淡い光に照らし出されて、吹き抜けの空間が広がっていた。
 白い大理石と黒曜石がダイヤ模様を描く床に、ぶどう色のじゅうたんが敷かれている。壁際にはランタンの形をした小さな明かりがかけられて、中央の水晶のシャンデリアを取り囲む花びらのようだった。
 ぽけっとみとれた撫子は、かなり間抜けな顔をしていたに違いない。
「ごめんなさい」
 借金取りから両親と共に逃げ回りながら泊まったホテルとは違う品格に、思わず謝ってしまった撫子だった。
「どうしました、撫子」
「どうぞお構いなく」
 どさくさにまぎれて引き返そうとした撫子の手を、オーナーがしっかりとつかみ直す。
「施設の案内はおいおいに。今日は疲れたでしょう? 部屋でゆっくり休みなさい」
「いえ、帰してください」
「あれは終電ですよ。あきらめなさい」
 撫子はそろそろ抵抗することができなくなっていた。
 見知らぬ人にホテルに連れ込まれるのは危ないと思うのだが、オーナーの言う通り、車両を端から端まで全力疾走したり窓枠にぶらさがったりして体が限界だ。正直、逃げようにも足が棒のようで一歩も走れない。
「おかえりなさいませ、オーナー」
 猫耳の少年二人が、声変わり前の少し高い声でオーナーを迎える。オーナーは二人に問いかける。
「留守中、変わりはありませんでしたか」
「はい」
 オーナーはその答えにうなずく。
「では、チャーリー。彼女のベルボーイをあなたに一任します」
 背の高い方の少年の耳がぴくりと動いた。
「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」
 二人は揃って胸に手を当てて、綺麗な礼をしてみせた。
 オーナーは軽く撫子を引く。撫子は諦めの心境で言った。
「わかりました。いいです。もう逃げる体力ありません……」
「それは結構」
「ちょ!」
 オーナーはほほえんであっさり撫子を抱き上げると、そのままロビーを横切った。
 壁の前でオーナーが立ち止まってスイッチを押すと、目の前の石造りの壁が横に開いた。
「へ?」
「何を驚いているんです」
「だ、だってこれ。今勝手に動きましたよ」
 チンっていう、レンジみたいな音もした。これはたぶんとあれだと、撫子はまじまじとみつめる。
「エレベーターですよ。よくあるでしょう?」
「あの世にもあるんですね」
 撫子は新鮮な驚きを感じながら問いかける。
「電気通ってるんですか?」
「さて、さきほど私たちが乗って来たのは何でしょう」 
 言われてみればそうだ。撫子は電車に乗って来たのだった。
「正確にはあなたの知っているようなエネルギーで動いてはいませんが、それもまたおいおいに」
「あ、はい。それで結構です。ですから下りて歩きます」
 撫子はうなずいて、多少気に入らなさそうなオーナーの腕から降りて自分でエレベーターに乗り込む。
 静かに上昇していくのを点灯した番号で確認しながら見ていると、五階まであっという間に辿り着く。
「ええっ?」
 今度は真横に引っ張られて、撫子は足踏みをした。
「横にも進むとは」
「よくあるでしょう?」
「そうでしたっけ?」
 ちょっと常識がわからなくなったところでまた上昇し始めて、やがて止まる。
 エレベーターから降りて、オーナーが先に立って歩き始める。まもなくオーナーは一つの部屋の前で立ち止まった。
「ここがあなたの部屋です」
 彼はスーツの上ポケットからプレートを取り出して扉につりさげる。
「元動物のお客様なら匂いでわかるようになっているのですが、あなたでは感じ取れないでしょう。この花のプレートを目印になさい」
 花びらの先がぎざぎざになっている、ちょっと珍しい形の小さな花。撫子は思い出して声を上げた。
「なでしこの花ですね」
 撫子の声と同時にオーナーは扉を開いた。
 花の上に白猫が寝そべった形のシャンデリアに照らされて、撫子はその部屋に立ち入った。
 廊下を抜けるとリビングと和室があって、キッチンまでついている。一つ一つが撫子の今まで住んだことのあるアパートとはことごとく広さも高級感も違う。
「ふわぁぁ」
「どこか変な所でもありましたか」
「いや、だってまるでここ高級マンション」
「当ホテルは自他ともに認める一流ホテルです」
 オーナーはしれっとした顔で撫子を見下ろしながら言う。
「お客様に最高の休暇を。それが当ホテルの信条ですから」
 休暇と撫子が繰り返すと、オーナーはうなずく。
「ここは死の終着駅に着く前に、疲れた魂を休ませる保養地なのです。それも、人の姿を取って休暇を過ごされるお客様のためのホテルです」
「魂の保養地ですか」
 何ともあの世には粋な場所があるものだ。撫子は感心して息をついた。
 オーナーは撫子の手に分厚いファイルを渡して告げた。
「このファイルにホテルの施設について載せてあります。生活するための備品は一通り揃っているはずですが、何か足りないものや訊きたいことがあれば」
 オーナーは机の上に置いてあるしゃれた陶器の鈴を示す。
「この鈴を鳴らしなさい。チャーリーが呼べます」
 ではと踵を返して、彼は部屋を出て行こうとする。
 一瞬撫子は立ち竦んだが、すぐにオーナーに飛びつく。
「あ、あの!」
 撫子は思わずオーナーの白い尻尾をむぎゅっとつかんでいた。
「つかまずとも聞こえます」
 笑顔のまま口の端をひきつらせて振り返ったオーナーに、撫子はばつが悪そうにつぶやく。
「はみ出てたもので」
 つかみやすかったんです、そこ。
 オーナーはぴくりと耳を動かして、不気味なほど笑みを深めた。
「ここは大事な体の一部ですが」
「すみません! アイデンティティーでした!」
 耳と同じで人格に触れてはまずい。撫子が焦っていると、オーナーはまあそれでと言葉を続けた。
「何ですか?」
「いえ、肝心なことを教えて頂いていないと思って」
 撫子はオーナーを見上げながら問う。
「私はここで何をすればいいんですか?」
 オーナーはその言葉に穏やかにほほえんだ。
 彼は猫目を細めて屈みこむ。
「何もしなくてもよいですし、思いつく限りのあらゆることをしてもよいです」
 撫子の顔の前に指を一本立てて、彼は静かに告げた。
「長期休暇を与えられたと思って、あなたのしたいようになさい」
 長期休暇。
 その言葉は馴染みがあるような、全く未知のものであるような、不思議な響きがした。
 足音も立てずに去っていくオーナーの背中を、撫子はぼんやりと見送った。