「――え?……人が、流れてきた」
街を通る川の上流から、人が流れてきている。
草木すら凍る、極寒の川だというのに。
風景写真を撮ろうと、土手沿いでスマホをかざしていただけなのに……。
指先がかじかんで上手く撮影ボタンが押せないでいたディスプレイに、異物が流れ込んで来ていることに気がついた。
なんだろうと思ってズームすると、それは人の姿をしていたんだ。
これは冗談でも何でもない。眼前で起きている事実だ。
あり得ない状況で思わず呆けてしまう。間の抜けた声もでてしまったけど、ほとんど無意識だった。
「……いやいや、いくらなんでもあり得ないか。……マネキンとか、かな」
僕を正気に戻すため、冬将軍が攻撃をしかけてきたのかと思うほど凍てつく風が肌に刺さる。
眼前でサラサラと流れる川のせせらぎ、凍りついた枝が朝陽をあびて溶け、パキパキと不定期に鳴る音色が響く。
吐く息は白い蒸気となり、吸い込む神聖な空気は喉だけでなく肺にまで冷たいという感覚を与える。
そんな心地良くて、信じられないほど美しい世界だというのに……。
ディスプレイ越しでなく、肉眼でみる光景はもっと信じられないものだ。
「いや、間違いない……人が流されてる」
人が流され、僕のいる場所に近づいてくる。髪の長さからして……女性?
流されてくる女性は生きているのかすら解らない。普段より流れが早い水の中で、浮かんではまた沈んでを繰り返している。
上流の雪溶けで水かさも平時より増している。僕の腰ぐらいまではありそうか。
そんな川の中でコートを纏っているのだから、沈むのも当然だ。
ーーなんてのんきなことを言っている場合じゃない! だれか、だれかいないか!?
周囲を見回して助けを呼ぼうにも、だれもいない。
それはそうだろう、なんせ日の出を迎えたばかりだ。僕が、何とかしないと。
「――あ、だ、だい丈夫ですか?」
蚊の鳴くような声しかでない。川を流れる女性には届いていないだろう。動く気配がない。
普段、大きな声を出す機会が無かったから。だからこういう時、大きな声で助けを呼べないっ。
「追いかけなきゃ……!」
でないと、このまま流されていって彼女を見失う。濡れた雑草をザクザクと踏み分け走る。
まず救急車を呼ぶべきだよね。緊急ボタンがあったはず、通話をつながなきゃ。
僕のスマホは五秒間緊急ボタンを押し続ければ、自動的に指令センターへ繋がる設定になっている。
『はい、こちら消防指令センターです。火事ですか、救急で――』
「――救急というかなんというか、えっと、たぶん事故です! 初雁橋の下流、水上公園辺りの川で人が流されてます!」
通話相手が言い切る前に、一息で言ってしまった。焦っていたし、走っている。それに緊急ボタンで通話を繋ぐなんて真似で、心臓はバクバクなんだ。仕方ないだろう。
もう必要なことは伝えたはずだ。スマホを耳につけていては走りにくい。
僕はダウンジャケットのポケットにスマホを突っ込んだ。
「あの、あなた、大丈夫ですか!?」
僕なりに精一杯出した大声で呼びかけても反応がない。
こんな時、普通ならばどうするだろう。どうするべきだろうか。
そんなことを考えつつも、僕はこれ幸いと川へ飛び込むことに決めた。
――なにも迷うことなんかなかったな。
真冬の冷たい川、そして人助けという状況。必ず訪れるであろう死。
これこそまさに、僕が待ちのぞんだ状況だ。
重しになる上着は脱ぎ捨てよう。
身体が冷たい風に打ち克とうとブルブル震える寒さでも関係なしに、素早く脱ぎ捨て川へ向かう。
もはや反射的に、無意識でそうしたとも言える。端からみれば奇行だろう。
「――……!」
冷たいどころじゃない……!
水に入った瞬間、筋肉が痙攣を始めた。関節が思うとおりに動いてくれない。
だからこそ、いい。
文字通り必死の思いで腰近くまである水を掻き分け、何とか彼女の身体を掴んだ。
本当は即座に、彼女の全身を水面から出せたら格好よかっただろうな。
でも、僕は本当に非力なカトンボみたいな男で、服に水を吸った女性をお姫様だっこできるような。そんな格好良いヒーローなんかにはなれない。
「ぁ……く……!」
声をだそうとしても、歯がカチカチと鳴るばかりだ。僕の吐く息にほんの少し、音が混じる程度の音しかでない。
水底の砂利に何度も足を取られる。浅瀬まできて水が跳ねるたび、舞う飛沫が水から出ている僕の肌を攻撃してくる。
それでも、僕は彼女を岸に寝かせることに成功した。やり遂げた。
「ぃき……!」
仰向けに寝かせた女性は、息をしていないようにみえる。口元へ耳を近づけても、息が聞こえない。
「こ……んな」
こんな格好良い死に場を、逃してたまるか。
必死に両手で胸骨圧迫、心肺蘇生を始める。震えている場合じゃない。
両手で心臓を圧迫して、口へ息を吹き込む。頼む、戻れ、死なないでくれ!
無駄死にから……。
「――……ふはぁっ……はぁっ……!」
「もど……った」
彼女は、息を再開した。全身の力が、気力が。空気に吸われるように抜けていく。
よかった、生き返った、のか。
粗く必死に呼吸をしている彼女が、薄らと目を開けた。ガチガチと震え、顔も唇も真っ青だ。
「上着、温かくさせ、ないと……」
低体温症で死んでしまっては、元も子もない。
霜が降りている草に水を垂らしながら、防寒性能抜群の上着を取りにいく。彼女を、死なせてはいけない。
黙ってよ、心臓。もう少しだけ、動いてよ、僕の手足……。
彼女の元へやっと戻ってきた時、全身をガタガタ震わせていた。水を含んだコートのびちゃびちゃという音が聞こえる。
鉛のように固い彼女の関節を無理矢理動かし、冷たく濡れたコートを強引に引き剥がす。そして急いで僕の上着で覆う。
勢いよくしすぎたのか、ジャケットのポケットに入れていた財布やらスマホが落ちた。でも、今はのんきに拾っている場合じゃない。熱が逃げないように包まなきゃ。
上着で包んでも暖がたりないのか、全身の震えは収まる気配がない。
そうだ。こういう時、人肌が一番温められると聞いたことがある。両手を握れば、いくらかでも……。
震える彼女の手、その指を捕まえて、ギュッと僕の血潮の温もりを伝える。
なんなら、そのまま全ての熱を持っていってくれ。
「……よかっ……た。少し、まし、かな……?」
幾分か、彼女の表情がほっと緩んできた気がする。
「……ぁ、りが、と……」
ガチガチ震える声で、彼女が喋った。
やっと気がついた。随分、若い女性だ。やっと外見をちゃんとみた。顔なんて、どうでもよかったから。ただ……生きた意味であってくれれば、と。
「――ぐっ……!」
「どっ、した、ですか!?」
痛い、痛い、苦しい……。来た、遂に。やっぱり、来てくれた……。もっとこい。
胸を刺す痛み、呼吸すらままならない。心臓を掻き出すように手で押さえてしまう。思わず眼を閉じて、前のめりに蹲らずには、いられない。
これだ、これ……。僕をずっと不自由にしてきた感覚だ。
早く自由に、連れ去ってくれ!
僕は最期の時を待ち、やっと意識が朦朧としてくる。痛みも感じなくなってきた……。
「救急隊です!――大丈夫ですか!?」
「ぁ……、ぉちぃた、ぉ財布から……ぉれが」
「彼のお財布からですか、これは、保険証と診察券、ですね!? あなたも一緒に――」
「かれを……、私ぁんかより、どうか……かれの、命を……! ぉねあい、します……!」
「落ち着いてください! オイ、担架で運ぶぞ!」
「ぃや……、わたしのため……に、死なないで……!」
最期に聞こえてきたのは、そんな言葉だった――。
僕は死んだのか。あの状況だ、僕の身体で助かるはずはない。そうか、死んだんだ。死後の世界にまで意識が保持されるなんて、驚きだ。
お願いだから、前世の肉体までは継続しないで欲しい。
『ごめんね、耀治。健康に産んであげられなくて、ごめんね』
ふと、すすり泣く母の姿がみえた。
空中から映像を見下ろすように、場面を眺めている状況だ。
ああ、忘れることなんて絶対にできない場面だ。母さんが抱いているのは、きっと。
『お母さん……泣かないで。ごめんなさい、僕が悪いんだよね? 泣かないで、泣かないでよぉ』
これは間違いない、僕だ。
なんて幼い声だろう。スマートフォンを持ってから、興味本位で自分の声を録音してみたことがある。
初めて自分の声を聞いてみた時には、本当にこれが自分の声なのかと驚いたものだった。だって、脳内に響く自分の声と全然違ったから。
声と同じように、自分の姿を見下ろしても自分とは思いにくいものだ。でも、この会話はよく覚えている。
だから、母の背を抱き返しながら顔を不細工に歪めている子供は、間違いなく僕なんだなと解る。
『きっと、きっと耀治にあった良い治療法があるからね。一緒に頑張ろうね』
本当に母は、言葉通りに頑張ってくれた。僕を安心させようと作った固い笑顔、柔らかい毛髪ごと慈しむように頭を撫でつけている姿が、なんだか懐かしい。
でも、母がこれだけ頑張ってくれたのに、後ろで目頭を押さえて泣かないようにしている父も、一生懸命に働きながら駆け回ってくれたのに。
懸命な治療が実を結ぶことは、最期までなかった。
母の優しい手の感触も、今の僕には感じられない。
人は死ぬ間際、脳が活発に働いて走馬灯などの記憶が巡るという。
記憶には、何となくこうだったという感触の記憶はあっても、リアルに感覚の再現はされない。
つまり、だ。僕はちゃんと死んだのだろう。
「ごめんね、母さん、父さん。僕は本当に、親不孝な子供だったね。……今まで、ありがとう」
でも、見下ろす母や父に僕の声は届かない。当然か、これは記憶。走馬灯なんだから。
せめて最期に、両親へ謝って、ありがとうぐらいは言いたかった。でも、同時に思ってしまう。これ以上、生きなくてよかったって。
両親がこれ以上、ボロボロに憔悴していく姿をみなくて済む。
家族に迷惑はかけてしまったけど、親しい友人などを作って悲しい思いをさせたら嫌だ。そんな心配も、全く必要のない人生だったけど。
まるで映画のシーンが突然きりかわったように、見下ろす景色が変わった。
ここは、小学校の図書室だな。美しく紅葉したイチョウが窓からみえる部屋にポツンと僕が座っている。
『……きれいな風景。山、夕陽、湖……きらきらしてる』
受付けにいる図書係以外にだれもいない、静かな空間だ。
たった一人っきりで、一冊の雑誌を手に取った僕がつぶやいている。
これが僕を、風景写真という世界に引き込んだ、大きくて強いきっかけだった。
友達なんて作ったら死ぬのが怖い。そう思っていたことも関係していたが、僕は一人で家や図書室にいることが多かった。
だって、外で遊ぶことに身体がついてきてくれないから。
放課後も昼休みも一人で本を読んでいた。子供のうちは容態が変わりやすいからって、遠出は医者に禁止されていた。遠足にだっていけなかった。
「だから、死ぬのが怖くなるような友達は作りたくない。なんて僕の願望は、努力するまでもなく叶ったな」
最初は僕の病気でだれかに気をつかわせたり、万が一の時に悲しまれるのが嫌だから一人でいた。
でも、気がつけば状況は変わっていた。自ら一人になるまでもない。
学校に僕の居場所なんてなかった。それは、小学生の時から高校生になった最期まで変わらなかったな。
自ら一人になりたいっていうのと、居場所がなくて独りっていうのは少し違う。……ほんの少し、寂しくて。あと、悔しかった。
眩しい笑顔でみんながワイワイと賑わう中に、独りでいなきゃいけないのは、辛かった。
代わり映えもしない暗い世界で、両親や先生に守られた――いや、囚われたような毎日を過ごしていた僕だった。
だからこそ、図書館でこの一枚の美しい風景写真をみて、心に楽しいという感情が走った。
自由で、今までみたこともない程に綺麗な世界をみつけた。
写真だけでも、この世のものとは思えない程に綺麗だ。囚人のように暗くて限られた部屋しかみてこなかった僕は、そう思った。こんな世界を居場所にしたい。もっと色んな風景をみたいって、そう思ったんだよな。
この写真に映る風景は、季節によってどう変わるんだろう。空気は、温度や香りはどんな感じだろう。きっとそう、森や草花の香りを涼やかな風が運んで、よい匂いが鼻腔をくすぐるんだ。
そうやって綺麗な想像を膨らませるだけで、心が震えた。
「……胸に痛み以外のものが走ったことなんて、そうそうなかったなぁ」
自嘲気味に口から漏れてしまう。
『ねぇねぇ、お母さん、お父さん! これ、みてみて!』
『わぁ、綺麗ね』
『ああ、これは凄い。美しいな』
僕が図書室から借りてきた雑誌を、夕食の席で興奮しながらみせた。両親は本当に嬉しそうに風景写真と――そして、笑う僕をみていた。
「……そっか。笑う僕をみたから、二人とも笑顔だったのか」
僕は、かわいげのない子供だったな。だって、ほとんど笑わなかったからさ。
でも、この頃の僕は愚かだった。二人も風景写真が好きなんだって思い込んで――。
『僕、カメラが欲しい! それで写真とって、明日から二人にきれいなのをいっぱいみせたい!』
そんなことを言った。言いやがったんだよ。
「……親の心配も考えず、自分勝手だったな。結局、最期までに二人を笑顔にできるようないい写真もとれなかったし」
ほら、みろ。母さんも父さんも目を合わせながら、表情を強ばらせているじゃないか。
まだ高校一年生の僕が大人だとは言わない。
それでも、二人が大人として何を考えているかはよく解る。
きっと、親である二人の心情を声にすると、こんな感じだろう。
『カメラなんて渡したら、外に出てしまう。それは危険だ』
『解ってるわ。そんな危ない真似はさせられない。でも、この子が物をねだるなんて初めてだから、なんとかしてあげたい。せめて連絡がつくように――』
だから、両親はこの何ヶ月か後に、誕生日プレゼントでスマートフォンを買い与えてくれた。
多分、だけど。すぐに買い与えるんじゃなくて、時間をおいた誕生日にだったのは、夫婦の話し合いがしたかったから。それだけじゃないはずだ。
医者への相談、あとはお金の問題だったんだと思う。
「僕は泣きながら、毎週のように病院に連れていかれてたけど。でも、本当に泣きたかったのは二人だったよね。……だって、とんでもないぐらい、お金がかかっていたはずだもん」
ただでさえ子育てにはお金がかかるという。
その上、僕には最新の検査機器による検査代や薬代、入院費などなどの出費だ。
手術の費用だって貯めなきゃいけないと思っていただろう。
だから、二月上旬の誕生日に渡したんだと思う。冬のボーナスの後だったから、費用を工面することもできたんだろう。
「この後、僕はおかしくなったように風景写真を撮って、撮って。疲れてる二人にみせ続けて……。でも、二人は優しかったなぁ。どんなに疲れてても、嫌な顔一つしなかった」
それどころか、写真をみて褒めてくれた。
『本当に綺麗ね』
『ああ、今日も綺麗な写真をみせてくれて、ありがとうな』
写真をみて綺麗だ、と。一言だけそう言って、頭を撫でてくれた。
さすがに中学生後半にもなると、やたら親にみせるのはやめてよく撮れたものだけにしていったけど。
だけど、僕にとっては写真撮影が唯一の趣味にして生き甲斐になった。いつか両親が感動するようないい写真を撮ろうと思って。
それからずっと近場の同じ場所で、四季折々な美しい風景写真を撮ってきたな。
身体の関係で遠出はしない習慣がしみついてたし、近場の風景も素敵だったから。風景を撮る専門の写真アプリとかを使えば、十分に綺麗な写真が撮れた。僕の撮りかたが上手くなれば、人を笑顔にできる写真が撮れると思っていた。迷惑をかけた両親にいい思い出をプレゼントできる。そう思ってた。
でも、許されるなら――。
「……遠くの風景も、撮ってみたかった」
「――うん、撮りにいこうよ」
「……ぇ?」
突然、全く知らない女性の声が聞こえてきた。なんだ、走馬灯で記憶にない声が混じるのか?
