黒い犬は、クラウスに圧し掛かられて地に縫い留められた後も、しばらくの間もがいていた。でも、みるみるうちに身体は小さくなり、しかも萎びていく。
何度か瞬きをした後、そこに残っているのは干乾びた犬の死体だった。春彦の術で動かしていただけで、実はもうとっくに死んだ犬が、無理矢理に動かされていたのかもしれない。
ゥアオオーーーオォーン!
敵を片付けても、クラウスの闘志はまだ収まっていないようだった。月を仰いでの遠吠えが、宵子の肌をぴりぴりと震わせる。
ひとしきり吼えた後に、クラウスは宵子をきっ、と睨んだ。宝石のように澄んだ青い目が、今は荒々しい光を宿して燃えている。
でも──宵子が彼を恐れることは、やはり、ない。
クラウスは、春彦が言ったような化物ではない。優しい人だと、信じているから。
だから、興奮を現すように全身の毛を逆立てて唸る彼に、無防備にに歩み寄ることだって、できる。目の高さを合わせるために跪き、そっと手を差し伸べる。
(助けてくれて、ありがとうございました。無事で、良かった……!)
血なのか、泥なのか、蟲毒とやらの残滓なのか。
クラウスの毛皮をべったりと汚す色々なものを手指で梳き取りながら、宵子は彼を抱き締め、撫でた。
いつかの夕暮れに助けられた後に撫でさせてもらってから、ずっとまたこうしたいと思っていたのだ。それが、思わぬ形で叶ったことになる。
(ヘルベルト先生は、きっと何もかもご存知だったのね……?)
いずれまた会える、だなんて惚けていたに違いない。本当は、とっくに再会していたのに。
(落ち着いて。早く、怪我の手当てもしないといけません)
美しい毛並みに触れる喜びと、激しい戦いの痕跡の痛ましさ。両方の想いに胸が締め付けられるのを感じながら、宵子はクラウスの目を見つめて、手を動かした。
そうするうちに、気持ちが落ち着いたのだろうか。クラウスの呼吸は、段々と静まっていった。疲れや痛みも押し寄せたのかもしれない。銀色の大きな狼に凭れられて、宵子は危うくよろけそうになった。
──宵子。
でも、そんな彼女の背を支えてくれる存在がある。
鼻先で宵子に触れてきたのは、クラウスの眩い銀色とはまた少し違った色合いの、雪のような純白の毛皮の狼。ううん、より相応しい呼び方を、宵子は知っている。
(犬神様……?)
呪いで声を封じられた恐ろしさよりも、幼いころに遊んでもらった懐かしさが勝った。それに、どうして今、ここに、という不思議さが。
首を傾げてぽかんとしてしまった宵子に、白い犬神は口を開いて笑ったような表情を見せた。
──ここにいる我は影のようなもの。本体はとうに朽ちている。かりそめの肉体を失い、思念だけの存在になったからこそ、言葉を伝えることもできる。お前の頭に直接語り掛けている、とでも思えば良い。
言われて(?)みれば、宵子は何の疑問もなく犬神様からの呼び掛けに振り向いていた。
(昔も、おしゃべりしたかったです……)
何の憂いもなく幸せだったころを思い出すと、胸がつんと痛んだ。でも、犬神様の言葉によると、あの時は無理だった、ということなのだろう。
宵子を労わるように、犬神様は軽く下げた頭をこつん、とぶつけてくれた。
大きい身体の割に伝わる感触が軽いのは、やはり影のような存在だから、なのかもしれない。
──お前には辛い思いをさせたな。だが、あの時、我には見えたのだ。我が命が長くないこと、真上家の跡継ぎと新城家の末裔が良からぬことを企むこと。……お前が、異国の狼に出会うこと。
犬神様の金色の目が、クラウスを捉えて微笑んだ。獣の姿でも、思いや表情がはっきりと伝わるのが、不思議なほどだった。
──ゆえに、どんな形でもお前の傍にいてやらねば、と思ったのだ。我が死んでも、お前から声を奪うことになっても。今、この時まで、我が影をどうにか残してやらなければならなかった。
