのは前の方の数両だけだろう。俺たちは壁にでもつかまってりゃいい」
「前の方の車両にだって大勢乗ってるんですよ!」
虫だけで数千体は乗っているはずだった。列車が倒れたらひとたまりもない。
「人間じゃないだろ。知ったことじゃない」
誰かの一言は、撫子の心の柔らかいところにさくっと刺さった。
「あと数刻で実行に移す」
撫子は血の気が引く音が聞こえた。
撫子は動物が好きな方だとは思うが、虫は苦手だし、いなくて困るほどじゃない。
生きていた頃だって、動物や虫が死ぬのはそこまで心痛めていなかった。普通の大勢の人間らしく、ちょっと悲しくなるくらいだった。
でも胸に走った激痛のままに、撫子はあさっての方向を指さして声を上げる。
「あっ! どろどろおばけ!」
撫子はあの世だとしゃれにならない嘘っぱちを叫ぶ。
「なっ!」
「ええい! 止めると蹴りますよ!」
一瞬彼らの目が逸れた隙に、撫子はおもいきって屋根に飛びついた。
傷つけたくないと願ったのは、遠足に行くようにはしゃいでいたネズミだったり、女子高生みたいな口調で話すゴキブリだったり……笑顔でシビアなことを言う猫耳のオーナーだったり。
とにかく撫子は人間にはあるまじき方に心の天秤が傾いて、しかも振り切れてしまった。
屋根が低いのは幸いすることだってある。撫子は貨物車両の屋根によじのぼると、一般車両の窓から中に入る。
一度息を大きく吸って、叫ぶ。
「脱線します! 何かにつかまって!」
大声で呼びかけながら、全力で前方車両へ向かって走る。
「窓を閉めて! 荷物置きから離れて!」
思いつく限りの注意を叫ぶ。左右に顔を向けながら駆ける。
どこの車両も動物や虫でいっぱいだ。撫子はそんな車両を十両は歩いてきた。あと何分で脱線するか考えただけで焦る。
自分がしていることは人間として間違っているのかもしれないと思った。けど、撫子の心が脱線はだめだと叫んだ。正しいかどうかは、今は横に置いておくことにした。
自分が何両目の車両に乗っていたかも忘れて、こんなに力いっぱい走ったことがあったかというくらい息を切らしていた、そんなとき。
「黙れ!」
「んぐ!」
突然後ろから羽交い絞めにされて、撫子は口を塞がれた。
息苦しさにあえぐ撫子に、後ろの男が冷えた声で言う。
「あんた、人間じゃないな」
そのまま力いっぱい首を締め付けられる。撫子は苦しさと恐怖に、意識が黒くぬりつぶされていく。
まだら模様に黒く染まる視界の中で、運転車両が透けて見えた。
「う……!」
今まさに後ろから殴りかかられそうとしている、運転手の姿。
それはしちゃいけないことだよ。撫子の心が弾けるように叫んだ。
「いいよ人間じゃなくたって!」
撫子は渾身の力を振り絞って男のみぞおちに肘鉄をくりだすと、男を突き飛ばして走る。
「運転手さん、後ろ!」
運転車両の扉を叩いて叫ぶ。振り返った牛頭の運転手は、いつの間にか運転室に入って来ていた男たちを見て目をぱちくりとした。
「おや、行き先の変更ですか?」
呑気な声を出す運転手を男の一人が壁に追いやって、もう一人が大きくハンドルを切った。
キキキキ……ッと列車の車輪が掠れる音が響く。
傾く車両。反転する視界。
撫子は遠心力で壁まで吹き飛ばされる。
……と、それだけでは済まなくて。
「うわぁぁぁっ!」
開いていた窓から体がすっぽ抜ける。
つかまるものを求めて指先が空を切った。体が落ちる直前の、頼りない浮遊感が撫子を包む。
「はぁ、はっ……!」
何とか車両の窓枠に手が引っ掛かって、撫子は車両にぶら下がる形になる。
左右に揺れていた運転車両の中から、黒い影が二つ飛び出てきたのはまもなくのことだった。
ぶらさがっているという非常事態でなければぎょっとしたに違いない。それは鳥頭で、背中に大きな黒い翼を生やしていた。
彼らは先ほど脱線させようとした男たちを軽く片手でつかんでいて、ゆるりと外に出る。
「やめろぉ! 離せぇ!」
列車はいつの間にか橋の上を走っていた。撫子は見るまいとしたが、ちらっと下方に川が見えた。澄んだ水面が遥か下でゆらいで、中にはクジラほどもある大きな魚が泳いでいた。
「乗車拒否をいたします」
鳥頭たちはぺこりと一礼すると、男たちを川に向かって落とす。
断末魔の悲鳴はすぐに遠ざかって行った。川はまるで彼らを吸い込むように音もなく受け入れて……波すら立てずに元の流れに戻った。
「昼飯どうする?」
「俺、ちょっと昼寝してから食堂行くわ」
鳥頭たちは車両にぶら下がっている撫子に気づくことなく、仕事は終わったとばかりに肩を回して車両の中に戻って行く。
列車は揺れる。撫子は手がしびれてきて、ぷるぷると震えだす。
「誰かー!」
自力では這い上がることはできそうもない。撫子は運転手辺りが気づいてくれることを祈りながら声を張り上げたが、返答はない。
電車は何事もなかったかのように運行している。窓から動物が落ちた様子もなく、騒動を起こした者だけを吐き出したかのようだった。
騒いだといえば撫子もまぎれもなくその一人なわけで。手の震えが全身に伝わった辺りで、撫子はその事実にも追い付かれた。
私、死ぬのかも。初めて実感を持ってそう思ったとき、誰かが撫子をのぞきこむ気配がした。
「貨物車両の人間と関わるからこうなるんですよ。あそこは自分の死を認められない連中を入れておくところなんですから」
ふいに列車の上から声が聞こえた。
「ここはすべての生き物を安全に死まで運ぶ電車なんです。安全に行こうとしないなら……わかりますよね?」
首の後ろで縛った白髪が風になびいている。緑の猫目が皮肉げに細められていた。
オーナーと、撫子は口の中でつぶやく。
「人間の一人や二人で、死の列車は止められませんよ。くだらない企みに乗せられましたね」
動物たちが誰も落ちなかった結果が、何よりオーナーの言葉を証明しているようだった。
自分だけで脱線を止めようと焦って列車を走り回った撫子は、この列車をよく知る者からしてみれば空回りに見えたに違いない。
「さあ、私の求婚を受け入れなさい。下の川は死への最短距離です。死にたくはないでしょう?」
でも、この脅迫にうんって言うのも違う。
撫子はずっとひっかかっていた。どうして脅されなければいけないのかと。
「『はい』の一言でいいんです」
オーナーの笑顔が少しひきつった。
「早く」
撫子は電車の脱線には反対したが、人間のプライドまで放り投げたつもりではなかった。
「あ」
そういう難しいことを考えるにも、時間切れだった。選ぶよりも先に手の力の方が尽きた。
撫子の手は窓枠からあっさりと離れて、体が宙に投げ出される。
「ちっ!」
オーナーは優雅な笑顔からは不似合いな舌打ちをして、屋根の上から体を乗り出す。
彼は撫子の手をつかむと、その細身の体からは信じられない力で引き上げた。
目が回ったのは一瞬。次の瞬間には、撫子は屋根の上でオーナーの腕の中にしっかりと収まっていた。
「……どうも」
惜しみない拍手を送るには手がしびれきっていたので、撫子はあまり力の入らないお礼を告げた。
「なぜ死にたいんです? それほど私と婚姻を成すのが嫌ですか」
オーナーは口の端を下げて猫の耳を伏せる。
初めてオーナーが笑顔以外の表情を見せたことに、撫子は不意をつかれた。
温かい腕に包まれて体が自然と安心する。脱線と聞いてからずっと緊張しっぱなしだったから、この世界が暖かいのか寒いのかもわからないままだった。
「な、撫子?」
撫子はじわっと目がにじんで、涙をあふれさせる。
「どうしたんです。泣くようなこと」
「脅迫ばかりやめてください!」
撫子は泣きながら、わがままを言うように怒る。
「死んだなんてまだ全然実感わかないのに。オーナーも貨物車両の人たちも、死にたくないなら従えって。怖いし、でも私だって奴隷じゃない」
しゃくりあげて、撫子はきっとにらみつける。
「答えろって言うなら答えてやりましょうか! 『やだ!』 結婚しません。絶対にやだ! オーナーの言ってること、あの人たちとおんなじでしょ!」
後は言葉にならなかった。子どものように泣きじゃくる。
いっそ助けてくれなければよかった。貨物車両の人たちのように、撫子を馬鹿にして、従わないなら暴力を振るう。生きていた頃のことはあまり覚えていないが、そういう人たちにはたくさん会った気がする。
撫子はそういう人たちを相手にするのも慣れていたと思う。低体温でやりすごすだけで、簡単だった。
でもオーナーは撫子に手を差し伸べて、その手が温かいものだったから……本当は撫子が熱い性格だということを、思い出してしまった。
ふいにぎゅっと抱きしめられて、撫子は喉をつまらせる。
見知らぬ人に包まれているのに、体が安心しようとしている。撫子はそれに気づいて、何か得体の知れないところに来てしまった心地がした。
「怖がらせてしまいましたか。早く途中下車させようと急ぎすぎました。私のせいです」
「は、離してください。ち、違います。怖くなんかないですってば……!」
「撫子、愛しています」
撫子は耳を疑う。収拾のつかない気持ちの束に振り回されているせいで、耳まで変になったのかと思った。