「……え?」
戸惑っていると、また景色が一変した。
見慣れた白い天井を背景に、髪を垂らしながら覗き込む人がぼんやりと、そして徐々に鮮明に映る。
そして僕は、しっかりと目が合った。
僕の顔を覗き込んでいる大きな目に、瑞々しくてきめ細やかな肌、綺麗な鼻立ちをしている――快活そうな、若い黒髪ショートヘアーの女性と。
「……だれ?」
「初めまして、私は日向夏葵。植物のひまわりの間に夏を組み合わせて、日向夏葵だよ。あ、ちなみに日向までが名字だから!」
ひまわりと紹介した通り、花が開いたように美しく笑う女性だな。ちょこっとくぼんだえくぼも、たまらない。ハッキリ言って、ものすごく可愛い。動物に例えるなら、リスかな。
でも、目覚めた時にどんな可愛らしい子が目の前にいても――結局、人間だ。
僕は少し残念だった。
「……天使とか、女神様とかじゃないんですね」
自分で思っているよりも、小さくて暗い声だったと思う。
「白衣の天使ってこと? 嬉しい勘違いだね。でも、残念ながら違うかな!」
彼女はどうやら、自分の容姿が褒められたと勘違いしたらしい。言い直そう。
「……そうですか。人間で、残念です」
「残念はひどくないかな? 白衣の天使さんは、さっきナースステーションに戻ったよ。またみに来るって。君のご両親も、入院に必要なものを取りに席を外してるよ!」
ベッドの腰辺りの位置。その横に置かれたパイプ椅子へ座り、彼女が説明してくれた。
早口でも聞き取りやすいな。高めの澄んだ声色は、朝の森で鳴く小鳥のようだ。それにしても、よく喋る人だ。一つ話せば、倍にして返ってくる。
随分と、人への壁がない人なんだな。家族のように接してくるというか。でも、僕はその距離感で人と話すのになれていないんだ。
「あの。少し……距離感が」
「あ、ごめんね。声、大きかったかな。まだ安静にしなきゃだし、病院だもんね。迷惑にならないよう気をつけます」
少し意味を勘違いしてそうだ。僕の言葉が足りなかったな。家族以外と会話なんて久しぶりだったし。僕も気をつけないと。でも、そこは人を気遣って素直に引くのか。
彼女は、間違いなくいい人だ。明るくて、人に好かれる――。
「その通りですね。それで、あなたが僕に何の用でしょうか」
――だからこそ、僕にとっては天敵だ。僕と決して相容れぬ対極の存在、光と影だ。
「えっと……そんなに冷たく当たらないでよ」
「あ、いえ。これが僕の普通ですから」
だからだろうか、どことなく冷たく接してしまうのは。しょんぼりしたように眉尻を下げた姿に、罪悪感を抱く。
「お礼が言いたくてさ。私、君に助けてもらったの。川で死んじゃいそうだった所をね」
「……え」
「橋から景色を眺めててさ。目眩がしたと思ったら、自分がどこにいるか分からなくなって……。気がついたら、ものすごく冷たい川で。冷たすぎたのか、身体も上手く動かなくてね。このまま死んじゃうんじゃないかって、怖かった」
「……え? あなたが、真冬の川で流れてたあの女性、ですか?」
「そう、だからこれを言いたかったの!――本当に、ありがとう!」
川岸で心配蘇生をした時の、今にも死んでしまいそうな弱々しい姿からは想像がつかない。
こんなにも陽のエネルギーに溢れて、生命力の塊みたいな人だったなんて。
「自分が大変なことになるかもなのに、あんな川に入って助けてくれるなんて……君って、すごく勇気あるんだね!」
自分が大変なことに……。そうか、そうだった。僕は、助かってしまったんだ。
こんなにもだれからも愛されて記憶に残りそうな美しい人を助けて最後を迎えられたなら、どれほど良かっただろう。自分の人生には意味があったって言えただろう。
「……別に、僕は自分のことしか考えてなかったですから」
「……そうなの? なんで、そんな辛そうな顔を、してるの?」
「千載一遇のチャンスを逃したから、ですよ」
「チャンス?……ごめんね。君の考えを理解してあげたいのに、私にはわからない」
「そうですよね」
むしろ、簡単に理解できると言われた方が困る。ずっと暗い殻に閉じこもっていた僕を、光耀く人に解るとか言われたら、うさんくさい。
「ね、君はあんな所で何をしていたの?」
「……あの、なぜそんなことを聞きたがるんですか?」
「まぁいいじゃん。君のお母さんからも、起きたら話しかけてあげてねっていわれたし」
「母と知り合いなんですか?」
「さっき、ごめんなさいって言った後に友達になったよ。最初は良く思われてなかったけど、話をするうちに、ね。ほら、これ。連絡先まで交換したんだ」
懐から取り出したスマホのディスプレイを僕に向けてくる。僕の目には確かに、メッセージアプリの母のアカウント名がみえた。
「すごいコミュニケーション力、ですね」
「そうかな?」
小さく頷いて返事をした。チラッとみえたが、彼女のアプリの友人数は四桁に迫っていた。とんでもなく友達が多い。
まぁ、僕が家族と親戚の五人しか登録していないから多くみえるのかもしれないけど。
「それで、君はあそこで何をしていたのかな?」
随分と軽い口調でグイグイ寄ってくる人だ。不気味な程ニコニコしている彼女は僕と対極の存在で、少し苦手だ。でも、不思議と不愉快とは思わない。それどころか、彼女になら話してもいいかもとさえ思う。
友達が多い彼女なら、僕が急にこの世からいなくなっても、三日で、
『あぁ、あの人は残念だったね』
ぐらいの感情になってくれそう。もしかしたら、いなくなったことにも気がつかないかもしれない。それなら、僕としても都合がいい。むしろ嬉しい。
「風景写真を撮ってたんです。梅のつぼみがなる時期だったので」
「へぇ! それって、あのボーンって出てるようなカメラで?」
「違います。スマホです」
「そうなんだ! それって、このスマホ? ね、君が撮った写真をみせてくれない?」
ベッドの頭横にある、病室備えつけのテレビ台。その引き出しから僕のスマートフォンを取り出し、彼女が聞いてくる。ご馳走を目にした子供のようにキラキラとした目で。
本当に、なんなんだろう。まぁでも、僕としても写真をだれかにみてもらう機会には胸がときめく。だって、僕が人生でたった一つ、本気で打ち込んできたものなんだから。
「……はい、どうぞ」
「わぁ、ありがとう! あ、それと私にはもっとフランクに話してよ。同い年なんだし」
「は?」
「ごめんね。保険証と診察券がみえちゃったんだ。それと、君のお母さんから色々と聞いたし」
ほんの少し、表情を暗くして彼女は言った。その言葉で察した。彼女は、僕の余命がもうほとんど残っていないから、笑わせようとしてくれていたのかって。
「僕の病気のこととか、余命のことを聞いたんで――聞いたんだね」
「……うん」
彼女は悪くない。仕方ない。僕の余命を知る母さんからしたら、気も動転するだろう。冷たい川へ入ったなんて信じがたいことをしたなんて聞けばなおさらだ。
「どこまで聞いたの?」
「……余命とか、心臓のこととか」
「そっか」
それなら、ほぼ全てかな。母さんは、僕の身が危ないと感情的になっちゃうから。
「母さんは、よっぽど気が動転していたんだね」
「……うん、すっごく。だからかな。途切れ途切れな話だったから、よく分かんないとこも多くてね。君の口から、ちゃんと聞かせてくれない?」
彼女がスマホを握る指が白く変色していた。落とさないよう強く握っているんだろう。
そして、真っ直ぐにこちらをみつめてくる。
その目は、今までの人生でみたことがない輝きだった。同情とも違う。僕をみていた、今までのどんな瞳とも違う。力強くて――何か、意思のようなものを感じた。
話してもいいと思わせる魅力、なのかな。これがカリスマってやつなのかもしれない……。
「最初は、小児の健康診断だったらしいよ。そこで、僕の心臓病がみつかったんだ」
友達が大勢いる彼女なら、僕が死ぬことで悲しませるかもなんて心配はいらないだろう。
「なんか、心臓のポンプがかなり変らしくてさ。今まで二回手術を受けたけど、どうにもならなかった。移植手術を受けようにも、僕の血液型は千人中五人ぐらいしかいないRhマイナスだったから」
「ずっと、希望を待ってたんだ……」
「死と隣合わせの中で、ね。でも、十年以上も待って生きることを諦めた。希望なんてなかったんだって。だから、子供の頃の僕はだれの心にも残らないって決めた。だれとも仲良くしなければ、悲しむ人は少ないでしょ?」
「……私は?」
「君は、友達が多いからすぐに忘れてくれそう。めちゃくちゃ明るくて落ち込まなそうだし。だから、話すんだよ」
「そっか……。見届け人になっても問題ないって、私を選んでくれたんだ」
「そこまでは言ってないよ」
底なしにプラス思考の女性だ。どうしてそんな風に考えられるんだろう。
「僕も本当は、だれでもいいから話したかったのかな。僕、君が苦手って言うか、嫌いだし」
「……こんな嬉しいと感じる嫌いなんて、初めて言われたな」
「そう。まぁ、そんなこんなで僕は運動も外出も制限された。気がつけば、一人でいたい。じゃなくて、独りでしかいられないぐらい、周りが僕を視界に収めなくなった」
「悲しそう、だね」
「狙い通りだったんだけどね。人に無視されることとだれかの心残りにならない距離は違ったんだ」
「そりゃそう、だよ」
「親友じゃなくて、普通に会話できる友達ぐらいの距離感でいいんだと気がついたときには、手遅れだったんだ」
「ずっと、寂しかったんだね」
「……そうだと思う。でも、友達にはなって欲しいけど、必要以上には近づかないでなんて失礼でいえなかった。全部、意気地がない自分のせいだ。独りの教室や病室で、僕は自分が嫌いになっていく毎日だった」
「一度、暗い世界に入りこんじゃったら……自力で抜け出すのって難しいもんね」
「僕の言い訳だけどね。それに、僕には譲れないものが二つだけあったんだ。一つは、人になるべく迷惑をかけないように最期まで生きること」
「だれかの心残りになるのが、迷惑だって思ってるんだ……?」
「そうだね……。あとは単純に、最期を迎えるとき自分に心残りがあるのが嫌なんだ」
「……なるほどね。もう一つの譲れないことは?」
「もう一つは、人の感情を揺さぶるような。そんないい風景写真を撮ること」
「風景写真、好きなんだね」
「うん。小学生の頃、僕を笑顔にしてくれたのが風景写真だったんだ。嬉しそうに風景写真集をみせる僕をみて、両親も笑ってくれた」
「……だから、このスマホを持ってあそこにいたの? 両親に素敵な写真をプレゼントするために」
手に持った古いスマホを擦り続けながらも、彼女の目は僕に向いている。
真っ直ぐ、ぶれることなくみつめてくる。ずっと独りぼっちだった僕に、なんでこんな真剣な瞳を向けてくるんだろう。そんなに優しくて眩しい目をされたら、口が軽くなっちゃうじゃないか。一時の救いを、求めちゃうよ。
「両親が無理をして手に入れてくれたスマホなんだよ。何度も修理して、昔から使い続けてるんだ。ずっと迷惑をかけてばっかりだったからさ、せめてそのスマホでいい写真を残して、お返しをしたかったんだ。……まぁ、遠出はしなかったけど」
「心臓が原因で遠出しなかったの?」
「いや、違うよ。子供の時と違って、今は薬の量も計算して調整できるらしいから。遠足や修学旅行レベルの運動はできる。……まぁ、飛行機とかは無理で、電車とかバスに限るけど」
「じゃあ、なんで遠出しないの? 綺麗な風景が好きなんでしょ?」
「近場の方が行きやすいし。一人で何かあったら、まただれかに迷惑かけちゃうから、かな……」
「……怖いんだね、動くのが」
心がギュッとわしづかみにされたような錯覚がした。
可愛い顔をして、結構強いことを言うな。でも、そっか。確かに、僕は怖かったのかもしれない。だれかを泣かすのが怖い。心残りが怖い。だったら殻から出ず、目の前にあるもので満足して、心置きなく寿命を迎えたい。この行動の根底は全部、怖いからなのかもしれない。
「そう。僕はもう、ギリギリで生きることが怖いんだ。心臓に、いつ暴発するかわからない爆弾を抱えているのは怖い」
いつも爆発するぞってフリばっかりで。その度に僕は、胸の痛みに苦しんだ。両親も心と懐を痛めたうえに、自分を責めた。
「もう嫌なんだ、迷惑をかけずスパッと終わりたい。倒れる度に不安そうに飛んできて、大丈夫だったら安堵して疲れた顔で笑う。両親がすり減っていく姿を、みたくない。僕に振り回されて、トイレで泣いて。僕が寝てるのを確認してから、深夜家計について会議する姿も、眠気と戦って副業をする姿もみたくないんだ」
小さい頃から続く、そんな光景が脳裏に浮かぶ。目頭がじんわりと熱くなってきた。本当に、本当に周りに申し訳ない。
「それでも、医者と両親に確認しながら少しずつ歩いて行ける距離から自転車でいける距離って撮影場所を広げていって……。毎日、綺麗な風景写真を撮り続けた。僕なりに両親へ感謝の写真を残したかったから」
こんなだれも幸せにできない身体で、怖がりながら生きるのが――とてつもなく嫌なんだ。
「医者が言うには……僕の心臓は、安静にしてても来年を越せないだろうってさ。突然死もあり得るって、この間いわれたんだよね」
「そう、なんだね……」
「――だから、君が川から流れてきた時は、最高のチャンスだと思った」
「……え?」
彼女が呆けたように口を半開きにしている。自分に関係がある話だからかな。
「だれかを救って死ぬなら、こんな良い死に方はない。ずっと未来なく、倒れる度に両親を泣かせて、不安にさせて。地獄のような人生でも、僕が生きた意味はあった。そう思える千載一遇のチャンスだと思ったんだよ」
「……だから、真冬の川なのに飛び込んで助けてくれたんだ」
「そう、勇気でも優しさでもない。自分で心臓を爆破しにいったんだ。だから、僕に感謝なんてこと、絶対にしなくていいからね」
こういえば、彼女も僕から離れていくだろう。人と話せるのは少し嬉しかったけど、それ以上に迷惑をかけたくない。命を救った感謝なんてされたら、彼女の心に残ってしまう。
自嘲気味に笑う僕の顔をみて、彼女は顔を伏せてしまった。
喋りすぎたかな。でも、一方的に悩みを吐き出すぐらい、許して欲しい。とんでもない下心があったけど……。一応、彼女の命を救ったことは事実なんだ。これで貸し借りなし、間違っても感謝なんてせず、忘れてくれ。
数秒、顔を伏せていた彼女が、直ぐに顔を上げた。そして、僕のスマホディスプレイが再び光る。
「わぁ、これがさっき言ってた梅のつぼみ?」
さっきまで顔を伏せていたとは思えない程、耀いた笑顔で聞いてきた。
僕の写真を、彼女は次々にスライドさせていく。少しだけ、ドキドキした。だれかに自分の撮った写真をみせるなんて、両親以外になかったから。どんな感想が出てくるんだろう。
「うん、綺麗な写真だね!」
待ち望んでいた感想は、たった一言だった。
少しショックだ。僕が昔、小学校の図書館でみた風景写真には叶わないだろうけど、感動するような綺麗な写真を撮っていたつもりだったのに。
「……風景写真用の有料撮影アプリ使ってるから」
「あ、ごめんね。なんか、拗ねさせちゃった?」
彼女がからかうように僕の頬をグリグリと捻ってきた。それが、余計に屈辱だった。
上目使いで、ベッド柵に顎を乗せて。そんな男を勘違いさせるような仕草が自然と出るなんてこの子は小悪魔なのかも知れない。あざとさを感じさせない所も含めて。
もう返事をするのも面倒くさい。そう思っていると、すっと頬に感じていた温く柔らかい感触がなくなり――静かな、真剣な声が聞こえてきた。
「ね、君はさ――将来の夢とか目標って、ある?」
「……は?」
思わず間抜けな声が出てしまう。それぐらい予想外だった。
「将来の夢とか目標がないと、この先で何をしたいか、何をすべきかわからないじゃん」
テレビ台にスマホを置くと、椅子から立ち上がり彼女は言う。
全身を使って僕を励ます彼女の姿は、舞台の上に立つ女優のようだ。
「あのさぁ……」
僕は溜息交じりに声を吐き出してしまう。この人は、何を言ってるんだ。
「素敵な夢をみて朝を迎えないから、ついつい過ごしかたも暗くなっちゃうんだよ」
「いや、だから」
「夢があれば、未来だってみえて明るくな――」
「――君はさ、僕の話を聞いてなかったの!?」
自分でも、驚く程に大きな声が出た。なんなんだ、こんなにも頭が真っ白になるのは初めてだ。目がチカチカして、腕もブルブルと震えてしまう。こんな声が、川から流れてくる彼女をみつけた時に出ればよかったのに。
よりによって病室で、それも女の子に向かって怒鳴るなんて。
「……き、聞いてたよ」
「だったら、なんで夢とか未来なんて無神経なことが言えるのさ!? 言っただろ、僕は来年には死ぬんだって!」
ベッド柵を思わず全力で殴ってしまう。ガンッっという音の後に、手がビリビリと痛む。
何かを殴るなんて、初めてかもしれない。
八つ当たりだとは解っている。物に当たるなんておかしいことも。でも、止められないんだよ。
なんで僕は、こんなにも怒っているんだ。それでも、止まらない。
「……そんな先の未来じゃなくて、明日とか、来月とか、来年までの近い将来とか……さ」
「――は」
思わず僕は鼻で笑ってしまう。
本当ならばこんな馬鹿馬鹿しい話をされて、心から高笑いしてやりたいくらいだ。
「そんな将来の夢をみても仕方ないし、逆に辛くなる身体なんだって説明したのに。そっか、なんも聞いてくれてなかったんだ」
彼女は腕を抱え身を小さくして震えている。柳のように綺麗な眉も下がりきっていた。
僕のようなヒョロヒョロの男に怒鳴られたくらいで、それほど怯えているのか。注意して聞けば、浅くて早い呼吸まで聞こえてくる始末だ。
僕は伝えたはずなのに、彼女は一つも理解していなかったらしい。地雷を全力で踏みつけて、怒るかもと思わなかったのか。
潤んだ瞳で視線を向ける表情は心が痛む。ああ、もう。なんで病室から逃げないんだ。
いや、どう考えても僕が悪い……か。嫌だから止めてっていわず怒鳴るなんて、最低だ。
込み上げていた怒りはすぐに収まって、チクチクと罪悪感や後悔が襲ってくる。彼女に迷惑をかけてしまっている。それだけは避けなくちゃいけない。
「……怒鳴ってごめん。もしかしたら、君はいい写真を撮るには計画が必要だよって教えてくれてたのかもなのにね。……でも、悪いけど今日は帰ってくれないかな」
面と向かって嫌なことを言われて、つい感情的になってしまった。
もうこれ以上、彼女と関わる必要なんてない。僕が謝って、彼女が帰って。二度と会うこともない。それで全て丸く収まる。
彼女は小さく頭を下げながら、病室から出て行った。
最後まで僕に身体を向けて出ていったあたり、本当に礼儀正しい子なんだろう。
彼女がさっきまで座っていたパイプ椅子の上には、もうだれもいない。静かな空間だ。
僕はもう、何も問題がなければ明日の午後には退院するだろう。今までの入院経験からだいたいわかる。また、静かで暗くて。刺激のない暗い六畳間の自室にこもって最期を待つんだ。
「……日向夏葵、か」
もう会うことはないだろう彼女の名前が、妙に心にへばりついて残った――。
「――……なんで家までくるのかな」
翌日、我が家のリビングテーブルの前には、日向夏葵が座っていた。
昨日、あれだけ怒鳴られ怯えていたというのに。家の場所は、保険証をみたとかかな。
「お見舞いにきたかったんだよ! 冬休みだしね。あと、君のお母さんからも頼まれたし」
「そうじゃなくて……。というか、なんで僕のお母さんとそんな親しいの」
なんで、そんな笑顔になれるんだろう。本当に、右から左なんだろうか。昨日、震えていた姿が嘘のようだ。
初めての来客、しかも同年代を一人でもてなすなんて心臓に悪い。お茶は、お菓子はと頭がぐるぐるして、僕は落ちつきなくリビングを動き回っていた。
「ね、またあの写真みせてよ!」
やっとお茶とお菓子を持ってきた僕に、彼女は手を伸ばしてきた。花が咲いたような笑顔で、じっとこちらを向いてくる。
怒鳴った罪悪感はあるけど、彼女はそんな僕の負い目すら消し去る程に朗らかだ。
好奇心旺盛な人だな。僕の話をちゃんと聞いてくれる気はないみたいだけど。
「……別にいいよ」
それと前言を訂正しよう。僕が死んでも彼女は三日後には忘れると言ったが、翌日だ。
今日のように、彼女は翌日には忘れてくれる。対極の人間だからか僕には理解できないけど、これは確かに接しやすい。それは友達も多いはずだ。
座りながら黙ってスマホを差し出すと、彼女は昨日と同じように写真フォルダをスクロールしていく。
嫌な沈黙だ。どうせまた、同じ感想だろう。僕が愛着を持っている写真に、たった一言だ。
「やっぱり、綺麗な風景だね」
ほら、やっぱり一言だけ。そんなでも、僕が恐怖と戦って外に出て、心を躍らせながら撮った風景写真たちなんだけどな。
お茶のおかわりのために急須を持ってくるべきかと席を少し立った。でも、彼女は椅子に座ってスクロールを続けつつ上体と顔は歩き回る僕へ向けてくる。
礼儀正しいというか。ここまで来るともう、人として怖い。
太陽を追う向日葵のようだ。日向夏葵、名は体を表すというけど、ここまでとは思わなかった。
「……ありがとう。でも、やっぱ人を感動させられない写真みたいだ」
僕が話しても、彼女は振り向くことなく微笑みながらディスプレイを眺めている。
本当に自由な人と言うか、マイペースというか。
やがて、ぽつりと呟くように言った。
「……ん、惜しいんだよなぁ」
「何が?」
「そうだな……。ねえ。君と私、どっちもつぼみに似てるなぁとか思わない?」
