いつの間にか結婚したことになってる

 それから三日後、撫子がフィンの部屋の扉を叩いたとき、事件は起こった。
 撫子は扉ごしにフィンの不機嫌そうな声に阻まれる。
「もうお前は来なくていい」
 撫子は今日、教えたいことをリストアップしてきた。どうしてと訊こうとして、フィンのうなるような声に口をつぐむ。
「お前、オーナーと結婚してるんだろ」
 撫子はううむとうなる。
 お客様にその辺りの事情を話すにはちょっと障りがあると、放っておいたのが気に食わなかったのだろうか。
「つがいになると、みんなおれのことを邪魔にする!」
 バタバタと部屋の奥に引っ込んでいく音がして、撫子は扉の前で立ち竦んだ。
「フィン様はお寂しい思いを繰り返したくないんですね」
 声がして振り返ると、チャーリーが立っていた。
「どういうこと?」
「ここでは障りがあるお話ですので、こちらへ」
 撫子はチャーリーに連れられて廊下を曲がり、スタッフオンリーの部屋に入る。
「お兄さんがつがいになってから、フィン様は別の家にもらわれていったってことなのかな」
「そのとおりです」
「うう」
 ぴったり当てたくない事実だった。撫子は心が痛んで頭を押さえる。
 今まで飼っていた幼いオスを追い出さなくともいいのにと思った。メスをもらってきたくらいなのだから、数が負担になったわけでもないだろうに。
 うなった撫子に、チャーリーが残酷な一言を告げる。
「フィン様は、別の家に移ってすぐ亡くなっているんです」
 撫子は嫌な予感がして、ごくりと息を呑む。
「まさか。「ウサギは寂しいと死ぬ」って都市伝説じゃないの?」
「そのまさかがあったんでしょうね」
 チャーリーはうなずいて続ける。
「ウサギがストレスに弱いのは事実ですから。今までずっと一緒だった母親代わりのお兄さんと引き離されたことがストレスになったんでしょう」
 そういえばと撫子は思い返す。
 フィンから新しい家に移ってからの話はほとんど聞かなかった。それほどフィンは前の家、もとい兄と一緒にいた記憶の方が大きいらしかった。
「いやその、私でよかったらばんばん八つ当たりしてくれていい。部屋に入れてもらえないかな?」
 寂しくて死んだウサギを、とても心配で一人にはさせておけない撫子だった。
 焦って言ってから、撫子は顔をくしゃりとゆがめる。
「でも私じゃ駄目なのかな。フィン様が待ってるのは、きっとお兄さんだけだよね」
 彼の生活ぶりからなんとなく感じ取っていたのは、彼はずっと誰かを待っていることだった。
 堅苦しい服でいいと言っていた。いつ会ってもいいようにと。
 一生懸命一人でいろいろなことができるように頑張っていた。誰かに認めてもらいたいと叫んでいるみたいだった。
「フィン様にお知らせするか迷っていることがありまして」
 チャーリーが真剣な顔になって言う。
「フィン様のお兄様が、今日の列車でこの駅にいらっしゃるんです」
「え!」
 死はまったく喜んでいい出来事ではないが、死ぬタイミングとしてはナイスだ。
 撫子は身を乗り出して言う。
「よし! フィン様と引き合わせて、一緒に楽しい休暇を過ごしてもらおうよ」
「そうもいかないんです」
 チャーリーは辺りをはばかるように声をひそめる。
「フィン様のお兄様は休暇を申請していないんです。終着駅まで行かれます」
 バタンと音を立ててスタッフオンリーの扉が開く。
「兄さんが?」
 そこにフィンが立っていて、先ほどのような勢いをすっかり失っていた。
「兄さんはおれのことなんてどうでもいいんだ」
 フィンは赤い目からぽろぽろと涙を落とす。
「兄さん……」
 しゃがみこんで丸くなるフィンに、撫子は慌てて駆け寄る。
「そんなことないですって! お兄様はフィン様がここにいるのを知らないだけですよ!」
 フィンの背をさすりながら、撫子はチャーリーに訊ねる。
「その列車って何時に着く?」
「さあ」
「こういう時こそ時間が要るんだって! 分かった、私が行ってくる! フィン様をお願い!」
「あっ! 撫子様」
 撫子が廊下を走りだすと、チャーリーが滑るように追い付いてきた。
「駅へ! お兄さんに一時下車でもいいから降りてもらって、フィン様に会ってもらう!」
「お兄様はフィン様がここにおられるのを知っているかもしれませんよ」
「フィン様が会いたがってることは知らないかもしれないでしょ!」
「お会いしたいとお客様が希望されたわけではありませんし」
 不思議そうな顔をしたチャーリーに、撫子はきっと睨んで言った。
「あれが会いたくないって態度か! 一流のホテルマンなら空気を読むんだ!」
 チャーリーはぴくりと耳を動かして、目をきらめかせる。
「さすがはオーナーの奥方様」
 目をうるませて、チャーリーは力強くうなずく。
「僕が至りませんでした。すぐに駅に行って参ります!」
「そう! そういうときこそ瞬間移動だ!」
 案の定、チャーリーは一瞬で撫子の前からいなくなった。
 しかし撫子が階段を下りてロビーまで来ると、入り口でチャーリーは足止めされていた。
「ヒューイ君、通して!」
「チャーリーは従業員です。駅まで行く許可は頂いておりません」
 チャーリーと同じ顔に無表情を張り付けて、ヒューイが立っていた。
 チャーリーはもどかしげに弟に言う。
「でも、ヒューイ。お客様の要望に応えるためなんだから」
「僕たちの役目はドアボーイだ。場所を離れてどうする」
 波の無い声で阻むヒューイを説得する時間が惜しくて、撫子はむっとしながら言う。
「いい。チャーリー君がだめなら私が行く」
「いけません。撫子様もオーナーに外出許可を頂いておりません」
「私はオーナーのものじゃない」
 撫子ははねかえすように言うと、扉を開いて体を滑り込ませる。
「自由も取られるくらいなら、妻なんて立場要るもんか。じゃ」
 ヒューイが伸ばした手をすりぬけて、撫子は扉の外に飛び出した。
 駅に向かって走り出す。駅前のホテルだから、駅自体はすぐ隣だ。
 撫子は構内に駆けこんで改札まで走る。
「うわ、もう来てる!」
 駅には既に列車が入っていた。窓口で猫耳の駅員を捕まえて問う。
「すみません! もう発車しますか!?」
「そうですねぇ。そろそろ」
 撫子の焦りなどどこ吹く風で、駅員がのんびりと言う。
「ホテルのお客様が面会を希望されている方が、乗っていらっしゃるんです!」
「ああ、そういうことでしたらどうぞ」
 ブチ模様の猫耳駅員はにこやかに改札を開きながら言う。
「笛が鳴ったらご降車くださいね。この列車は片道限りなので、戻ることはできません」
「わかりました!」
 撫子は改札が開くが早いか、停車中の列車に駆けこむ。
「ウサギのフィン様のお兄様! いらっしゃったら返事をしてください!」
 一番後ろの車両に乗り込んで、左右を見てウサギを探しながら声を張り上げる。
 撫子が来た時と同じで満員に近かった。虫だらけの車内、あらゆる動物たちの密集地だ。
「フィン様のお兄様! いらっしゃいませんか!」
 この中でウサギ一羽をみつけるのは、森の中から一匹の蝶をみつけるくらい難しいかもしれなかった。
 けれど何としてもみつけかった。毎日慣れない人型で一生懸命頑張ってきたフィンを、兄と引き合わせてあげたかった。
「うわ!」
 ピィと発車の合図の笛が鳴る。
 車両はもう一つあった。撫子は最後の車両に駆けこむ。
 列車が発車してしまう。フィンの兄どころか、撫子も駅に戻れなくなる。
「フィン様のお兄様! いらっしゃいませんか!」
 撫子がひときわ大声で叫んだ途端、ガタンと列車が揺れた。
 ゆっくりと列車がプラットホームを離れていく。
 間に合わなかった。撫子が無力感に泣きたくなったときだった。
 足元を何かに引っ張られる気配がした。
「フィンが俺に会いたがってるのか?」
 一羽の白いウサギが撫子の靴をくわえていた。
「……お兄様?」
 撫子が問いかけると、彼は赤い目でじっと撫子を見上げてうなずく。
「俺はルイ。フィンは俺の妹だ」
 ……妹?