思わずオーナーを見上げると、彼はまぶしいものを見るように撫子をみつめていた。
「本当です。でもきっと今はまだ信じてもらえないでしょうから、私に少し時間をくれますか」
「時間?」
「そろそろ速度が落ちてきましたね。あちらに駅が見えますか?」
撫子は首をめぐらせて目を見張る。
暗闇の中に浮かぶレトロな駅舎、そこから銀色のアーケードが続いている。
「……え」
撫子はその先にお城を見た。
生きていた頃、洋館というものに入った経験くらいある。歴史の写真で、海外の名だたる宮殿だって見た。
でもその建物は撫子の思う、理想のお城だった。優雅な白い猫のようなすらっとした形で、白亜の壁と窓枠にはめこまれた緑の色石が鮮やかだった。
「あちらは私の仕事場。駅直結、思い立ったらいつでも電車に乗れます」
オーナーもそちらを見て、また撫子に目を戻した。
「撫子、あそこで休暇を過ごしてみませんか? その暮らしが気に入ったなら、私の求婚を受け入れてください」
撫子は生前に住んだ数々のぼろアパートを思い出していた。
どこも住めば都と自分に言い聞かせてそれなりに満足して暮らしていた。けれど一度でいいからお城みたいな所に住んでみたいと願っていた。
撫子はつい夢みたいなことを考えて……ぶんぶんと首を横に振る。
「やめてくださいって! 欲に目がくらんだらどうするんですか。そんな奥さん欲しくないでしょ?」
「欲しいと言ったら?」
速度はだいぶ落ちてきていて、ついに列車が停車する。オーナーは撫子を抱えたままひらりと屋根から飛び降りる。
一瞬、撫子の額にオーナーの唇が触れた。じんわりとそこが温かくなって、撫子は慌てる。
「な、なにしてんですか!」
「今、うなずきかけたでしょう」
オーナーはくすくす笑って、撫子をそっと地面に下してくれる。
「隙だらけです。お馬鹿さん」
オーナーは撫子の手を取って歩き出す。
撫子はオーナーの完璧な笑顔を見て、手を振り払うきっかけをなくしてしまった。
「いやいやその。うなずいてないですよ」
どうにも頼りない言い訳をしながら、改札まで連れて来られる。
改札の車掌はオーナーの顔を見ると笑顔で道を開けた。ついで撫子の額を見て訳知り顔でうなずいて通してくれる。
「次電車に乗るのは、新婚旅行のときにしましょうね」
駅直結は嘘ではなかった。アーケードを渡って一息もつかない内に、扉の前に来ていた。
色とりどりの色石が埋め込まれた扉に撫子がちょっとみとれると、オーナーが軽くノックをする。
音を立てることもなく、扉は内から開き始めた。
「ようこそ、キャット・ステーション・ホテルへ」
猫の耳を持つ双子らしい少年二人が、そっくりの声で撫子を出迎えた。
淡い光に照らし出されて、吹き抜けの空間が広がっていた。
白い大理石と黒曜石がダイヤ模様を描く床に、ぶどう色のじゅうたんが敷かれている。壁際にはランタンの形をした小さな明かりがかけられて、中央の水晶のシャンデリアを取り囲む花びらのようだった。
ぽけっとみとれた撫子は、かなり間抜けな顔をしていたに違いない。
「ごめんなさい」
借金取りから両親と共に逃げ回りながら泊まったホテルとは違う品格に、思わず謝ってしまった撫子だった。
「どうしました、撫子」
「どうぞお構いなく」
どさくさにまぎれて引き返そうとした撫子の手を、オーナーがしっかりとつかみ直す。
「施設の案内はおいおいに。今日は疲れたでしょう? 部屋でゆっくり休みなさい」
「いえ、帰してください」
「あれは終電ですよ。あきらめなさい」
撫子はそろそろ抵抗することができなくなっていた。
見知らぬ人にホテルに連れ込まれるのは危ないと思うのだが、オーナーの言う通り、車両を端から端まで全力疾走したり窓枠にぶらさがったりして体が限界だ。正直、逃げようにも足が棒のようで一歩も走れない。
「おかえりなさいませ、オーナー」
猫耳の少年二人が、声変わり前の少し高い声でオーナーを迎える。オーナーは二人に問いかける。
「留守中、変わりはありませんでしたか」
「はい」
オーナーはその答えにうなずく。
「では、チャーリー。彼女のベルボーイをあなたに一任します」
背の高い方の少年の耳がぴくりと動いた。
「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」
二人は揃って胸に手を当てて、綺麗な礼をしてみせた。
オーナーは軽く撫子を引く。撫子は諦めの心境で言った。
「わかりました。いいです。もう逃げる体力ありません……」
「それは結構」
「ちょ!」
オーナーはほほえんであっさり撫子を抱き上げると、そのままロビーを横切った。
壁の前でオーナーが立ち止まってスイッチを押すと、目の前の石造りの壁が横に開いた。
「へ?」
「何を驚いているんです」
「だ、だってこれ。今勝手に動きましたよ」
チンっていう、レンジみたいな音もした。これはたぶんとあれだと、撫子はまじまじとみつめる。
「エレベーターですよ。よくあるでしょう?」
「あの世にもあるんですね」
撫子は新鮮な驚きを感じながら問いかける。
「電気通ってるんですか?」
「さて、さきほど私たちが乗って来たのは何でしょう」
言われてみればそうだ。撫子は電車に乗って来たのだった。
「正確にはあなたの知っているようなエネルギーで動いてはいませんが、それもまたおいおいに」
「あ、はい。それで結構です。ですから下りて歩きます」
撫子はうなずいて、多少気に入らなさそうなオーナーの腕から降りて自分でエレベーターに乗り込む。
静かに上昇していくのを点灯した番号で確認しながら見ていると、五階まであっという間に辿り着く。
「ええっ?」
今度は真横に引っ張られて、撫子は足踏みをした。
「横にも進むとは」
「よくあるでしょう?」
「そうでしたっけ?」
ちょっと常識がわからなくなったところでまた上昇し始めて、やがて止まる。
エレベーターから降りて、オーナーが先に立って歩き始める。まもなくオーナーは一つの部屋の前で立ち止まった。
「ここがあなたの部屋です」
彼はスーツの上ポケットからプレートを取り出して扉につりさげる。
「元動物のお客様なら匂いでわかるようになっているのですが、あなたでは感じ取れないでしょう。この花のプレートを目印になさい」
花びらの先がぎざぎざになっている、ちょっと珍しい形の小さな花。撫子は思い出して声を上げた。
「なでしこの花ですね」
撫子の声と同時にオーナーは扉を開いた。
花の上に白猫が寝そべった形のシャンデリアに照らされて、撫子はその部屋に立ち入った。
廊下を抜けるとリビングと和室があって、キッチンまでついている。一つ一つが撫子の今まで住んだことのあるアパートとはことごとく広さも高級感も違う。
「ふわぁぁ」
「どこか変な所でもありましたか」
「いや、だってまるでここ高級マンション」
「当ホテルは自他ともに認める一流ホテルです」
オーナーはしれっとした顔で撫子を見下ろしながら言う。
「お客様に最高の休暇を。それが当ホテルの信条ですから」
休暇と撫子が繰り返すと、オーナーはうなずく。
「ここは死の終着駅に着く前に、疲れた魂を休ませる保養地なのです。それも、人の姿を取って休暇を過ごされるお客様のためのホテルです」
「魂の保養地ですか」
何ともあの世には粋な場所があるものだ。撫子は感心して息をついた。
オーナーは撫子の手に分厚いファイルを渡して告げた。
「このファイルにホテルの施設について載せてあります。生活するための備品は一通り揃っているはずですが、何か足りないものや訊きたいことがあれば」
オーナーは机の上に置いてあるしゃれた陶器の鈴を示す。
「この鈴を鳴らしなさい。チャーリーが呼べます」
ではと踵を返して、彼は部屋を出て行こうとする。
一瞬撫子は立ち竦んだが、すぐにオーナーに飛びつく。
「あ、あの!」
撫子は思わずオーナーの白い尻尾をむぎゅっとつかんでいた。
「つかまずとも聞こえます」
笑顔のまま口の端をひきつらせて振り返ったオーナーに、撫子はばつが悪そうにつぶやく。
「はみ出てたもので」
つかみやすかったんです、そこ。
オーナーはぴくりと耳を動かして、不気味なほど笑みを深めた。
「ここは大事な体の一部ですが」
「すみません! アイデンティティーでした!」
耳と同じで人格に触れてはまずい。撫子が焦っていると、オーナーはまあそれでと言葉を続けた。
「何ですか?」
「いえ、肝心なことを教えて頂いていないと思って」
撫子はオーナーを見上げながら問う。
「私はここで何をすればいいんですか?」
オーナーはその言葉に穏やかにほほえんだ。
彼は猫目を細めて屈みこむ。
「何もしなくてもよいですし、思いつく限りのあらゆることをしてもよいです」
撫子の顔の前に指を一本立てて、彼は静かに告げた。
「長期休暇を与えられたと思って、あなたのしたいようになさい」
長期休暇。
その言葉は馴染みがあるような、全く未知のものであるような、不思議な響きがした。
足音も立てずに去っていくオーナーの背中を、撫子はぼんやりと見送った。
さて、お休みを与えられたらあなたはどんなことをしますか?