「え、二人とも?」
「そう、私たち二人ともだよ!」
「思わない」
「え、なんで?」
「君はもう、咲いてる花だと思うよ。僕は、咲くこともなく枯れるつぼみかもだけど」
「そこは枯れずに咲いてよ」
「仮に僕がつぼみだとしても、咲かないよ。僕には明るい太陽が、未来がない。日陰に根を下ろしちゃってるから」
「君は暗い! 心が雨雲みたいに暗いんだよ、そんなんじゃ太陽だってみえないよ!」
「……自分の性格が暗くて、ジメジメとうっとうしいのは自覚してる」
「そういう問題じゃない! 君は動けない植物じゃないんだから、太陽をみに行けばいいんだよ!」
「僕をつぼみに例えたの、君だよね?」
少しだけムッとしていた彼女だけど、何か閃いたかのように椅子から立ち上がりこちらをみる。
改めて立った姿をみると、細いな。ちゃんとご飯食べてるのかな。
「私ね、君の写真は凄く綺麗だと思うの」
「……どうも」
「でもね、君の写真はちょっと解像度が足りないかな」
「……スマホなんだから、仕方ないじゃないか。限界があるよ」
そりゃ、プロが持つような色彩鮮やかに撮れて、ピントも自由に調節できる高性能なカメラには及ばない解像度だろう。
「写真、詳しいの?」
「私は写真に関しては完全に素人だよ。……でもね、何となく惜しいって思うの」
「……僕、これでも写真に関してだけは、ずっと一生懸命に勉強してきたんだけど」
「そっか。だからこんな綺麗に撮れるんだ。――それで君はさ、解像度って何だと思う?」
何を言っているんだろう。ずっと写真を撮ってきたと言ったのに。ああ、そうか。話を聞いていなかったのか。昨日もそれで僕を怒らせるような発言をしたんだし。なら、これは彼女の個性と思って受けとめるべきなのかもしれない。
「写真とかを小さく分割したピクセルの中に色を密集させた相対解像度とか。あとはそのピクセル数を表す絶対解像度でしょ。これが増えることでよりシャープな――」
「――ああ、違うの! 私がいいたいのは、そんな専門的な難しいことじゃないよ。もっと『人が抽象的に捉える解像度』ってことだよ!」
ぶんぶんと首を振る。彼女の短い髪からフワッと、シャンプー剤の甘い香りが漂い鼻腔をくすぐった。なんだか、凄く心地良い。リビングに新しい生花が飾られたようだ。
彼女のわけが分からない理論なんて、許せる程に心が落ち着く匂いだ。
「……どういうこと?」
「すぐに答えを教えてもつまらないから――探そうよ!」
「は?」
「私はね、この写真たちは未完成で不十分だと思う。君は、いつ死ぬかわからないんだから、目標とか夢をもっても仕方ない。もう遅いんだっていったよね」
「……驚いた、ちゃんと聞いてたんだ」
「私ね、世界って映像でみるよりもっと沢山の情報を持っていると思うな。自分で動いて、遠出して。その中には新鮮なことが一杯あると思う。そんなたくさんの情報を切り取って伝えるのが、写真なんじゃない?」
「それは……」
思わず、視線を泳がせてしまう。……確かに。僕の心を動かした風景写真を思い返すと、美しい風景の、ほんの一部をフレームに凝縮させていたように思う。
このフレームの外にはどんな景色があるんだろう。そう考えなかったかと言えば、嘘になる。
「解ってくれたみたいだね。――じゃあ、さ。夢を自分で持てない君の残った人生、私と撮影の旅に出ようよ。残り少ない君の余命、きっと充実させるから。殻にこもってるぐらいなら、私にちょうだい?」
まるでプロポーズのようだ。
でも、それは愛の契りでもなんでもない。悪魔との契約のように、僕の余命をくれといっている。大好きなものを餌にした魔の誘いだ。
でも一緒に旅まですれば、さすがに僕の死は彼女にとっても心残りになっちゃうだろう。
「……やめとくよ。君のためにもならない。たしかに、僕はいい写真を撮ることにかけては妥協したくない。だからずっと写真の勉強をしてきた。写真のことだけは、君より詳しいと思うし。でも、いい写真のヒントをくれて、ありがとう」
水の入ったコップをぎゅっと握りしめながら、答えた。我ながらなんて悔しげな声を出してるんだろう。
数秒ほど、沈黙の時間がながれた。
彼女は、僕に優しい眼差しを向けながらも、何かを考えているんだろうか。
なんでそんな真っ直ぐみつめてくるんだ。
「……わかった。今日の所は、帰るね」
そう言って、彼女は帰るときに扉の前でもう一度、僕に正対してお辞儀をした。
玄関が閉まる音がすると、家に静寂が戻ってきた。一人でいるには、大きすぎて寂しい家だ。
何もしないでいるのはソワソワしてしまう。思わず、スマホを握りしめインターネットで調べてしまった。ディスプレイには、日本の様々な風景や世界の絶景スポットが映し出される。
「……ごめん。心臓の悪い僕じゃ、こんな所まで登れない。飛行機にすら、乗れないんだ……」
テーブルに突っ伏し、久しぶりに悔しさで震えた――。
退院して数日後、高校一年生の三学期が始まった。
僕の通う高校は、自宅を出て最寄りの川越駅から反対側にある。徒歩では自宅から駅まで約十五分、更にそこから学校まで二十分ほど歩く必要がある距離だ。徒歩通学は正直、厳しい。
頑張れば自転車で通えるが、狭い道を迂回して行かなければならない。毎日その運動量は心臓への負荷が気になると心配した両親の勧めもあって、川越駅からバスで高校まで通っている。
最初はバスを待つ時間も考えると効率が悪いと思っていた。でも、駅まで徒歩で通うのは、一つだけ良いことがあった。
自宅から駅までの街道にある、街路樹がみられることだ。
ビル街の中、人間の都合で植えられたのに、立派に育った生命力に満ちた大木だ。
そんな強く生きる街路樹をみて勇気をもらうことが、日々のささやかな癒やしとなった。
「……新学期を乗り切る、力をください」
街路樹を一撫でしてから駅へ向かって、バスに揺られながら撮影技術の本を読み学校へとついた――。
校門を入った後、僕は肩身を狭くして歩いている。
だれも彼も、友人と冬休みの思い出について語っていたり、学校が面倒くさいなどと会話に花を咲かせていた。
そんな中、話す相手の一人もいない僕は、身を丸めるようにして校舎前まで歩き――。
「――望月君!」
後ろから、凜とした美しい声に呼ばれた。
声の質は確かに知っている。こんなエネルギーに満ちた美しい声が他にあってたまるか。でも、彼女はこんな所にいるわけが――。
「病室以来だね!」
いた。二度と会うことは無いと思っていた女性が。
「日向、さん?……なんで」
「お、初めて私の名字を呼んでくれたね? あ、それはお互い様か!」
竹を割ったようにカラカラと笑う日向夏葵は、やはり特別に元気だ。
思わず止まってしまった僕の正面に立ち、下から顔を覗き込んでくる。
「あの、なんで。もしかして、学校……」
「そう、私と望月君、同級生だよ? 望月君のお母さんから聞いて、私もびっくりしちゃった」
「僕、そんなこと聞いてないんだけど」
「驚いた?」
悪戯が成功したからか、身体を前のめりにして小首を傾げ僕をみてくる。
向けられた笑顔に、なんだか無性に腹が立った。
母さん、なんで僕には言ってくれなかったんだろう。
「サプライズしたいから、秘密にしておいてってお願いしたんだ。――あ、望月君の連絡先も、もらったよ。サプライズは成功したから、後でフレンド申請送っておくね!」
「いや、僕はだれとも……。だから、許可しないよ」
ただ会話するのは、別にいい。記録に残らないから。でも、メッセージアプリはダメだ。会話が形として残る。僕がいなくなった後にも、残り続けてしまう。
死んだ人の名前が残り続けるなんて、嫌だろう。消すのにも困るはずだ。
「え~、なんでよぉ」
彼女がムッとした表情に一転した時――。
「夏葵、だれだそいつは?」
「何、夏葵の知り合い? あ、うちらのクラスの……人じゃん」
身長が高い、色黒短髪で前髪を上げた筋肉質な男。そして、細身なのに出るところは出たポニーテールの女の子が話しかけてきた。
女の子が視線を右上へ向け言葉に詰まっていたのは、僕の名前が出なかったからだろう。
まぁ思い出されなくたっていいんだけどね。僕がそうしてきたし。
別に、寂しくなんかない。
「あ、勇司に舞じゃん、おはよ! あんね、望月君と私は、深い仲になったんだよ」
「は!? 深い仲って、なんだよそれ!?」
「ちょ、もしかしてだけど、夏葵。この陰キャっぽい望月君と……付き合ってんの?」
勇司と呼ばれた男性は怒りに眉を吊り上げ、舞と呼ばれた女性は狼狽えていた。
そして、僕の平凡な日々を全力で殴り壊した張本人――日向さんは。
「思い出すなぁ。寒い中、絡む指のぬくもり。荒々しく唇を合わせ、胸に感じる男らしい手……」
芝居がかった動きと声音で更なる爆弾を放り込んだ。
それは心配蘇生で確かにしたけど、でもそういう風に勘違いさせる物言いはやめてほしい。
そんなことは、こんなみるからに体育会系の男女に睨まれながら言えるわけもない。怖い。
「お前、夏葵に手を出しやがったのか。オイ、随分と手が早いじゃねぇか……!」
「ちょっと早すぎじゃない? 夏葵を大切にする気、あんの? あんたマジで、夏葵を傷つけたら許さないよ?」
「ち……ちが……。あの、近いです……」
「あ?」
「ウチらの大切な友達に手ぇ出したんだから、説明ぐらいしてよ」
僕を威圧するように迫ってくる二人が本当に怖い。
人とほとんど話したことなかったのに。こんな怒ってる体育会系を落ち着かせるなんて、難易度が高すぎる。
助けを求めるように視線を右往左往させると、僕たちの方をみて楽しそうに笑う日向さんが目に入った。助けてという意思を込めた視線を送る。すると、日向さんは飛び跳ねるようにこちらによってきて――。
「――はい、ストップ! 私の大切な人が怯えてるじゃん」
迫り来る二人の背中をパンッと叩いて止めた。
「大切な人って、夏葵。お前、マジでコイツと……?」
「そう、望月君には本当に感謝しててね……」
「夏葵、あんた、こういうのが趣味だったの?」
「実は――」
さすがに悪戯に満足したのか。日向さんはどのように僕と出会い、どんな関係なのかちゃんと説明を始めた。
その間に呼吸を整え、ようやく落ち着きを取り戻した。
全く。この人が来てから、僕の静かな日常は真逆になってしまった。
僕はいまさらそんな変化、望んでなんかいないのに。
会話の節々を聞いていて分かったことは、この二人――川崎勇司と、樋口舞という女性は、日向さんと相当に仲がいいこと。
そして、僕と同じクラスだったらしいこと。それを、三学期にして初めて知った。
いかに僕がスマホにしか興味を示していなくて、陰に植わるような人物だったのかを再確認した。
「……あー、まぁ。なんか、日向の悪戯にまた騙された。望月、すまん」
「ウチも、ちょっと正気じゃなかったわ。マジでごめん」
「あ、いや……その、大丈夫だから。あの、居心地悪いので、もういかない?」
周囲の目がかなり集まっている。騒ぎすぎたから当然かもしれないけど。そんな中でクラスの中心っぽい二人から謝られるって。もうどうしたらいいのかわからない。頭の中は軽くパニックだ。
「――人と仲良く、なれちゃったね」
僕の耳元に顔を近づけ、ボソリと囁く日向さんにゾッとした。
「私がこの場を何とかしてあげたらさ。フレンド申請、承認してくれるかな?」
僕はもう、キツツキのように首を縦に振った。
パッと満面の笑みを浮かべた日向さんは、嬉しそうに弾む足で二人を落ち着かせてくれた。
彼女はやはり僕の天敵で、天使どころではない。心の平穏を乱す悪魔だ。
悪魔に目をつけられたら、この先も何をしてくるか。
予想もできない――。
この日は始業式のため授業もなく、僕は逃げるように学校を出てバスに乗りこんだ。
川崎君や樋口さんが僕の存在を認識し、話しかけようとしていたのが目にみえて解ったからだ。
日向さんに関しては、僕は苦手に思っているし、彼女も友達が多いからすぐに忘れてくれるから問題ない。
「その判断が間違いだったのかな……」
僕はだれの心にも残りたくないし、だれかを心残りにして寿命を迎えない。今から適度な距離感を探りながら誰かと友達になるには、残された時間が足りない。そんな高度なコミュニケーション能力はない。
まさか、彼女の友達を僕と近づけようと画策してくるなんて。彼女は善意なんだろうけど、余命一年程度になってからじゃ手遅れだ。ましてやあんなにクラスの中心にいるようなキラキラした人たちとなんて、ハードルが高すぎる。
バスから降りて「……友達作りに挑戦する勇気もだせない自分が、僕は大嫌いだ」そう愚痴りながら家へたどり着き、やっと落ち着く。
机に置こうとしたスマホをみると、メッセージが来ていた。
日向さんからだ。
学習机に座りながら悩む。いっそ無視するか。でも、返さなけば学校で、人前で目立つ文句を言われかねない。彼女なら、きっとやる。
一言二言でメッセージを返すが、親と比べて日向さんは返信が早い。送ったと思えばすぐに返信がくる。これが女子校生というものかと驚愕してしまう。
挨拶的な他愛もないやり取りを続けていると、彼女がとんでもない発言をぶっ込んできた。
『望月君の撮った写真、送ってよ! SNSとかに載せてみよう』
スマホを持ったまま固まってしまう。どういうつもりだ。僕の写真を未完成とか言ってたくせに。
『作り方がわからないから止めとく』
迷った末に僕がそう返すと、すぐに返事がきた。
『そう言うと思って、もう作っておいたよ。パスワードとか教えるから、共同管理ね!』
やっぱり、彼女は天敵だ。
スマホの向こうで笑っている顔が浮かぶ。質が悪いのは、彼女に悪意がないことだ。
メッセージに載っているリンク先に飛ぶと、アカウント名には【二人の共同写真館】などというアカウント名があった。思わず、片手で頭を抱えてうなってしまう。
もう、なんと返信したらわからない。
地球の引力にしたがってスマホを握ったままぶらりと腕が下がってしまう。
無意識で天を仰ぎ溜息がでる。
すると、ポンと通知の音が鳴った。既読になったのに返答しない僕へ追撃をしてきたらしい。
『恥ずかしがらないで。せっかくなんだから、フォルダの海に沈めとくなんて写真が可哀想だよ。より多くの人にみてもらおうよ』
そのメッセージに、僕は考えた。確かに、だれかにみてもらいたい気持ちはある。これでも、一生懸命撮ってきた思い入れのある写真なんだ。日向さんや親の心は動かせなかった。それでも、だれかの心が揺れ動くかもしれない。
迷った末に、僕は一枚の写真を投稿した。だれかを笑顔にできますようにと祈りながら。
桜並木がドーム状に沿道を包み、花弁が風に舞う美しい写真だ。
しばらくじっと画面をみていたが、反応は一切ない。
フォロワーの一人もいないんだから当然かと思いつつも、やはり寂しい。
スマホをそっと机に置いて、僕は布団へうつ伏せに倒れ込む。
自然と手はシーツを強く握り、シワを作っていた――。
時の流れは早い。
僕の日常と言えば――。
「なぁ、望月。ちょっといいか」
「か、川崎君、また? 今度は、どうしたの?」
「いや、何回も聞くのはしつけぇかもだけどさ。夏葵と、どんな話してんの?」
「いや、普通に写真のこと、とかだけど」
「そんだけ? なんか男の話とか、俺たちの話とかでないの?」
「ひ、日向さんからは聞いたことないけど」
「え、マジで? 全くでないん!?」
川崎君の大きい声で詰め寄られ、僕はビクリと椅子から腰を浮かす。
「こ、今度、話題に出たら報告するね」
早口にそう言いながら僕は自分の席から離れていく。――でも、その手をガッと掴まれた。
「ちょっと待ってくれって! なぁ、望月はさ……夏葵のことが好きなのか?」
「勘違い、だからやめて。苦手っていうか天敵、だから手、ごめん」
怯えながらもなんとか手を引き剥がして、僕は早足に教室から逃げ出す。
「あ、おい! いや、怖がらせるつもりは……すまん」
川崎君の言葉は他のクラスメイトの声に交じって聞こえなかった。
僕はやっと落ち着けるという気持ちで廊下へでる。
怖かった……。人との会話はまだ慣れない。適切な距離って難しい。頭がぐるぐるする。
「あ、望月じゃん!」
「ひっ……!」
僕は思わず情けない悲鳴をあげてしまった。
川崎君から逃げたと思ったら、次は樋口さんと出くわしてしうとは。
「……なんか顔青いけど、大丈夫? 保健室行く?」
「だ、大丈夫、です」
上ずった声で、視線をさまよわせながら返す。その際、自然とあるところもみてしまう。
「……あんさ、ウチの胸、みてない?」
胸を腕で隠し、目を細めている。あからさまに嫌そうな顔だ。
「み、みてないみてない! みてないです!」
ぶんぶんと首を横にふる。樋口さんはあからさまに「良かった」という表情で腕をおろした。そして安心したのか伸びをして――。
「……こんなとこでする話じゃないんだけどさ」
僕の首に腕をまわすと、口の横に手を当て耳元でこそりと囁いてきた。何、コレ。
「ウチさぁ、胸大きいの、コンプレックスなんだ。男どもがそういう目でみてくるのって、意外とわかるもんなんだよ」
「そ、そうなんです、ね」
「ウチはこんな男っぽい性格だから。昔と変わらず、男子とも気軽に接したいんだけどね」
「げ、限度は必要かと」
「わかってる。男子と話してる方が楽だからって普通にしてたら、女子からメッチャ嫌われるのも。夏葵だけは、最初から何も関係なく接してくれるから、本当にありがたいんだけど……」
彫像のように固まっている僕の首から、樋口さんは腕をのけた。やっと、解放された。
「だから、望月がもし夏葵を悲しませるなら、ウチは絶対に許さないから。特別な男を作らなかった夏葵が、望月には特別興味を示してる。正直、心配なんだよね」
「だ、大丈夫、です。僕は特別なんかじゃないんで! し、失礼します!」
早口で言い切って逃げる。いきなり肩を組んで耳元で話すなんて、男女としてあり得ない。
あ、でも樋口さんは女としてみないで欲しいのか。いや、無理だって。ど
か、どこか安心出来る場所はないのかな。
「男子トイレだ……!」
男子トイレの個室なら、一人になれる空間だ。
僕が早足に廊下を歩くと――。
「あ、望月君じゃん! おーい、どこ行くの?」
「トイレだよ。もう勘弁して!」
日向さんに声をかけられた。でも、僕は目を合わせることもなく、男子トイレの個室へ駆けこんだ。
「僕の日常が、壊されていく……」
思わず頭を抱えてしまう。
僕はこうして、三人から逃げ続ける毎日を過ごしている。
だれの心残りにもなりたくないから、いまさら深入りしてはいけない。適度な距離感がわからないで迷惑をかける可能性があるなら、近づくべきじゃない。
そう言い訳をして、僕は独りという守られた殻にこもろうと逃げ続けている。自分が情けないけど、急な変化についていけない。
そうこうしているうちに、卒業式や終業式も終わった。
僕には迎えられないであろう、高校の卒業式だ。延々と合唱を歌い続けて全卒業生を会場に迎え、式で泣いている先輩たちを拍手で見送った。何ともいえない気持ちだ。
その後の僕はといえば、ほこりをかぶったひな人形のように変わらない毎日を過ごしている。
梅のつぼみは芽吹き、次は桜が迫っている。次はいつどこで、どんな写真を撮ろうか。
せっかく作ってくれたSNSだけど、今の所は反応が一切無い。
どうせ反応がないならと気が向き次第ガンガン投稿している。慣れとは怖いものだ。
「結局、僕が撮る写真みたいなのは、ネットに溢れてるんだろうな……」
僕にはだれの心を動かす写真も撮れない。十六年間、写真へ一途に生きた意味すら残せないんだろうなぁ。まぁ、努力が必ずしも報われるとは限らないか。そんな暗い気持ちで写真を見返しながら反省点や改善案をノートに書き、気がつけば夜になっていた。
六畳の自室にこもり、残り短い寿命を写真にだけ費やしていた。
そんな時、学習机の上にあるスマホの通知音がなった。
「……メッセージ?」
立ち上がり、学習机の上に置いていたスマホを手に取る。通知画面に日向夏葵と表示されたメッセージの内容を確認すると――。
『蔵造りの街並みって観に行ったことある?』
というものだった。蔵造りの街並みとは、僕たちの住んでいる川越の観光名所だ。
レトロで、小江戸川越と呼ばれる江戸情緒の面影を今に伝える歴史の香り漂う通りだ。平日でも関係なく、着物を着た観光客が食べ歩きをしている姿がみられる。でも、人が苦手な僕には正直言って地獄の通りだ。何しろ、人と当たるか車と当たるか選べという程に混み合っているんだから。
『あるけど、人でごった返していて全く綺麗だとは思わなかったよ』
『あー、日中は折角の街並みなのに、人の身長より高い部分しかみえないよね』
『そうだね』
『夜の街並みはみたことある?』
『ないよ』
『では問題です! 私は今、どこにいるでしょう?』
嫌な予感がした。
思わず動きを止め、壁かけ時計をみる。時刻は午後九時だ。
いや、いくらなんでも女の子が一人で外にいる時間ではない。仮に彼女が蔵造りの街並みにいるとしてもだ。きっと、友達といるんだろう。そう思い直して返事を書き出すが――。
『時間切れ! 正解は蔵造りの街並みに一人でいるよ!』
その文章に、動かしていた親指をピタリと止めた。
なんて返そう。危ないから早く帰りなさい、かな。いや、同級生に対して上から目線すぎるかもしれない。悶々としていると、更にぽんと通知がなる。
『川越駅方面の入口にいるから、早く来てね! あ、一応だけど美術館の方だよ?』
最悪だ。この子、僕の平和で静かな未来を壊すことを愉しんでいるんじゃないか?