 撫子は一瞬思考が止まったが、硬直している場合ではないと気づく。
「ルイ様! 降りましょう!」
 撫子は窓に駆け寄って大きく窓を開く。
 列車はまだ走りだしたばかりで大した速度ではない。
「降りるって……危ないぞ。死んだらどうする」
「もう死んでますから大丈夫!」
 撫子は力強くうなずいていた。
「私に任せてください! お願いします!」
 ルイは一呼吸分だけ黙って、のんびりと言った。
「うん。いいよ」
 撫子はしっかりとルイを腕に抱いて、窓枠に足を掛ける。
 立派な策なんてない。わかっているのは、速さが命ということだ。
「たぁ!」
 撫子は思いきって列車の外に飛んだ。
 線路脇はぱっと見、森のようになっている。草木が茂っているので、たぶん受け止めてくれる。
 しかし意外と列車は高い場所を走っていたらしく、頼りない浮遊感が撫子たちを包んだ。
 撫子は思わず目を閉じて歯を食いしばった。
 無謀という言葉が頭をよぎる。気合でごまかしたが、怖くないわけじゃない。
 落ちる衝撃に耐えられるように身を固くした。時間は必要と言った自分は棚に上げて、こんな時間はさっさと終われと願った。
 けれどいつまで経っても衝撃はこなくて、恐る恐る目を開ける。
「つくづくあなたには呆れます」
 誰かが撫子を包んでいることにようやく気付いて、視線を上げる。
「列車から飛び降りたら死ぬかもしれないことくらい、常識でしょう」
 そこにオーナーの猫目をみつけて、撫子は盛大に息をついた。
 確信なんて何もないが、勝手に体が安心する。
 撫子はすねたようにぼそりと呟く。
「あの世ではいろいろと常識が通用しないので、大丈夫かと」
「そんな都合のよい常識はありません」
 愛想全開な笑顔で、オーナーは眉をひきつらせる。
 撫子がちらりと辺りをうかがうと、オーナーは撫子を横抱きにして枝葉のクッションの中にいた。
 彼はすっきりとした仕草で立ち上がって線路にまで跳ぶと、撫子を下ろす。
 撫子はふと首をかしげる。
「ありがとうございます。……でもオーナーはどうしてここに?」
「そりゃあんたを追ってきたに違いないだろう」
 口を挟んだのはルイだった。
「あんたたち、つがいなんだろ」
「そんな露骨な言い方やめてください!」
 気恥ずかしくなって、撫子は顔を赤くした。
「い、いや、というかそもそも夫婦じゃなくて!」
「そうか? 匂いがするぞ」
「どんな匂いですかそれ!」
 わたわたする撫子に訳知り顔でうなずいて、ルイはオーナーを見る。
「ところで、そちらはもしかしてフィンのいるホテルのオーナーか?」
「はい。キャット・ステーション・ホテルの支配人をしております」
「休暇はいつまで取れるんだろう?」
 ルイは少し困ったように言った。
「その……今からでも申請できるものだろうか? お宅のホテルに少々用事ができたものでね」
 オーナーは恭しく礼を取って、微笑みながら顔を上げた。
「もちろんでございます。必ずお客様のご満足いただける休暇をご用意いたします」
 撫子がみるみるうちに顔を明るくしたのを、オーナーが横目で見ていた。
 数刻後、フィンの部屋にシルクハットと燕尾服姿の青年紳士が現れた。
「他人様に迷惑をかけるなと言っただろう!」
 シルクハットからウサギ耳をのぞかせた一見ミスマッチな紳士は、フィンを見るなり一喝した。
 フィンは真っ赤になった目を見開いて、戸口で立ちすくむ。
 ウサギ耳の紳士は不機嫌そうに言う。
「俺はお前が休暇を取っていると聞いて、少しは大人になったんだろうと思ったんだ。未練なく逝けると思ったのに」
 フィンはぷるぷると震えながら彼を見上げる。
「兄さん……おれ、がんばったよ」
 フィンは手を伸ばして彼の服の裾をつかんだ。
「でもやっぱり、兄さんが見てくれないとやだ」
「……子どもめ」
 しがみついてぐすぐす泣きだす妹の背中を、ルイはしょうがないなというように叩いた。
 ところでその一部始終を、撫子は廊下の端からのぞいていた。
「フィン様ってなんで男の子っぽい格好してるんでしょうね?」
 撫子はひそひそ声でオーナーに訊ねる。オーナーはさらりと答えた。
「幼い頃の動物は性別があいまいです。フィン様はお兄様の真似をしていたんでしょう。まさか男性だと思っていたんですか?」
 後で撫子がきいたところ、チャーリーも「もちろんレディを見間違えたりしませんよ」と笑顔だった。気づかなかったのは撫子ばかりだった。
「ともかく、これで一件落……」
 撫子が強引にまとめようとしたところで、ルイがこちらを振り向いた。
「フィンの教育、これからもびしばし頼む」
 死んでからも手厳しいお兄様だった。
 言葉に迷った撫子と違い、オーナーはほほえんで返す。
「お客様のご希望の通りに」
 オーナーは優雅に一礼して約束した。
 ふいにオーナーに袖を引かれて、撫子はスタッフオンリーの部屋に入る。
「撫子、あなたに無断で外出することを禁じます」
「え?」
「また列車から飛び降りられてはかないません」
 撫子は苦笑して頬をかく。
「いやぁ……もうしませんよ。死ぬほど危ないと思ってなかったんです」
「私はあなたがもう死に向かうつもりなのかと思いました」
 オーナーの声が強張っていたので、撫子は息を呑む。
「私より先に逝かないでください」
 撫子はそれを聞いて、オーナーは案外寂しがりなのかもしれないと思った。
 どれくらい長く生きているのか、今までどんな人と一緒にいたのか、まだ何もかもオーナーのことを知らない。
「いつ死ぬかなんて私の勝手ですけど」
 念のため断ってから、撫子は口をとがらせた。
「でも私、そんなに簡単に死にませんから」
 ちょっとだけ、本当にまだちょっとだけど、今は離れるのが嫌だと思う。
 そんなことを口に出すのは照れくさい乙女心に気づいた、ある日の出来事だった。
 あの世暮らしがこの上なく快適というのもよろしくない。
「そろそろ参りますか」
 広々とした部屋で睡眠取り放題、極上の食事は食べ放題というブルジョアな生活を続けていると、毎日それだけで満足して何もしなくなってしまう。
 無生産に、無為に生きる。オーナーが撫子に希望したのはまさにそんな生活だったかもしれない。
 しかし撫子が「いや、それは人間の生活としてどうなのか」と哲学してしまったのは、残念としか言いようがない。
「ごちそうさまでした。それではお掃除に行ってきます」
 レストランでの食事の後、撫子は手を合わせてから立ち上がる。
 自堕落防止法として、考えた策が一つ。
 撫子は一度寝て一食食べたら、一度は働くという習慣を身につけることにした。
「失礼します」
 撫子の部屋の隣にあるオーナーの部屋に、合鍵を使って入る。
 フィンの世話もひと段落し、次に何かする仕事がないかと訊いたところ、オーナーの部屋の掃除を言いつけられた。
「よし、やるぞ」
 腕まくりをしてから、撫子はじゅうたんを隅から順々に掃除機をかけ始める。
 ワイヤレスで音の静かな小型掃除機は、少しの力ですいすい動く。
「ふん、ふふんふーん」
 最近お気に入りの歌のイントロを口ずさみつつ、快適にお掃除をする。
 死出の世界の塵は掃除しなくても害はないらしいが、積もると美観を損ねるらしい。
「むかしむかしのおはなしでーす」
 ハイテク掃除機はすぐに廊下を掃除し終わったので、撫子は奥まで行ったついでにお風呂場に手をつけることにした。
「すずめのおやどにやってきた、わかものがひとり」
 洗剤の要らないスポンジを使って、ごしごしと湯船を擦る。
「にんげんはめずらしい、ひとばんおとまりいかがです……これよく落ちるな。うちにもほしい」
 ついまじまじとスポンジを見る。
「うたとおどりでおもてなし、おんせんつかってごくらくきぶん」
 バスタブの湯垢を落とし終わると、今度は壁を磨く。
「ふーん、ふふふーん」
 間奏に入る。
「ふーん、ふ? あれ? まあいいや」
 あまりに間奏が長いのでわからなくなってきた。
 撫子はシャワーで壁の汚れを落とすと、掃除用品をバケツに入れてベッドルームに向かう。
「かえるとき、すずめのおかみにいいました」
 撫子はベッドメイキングが好きだ。しわ一つ作らずにできたときの満足感は実に快感だ。
「おだいはなにで、はらいましょう」
 撫子はシーツを持って意気揚々とベッドルームの扉を開いた。
「むかしむかしのおはなし……」
 ソファーの上にオーナーの白い尻尾が覗いていることに気付いて、撫子は氷になった。
「ふわぁ!」
 今の歌を聞かれたかもしれない。チャーリーに教わった、再現率三パーセントくらいのド下手な歌をオーナーが聞いていたら、冷笑が返ってきそうだ。
 思わず一歩後ろに引いた撫子にオーナーの冷たい一言はかけられることがなかった。
 撫子は恐る恐るソファーに近付いて覗きこむ。
 オーナーは体を丸めて横向きに眠っていた。静かな寝息を立てながら尻尾の先までくるんと巻いている。
 人型になっても丸まって眠るんだ。そう思ったら、なんだか愛おしく感じた。
 しみじみと見てみると、オーナーの横顔は端整で上品だ。目を閉じていると睫毛も長くて綺麗な扇状になっている。
 いつも撫子が掃除に来る時には部屋にいないし、時々会うことはあっても長く一緒にいることはない。オーナーが忙しいのは、ホテルの隅で働いている撫子にもわかる。
 それでもオーナーから愚痴なんて聞いたことがない。そもそもオーナーが自分のことを語るのを聞いたことがない。
 撫子がみつめていてもオーナーは起きる気配がなかった。
 撫子はそろそろとベッドから毛布を持ってくる。
「オーナー」
 そっと毛布をかけようとしたところで、オーナーがつぶやいたのが聞こえた。
 オーナーが、「オーナー」?