借金大魔王の両親を持つ十八歳女子の、普通かはわかりませんが一例をご紹介しましょう。
まず、寝る。
「むにゃむにゃ」
キングサイズのダブルベッドでひたすら惰眠をむさぼる。
時計もないしカレンダーもない。起こす人がいないと自制心も働かない。
しかもいくらでも眠れる。起きたら起きたでベッドの上をごろごろ転がっている内にまた眠っている。
毛布はふかふか、枕の肌触りも抜群。撫子はこれまでせんべい布団か安ホテルの二人部屋の予備ベッドでしか眠ったことがないから、この柔らかさには言葉もなかった。
不思議なことにお腹も空かなかった。時間感覚が麻痺していて正確なことはわからないが、たぶん一週間は眠っていた気がする。
「寝すぎた!」
さすがに一週間はやりすぎたと思って、撫子は跳ね起きた。
そうなると次は人間の三大欲求の内の一つ。
「食べるもの」
性欲と言うと照れるくらいには乙女だと主張したいので、食欲が優先だ。
撫子はむくりと起き上がって、キッチンの方に向かった。
「おお。冷蔵庫にコンロにオーブンまで」
文明の利器にあふれているキッチンに満足しつつ冷蔵庫を開けると、そこには様々な生鮮食品が詰まっていた。野菜に肉に飲み物、それも今日用意されたかのようにどれも新鮮だった。
キッチンにはどんな料理にも対応できるように台所用品がずらりと並んでいる。
「これ、何に使うんだろ?」
通信販売でしか見ないようなマニアックな便利グッズまで置いてあって、撫子は首をひねった。
料理は得意だ。意気込んで腕まくりをしたところで、不安がよぎる。
「代金は大事な問題だ」
冷蔵庫の中のものを消費すると、後でフロントにて支払いを要求されてしまう。
料金表が見当たらなかったので、撫子はベッドルームの電話でフロントに訊いてみることにした。
ホテルマニュアルを開いてフロントの番号を調べていたら、電話がかかってきた。
「お困りですか? こちらフロントです」
えっ、ちょっと親切すぎない?
思わず受話器を取ってしまってから慌てた撫子だった。
「こ、この電話って有料ですか」
「いいえ、無料でございます」
「よかった! 自動で加算されるシステムかと」
そういう悪質なホテルに泊まったこともあった。受話器を持ったまま撫子は脱力して、ベッドの脇に膝をついた。
「どうされましたか?」
お医者さん的に訊いてくるお姉さんの声に、撫子は頬をかいて訊ねる。
「あ、あの。冷蔵庫の食料の料金表が見当たらなくて」
「無料でございますよ」
撫子が驚く顔を知ってか知らずか、お姉さんはおっとりと答えた。
「当ホテルの備品は何をどれだけ使われても無料です」
「それじゃ採算合わないんじゃ」
「そもそも当ホテルは滞在にあたってお客様から費用を請求いたしません」
「人件費とか材料費とか維持費とか!」
撫子が焦ってもどうしようもないが、お姉さんはあくまで落ち着いていた。
「死出の世界ではこれが普通なのです」
常識が私の知っている世界と違う。
撫子は黙って遠い目をした。お姉さんは優しく続ける。
「ところで、お食事でしたら下のレストランで召し上がるのはいかがですか? 降りていらっしゃる間にご用意いたします」
「しつこいようですが、それも無料なんですよね」
「もちろんでございます。何か希望のものや苦手なものはありますか?」
撫子は受話器を持って少し首を傾げて、すぐに悩む必要なんてなかったと気づく。
「それではぜひ。何でもおいしく食べられる体質です。……あ」
撫子は来た時と変わらないTシャツとデニムスカートを見下ろして、小さく息をつく。
「ちょっとお風呂に入ってから行きますので、遅れるかもしれません」
お姉さんは最初に通話に出たときから変わらない、実におだやかな声で締めくくった。
「はい、どうぞごゆっくり。レストラン「ハバナ」でお待ちしております」
撫子は受話器を置いて、バスルームに向かうことにした。
洗面所にはぴかぴかに磨き上げられた鏡があった。撫子はそこに、実に血色のいい自分をみつける。
男の子みたいに短い黒髪とぱっつんの前髪、日焼けした手足。背は女の子としては高い方だったと思い出す。死出の世界に来てからますます健康に磨きがかかって、いつもほっこり頬が赤い。
「美人には今更なれないけど、身だしなみはきちんとしないとね」
洗面所から扉を開けて、お風呂の中に入る。
そこはお椀をひっくり返したような大きな円型のお風呂だった。五人は体を伸ばして入れそうな広さがあって、横には香り玉のようなものが揃えてある。
撫子はお湯を張りながら、試しに白い玉を一つ放り込んでみた。着替えを探すために一旦バスルームから出る。
「浴衣でもないかな。お、何だこれ」
何気なくベッドルームの隅にあるクローゼットを開けると、そこには女性物の服がずらりと詰め込まれていた。
「これはちまたで話題のパーティードレス」
ひやっと背中が寒くなった。
レストランと言うのは相当格式が高いのかもしれない。ジーンズでは行けないと思ったが、ドレスなんて着るのはとても勇気が足らない。
仕方なくおとなしめのスカートとカッターにカーディガンを合わせることにした。それ以外のベッドに広げた服たちをもう一度クローゼットに詰めて、バスルームに戻る。
湯船には白い湯気の中に無数の泡が湧きあがっていた。
撫子はしばし無言でぷるぷると震えると、服を脱ぎ捨ててバスタブに飛び込む。
「うわぁい! ぶくぶくだぁ!」
君はいくつの子だねと笑われても構わない。
撫子は憧れの泡風呂に笑み崩れて、ばしゃばしゃとはしゃいで満喫した。
このまま一日中浸かっていてもいいと思ったくらいだったが、食事に行くと言った手前仕方なくほどほどのところで上がる。
用意した服に着替えて、鍵を持ってエレベーターに乗り込んだ。
ホテルマニュアルによると、レストラン「ハバナ」は二階の奥にあるらしい。
「いらっしゃいませ」
レストランではやはり猫の耳を持つ長身の老紳士が出迎えてくれた。
「撫子様ですね。こちらへどうぞ」
格式が高いかもと緊張していたが、ウェイターの柔らかい物腰に少し落ち着いた。
そしてこれが大事なことだが、彼のふさふさの尻尾があまりに見事なので席に着くまで周りなど全く見ていなかった。
「尻尾が気になりますか?」
「うわ、ごめんなさい! じろじろ見て」
ふいに振り返られたので撫子が慌てて謝ると、彼はにっこりとほほえむ。
「とんでもない。私はペルシャ猫ですから、この尻尾は自慢なのです」
「さ、触っても」
「ええ、どうぞ」
撫子は猫ウェイターの尻尾をそうっと撫でてみる。
最初は恐る恐るだったが、そのシルクのような手触りについ夢中でなでなでしてしまう。
「ふわぁぁ」
「喜んで頂けると嬉しいです」
彼にとってのアイデンティティーなのだろうか。撫子ははっと手を離す。
「でも猫の方は尻尾を触られると嫌なんですよね」
「ああ、オーナーの尻尾を触ってしまわれましたか」
このホテルの従業員さん、たぶん心が読める。撫子がびっくりしていると、彼はゆるりと笑って答える。
「オーナーはまだお若いですから。でも撫子様に触られることは嫌ではないはずですから、そっと触って差し上げてください」
「は、はぁ」
なぜか声をひそめて言われるので、いけないことを話しているような気分になった撫子だった。
まもなく白いテーブルに案内された。壁と床が灰色なので浮かび上がるような白さで、テーブルの上のキャンドルがほんのりと灯りを添える。
「今日は和風の料理にいたしました」
猫ウェイターが目の前に並べた料理に、撫子は目を輝かせる。
目を喜ばせている時間ももったいなくて、ごくりと息を呑んで箸を取った。
とろけるような刺身に香り立つ土瓶蒸し、一粒一粒立っているご飯に鯛、どこか懐かしい味わいの煮物、色とりどりの野菜の蒸し物、ちょうどいい苦味のお茶など、エトセトラ。