犬神様の耳がしょんぼりと垂れるのを見て、宵子は慌てて首を振った。
(そんな。お陰で助かったんです。私も、クラウス様も……! 声のことだって──)
呪われたと言われて。言葉を発することができなくて。
辛い、寂しい思いをしたことは、確かにあった。
でも、だからこそより強く、クラウスに想いを伝えたいと思えた。そもそも、彼と出会えたのも、暁子の言いつけがあってのこと。犬神様は、宵子とクラウスをひき合わせてくれたのだ。
宵子の想いが伝わったのだろうか。犬神様の耳が、ゆっくりと立ち上がった。
すりすりと首筋をすり寄せてくれるのは、すまなかった、ありがとう、の想いを込めてのこと。これも、言葉がなくても伝わってくる。
──異国の若い狼よ。
と、犬神様の金の目がクラウスに向けられた。
年長者に敬意を払うかのように、クラウスは畏まってちょこんと座っている。彼に対する犬神様の眼差しも、教師が生徒を見守るような、優しく威厳に満ちたものだった。
──我も、元はそれと似たようなものだった。人に殺された獣の霊が、血と怨みを糧にかりそめの姿を得て、操られるがままになっていた……。
息絶えた黒い犬の残骸をちらりと見て、犬神様の毛並みが少し波立った。
(真上家のご先祖は、やっぱりひどいことを……?)
宵子の強張った頬を、犬神様の舌が慰めるようにぺろりと舐める。──その、仕草をした。これもまた影だからなのか、濡れた感覚がしないのが寂しかった。
──だが、年を経るうちに変わったのだ。我を利用するだけでない、感謝する者も崇める者も現れて──だから、やがて理性も知性も得た。
身体の軽さや舌の感触のなさだけではない。犬神様の白い毛皮を透かして、夜の庭園が見えることに気付いて、宵子は目を瞠った。クラウスも、驚いたように三角の耳をぴくぴくさせている。
──だからその血を恥じることはない。ただの獣でも、やがて神と呼ばれるようになれたのだから。まして人として生まれたならば、心がけと──伴侶次第で、荒ぶる本能を抑えることもできるだろう。
ひとりと一頭の視線を浴びながら語るうちに、犬神様の身体の色はますます薄く淡く、そして、透けて見える夜の闇は濃くなっていく。実体はもう朽ちていると言った通り、影が長くこの世に留まることはできないのだろうか。
(待って。行かないで……!)
止めようと伸ばした腕は、けれど虚しく宙を抱くだけだった。
宵子はきっと泣きそうな顔をしていたのだろう、犬神様は、今度は彼女の目元を舐めてくれる。
──悲しむことはない。自然なことだ。我にとっても……お前に声を返してやれるから……。
頭に響く声さえ、次第に微かなものになっていって。そして、最後には消えてしまった。
瞬きをすれば白い残像がちらつくけれど、それもすぐに薄れてしまう。
気付けば、夜のただ中、月の光の下で、起き上がっているのは宵子とクラウスだけになっていた。
少し視線を巡らせれば、父と春彦が無残な姿になっている。暁子も、早く介抱してあげなくては。でも──これはふたりきり、なのだろうか。
(えっと……どう、すれば……?)
次の行動を決めかねて、思考停止してしまった宵子の傍らで、クラウスがぼそりと呟いた。
「貴女からは、同族の匂いがすると思っていたんだ。今の犬──狼? の気配だったんだな……」
その声に応えようと彼に向き直って──宵子は、一瞬で頭が沸騰する思いを味わった。
「──ひゃ」
だって、クラウスは完全な裸だったのだ。闇に浮かび上がる、彼の白く滑らかな肌。しなやかな筋肉を纏っているのは、踊った時には気付いていたけれど──何も着ていない時に見てしまうなんて、心の準備ができていない。
(毛皮も! とても綺麗だったけど!)