 撫子が首をひねりながら毛布をかけると、オーナーのまぶたがぴくりと動く。
 彼は気だるげに半身を起こして、撫子に緑の目を向ける。
「撫子でしたか」
 ぼんやりした目をしたのは一瞬で、オーナーはすぐにいつもの笑顔になっていた。
「毛布は結構。もう起きます」
「お疲れなんじゃないですか? ベッドでお休みになったら」
「あなたもそろそろおわかりでしょうが、この世では肉体的な疲れを感じません」
 オーナーはカッターの襟を整えながら立ち上がる。
「精神的な疲れは別ですが、あなたに心配されるほど私も無様ではありません」
 きっぱりと言い切って、オーナーは優雅に笑った。
「大体あなた、歌詞をわかって歌っているんですか?」
 オーナーは鏡で身支度を整えながら言う。
 その言葉に、撫子は喉を詰まらせた。
「や、やっぱり起きていらっしゃったんですか?」
「眠っていましたが、聴覚は起きていますので」
 そんな器用な。思わず感心しつつ、撫子は言い訳をする。
「歌詞はアラム語辺りでしょう? 日本人の私じゃわかりませんよ」
 マニアックな理由をつけた撫子を見下ろしつつ、オーナーは言う。
「死出の世界では言語は共通です。動物のお客様の言葉もわかるでしょう?」
「ああ、そういえばそうですね。どういう原理なんですか?」
 オーナーは少し考えてから答えた。
「じゃあ、あなたの世界ではどうして言葉が分かれているんですか?」
「え? それはバベルの塔が……いえ、実はわかりません」
 撫子が適当な知識を披露するのをさっさと諦めて素直に認めると、彼もまた堂々と言い放った。
「この世界ではそういう風に出来ているんです」
「わかりました」
 このひとのこういう案外投げやりなところ、私は好きだなぁ。撫子はこっそり思いながら、頭を下げた。
「その歌は歌詞を理解してこそ面白いものですよ。……ああ、そうそう」
 オーナーは部屋を横切って机の前に来ると、そこにある黒い機材を示して言う。
「時間があったら倉庫にこれを仕舞ってきて、ついでに片付けをしてきて頂けますか? 場所はチャーリーが知っていますから、彼も使って構いません」
「了解です。気合入れて掃除しますよ」
 撫子がうなずくと、オーナーはまた撫子の方に歩いてきた。
「な、何ですか?」
 すぐ側からじっと猫目で見下ろしてきて、撫子はちょっとのけぞる。
「あなたは働くことが楽しいですか?」
「ここで働くのはたいてい誰でも楽しいんじゃないですか」
 撫子はきょとんとして言う。
 備品がいちいちハイテクで使いやすいし、同僚が親切だし、まかないと寝床がすばらしい。
「何もしないで寝暮らししていても全く構いませんよ。ただあなたがそれだと死にそうだと言うので仕事を与えているだけです」
「オーナー。それはあまりに私を馬鹿にしてます」
 撫子はその言葉にちょっとむっとした。
「オーナーが疲れてソファーで寝ている横で、私に掃除もしないでふてくされてろって言うんですか」
 オーナーは黙って撫子を見た。撫子は気まずい思いになる。
 またやってしまった。生きていた頃も、こういう熱いところというか、噛みつく癖が足を引っ張った覚えがあるのに。
「私はあなたを利用するために結婚を申し込んだわけではありませんが」
「はは。すみませんね、たいしたことできなくて」
 私に瞬間移動とか超人的なことを要求されても困りますから。
 撫子が乾いた笑いをこぼしつつ頭をかくと、オーナーはぽんとその頭を叩いた。
「愛していますよ、撫子」
「なっ、突然何ですか!」
 いきなり言われて首の辺りを赤くする撫子に、オーナーは笑う。
「ちょっとわかりにくかったので、まとめました」
 尻尾を一振りして、オーナーは撫子の肩を通り過ぎ際に叩いて去って行った。
 撫子がチャーリーに連れられて扉を開くと、石造りの重厚な地下室の倉庫が二人を迎えた。
「片付けがいがあるでしょう?」
 倉庫は元の世界でいうドームくらいの高さはあって、ぽつんとした頭上の頼りない光だけでは全貌がまったく見えなかった。
 物が天井近くまで詰め込まれていて、消防士が使うような特殊な梯子を使わないと上まではとても届かない。
「でもあんまり汚くはないね。不思議」
 ほこりも塵も見当たらないからだろうか。物は多くて圧迫感はあるが、触ることに抵抗はなかった。
「こちらです。むやみに手をつけると僕もわからなくなりますから、まずは目的のものから片付けましょう」
 チャーリーは黒い機材を手に、先に歩いていく。
「それって何?」
 黒い機材は古い脚立付きのカメラのような形をしていた。
「プロジェクターですよ。昔風に言えば映写機ですね」
「ああ、映画見るための機械なんだ」
 木製でごつごつした形は見慣れなくて、博物館にあるくらい古そうだった。
「オーナー、部屋で映画見てたのかな」
 猫が見る映画ってどんなものだろう。撫子は首を傾げて、ちょっと見てみたいと思った。
 チャーリーは右に曲がったり左に曲がったり、案内もないところをすいすい歩いていく。自分だけで来たら百パーセント迷ったと、撫子はありがたくチャーリーの後をついていった。
「ここです」
 チャーリーが鼻を動かして立ち止まる。どうやら彼は匂いで場所を覚えているらしい。
 そこにはスクリーンが数十枚とフィルムがぎっしり詰まったケースが積み重なっていた。
「新しいものもあるんだね」
「そちらはこの間使ったばかりですから。時々当ホテルでは上映会を開催いたしますし」
 最新鋭と思われる自動映写機と映画館にあるような巨大スクリーンも丸めて壁に立てかけてある。
「僕がすす払いをしますので、撫子様は片づけを」
「了解」
 チャーリーははしごをたてかけるなり、するすると器用に上っていく。あっという間に一番上に辿り着くと、片足をはしごに絡めてすす払いを始めた。
「昔々のお話です」
 あ、またチャーリー君があの歌を歌ってる。撫子は耳に留めながら思った。
 撫子はオーナーの部屋から持ってきたフィルムをどこに片付けようかと思案する。
「あ、ここだ」
 フィルムボックスを開けていると、その中にぽっかりと空いたスペースがあった。撫子はそこに持参のフィルムを仕舞うと、ふと床に落ちてきたものを拾ってみる。
「ほこりのわりに汚くないなぁ」
 チャーリーが上から払い落しているものは、手で触ってみるとまるで霧のように溶けてなくなってしまった。
 砂糖のような、雪のような。正体はわからないままほうきを取って集めていると、空気の流れを感じた。
 鳥の羽音が聞こえて、突風が撫子たちを襲う。
「危ない!」
 撫子はとっさにチャーリーのはしごを支えようとしがみついた。
「え、えええっ!」
 けれど突風は撫子すら吹き飛ばした。
 倒れていくはしごがスローモーションのように見えた。落ちてくるチャーリーに伸ばした手は空を切る。
「つぅ!」
 仰向けに床へ叩きつけられた撫子は、息を詰まらせて倒れる。
 目の前が出来の悪い抽象画みたいに歪んだ。
「撫子様!? 撫子様!」
 優雅に着地したチャーリーにだけは安心した。
 ほうきで集めた白いものを視界いっぱいに映したのを最後に、ぷつりと撫子の意識が途切れた。





「あなたのような優秀なホテルマンがここにいてくれれば、心配は要らないわね」
 女性の声がどこかで聞こえた。
「もったいないお言葉です、オーナー」
 聞き覚えのある男性の声がそれに答える。
 その声が誰のものか考える前に、撫子の視界はフィルムのように入れ替わる。
 雲の上を漂うように頼りない感覚が体を包んだかと思うと、ゆっくりと下降し始める。
 ぽすっと何か柔らかいものの上に落ちた。
「もう、子ども扱いして」
 今度は少年の声が聞こえた。
 撫子は頬に当たる柔らかさに、幼い頃母に膝枕してもらった感触を思い出す。
「だってあなたの髪、柔らかくて気持ちいいのだもの」
「見せたいものって何ですか?」
 さきほどの女性が軽やかな笑い声を立てて言う。
「オーナーの鍵よ。私の助けが必要になったら使いなさい」
 目の前に映ったものに、撫子は思わず声を上げた。
「あ……!」
 自分の声で目が覚めた。
 撫子は自室のベッドの上にいた。赤茶色の光が部屋を満たしていて、肌触りのいい毛布が肩までかかっている。
 左手が何か温かいものに包まれていることに気付いて、撫子は視線を上げる。
「気分はどうです?」
 緑の目をじっと撫子に向けているオーナーがいた。
「オーナー。その顔怖いです。目が脅してます」
 顔は笑顔なのだが、目がちっとも笑っていなかった。
「笑っていませんからね」
「怖っ!」
 撫子は少し身を引いたが、手は離してもらえなかった。
「私、何かしましたか?」
「お迎えがくるところでしたよ」
 撫子が首を傾げると、オーナーは低い声で告げる。
「この世でも魂があまりに痛むと、回収するために「お迎え」が来ます。あなたの世界で言うところの死神です」
「転んだくらいで死神が来るんですか!」
 お風呂場で転んだら命にかかわることもあると聞いたが、そう簡単に来ないでほしい。
「そうでなくてもお迎えが来ることはあるんですけど。あの方々の基準は私たちにはよくわかりませんから」
「いつ死刑執行人が来てもおかしくないとは」
「ともかく、転んだことが問題ではありません。あなたが大量に吸い込んだ記憶があなたの精神を痛める危険があったんです」
「記憶……? えっと、あの白いものですか?」
 意識が途切れる直前に撫子を襲った大量の白いものを思い出すと、オーナーがうなずく。
「倉庫のような日常的に掃除しない場所には記憶が溜まりやすいんですよ。元々死出の住人なら生まれた時から吸い込んでいますから問題ないんですが、あなたが慣れていないのを忘れていました」
「同感です。そんな未知のアレルギーがあるとは私も知りませんでした」