「ウェイターさん。試しに私のほっぺたを力いっぱい引っ張ってもらえませんか」
わなわなと震えている撫子に、先ほどの猫ウェイターは紳士的に首を横に振る。
「女性にそのようなことはできません」
撫子は自分で頬を引っ張った。
普通に痛かったから、痛覚は生きているらしい。
「そういえば、ここにある私の体は何なんでしょう?」
「ええ、不思議に思われるでしょうね」
三杯目のおかわりをした後、撫子はようやく知的好奇心が湧いてきて訊ねた。ウェイターは嫌な顔もせず応じてくれる。
「撫子様の体は魂が形を持ったものです。魂が消えて本当の死ですから、撫子様が今見ている体は撫子様のイメージですが、一応存在してはいますよ」
「だから生ごみ」
オーナーのたとえは表現としてはシビアだが、まあ合っている。もう生きるための体としては役目を終えているが、消えてはいないということだ。
「ウェイターさんもその姿は生前のイメージということですか?」
「いいえ。私は死出の世界出身です」
また不思議な存在だ。死の世界で生まれるというのはそもそも生きているのだろうか。
撫子は腕組みをして考えたが、ほっこりお腹が満たされた状態で生命のメカニズムを真剣に考えるつもりはなかった。
「ま、いっか。現にいるんだし」
あっさり考えを切り上げて、撫子はうなずく。
「どれもおいしくてほっぺたが落ちそうです」
「ありがとうございます。ではそろそろデザートはいかがですか?」
「もちろんいただきます」
それよりすばらしい食事を胃に収められる幸せを感じる方が、よほど有意義だと思った。
撫子はきっとおいしいであろうデザートをわくわくしながら待っていた。
デザートを待つ間、撫子が周りを見てみるとアニマル的特徴を持った人型のお客さんがあちこちにいた。虫の触角や鳥の羽根、角や尻尾を持っていたり、ほとんど全身動物だが二足歩行の体を持っていたり様々だ。
みんなそれぞれのウェイターや他の動物と談笑して楽しそうだ。時間を気にせずくつろぐ様子はまさに理想的な温泉宿の景色のようで、見ている撫子もほんわかした気分になった。
「不味い」
ふいに斜め後ろの席で声が上がったときも、撫子は聞き間違いだと思った。
「このホテルは客にこんなものを食わせるのか」
剣呑な調子に撫子が思わず振り返ると、そこにはむっつりと顔をしかめた少年が座っていた。
年は十二、三歳といったところだろうか。大きな赤い目をしていて、真っ白で柔らかそうな髪が肩まで伸びており、なかなかかわいい子だ。
「支配人を呼べ」
その頭にはぴょこんとしたウサギの白い耳。和んでしまったが、少年の言葉に撫子は首を傾げる。
ウェイターが一礼して下がると、入れ違いにオーナーがやって来る。
「どうなさいました、お客様」
「部屋が汚い。席が気にいらない。食事が不味い」
ウサギ耳の少年はつらつらと苦情を並べて、オーナーをにらみつける。それに、オーナーは丁寧に頭を下げた。
「失礼いたしました。すぐに対処いたします」
静かに顔を上げようとしたオーナーに向かって、少年は一歩近づく。
はっと撫子は息を呑む。
「お前も気にいらない。おれ、お前嫌いだ」
少年はオーナーの顔に向かってコップの水をぶちまけた。
「ちょっと、君」
撫子の中で熱い感情が目覚めて席を立つ。
「このホテルはどこからどう見ても綺麗だし、どこの席も広々としてていい席だし、食事だってここ以上のところなんてみつからないくらいおいしいよ」
少年は誰かに文句を言われたのが意外だったのか、きょとんとして撫子の顔を見た。
けれどすぐに顔をしかめて口をとがらせる。
「気にいらないったら気にいらないんだ」
「それじゃ駄目だよ。せめてどう直してほしいのかきちんと説明しなきゃ。そうじゃないとただの文句になるよ」
それにと、撫子はウサギ少年の前に屈みこんで指を立てる。
「嫌いなんて失礼だ。オーナーに謝りなさい」
少年はかっと顔を赤くして飛び退く。
少年は逃げるように出て行ってしまった。
撫子は電車が通った後のような突風に髪を揺らされて、慌ててオーナーに振り向く。
「オーナー、大丈夫ですか!」
白い髪から水を滴らせながら、オーナーは眉を寄せて撫子を見た。
「余計なことをしないように。お客様のどんな要望でもお応えするのがこのホテルのポリシーなんですから」
「でもあの子のあれは要望ではありませんでしたよ」
「説明を求めるようでは支配人失格です」
オーナーはハンカチを取り出して顔を拭きながら言う。
「お客様の中には生前に不満をためてここにおいでになる方もいらっしゃるんです。そのような思いもすべて受け止めるのが私の役目です」
「……プロですね」
撫子は気圧されて黙った。
オーナーを見る目が変わった。生前アルバイトならたくさんしてきたが、オーナーほどの覚悟で働いてはいなかった。
撫子は手を顎に当ててうなると、大人しく頭を下げることにした。
「よく知らずに勝手なことをしてすみませんでした。私が悪かったです」
「わかればよろしい」
「だから私をあの子の苦情処理担当にさせてください」
「撫子?」
顔を上げながら、撫子はオーナーの猫目を見返す。
「タダ飯食らいでは居心地が悪いので働きます。もう十分休みましたし」
一週間は寝たし、三食分くらい一気に食べた。
恩返しというと聞こえがいいが、心の整理として何か返したいと思った。
「私が言ったことを忘れましたか。あなたは無為に過ごしていればそれでよいのです」
「私が良くないです」
撫子は生前をちらっと思い出して頬をかく。
「生きている間はバイト三昧だったので無為に過ごすのは罪悪感で死にそう……いや、もう死んでますけど苦痛です」
死にそうなんて言葉、生きている間にそう簡単に使うものじゃなかったな。撫子は反省して、オーナーに目を戻す。
「それにあの子、なんだかほっとけなくて」
「どうしてそう思うんです」
「本当に悪い人は、とりあえずは良い顔をするでしょう? そういう人は生きている間にいっぱい会ったんです」
人生経験は十八年とはいえ、両親に関わる人間には実にいろんな人がいた。
「まあ、あと」
オーナーが水を被るくらいなら、自分が被った方がましだと思った。
「何です?」
「いえ、それだけです」
正直に言うと何だかオーナーのことが好きみたいじゃないか。撫子は慌てて言葉を濁した。
「バイトがしたいんです。私の休暇の過ごし方として認めてもらえませんか?」
自分の好きなことをすればいいのにと、友達に言われたことがある。
けど両親は借金で苦しそうで、少しでも生活を楽にしてあげたかった。そういうと自己犠牲のように聞こえるかもしれないが、結局は自分自身のためにしていたことだ。
ただ、両親と一緒にいたかったから。今は……もうちょっとくらい、ここにいてもいいと思っているから。
「まだ行くつもりはありませんし」
撫子がそう言うと、オーナーは猫目を細めた。
「私は役に立つ妻が欲しいわけではありませんよ」
一拍思案して、彼は言う。
「好きになさい。あなたの休暇ですから」
「あ、ありがとうございます!」
「ただし」
オーナーは撫子の肩に手を置いて、耳に口を寄せる。
「浮気は許しませんよ」
とっさに何も言えなかった撫子に、オーナーは続ける。
「先ほどのお客様はフィン様。詳しくはチャーリーに訊きなさい」
ひらりと尻尾を振って去っていくオーナーを見送り、撫子はウサギ相手にどうやって浮気すればいいのか考えていた。
食事を終えた後、撫子はベルボーイのチャーリーを探すために玄関まで降りてきた。
「あ、いたいた。チャーリー君」
十五歳くらいの猫耳少年をみつけて声をかけると、彼は無表情で振り返って言う。
「僕は弟のヒューイです」
「あ、ごめん。チャーリー君知らない?」
