海岸を吹き抜ける風は潮の匂いを帯びている。
 夕方になるとその匂いが濃くなるのだと、昔お父さんが言っていたっけ。
 一日の役目を終えて眠りに就こうとする太陽が、閃光とともに強い香を残していくからだって。海の匂いは、太陽の匂いなのだと言っていた。
 ずっと忘れていたのに、どうして突然そんなことが頭に浮かんだのだろう。
 この町で生まれ育ったお父さん。この海が大好きなのだと言ってわざわざ都心から引っ越してきたというのに、当の本人はここにいない。
 お母さんからの頼まれものが入ったエコバックをぶらぶらとさせながら、私は夕日が落ちかけた海沿いの道を歩いていた。
 この季節になると海沿いの道は寒い。吐く息が白く染まり、茜色に溶けていく。頬を撫でていく風にため息を溶かし込んだ私は、ふと何かに呼ばれたかのように海を見た。
 視線の先に黒い人影が写って立ち止まる。
「うそ」
 防波堤の上にある影は今にも海の中に落ちていきそうに見えた。反射的に体が動く。私はわずかに太陽の熱を残した砂の上を必死に駆けてテトラポットによじ登ると、防波堤にいるその人に近づいた。
「あの!」
 今にも飛び降りようとしているように見えたそのひとを岸にとどめようと必死になる。
「ま、真冬の海は冷たいと思います!」
「そうだろうな」
 逆光で近づくまで全く気が付かなかった。
 声を聞いて、そのひとがクラスメイトの北沢(きたさわ)君であることを知った私は目を丸くした。その手に一眼レフカメラが収まっているのが見えて、ようやく彼が写真を撮っていたのだと気が付く。
 自分の勘違いが恥ずかしくて顔がかぁっと熱くなった。
「ごめん、なんでもない」
 飛び降りるのではないかと思ったとは言えなかった。だからといって声をかけた上手い理由も見つからない。
 私が答えに困っていると、北沢君は私から視線を外してそのまま海岸の方へ戻っていく。
「失敗したなぁ」
 吸い込んだ空気が火照った肺を冷やす。海岸沿いの通路まで戻ってくると、エコバックの中身が急に重たくなったような気がした。私は長く伸びていく自分の影を連れて、駆け付けた時とは比べ物にならないくらいのっそりとした足取りで電車に乗り込んだ。車窓から見える景色の中にはまだ彼の姿があって、一心にカメラを構えているように見えた。何を撮っているのだろう。そんな疑問はガタガタと揺れる電車に揺られるうちに消されてしまった。
「買って来たよ」
「お帰り」
 家に帰ると仕事から帰ってきたお母さんはキッチンで夕食の準備に取り掛かっていた。漂ってくる香りから今日もカレーであることが分かる。
 今日はお母さんが夕食を作ってくれる日だ。忙しい日は大抵カレーになるけど、連続何日目だっけ。最近お母さんは以前に増して忙しそう。
 私は買ってきたものを冷蔵庫にしまいながら「あ」とため息にも似た声を漏らした。
「ごめん、卵われちゃった」
 走った際に一緒に入れていた缶詰にぶつかったのかもしれない。透明なケースからどろりと流れ出した白身を見て、私はがっかりした。
「これで明日卵焼き作るよ」
「そうね、よろしく」
 卵をしまいながら海であったばつの悪い出来事を思い出して口の中に苦い味が広がる。
 同じクラスの北沢君のことが苦手だった。三年間同じクラスにいるけれど、彼が笑ったところを見たことがない。ちょっと陰があって見た目がよろしいので女子の間でひそかに人気なのだけれど、私は苦手だ。どちらかと言わなくても朗らかに笑う人がいい。

 翌朝、いつも通り目を覚ました私はお弁当の用意を始める。割れた卵は卵焼きにして、作り置きのおかずと一緒に二つ分のお弁当箱に詰めていく。お母さんとの分と私の分。初めは作らなくってもいいって言われたんだけど、自分の分を作るついでだからと言ってふたり分作り出したらそれが当たり前のことになった。