慌てて背を向けても、はしたないと思っても、クラウスの裸の胸は目に焼き付いて離れてくれなかった。彼にとっても気まずい事態だったのだろう、背後から狼狽える気配が伝わってくる。
「す、すまない。狼の姿でいるのも限界で……その、肩掛けを貸してもらえると、助かる……」
もちろん、絶対に必要なことで、願ってもないことだった。だから、宵子は黒い犬に攫われた時からどうにか羽織ったままでいられた肩掛けを、肩越しにクラウスに渡した。
しばらくごそごそと動く音と気配がして──たぶん、肩掛けを腰に巻き付けるか何かして、安心したのだろう。クラウスが、明るい声を上げた。
「貴女の声を、やっと聞けたな」
言われて、宵子はやっと気付く。クラウスの裸を見た時、思わず悲鳴を上げていたこと。
九年振りに使った喉は、言葉にならないひと声だけで、もうひりひりと痛む気配がしていたけれど。最初に聞いてもらうにしては、とても情けない響きだったけれど。
でも──宵子は、声を出せるようになったのだ。
犬神様の呪いが解けたから。ううん、そもそも呪いなんかではなかった。あの方は、宵子を心配して、守れるように機を待っていただけだった。宵子は、嫌われてしまった訳ではなかったのだ。
「え、ええ。ええ……!」
錆びついていた舌と喉を必死に動かして、宵子はどうにか頷いた。込み上げる涙を堪えながらだったから、掠れてひび割れて、それはひどい声だった。人魚の歌なんてとんでもない、蟇蛙のようだとさえ思うのに──
「本当に良かった。貴女と語りたいことが沢山あるんだ……!」
クラウスの声は喜びに満ちていた。宵子を背中から抱き締める腕も力強くて。薄い寝間着越しに感じる肌の熱さ、筋肉のしなやかさはあまりにも生々しい感覚で。宵子に、余計なことを思い出させてしまう。
(──あれ。私、狼の姿であんなに撫でたりして──あんなところ、も……!?)
真っ赤になった彼女を腕の中に閉じ込めて、クラウスが耳元に囁く。
「どうか振り向かないで。その……裸だから。嫌だったら離れるが! でも……嬉しくて、離したくない。……嫌、か?」
嫌なはずはない。でも、口に出すことはできない。声の出し方を、まだ完全に思い出した訳ではないし──何より、恥ずかしいから。
(いいえ! どうか……ずっとこのままで……)
だから宵子は無言のまま、必死で首を振ることしかできなかった。
何度か瞬きをした後、そこに残っているのは干乾びた犬の死体だった。春彦の術で動かしていただけで、実はもうとっくに死んだ犬が、無理矢理に動かされていたのかもしれない。
ゥアオオーーーオォーン!
敵を片付けても、クラウスの闘志はまだ収まっていないようだった。月を仰いでの遠吠えが、宵子の肌をぴりぴりと震わせる。
ひとしきり吼えた後に、クラウスは宵子をきっ、と睨んだ。宝石のように澄んだ青い目が、今は荒々しい光を宿して燃えている。
でも──宵子が彼を恐れることは、やはり、ない。
クラウスは、春彦が言ったような化物ではない。優しい人だと、信じているから。
だから、興奮を現すように全身の毛を逆立てて唸る彼に、無防備にに歩み寄ることだって、できる。目の高さを合わせるために跪き、そっと手を差し伸べる。
(助けてくれて、ありがとうございました。無事で、良かった……!)
血なのか、泥なのか、蟲毒とやらの残滓なのか。
クラウスの毛皮をべったりと汚す色々なものを手指で梳き取りながら、宵子は彼を抱き締め、撫でた。
いつかの夕暮れに助けられた後に撫でさせてもらってから、ずっとまたこうしたいと思っていたのだ。それが、思わぬ形で叶ったことになる。
(ヘルベルト先生は、きっと何もかもご存知だったのね……?)
いずれまた会える、だなんて惚けていたに違いない。本当は、とっくに再会していたのに。
(落ち着いて。早く、怪我の手当てもしないといけません)
美しい毛並みに触れる喜びと、激しい戦いの痕跡の痛ましさ。両方の想いに胸が締め付けられるのを感じながら、宵子はクラウスの目を見つめて、手を動かした。
そうするうちに、気持ちが落ち着いたのだろうか。クラウスの呼吸は、段々と静まっていった。疲れや痛みも押し寄せたのかもしれない。銀色の大きな狼に凭れられて、宵子は危うくよろけそうになった。
──宵子。
でも、そんな彼女の背を支えてくれる存在がある。
鼻先で宵子に触れてきたのは、クラウスの眩い銀色とはまた少し違った色合いの、雪のような純白の毛皮の狼。ううん、より相応しい呼び方を、宵子は知っている。
(犬神様……?)