思わず、頭を掻いてしまう。
『無理、親の許可が出ない。夜は危ないよ。日向さんの親も心配するだろうから、早く帰ろうね』
重い指を動かしてそう返すと、すぐに返事がきた。本当に、返信が早い。
『大丈夫、うちの親にも望月君の親にも、許可はとってあるから!』
そのメッセージの後に、親とのメッセージ画面をスクリーンショットした写真が届いた。
間違いなく、うちの親のアカウントだ。というか、一緒に映っているメッセージで二人が親しげに世間話をしていた。どれだけ仲良くなってるんだ。さすがのコミュニケーションお化けっぷりだ。
『さあ、逃げ道はないよ』
だれのせいだと思っているんだろう。僕の都合や気持ちは考えないのかな。
『危険だって言っている夜の街に、女の子を一人で待たせておくのはどうなんだろうか?』
追撃のような一文がきた。こんなことを言われたら、行くしかないじゃない。
「ああ、もう。仕方ないな!」
頭を掻きむしりながら、返信をする。
『十五分でいく。明るくて人の目があるところにいて』
クローゼットを開け、目についた適当な外着を引っ張りだし着替えを済ませる。
財布と自転車の鍵を机の引き出しからとりだし、早足で部屋を出る。
階段を降りながら「行ってきます」と言うと、嬉しそうな「気をつけて行ってらっしゃい」という母さんの返事が返ってきた。
靴を履きながら思う。母さんは、僕に友達ができたと思って喜んでいるんだろうな。
大切に使っている電動自転車にまたがり、まだ肌寒い三月下旬の夜の街を走りながら「ごめんね、母さん。あれは友達じゃないんだ」とつぶやく。
線路を越え、息切れしながら「日向さんは、ただの天敵だよ」と絞り出す。
そう。彼女は僕の平穏で、だれの心にも残らない最期を壊したがる存在だ――。
「――あ、きたね。大丈夫?」
「……そう、思うならさ。急におどすような呼び出しは止めてよ」
「え? じゃあ、普通に待ち合わせしたら、来てくれたの?」
「絶対、いかない」
「でしょ?」
勝ち誇らないで欲しい。
自転車に寄りかかり伏せていた目線を上げる。
目の前には、少し前屈みになり満面の笑みをみせる日向さんがいた。ほの明るい夜の街灯に照らされているせいか、いつもより更に美人にみえて、少し胸がドキッとした。一瞬、不整脈かと思った。
「ほら、そんな下ばっかりみてないでさ。前をみようよ!」
「何をそんな興奮して――……」
日向さんの後ろに広がる街並みを目にして、言葉を失った。
だれもいない、近代と江戸情緒溢れるレトロな街並みが広がっている。
いつもはごった返す人でみえない壁、等間隔に設置されたほの明るい暖色の街灯。静かで穏やかな空気が、僕を包みこんでくれる。
ああ、街中なのに、吸う空気が美味しい。木材の香りがたまらない。ほの明るい暖色の街灯が、心まで優しく照らすような安心感をくれる。
なんて居心地が良くて、美しい場所なんだろう。
昼にみた景色と同じとは思えない、まさに絶景だ。
「こんな、街並みだったのか……」
「どう、全然違うでしょ。感動した?」
「……うん」
不覚にも、心が奪われてしまった。まるで時代の移り変わりの最中にいるような。そんな錯覚さえ覚えた。あまりに美しい光景に、思わずスマホを取り出してカメラアプリを起動してしまう。
レンズ越しに、建物と光の配置を考えて被写体の構図を調整し、撮影ボタンを押した。
なんて美しい風景だ。撮れた写真を見返し、思わず顔がほころんだ。
「ね、せっかくだからさ。ちょっと散歩しようよ」
斜め横からひょこっと、嬉しそうな笑顔を僕に向けてきた。散歩か。確かにこの綺麗な街並みを歩けるのは、楽しいかもしれない。また美しい風景写真が撮れるかもと、心が躍った。
「……自転車、停めてくるからちょっと待ってて」
「ほい、りょうかい!」
えへへ、と言いながらだれも通らない県道ではしゃぐ日向さんを横目に、僕は自転車を停めに行った。早くもっと綺麗な景色を撮りたい、とワクワクしながら。――息切れなんて、忘れていた。
「別世界にいるみたいだ……」
「ね! 昼とは全く別の顔だよね」
道を歩きながら、ついつい呟いてしまう。飲食店も江戸情緒を意識した木造建築の外観をしている。これは確かに、浴衣や着物を着て歩きたくなるかもしれない。
「あ、時の鐘がライトアップされてるよ!」
「……こんなに、なるんだ」
江戸の街に鐘の音で時間を伝えていた歴史的文化財だ。駅の前から宣伝されている割りに、凄く小さい寺みたいだなと。昼に来たときには、正直がっかりしていた。でも、こうして夜にライトアップされた高い鐘楼をみると――壮観だ。
上手く、奥の道に広がる木造建築を構図へおさめてまた写真を撮る。
「望月君、嬉しそうだね」
「……そうみえる?」
「うん、だって――笑ってるもん。初めてみたなぁ。望月君の笑顔!」
「……え?」
僕は笑っているのか?
思わず手を頬に当てて確認する。確かに、心なしか口角が上がっているような……。
さっきから写真を撮るのが楽しくて――心から笑えているかはわからない。でも、その楽しさが表情に出ていたのか。
作り笑いじゃなく自然と笑ったのなんて、いつ以来だろう。……あれ、もしかして、物心ついた後、僕が心から笑ったことなんて――過去、風景写真と出会った時だけしかなかったのかも。
「ね、ちょっとそこのベンチで休憩しようよ!」
僕をくいくい引っ張る力を感じた。はっとみると、僕の服の袖を日向さんが片手でちょこんと掴んでいる。反対の手ではお店前の木造ベンチを指さしていた。
「私ね、あのお店の常連だからさ。あそこでいつも食べるお菓子、美味しいんだ」
「……勝手に座って、大丈夫なの?」
「大丈夫でしょ。店長さんとも知り合いだし!」
コミュニケーションお化けめ。とは思いながらも、確かに街を歩き回って足も疲れている。
彼女に引かれるがまま、僕たちはベンチに座った。
「……座った姿勢でみると、夜空も綺麗だ。みる角度によって、こんなにも違うんだ」
座ってみる街並みはまた違った風情を感じた。思わず写真を撮ってしまう。美しい写真だ。
そこで、あ……と気がつく。人といるのに、スマホばかり触っているのは失礼だった、と日向さんの方をみると――。
「ん? どうかした?」
全く気にした様子がなく、こちらをみつめて微笑んでいた。
「いや、スマホばっかり触ってて、失礼だったなって。ちょっと反省を……」
「反省してるの? そんなしょんぼりして、望月君は可愛いなぁ」
「……からかわないでよ」
ぷにぷにと頬を突く指を払いのける。彼女は、人との距離感が狂っている。普通なら近づかれて不愉快と思う距離でも土足で踏みこんでくるのに、なぜだか逆に安心してしまう。
まるで夜道に立つ、ほの明るい街灯のようだ。これが人に好かれる人ってやつか。
本当に、陰に生きる僕とは対極の存在だ。
「ね……。さっきさ、私が突然呼び出して、十五分後にこんな綺麗な景色がみられるって未来、想像してた?」
「……全然、してなかった」
「私たちが会った初日にさ、未来をみても仕方ないって、望月君……怒ったじゃん?」
僕は、思わず目を剥いて驚いた。
「日向さん、覚えてたんだ。……てっきり、忘れてるのかと」
「私をなんだと思ってるのかな? もしかして、アホだと思ってる?」
ちょっといじけた顔で言う日向さんの視線に耐えられない。思わず顔を逸らしてしまう。
「そうだったら、僕にとっては都合よかったなって」
だって、何があろうと翌日には忘れてくれるなら――どんな接しかたをしても、その人の心残りにならない。つまり、突然いなくなっても迷惑にならないから。
「何それ、ちょっとひどいなぁ。――望月君は正直、私のこと嫌だなって思ってるでしょ?」
「……正確には、天敵、かな」
「え、そこまで!?」
がーんと聞こえてきそうな顔でショックを受けている。本当に顔、そして身体全体で感情を表現する子だな。声だけでなく感情を伝えられるのは、もう舞台女優のような見事さだ。
「ま、まぁ。でもね、そんだけ嫌いな相手なら、別に一緒にいてもよくない? だって望月君が最期を迎えた時、私が悲しんだとしても、どうでもいい相手でしょ?」
「……まぁ、確かに。でも、そこまで心を鬼にできないよ」
僕は、迷惑をかけたくないからだれかの心残りになりたくない。それと同時に、だれかを心残りにして死にたくない。
天敵といえるぐらい苦手な彼女なら、本当に心残りにならないのかという疑問と、もう独りでいなくてもいいんだという甘い誘惑がせめぎあう。
「――だからさ、私と未来をみて旅をしようよ。また、こういう景色を撮る旅をさ」
「…………」
以前の僕だったら、すぐに怒っていただろう。
でも、僕は実体験として知ってしまった。
「あはは、歯の浮くようなセリフだよね。ちょっと恥ずかしいけど、これマジだよ」
どんな景色が待っているのかと未来をみるのは、こんなにも楽しいのかと。昂揚して、心が躍る快楽だ。
「それにさ、私がいった『人が抽象的に捉える解像度』の答え――探して欲しいし」
そうだ、その問にさえ、僕はまだ答えを出していない。このまま答えを知らずに寿命を迎えるのは、心残りになるかもしれない。
なんで日向さんは、僕みたいな陰キャラに関わってくるんだろう。怒鳴られたり、嫌な思いもたくさんしいるはずなのに。
命を救ったというのは、こんなにも人をお節介にするものなのかな。
「一つ聞かせて欲しい。僕みたいな嫌なヤツに関わるのは、命を救った他にも何か理由がある?」
「……バレてたか。うん、実はあるよ」
「その理由って?」
「聞かせて欲しいのは、一つだけっていってたよ。あと、それはまだ秘密かな」
夜の暗いレトロな街並みを背景に、含むような笑みを浮かべる日向さんは少し不気味だ。
利害があるってことか。でも、それなら丁度いいのかもしれない。
いい写真を撮ることに関して、彼女は僕が知っている以外の何かを知っている。こんな綺麗な街並みの風情がある写真、僕では思いつかなかった。もしかしたら、彼女と旅をすればそれがみつかるかもしれない。
それなら――。
「……わかった」
「本当っ!?」
「ち、近いってば! でも、必ず親の許可を得ること。あと心臓の検査とかもあるし、月に一回、どこかの週末でって感じでいいなら……」
「ん~、わかった。前向きに善処することを検討するよ!」
そう言ってベンチから立ち上がり、こちらをみて――夜の江戸情緒溢れる街を背景に、心から笑う日向さんが、本当に綺麗で。
「ね、私にも今日撮った写真ちょうだいよ!」
「ああ、うん」
みとれていた僕は、ふわふわする感覚の中でスマホをいじってメッセージアプリを開き、目の前にいる相手へ写真を送っていく。改めてディスプレイに映る日向夏葵という名前を眺めて、僕は心から思ってしまう。
「陽キャラで快活で。いつも人の方をみて、花のように笑って。夏に大輪の花を咲かす、向日葵みたいだ」
「……え」
スマホをみていた日向さんは、キョトンとした顔で僕をみる。
「僕からみた日向さんは、街中に咲く向日葵にみえるって話だよ」
本当に、名は体を表していると思う。僕の耀治という名に関しては、名前負けしているけど。
僕の素直な言葉を聞いた後、日向さんは俯きながら手遊びを始めた。街灯に照らされる彼女の頬が、赤みがかったようにみえる。
「あの……向日葵の花言葉とか、知ってて言ってる?」
「は?……知らない、けど」
「だと思ったけど! けど、そういう歯が浮くセリフ言う時はさ、ちゃんと意味を考えなさい!」
日向さんは、ぺしっと軽い力で僕の肩を叩いてきた。
「もう、今日は解散! 旅のことはまた連絡するから、またね!」
「あ……」
送っていくと言いたかった。でも、そんな隙を与えないぐらい素早く彼女は走り去ってしまった。
それほどおかしなことを言ったかな。向日葵みたいだなって言っただけなんだけど。
置き去りにしていた電動自転車で帰りながら、日向さんの様子がおかしくなった原因を考えるけど、答えはでなかった。
家に着いてすぐシャワーを浴びた後、濡れた髪をタオルで拭きながら、片手でスマホを操作し向日葵について調べていく。
「そういえば、花言葉とか言ってたっけ」
ディスプレイに映る向日葵の花言葉をみて、僕は固まってしまった。
表示されたのは――『憧れ、あなただけをみつめる』。
僕は自分の言った言葉がいかに曲解されて日向さんに伝わったのかと考え――悶えた。
何て恥ずかしい事を……! フローリングに頭を擦りつけ「ぬぅぁああ……」と呻ってしまう。タオルを両サイドから顔に押しつけて強くこするけど、恥ずかしさはどうにもならない。
どんな顔をして日向さんと旅をしろって言うの、やっぱり一緒に旅なんてやめようかな。ああ、でも、約束しちゃったしなぁ……。
母さんが声をかけてくれるまで、僕は一人で悶え続けた――。
街を通る川の上流から、人が流れてきている。
草木すら凍る、極寒の川だというのに。
風景写真を撮ろうと、土手沿いでスマホをかざしていただけなのに……。
指先がかじかんで上手く撮影ボタンが押せないでいたディスプレイに、異物が流れ込んで来ていることに気がついた。
なんだろうと思ってズームすると、それは人の姿をしていたんだ。
これは冗談でも何でもない。眼前で起きている事実だ。
あり得ない状況で思わず呆けてしまう。間の抜けた声もでてしまったけど、ほとんど無意識だった。
「……いやいや、いくらなんでもあり得ないか。……マネキンとか、かな」
僕を正気に戻すため、冬将軍が攻撃をしかけてきたのかと思うほど凍てつく風が肌に刺さる。
眼前でサラサラと流れる川のせせらぎ、凍りついた枝が朝陽をあびて溶け、パキパキと不定期に鳴る音色が響く。
吐く息は白い蒸気となり、吸い込む神聖な空気は喉だけでなく肺にまで冷たいという感覚を与える。
そんな心地良くて、信じられないほど美しい世界だというのに……。
ディスプレイ越しでなく、肉眼でみる光景はもっと信じられないものだ。
「いや、間違いない……人が流されてる」
人が流され、僕のいる場所に近づいてくる。髪の長さからして……女性?
