撫子の担当の医師によると、撫子はおよそ一ヶ月の間昏々と眠り続けていたらしい。
「心音がほとんど聞こえませんでしたし、体温が二十度を切っていました」
「まるで冬眠ですね。火葬場行きにしないで頂いてありがとうございます」
 撫子が慇懃無礼に言ったら、先生は事も無げに返した。
「火葬場だなんてもったいない。解体して臓器の一つ一つにメスを入れたくなるくらいの非人間ぶりでしたよ」
「ふふ。残念でした、人間に戻ってしまいました」
「まったくです。つまらない」
 言動がマッドサイエンティストの先生と、乾いた笑いを漏らしながら話すのは楽しかった。
 いつの間にか病室の外に広がる木々は紅葉を始めていた。窓を開くと涼しげな風が吹きこんできて、季節はいつの間にか秋に移り代わっている。
「まあ、まだ冷たい風は体に悪いですよ。体を温めて安静にしていないといけません」
「ああ、すみません」
 ちょっとアレな性格の先生とは対照的に、担当の看護師は心配性で世話焼きな年配の女性だった。窓を閉めて、撫子をベッドの中に押し込む。
 布団をせっせと整えてくれる彼女に、撫子はふと問いかけた。
「私が眠っている間に、誰か来ていませんでしたか?」
「ああ……」
 看護師はすぐに何か思いついたように言う。
「あなたが旧坑道で倒れているのを発見した方が、何度かお見舞いにいらっしゃっていましたね」
 撫子は顔を上げて身を乗り出す。
「どんな方ですか? 白い髪だったり猫目だったり、特徴はありました?」
「いいえ、普通の」
 彼女は答えようとして、ふと首を傾げた。
「……どんな方だったかしら? ごめんなさい。思い出せないわ」
 撫子は彼女以外にも問いかけてみたが、どの人も似たような答えを返した。
 あえて言うなら、あまり特徴のない、印象の薄い人だったそうだ。まさか猫耳や尻尾が生えているわけでもない、普通の人間だと聞いた。
「人の心配はいいの。あなたは大丈夫?」
「ああ、元気ですよ。冗談ばかり言っていてすみません」
 これからのことに不安はいっぱいだった。けどそれは自分で乗り越えなければいけないことだと思っていた。
「入院費や治療費は、今すぐは払えませんけど必ず将来返しますから」
 撫子が無理やり明るく言って、看護師が何かを答えようとした時だった。
「必要ありません。支払い済みです」
 担当の先生が戸口から現れて言う。撫子は首を傾げた。
「どういうことですか、それ」
「先生。まだそういう話は早いですよ。精神的にも肉体的にも辛いことがあったばかりの子なんですから」
 咎めるように先生に目を向ける看護師に、先生はそっけなく答える。
「いずれわかることでしょう。そこまでか弱い子には見えませんね。少し話がしたいので出ていてもらえますか?」
 先生はまだ何か言いたげな看護師を追い出すなり、傍らのパイプ椅子に座って話し始める。
「あなたの両親は申し立てによって親権を喪失しました。あなたは今後、自治体の運営する施設に引き取られることになります」
「引き取ってもらえるのはありがたいんですけど」
 撫子はぽりぽりと頬をかいて苦笑する。
「娘の私に取り立てしようと、借金取りが大勢押し掛けてきますよ。そこまで面倒を見てくれるはずがないです」
「あなたはもう生みの親とはつながりが切られたのです。あなたには取り立てはできません」
「建前上はそうですが」
 この先生は撫子が目を覚ました時から撫子に同情する素振りも甘やかす様子もなかった。だからかえって、撫子は率直に考えを口にすることができた。
「払えないなら体で払えって常套句も散々聞いてきました。法律上切られようが何しようが、現実はそんなに簡単に許してもらえないです」
「その通りですね」
 先生はあっさりとうなずいて黒い瞳を細める。
「公的機関が面倒をみるのも限度があります。借りた金は返すのがルールだという考えで押してきますしね。特定の個人を庇うと、何かと非難されて不都合です。我が病院としても、できるなら勝手に解決してもらいたい問題です」
 先生は撫子をじっとみつめた。
「ですが誰かが厚意で個人を庇うのもまた、公の干渉するところではありません」
 まばたきをした撫子に、彼は言った。
「あなたのご両親への債権者には、あなたの遠縁の親戚が相当の金銭を支払ったそうです。だから取り立ては来ません」
「は?」
 撫子は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「そんなお金持ちの親戚なんていませんよ。借金を肩代わりなんて普通の親戚がするはずない……」
「とにかく借金は返されたんです」
「そんな馬鹿な。そんなに都合のいいことはないですよ」
「あなたはまだ世の中を知りませんね」
 先生は色濃い目の下のクマをこすりながら、面倒そうに答える。
「とにかくあなたはプラスもなければマイナスもない状態でこの病院を出ていくことになります。まあマイナスだらけの今までの人生に比べれば、幸先いいスタートではありませんか」
 撫子は首をひねって言葉を濁らせる。
「都合が良すぎて怖いような……」
「じゃあここに残って人体実験の被験体にでもなりますか? シビアな現実というものが実体験できますが」
「遠慮します」
 即答して、撫子はふいに先生の顔を覗きこむ。
「……先生って、カラスに似てますよね」
「どこがですか?」
 確かに白衣だし顔立ちも取り立てて鋭利ではない。
 気のせいだろうか。一瞬、先生にカラスの印象が被った。
 撫子は自分で言っておいて根拠にうなったが、先生は興味なさげに目を逸らして立ち上がる。
「リハビリをして一週間もすれば退院できます。もう一ヶ月も病室を占領したんですから、そろそろ出て行ってください。後がつかえてますから」
 ごもっともな言葉に、撫子はまだ納得していないままうなずく。
「歩き続けなさい。生きている者の義務ですよ」
 撫子を横目で見て一言告げると、先生は病室から出て行った。
 色づく葉が揺れているのを窓越しに見ながら、撫子はしばらくぼんやりと考えを巡らせていた。