 生きていた頃は花粉症すらかかったことがない撫子には、想像もつかないアレルギーだった。
「私のミスです。記憶が散らばりやすい場所に近付かないのはもちろん、これからは掃除もおやめなさい」
「え!」
 撫子は起き上がってオーナーの袖をつかむ。
「大丈夫ですよ。ちょっと吸い込んだくらいで死にやしません」
 ハウスダストくらいで死んでたまるか。そう思って言った撫子だったが、オーナーは首を横に振る。
「退屈しのぎにさせている仕事で死なれては敵いません。何か別の仕事を与えますから、掃除はやめるように」
 有無を言わさない様子だったので、撫子は仕方なくうなずいた。
 撫子をまたベッドに横たえると、オーナーは額に手を当てて言う。
「よく眠って記憶を追い出してしまいなさい。何日か眠れば抜けるはずですから」
 ひんやりとしたオーナーの手は気持ちよくて、撫子は目を閉じる。
「オーナー」
「何です?」
 撫子はふいに目を開いて言う。
「私の中に入って来た記憶も、元は誰かのものだったってことですか?」
「そうです。だから捨てていいんです」
 オーナーは撫子の前髪をかきあげながら目を細めた。
「あなたが今を生きるためには、人が捨てたものなど気にしないんです」
 その声が真剣だったので、撫子はそれ以上言葉を続けられなかった。
「おやすみ、撫子」
 繰り返し頭を撫でられている内に、いつしか撫子は眠りに落ちていた。
 掃除は禁止令が出てしまったので、撫子はレストランで給仕をすることになった。
「もうお体は大丈夫なのですか?」
「ああ、はい。だって怪我や病気をしたわけではありませんし」
 いつも撫子の給仕をしてくれるペルシャ猫の老ウェイターは、撫子が裏方で待っている間に優しく話しかけてくれる。
「無理はなさらないでくださいね」
「ありがとうございます」
 撫子は頭を下げてから、ふと顔を上げる。
「そういえば、お名前はヴィンセントさんですよね?」
 彼は柔和な顔に微笑みを浮かべてうなずく。
「ええ、ヴィンセントと申します」
「昔からいらっしゃるんですか?」
 撫子が言うと、ヴィンセントは赤銅色の瞳を細めた。
「もしかして、撫子様が吸い込んだ記憶に私のことがございましたか」
 勘のいいお方だと思いながら、撫子は答える。
「ええ。優秀なホテルマンだと誰かに言われていて。女性で、えっと……」
 撫子が言葉に迷うと、彼は撫子の内心を察したように続けた。
「オーナーと私がお呼びしていたのでしょう? その方は先代のキャット・ステーション・ホテルのオーナーですね」
「先代?」
「ええ、現在のオーナーは二代目です。その女性はこのホテルを創立なさった方ですよ」
 ヴィンセントは首を傾けて何かを思い出すような素振りをした。
「お名前は……ああ、駄目ですね。従業員名簿から消されているので、従業員の記憶からは消えてしまっています」
「便利なのかそうでないのかわからないですね、従業員名簿」
 ヴィンセントは声をひそめて言う。
「ちなみに、従業員名簿の紙は元々かみから交付されたものでして」
「か、神!?」
「あまり大きな声では言えないんですが」
 確かに撫子も知る限り、あまり日常会話で使う名前ではない。
「いるんですか、神様」
「お上と呼びましょう」
 ヴィンセントは人差し指を口の前に当てて大人の対応を見せる。
「その辺りのことはあいまいにしておいた方が無難です。紙を交付したりお迎えを派遣したり、たぶんいらっしゃるのは確かですが」
 撫子はあの世のシステムがちょっとわかったような、余計わからなくなったような気分だった。
「なぜ紙を?」
「昔からのなりゆきです。ただ、そこに書き込むと従業員全員で共有できるので便利です」
 撫子の頭にインターネットとパソコンがよぎった。何度でも思うが、あの世は思っていたより最先端だ。
「神のお上が紙を交付……」
 かみだけに。駄洒落を言いそうになりながら、撫子はぐっとこらえる。
 厨房から呼ぶ声が聞こえたので、ヴィンセントは一礼して告げる。
「失礼。給仕に参ります」
「いえいえ。お引き留めして申し訳ありませんでした」
 撫子も仕事をしようと、レストランの中を見回す。
 生前に飲食店のバイトもしていたが、こんな高級感あるレストランの給仕は初めてだ。撫子は粗相のないようにと少し緊張しながら、厨房と席を往復した。
 支給されたカッターシャツにネクタイ姿で動くことも最初は戸惑った。ただ数刻もすればうきうきしてきた。
 元々働くのは好きだ。お客様とお話したりしながら、撫子はけっこう楽しく給仕をする。
「ねえ、あなた人間ね?」
 お水を足しに行った先で、撫子は呼びとめられる。
 はい、と返事をしようとして、撫子は息を呑む。
 そこに座っていた女性はこの世ならざる、異彩を放つほどの美貌を持っていた。長い黒髪を結って白いうなじを出していて、白い生地に桜の文様が描かれた着物を着ている。
「こちらのオーナーが最近人間と婚姻を成したとお聞きして、参りましたのよ。あなたですの?」
 お年は二十代の後半といったところだろうか。小柄な体躯から来るかわいらしさと妙齢の表情のあでやかさで、軽く小首を傾げる様が実に絵になる。
「恐縮ながら私めは結婚しておりません」
 変な敬語を使いながら撫子はかしこまって首を横に振る。
 毎度の断り文句を告げて、目の保養にするつもりで撫子はまじまじと彼女をみつめる。
「オーナーのことは幼少から存じておりますのよ。なかなか気難しい方でございましょう?」
「まあ難しいところがあるのは否定しませんが」
 初対面の相手に笑顔で「死にたくなければ妻になれ」と脅迫してくるような方だ。最初は撫子も怒ったし、今もそのときのことは許していない。
「優しいひとだと思ってますよ」
 躍起になって夫婦でないと主張するより前に言っていたのは、最近認め始めていることだった。
 オーナーは言葉こそ冷ややかだが、撫子を助けてくれたりアドバイスをくれたりする。
 言葉よりふっと撫子を見るまなざしの方が、案外優しさを伝えてくる気がした。
「あなたは外出もままならないのでしょう?」
 撫子は一瞬痛いところを突かれた気がした。
 どうしてそんなことを知っているのかわからないが、それは本当だ。
 死出の世界に来てから、最寄りの駅以外に行ったことがない。もちろんホテル生活は快適で何不自由ないけれど、このまま一生外に出られないままなのではと不安もある。
「わたくし、ここより近いところで宿を営んでおりますの。一度遊びにいらっしゃいませんか?」
 甘い微笑みを刻んで、その女性は撫子の耳に口を寄せる。
「なに、簡単なことでございますよ。わたくしの手を取るだけ。すぐに宿までご案内いたしますわ」
 悪い人は甘い声を使う。生前、散々学んだ教訓だ。
 けれどその声は撫子の頭のそういう正常な感覚をもみつぶした。するりと内側に入っていって居座るような、魔的な誘いだった。
 女性は立ちあがって撫子の手を引いていた。
 霧がかかっているように辺りがぼんやりとしか見えない。歩いているつもりはないのに、体は勝手に進んでいく。
 廊下をすり抜けて階を上り、観音開きの窓まで辿り着く。
 窓がひとりでに開いて女性が先に外へ出る。宙に浮いたまま、彼女は手を差し出した。
「さあ、参りましょう」
 撫子は無言で手を伸ばす。
 あ、これは危ない感じだ。でも体が動かなくて、逆らえない。
 怖いという感覚も麻痺しそうになっていたときだった。
「この世に不慣れな妻を私の許可なく連れ出されては困ります」
 後ろから抱きすくめられて止められた。
 急速に意識が覚醒する。無重力状態の体がすとんと床に落ち着くような心地がした。
「危ないところでしたね、撫子。外にはだます輩もいますから」
 撫子が首だけ巡らせると、叱るように指を立てたオーナーの姿があった。
 何か危ないところに連れて行かれそうになった。
 撫子はそれに気づいて嫌な汗を流す。悪い夢から覚めたような気分だった。
 女性は喉を鳴らして笑いながら言う。
「だますとは心外なこと。わたくしは我が宿においでになるようお勧めしただけ」
「暗示をかけて連れて行くのはだますと言うのですよ、おかみ」
 撫子は額の汗を拭って、思わず驚きの声を上げる。
「え、この方神様なんですか?」
「お上はもっと良心的です。彼女はただの宿の女主人ですよ」
 女将。そちらの方がよほど普通の名前なのに、どうもかみというフレーズを聞き過ぎた。
「老舗、「雀のお宿」のね」
 桜の着物をはためかせて、女将は背中に翼を広げて舞い上がる。その翼は確かに雀のものだった。
 撫子はぼそりと言葉をこぼす。
「てっきりオーナーの昔の恋人かと」
「誰がこの妖怪と恋人ですか」
「ちょっ、オーナー。言い過ぎ……!」
「ほほほ、生意気な口を利くようになったこと」
 女将は袖の先で口元を押さえながらころころと笑う。
「幼き頃はまだかわいげもあったというのに。坊や、年長者は敬うものですよ」
「そうですよ、オーナー。こんなお若いのに」
「千年以上死出の世界にいるというのに? この女将の宿がどんなものか、あなたはあれだけ歌っておきながらわかっていないのですか」
 撫子が首をひねると、オーナーは待っているのも面倒とばかりに口を開く。
「昔々のお話です。雀のお宿にやって来た若者が一人」
「ふんふん」
「人間は珍しい。一晩お泊りいかがです? 歌と踊りでおもてなし、温泉浸かって極楽気分」
「あ、なんとなくわかってきました」
 それはチャーリーが教えてくれた、最近お気に入りのポップな歌だった。
「帰る時、雀の女将に言いました。お代は何で払いましょう?」
 撫子は口を開いて、次の歌詞を口にしようとした。
「お代はあなたの魂で結構。人間の魂は極上の珍味」
 ……お?