流されてくる女性は生きているのかすら解らない。普段より流れが早い水の中で、浮かんではまた沈んでを繰り返している。
上流の雪溶けで水かさも平時より増している。僕の腰ぐらいまではありそうか。
そんな川の中でコートを纏っているのだから、沈むのも当然だ。
ーーなんてのんきなことを言っている場合じゃない! だれか、だれかいないか!?
周囲を見回して助けを呼ぼうにも、だれもいない。
それはそうだろう、なんせ日の出を迎えたばかりだ。僕が、何とかしないと。
「――あ、だ、だい丈夫ですか?」
蚊の鳴くような声しかでない。川を流れる女性には届いていないだろう。動く気配がない。
普段、大きな声を出す機会が無かったから。だからこういう時、大きな声で助けを呼べないっ。
「追いかけなきゃ……!」
でないと、このまま流されていって彼女を見失う。濡れた雑草をザクザクと踏み分け走る。
まず救急車を呼ぶべきだよね。緊急ボタンがあったはず、通話をつながなきゃ。
僕のスマホは五秒間緊急ボタンを押し続ければ、自動的に指令センターへ繋がる設定になっている。
『はい、こちら消防指令センターです。火事ですか、救急で――』
「――救急というかなんというか、えっと、たぶん事故です! 初雁橋の下流、水上公園辺りの川で人が流されてます!」
通話相手が言い切る前に、一息で言ってしまった。焦っていたし、走っている。それに緊急ボタンで通話を繋ぐなんて真似で、心臓はバクバクなんだ。仕方ないだろう。
もう必要なことは伝えたはずだ。スマホを耳につけていては走りにくい。
僕はダウンジャケットのポケットにスマホを突っ込んだ。
「あの、あなた、大丈夫ですか!?」
僕なりに精一杯出した大声で呼びかけても反応がない。
こんな時、普通ならばどうするだろう。どうするべきだろうか。
そんなことを考えつつも、僕はこれ幸いと川へ飛び込むことに決めた。
――なにも迷うことなんかなかったな。
真冬の冷たい川、そして人助けという状況。必ず訪れるであろう死。
これこそまさに、僕が待ちのぞんだ状況だ。
重しになる上着は脱ぎ捨てよう。
身体が冷たい風に打ち克とうとブルブル震える寒さでも関係なしに、素早く脱ぎ捨て川へ向かう。
もはや反射的に、無意識でそうしたとも言える。端からみれば奇行だろう。
「――……!」
冷たいどころじゃない……!
水に入った瞬間、筋肉が痙攣を始めた。関節が思うとおりに動いてくれない。
だからこそ、いい。
文字通り必死の思いで腰近くまである水を掻き分け、何とか彼女の身体を掴んだ。
本当は即座に、彼女の全身を水面から出せたら格好よかっただろうな。
でも、僕は本当に非力なカトンボみたいな男で、服に水を吸った女性をお姫様だっこできるような。そんな格好良いヒーローなんかにはなれない。
「ぁ……く……!」
声をだそうとしても、歯がカチカチと鳴るばかりだ。僕の吐く息にほんの少し、音が混じる程度の音しかでない。
水底の砂利に何度も足を取られる。浅瀬まできて水が跳ねるたび、舞う飛沫が水から出ている僕の肌を攻撃してくる。
それでも、僕は彼女を岸に寝かせることに成功した。やり遂げた。
「ぃき……!」
仰向けに寝かせた女性は、息をしていないようにみえる。口元へ耳を近づけても、息が聞こえない。
「こ……んな」
こんな格好良い死に場を、逃してたまるか。
必死に両手で胸骨圧迫、心肺蘇生を始める。震えている場合じゃない。
両手で心臓を圧迫して、口へ息を吹き込む。頼む、戻れ、死なないでくれ!
無駄死にから……。
「――……ふはぁっ……はぁっ……!」
「もど……った」
彼女は、息を再開した。全身の力が、気力が。空気に吸われるように抜けていく。
よかった、生き返った、のか。
粗く必死に呼吸をしている彼女が、薄らと目を開けた。ガチガチと震え、顔も唇も真っ青だ。
「上着、温かくさせ、ないと……」
低体温症で死んでしまっては、元も子もない。
霜が降りている草に水を垂らしながら、防寒性能抜群の上着を取りにいく。彼女を、死なせてはいけない。
黙ってよ、心臓。もう少しだけ、動いてよ、僕の手足……。
彼女の元へやっと戻ってきた時、全身をガタガタ震わせていた。水を含んだコートのびちゃびちゃという音が聞こえる。
鉛のように固い彼女の関節を無理矢理動かし、冷たく濡れたコートを強引に引き剥がす。そして急いで僕の上着で覆う。
勢いよくしすぎたのか、ジャケットのポケットに入れていた財布やらスマホが落ちた。でも、今はのんきに拾っている場合じゃない。熱が逃げないように包まなきゃ。
上着で包んでも暖がたりないのか、全身の震えは収まる気配がない。
そうだ。こういう時、人肌が一番温められると聞いたことがある。両手を握れば、いくらかでも……。
震える彼女の手、その指を捕まえて、ギュッと僕の血潮の温もりを伝える。
なんなら、そのまま全ての熱を持っていってくれ。
「……よかっ……た。少し、まし、かな……?」
幾分か、彼女の表情がほっと緩んできた気がする。
「……ぁ、りが、と……」
ガチガチ震える声で、彼女が喋った。
やっと気がついた。随分、若い女性だ。やっと外見をちゃんとみた。顔なんて、どうでもよかったから。ただ……生きた意味であってくれれば、と。
「――ぐっ……!」
「どっ、した、ですか!?」
痛い、痛い、苦しい……。来た、遂に。やっぱり、来てくれた……。もっとこい。
胸を刺す痛み、呼吸すらままならない。心臓を掻き出すように手で押さえてしまう。思わず眼を閉じて、前のめりに蹲らずには、いられない。
これだ、これ……。僕をずっと不自由にしてきた感覚だ。
早く自由に、連れ去ってくれ!
僕は最期の時を待ち、やっと意識が朦朧としてくる。痛みも感じなくなってきた……。
「救急隊です!――大丈夫ですか!?」
「ぁ……、ぉちぃた、ぉ財布から……ぉれが」
「彼のお財布からですか、これは、保険証と診察券、ですね!? あなたも一緒に――」
「かれを……、私ぁんかより、どうか……かれの、命を……! ぉねあい、します……!」
「落ち着いてください! オイ、担架で運ぶぞ!」
「ぃや……、わたしのため……に、死なないで……!」
最期に聞こえてきたのは、そんな言葉だった――。
僕は死んだのか。あの状況だ、僕の身体で助かるはずはない。そうか、死んだんだ。死後の世界にまで意識が保持されるなんて、驚きだ。
お願いだから、前世の肉体までは継続しないで欲しい。
『ごめんね、耀治。健康に産んであげられなくて、ごめんね』
ふと、すすり泣く母の姿がみえた。
空中から映像を見下ろすように、場面を眺めている状況だ。
ああ、忘れることなんて絶対にできない場面だ。母さんが抱いているのは、きっと。
『お母さん……泣かないで。ごめんなさい、僕が悪いんだよね? 泣かないで、泣かないでよぉ』
これは間違いない、僕だ。
なんて幼い声だろう。スマートフォンを持ってから、興味本位で自分の声を録音してみたことがある。
初めて自分の声を聞いてみた時には、本当にこれが自分の声なのかと驚いたものだった。だって、脳内に響く自分の声と全然違ったから。
声と同じように、自分の姿を見下ろしても自分とは思いにくいものだ。でも、この会話はよく覚えている。
だから、母の背を抱き返しながら顔を不細工に歪めている子供は、間違いなく僕なんだなと解る。
『きっと、きっと耀治にあった良い治療法があるからね。一緒に頑張ろうね』
本当に母は、言葉通りに頑張ってくれた。僕を安心させようと作った固い笑顔、柔らかい毛髪ごと慈しむように頭を撫でつけている姿が、なんだか懐かしい。
でも、母がこれだけ頑張ってくれたのに、後ろで目頭を押さえて泣かないようにしている父も、一生懸命に働きながら駆け回ってくれたのに。
懸命な治療が実を結ぶことは、最期までなかった。
母の優しい手の感触も、今の僕には感じられない。
人は死ぬ間際、脳が活発に働いて走馬灯などの記憶が巡るという。
記憶には、何となくこうだったという感触の記憶はあっても、リアルに感覚の再現はされない。
つまり、だ。僕はちゃんと死んだのだろう。
「ごめんね、母さん、父さん。僕は本当に、親不孝な子供だったね。……今まで、ありがとう」
でも、見下ろす母や父に僕の声は届かない。当然か、これは記憶。走馬灯なんだから。
せめて最期に、両親へ謝って、ありがとうぐらいは言いたかった。でも、同時に思ってしまう。これ以上、生きなくてよかったって。
両親がこれ以上、ボロボロに憔悴していく姿をみなくて済む。
家族に迷惑はかけてしまったけど、親しい友人などを作って悲しい思いをさせたら嫌だ。そんな心配も、全く必要のない人生だったけど。
まるで映画のシーンが突然きりかわったように、見下ろす景色が変わった。
ここは、小学校の図書室だな。美しく紅葉したイチョウが窓からみえる部屋にポツンと僕が座っている。
『……きれいな風景。山、夕陽、湖……きらきらしてる』
受付けにいる図書係以外にだれもいない、静かな空間だ。
たった一人っきりで、一冊の雑誌を手に取った僕がつぶやいている。
これが僕を、風景写真という世界に引き込んだ、大きくて強いきっかけだった。
友達なんて作ったら死ぬのが怖い。そう思っていたことも関係していたが、僕は一人で家や図書室にいることが多かった。
だって、外で遊ぶことに身体がついてきてくれないから。
放課後も昼休みも一人で本を読んでいた。子供のうちは容態が変わりやすいからって、遠出は医者に禁止されていた。遠足にだっていけなかった。
「だから、死ぬのが怖くなるような友達は作りたくない。なんて僕の願望は、努力するまでもなく叶ったな」
最初は僕の病気でだれかに気をつかわせたり、万が一の時に悲しまれるのが嫌だから一人でいた。
でも、気がつけば状況は変わっていた。自ら一人になるまでもない。
学校に僕の居場所なんてなかった。それは、小学生の時から高校生になった最期まで変わらなかったな。
自ら一人になりたいっていうのと、居場所がなくて独りっていうのは少し違う。……ほんの少し、寂しくて。あと、悔しかった。
眩しい笑顔でみんながワイワイと賑わう中に、独りでいなきゃいけないのは、辛かった。
代わり映えもしない暗い世界で、両親や先生に守られた――いや、囚われたような毎日を過ごしていた僕だった。
だからこそ、図書館でこの一枚の美しい風景写真をみて、心に楽しいという感情が走った。
自由で、今までみたこともない程に綺麗な世界をみつけた。
写真だけでも、この世のものとは思えない程に綺麗だ。囚人のように暗くて限られた部屋しかみてこなかった僕は、そう思った。こんな世界を居場所にしたい。もっと色んな風景をみたいって、そう思ったんだよな。
この写真に映る風景は、季節によってどう変わるんだろう。空気は、温度や香りはどんな感じだろう。きっとそう、森や草花の香りを涼やかな風が運んで、よい匂いが鼻腔をくすぐるんだ。
そうやって綺麗な想像を膨らませるだけで、心が震えた。
「……胸に痛み以外のものが走ったことなんて、そうそうなかったなぁ」
自嘲気味に口から漏れてしまう。
『ねぇねぇ、お母さん、お父さん! これ、みてみて!』
『わぁ、綺麗ね』
『ああ、これは凄い。美しいな』
僕が図書室から借りてきた雑誌を、夕食の席で興奮しながらみせた。両親は本当に嬉しそうに風景写真と――そして、笑う僕をみていた。
「……そっか。笑う僕をみたから、二人とも笑顔だったのか」
僕は、かわいげのない子供だったな。だって、ほとんど笑わなかったからさ。
でも、この頃の僕は愚かだった。二人も風景写真が好きなんだって思い込んで――。
『僕、カメラが欲しい! それで写真とって、明日から二人にきれいなのをいっぱいみせたい!』
そんなことを言った。言いやがったんだよ。
「……親の心配も考えず、自分勝手だったな。結局、最期までに二人を笑顔にできるようないい写真もとれなかったし」
ほら、みろ。母さんも父さんも目を合わせながら、表情を強ばらせているじゃないか。
まだ高校一年生の僕が大人だとは言わない。
それでも、二人が大人として何を考えているかはよく解る。
きっと、親である二人の心情を声にすると、こんな感じだろう。
『カメラなんて渡したら、外に出てしまう。それは危険だ』
『解ってるわ。そんな危ない真似はさせられない。でも、この子が物をねだるなんて初めてだから、なんとかしてあげたい。せめて連絡がつくように――』
だから、両親はこの何ヶ月か後に、誕生日プレゼントでスマートフォンを買い与えてくれた。
多分、だけど。すぐに買い与えるんじゃなくて、時間をおいた誕生日にだったのは、夫婦の話し合いがしたかったから。それだけじゃないはずだ。
医者への相談、あとはお金の問題だったんだと思う。
「僕は泣きながら、毎週のように病院に連れていかれてたけど。でも、本当に泣きたかったのは二人だったよね。……だって、とんでもないぐらい、お金がかかっていたはずだもん」
ただでさえ子育てにはお金がかかるという。
その上、僕には最新の検査機器による検査代や薬代、入院費などなどの出費だ。
手術の費用だって貯めなきゃいけないと思っていただろう。
だから、二月上旬の誕生日に渡したんだと思う。冬のボーナスの後だったから、費用を工面することもできたんだろう。
「この後、僕はおかしくなったように風景写真を撮って、撮って。疲れてる二人にみせ続けて……。でも、二人は優しかったなぁ。どんなに疲れてても、嫌な顔一つしなかった」
それどころか、写真をみて褒めてくれた。
『本当に綺麗ね』
『ああ、今日も綺麗な写真をみせてくれて、ありがとうな』
写真をみて綺麗だ、と。一言だけそう言って、頭を撫でてくれた。
さすがに中学生後半にもなると、やたら親にみせるのはやめてよく撮れたものだけにしていったけど。
だけど、僕にとっては写真撮影が唯一の趣味にして生き甲斐になった。いつか両親が感動するようないい写真を撮ろうと思って。
それからずっと近場の同じ場所で、四季折々な美しい風景写真を撮ってきたな。
身体の関係で遠出はしない習慣がしみついてたし、近場の風景も素敵だったから。風景を撮る専門の写真アプリとかを使えば、十分に綺麗な写真が撮れた。僕の撮りかたが上手くなれば、人を笑顔にできる写真が撮れると思っていた。迷惑をかけた両親にいい思い出をプレゼントできる。そう思ってた。
でも、許されるなら――。
「……遠くの風景も、撮ってみたかった」
「――うん、撮りにいこうよ」
「……ぇ?」
突然、全く知らない女性の声が聞こえてきた。なんだ、走馬灯で記憶にない声が混じるのか?