呪いで声を封じられた恐ろしさよりも、幼いころに遊んでもらった懐かしさが勝った。それに、どうして今、ここに、という不思議さが。
首を傾げてぽかんとしてしまった宵子に、白い犬神は口を開いて笑ったような表情を見せた。
──ここにいる我は影のようなもの。本体はとうに朽ちている。かりそめの肉体を失い、思念だけの存在になったからこそ、言葉を伝えることもできる。お前の頭に直接語り掛けている、とでも思えば良い。
言われて(?)みれば、宵子は何の疑問もなく犬神様からの呼び掛けに振り向いていた。
(昔も、おしゃべりしたかったです……)
何の憂いもなく幸せだったころを思い出すと、胸がつんと痛んだ。でも、犬神様の言葉によると、あの時は無理だった、ということなのだろう。
宵子を労わるように、犬神様は軽く下げた頭をこつん、とぶつけてくれた。
大きい身体の割に伝わる感触が軽いのは、やはり影のような存在だから、なのかもしれない。
──お前には辛い思いをさせたな。だが、あの時、我には見えたのだ。我が命が長くないこと、真上家の跡継ぎと新城家の末裔が良からぬことを企むこと。……お前が、異国の狼に出会うこと。
犬神様の金色の目が、クラウスを捉えて微笑んだ。獣の姿でも、思いや表情がはっきりと伝わるのが、不思議なほどだった。
──ゆえに、どんな形でもお前の傍にいてやらねば、と思ったのだ。我が死んでも、お前から声を奪うことになっても。今、この時まで、我が影をどうにか残してやらなければならなかった。
犬神様の耳がしょんぼりと垂れるのを見て、宵子は慌てて首を振った。
(そんな。お陰で助かったんです。私も、クラウス様も……! 声のことだって──)
呪われたと言われて。言葉を発することができなくて。
辛い、寂しい思いをしたことは、確かにあった。
でも、だからこそより強く、クラウスに想いを伝えたいと思えた。そもそも、彼と出会えたのも、暁子の言いつけがあってのこと。犬神様は、宵子とクラウスをひき合わせてくれたのだ。
宵子の想いが伝わったのだろうか。犬神様の耳が、ゆっくりと立ち上がった。
すりすりと首筋をすり寄せてくれるのは、すまなかった、ありがとう、の想いを込めてのこと。これも、言葉がなくても伝わってくる。
──異国の若い狼よ。
と、犬神様の金の目がクラウスに向けられた。
年長者に敬意を払うかのように、クラウスは畏まってちょこんと座っている。彼に対する犬神様の眼差しも、教師が生徒を見守るような、優しく威厳に満ちたものだった。
──我も、元はそれと似たようなものだった。人に殺された獣の霊が、血と怨みを糧にかりそめの姿を得て、操られるがままになっていた……。
息絶えた黒い犬の残骸をちらりと見て、犬神様の毛並みが少し波立った。
(真上家のご先祖は、やっぱりひどいことを……?)
宵子の強張った頬を、犬神様の舌が慰めるようにぺろりと舐める。──その、仕草をした。これもまた影だからなのか、濡れた感覚がしないのが寂しかった。
──だが、年を経るうちに変わったのだ。我を利用するだけでない、感謝する者も崇める者も現れて──だから、やがて理性も知性も得た。
身体の軽さや舌の感触のなさだけではない。犬神様の白い毛皮を透かして、夜の庭園が見えることに気付いて、宵子は目を瞠った。クラウスも、驚いたように三角の耳をぴくぴくさせている。
──だからその血を恥じることはない。ただの獣でも、やがて神と呼ばれるようになれたのだから。まして人として生まれたならば、心がけと──伴侶次第で、荒ぶる本能を抑えることもできるだろう。
ひとりと一頭の視線を浴びながら語るうちに、犬神様の身体の色はますます薄く淡く、そして、透けて見える夜の闇は濃くなっていく。実体はもう朽ちていると言った通り、影が長くこの世に留まることはできないのだろうか。
(待って。行かないで……!)
