撫子たちが入った温泉は宿に続いていて、湯から上がると撫子たちは部屋に案内された。
「ご夫婦には一部屋をご用意させて頂くつもりだったのですが」
「大勢の方が楽しいよ。ねえ桃子」
「一緒の方がにぎやかでいいわ」
落ち着いた雰囲気の和室に通されてまもなく、四人分の食事を仲居が運んできた。
「これも食べる?」
「頂きます」
「このエビおいしいわよ。食べない?」
「ありがたく」
ほっぺたが落ちるような懐石料理を一心に食べる撫子に、両親はあれこれと自分の料理を分けてくれて、それに撫子は嬉々として飛びついていた。
生きていた頃も両親は自分の分をどんどん分けてくれたことを思い出して、撫子は温かな気持ちになる。
撫子は横からオーナーの視線を感じて、振り向きながら小声で問いかけた。
「お客様の分を頂くのはまずかったですかね?」
「問題ありません。ここでは私たちも客ですから」
オーナーは目を細めて口の端を上げる。
「それに、あなたのはしたないほどの食べっぷりは存じております」
「すみませんね。欲求に正直でして」
「そうですね」
下手に否定しないオーナーの態度はいつも通り清々しかったが、撫子は少し違和感を抱いた。
「オーナー、どうかされました?」
「何がです?」
「ホテルを出発した時から何だか変ですよ」
楽しげに会話に没頭している両親の邪魔をしないように、撫子はそっと言った。
「ここへ来たのって、難しい仕事があるからなんですか?」
「百年以上続けていることです。それで悩むようなものではありません」
「じゃあどうしてですか?」
オーナーはそっけなく答える。
「私は普段通りです。あなたの気のせいですよ」
そうかなぁと撫子は首をひねりながら食事に戻った。
「いかがですか?」
食事も終わりに差しかかった頃、三毛猫のご主人がやって来た。撫子や両親は口々においしかったと伝える。
「ところで、さっき温泉を出た時に祭りばやしが聞こえたんだけど、今日はお祭りの日なのかな?」
父が問いかけると、ご主人はゆるりとほほえむ。
「常夏駅ではいつもどこかで祭りが開かれています。ご案内いたしましょうか?」
「いいね」
「オーナー、行ってもいいかしら?」
両親がオーナーに目を向けると、彼は頷いて同意する。
「撫子さんも行こうよ」
「あ、いいんですか?」
両親とオーナーを見比べる撫子に、オーナーは短く答える。
「どうぞ。私も同行させて頂きます」
その言い方に撫子はやはり違和感を抱きながら、撫子たちは三毛猫のご主人に連れられて宿を出た。
宿が立ち並ぶ道から一つ路地に入ると、石造りの緩やかな下り坂だった。真っ直ぐに遥か下へと続いている。
「オーナー」
両親は立ち止まって、何気なくオーナーに訊ねた。
「私たちが行くべき道は、こちらでいいんだね?」
「はい。ここを真っ直ぐ下っていくだけです」
「そう。ありがとう」
お礼を言って、両親はまた歩き出した。撫子は首を傾げたが、一つ道を折れた途端に目の前に広がった光景に、思わず声を上げる。
「うわぁ……!」
そこには赤い光の灯った提灯が無数に空に浮いていた。
紺色の空に浮かび上がる広場には、浴衣を着てお面を被った人たちがひしめき合っている。
「オーナー、あの提灯ってどうして浮いてるんですか?」
「浮くだなんて非常識なことありませんよ。あれは天からつるしてあるんです」
「そっちの方が非常識ですよ」
死出の世界の現実は時々とんでもなく常識外れだと思う撫子だった。
撫子は天に目を凝らしてみるが、紐なんて見えない。薄暗いせいもあるだろうが、それ以前に誰が吊るしているというのか。
「やっぱりお上かな」
無難に考えてそんなところだろうと思って頷いていると、神輿が人波の中をこちらに近付いてくるのが見えた。
神輿の周りを渦のように取り巻きながら、お面の人たちが踊っている。
「行列に混じるのでしたら、これをどうぞ」
三毛猫のご主人が両親にそれぞれ猫のお面を渡した。それを見て撫子は首を傾げる。
「あれ、私は混じっちゃ駄目なんですか?」
「あなたは旅立つ者ではないので」
ご主人は神妙に続ける。
「古来より仮面は秘めたる自己をさらすものですから」
「えーと?」
撫子が理解できなくて混乱している内に、両親は手をつないで行列に駆けていった。