「今お客様の荷物をお届けするために上階に行っております」
「そっか。お仕事中か。また後で来るよ」
撫子が出直そうと思って踵を返すと、ヒューイに呼びとめられる。
「撫子様はいつでも鈴で呼べるのですから、部屋からお呼びになればよろしいでしょう」
撫子は足を止めて首を傾げる。
「でも手間だし悪いよ」
「僕ら従業員はどの部屋に行くにも一瞬です」
「瞬間移動だって?」
あの世の物理法則はどうなっているのだろう。
そういえば確かに、さっき支配人を呼べと言われた後一瞬でオーナーが来ていた。
「それって私も練習したらできるようになる?」
「従業員名簿に入ればできますが、撫子様は死出の世界の出身ではないので不可能です」
ここの従業員はほとんど死出の世界の住人らしい。残念だが、あの世の世界の特殊能力なら仕方ない。
「ベルボーイを任された以上チャーリーはすぐに参上いたしますので、鈴でお呼びください」
話はこれでおしまいとばかりに、ヒューイはドアの数歩横に立って待機態勢に入る。
「うん、ありがとう。参考になったよ」
職務に忠実な少年のようだ。お礼を言って、撫子は部屋に戻ることにした。
エレベーターに乗ってなでしこのプレートが下がった自室に帰ってくると、リビングに置いてある陶器の鈴を手に取る。
さて、どこで鳴らしたら聞こえるのだろう。電話口ででも鳴らせばいいのだろうか。
でもそうしたらフロントのお姉さんに電話をかけるのと変わらないのでは? 使い方もちゃんと聞いておけばよかったと後悔する。
チリン。
一旦置こうとしたら、鈴が小さな音を立てる。
その途端、撫子は目の前の空気がぶれるのを感じた。
「御用ですねっ!」
声変わり前の少年の声がいきなり割り込んでくる。
「初めまして、撫子様。お呼びがかかるのを今か今かとお待ちしておりましたよ!」
目の前には少し青みがかった毛色の猫耳を持つ、グレーの瞳の少年が立っていた。
「チャーリー君?」
「はい、何でも言ってください!」
撫子は一瞬詰まった息を取り戻そうと、そうっと息を吸う。
「まずは一歩離れて、ちょっと深呼吸してもらえないかな?」
腹筋が耐えられそうにない。きらきらと目を輝かせる少年は、撫子がのけ反るくらい近くに詰め寄っていた。
「失礼しました! つい興奮して」
チャーリーはぴょんと後ろに飛び退いて深呼吸した。上気した顔に照れたような笑顔が浮かんでいるのがかわいらしい。
「よく来てくれたね。本当に一瞬で現れたからびっくりしたよ」
お礼を言うと、チャーリーはいえいえと首を横に振る。
「僕はこのベルボーイが大好きなんですよ。いっぱい構ってもらえるでしょう?」
先ほど同じ顔を見てきただけにギャップが大きすぎる。
チャーリーは嬉々として撫子にたずねる。
「それで何をいたしましょう。料理ですか、お風呂ですか、それとも添い寝ですか?」
「このホテルのサービスについての疑問は置いといて」
サービスとしての領域をぶっちぎってしまっているものが混じっているが、そこを追及しても始まらない。
「私、フィン様というお客様の苦情処理をすることになったんだ。君に事情を訊けば教えてもらえるって、オーナーに言われた」
「ああ、七○一号室のフィン様ですか。僕がベルボーイを担当しているので何度かお会いしましたよ」
うなずくチャーリーに、撫子は言葉を続ける。
「どんなお客様?」
「そうですねぇ」
チャーリーは指を顎に当てて考える。
「なかなか構ってくださらないお客様ですね。撫子様みたいに」
「いや、私は呼ぶ用がなかったから」
なにせ来てからほとんどずっと寝ていた。それに生きていた頃に泊まったホテルにベルボーイなどというものはなかったから、用途もわからなかった。
「でもお呼びになる時にはもうギリギリの時が多くて」
「ギリギリ?」
「僕はお仕事をたくさんすることが好きなんですけどね。とってもお仕事を増やされるお客様なんです」
撫子が首を傾げた時、ぴくっとチャーリーのブルーグレーの耳が動いて後ろを向いた。
「すみません。そのフィン様からお呼びです」
「ああ、行ってきて。私もすぐ行く」
「では」
言うが早いか、次の瞬間にはチャーリーの姿は跡形もなく消え去っていた。某小説のチャシャ猫のようなじわり感もなく、見事な消え方だ。
撫子も部屋を出てエレベーターに乗り、七階に向かう。
降りてすぐの部屋が七○一号室だった。軽くノックをしたが反応がない。
試しにノブを回したら、鍵は開いていた。
「お邪魔します……うわっ!」
扉を開いてすぐ、部屋の惨状に驚いた。
辺り一面水浸しだった。絨毯は完全に水没していて、腰の辺りまで水が来ている。
「うわぁぁ……って、ん?」
押し流されると目をつぶったが、衝撃はなかった。そろそろと目を開くと、不思議なことに水は扉から外に出て行かずに止まっていた。
「やっぱり物理法則が違う……」
とりあえずこれ以上被害が及ばないように水源を止めなければと、撫子はお風呂場に当たりをつけて水をかきわけながら進んでいく。
部屋の作りは撫子の部屋とあまり変わりなかった。ただ、あちこち散らかっていて同じ部屋とは思えない。枕やボールペンがぷかぷか浮いていたり、机の引き出しが全部開いていて中がかき回された跡があったりする。
「あ、チャーリー君」
「水はもう止まっていますから大丈夫ですよ。さっき栓を開きましたからじきに流れ出るはずです」
お風呂場でチャーリーが水の処理をしていた。
床のあちこちを押すとそこが穴になって、下に水が抜ける仕組みになっているようだ。
「私、下の階見てこようか? 水が染み出てるかもしれない」
「それは大丈夫です。このホテルの部屋は個々で独立していますから、他に影響を及ぼすなんてありえません」
撫子は先ほど戸口で水が止まっていたのを思い出して神妙にうなずく。
「安全第一ですばらしい。ところでフィン様は?」
言ってから、お風呂場のカーテンの向こうにウサギの耳が透けて見えていることに気付いた。
カーテンを横に引くと、湯船のへりにしがみついているフィンの姿をみつける。
「水嫌い……水怖い……」
彼はふるふると震えながら縮こまっていた。その手には鈴があって、命綱のように固く握りしめて離さない。
撫子はかわいそうになってきて、チャーリーを振り向く。
「とりあえずフィン様を安全なところに」
「そうですね。気が回らずすみません」
チャーリーはうなずいて湯船に近付くと、フィンを抱き上げた。
お姫様だっこでベッドの上に連れて行くと、チャーリーは彼を下ろしてにっこりと笑う。
「さあフィン様。お休みになってはいかがでしょう? 僕が添い寝しますから」
どうやら彼のサービスはそれがスタンダードらしい。フィンはしばらく口も利けないでいるようだったが、やがてぽつりと言葉を零す。
「おれはそんな子どもじゃない」
「失礼いたしました」
丁寧に礼をするチャーリーはほのぼのした目をしている。まあまだ十ちょっとの男の子がわがままを言っているようで、かわいいなぁと思ってしまう。
しかし撫子の中にある使命感が、つい厳しい言葉を口にさせた。
「水がお嫌いならどうしてこんなになるまで水を流していらっしゃったんですか?」
ホテルの安全を考えて、質問を決行する。
「丸いものを触ったら水が勝手に出た。流すつもりでやったんじゃない」
ぶすっとして言うフィンに首を傾げると、チャーリーが説明するように口を挟む。
「動物のお客様はホテルの備品の使い方がわからない方がほとんどなんですよ。蛇口も動物だった頃には触ったことがありません。ですからほとんど付きっきりで従業員が生活のお世話をするんです」
チャーリーはベッドの脇に膝をついてフィンと目線を合わせる。
「フィン様も、御用があれば遠慮なくお呼びになってください。わからなくて当然のことなんですから」
