明叔父さんはずっとこの地に住んで小さなカフェを営んでいる。
 カフェはもともと死んだおじいちゃんとおばあちゃんが経営していたもので、小さなころはお父さんと一緒に帰ってくるたびに遊びに来ていたっけ。最近はすっかり疎遠になっていた。
 駅から十分ほど歩いた海沿いに、赤いパラソルが開いているお店が見える。そこが叔父さんのお店『マカニ』だ。ハワイの言葉で『風』って意味なんだって。
 あの赤いパラソルを見ると、おじいちゃんのお洒落なアロハシャツ姿が懐かしくなる。
「お邪魔します」
 ガラスのはめられた木製の扉を開くと、カランと軽い鐘の音がした。店内は暖かくて耳障りのいい音楽が流れている。真冬でも南国みたい。マカニの心地よさは昔から少しも変わらない。
「やぁ、いらっしゃい夏海ちゃん、バイトよろしくね! お客さんがいないときはカウンターで勉強とかしてもいいから」
「お世話になります」
 叔父さんはお洒落な無精ひげに、少し長めの髪を一つに結わっている。お父さんとかなり年が離れているから、叔父さんというよりお兄ちゃんって感じかな。年齢よりも若く見えるから更にお兄ちゃんっぽい。
「お昼ごはん何がいい?」
「いえ、お弁当持ってきました」
「本当? 明日からなにか賄いだすよ。お弁当も大変だろう?」
「お母さんのも作るから」
「そう? でも温かい物食べさせてあげたいなぁ」
 叔父さんが作ってくれるご飯が美味しいことは子供のころによく食べたからよく知っている。
「ね、そうしよう。明日からは賄い飯で!」
「お言葉に甘えてもいいですか?」
「もちろん、僕的にはその方が嬉しいし」
 にっと目を細める叔父さんを見ると、断る方が失礼なような気がした。私は思い切って叔父さんの言葉に甘えることにする。
 午後からのマカニはほどよく忙しくて、私は仕事を覚えることに必死になった。おかげであっという間に時間が過ぎていく。気が付けば太陽がかなり低い位置にあった。
 海辺に面したマカニからは海が良く見える。夕方になると白く光を放つ太陽が深く赤く染まった海に溶けていくのがよく見えた。空の端は藍色に染まってきている。
『黄昏時が一番海が綺麗なんだ』
 頭の中にお父さんの言葉が過る。
 お父さんはこの町に来るたびに海の写真を撮った。この町だけじゃなくて、いろんな場所を訪れては色々な景色を撮っていた。朝の海も、昼間の山も、夜の空も。いつか世界中の景色をファインダーに収めるのだと言って、お母さんのことも私たちのこともほったらかしで。いつも世界だけを見つめていた。
 お父さんが好きだという黄昏の海を見ていると、なんとも言えない苦い気持ちが溢れてくる。
 ふと視線の先に人影が見えた。砂浜に誰かが立っている。もしかして――
「そろそろ上がりなよ。今日はありがとうね、すごく助かったよ」
 叔父さんの声で我に返る。慌てて帰り支度をするとペコリと頭を下げた。
「ありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく、気を付けて」
 カランと扉の鐘を鳴らして、私は一目散に海に駆けだした。今なら間に合うかもしれない。
 体育はあんまり得意じゃない。特に走るのは苦手だ。すぐに息が切れてしまう。次第に足取りはゆっくりになる。砂浜にいるのは北沢君で間違いない。何を必死になっているのか自分でもよくわからないけれど、卒業制作に北沢君が携わらないのはなんとなく嫌だと思った。だから。
「はぁ、はぁ……」
 息を切らしてたどり着いた砂浜には、もう誰もいなかった。
「遅かったかぁ……」
 どっと疲れが出た。すっかり日は落ちて、東の空に一番星が輝き始めた。私は空を見上げる。
 澄んだ冬の空が好きだ。いや、冬に限らないかもしれない。春の肌寒い夜も、夏の暑さを残した夜も、秋の涼しい夜も。
 この世の美しさをすべて閉じ込めたような静かな夜が私は好きだ。波の音がする。寄せては返す優しい音は、私の心を優しくなでた。
 一つ大きな息を吐いてから視線を落とす。北沢君に会える日は来るだろうか。とにかく北沢君は海にいることが多いかもしれないという不確かな情報を得た。マカニから時々見ていたらいつか声をかけられるかもしれない。
「さ、夜ご飯作らなきゃ」
 今夜のメニューはもう決めてある。家に入るための四角い扉を開きながら、そういえば北沢君はどうしてあの場所でカメラを構えているのだろうと不思議に思った。海を撮っているのだろうか。そんなもの写したって何の意味もないのに。ひととか動物とか、そういうものが映っている写真の方がいいに決まっているのに。