 三つ個目のおにぎりを握ったところでお母さんが居間に入ってきた。
「おはよう」
「おはよ、相変わらず早いねぇ。お弁当ありがとう助かる」
「朝ごはん食べられそう?」
「なんか食欲ないな。ヨーグルトあったっけ?」
「昨日買っておいた」
 お母さん分のおにぎりを少し小さめに握ることにする。お母さんは最近ずっと忙しい。アロエ入りのヨーグルトを一つだけ食べると、すぐに家を出た。

 今日の終業式を終えたら明日から冬休み。叔父さんが経営するカフェでバイトをさせてもらうことになっている。
 希望の大学の推薦が取れたので時間ができたのだ、暇を持て余すだろうとお父さんの弟である(あき)叔父さんがバイトに誘ってくれたのだ。
 海岸にそって走る電車に乗って学校へ向かう。朝の海はキラキラとしていて眩しい。
「おはよう夏海(なつみ)~」
「おはよ~」 
 教室に着くと仲の良い菜穂(なほ)が私の席までやってくる。冬休みの予定や昨日見た動画の話なんかしていると、視界の先に背の高い人影が横切る。
 北沢君はそのまま私と菜穂の横を通り、私の後ろの席に腰かけた。
「北沢おはよー」
「おはよう」
「はよ」
 菜穂と私が挨拶をすると、短い返事が返ってくる。彼は昨日のことをなにも気にしていないようだ。写真を撮るのが好きなのかな、会話をするきっかけになりそうな話題だけど、私が話しかけたところで北沢君と話が弾むとは思えない。
 ちらりと後ろを覗き見ると、長めの前髪から覗く目と目が合う。私は慌てて前を向いた。やばい、不審な行動をしちゃったなと自らの行動を反省。
「そうだ夏月、今日のホームルームの議題卒業制作についてらしいよ」
 うちの高校には三年生による卒業制作なんていう伝統がある。大学受験をする子が増えてきた近年では非常に不評の伝統だ。
「受験生も多いのに制作とか呑気だよねぇ、正直サボりたい」
「受験のある子は免除でいいんじゃないかな。先輩たちも受験終わったひとから参加してる感じだったじゃん?」
「夏海は推薦取れたんだっけ、いいなぁ優秀」
「運がよかったよ。春から町を離れるから寂しくなるけど」
「夏海と別れるの超寂しいんだけど! 私もおなじとこ受けよっかなぁ。こうなったら、高校最後の思い出づくりに制作一緒にやろう! そう思ったらちょっとやる気出てきた」
「いいよ~、でもなにをやったらいいのか、漠然とし過ぎていてピンとこないよね。去年の先輩たちなに作ってたっけ」
 菜穂と話していると先生が教室に入ってくる。
「ホームルーム始めるぞ、委員長、前に出て話を進めてくれ」
 「はーい」と軽やかな返事がしてクラス委員の二人が前に立つ。
「うちのクラスでは卒業制作で巨大モザイクアートをします。作る絵は通学風景でおなじみの海の景色にするつもりです」
「すでにもとになる写真があるので、二人一組で各パーツを作ってもらって、卒業式までに組み合わせて一つの絵にするつもりです。受験組の子たちもいるからあんまり手の込んだものは作らなくてオッケーです。折り紙をバンって張るだけとかでも大丈夫」
 なるほどなるほど、段取りがよいなぁなんて呑気に感心していると、委員長の陽子(ようこ)がとんでもない決定事項を述べてきた。
「二人一組はこちらの方で決めさせてもらいました。出席番号順に二人一組で一つのパーツに取り組んでもらいます。最悪来年の三月までにできたらよいので時間の調整なんかはペアの二人で話し合ってください」
 陽子が次々にペアを読み上げていくのだけれど、この調子だと私のペアは後ろの席に座っている彼ということになる。どこかでずれることを祈りながら手を組んでいると、陽子が私の名前を呼んだ。
「夏海と北沢君は真ん中のパーツね」