優しく諭すチャーリーに、フィンは拗ねたようにそっぽを向いたまま視線を合わせようとしない。
「フィン様。少々よろしいですか」
撫子はその図に思うところがあったので、横に膝をついて意見を言った。
「このホテルの場合は水が外に流れ出ないという特殊な空間だからいいんですが、普通は水を流しっぱなしにしたら周りにすさまじい迷惑です。そうなる前に、早目にわからないことは聞いて頂きたい」
「お前は何なんだ? 客ならおれの休暇の邪魔をするな」
「私は客ではありません。このホテルの縁者で」
少し考えて、撫子はフィンの前に回り込みながら言う。
「フィン様のお世話を申しつけられました。フィン様が無事ホテル生活に馴染めるまで、お側で使ってください」
「撫子様。ベルボーイは僕の役目ですが」
チャーリーが振り向いて止めようとしたが、撫子は首を横に振る。
「私はオーナーに彼の世話をしてもいいという許可を頂いたから。フィン様は四六時中側にいる者が必要だけど、君はベルボーイで他にも仕事があるでしょう」
「ですが」
「私に任せてもらえないかな?」
面倒な客の応対なら生前の数々のバイトで経験済みだ。
「四六時中側にいる者が必要とは何だ。おれが何もできないみたいじゃないか」
「実際できてないじゃありませんか」
「なっ……」
失礼とわかりつつもぴしゃりと言い切る。
「ですから一からお教えしますと申し上げているのです。人型で生活してみたくてこのホテルにいらしたのなら、人間の私がお教えするのが一番手っ取り早いでしょう」
「客に向かって何だ、その言い方は」
「お客様。わがままもほどほどにしてください」
撫子は睨むようにフィンを見る。
「お客様は他のお客様に迷惑をかけてはいけないのが最低限のルールです」
言いきってから、撫子は多少後悔した。
たぶんこれはオーナーの経営方針とは違う。勝手にお客様の行動を制約してはいけないと、彼なら言うに違いない。
ただ撫子はあまり筋の通らない大人の世界をわりと早い内から見てきた気がする。子どもまで筋の通らないことをしているのを見るとどうにも歯がゆい。
とはいえこれは下手をすればクビかなと苦笑したところで、フィンの耳が前にしなった。
「……る」
ぺたっと耳がへたれて、フィンは顔を真っ赤にしながら小声で何か呟く。
「はい?」
「言う通りにしてやる」
叱られた子どもが必死で虚勢を張るように口をへの字にしながら、フィンは撫子を側に置くことに同意したのだった。
ウサギに箸の使い方を教えるのは結構難しい。
「こうやって持って、私が食べるのを見ながら真似してください」
たとえでなく現実の話になるとは撫子も思っていなかった。
「こうか?」
「交差しちゃいけません。こう、中指で支えるんです」
「中指ってどれだ?」
「真ん中の指です」
レストラン「ハバナ」で懐石料理を前にして、フィンに箸についてあれこれとレクチャーする。
ウサギの頃に中指など意識したことはなかっただろうから、フィンはなかなか手に箸を挟めない。すぐに箸を取り落とす。
「手づかみの料理をお持ちしましょうか? そのような料理を召し上がるお客様も多いのですから」
ペルシャ猫のウェイターが見かねて声をかけてくる。
「いやだ。おれの家の人間はこれで食べていた」
しかしあくまでフィンは箸で食べようとする。撫子はその意気だとうなずいた。
「ということは、フィン様はアジア系の方ですか?」
「アジア?」
「どの辺の出身なのでしょう?」
「さあ? しゃべってないで続けるぞ。で? これはどうするんだ」
会話は続かないが、文句ばかり言っていた頃よりはずっと良い。一生懸命なので教えがいがあった。
「吸い物はこう持って、口をつけて飲みます」
スムーズではなくとも一通り食事の仕方を教えてから、今度は部屋に戻る。
「部屋の備品で使い方のわからないものはありますか?」
「全部わからない」
それもそうかと、撫子は片っ端から説明を開始する。
「まずスリッパを履いて」
「履くって?」
「こう、靴を脱いで足に通すんです」
「脱ぎ方がわからない」
「はい、お手伝いします」
人間でいえば保育園児より一般常識に疎い。
フィンの前に屈みこんで靴紐を緩めながら、撫子はふと首を傾げる。
「脱ぎ方がわからないなら、どうやってお召しになったんですか?」
「このホテルに来て人型を作らせたら、この格好になっていた」
今のフィンは外国の寄宿学校の制服のような、カッターに半ズボンを肩で留めた格好になっている。現代日本のやんちゃ坊主には似合わない、上品で堅苦しい服装だ。
「お似合いですけど、お部屋では着替えた方が楽でいいのでは? お手伝いしますよ」
「面倒くさい。それにこれは正式な格好なんだろう?」
「まあ、文句なく正装ですね」
いまどき珍しいくらいの立派な格好だ。現代日本には合わないが、このホテルの風景にはしっくりくる。
「これでいい。いつ会ってもいいように」
撫子が顔を上げると、フィン様はぷいとそっぽを向く。
「何でもない。それで、スリッパを履いたら次はどうするんだ?」
熱心な生徒に戻った彼に、撫子はそれ以上の追及をする気にはなれなかった。
「あれはベッドで、あっちが机、鏡」
備品のあれこれを説明しながら部屋を移り、お風呂場に辿り着く。
「さて、お風呂の入り方をマスターしましょう」
「いやだ!」
ウサギは泳がないんだっけ? 撫子は首を傾げつつ続ける。
「気持ちいいですよ。温まりますし」
「生きていた頃に何度か浴びせられた。あんなちくちくする水嫌いだ!」
シャワーはまあ、ウサギ視点だと針みたいに見えなくもない。
まあいいか、気が向いたときに覚えてもらえば。撫子はあっさりあきらめてお風呂場を出る。
「あとは……」
撫子は言いかけて、はたと気づく。
もう説明することが思い浮かばない。
「いやいや、何かあるだろう」
慌てて自分に突っ込んだが、やっぱりない。
遠い目をしながら生きていた頃に思いを馳せる。人間の生活は複雑だと思っていた。でもあらためて教えるとなると、動物とたいしてやっていることに変わりはない。
食欲、睡眠欲、性欲。他は案外、必要になった時に考えていた気がする。
何か日々悩みがあった気がするが、今となってはわりとどうでもいいなぁと思った。
「困ったときは音声案内」
このホテルは動物のお客様のために、あちこちの場所で音声解説してくれる。動物のお客様は文字がわからないので、写真の横に音声ボタンがついている形となっている。
色とりどりの花々が咲いている景色に興味を引かれて、撫子はその横のボタンを押してみる。
『現在、ホテルの中庭で川遊びを行っております。お申し込みはベルボーイにどうぞ』
「よし! フィン様、庭を見に行ってみませんか?」
「水は嫌いだと言っている」
「水辺で見るくらいなららくちんですよ。泳がなくても楽しいです」
撫子は力を入れてどうにかフィンを説き伏せると、鈴でチャーリーを呼んでもらった。
「川遊びは舟に乗って中庭を遊覧するコースです。ライトアップされていて綺麗ですよ」
チャーリーが連れていったのはホテルの中につながっているゴンドラだった。
三人で乗り込んだ後チャーリーが壁のボタンを押すと、斜め上に向かってゆっくりと上昇し始める。
ホテルの外は真っ暗だった。そういえばあの世は月も太陽も昇らないとオーナーが言っていたのを思い出す。
「このホテルってお城みたいだね」
「ヨーロッパの貴族の別荘をモデルに作られたそうですよ」
光はなくとも物の輪郭はうっすらと見えた。羽を広げるようにホテルの建物が広がっていて、森が周りを飾るように囲んでいる。
まもなくゴンドラが止まった。撫子たちは下りて石畳の道を歩く。水の流れる音が聞こえてきて、船着き場に出る。
澄んだ水がさらさらと流れている、静かな川だった。
「こちらです。どうぞご乗船ください」