止めようと伸ばした腕は、けれど虚しく宙を抱くだけだった。
宵子はきっと泣きそうな顔をしていたのだろう、犬神様は、今度は彼女の目元を舐めてくれる。
──悲しむことはない。自然なことだ。我にとっても……お前に声を返してやれるから……。
頭に響く声さえ、次第に微かなものになっていって。そして、最後には消えてしまった。
瞬きをすれば白い残像がちらつくけれど、それもすぐに薄れてしまう。
気付けば、夜のただ中、月の光の下で、起き上がっているのは宵子とクラウスだけになっていた。
少し視線を巡らせれば、父と春彦が無残な姿になっている。暁子も、早く介抱してあげなくては。でも──これはふたりきり、なのだろうか。
(えっと……どう、すれば……?)
次の行動を決めかねて、思考停止してしまった宵子の傍らで、クラウスがぼそりと呟いた。
「貴女からは、同族の匂いがすると思っていたんだ。今の犬──狼? の気配だったんだな……」
その声に応えようと彼に向き直って──宵子は、一瞬で頭が沸騰する思いを味わった。
「──ひゃ」
だって、クラウスは完全な裸だったのだ。闇に浮かび上がる、彼の白く滑らかな肌。しなやかな筋肉を纏っているのは、踊った時には気付いていたけれど──何も着ていない時に見てしまうなんて、心の準備ができていない。
(毛皮も! とても綺麗だったけど!)
慌てて背を向けても、はしたないと思っても、クラウスの裸の胸は目に焼き付いて離れてくれなかった。彼にとっても気まずい事態だったのだろう、背後から狼狽える気配が伝わってくる。
「す、すまない。狼の姿でいるのも限界で……その、肩掛けを貸してもらえると、助かる……」
もちろん、絶対に必要なことで、願ってもないことだった。だから、宵子は黒い犬に攫われた時からどうにか羽織ったままでいられた肩掛けを、肩越しにクラウスに渡した。
しばらくごそごそと動く音と気配がして──たぶん、肩掛けを腰に巻き付けるか何かして、安心したのだろう。クラウスが、明るい声を上げた。
「貴女の声を、やっと聞けたな」
言われて、宵子はやっと気付く。クラウスの裸を見た時、思わず悲鳴を上げていたこと。
九年振りに使った喉は、言葉にならないひと声だけで、もうひりひりと痛む気配がしていたけれど。最初に聞いてもらうにしては、とても情けない響きだったけれど。
でも──宵子は、声を出せるようになったのだ。
犬神様の呪いが解けたから。ううん、そもそも呪いなんかではなかった。あの方は、宵子を心配して、守れるように機を待っていただけだった。宵子は、嫌われてしまった訳ではなかったのだ。
「え、ええ。ええ……!」
錆びついていた舌と喉を必死に動かして、宵子はどうにか頷いた。込み上げる涙を堪えながらだったから、掠れてひび割れて、それはひどい声だった。人魚の歌なんてとんでもない、蟇蛙のようだとさえ思うのに──
「本当に良かった。貴女と語りたいことが沢山あるんだ……!」
クラウスの声は喜びに満ちていた。宵子を背中から抱き締める腕も力強くて。薄い寝間着越しに感じる肌の熱さ、筋肉のしなやかさはあまりにも生々しい感覚で。宵子に、余計なことを思い出させてしまう。
(──あれ。私、狼の姿であんなに撫でたりして──あんなところ、も……!?)
真っ赤になった彼女を腕の中に閉じ込めて、クラウスが耳元に囁く。
「どうか振り向かないで。その……裸だから。嫌だったら離れるが! でも……嬉しくて、離したくない。……嫌、か?」
嫌なはずはない。でも、口に出すことはできない。声の出し方を、まだ完全に思い出した訳ではないし──何より、恥ずかしいから。
(いいえ! どうか……ずっとこのままで……)
だから宵子は無言のまま、必死で首を振ることしかできなかった。