「……え?」
戸惑っていると、また景色が一変した。
見慣れた白い天井を背景に、髪を垂らしながら覗き込む人がぼんやりと、そして徐々に鮮明に映る。
そして僕は、しっかりと目が合った。
僕の顔を覗き込んでいる大きな目に、瑞々しくてきめ細やかな肌、綺麗な鼻立ちをしている――快活そうな、若い黒髪ショートヘアーの女性と。
「……だれ?」
「初めまして、私は日向夏葵。植物のひまわりの間に夏を組み合わせて、日向夏葵だよ。あ、ちなみに日向までが名字だから!」
ひまわりと紹介した通り、花が開いたように美しく笑う女性だな。ちょこっとくぼんだえくぼも、たまらない。ハッキリ言って、ものすごく可愛い。動物に例えるなら、リスかな。
でも、目覚めた時にどんな可愛らしい子が目の前にいても――結局、人間だ。
僕は少し残念だった。
「……天使とか、女神様とかじゃないんですね」
自分で思っているよりも、小さくて暗い声だったと思う。
「白衣の天使ってこと? 嬉しい勘違いだね。でも、残念ながら違うかな!」
彼女はどうやら、自分の容姿が褒められたと勘違いしたらしい。言い直そう。
「……そうですか。人間で、残念です」
「残念はひどくないかな? 白衣の天使さんは、さっきナースステーションに戻ったよ。またみに来るって。君のご両親も、入院に必要なものを取りに席を外してるよ!」
ベッドの腰辺りの位置。その横に置かれたパイプ椅子へ座り、彼女が説明してくれた。
早口でも聞き取りやすいな。高めの澄んだ声色は、朝の森で鳴く小鳥のようだ。それにしても、よく喋る人だ。一つ話せば、倍にして返ってくる。
随分と、人への壁がない人なんだな。家族のように接してくるというか。でも、僕はその距離感で人と話すのになれていないんだ。
「あの。少し……距離感が」
「あ、ごめんね。声、大きかったかな。まだ安静にしなきゃだし、病院だもんね。迷惑にならないよう気をつけます」
少し意味を勘違いしてそうだ。僕の言葉が足りなかったな。家族以外と会話なんて久しぶりだったし。僕も気をつけないと。でも、そこは人を気遣って素直に引くのか。
彼女は、間違いなくいい人だ。明るくて、人に好かれる――。
「その通りですね。それで、あなたが僕に何の用でしょうか」
――だからこそ、僕にとっては天敵だ。僕と決して相容れぬ対極の存在、光と影だ。
「えっと……そんなに冷たく当たらないでよ」
「あ、いえ。これが僕の普通ですから」
だからだろうか、どことなく冷たく接してしまうのは。しょんぼりしたように眉尻を下げた姿に、罪悪感を抱く。
「お礼が言いたくてさ。私、君に助けてもらったの。川で死んじゃいそうだった所をね」
「……え」
「橋から景色を眺めててさ。目眩がしたと思ったら、自分がどこにいるか分からなくなって……。気がついたら、ものすごく冷たい川で。冷たすぎたのか、身体も上手く動かなくてね。このまま死んじゃうんじゃないかって、怖かった」
「……え? あなたが、真冬の川で流れてたあの女性、ですか?」
「そう、だからこれを言いたかったの!――本当に、ありがとう!」
川岸で心配蘇生をした時の、今にも死んでしまいそうな弱々しい姿からは想像がつかない。
こんなにも陽のエネルギーに溢れて、生命力の塊みたいな人だったなんて。
「自分が大変なことになるかもなのに、あんな川に入って助けてくれるなんて……君って、すごく勇気あるんだね!」
自分が大変なことに……。そうか、そうだった。僕は、助かってしまったんだ。
こんなにもだれからも愛されて記憶に残りそうな美しい人を助けて最後を迎えられたなら、どれほど良かっただろう。自分の人生には意味があったって言えただろう。
「……別に、僕は自分のことしか考えてなかったですから」
「……そうなの? なんで、そんな辛そうな顔を、してるの?」
「千載一遇のチャンスを逃したから、ですよ」
「チャンス?……ごめんね。君の考えを理解してあげたいのに、私にはわからない」
「そうですよね」
むしろ、簡単に理解できると言われた方が困る。ずっと暗い殻に閉じこもっていた僕を、光耀く人に解るとか言われたら、うさんくさい。
「ね、君はあんな所で何をしていたの?」
「……あの、なぜそんなことを聞きたがるんですか?」
「まぁいいじゃん。君のお母さんからも、起きたら話しかけてあげてねっていわれたし」
「母と知り合いなんですか?」
「さっき、ごめんなさいって言った後に友達になったよ。最初は良く思われてなかったけど、話をするうちに、ね。ほら、これ。連絡先まで交換したんだ」
懐から取り出したスマホのディスプレイを僕に向けてくる。僕の目には確かに、メッセージアプリの母のアカウント名がみえた。
「すごいコミュニケーション力、ですね」
「そうかな?」
小さく頷いて返事をした。チラッとみえたが、彼女のアプリの友人数は四桁に迫っていた。とんでもなく友達が多い。
まぁ、僕が家族と親戚の五人しか登録していないから多くみえるのかもしれないけど。
「それで、君はあそこで何をしていたのかな?」
随分と軽い口調でグイグイ寄ってくる人だ。不気味な程ニコニコしている彼女は僕と対極の存在で、少し苦手だ。でも、不思議と不愉快とは思わない。それどころか、彼女になら話してもいいかもとさえ思う。
友達が多い彼女なら、僕が急にこの世からいなくなっても、三日で、
『あぁ、あの人は残念だったね』
ぐらいの感情になってくれそう。もしかしたら、いなくなったことにも気がつかないかもしれない。それなら、僕としても都合がいい。むしろ嬉しい。
「風景写真を撮ってたんです。梅のつぼみがなる時期だったので」
「へぇ! それって、あのボーンって出てるようなカメラで?」
「違います。スマホです」
「そうなんだ! それって、このスマホ? ね、君が撮った写真をみせてくれない?」
ベッドの頭横にある、病室備えつけのテレビ台。その引き出しから僕のスマートフォンを取り出し、彼女が聞いてくる。ご馳走を目にした子供のようにキラキラとした目で。
本当に、なんなんだろう。まぁでも、僕としても写真をだれかにみてもらう機会には胸がときめく。だって、僕が人生でたった一つ、本気で打ち込んできたものなんだから。
「……はい、どうぞ」
「わぁ、ありがとう! あ、それと私にはもっとフランクに話してよ。同い年なんだし」
「は?」
「ごめんね。保険証と診察券がみえちゃったんだ。それと、君のお母さんから色々と聞いたし」
ほんの少し、表情を暗くして彼女は言った。その言葉で察した。彼女は、僕の余命がもうほとんど残っていないから、笑わせようとしてくれていたのかって。
「僕の病気のこととか、余命のことを聞いたんで――聞いたんだね」
「……うん」
彼女は悪くない。仕方ない。僕の余命を知る母さんからしたら、気も動転するだろう。冷たい川へ入ったなんて信じがたいことをしたなんて聞けばなおさらだ。
「どこまで聞いたの?」
「……余命とか、心臓のこととか」
「そっか」
それなら、ほぼ全てかな。母さんは、僕の身が危ないと感情的になっちゃうから。
「母さんは、よっぽど気が動転していたんだね」
「……うん、すっごく。だからかな。途切れ途切れな話だったから、よく分かんないとこも多くてね。君の口から、ちゃんと聞かせてくれない?」
彼女がスマホを握る指が白く変色していた。落とさないよう強く握っているんだろう。
そして、真っ直ぐにこちらをみつめてくる。
その目は、今までの人生でみたことがない輝きだった。同情とも違う。僕をみていた、今までのどんな瞳とも違う。力強くて――何か、意思のようなものを感じた。
話してもいいと思わせる魅力、なのかな。これがカリスマってやつなのかもしれない……。
「最初は、小児の健康診断だったらしいよ。そこで、僕の心臓病がみつかったんだ」
友達が大勢いる彼女なら、僕が死ぬことで悲しませるかもなんて心配はいらないだろう。
「なんか、心臓のポンプがかなり変らしくてさ。今まで二回手術を受けたけど、どうにもならなかった。移植手術を受けようにも、僕の血液型は千人中五人ぐらいしかいないRhマイナスだったから」
「ずっと、希望を待ってたんだ……」
「死と隣合わせの中で、ね。でも、十年以上も待って生きることを諦めた。希望なんてなかったんだって。だから、子供の頃の僕はだれの心にも残らないって決めた。だれとも仲良くしなければ、悲しむ人は少ないでしょ?」
「……私は?」
「君は、友達が多いからすぐに忘れてくれそう。めちゃくちゃ明るくて落ち込まなそうだし。だから、話すんだよ」
「そっか……。見届け人になっても問題ないって、私を選んでくれたんだ」
「そこまでは言ってないよ」
底なしにプラス思考の女性だ。どうしてそんな風に考えられるんだろう。
「僕も本当は、だれでもいいから話したかったのかな。僕、君が苦手って言うか、嫌いだし」
「……こんな嬉しいと感じる嫌いなんて、初めて言われたな」
「そう。まぁ、そんなこんなで僕は運動も外出も制限された。気がつけば、一人でいたい。じゃなくて、独りでしかいられないぐらい、周りが僕を視界に収めなくなった」
「悲しそう、だね」
「狙い通りだったんだけどね。人に無視されることとだれかの心残りにならない距離は違ったんだ」
「そりゃそう、だよ」
「親友じゃなくて、普通に会話できる友達ぐらいの距離感でいいんだと気がついたときには、手遅れだったんだ」
「ずっと、寂しかったんだね」
「……そうだと思う。でも、友達にはなって欲しいけど、必要以上には近づかないでなんて失礼でいえなかった。全部、意気地がない自分のせいだ。独りの教室や病室で、僕は自分が嫌いになっていく毎日だった」
「一度、暗い世界に入りこんじゃったら……自力で抜け出すのって難しいもんね」
「僕の言い訳だけどね。それに、僕には譲れないものが二つだけあったんだ。一つは、人になるべく迷惑をかけないように最期まで生きること」
「だれかの心残りになるのが、迷惑だって思ってるんだ……?」
「そうだね……。あとは単純に、最期を迎えるとき自分に心残りがあるのが嫌なんだ」
「……なるほどね。もう一つの譲れないことは?」
「もう一つは、人の感情を揺さぶるような。そんないい風景写真を撮ること」
「風景写真、好きなんだね」
「うん。小学生の頃、僕を笑顔にしてくれたのが風景写真だったんだ。嬉しそうに風景写真集をみせる僕をみて、両親も笑ってくれた」
「……だから、このスマホを持ってあそこにいたの? 両親に素敵な写真をプレゼントするために」
手に持った古いスマホを擦り続けながらも、彼女の目は僕に向いている。
真っ直ぐ、ぶれることなくみつめてくる。ずっと独りぼっちだった僕に、なんでこんな真剣な瞳を向けてくるんだろう。そんなに優しくて眩しい目をされたら、口が軽くなっちゃうじゃないか。一時の救いを、求めちゃうよ。
「両親が無理をして手に入れてくれたスマホなんだよ。何度も修理して、昔から使い続けてるんだ。ずっと迷惑をかけてばっかりだったからさ、せめてそのスマホでいい写真を残して、お返しをしたかったんだ。……まぁ、遠出はしなかったけど」
「心臓が原因で遠出しなかったの?」
「いや、違うよ。子供の時と違って、今は薬の量も計算して調整できるらしいから。遠足や修学旅行レベルの運動はできる。……まぁ、飛行機とかは無理で、電車とかバスに限るけど」
「じゃあ、なんで遠出しないの? 綺麗な風景が好きなんでしょ?」
「近場の方が行きやすいし。一人で何かあったら、まただれかに迷惑かけちゃうから、かな……」
「……怖いんだね、動くのが」
心がギュッとわしづかみにされたような錯覚がした。
可愛い顔をして、結構強いことを言うな。でも、そっか。確かに、僕は怖かったのかもしれない。だれかを泣かすのが怖い。心残りが怖い。だったら殻から出ず、目の前にあるもので満足して、心置きなく寿命を迎えたい。この行動の根底は全部、怖いからなのかもしれない。
「そう。僕はもう、ギリギリで生きることが怖いんだ。心臓に、いつ暴発するかわからない爆弾を抱えているのは怖い」
いつも爆発するぞってフリばっかりで。その度に僕は、胸の痛みに苦しんだ。両親も心と懐を痛めたうえに、自分を責めた。
「もう嫌なんだ、迷惑をかけずスパッと終わりたい。倒れる度に不安そうに飛んできて、大丈夫だったら安堵して疲れた顔で笑う。両親がすり減っていく姿を、みたくない。僕に振り回されて、トイレで泣いて。僕が寝てるのを確認してから、深夜家計について会議する姿も、眠気と戦って副業をする姿もみたくないんだ」
小さい頃から続く、そんな光景が脳裏に浮かぶ。目頭がじんわりと熱くなってきた。本当に、本当に周りに申し訳ない。
「それでも、医者と両親に確認しながら少しずつ歩いて行ける距離から自転車でいける距離って撮影場所を広げていって……。毎日、綺麗な風景写真を撮り続けた。僕なりに両親へ感謝の写真を残したかったから」
こんなだれも幸せにできない身体で、怖がりながら生きるのが――とてつもなく嫌なんだ。
「医者が言うには……僕の心臓は、安静にしてても来年を越せないだろうってさ。突然死もあり得るって、この間いわれたんだよね」
「そう、なんだね……」
「――だから、君が川から流れてきた時は、最高のチャンスだと思った」
「……え?」
彼女が呆けたように口を半開きにしている。自分に関係がある話だからかな。
「だれかを救って死ぬなら、こんな良い死に方はない。ずっと未来なく、倒れる度に両親を泣かせて、不安にさせて。地獄のような人生でも、僕が生きた意味はあった。そう思える千載一遇のチャンスだと思ったんだよ」
「……だから、真冬の川なのに飛び込んで助けてくれたんだ」
「そう、勇気でも優しさでもない。自分で心臓を爆破しにいったんだ。だから、僕に感謝なんてこと、絶対にしなくていいからね」
こういえば、彼女も僕から離れていくだろう。人と話せるのは少し嬉しかったけど、それ以上に迷惑をかけたくない。命を救った感謝なんてされたら、彼女の心に残ってしまう。
自嘲気味に笑う僕の顔をみて、彼女は顔を伏せてしまった。
喋りすぎたかな。でも、一方的に悩みを吐き出すぐらい、許して欲しい。とんでもない下心があったけど……。一応、彼女の命を救ったことは事実なんだ。これで貸し借りなし、間違っても感謝なんてせず、忘れてくれ。
数秒、顔を伏せていた彼女が、直ぐに顔を上げた。そして、僕のスマホディスプレイが再び光る。
「わぁ、これがさっき言ってた梅のつぼみ?」
さっきまで顔を伏せていたとは思えない程、耀いた笑顔で聞いてきた。
僕の写真を、彼女は次々にスライドさせていく。少しだけ、ドキドキした。だれかに自分の撮った写真をみせるなんて、両親以外になかったから。どんな感想が出てくるんだろう。
「うん、綺麗な写真だね!」
待ち望んでいた感想は、たった一言だった。
少しショックだ。僕が昔、小学校の図書館でみた風景写真には叶わないだろうけど、感動するような綺麗な写真を撮っていたつもりだったのに。
「……風景写真用の有料撮影アプリ使ってるから」
「あ、ごめんね。なんか、拗ねさせちゃった?」
彼女がからかうように僕の頬をグリグリと捻ってきた。それが、余計に屈辱だった。
上目使いで、ベッド柵に顎を乗せて。そんな男を勘違いさせるような仕草が自然と出るなんてこの子は小悪魔なのかも知れない。あざとさを感じさせない所も含めて。
もう返事をするのも面倒くさい。そう思っていると、すっと頬に感じていた温く柔らかい感触がなくなり――静かな、真剣な声が聞こえてきた。
「ね、君はさ――将来の夢とか目標って、ある?」
「……は?」
思わず間抜けな声が出てしまう。それぐらい予想外だった。
「将来の夢とか目標がないと、この先で何をしたいか、何をすべきかわからないじゃん」
テレビ台にスマホを置くと、椅子から立ち上がり彼女は言う。
全身を使って僕を励ます彼女の姿は、舞台の上に立つ女優のようだ。
「あのさぁ……」
僕は溜息交じりに声を吐き出してしまう。この人は、何を言ってるんだ。
「素敵な夢をみて朝を迎えないから、ついつい過ごしかたも暗くなっちゃうんだよ」
「いや、だから」
「夢があれば、未来だってみえて明るくな――」
「――君はさ、僕の話を聞いてなかったの!?」
自分でも、驚く程に大きな声が出た。なんなんだ、こんなにも頭が真っ白になるのは初めてだ。目がチカチカして、腕もブルブルと震えてしまう。こんな声が、川から流れてくる彼女をみつけた時に出ればよかったのに。
よりによって病室で、それも女の子に向かって怒鳴るなんて。
「……き、聞いてたよ」
「だったら、なんで夢とか未来なんて無神経なことが言えるのさ!? 言っただろ、僕は来年には死ぬんだって!」
ベッド柵を思わず全力で殴ってしまう。ガンッっという音の後に、手がビリビリと痛む。
何かを殴るなんて、初めてかもしれない。
八つ当たりだとは解っている。物に当たるなんておかしいことも。でも、止められないんだよ。
なんで僕は、こんなにも怒っているんだ。それでも、止まらない。
「……そんな先の未来じゃなくて、明日とか、来月とか、来年までの近い将来とか……さ」
「――は」
思わず僕は鼻で笑ってしまう。
本当ならばこんな馬鹿馬鹿しい話をされて、心から高笑いしてやりたいくらいだ。
「そんな将来の夢をみても仕方ないし、逆に辛くなる身体なんだって説明したのに。そっか、なんも聞いてくれてなかったんだ」
彼女は腕を抱え身を小さくして震えている。柳のように綺麗な眉も下がりきっていた。
僕のようなヒョロヒョロの男に怒鳴られたくらいで、それほど怯えているのか。注意して聞けば、浅くて早い呼吸まで聞こえてくる始末だ。
僕は伝えたはずなのに、彼女は一つも理解していなかったらしい。地雷を全力で踏みつけて、怒るかもと思わなかったのか。
潤んだ瞳で視線を向ける表情は心が痛む。ああ、もう。なんで病室から逃げないんだ。
いや、どう考えても僕が悪い……か。嫌だから止めてっていわず怒鳴るなんて、最低だ。
込み上げていた怒りはすぐに収まって、チクチクと罪悪感や後悔が襲ってくる。彼女に迷惑をかけてしまっている。それだけは避けなくちゃいけない。
「……怒鳴ってごめん。もしかしたら、君はいい写真を撮るには計画が必要だよって教えてくれてたのかもなのにね。……でも、悪いけど今日は帰ってくれないかな」
面と向かって嫌なことを言われて、つい感情的になってしまった。
もうこれ以上、彼女と関わる必要なんてない。僕が謝って、彼女が帰って。二度と会うこともない。それで全て丸く収まる。
彼女は小さく頭を下げながら、病室から出て行った。
最後まで僕に身体を向けて出ていったあたり、本当に礼儀正しい子なんだろう。
彼女がさっきまで座っていたパイプ椅子の上には、もうだれもいない。静かな空間だ。
僕はもう、何も問題がなければ明日の午後には退院するだろう。今までの入院経験からだいたいわかる。また、静かで暗くて。刺激のない暗い六畳間の自室にこもって最期を待つんだ。
「……日向夏葵、か」
もう会うことはないだろう彼女の名前が、妙に心にへばりついて残った――。
「――……なんで家までくるのかな」
翌日、我が家のリビングテーブルの前には、日向夏葵が座っていた。
昨日、あれだけ怒鳴られ怯えていたというのに。家の場所は、保険証をみたとかかな。
「お見舞いにきたかったんだよ! 冬休みだしね。あと、君のお母さんからも頼まれたし」
「そうじゃなくて……。というか、なんで僕のお母さんとそんな親しいの」
なんで、そんな笑顔になれるんだろう。本当に、右から左なんだろうか。昨日、震えていた姿が嘘のようだ。
初めての来客、しかも同年代を一人でもてなすなんて心臓に悪い。お茶は、お菓子はと頭がぐるぐるして、僕は落ちつきなくリビングを動き回っていた。
「ね、またあの写真みせてよ!」
やっとお茶とお菓子を持ってきた僕に、彼女は手を伸ばしてきた。花が咲いたような笑顔で、じっとこちらを向いてくる。
怒鳴った罪悪感はあるけど、彼女はそんな僕の負い目すら消し去る程に朗らかだ。
好奇心旺盛な人だな。僕の話をちゃんと聞いてくれる気はないみたいだけど。
「……別にいいよ」
それと前言を訂正しよう。僕が死んでも彼女は三日後には忘れると言ったが、翌日だ。
今日のように、彼女は翌日には忘れてくれる。対極の人間だからか僕には理解できないけど、これは確かに接しやすい。それは友達も多いはずだ。
座りながら黙ってスマホを差し出すと、彼女は昨日と同じように写真フォルダをスクロールしていく。
嫌な沈黙だ。どうせまた、同じ感想だろう。僕が愛着を持っている写真に、たった一言だ。
「やっぱり、綺麗な風景だね」
ほら、やっぱり一言だけ。そんなでも、僕が恐怖と戦って外に出て、心を躍らせながら撮った風景写真たちなんだけどな。
お茶のおかわりのために急須を持ってくるべきかと席を少し立った。でも、彼女は椅子に座ってスクロールを続けつつ上体と顔は歩き回る僕へ向けてくる。
礼儀正しいというか。ここまで来るともう、人として怖い。
太陽を追う向日葵のようだ。日向夏葵、名は体を表すというけど、ここまでとは思わなかった。
「……ありがとう。でも、やっぱ人を感動させられない写真みたいだ」
僕が話しても、彼女は振り向くことなく微笑みながらディスプレイを眺めている。
本当に自由な人と言うか、マイペースというか。
やがて、ぽつりと呟くように言った。
「……ん、惜しいんだよなぁ」
「何が?」
「そうだな……。ねえ。君と私、どっちもつぼみに似てるなぁとか思わない?」