チャーリーにうなずいて、撫子はフィンを振り返る。
「フィン様、お手をどうぞ」
フィンはそろそろと手を伸ばす。撫子は手を取って、ゆっくりと小舟に彼を乗せた。
「大丈夫ですよ」
ぎゅっと握ってくる手をそのままに、撫子は舟の中央に座る。
小舟は勝手に流れ始める。撫子ははじめチャーリーが漕いでいると思っていたが、見ると彼もこちらを向いて座っているだけだった。
「どうやって動いてるの、これ」
「川の流れですよ。人工的な川なので流れも速くないですし、安全です」
そんな便利な川があるだろうか。
撫子は、この世界に来ておおよそのことが不可思議なほど便利なので突っ込めなかった。
ゆったりと流れる川に揺られて、舟は庭園の間を遊覧する。淡い赤茶色の光でほんのりと庭が照らし出されていた。
「そろそろ見えてきましたね。この辺りは白い花です。あれが百合の花、あっちがスノードロップです」
「季節が違う気がするけど、よく一緒に咲かせられるね」
「全部造花ですから」
「うん?」
そうは見えないほど本物そっくりだったので、撫子はきょとんとする。
「死出の世界に植物は来ません。植物は死んだら死出の世界に運ばれることなく消えるんです」
「どうして?」
「魂を洗う必要がないからですよ。記憶がないので」
魂を洗う。面白い表現だと撫子は感心する。
「魂を洗う設備の一つが、このキャット・ステーション・ホテルみたいな所ってこと?」
「そのとおりです」
チャーリーがにっこりと笑う。
「フィン様も撫子様も、ごゆっくりと静養なさってくださいね」
フィンはまだ水が怖いようだったが、撫子に身を寄せるようにしながら時々川岸を窺っていた。
撫子はフィンに言葉を投げかける。
「フィン様、花はお好きですか?」
「あんまり見たことがない。おれ、家の中で飼われてたから」
そういえば生きていた頃、あまり野生のウサギを見かけなかった。結構出身地は自分と近いのかもしれないと撫子は思った。
フィンは思い返すように続ける。
「外に出たのも数回で、カゴの中から見ていただけだったから、こういうのは不思議だ」
咲き乱れる花々を見回しながら、フィンは問いかける。
「人間はこういうのを見て、綺麗だと思うのか?」
「そうですね。人によりけりですけど、私は好きです」
撫子は少し得意気になって言う。
「私の場合名前がなでしこという花ですから、花については思い入れもありますし」
「なでしこってどんな花だ?」
撫子は辺りを見回して探す。たぶんあの花は小さいから、他の花に簡単に埋もれてしまう。
「右側の桃色の花のエリアにありますよ。そろそろです」
チャーリーが教えてくれて、撫子は右岸の川べりを凝視する。
舟は流れて、すぐに桃色のエリアに着いた。
「あ、あれです!」
川岸に群生している桃色のなでしこがあった。撫子が興奮気味にそれを指さすと、フィンはじっと赤い目でなでしこを見る。
「小さい花だな。隣の花の方が派手だ」
「ああ、カーネーションですか。一応仲間なんですけど、やっぱり負けますよね」
人気があるのもたぶんカーネーションの方だ。日本ではなでしこは大和撫子といういい言葉があるといっても、地味な姿は仕方ない。
フィンは一息だけ黙って言った。
「悪くない、と思う。綺麗かどうかは別として」
「はい! ありがとうございます!」
フィンが眉間にしわを寄せて呟いた言葉が、撫子をぱっと笑顔にさせた。
「フィン様。撫子様はオーナーの奥方様ですから、口説いちゃいけませんよ」
「くどくって?」
チャーリーは面白そうに猫目を細めながら言う。不思議そうに首を傾げたフィンに、撫子は焦って言い返す。
「結婚してませんってば!」
チャーリーはやはり面白そうにうなずくだけで、撫子の主張は通ってくれなかった。
次々と左右に現れる庭園の紹介をしながら、撫子はフィンの生前について話を聞かせてもらった。
「生まれてすぐ母さんが死んだから、おれの世話はほとんど兄さんがしたんだ」
フィンは兄を母親代わりに思っていたらしい。
「おれの家の人間は優しかったから、おれが何をしても怒らなかった。でも兄さんは厳しくて、おれが食事をこぼしたりするとそのたびに叱った」
わがまま放題に育ちながらも兄にだけは頭が上がらなかったらしく、フィンは耳を伏せながら兄のことを小声で語った。
「おれを叱るのは兄さんだけだった。おれはなかなか言う通りにできなかったけど、諦めずにずっと付き合ってくれたんだ」
「いいお兄さんだったんですね」
「うん。でもある時引き離されて、おれは別の家のウサギになった」
フィンは顔を暗くしてうつむく。
撫子は黙って、フィンをじっとみつめながら話を聞いていた。
それから三日後、撫子がフィンの部屋の扉を叩いたとき、事件は起こった。
撫子は扉ごしにフィンの不機嫌そうな声に阻まれる。
「もうお前は来なくていい」
撫子は今日、教えたいことをリストアップしてきた。どうしてと訊こうとして、フィンのうなるような声に口をつぐむ。
「お前、オーナーと結婚してるんだろ」
撫子はううむとうなる。
お客様にその辺りの事情を話すにはちょっと障りがあると、放っておいたのが気に食わなかったのだろうか。
「つがいになると、みんなおれのことを邪魔にする!」
バタバタと部屋の奥に引っ込んでいく音がして、撫子は扉の前で立ち竦んだ。
「フィン様はお寂しい思いを繰り返したくないんですね」
声がして振り返ると、チャーリーが立っていた。
「どういうこと?」
「ここでは障りがあるお話ですので、こちらへ」
撫子はチャーリーに連れられて廊下を曲がり、スタッフオンリーの部屋に入る。
「お兄さんがつがいになってから、フィン様は別の家にもらわれていったってことなのかな」
「そのとおりです」
「うう」
ぴったり当てたくない事実だった。撫子は心が痛んで頭を押さえる。
今まで飼っていた幼いオスを追い出さなくともいいのにと思った。メスをもらってきたくらいなのだから、数が負担になったわけでもないだろうに。
うなった撫子に、チャーリーが残酷な一言を告げる。
「フィン様は、別の家に移ってすぐ亡くなっているんです」
撫子は嫌な予感がして、ごくりと息を呑む。
「まさか。「ウサギは寂しいと死ぬ」って都市伝説じゃないの?」
「そのまさかがあったんでしょうね」
チャーリーはうなずいて続ける。
「ウサギがストレスに弱いのは事実ですから。今までずっと一緒だった母親代わりのお兄さんと引き離されたことがストレスになったんでしょう」
そういえばと撫子は思い返す。
フィンから新しい家に移ってからの話はほとんど聞かなかった。それほどフィンは前の家、もとい兄と一緒にいた記憶の方が大きいらしかった。
「いやその、私でよかったらばんばん八つ当たりしてくれていい。部屋に入れてもらえないかな?」
寂しくて死んだウサギを、とても心配で一人にはさせておけない撫子だった。
焦って言ってから、撫子は顔をくしゃりとゆがめる。
「でも私じゃ駄目なのかな。フィン様が待ってるのは、きっとお兄さんだけだよね」
彼の生活ぶりからなんとなく感じ取っていたのは、彼はずっと誰かを待っていることだった。
堅苦しい服でいいと言っていた。いつ会ってもいいようにと。
一生懸命一人でいろいろなことができるように頑張っていた。誰かに認めてもらいたいと叫んでいるみたいだった。
「フィン様にお知らせするか迷っていることがありまして」
チャーリーが真剣な顔になって言う。
「フィン様のお兄様が、今日の列車でこの駅にいらっしゃるんです」
「え!」
死はまったく喜んでいい出来事ではないが、死ぬタイミングとしてはナイスだ。
撫子は身を乗り出して言う。
「よし! フィン様と引き合わせて、一緒に楽しい休暇を過ごしてもらおうよ」
「そうもいかないんです」