二人の姿が行列にまぎれた頃に、オーナーが横からそっと言葉を挟む。
「この世の終わりを楽しむための者の祭りですので、開放的になるんですよ。あなたは見ておくだけにしておきなさい」
「はぁ。わかりました、そうします」
頷く撫子とオーナーを見比べて、三毛猫のご主人はくだけた口調で言った。
「過保護だねぇ」
猫目を細めながら、ご主人は笑う。
「もっと包容力のある大人になれよ、オーナー。お前、そんなんだから先代に逃げられるんだよ」
オーナーはいつもの笑顔で答えた。
「独り身が何を言っても説得力はありませんね」
「俺は気ままに過ごすのが好きなの。結婚なんていやだね」
嫌味の応酬をする二人を見て、撫子はなるほどと納得する。
「仲がよろしいんですね」
「気色悪い誤解をしないでください」
「付き合いの長さと仲の良さは比例するものじゃないんだよ、お嬢さん」
同時に言った二人は息が合っていた。
「失礼しました」
いわゆる腐れ縁というやつらしい。撫子は適当に笑っておく。
祭り行列は踊りながらゆっくりと進んでいく。笛と太鼓の音が取り巻く中、撫子たちもそれを追ってぼちぼちと続いた。
「しかしまさか結婚するとは。こいつはホテルと結婚しているものだとばかり思っていたから」
「そうなんですか?」
「仕事一筋でそれ以外には無頓着な奴だったからなぁ」
「ああ、確かに仕事熱心ですね」
撫子は笑いながら頷く。
「でもオーナーあってのキャット・ステーション・ホテルですから。最高のホテルを作るためには、多少他への意識は回らなくなるんじゃないでしょうか」
「言ってくれますね、撫子」
皮肉っぽく眉をつりあげるオーナーに、撫子は手を振って慌てて言う。
「褒めてるんです。熱いホテルで、最高じゃないですか」
それにと撫子は言葉を続ける。
「死ぬ以外に行き場のない私を引き取ってくださったことも感謝していますし」
「え?」
ふいに三毛猫のご主人が訝しげに問い返す。
「行き場のないって……おい、オーナー」
ご主人は笑顔を消してオーナーに視線をよこす。
「撫子はこの世で休暇を過ごすと決めて、私は印を与えました。この世界の住人です」
「約束は個人の勝手だが、後でわかったら喧嘩じゃ済まないだろう」
「何の話です、ご主人?」
撫子が問いかけると、三毛猫のご主人は気まずそうに撫子を見る。
「悪いが言えない。約束に口出しができるのはお上だけなんだ」
撫子は首を傾げたが、ご主人はそれ以上答えてくれそうになかった。
行列の進行に合わせて前方の提灯が灯っていく。
それは道を示しているようにも見えた。暗闇の中で手探りしながら生きてきた者たちの、終点を示す灯なのかもしれなかった。
「撫子さん、おいで」
「いらっしゃい」
ふいに行列から猫のお面を被った二人が進み出る。
声は両親なのだが、顔が隠れていて確信は持てない。
「わわ」
戸惑っている内に、撫子はあっという間に行列に引っ張りこまれる。
花と鈴で飾られた黄金の神輿が揺れていた。その周りを、お面の人々が踊りながら練り歩く。
「あの、水島様ですよね?」
撫子の問いかけに、二人は笑うばかりで答えない。
答える代わりに、撫子の手を取って踊りだす。
「おっと」
撫子は数歩よろめいたが、すぐに顔を上げて笑う。
「任せてください。盆踊りなら自信があります」
両親とあちこちを旅した。祭り好きの両親はそろって夏祭りに繰り出したから、撫子もいろんな祭りの踊りを知っている。
見よう見まねで撫子も踊る。数刻もしない内に、心が浮き立ってくる。
太鼓の音に鼓動の数が増えて、笛の音に血液の流動が滑らかになっていく。体が音楽に合わせて動き出す。
祭りはいいなと撫子は思う。細かいことを考えるのが苦手な撫子も時々は悩む。そういう悩みを解放してくれる気がする。
「僕らはもう満足したけど、君はまだ存分に楽しむといい」
父に似た声が撫子に囁きかける。
「あなたのしたいようになさい。幸せになりなさい」
母に似た声が告げて、それから二人が笑う気配がした。
「君は僕と彼女の」
「自慢の娘だから」
撫子ははっとして足を止める。
父さん、母さん。
そう呼ぼうとした途端、二人は手を離して行列の中へと滑るように歩んでいった。
後ろ姿さえ、一瞬で消える。