「え、二人とも?」
「そう、私たち二人ともだよ!」
「思わない」
「え、なんで?」
「君はもう、咲いてる花だと思うよ。僕は、咲くこともなく枯れるつぼみかもだけど」
「そこは枯れずに咲いてよ」
「仮に僕がつぼみだとしても、咲かないよ。僕には明るい太陽が、未来がない。日陰に根を下ろしちゃってるから」
「君は暗い! 心が雨雲みたいに暗いんだよ、そんなんじゃ太陽だってみえないよ!」
「……自分の性格が暗くて、ジメジメとうっとうしいのは自覚してる」
「そういう問題じゃない! 君は動けない植物じゃないんだから、太陽をみに行けばいいんだよ!」
「僕をつぼみに例えたの、君だよね?」
少しだけムッとしていた彼女だけど、何か閃いたかのように椅子から立ち上がりこちらをみる。
改めて立った姿をみると、細いな。ちゃんとご飯食べてるのかな。
「私ね、君の写真は凄く綺麗だと思うの」
「……どうも」
「でもね、君の写真はちょっと解像度が足りないかな」
「……スマホなんだから、仕方ないじゃないか。限界があるよ」
そりゃ、プロが持つような色彩鮮やかに撮れて、ピントも自由に調節できる高性能なカメラには及ばない解像度だろう。
「写真、詳しいの?」
「私は写真に関しては完全に素人だよ。……でもね、何となく惜しいって思うの」
「……僕、これでも写真に関してだけは、ずっと一生懸命に勉強してきたんだけど」
「そっか。だからこんな綺麗に撮れるんだ。――それで君はさ、解像度って何だと思う?」
何を言っているんだろう。ずっと写真を撮ってきたと言ったのに。ああ、そうか。話を聞いていなかったのか。昨日もそれで僕を怒らせるような発言をしたんだし。なら、これは彼女の個性と思って受けとめるべきなのかもしれない。
「写真とかを小さく分割したピクセルの中に色を密集させた相対解像度とか。あとはそのピクセル数を表す絶対解像度でしょ。これが増えることでよりシャープな――」
「――ああ、違うの! 私がいいたいのは、そんな専門的な難しいことじゃないよ。もっと『人が抽象的に捉える解像度』ってことだよ!」
ぶんぶんと首を振る。彼女の短い髪からフワッと、シャンプー剤の甘い香りが漂い鼻腔をくすぐった。なんだか、凄く心地良い。リビングに新しい生花が飾られたようだ。
彼女のわけが分からない理論なんて、許せる程に心が落ち着く匂いだ。
「……どういうこと?」
「すぐに答えを教えてもつまらないから――探そうよ!」
「は?」
「私はね、この写真たちは未完成で不十分だと思う。君は、いつ死ぬかわからないんだから、目標とか夢をもっても仕方ない。もう遅いんだっていったよね」
「……驚いた、ちゃんと聞いてたんだ」
「私ね、世界って映像でみるよりもっと沢山の情報を持っていると思うな。自分で動いて、遠出して。その中には新鮮なことが一杯あると思う。そんなたくさんの情報を切り取って伝えるのが、写真なんじゃない?」
「それは……」
思わず、視線を泳がせてしまう。……確かに。僕の心を動かした風景写真を思い返すと、美しい風景の、ほんの一部をフレームに凝縮させていたように思う。
このフレームの外にはどんな景色があるんだろう。そう考えなかったかと言えば、嘘になる。
「解ってくれたみたいだね。――じゃあ、さ。夢を自分で持てない君の残った人生、私と撮影の旅に出ようよ。残り少ない君の余命、きっと充実させるから。殻にこもってるぐらいなら、私にちょうだい?」
まるでプロポーズのようだ。
でも、それは愛の契りでもなんでもない。悪魔との契約のように、僕の余命をくれといっている。大好きなものを餌にした魔の誘いだ。
でも一緒に旅まですれば、さすがに僕の死は彼女にとっても心残りになっちゃうだろう。
「……やめとくよ。君のためにもならない。たしかに、僕はいい写真を撮ることにかけては妥協したくない。だからずっと写真の勉強をしてきた。写真のことだけは、君より詳しいと思うし。でも、いい写真のヒントをくれて、ありがとう」
水の入ったコップをぎゅっと握りしめながら、答えた。我ながらなんて悔しげな声を出してるんだろう。
数秒ほど、沈黙の時間がながれた。
彼女は、僕に優しい眼差しを向けながらも、何かを考えているんだろうか。
なんでそんな真っ直ぐみつめてくるんだ。
「……わかった。今日の所は、帰るね」
そう言って、彼女は帰るときに扉の前でもう一度、僕に正対してお辞儀をした。
玄関が閉まる音がすると、家に静寂が戻ってきた。一人でいるには、大きすぎて寂しい家だ。
何もしないでいるのはソワソワしてしまう。思わず、スマホを握りしめインターネットで調べてしまった。ディスプレイには、日本の様々な風景や世界の絶景スポットが映し出される。
「……ごめん。心臓の悪い僕じゃ、こんな所まで登れない。飛行機にすら、乗れないんだ……」
テーブルに突っ伏し、久しぶりに悔しさで震えた――。
退院して数日後、高校一年生の三学期が始まった。
僕の通う高校は、自宅を出て最寄りの川越駅から反対側にある。徒歩では自宅から駅まで約十五分、更にそこから学校まで二十分ほど歩く必要がある距離だ。徒歩通学は正直、厳しい。
頑張れば自転車で通えるが、狭い道を迂回して行かなければならない。毎日その運動量は心臓への負荷が気になると心配した両親の勧めもあって、川越駅からバスで高校まで通っている。
最初はバスを待つ時間も考えると効率が悪いと思っていた。でも、駅まで徒歩で通うのは、一つだけ良いことがあった。
自宅から駅までの街道にある、街路樹がみられることだ。
ビル街の中、人間の都合で植えられたのに、立派に育った生命力に満ちた大木だ。
そんな強く生きる街路樹をみて勇気をもらうことが、日々のささやかな癒やしとなった。
「……新学期を乗り切る、力をください」
街路樹を一撫でしてから駅へ向かって、バスに揺られながら撮影技術の本を読み学校へとついた――。
校門を入った後、僕は肩身を狭くして歩いている。
だれも彼も、友人と冬休みの思い出について語っていたり、学校が面倒くさいなどと会話に花を咲かせていた。
そんな中、話す相手の一人もいない僕は、身を丸めるようにして校舎前まで歩き――。
「――望月君!」
後ろから、凜とした美しい声に呼ばれた。
声の質は確かに知っている。こんなエネルギーに満ちた美しい声が他にあってたまるか。でも、彼女はこんな所にいるわけが――。
「病室以来だね!」
いた。二度と会うことは無いと思っていた女性が。
「日向、さん?……なんで」
「お、初めて私の名字を呼んでくれたね? あ、それはお互い様か!」
竹を割ったようにカラカラと笑う日向夏葵は、やはり特別に元気だ。
思わず止まってしまった僕の正面に立ち、下から顔を覗き込んでくる。
「あの、なんで。もしかして、学校……」
「そう、私と望月君、同級生だよ? 望月君のお母さんから聞いて、私もびっくりしちゃった」
「僕、そんなこと聞いてないんだけど」
「驚いた?」
悪戯が成功したからか、身体を前のめりにして小首を傾げ僕をみてくる。
向けられた笑顔に、なんだか無性に腹が立った。
母さん、なんで僕には言ってくれなかったんだろう。
「サプライズしたいから、秘密にしておいてってお願いしたんだ。――あ、望月君の連絡先も、もらったよ。サプライズは成功したから、後でフレンド申請送っておくね!」
「いや、僕はだれとも……。だから、許可しないよ」
ただ会話するのは、別にいい。記録に残らないから。でも、メッセージアプリはダメだ。会話が形として残る。僕がいなくなった後にも、残り続けてしまう。
死んだ人の名前が残り続けるなんて、嫌だろう。消すのにも困るはずだ。
「え~、なんでよぉ」
彼女がムッとした表情に一転した時――。
「夏葵、だれだそいつは?」
「何、夏葵の知り合い? あ、うちらのクラスの……人じゃん」
身長が高い、色黒短髪で前髪を上げた筋肉質な男。そして、細身なのに出るところは出たポニーテールの女の子が話しかけてきた。
女の子が視線を右上へ向け言葉に詰まっていたのは、僕の名前が出なかったからだろう。
まぁ思い出されなくたっていいんだけどね。僕がそうしてきたし。
別に、寂しくなんかない。
「あ、勇司に舞じゃん、おはよ! あんね、望月君と私は、深い仲になったんだよ」
「は!? 深い仲って、なんだよそれ!?」
「ちょ、もしかしてだけど、夏葵。この陰キャっぽい望月君と……付き合ってんの?」
勇司と呼ばれた男性は怒りに眉を吊り上げ、舞と呼ばれた女性は狼狽えていた。
そして、僕の平凡な日々を全力で殴り壊した張本人――日向さんは。
「思い出すなぁ。寒い中、絡む指のぬくもり。荒々しく唇を合わせ、胸に感じる男らしい手……」
芝居がかった動きと声音で更なる爆弾を放り込んだ。
それは心配蘇生で確かにしたけど、でもそういう風に勘違いさせる物言いはやめてほしい。
そんなことは、こんなみるからに体育会系の男女に睨まれながら言えるわけもない。怖い。
「お前、夏葵に手を出しやがったのか。オイ、随分と手が早いじゃねぇか……!」
「ちょっと早すぎじゃない? 夏葵を大切にする気、あんの? あんたマジで、夏葵を傷つけたら許さないよ?」
「ち……ちが……。あの、近いです……」
「あ?」
「ウチらの大切な友達に手ぇ出したんだから、説明ぐらいしてよ」
僕を威圧するように迫ってくる二人が本当に怖い。
人とほとんど話したことなかったのに。こんな怒ってる体育会系を落ち着かせるなんて、難易度が高すぎる。
助けを求めるように視線を右往左往させると、僕たちの方をみて楽しそうに笑う日向さんが目に入った。助けてという意思を込めた視線を送る。すると、日向さんは飛び跳ねるようにこちらによってきて――。
「――はい、ストップ! 私の大切な人が怯えてるじゃん」
迫り来る二人の背中をパンッと叩いて止めた。
「大切な人って、夏葵。お前、マジでコイツと……?」
「そう、望月君には本当に感謝しててね……」
「夏葵、あんた、こういうのが趣味だったの?」
「実は――」
さすがに悪戯に満足したのか。日向さんはどのように僕と出会い、どんな関係なのかちゃんと説明を始めた。
その間に呼吸を整え、ようやく落ち着きを取り戻した。
全く。この人が来てから、僕の静かな日常は真逆になってしまった。
僕はいまさらそんな変化、望んでなんかいないのに。
会話の節々を聞いていて分かったことは、この二人――川崎勇司と、樋口舞という女性は、日向さんと相当に仲がいいこと。
そして、僕と同じクラスだったらしいこと。それを、三学期にして初めて知った。
いかに僕がスマホにしか興味を示していなくて、陰に植わるような人物だったのかを再確認した。
「……あー、まぁ。なんか、日向の悪戯にまた騙された。望月、すまん」
「ウチも、ちょっと正気じゃなかったわ。マジでごめん」
「あ、いや……その、大丈夫だから。あの、居心地悪いので、もういかない?」
周囲の目がかなり集まっている。騒ぎすぎたから当然かもしれないけど。そんな中でクラスの中心っぽい二人から謝られるって。もうどうしたらいいのかわからない。頭の中は軽くパニックだ。
「――人と仲良く、なれちゃったね」
僕の耳元に顔を近づけ、ボソリと囁く日向さんにゾッとした。
「私がこの場を何とかしてあげたらさ。フレンド申請、承認してくれるかな?」
僕はもう、キツツキのように首を縦に振った。
パッと満面の笑みを浮かべた日向さんは、嬉しそうに弾む足で二人を落ち着かせてくれた。
彼女はやはり僕の天敵で、天使どころではない。心の平穏を乱す悪魔だ。
悪魔に目をつけられたら、この先も何をしてくるか。
予想もできない――。
この日は始業式のため授業もなく、僕は逃げるように学校を出てバスに乗りこんだ。
川崎君や樋口さんが僕の存在を認識し、話しかけようとしていたのが目にみえて解ったからだ。
日向さんに関しては、僕は苦手に思っているし、彼女も友達が多いからすぐに忘れてくれるから問題ない。
「その判断が間違いだったのかな……」
僕はだれの心にも残りたくないし、だれかを心残りにして寿命を迎えない。今から適度な距離感を探りながら誰かと友達になるには、残された時間が足りない。そんな高度なコミュニケーション能力はない。
まさか、彼女の友達を僕と近づけようと画策してくるなんて。彼女は善意なんだろうけど、余命一年程度になってからじゃ手遅れだ。ましてやあんなにクラスの中心にいるようなキラキラした人たちとなんて、ハードルが高すぎる。
バスから降りて「……友達作りに挑戦する勇気もだせない自分が、僕は大嫌いだ」そう愚痴りながら家へたどり着き、やっと落ち着く。
机に置こうとしたスマホをみると、メッセージが来ていた。
日向さんからだ。
学習机に座りながら悩む。いっそ無視するか。でも、返さなけば学校で、人前で目立つ文句を言われかねない。彼女なら、きっとやる。
一言二言でメッセージを返すが、親と比べて日向さんは返信が早い。送ったと思えばすぐに返信がくる。これが女子校生というものかと驚愕してしまう。
挨拶的な他愛もないやり取りを続けていると、彼女がとんでもない発言をぶっ込んできた。
『望月君の撮った写真、送ってよ! SNSとかに載せてみよう』
スマホを持ったまま固まってしまう。どういうつもりだ。僕の写真を未完成とか言ってたくせに。
『作り方がわからないから止めとく』
迷った末に僕がそう返すと、すぐに返事がきた。
『そう言うと思って、もう作っておいたよ。パスワードとか教えるから、共同管理ね!』
やっぱり、彼女は天敵だ。
スマホの向こうで笑っている顔が浮かぶ。質が悪いのは、彼女に悪意がないことだ。
メッセージに載っているリンク先に飛ぶと、アカウント名には【二人の共同写真館】などというアカウント名があった。思わず、片手で頭を抱えてうなってしまう。
もう、なんと返信したらわからない。
地球の引力にしたがってスマホを握ったままぶらりと腕が下がってしまう。
無意識で天を仰ぎ溜息がでる。
すると、ポンと通知の音が鳴った。既読になったのに返答しない僕へ追撃をしてきたらしい。
『恥ずかしがらないで。せっかくなんだから、フォルダの海に沈めとくなんて写真が可哀想だよ。より多くの人にみてもらおうよ』
そのメッセージに、僕は考えた。確かに、だれかにみてもらいたい気持ちはある。これでも、一生懸命撮ってきた思い入れのある写真なんだ。日向さんや親の心は動かせなかった。それでも、だれかの心が揺れ動くかもしれない。
迷った末に、僕は一枚の写真を投稿した。だれかを笑顔にできますようにと祈りながら。
桜並木がドーム状に沿道を包み、花弁が風に舞う美しい写真だ。
しばらくじっと画面をみていたが、反応は一切ない。
フォロワーの一人もいないんだから当然かと思いつつも、やはり寂しい。
スマホをそっと机に置いて、僕は布団へうつ伏せに倒れ込む。
自然と手はシーツを強く握り、シワを作っていた――。
時の流れは早い。
僕の日常と言えば――。
「なぁ、望月。ちょっといいか」
「か、川崎君、また? 今度は、どうしたの?」
「いや、何回も聞くのはしつけぇかもだけどさ。夏葵と、どんな話してんの?」
「いや、普通に写真のこと、とかだけど」
「そんだけ? なんか男の話とか、俺たちの話とかでないの?」
「ひ、日向さんからは聞いたことないけど」
「え、マジで? 全くでないん!?」
川崎君の大きい声で詰め寄られ、僕はビクリと椅子から腰を浮かす。
「こ、今度、話題に出たら報告するね」
早口にそう言いながら僕は自分の席から離れていく。――でも、その手をガッと掴まれた。
「ちょっと待ってくれって! なぁ、望月はさ……夏葵のことが好きなのか?」
「勘違い、だからやめて。苦手っていうか天敵、だから手、ごめん」
怯えながらもなんとか手を引き剥がして、僕は早足に教室から逃げ出す。
「あ、おい! いや、怖がらせるつもりは……すまん」
川崎君の言葉は他のクラスメイトの声に交じって聞こえなかった。
僕はやっと落ち着けるという気持ちで廊下へでる。
怖かった……。人との会話はまだ慣れない。適切な距離って難しい。頭がぐるぐるする。
「あ、望月じゃん!」
「ひっ……!」
僕は思わず情けない悲鳴をあげてしまった。
川崎君から逃げたと思ったら、次は樋口さんと出くわしてしうとは。
「……なんか顔青いけど、大丈夫? 保健室行く?」
「だ、大丈夫、です」
上ずった声で、視線をさまよわせながら返す。その際、自然とあるところもみてしまう。
「……あんさ、ウチの胸、みてない?」
胸を腕で隠し、目を細めている。あからさまに嫌そうな顔だ。
「み、みてないみてない! みてないです!」
ぶんぶんと首を横にふる。樋口さんはあからさまに「良かった」という表情で腕をおろした。そして安心したのか伸びをして――。
「……こんなとこでする話じゃないんだけどさ」
僕の首に腕をまわすと、口の横に手を当て耳元でこそりと囁いてきた。何、コレ。
「ウチさぁ、胸大きいの、コンプレックスなんだ。男どもがそういう目でみてくるのって、意外とわかるもんなんだよ」
「そ、そうなんです、ね」
「ウチはこんな男っぽい性格だから。昔と変わらず、男子とも気軽に接したいんだけどね」
「げ、限度は必要かと」
「わかってる。男子と話してる方が楽だからって普通にしてたら、女子からメッチャ嫌われるのも。夏葵だけは、最初から何も関係なく接してくれるから、本当にありがたいんだけど……」
彫像のように固まっている僕の首から、樋口さんは腕をのけた。やっと、解放された。
「だから、望月がもし夏葵を悲しませるなら、ウチは絶対に許さないから。特別な男を作らなかった夏葵が、望月には特別興味を示してる。正直、心配なんだよね」
「だ、大丈夫、です。僕は特別なんかじゃないんで! し、失礼します!」
早口で言い切って逃げる。いきなり肩を組んで耳元で話すなんて、男女としてあり得ない。
あ、でも樋口さんは女としてみないで欲しいのか。いや、無理だって。ど
か、どこか安心出来る場所はないのかな。
「男子トイレだ……!」
男子トイレの個室なら、一人になれる空間だ。
僕が早足に廊下を歩くと――。
「あ、望月君じゃん! おーい、どこ行くの?」
「トイレだよ。もう勘弁して!」
日向さんに声をかけられた。でも、僕は目を合わせることもなく、男子トイレの個室へ駆けこんだ。
「僕の日常が、壊されていく……」
思わず頭を抱えてしまう。
僕はこうして、三人から逃げ続ける毎日を過ごしている。
だれの心残りにもなりたくないから、いまさら深入りしてはいけない。適度な距離感がわからないで迷惑をかける可能性があるなら、近づくべきじゃない。
そう言い訳をして、僕は独りという守られた殻にこもろうと逃げ続けている。自分が情けないけど、急な変化についていけない。
そうこうしているうちに、卒業式や終業式も終わった。
僕には迎えられないであろう、高校の卒業式だ。延々と合唱を歌い続けて全卒業生を会場に迎え、式で泣いている先輩たちを拍手で見送った。何ともいえない気持ちだ。
その後の僕はといえば、ほこりをかぶったひな人形のように変わらない毎日を過ごしている。
梅のつぼみは芽吹き、次は桜が迫っている。次はいつどこで、どんな写真を撮ろうか。
せっかく作ってくれたSNSだけど、今の所は反応が一切無い。
どうせ反応がないならと気が向き次第ガンガン投稿している。慣れとは怖いものだ。
「結局、僕が撮る写真みたいなのは、ネットに溢れてるんだろうな……」
僕にはだれの心を動かす写真も撮れない。十六年間、写真へ一途に生きた意味すら残せないんだろうなぁ。まぁ、努力が必ずしも報われるとは限らないか。そんな暗い気持ちで写真を見返しながら反省点や改善案をノートに書き、気がつけば夜になっていた。
六畳の自室にこもり、残り短い寿命を写真にだけ費やしていた。
そんな時、学習机の上にあるスマホの通知音がなった。
「……メッセージ?」
立ち上がり、学習机の上に置いていたスマホを手に取る。通知画面に日向夏葵と表示されたメッセージの内容を確認すると――。
『蔵造りの街並みって観に行ったことある?』
というものだった。蔵造りの街並みとは、僕たちの住んでいる川越の観光名所だ。
レトロで、小江戸川越と呼ばれる江戸情緒の面影を今に伝える歴史の香り漂う通りだ。平日でも関係なく、着物を着た観光客が食べ歩きをしている姿がみられる。でも、人が苦手な僕には正直言って地獄の通りだ。何しろ、人と当たるか車と当たるか選べという程に混み合っているんだから。
『あるけど、人でごった返していて全く綺麗だとは思わなかったよ』
『あー、日中は折角の街並みなのに、人の身長より高い部分しかみえないよね』
『そうだね』
『夜の街並みはみたことある?』
『ないよ』
『では問題です! 私は今、どこにいるでしょう?』
嫌な予感がした。
思わず動きを止め、壁かけ時計をみる。時刻は午後九時だ。
いや、いくらなんでも女の子が一人で外にいる時間ではない。仮に彼女が蔵造りの街並みにいるとしてもだ。きっと、友達といるんだろう。そう思い直して返事を書き出すが――。
『時間切れ! 正解は蔵造りの街並みに一人でいるよ!』
その文章に、動かしていた親指をピタリと止めた。
なんて返そう。危ないから早く帰りなさい、かな。いや、同級生に対して上から目線すぎるかもしれない。悶々としていると、更にぽんと通知がなる。
『川越駅方面の入口にいるから、早く来てね! あ、一応だけど美術館の方だよ?』
最悪だ。この子、僕の平和で静かな未来を壊すことを愉しんでいるんじゃないか?