「若者は美味しく食べられましたとさ。めでたしめでたし」
「めでたくない!」
 子どもが聞いたら泣く昔話だった。
 撫子も真相を聞いた今となっては泣きそうだった。
「古来、日本は動物を対象にした宿がほとんどなんです。人間が停留所にいるのは終着駅に辿り着くまでに逃げてきた者とみなされ、食べられます」
「じゃあ人間は休暇を過ごせないじゃないですか!」
「それを不満に感じた人間がいたのですよ」
 女将が目を細めながら言った言葉に、オーナーはぴしゃりと返す。
「先代は純粋な興味で人間を対象とするホテルを創立なさったのです」
「ほほ。その結果、一体何人の人間が訪れたのですの?」
 女将は口の端を上げて告げる。
「生に執着なく休暇の申請を許される人間などほんの一握り。すぐに人間を対象にするのをやめ、人型で休暇を過ごす動物のためのホテルとなったのでしょう?」
「それでも人間のお客様を受け入れる宿として、当ホテルは好評をいただいております」
「創立目的が間違っているのですよ。なぜそれを受け入れないのです?」
 雀の女将は駄々っ子をあやすように話すのをやめない。
「ここは日本の動物たちの通る駅だというのに、西洋かぶれしたホテルを建てている。信念などないに等しいではありませんか」
「信念ならあります!」
 撫子は思わず反論の声を上げていた。
「西洋風なんて関係ないじゃありませんか!」
「答えになっておりませんよ。何の信念があるというのです?」
「ここは暮らしやすくてハイテクなホテルです。信念くらい当然……」
「おやめなさい、撫子」
 言いかけた撫子をオーナーは静かに制止した。
「商売敵に当ホテルのポリシーを説明する義理はありません。ポリシーより、お客様に休暇を楽しんでいただけることが大事です」
「ですが、オーナー」
 あんな言われ方、悔しい。そう言おうとして、オーナーの言葉に息を呑む。
「先代の意思も知らない輩の言葉に、ホテルの支配人たる私が動揺するわけにはいきません」
 一瞬撫子は呼吸を止めてしまった。
 撫子が知らない先代の「オーナー」が創ったホテルについて、撫子だって口出しできることではないと言われたような気がした。
「それで? 私をおびきだして、何を企んでいるのです?」
 少しうつむいた撫子には気づかなかったのか、オーナーは女将に向き直る。
 女将は笑い声をこぼして袖から何かを取り出した。
「人聞きの悪い。わたくしはこれをあなたに届けに参ったのですよ」
 それは木の軸に巻いたフィルムだった。ホテルの倉庫で見た、旧式のプロジェクターに使うものだ。
 オーナーは眉を寄せて言う。
「やはり倉庫からフィルムを盗んだのはあなたでしたか」
「おや、わたくしはただ拾っただけ。盗んだなど濡れ衣も甚だしい」
 撫子は先日倉庫に吹き込んだ突風を思い出した。
 あの時鳥の羽音が聞こえた。撫子だけではなくチャーリーもいたのだから、そちらからオーナーに話が伝わっていたのかもしれない。
 オーナーはフィルムに目を細めた。
「何と交換しようと?」
「話が早い。対価なしの取引などありえませんからね」
 女将は愉快そうに首を傾けて、桜の花びらのような唇から言葉を紡ぐ。
「代わりに、坊やの従業員名簿を見せてくれるかしら?」
 オーナーは一瞬沈黙して、すっと懐に手を入れる。
 撫子は慌ててオーナーを振り向いた。
「従業員名簿ってお上からもらった大事なものでしょう? 商売敵に渡したらまずいんじゃ」
 撫子がオーナーの袖を引いて訴えても、彼は首を横に振る。
「あのフィルムは当ホテルの記憶。流出は恥です」
 一瞬子どものように頼りない目をして、オーナーは撫子を振り払った。
 オーナーは一歩進み出ると、懐からリボンで縛った羊皮紙のような巻紙を取り出して、女将に向かって差し出す。
 それと引き換えにフィルムを受け取ると、オーナーは撫子に渡した。撫子は思わず受け取ってしまう。
 オーナーは女将に向かって挑戦的に笑う。
「一つ言っておきますが、それはあなたには使いこなせないでしょう」
 オーナーは撫子を振り返って言う。
「撫子。あなたは私の部屋にいなさい。すぐに戻ります」
 言葉が終わる前に、いきなりオーナーの姿が消えた。
「オーナー!?」
「ほほ。我がこと成れり」
 まばたきをするような一瞬の後、女将は翼をはばたかせて舞い上がっていた。
「な、何をしたんですか!?」
 女将の手には筆があって、従業員名簿に線を引いている。
「オーナーの名を消して、わたくしの名を書き込んだのですよ。今よりこの宿の主はわたくしです」
「見るだけと言ったじゃないですか!」
「簡単に名簿を渡すような主が悪いのですよ」
「それ、だます方が言えることですか!? だます方が100パーセント悪いに決まってるでしょう!」
 きっとにらみつけたが、オーナーの姿はもうどこにも見えない。
「オーナーはどこですか……うわっ!」
 女将は笑い声を響かせながら撫子の横をすり抜けてホテルの中に飛びこんでいく。
 後に残ったのは粉々に砕けた窓ガラスだけだった。
「こらぁ!」
 撫子はこうしている場合ではないと思い、大急ぎで階段を下って行った。
 まずは事態を従業員の皆に伝えなければと考えた撫子だったが、フロントに下りた途端異変に気付く。
「チャーリー君、何してるの?」
 ブルーグレーの耳をひょこひょこさせながら歩くチャーリーの手には、畳があった。
「ああ、撫子様。これは女将の指示で、玄関を畳に張り替えるところなんです」
 仕事を与えられるといつも嬉しそうなチャーリーは、今日も満面の笑顔だった。
 しかし今は全然ほほえましくない言葉だ。
「女将の言うことなんて聞いちゃ駄目だよ。君の上司はオーナーなんだから」
 撫子が言うと、彼はきょとんとして問いかける。
「オーナーって、どなたですか?」
「だからこのキャット・ステーション・ホテルの」
「ここは「猫のお宿」ですよ。女将がそう命名されました」
 これがチャーリーでなければ、撫子は彼が自分をからかっているのだと思った。
「……猫のお宿」
 だけど撫子が知る限り、彼以上に純心な従業員はいない。冗談を言っているとは思えなかった。
「ヒューイ君」
 撫子は扉の前で彫像のように待機しているもう片方のドアボーイに声をかける。
「はい。御用は何でしょう?」
 チャーリーとは対照的に無表情で振り向くのは、普段通りだ。
「ここはどこ? 主は誰?」
「こちらは猫のお宿。主は雀の女将でございます」
 ヒューイの即答に、撫子は嫌な予感を確信に変える。
 撫子が知る限り、彼以上に生真面目な従業員はいない。
 事態がらせんに巻き込まれているような心地がして、とっさにどうしたらいいのかわからなくなる。
 ふいにチャーリーが嬉しそうに声を上げる。
「あ、お呼びがありました」
 撫子が振り向くと、チャーリーはにっこり笑う。
「従業員は二階のレストラン「ハバナ」に集合だそうです。失礼いたします」
「私も行く!」
 瞬間移動した彼にすぐ追い付けるはずはないが、撫子は二階へ走る。
 レストラン「ハバナ」では、すでに従業員たちが集められていた。
「みなの者、これより当宿の方針を一新いたします」
 その中心に雀の女将の姿があって、前からそうだったように指示を出していた。
「当宿の信念は古き良き日本の温泉宿たること。それにふさわしくない施設はすべて閉鎖し、エレベーターなどの機械は撤去なさい。食事処は一階の料亭に統一します」
 そんな女将の話を従業員たちはうなずきながら聞いていて、撫子はぞくっとした。
「服装は着物を支給いたします。和装を徹底すること。何か質問のある者は?」
 完全にオーナーの立場になり代わっている女将に寒気を覚えながらも、撫子は一歩前に出ようとした。
「女将、一つ気がかりなことが」
 撫子の前に腕が差し出される。
 撫子の代わりに一歩前に出て、彼は言った。
「意見を述べても構いませんでしょうか?」
 それはペルシャ猫の老ウェイター、ヴィンセントだった。女将は不愉快そうに問う。
「わたくしの方針に異があるのですか?」
「この老身の言葉にも耳を傾けて頂きたく」
 ヴィンセントは低姿勢で切り出す。