祭りばやしが撫子を包み込むようにいつまでも響き渡っていた。
「ご夫婦には一部屋をご用意させて頂くつもりだったのですが」
「大勢の方が楽しいよ。ねえ桃子」
「一緒の方がにぎやかでいいわ」
落ち着いた雰囲気の和室に通されてまもなく、四人分の食事を仲居が運んできた。
「これも食べる?」
「頂きます」
「このエビおいしいわよ。食べない?」
「ありがたく」
ほっぺたが落ちるような懐石料理を一心に食べる撫子に、両親はあれこれと自分の料理を分けてくれて、それに撫子は嬉々として飛びついていた。
生きていた頃も両親は自分の分をどんどん分けてくれたことを思い出して、撫子は温かな気持ちになる。
撫子は横からオーナーの視線を感じて、振り向きながら小声で問いかけた。
「お客様の分を頂くのはまずかったですかね?」
「問題ありません。ここでは私たちも客ですから」
オーナーは目を細めて口の端を上げる。
「それに、あなたのはしたないほどの食べっぷりは存じております」
「すみませんね。欲求に正直でして」
「そうですね」
下手に否定しないオーナーの態度はいつも通り清々しかったが、撫子は少し違和感を抱いた。
「オーナー、どうかされました?」
「何がです?」
「ホテルを出発した時から何だか変ですよ」
楽しげに会話に没頭している両親の邪魔をしないように、撫子はそっと言った。
「ここへ来たのって、難しい仕事があるからなんですか?」
「百年以上続けていることです。それで悩むようなものではありません」
「じゃあどうしてですか?」
オーナーはそっけなく答える。
「私は普段通りです。あなたの気のせいですよ」
そうかなぁと撫子は首をひねりながら食事に戻った。
「いかがですか?」
食事も終わりに差しかかった頃、三毛猫のご主人がやって来た。撫子や両親は口々においしかったと伝える。
「ところで、さっき温泉を出た時に祭りばやしが聞こえたんだけど、今日はお祭りの日なのかな?」
父が問いかけると、ご主人はゆるりとほほえむ。
「常夏駅ではいつもどこかで祭りが開かれています。ご案内いたしましょうか?」
「いいね」
「オーナー、行ってもいいかしら?」
両親がオーナーに目を向けると、彼は頷いて同意する。
「撫子さんも行こうよ」
「あ、いいんですか?」
両親とオーナーを見比べる撫子に、オーナーは短く答える。
「どうぞ。私も同行させて頂きます」
その言い方に撫子はやはり違和感を抱きながら、撫子たちは三毛猫のご主人に連れられて宿を出た。
宿が立ち並ぶ道から一つ路地に入ると、石造りの緩やかな下り坂だった。真っ直ぐに遥か下へと続いている。
「オーナー」
両親は立ち止まって、何気なくオーナーに訊ねた。
「私たちが行くべき道は、こちらでいいんだね?」
「はい。ここを真っ直ぐ下っていくだけです」
「そう。ありがとう」
お礼を言って、両親はまた歩き出した。撫子は首を傾げたが、一つ道を折れた途端に目の前に広がった光景に、思わず声を上げる。
「うわぁ……!」
そこには赤い光の灯った提灯が無数に空に浮いていた。
紺色の空に浮かび上がる広場には、浴衣を着てお面を被った人たちがひしめき合っている。
「オーナー、あの提灯ってどうして浮いてるんですか?」
「浮くだなんて非常識なことありませんよ。あれは天からつるしてあるんです」
「そっちの方が非常識ですよ」
死出の世界の現実は時々とんでもなく常識外れだと思う撫子だった。
撫子は天に目を凝らしてみるが、紐なんて見えない。薄暗いせいもあるだろうが、それ以前に誰が吊るしているというのか。
「やっぱりお上かな」
無難に考えてそんなところだろうと思って頷いていると、神輿が人波の中をこちらに近付いてくるのが見えた。
神輿の周りを渦のように取り巻きながら、お面の人たちが踊っている。
「行列に混じるのでしたら、これをどうぞ」
三毛猫のご主人が両親にそれぞれ猫のお面を渡した。それを見て撫子は首を傾げる。
「あれ、私は混じっちゃ駄目なんですか?」
「あなたは旅立つ者ではないので」
ご主人は神妙に続ける。
「古来より仮面は秘めたる自己をさらすものですから」
「えーと?」
撫子が理解できなくて混乱している内に、両親は手をつないで行列に駆けていった。
二人の姿が行列にまぎれた頃に、オーナーが横からそっと言葉を挟む。