思わず、頭を掻いてしまう。
『無理、親の許可が出ない。夜は危ないよ。日向さんの親も心配するだろうから、早く帰ろうね』
重い指を動かしてそう返すと、すぐに返事がきた。本当に、返信が早い。
『大丈夫、うちの親にも望月君の親にも、許可はとってあるから!』
そのメッセージの後に、親とのメッセージ画面をスクリーンショットした写真が届いた。
間違いなく、うちの親のアカウントだ。というか、一緒に映っているメッセージで二人が親しげに世間話をしていた。どれだけ仲良くなってるんだ。さすがのコミュニケーションお化けっぷりだ。
『さあ、逃げ道はないよ』
だれのせいだと思っているんだろう。僕の都合や気持ちは考えないのかな。
『危険だって言っている夜の街に、女の子を一人で待たせておくのはどうなんだろうか?』
追撃のような一文がきた。こんなことを言われたら、行くしかないじゃない。
「ああ、もう。仕方ないな!」
頭を掻きむしりながら、返信をする。
『十五分でいく。明るくて人の目があるところにいて』
クローゼットを開け、目についた適当な外着を引っ張りだし着替えを済ませる。
財布と自転車の鍵を机の引き出しからとりだし、早足で部屋を出る。
階段を降りながら「行ってきます」と言うと、嬉しそうな「気をつけて行ってらっしゃい」という母さんの返事が返ってきた。
靴を履きながら思う。母さんは、僕に友達ができたと思って喜んでいるんだろうな。
大切に使っている電動自転車にまたがり、まだ肌寒い三月下旬の夜の街を走りながら「ごめんね、母さん。あれは友達じゃないんだ」とつぶやく。
線路を越え、息切れしながら「日向さんは、ただの天敵だよ」と絞り出す。
そう。彼女は僕の平穏で、だれの心にも残らない最期を壊したがる存在だ――。
「――あ、きたね。大丈夫?」
「……そう、思うならさ。急におどすような呼び出しは止めてよ」
「え? じゃあ、普通に待ち合わせしたら、来てくれたの?」
「絶対、いかない」
「でしょ?」
勝ち誇らないで欲しい。
自転車に寄りかかり伏せていた目線を上げる。
目の前には、少し前屈みになり満面の笑みをみせる日向さんがいた。ほの明るい夜の街灯に照らされているせいか、いつもより更に美人にみえて、少し胸がドキッとした。一瞬、不整脈かと思った。
「ほら、そんな下ばっかりみてないでさ。前をみようよ!」
「何をそんな興奮して――……」
日向さんの後ろに広がる街並みを目にして、言葉を失った。
だれもいない、近代と江戸情緒溢れるレトロな街並みが広がっている。
いつもはごった返す人でみえない壁、等間隔に設置されたほの明るい暖色の街灯。静かで穏やかな空気が、僕を包みこんでくれる。
ああ、街中なのに、吸う空気が美味しい。木材の香りがたまらない。ほの明るい暖色の街灯が、心まで優しく照らすような安心感をくれる。
なんて居心地が良くて、美しい場所なんだろう。
昼にみた景色と同じとは思えない、まさに絶景だ。
「こんな、街並みだったのか……」
「どう、全然違うでしょ。感動した?」
「……うん」
不覚にも、心が奪われてしまった。まるで時代の移り変わりの最中にいるような。そんな錯覚さえ覚えた。あまりに美しい光景に、思わずスマホを取り出してカメラアプリを起動してしまう。
レンズ越しに、建物と光の配置を考えて被写体の構図を調整し、撮影ボタンを押した。
なんて美しい風景だ。撮れた写真を見返し、思わず顔がほころんだ。
「ね、せっかくだからさ。ちょっと散歩しようよ」
斜め横からひょこっと、嬉しそうな笑顔を僕に向けてきた。散歩か。確かにこの綺麗な街並みを歩けるのは、楽しいかもしれない。また美しい風景写真が撮れるかもと、心が躍った。
「……自転車、停めてくるからちょっと待ってて」
「ほい、りょうかい!」
えへへ、と言いながらだれも通らない県道ではしゃぐ日向さんを横目に、僕は自転車を停めに行った。早くもっと綺麗な景色を撮りたい、とワクワクしながら。――息切れなんて、忘れていた。
「別世界にいるみたいだ……」
「ね! 昼とは全く別の顔だよね」
道を歩きながら、ついつい呟いてしまう。飲食店も江戸情緒を意識した木造建築の外観をしている。これは確かに、浴衣や着物を着て歩きたくなるかもしれない。
「あ、時の鐘がライトアップされてるよ!」
「……こんなに、なるんだ」
江戸の街に鐘の音で時間を伝えていた歴史的文化財だ。駅の前から宣伝されている割りに、凄く小さい寺みたいだなと。昼に来たときには、正直がっかりしていた。でも、こうして夜にライトアップされた高い鐘楼をみると――壮観だ。
上手く、奥の道に広がる木造建築を構図へおさめてまた写真を撮る。
「望月君、嬉しそうだね」
「……そうみえる?」
「うん、だって――笑ってるもん。初めてみたなぁ。望月君の笑顔!」
「……え?」
僕は笑っているのか?
思わず手を頬に当てて確認する。確かに、心なしか口角が上がっているような……。
さっきから写真を撮るのが楽しくて――心から笑えているかはわからない。でも、その楽しさが表情に出ていたのか。
作り笑いじゃなく自然と笑ったのなんて、いつ以来だろう。……あれ、もしかして、物心ついた後、僕が心から笑ったことなんて――過去、風景写真と出会った時だけしかなかったのかも。
「ね、ちょっとそこのベンチで休憩しようよ!」
僕をくいくい引っ張る力を感じた。はっとみると、僕の服の袖を日向さんが片手でちょこんと掴んでいる。反対の手ではお店前の木造ベンチを指さしていた。
「私ね、あのお店の常連だからさ。あそこでいつも食べるお菓子、美味しいんだ」
「……勝手に座って、大丈夫なの?」
「大丈夫でしょ。店長さんとも知り合いだし!」
コミュニケーションお化けめ。とは思いながらも、確かに街を歩き回って足も疲れている。
彼女に引かれるがまま、僕たちはベンチに座った。
「……座った姿勢でみると、夜空も綺麗だ。みる角度によって、こんなにも違うんだ」
座ってみる街並みはまた違った風情を感じた。思わず写真を撮ってしまう。美しい写真だ。
そこで、あ……と気がつく。人といるのに、スマホばかり触っているのは失礼だった、と日向さんの方をみると――。
「ん? どうかした?」
全く気にした様子がなく、こちらをみつめて微笑んでいた。
「いや、スマホばっかり触ってて、失礼だったなって。ちょっと反省を……」
「反省してるの? そんなしょんぼりして、望月君は可愛いなぁ」
「……からかわないでよ」
ぷにぷにと頬を突く指を払いのける。彼女は、人との距離感が狂っている。普通なら近づかれて不愉快と思う距離でも土足で踏みこんでくるのに、なぜだか逆に安心してしまう。
まるで夜道に立つ、ほの明るい街灯のようだ。これが人に好かれる人ってやつか。
本当に、陰に生きる僕とは対極の存在だ。
「ね……。さっきさ、私が突然呼び出して、十五分後にこんな綺麗な景色がみられるって未来、想像してた?」
「……全然、してなかった」
「私たちが会った初日にさ、未来をみても仕方ないって、望月君……怒ったじゃん?」
僕は、思わず目を剥いて驚いた。
「日向さん、覚えてたんだ。……てっきり、忘れてるのかと」
「私をなんだと思ってるのかな? もしかして、アホだと思ってる?」
ちょっといじけた顔で言う日向さんの視線に耐えられない。思わず顔を逸らしてしまう。
「そうだったら、僕にとっては都合よかったなって」
だって、何があろうと翌日には忘れてくれるなら――どんな接しかたをしても、その人の心残りにならない。つまり、突然いなくなっても迷惑にならないから。
「何それ、ちょっとひどいなぁ。――望月君は正直、私のこと嫌だなって思ってるでしょ?」
「……正確には、天敵、かな」
「え、そこまで!?」
がーんと聞こえてきそうな顔でショックを受けている。本当に顔、そして身体全体で感情を表現する子だな。声だけでなく感情を伝えられるのは、もう舞台女優のような見事さだ。
「ま、まぁ。でもね、そんだけ嫌いな相手なら、別に一緒にいてもよくない? だって望月君が最期を迎えた時、私が悲しんだとしても、どうでもいい相手でしょ?」
「……まぁ、確かに。でも、そこまで心を鬼にできないよ」
僕は、迷惑をかけたくないからだれかの心残りになりたくない。それと同時に、だれかを心残りにして死にたくない。
天敵といえるぐらい苦手な彼女なら、本当に心残りにならないのかという疑問と、もう独りでいなくてもいいんだという甘い誘惑がせめぎあう。
「――だからさ、私と未来をみて旅をしようよ。また、こういう景色を撮る旅をさ」
「…………」
以前の僕だったら、すぐに怒っていただろう。
でも、僕は実体験として知ってしまった。
「あはは、歯の浮くようなセリフだよね。ちょっと恥ずかしいけど、これマジだよ」
どんな景色が待っているのかと未来をみるのは、こんなにも楽しいのかと。昂揚して、心が躍る快楽だ。
「それにさ、私がいった『人が抽象的に捉える解像度』の答え――探して欲しいし」
そうだ、その問にさえ、僕はまだ答えを出していない。このまま答えを知らずに寿命を迎えるのは、心残りになるかもしれない。
なんで日向さんは、僕みたいな陰キャラに関わってくるんだろう。怒鳴られたり、嫌な思いもたくさんしいるはずなのに。
命を救ったというのは、こんなにも人をお節介にするものなのかな。
「一つ聞かせて欲しい。僕みたいな嫌なヤツに関わるのは、命を救った他にも何か理由がある?」
「……バレてたか。うん、実はあるよ」
「その理由って?」
「聞かせて欲しいのは、一つだけっていってたよ。あと、それはまだ秘密かな」
夜の暗いレトロな街並みを背景に、含むような笑みを浮かべる日向さんは少し不気味だ。
利害があるってことか。でも、それなら丁度いいのかもしれない。
いい写真を撮ることに関して、彼女は僕が知っている以外の何かを知っている。こんな綺麗な街並みの風情がある写真、僕では思いつかなかった。もしかしたら、彼女と旅をすればそれがみつかるかもしれない。
それなら――。
「……わかった」
「本当っ!?」
「ち、近いってば! でも、必ず親の許可を得ること。あと心臓の検査とかもあるし、月に一回、どこかの週末でって感じでいいなら……」
「ん~、わかった。前向きに善処することを検討するよ!」
そう言ってベンチから立ち上がり、こちらをみて――夜の江戸情緒溢れる街を背景に、心から笑う日向さんが、本当に綺麗で。
「ね、私にも今日撮った写真ちょうだいよ!」
「ああ、うん」
みとれていた僕は、ふわふわする感覚の中でスマホをいじってメッセージアプリを開き、目の前にいる相手へ写真を送っていく。改めてディスプレイに映る日向夏葵という名前を眺めて、僕は心から思ってしまう。
「陽キャラで快活で。いつも人の方をみて、花のように笑って。夏に大輪の花を咲かす、向日葵みたいだ」
「……え」
スマホをみていた日向さんは、キョトンとした顔で僕をみる。
「僕からみた日向さんは、街中に咲く向日葵にみえるって話だよ」
本当に、名は体を表していると思う。僕の耀治という名に関しては、名前負けしているけど。
僕の素直な言葉を聞いた後、日向さんは俯きながら手遊びを始めた。街灯に照らされる彼女の頬が、赤みがかったようにみえる。
「あの……向日葵の花言葉とか、知ってて言ってる?」
「は?……知らない、けど」
「だと思ったけど! けど、そういう歯が浮くセリフ言う時はさ、ちゃんと意味を考えなさい!」
日向さんは、ぺしっと軽い力で僕の肩を叩いてきた。
「もう、今日は解散! 旅のことはまた連絡するから、またね!」
「あ……」
送っていくと言いたかった。でも、そんな隙を与えないぐらい素早く彼女は走り去ってしまった。
それほどおかしなことを言ったかな。向日葵みたいだなって言っただけなんだけど。
置き去りにしていた電動自転車で帰りながら、日向さんの様子がおかしくなった原因を考えるけど、答えはでなかった。
家に着いてすぐシャワーを浴びた後、濡れた髪をタオルで拭きながら、片手でスマホを操作し向日葵について調べていく。
「そういえば、花言葉とか言ってたっけ」
ディスプレイに映る向日葵の花言葉をみて、僕は固まってしまった。
表示されたのは――『憧れ、あなただけをみつめる』。
僕は自分の言った言葉がいかに曲解されて日向さんに伝わったのかと考え――悶えた。
何て恥ずかしい事を……! フローリングに頭を擦りつけ「ぬぅぁああ……」と呻ってしまう。タオルを両サイドから顔に押しつけて強くこするけど、恥ずかしさはどうにもならない。
どんな顔をして日向さんと旅をしろって言うの、やっぱり一緒に旅なんてやめようかな。ああ、でも、約束しちゃったしなぁ……。
母さんが声をかけてくれるまで、僕は一人で悶え続けた――。