「女将のお考えには全く敬服いたしますが、お客様にご不便をおかけするのは気がかりです。早急な改装はお待ち頂きたいと存じます」
「待っていてはいつまでも改装はできません」
 冷たく切り捨てた女将に、ヴィンセントは、ええ、と相槌を打つ。
「ではせめて、お客様が滞在中のお部屋の改装は後になさいませんか。お客様の休暇のお邪魔になっては大事ですので」
 女将は眉をひそめて何か言い返そうとしたが、別の従業員から声が上がる。
「ヴィンセントさんがそうおっしゃるなら」
 誰かがぽつりと告げたのと同時に、ざわめきが広がる。
「さすが古くから当宿にお仕えしている方の言葉には重みがあります」
「私もお客様にご不便をおかけするのは賛同できません」
 波紋が広がるように、従業員たちは口々に異を唱えだした。
「静まりなさい」
 女将は手を上げて彼らを制すると、厳しい口調で続けた。
「改装は決行いたします。施設は閉鎖、機械は撤去なさい」
「しかし……」
「女将、お考え直しを」
 まだ反論する従業員たちの中で、ヴィンセントは胸に手を当てて一礼すると後ろに下がる。
 彼はついと赤銅色の瞳で撫子を振り向く。
――玄関の外でお待ちしております。
 無声音で撫子に告げて、彼は微笑んだ。
 撫子がホテルの外に出た時、既にヴィンセントは来ていた。
「ご足労頂いて申し訳ありません」
「いえ、そんなことより」
 撫子は上がった息を収められないままに訊ねる。
「ヴィンセントさん! こ、ここは……!」
 息継ぎをしようと撫子が言葉を切ると、彼は落ち着いた様子で言った。
「このキャット・ステーション・ホテルの支配人は、白猫のオーナーでございますね」
 撫子は目を見開いてごくんと息を呑む。
「みんな忘れちゃったのかと……っ!」
「どうぞお声を低く。女将に聞き咎められてしまいます」
 撫子は慌てて両手で口を塞いだ。ヴィンセントは一歩近づいて、ささやくように告げる。
「私はオーナーにおなりになる前のあの方を存じております。従業員名簿から名が消えても記憶から消えることはありませんでした」
 ひとまず安堵の息を吐くと、撫子は膝に手を当てて頭を垂れる。
 でも従業員名簿が女将の手にある以上、いつヴィンセントの名も消されてもおかしくない。
 撫子は焦りを押し殺して顔を上げる。
「どうしたらいいんでしょう? 女将から従業員名簿を取り返せば、オーナーは戻ってきますか?」
「女将に近づくのは危険です。あの方は妖怪ですから」
「だって」
 撫子が顔をくしゃりと歪めると、ヴィンセントは首を横に振る。
「オーナーの気配が感じられません。ホテルのどこかに閉じ込められているようですね」
「まさか川にでも捨てられていたり……もしかしたら、た、食べられていたり……」
 後半は血の気が引きながらの言葉だった。ヴィンセントは落ち着いて答える。
「従業員名簿はただのホテルとの契約です。一方的に除名をしてつながりを断つことはできても、命を奪えるものではないのです。それに雀は猫を食べません」
 ヴィンセントはじっと撫子をみつめて問う。
「オーナーは何かおっしゃっていませんでしたか?」
 撫子はオーナーとの短いやり取りを思い出しながら言う。
「私はオーナーの部屋にいるように、と。あと、すぐに戻るって」
 ヴィンセントは安心させるように微笑んでうなずく。
「オーナーは伊達に支配人ではありませんよ。ホテルで誰より主にふさわしい力がございます。戻るとおっしゃったならば、必ず御戻りになりましょう」
 撫子はヴィンセントの言葉に素直にうなずけなかった。
 オーナーは、ソファーで寝ているくらい疲れていても皮肉を言って平気だと笑う。撫子には弱いところを見せてくれない。
 でも誰だってつらいときはある。無理をしてはいないだろうか。傷ついてでも、自分だけで何とかしようと思っているんじゃないだろうか。
 撫子は顔を上げて言う。
「心配です。私にも何かさせてもらえませんか?」
 ヴィンセントはふと笑ってつぶやく。
「オーナーは良い奥方をお持ちになりましたね」
 撫子が聞き返す前に、ヴィンセントは言葉を続けていた。
「だからオーナーは撫子様を巻き込みたくなかったのでしょう。ひとまずオーナーのお部屋に向かってください。そこが一番安全です」
 撫子が口をへの字にすると、ヴィンセントは言った。
「オーナーの行方は私の方で探ってみます。撫子様に手伝っていただくのはそれからです」
 撫子は迷ったが、仕方なくうなずく。
 やみくもにホテルをうろついて、雀の女将にまた変な術をかけられないとも限らない。
 撫子はオーナーの部屋で落ち合うことを約束して、ひとまずヴィンセントと別れた。
 撤去され始めて使えないエレベーターを通り過ぎて、階段でオーナーの部屋に向かう。
 ただ撫子はオーナーの部屋に行く前に、一つだけ寄り道した。
 オーナーの部屋の隣、自室の前で立ち止まると、扉に下がっているなでしこのプレートを手に取る。
「この模様だ」
 記憶を吸い込んだ時に、撫子はこの模様を目にした。
 先代のオーナーが、なでしこの模様のプレートを「オーナーの鍵」と呼んでいた。自分の助けが必要になったら使いなさい、とも。
 鍵の形ではないけど、何かの助けになるかもしれない。撫子はプレートをぎゅっと握りしめてオーナーの部屋に向かう。
「お邪魔します」
 合鍵でオーナーの部屋に入ると、後ろ手に扉を閉める。
 その途端、パンっという破裂音が部屋に響いた。
「ラップ音?」
 ラップをぴんぴんに張ってお皿に巻くような……ラップ音ってそういう意味じゃなかったと、遅れて思い出した。
 気を取り直して、撫子は部屋を見回す。
 音の出所を探したが、電気もまだつけていないし、不審な気配はしない。
 撫子は手探りで鍵を閉めようとした。
「え、ええっ!?」
 扉がない。今入って来たはずの扉が、ただの白い壁になっていた。
 探してみても継ぎ目すら見当たらない。
 扉が消えるという現象には遭遇したことがないが、無いものは無い。
「あの世だからな。仕方ない」
 撫子は動揺した心を収めようと無理やり自分に言い聞かせて、部屋に踏み込むことにした。
 室内を歩いていると、奥の部屋から音が聞こえた。
 ビー……という、どこかで聞いたことのある低い音だ。
「上映開始の音?」
 撫子は廊下を通り過ぎて音の方向に向かう。
 ベッドルームの扉を開け放つと、どうやら音源はそこのようだった。
――ただいまより上映が始まります。
 少年の声のアナウンスは、部屋の中央に下りているスクリーンから聞こえてくる。
 何度も掃除に来ていたが、こんな設備がオーナーの部屋にあるなんて知らなかった。
――オーナーの鍵でお入りください。
 声はなお続けてくる。
 オーナーの鍵。撫子は握りしめたプレートを見た。やっぱり鍵の形はしていない。
 そうこうしている内に上映開始音は止んでしまった。撫子は慌ててプレートを取り落とす。
 落ちた途端、プレートが割れた……ように見えた。
「ごめんなさい! わざとじゃないんです!」
 とっさに顔を覆って指の隙間からのぞきみると、プレートのなでしこの花の部分だけが外れていた。
 複雑なぎざぎざはそのままに、何かに差しこめるような形になる。
「鍵ってこれ?」
 撫子はそれを拾い上げて、スクリーンに向かう。
「えーと、鍵穴は」
 しかし鍵穴らしいものは見当たらない。白いスクリーンが広がっているだけだ。
「えいや!」
 わからなかったので、撫子はなでしこの花をおもいきってスクリーンにおしつけた。
 その瞬間、撫子がまったく予想していなかった出来事が起きた。
「うわぁ!」
 なでしこの花はスクリーンの中に吸い込まれた。それと一緒に、渦に引き込まれるように撫子の体も引っ張りこまれる。
「ひぃ!」
 中で撫子の手がつかまれた感触があった。
「怖いんで離してください! 入ります! 自分で入りますから!」
 叫んでみても離してもらえなかった。ますます強くつかまれて引きずりこまれる。
「ぐぐっ!」
 水底に一気に沈められるような圧迫感が撫子を包み込んだ。
――上映開始。
 息が詰まるような感覚の中、少年の声は高らかに宣言した。
 目が覚めた場所は、工事現場でした。
