宵子(しょうこ)とクラウスはお互いに歩み寄り、ちょうど応接間の真ん中で対面した。

(いつまで経っても、恥ずかしい、かしら……?)

 クラウスを見上げる首の角度は、もうすっかり身体に馴染んだ。宵子が声を取り戻したことで、互いの国の言葉の上達もますます早くなって、会話にも不自由しなくなってきている。
 それでもなお、彼の端正な顔を間近に見ると、そして、彼に見つめられているのを意識してしまうと、宵子の頬は熱くなってしまう。
 真っ赤な林檎(りんご)のような顔になっているだろうと思うと、顔を伏せたくなるのだけれど──クラウスは、許してくれないのだ。

「貴女の顔を、隠さないで欲しい。《《婚約者》》なのだから」
「は、はい」

 両頬を彼の手で包まれて、顔を上向かせられる。
 クラウスの指や掌の温もり。少し硬い感触。
 青い目が間近に覗き込んで──形良い唇が微笑む時に漏らした吐息が、宵子の産毛をくすぐる。

(やっぱり、駄目……っ)

 宵子は、ふるふると首を振ってクラウスから逃れた。一歩、二歩、後ずさって、整い過ぎた顔と距離を取る。

「す、少し離れてくださいっ。まだ、慣れなくて……!」
「……では、これは? 指輪を並べて見せて欲しい」

 幸いに、クラウスは気を悪くした様子はなかった。
 でも、だからといって宵子を解放してくれる訳でもなくて。熱い頬を押さえる宵子の手が、そっと取られて彼の掌に包まれる。
 クラウスが言った通り──彼の長い指と、宵子の細いそれには、お揃いの金の指輪が輝いていた。

(これが、婚約の証……)

 指輪を飾る小さな青い宝石は、クラウスの目の色でもあり、陽が沈んですぐ、昼の色をまだ残した空の色──(よい)の色でもある。
 夫婦となるふたりが、指輪を交換する。
 欧州(ヨーロッパ)(なら)いを、宵子はクラウスに教えられて初めて知った。指輪を常に身につけること自体が彼女には慣れないことだけれど、彼が傍にいてくれると思えるのはとても素敵なことだと思う。

 そう、宵子はクラウスに求婚されて、それを受けたのだ。

 女に爵位を継ぐことはできないから、真上(まがみ)子爵家は父の代で断絶することになる。屋敷を去る使用人の中には、この家に未来がないと考えた者もいただろう。
 宵子も、犬神(いぬがみ)様の(ほこら)(まつ)ってひっそりと生きていくのを覚悟しようとしていた。父たちの罪を思えば、真上家の最後を見届ける存在になるべきではないか、と思ったから。クラウスが──ヘルベルトも、たぶん──時々訪ねてくれるなら、それ以上のことは望んではならないのだろう、と。

 でも、クラウスはこう言ってくれた。

『俺は──この血を恥ずべきものだと思ったこともある』
『そんな……』

 あんなに綺麗な毛皮で、風のように駆けられるのは素敵なことだと思うのに。クラウスの卑屈なもの言いは、宵子を驚かせた。

『だが、あの犬神の言葉を聞いて考えが変わったんだ』

 そんなことはない、と言おうとした宵子を遮って、クラウスは軽く笑った。そして、彼女の左手を捕らえて、薬指に素早く指輪を通したのだ。
 ずっと傍にいてくれる、と言われたのが、単なる友人という意味ではなかったことに、宵子はその瞬間まで気付いていなかった。思えばずいぶん大胆なこともしたけれど、外国の流儀はそういうものだと思っていた──あるいは、そのように思い込もうとしていたのかもしれない。

『少なくとも、狼の血のお陰で宵子を助けられた。俺の先祖も、獣の姿で民を守ってきたそうだ。真上家も、本来はそうだったんだろう。……古くから伝えられる思いまで絶えさせることはない。共に繋げていくことはできないか……?』

 クラウスの熱を帯びた声と眼差しは、宵子の思い違いを根底からひっくり返した。《《ふたりの》》将来を真摯に語ってくれたのだと分かった。だから──宵子は一も二もなく頷いたのだ。

 ──その時の記憶を噛み締めていたから、宵子がクラウスにずっと手を握られていることに気付いたのは、彼がくすくすという声を聞いてからやっと、だった。

「今度は逃げないんだな。良かった」
「お、思い出させないでください。意識すると、恥ずかしいから……」
「では、このまま少し話そうか」

 宵子の頬の熱は、いつまでたっても冷めてくれない。しかもクラウスは手を握ったまま離す気配もなく、広々とした応接間を見渡すのだ。

「ずいぶん綺麗に片付いたな。……これだけ広いと、円舞曲(ワルツ)を踊れそうじゃないか?」
「え、ええ。そうですね……?」

 訳が分からないまま頷くと、クラウスは嬉しそうに微笑んだ。そして、右手を宵子の背に回す。舞踏の時に、男女で組む格好だ。

「最初に会った時のように、踊らないか」
「構いません、けれど……音楽もないのに、ですか?」

 首を傾げながらも、宵子は右手を掲げてクラウスの左手を握る。すると、金の滑らかさが指に感じられた。

(クラウス様も、指輪……)