 「はーい」と乾いた返事を返してちらりと後ろの席を見ると、北沢君は私の方なんか少しも見ていなくて視線は窓の外だった。全然興味なさそうな顔をしてぼんやりとしている。
「あとはプリントを渡すから、各ペアでよく読んで話し合ってください。かいさーん」
 陽子の声とともにクラスの中はがやがやとし始めて、各自二人ずつ集まって話し始めた。菜穂が私の方を見て肩をすくめている。仲の良い友達と一緒にできなくて残念だというのもあるけど、なにより北沢君とペアなのが気が重い。
 そういえば同じクラスになってから一度もまともに話をしたことがないかもしれない。少なくとも一対一で話をしたのはあの日の海が始めてだ。
 北沢君はもともと口数が少ない。一匹狼だけどクラスの中で浮いているわけじゃなくてみんなから一目置かれているって感じ。彼は孤高なのだ。一方完全にモブキャラの私。
 私は勇気を振り絞って後ろの席を振り返り、北沢君に声をかけた。
「あ、あのさ、いつから始める?」
 私のバイトは融通をきかせてもらえるはずだ。可能な範囲で北沢君のスケジュールに合わせるつもりでいたのに、返ってきた返事はあまりにも素っ気なかった。
「俺、予定があって無理だから」
「え、でも」
香西(かさい)さんの好きにしたらいいから」
 言いうなり北沢君は鞄を肩にかけて教室を出て行ってしまった。どこのペアよりも早く話が終わった私に、陽子が話しかけてくる。
「打合せ早っ」
「いやいや、たった今丸投げされたところだよ」
 それを聞いていた先生が私と陽子の会話に入ってきて無茶ぶりをしてくる。
「それはダメだ。一応全員参加だから。受験組のやつらは受験が終わり次第でいいから参加しろ。香西、頼むぞ、どうにかして北沢にも協力させてくれ」
「はい」
 陽子がフォローを入れてくれて「いやいや、無理がありますよ~」って言ってくれたけれど、「頼むぞ香西」と念を押されて頷いてしまった。
 自分の意志や気持ちはぐっと飲みこんで、周りにいい顔をしてしまうのが私の悪いところだ。
 無理なら、無理だって言えばいいのに。言いたいことを言わずに曖昧な笑顔と一緒にのみこむ自分は好きじゃない。だけど相手をがっかりさせたくなくてついついいい顔をしてしまう。家族にだってそうかもしれない。
「まぁ、できる範囲でいいからさ、ぶっちゃけ誰が作ったかなんてわかんないじゃん。簡単でいいよ簡単で」
 陽子は暗に一人でやってもいいよって言ってくれているけど、先生にああいった手前一人で仕上げてしまうのも気が引ける。
「北沢と連絡とってみたら? 誰か連絡先知ってる人いないかなぁ。そういえば北沢って誰と仲がいいんだっけ」
 陽子と二人で北沢君の連絡先を知っている子を探したけど、驚いたことに誰も知らなかった。
 北沢君とわりと話をしている子だって「そういえば知らないな」と、首を傾げた。
 ホームルームが終わると菜穂と連れ立って帰路につく。菜穂とは高一の時に仲良くなった、こちらに来て初めての友達だ。
 中学の時は転校先ですぐに友達ができるわけでもなく、一人でなんとなく中学三年生をやり過ごし、なんの感慨もない卒業式を迎えた。
 高校に入ってようやく気の合う菜穂に出会ったのだ。卒業制作はそれなりに思い入れのあるものになりそうなのに、出だしからこれではどうなることやら。
「まぁ北沢つかまらなかったら手伝ってあげるから声かけてよ」
「うん、でもできる限りのことはしてみる」
 とは言いつつも、どうしたらいいのか困ってしまう。北沢君を学校の外で見たのはあの防波堤で一度だけ。彼が普段とこにいるのか見当もつかない。
「じゃぁまたね」
「またねー」
 どうしたらよいのか打開案が出ないまま私は菜穂と別れて叔父さんのカフェを目指した。