「花畑とまでは言わないから、せめてもっと趣のあるところがよかったなぁ」
 撫子はぶつくさ言いながら体を起こして、辺りを見回す。
 木材で足場を組んでいるのはアニマル的特徴を持ったひとたちだから、ここが死出の世界であることは間違いない。
 でもよく見ると、猫耳や尻尾を持った従業員の姿はなかった。
「また頼りなさそうな所有者が来ましたね」
 後ろから声をかけられて、撫子は座ったまま振り向く。
「あ、いたいた。従業員さん」
 五歳くらいの猫耳少年で、耳にかかるくらいの白い髪に細い尻尾を持っている見目麗しい子だった。時代劇みたいな縞模様の着物を着て、下駄を履いている。
「えっ!」
 一方、彼は撫子を見て猫目を見開く。
「あなた、僕の妻なんですか?」
「まさか。君を夫にしたら私、未成年略取で捕まっちゃうって」
 白い髪の少年はかわいらしい口をへの字にする。
「匂いでわからないとでも思ってるんですか。僕は未来のオーナーです」
「へ?」
 撫子が首を傾げると、どこかから女性の声が聞こえた。
「あなたはオーナーの鍵を持っていたから、ちょっと時間をさかのぼったのよ」
 撫子はきょろきょろと工事現場を見渡すが、どこにも女性の姿はない。
「ごめんね。すぐ側にいるのだけど、私は映像を撮っているからあなたからは見えない」
「映像の中ですか」
「あなたの名前を教えてくれる?」
 親しげに呼びかける声が心地よくて、撫子はうなずく。
「私は撫子といいます」
「撫子?」
 少年の声と女性の声が重なる。
 女性はくすくすと笑いだして、少年の方は顔をしかめた。
「未来の僕の趣味がわかりません。なぜそんな名の女を妻にしたのか」
「キャット」
 女性はたしなめるように言う。
「失礼はおよしなさい。私の跡を継いでこのホテルのオーナーとなるなら、どんな方にでも微笑みかける支配人にならなきゃ」
 キャットと呼ばれた少年は視線をさまよわせると、憮然としながらも黙った。
 撫子は迷いながら口を開く。
「えと、つまりここは過去なんですね?」
 撫子はまた死出の世界の不思議現象に巻き込まれていることに気付いて、話しながら頭を整理することにした。
「この子がオーナーの小さい頃で、声しか聞こえないあなたが……」
「キャット・ステーション・ホテルのオーナー。といっても、まだホテルは完成していないのだけど」
 見てちょうだいと言われて辺りを見回すと、レンガ造りの建設途中の建物が目に映る。
「キャット・ステーション・ホテルは現在建設途中なの」
「ということは、昔々の死出の世界ですか?」
「そうよ。あなた順応が早いわね」
「先代のオーナーは優しいですね」
 彼女は今のオーナーのように毒舌ではないらしい。
 ほっとしたところで、撫子はここに来た理由を思い出す。
「聞いてください。大変なんです! ホテルが従業員名簿ごと雀の女将に乗っ取られて、オーナーが行方不明なんですよ!」
「あらあら」
 先代はゆったりと返す。
「困ったわねぇ」
「あまり困っていらっしゃらないお声ですが」
「言ってみただけだから」
 でもいい性格であるのはオーナーと共通らしい。撫子は逆にほっとして言葉を続けた。
「私がオーナーの鍵を持っていたから、過去にさかのぼったとおっしゃいましたね」
「いつもはキャットが扉を管理してるから入れないはずなんだけどね」
「どうしよう、オーナー……」
 撫子が悪い想像を巡らせたら、先代が笑う気配がした。
「さあ? キャットは従業員名簿から外されたくらいで死んじゃうような、そんな頼りない子だったかしら」
「ありえません」
 キャットは怒りを声ににじませて言う。
「撫子。妻なら僕のことをちゃんと信じなさい。それくらい、僕がすぐに解決します」
「は、はい。すみません。あと一つだけ言わせてもらうと、妻ではありません」
 人指し指を付きつける仕草は幼くてかわいらしいけど、声の調子がオーナーそのものでなんとなく撫子は謝ってしまった。
「ただ、その。心配になって」
「僕が信じられないっていうんですか」
「信じてますよ。オーナーはきっと戻るって」
 撫子は頬をかいて言う。
「ただ一人で無茶して、いっぱい怪我して帰ってきてほしくはなくて。何か手伝えないかと思っただけです」
 先代が一瞬言葉に迷う気配がした。彼女は撫子に問う。
「従業員名簿から名前を消されちゃった支配人なんて、オーナーと言えるかしら」
「オーナーは一人で働いているわけじゃありません」
 撫子は首を横に振って言い返す。
「悪意のある人にはホテルの従業員みんなで立ち向かったっていいはずです。……従業員でない私が言うことじゃないかもしれませんが」
 撫子は小声で付け加えてから顔を上げた。
「オーナーはきっと戻る。でも今はホテルの改装を止めないといけないんです。オーナーがいらっしゃったら、お客様にご不便をおかけすることなんてやめさせるはずですから」
 撫子は一呼吸考えて言う。
「当ホテルのポリシーは」
 女将にとっさに言い返せなかったキャット・ステーション・ホテルの信念。けれど撫子は、ホテルに初めてやって来た時に聞いていたはずだ。
「「お客様に最高の休暇を」。そのために当ホテルはあらゆる設備を整えていると、オーナーは言っていました」
「ふふ!」
 先代はぷっと噴き出して笑いだす。
「先代! 私、まちがったことは言ってないです!」
「そうよ。あなたの言う通り」
 撫子の耳に、手を叩く音が聞こえてきた。
「ホテルを乗っ取らせるような子に手を貸すのはためらうわ。でも当ホテルのポリシーを理解しているあなたには別。知恵を貸しましょう」
「あ、ありがとうございます!」
 撫子は方向がわからないながらも頭を下げる。
 とりあえず八方向くらいに頭を下げたところで、先代は何てことないように一言呟いた。
「簡単なことよ。あなたがホテルを乗っ取り返せばいいの」
「乗っ取り返し? 従業員名簿を奪うことですか?」
 撫子は雀の女将を思い出す。
「いやいや! 格闘したら負けますよ。自信ないです。私、ただの人間ですから」
 女将は何やら妖しい術を使う、御年千年になるという妖怪だ。コッペパンごときで死んだ撫子が正面からいっても勝てそうにない。
「まあね。でも従業員名簿以外のもので対抗すればいいのよ」
「ほう?」
「キャット。どうすればいいかわかる?」
 今まで黙って話を聞いていたキャットは、こくりとうなずいて答える。
「僕が持っている副オーナーの紙を使えばいいんじゃないでしょうか? お上から交付された、従業員名簿の対の紙ですから」
「どうしても紙を使わせたいんですね」
 撫子は軽いあきらめと共に言った。先代は苦笑しながら説明してくれる。
「オーナーの専制を止めるためのものよ。だからオーナーは手を触れられない。キャットがオーナーとなったなら、ヴィンセントが持っているでしょう」
「そんなものがあるなら話は早いです。ヴィンセントさんに言って使ってもらえば……」
「いや、待ってください」
 キャットが難しい顔をして言い放つ。
「あなたがだいぶ未来の人間だとしたら、ヴィンセントは文面を忘れているかもしれません。本来、オーナーの決定直後に使用するものですから」
「うう、融通が利かない」
 お上はどこの世界でも柔軟性には欠けるらしい。
「あなたが今からお上に紙をもらうには時間がかかりすぎるでしょうね」
「そういうところまで現実味がなくていいのに」
 ちょっとあの世の仕組みに悲しさを感じた撫子だった。
「僕を忘れていますね?」
 肩を落とした撫子に、キャットが不機嫌そうに声をかけた。
 撫子は顔を上げてキャットを見る。
「今ここにいる僕があなたに、直接文面を教えればいいじゃないですか」
「あ!」
 撫子は心の中でぽんと手を打つ。
「ホテルも夫も取り返しなさい、お嬢さん」
 みるみるうちに明るい顔をした撫子に、先代が猫のように笑う気配がした。
 建設途中のホテルの中のフロントの台を前にして、撫子はうめき声を上げていた。
「これ、本当に全部覚えなきゃいけないんですか?」
「当たり前です。この程度暗記できなければ代理なんて許されません」
 キャットが台に乗せた書面には、まるで呪文のような記号がひたすら並んでいる。