チャーリーは辺りをはばかるように声をひそめる。
「フィン様のお兄様は休暇を申請していないんです。終着駅まで行かれます」
バタンと音を立ててスタッフオンリーの扉が開く。
「兄さんが?」
そこにフィンが立っていて、先ほどのような勢いをすっかり失っていた。
「兄さんはおれのことなんてどうでもいいんだ」
フィンは赤い目からぽろぽろと涙を落とす。
「兄さん……」
しゃがみこんで丸くなるフィンに、撫子は慌てて駆け寄る。
「そんなことないですって! お兄様はフィン様がここにいるのを知らないだけですよ!」
フィンの背をさすりながら、撫子はチャーリーに訊ねる。
「その列車って何時に着く?」
「さあ」
「こういう時こそ時間が要るんだって! 分かった、私が行ってくる! フィン様をお願い!」
「あっ! 撫子様」
撫子が廊下を走りだすと、チャーリーが滑るように追い付いてきた。
「駅へ! お兄さんに一時下車でもいいから降りてもらって、フィン様に会ってもらう!」
「お兄様はフィン様がここにおられるのを知っているかもしれませんよ」
「フィン様が会いたがってることは知らないかもしれないでしょ!」
「お会いしたいとお客様が希望されたわけではありませんし」
不思議そうな顔をしたチャーリーに、撫子はきっと睨んで言った。
「あれが会いたくないって態度か! 一流のホテルマンなら空気を読むんだ!」
チャーリーはぴくりと耳を動かして、目をきらめかせる。
「さすがはオーナーの奥方様」
目をうるませて、チャーリーは力強くうなずく。
「僕が至りませんでした。すぐに駅に行って参ります!」
「そう! そういうときこそ瞬間移動だ!」
案の定、チャーリーは一瞬で撫子の前からいなくなった。
しかし撫子が階段を下りてロビーまで来ると、入り口でチャーリーは足止めされていた。
「ヒューイ君、通して!」
「チャーリーは従業員です。駅まで行く許可は頂いておりません」
チャーリーと同じ顔に無表情を張り付けて、ヒューイが立っていた。
チャーリーはもどかしげに弟に言う。
「でも、ヒューイ。お客様の要望に応えるためなんだから」
「僕たちの役目はドアボーイだ。場所を離れてどうする」
波の無い声で阻むヒューイを説得する時間が惜しくて、撫子はむっとしながら言う。
「いい。チャーリー君がだめなら私が行く」
「いけません。撫子様もオーナーに外出許可を頂いておりません」
「私はオーナーのものじゃない」
撫子ははねかえすように言うと、扉を開いて体を滑り込ませる。
「自由も取られるくらいなら、妻なんて立場要るもんか。じゃ」
ヒューイが伸ばした手をすりぬけて、撫子は扉の外に飛び出した。
駅に向かって走り出す。駅前のホテルだから、駅自体はすぐ隣だ。
撫子は構内に駆けこんで改札まで走る。
「うわ、もう来てる!」
駅には既に列車が入っていた。窓口で猫耳の駅員を捕まえて問う。
「すみません! もう発車しますか!?」
「そうですねぇ。そろそろ」
撫子の焦りなどどこ吹く風で、駅員がのんびりと言う。
「ホテルのお客様が面会を希望されている方が、乗っていらっしゃるんです!」
「ああ、そういうことでしたらどうぞ」
ブチ模様の猫耳駅員はにこやかに改札を開きながら言う。
「笛が鳴ったらご降車くださいね。この列車は片道限りなので、戻ることはできません」
「わかりました!」
撫子は改札が開くが早いか、停車中の列車に駆けこむ。
「ウサギのフィン様のお兄様! いらっしゃったら返事をしてください!」
一番後ろの車両に乗り込んで、左右を見てウサギを探しながら声を張り上げる。
撫子が来た時と同じで満員に近かった。虫だらけの車内、あらゆる動物たちの密集地だ。
「フィン様のお兄様! いらっしゃいませんか!」
この中でウサギ一羽をみつけるのは、森の中から一匹の蝶をみつけるくらい難しいかもしれなかった。
けれど何としてもみつけかった。毎日慣れない人型で一生懸命頑張ってきたフィンを、兄と引き合わせてあげたかった。
「うわ!」
ピィと発車の合図の笛が鳴る。
車両はもう一つあった。撫子は最後の車両に駆けこむ。
列車が発車してしまう。フィンの兄どころか、撫子も駅に戻れなくなる。
「フィン様のお兄様! いらっしゃいませんか!」
撫子がひときわ大声で叫んだ途端、ガタンと列車が揺れた。
ゆっくりと列車がプラットホームを離れていく。
間に合わなかった。撫子が無力感に泣きたくなったときだった。
足元を何かに引っ張られる気配がした。
「フィンが俺に会いたがってるのか?」
一羽の白いウサギが撫子の靴をくわえていた。
「……お兄様?」
撫子が問いかけると、彼は赤い目でじっと撫子を見上げてうなずく。
「俺はルイ。フィンは俺の妹だ」
……妹?
撫子は一瞬思考が止まったが、硬直している場合ではないと気づく。
「ルイ様! 降りましょう!」
撫子は窓に駆け寄って大きく窓を開く。
列車はまだ走りだしたばかりで大した速度ではない。
「降りるって……危ないぞ。死んだらどうする」
「もう死んでますから大丈夫!」
撫子は力強くうなずいていた。
「私に任せてください! お願いします!」
ルイは一呼吸分だけ黙って、のんびりと言った。
「うん。いいよ」
撫子はしっかりとルイを腕に抱いて、窓枠に足を掛ける。
立派な策なんてない。わかっているのは、速さが命ということだ。
「たぁ!」
撫子は思いきって列車の外に飛んだ。
線路脇はぱっと見、森のようになっている。草木が茂っているので、たぶん受け止めてくれる。
しかし意外と列車は高い場所を走っていたらしく、頼りない浮遊感が撫子たちを包んだ。
撫子は思わず目を閉じて歯を食いしばった。
無謀という言葉が頭をよぎる。気合でごまかしたが、怖くないわけじゃない。
落ちる衝撃に耐えられるように身を固くした。時間は必要と言った自分は棚に上げて、こんな時間はさっさと終われと願った。
けれどいつまで経っても衝撃はこなくて、恐る恐る目を開ける。
「つくづくあなたには呆れます」
誰かが撫子を包んでいることにようやく気付いて、視線を上げる。
「列車から飛び降りたら死ぬかもしれないことくらい、常識でしょう」
そこにオーナーの猫目をみつけて、撫子は盛大に息をついた。
確信なんて何もないが、勝手に体が安心する。
撫子はすねたようにぼそりと呟く。
「あの世ではいろいろと常識が通用しないので、大丈夫かと」
「そんな都合のよい常識はありません」
愛想全開な笑顔で、オーナーは眉をひきつらせる。
撫子がちらりと辺りをうかがうと、オーナーは撫子を横抱きにして枝葉のクッションの中にいた。
彼はすっきりとした仕草で立ち上がって線路にまで跳ぶと、撫子を下ろす。
撫子はふと首をかしげる。
「ありがとうございます。……でもオーナーはどうしてここに?」
「そりゃあんたを追ってきたに違いないだろう」
口を挟んだのはルイだった。
「あんたたち、つがいなんだろ」
「そんな露骨な言い方やめてください!」
気恥ずかしくなって、撫子は顔を赤くした。
「い、いや、というかそもそも夫婦じゃなくて!」
「そうか? 匂いがするぞ」
「どんな匂いですかそれ!」
わたわたする撫子に訳知り顔でうなずいて、ルイはオーナーを見る。
「ところで、そちらはもしかしてフィンのいるホテルのオーナーか?」
「はい。キャット・ステーション・ホテルの支配人をしております」
「休暇はいつまで取れるんだろう?」
ルイは少し困ったように言った。
「その……今からでも申請できるものだろうか? お宅のホテルに少々用事ができたものでね」
オーナーは恭しく礼を取って、微笑みながら顔を上げた。
「もちろんでございます。必ずお客様のご満足いただける休暇をご用意いたします」
撫子がみるみるうちに顔を明るくしたのを、オーナーが横目で見ていた。