「この世の終わりを楽しむための者の祭りですので、開放的になるんですよ。あなたは見ておくだけにしておきなさい」
「はぁ。わかりました、そうします」
頷く撫子とオーナーを見比べて、三毛猫のご主人はくだけた口調で言った。
「過保護だねぇ」
猫目を細めながら、ご主人は笑う。
「もっと包容力のある大人になれよ、オーナー。お前、そんなんだから先代に逃げられるんだよ」
オーナーはいつもの笑顔で答えた。
「独り身が何を言っても説得力はありませんね」
「俺は気ままに過ごすのが好きなの。結婚なんていやだね」
嫌味の応酬をする二人を見て、撫子はなるほどと納得する。
「仲がよろしいんですね」
「気色悪い誤解をしないでください」
「付き合いの長さと仲の良さは比例するものじゃないんだよ、お嬢さん」
同時に言った二人は息が合っていた。
「失礼しました」
いわゆる腐れ縁というやつらしい。撫子は適当に笑っておく。
祭り行列は踊りながらゆっくりと進んでいく。笛と太鼓の音が取り巻く中、撫子たちもそれを追ってぼちぼちと続いた。
「しかしまさか結婚するとは。こいつはホテルと結婚しているものだとばかり思っていたから」
「そうなんですか?」
「仕事一筋でそれ以外には無頓着な奴だったからなぁ」
「ああ、確かに仕事熱心ですね」
撫子は笑いながら頷く。
「でもオーナーあってのキャット・ステーション・ホテルですから。最高のホテルを作るためには、多少他への意識は回らなくなるんじゃないでしょうか」
「言ってくれますね、撫子」
皮肉っぽく眉をつりあげるオーナーに、撫子は手を振って慌てて言う。
「褒めてるんです。熱いホテルで、最高じゃないですか」
それにと撫子は言葉を続ける。
「死ぬ以外に行き場のない私を引き取ってくださったことも感謝していますし」
「え?」
ふいに三毛猫のご主人が訝しげに問い返す。
「行き場のないって……おい、オーナー」
ご主人は笑顔を消してオーナーに視線をよこす。
「撫子はこの世で休暇を過ごすと決めて、私は印を与えました。この世界の住人です」
「約束は個人の勝手だが、後でわかったら喧嘩じゃ済まないだろう」
「何の話です、ご主人?」
撫子が問いかけると、三毛猫のご主人は気まずそうに撫子を見る。
「悪いが言えない。約束に口出しができるのはお上だけなんだ」
撫子は首を傾げたが、ご主人はそれ以上答えてくれそうになかった。
行列の進行に合わせて前方の提灯が灯っていく。
それは道を示しているようにも見えた。暗闇の中で手探りしながら生きてきた者たちの、終点を示す灯なのかもしれなかった。
「撫子さん、おいで」
「いらっしゃい」
ふいに行列から猫のお面を被った二人が進み出る。
声は両親なのだが、顔が隠れていて確信は持てない。
「わわ」
戸惑っている内に、撫子はあっという間に行列に引っ張りこまれる。
花と鈴で飾られた黄金の神輿が揺れていた。その周りを、お面の人々が踊りながら練り歩く。
「あの、水島様ですよね?」
撫子の問いかけに、二人は笑うばかりで答えない。
答える代わりに、撫子の手を取って踊りだす。
「おっと」
撫子は数歩よろめいたが、すぐに顔を上げて笑う。
「任せてください。盆踊りなら自信があります」
両親とあちこちを旅した。祭り好きの両親はそろって夏祭りに繰り出したから、撫子もいろんな祭りの踊りを知っている。
見よう見まねで撫子も踊る。数刻もしない内に、心が浮き立ってくる。
太鼓の音に鼓動の数が増えて、笛の音に血液の流動が滑らかになっていく。体が音楽に合わせて動き出す。
祭りはいいなと撫子は思う。細かいことを考えるのが苦手な撫子も時々は悩む。そういう悩みを解放してくれる気がする。
「僕らはもう満足したけど、君はまだ存分に楽しむといい」
父に似た声が撫子に囁きかける。
「あなたのしたいようになさい。幸せになりなさい」
母に似た声が告げて、それから二人が笑う気配がした。
「君は僕と彼女の」
「自慢の娘だから」
撫子ははっとして足を止める。
父さん、母さん。
そう呼ぼうとした途端、二人は手を離して行列の中へと滑るように歩んでいった。
後ろ姿さえ、一瞬で消える。
祭りばやしが撫子を包み込むようにいつまでも響き渡っていた。