「難しすぎますよ! せめてコピーください」
「委任状は複製不可です。第一過去から物を持っていくことはできません」
「ううう」
 わかっている。生前真面目に勉強してこなかったツケだ。
 いや、違うかもと思った。撫子の平凡な人生に、こんな呪文を覚える機会なんて百年生きてもなかったかもしれない。
「なんでもっと簡単な文字にしないんですか」
「古代から使われている由緒正しい共通文字ですから。お上が変えようとされなかったのでこれがずっと使われています」
「エリート教育は庶民にははた迷惑です」
「あなたの頭が足らないだけなんじゃないですか?」
 幼少の頃のオーナーは言葉をオブラートに包まない分、容赦がないようだ。
「もっと難しいことは他にあります。委任状には従業員三名とお客様三名の同意が必要です。オーナーに異を唱えるのですから、従業員とお客様の意思に沿っていないといけません」
「サインでもしてもらうんですか?」
「拇印で足ります。死出の世界では文字が書ける者は一部ですから」
 だったらどうして委任状の文面自体にこんな小難しい文字を要求するのか。あの世のお上は理不尽だと思った。
「紙と六名分の拇印が揃ったら、「代理権発動」と宣言してください。現在のオーナーの権限が凍結されて、あなたにオーナーの権限が移ります。ただ……」
 キャットは猫目を細めてうなる。
「権限は与えられてもあなたはオーナーとしての教育を受けていないので、力が使いこなせないかもしれません。たとえば瞬間移動の能力は、元々の体が瞬時に移動するだけの力を持っているからできるんです」
「なるほど」
 撫子も瞬間移動はできる気がしなかったので、納得した。あれは身体能力の突出している猫の従業員だからこそできるものらしかった。
「まあ、がんばります」
 撫子は頭をかいて暗記作業に戻る。
「どうしました?」
 撫子の顔を側でじっと見ているキャットが気になったので、視線を文面に落としたまま問いかける。
 キャットはぷいと顔を背けて言った。
「いいえ。別に」
「何か思ったことがあったら言ってくださいよ。オーナーに皮肉言われるのは慣れてますから」
 撫子は繰り返し書きとりをしながら言う。頭では覚えられなくても、手が覚えてくれることを期待した。
「キャットー。見てみて、これがエレベーターよ!」
 先代の声にキャットが顔を上げる。
 撫子も目を向けると、アニマル的特徴を持った人たちがフロントの隣に機械を設置しているところだった。
「エレベーターって、万博で出ていた昇降機のことですか? 日本にはまだないでしょう」
 エレベーターはいつ頃に来たものだっただろうか。撫子は考えたが、たぶん百年くらいは前なのだろう。
「どこまで西洋かぶれしたホテルを作るつもりなんですか。この間雀の女将にも馬鹿にされたのに。ここは日本のお客様がほとんどなんですよ」
 おやと撫子は思う。この頃はキャットが雀の女将の意見を気にしている素振りがある。
「ホテルは生活空間であると同時に非日常でなくちゃ」
 うっとりした口調で先代は言う。
「生きていた頃に夢見ていたような憧れの生活を提供するのよ。それでこそ魂の休暇だと思わない?」
 撫子は先代の言葉になるほどと思った。
 ただの日常なら生きている内に十分経験している。あの世でくらい非日常を味わいたい。
「僕は多分にオーナーの趣味が含まれていると思いますが。従業員を全員猫で揃えるつもりだとか」
「それくらいの遊び心はいいじゃないの。ね、撫子さん?」
「そうですね。暮らし心地のいいホテルに仕上がっていましたよ」
「ほら」
 ふいにキャットが何かに引っ張られるように動く。
「何ですか」
「庭も見に行きましょ」
「撫子はどうするんです。まだ暗記できていませんよ」
「一緒に来てもらえばいいじゃない。キャットの将来の奥さんには、ここの良さをいろいろ知ってもらわなきゃ」
「わ」
 手首をぎゅっと握られる感触があった。たぶん先代が掴んだのだろう。
「見物しないと損よ」
 今遊んでいる場合ではないのですが。そんな言葉は喉の奥で消えた。
 目の前の白いスクリーンに吸い込まれると、そこは噴水を中心とした庭園だった。
 色とりどりの薔薇が咲き乱れる光景が圧巻だった。撫子は思わずペンを取り落とす。
「ここは英国風の庭。あっちが和風で、向こうが……」
 ただしいろいろ混ざっている。砂と苔で出来た和風の庭がすぐ隣にあるし、その向こうには彫刻だらけの美術館の庭みたいになっている。
 キャットは呆れたように言う。
「統一性がなくてみっともないですよ。考えたことを全部実行するのはやめてください」
「だって作りたいんだもの」
 キャットはあくまで冷ややかだが、先代は楽しそうだ。笑い声が行ったり来たりして、庭をあちこち歩き回っているのがわかる。
「ゴンドラも作ったの。空から見られるように」
「また突拍子もない」
「さ、行きましょ。撫子さんも」
 キャットがまた引っ張られる動きをする。キャットは不機嫌そうに眉をひそめた。
 目の前に白いスクリーンが現れて中に入ると、また場面が変わる。
 先代が撫子とキャットに見せてくれたのは、ゴンドラだったり厨房だったり倉庫だったりした。
「先代は発明家だったのですか?」
 エレベーターもない頃の日本人とは思えない新しさが溢れていたので、撫子は不思議になった。
「そうなりたかったの。私は二十歳前に死んだから、あっちの世界を思い出しながら勉強して考えたの」
「すごいですね。一人でよくここまで」
「一人じゃないわ。死出の世界で勧誘した従業員の皆がいるし」
 キャットが何かを振り払うような仕草をする。
「ちょっと。頭撫でないでください」
「次期オーナーの教育もやりがいがあるしね」
 最初は抵抗していたが、やがてキャットは諦めて頭を撫でられるままになっていた。微笑ましくなって撫子は目を細める。
「暗記しなくていいんですか、撫子。僕はその程度ひとめで覚えられましたよ」
「あなたのような神童と一緒にしないで頂きたいです」
 とはいえ自分の能力の低さを悔やんでも仕方がない。
 撫子はキャットが貸してくれたメモを見ながら、委任状の書きとりを再開する。
 何度書いても意味がわからない。書いた直後から混乱する。
 だけどこれができないとホテルを取り返せない。そう思うと、ひたすら手を動かすしかなかった。
「大体こんなことをしなくても、未来の僕は自分でホテルを取り返しますよ」
「まあきっとそうですけど、そうなんですけど」
 撫子はちゃんとした理屈が思い浮かばないながらも、目を白黒させて言う。
「ホテルに土足で上がり込んだ女将に、何とか仕返しをしたいのかも……いや、それはオーナーの思いじゃなくて私の個人的なものですけど、きっとオーナーだってそう思ってくれるはず。はは、わからなくなってきました」
 難しすぎて説明する言葉が尻すぼみになる。
 頬をかいて黙った撫子を見て、キャットは一言つぶやく。
「お馬鹿」
 顔を上げた撫子の目に映ったのは、いつか見たような優しい眼差しだった。
 キャットは同情でももちろん軽蔑でもなく、不思議な温かみを持って撫子に笑いかける。
「ほら、いいですか」
 思わず手を止めた撫子の手にキャットは自分の手を重ねて、ゆっくりと動かし始める。
「我、宿主に、異を、唱えし、者」
 言い聞かせるように文言を区切りながら、キャットは撫子の手と共に委任状の文句を記す。
「ここに、宿主を、代理する、ことを、宣言、する。撫子。……もう一度」
 キャットの動きに合わせて手を動かすと、自然と言葉が手に染みついていくような気がした。
 撫子の手を取って、キャットは繰り返し委任状の文句を書き記す。
「字が下手でも読みづらくても、異を唱える意思がお上に伝わればいいんです」
「はい」
「もう一度、最初から」
 いつしか撫子は、キャットが手を離していることに気付いていた。
「ホテルは建てた者の意思を受け継いでいますから。その意思を形にすれば、ホテルが力を貸してくれます」
 次第に薄れていく意識の中、キャットが言う。
「オーナーの意思を忘れないでください」
 見えなくなっていく紙を目に焼き付けるようにして、撫子は手を動かし続けた。