 お揃いなのだ、夫婦になるから。
 ときめきに燃える宵子の胸に、クラウスはさらに蕩けるような囁きで油を注ぐ。

「貴女の手を離したくないんだ。握り続ける口実なんだ、実のところ」
「……っ、は、はい! 喜んで……!」

 全身に火のついた思いで答えながら、宵子は左手をクラウスの二の腕に添えた。

 (アインス)(ツヴァイ)(ドライ)──

 口で拍子を数えながら、ふたりして踊る。鹿鳴館(ろくめいかん)の夜会で出会った時よりもさらに、心が通じ合った今は軽やかに滑らかに足を運ぶことができる。
 さすがに舞踏室よりは狭い室内だから、多少、控えめな動きではあるけれど──だからこそ、踊りながら言葉を交わす余裕もあった。

 くるくると回りながら、宵子はさりげなく切り出した。

「クラウス様。また、狼の姿も見せてくださいね。クラウス様はいつも素敵で、気後(きおく)れしてしまうのですもの。あちらのほうは──あの、可愛いですから」

 ゆるやかな波のような円舞曲(ワルツ)歩調(ステップ)に紛れさせるのでなければ、とても言えないような大胆なおねだりだった。

(あの耳……毛並み……尻尾……!)

 わくわくとした期待が、触れ合った手や身体から伝わったのだろうか。宵子をリードして、スカートの裾をふわりと舞わせながら、クラウスは苦笑した。

「そして、撫でてくれるのか? 可愛い姿でも中身は俺だが……それは、良いのか?」

 彼に身体をゆだねて、美しく首と背をしならせる姿勢(ポーズ)を取りながら、クラウスの顔を見上げながら。宵子は目を瞬かせた。
 彼女の視界に映るのは、彫刻のように整った容貌の、麗しくも凛々しい貴公子。でも──白磁や磨いた大理石もかくやの白皙の頬が、今は赤く染まっている。

(……まさか?)

 甘い言葉で赤面させられるのは、いつも宵子のほうなのに。

「もしかして、クラウス様も恥ずかしいのですか?」

 思い切って尋ねてみると、ぼそりと()ねたような早口が返って来る。

「好きな人に触れられたら、恥ずかしいし嬉しいに決まっている」

 次に踏み出した彼の足幅は大きく、回転は早く。宵子の軽い身体は動きの波に乗ってぐるんと回った。その速さに壁紙の模様が溶けて混ざって、宵子は歓声を上げて笑う。

「クラウス様……速い、です!」

 風に舞う花びらや雪片の思いで、宵子はしばし浮遊感を楽しんだ。
 円舞曲(ワルツ)とは、男女が互いに回ることで、ふたりの動きが組み合わさることで次の動きへと繋げるもの。
 クラウスと手を取り合って、彼の回転に身を任せることで、宵子はほとんど力を入れなくてもくるくると回ることができる。まるで、空を飛んでいるかのように。

 人生は、きっと舞踏のように楽しいだけのものではない。でも、ふたりで共に進むならきっと大丈夫。

(だって、こんなにも息が合って、心が通じ合っているんだもの……!)

 観客も音楽もない、ささやかな舞踏会だった。でも、楽しくて満たされる。
 このひと時は、宵子にクラウスと歩む未来の美しさと幸せさを確信させてくれた。

 そして回転が止まった時──余韻(よいん)でふらつきかけた宵子を、クラウスはしっかりと受け止めてくれた。彼女がちゃんと立てたのを確かめても、抱き留める腕は解けてくれなくて。青い目が宵子を覗き込み、形良い唇がそっと動く。

「──宵子。愛している」
「はい。私も」

 思ったことをそのまま相手に伝えられるのは、なんて幸せで大切なことなのだろう。胸に込み上げる温かな想いを、宵子は大きく息を吸って、吐いて味わった。そして、そっと目を閉じる。──クラウスの整った顔が近づいて来るのをじっと見つめるのは、あまりに恥ずかしくて耐えられそうにない。

(物語なら、めでたしめでたし、で終わるところね……?)

 クラウスの腕に力がこもるのを感じながら、宵子は夢のようなことをふと思う。

 欧州(ヨーロッパ)のお伽話では、愛する人の口づけが呪いを解くものなのだとか。
 宵子の呪いはもう解けたけれど、愛も口づけも不思議な力があるのは間違いない。

 唇に温かく柔らかな感覚が触れるだけで、こんなにも幸せな気分に浸れるのだから。