私はその人の名を知らない。

 

「お父様。ここは幾分か寒いわ」


 お父様と呼んだ白色の髭を携えた男性は、ふむと一言添えたが、イーゼルに向かう手を止めない。私を一目見て、また絵に戻る。その繰り返しだ。太陽が登り、沈む。ペンキを塗る速度が早い時と遅い時、両方がない混ぜになり私を混乱させる。遅い時は私にポーズを取らせ何時間も見ているだけの日もある。その双眸が好きだった。
 牢獄のような地下室は彼のお弟子さんでさえ入ることは禁止されているようで、私は生まれてこのかた人という物に会ったことはお父様しかいない。メルツィという方はどんなお人なのかしら。


「エル、少し顎を引いておくれ」
「はい」


 エルとはフランス語で彼女という意味だというのはお父様から教えていただいた。だから私は自分が女であることを知っている。
 私はお父様の指示に従って顎を引く。ふむ、と悩み始めたお父様。今日はこれで終わりかしら。お父様は考え出すと強靭なまでの精神力でお悩みになられるの。なにをそんなに真剣に悩むのか私には分からないわ。


「……今日はお終いにしよう。すまないね、エル。また来るよ」


 イーゼルから視線を上げて、絵の具を置くその人。あなたに見つめられるのは心地良いのよ。だから、終わりにしようなんて言わないで。いくらでも私は微笑むから。

 イーゼルに布を被せ作品を隠したお父様。一度見たことがある。お父様が描いた絵を見たことがある。叱られた。まだ描き途中なんだ、と。私がそこにいたことを描かれていることを嬉しく思ったのに。


「お父様、ここにいてちょうだい」
「すまない。また来るよ」
「一人は寂しいわ。お父様……」


 私はドレス姿のままお父様に縋り付く。美しいお顔をしている。この太陽の届かない場所でも煌びやかに佇む男性。私よりも何十倍も美しいその男性に抱き着く。


「お願い、お父様。独りぼっちにしないで……」
「エル…」



 私を振り解くことはしない。けれども、ゆっくりと私の腕から逃げるのだ。紳士的に。


「エル、君は美しい」
「今は美しくてもあなたがいないと、私は醜くなるわ」


 ふ、っと小さく微笑んだお父様。私を残して部屋から出ていく。がしゃん、鍵のかかる音がした。