がるるるる──

 銀の犬は、威嚇するように低く唸ると、黒い犬に飛び掛かった。
 そのしなやかな身体が描く軌跡は、鋭い白刃を振り抜いたよう──でも、尖った三日月のような牙は、虚しく宙を噛むだけだった。ほんのわずかな間に、黒い犬も体勢を立て直し、毛皮と同じ色の闇の中へ飛び退(すさ)っていた。

(どうして、ここに……!?)

 恐ろしい人喰い犬の牙は、とりあえずは遠ざかった。でも、宵子(しょうこ)が安心することなんてできない。
 この綺麗な銀の毛皮の犬は、医者のヘルベルトに飼われているはずだ。こんなところで怪我をしたり──まして死んでしまったら、あの人は悲しむだろう。
 いったいどうして助けてくれたのかは分からないけれど、どうにか逃がしてあげなければ。宵子は、そう思ったのだけれど──

「シャッテンヴァルト伯爵か!? これはまた──洒落た格好でお出ましですね!」

 夜空に高らかに響く春彦(はるひこ)の笑い声に、目を見開いた。

「伯爵、様……?」

 銀の犬が現れた時の風圧で尻もちをついていた暁子(あきこ)も、信じられない、といった調子で呟く。

 驚きを露にした双子に対して、春彦は得意げに教えてくれる。

「シャッテンヴァルト伯爵家は、狼の血を引いていると噂されていると言っただろう? あれは、宵子にだけだったかな──まあ、どうでも良いが。よく見てごらん。あの青年と同じ銀の髪──毛皮に、青い目だろう? 犬神(いぬがみ)を操る家があるなら、狼に化ける一族だっているだろうさ」
「嘘……そんな、化物……」

 暁子の声に、嫌悪と恐怖が混ざった。銀の耳の犬がぴくりと動いて、首から背にかけての毛皮がぶわりと逆立つ。

「──っひ」

 青い目に射るように貫かれて、暁子が小さく悲鳴を漏らした。そして、口元に手をあてたまま、ゆっくりと地面に崩れ落ちる。
 立て続けに危ない目に遭ったところに、大きな獣に()()()()のだ。精神が限界を迎えたのだろう。

 暁子が頭を打たないよう、慌てて支えながら、宵子は銀の犬──ううん、()をまじまじと見つめた。

(クラウス様、なの……?)

 二度も助けてもらった()()()のことを、どうして怖がったりするだろう。
 それに、以前は気付かなかったのが不思議なくらい、神々しいほどの美しい毛並みのその狼がまとうのは、クラウスとまったく同じ色彩だった。
 何より、()は暁子の化物、という言葉に反応して怒ってみせた。

(そうよ。あの時だって)

 宵子とヘルベルトのやり取りを理解していたとしか思えなかった。それは、とても賢いからではなくて──銀色に輝く毛皮の下に、人間の理性と知性を宿しているから、なのだろうか。

 銀の狼の青い目と見つめ合いながら。宵子はしばし、考え込んでしまっていた。

 鹿鳴館(ろくめいかん)円舞曲(ワルツ)を躍った時。
 地下室から助け出してもらった時。
 彼の屋敷で、間近にお互いの国の言葉を教え合った時。

 クラウスとは、もう何度も目を合わせている。彼の優しさ、頼もしさ、礼儀正しさ──それに、控えめな好意もあると、思う。
 色が同じだけでは絶対にない。銀狼の眼差しは、確かにクラウスと同じ感情を宿している。

 真夜中で、周囲は荒れた庭で。人喰い犬が闇の中に身を潜めていて、辺りには血の臭いさえ漂っているのに。
 宵子は、何もかも忘れて狼の──クラウスのほうへ駆け出そうとしていた。でも、彼女の進もうとした道筋を、音もなく飛び出した黒い犬が遮った。宵子の手が届く前に、クラウスも素早く跳躍して敵の爪と牙を避ける。

 二匹の大きな獣の動きが巻き起こした風圧で、宵子は軽くよろめいた。そこへ、春彦の嘲り笑う声が響く。

「怖がっては可哀想だろう、宵子。伯爵は君を助けに来たんだから。ずいぶん惚れられているじゃないか。……もしかしたら、(つがい)にでもしようと思ってたのかな」

 宵子が立ち竦んでいたのを、怯えているからだと決めつけているらしい。

(私の気持ちを、勝手に決めつけないで……!)

 はっきりと言ってやれないのを心底悔しく思いながら、宵子は春彦を睨んだ。

 この人のことを優しいだなんて思っていたのは、間違いだった。()()()()には気にかけてもらっていたと思っていたけれど、見せかけだった。
 春彦は、宵子のことを何も分かっていない。知ろうともしていない。
 兄のように慕っていたのが、こんな男だったなんて。

「僕としても、()を渡すつもりはないけどね。──やれ!」

 歯噛みする宵子に軽く微笑んでから、春彦は鋭く命じた。邪悪な計画がすでに成功したかのように、()(づら)するのも気持ち悪いし腹立たしい。
 それに、何より。春彦の声に応じて、黒い犬は再び牙を剥いてクラウスに襲い掛かっている。

(クラウス様……!)

 宵子の目の前で、すさまじい死闘が演じられていた。

 月光を纏って輝く銀の毛皮と、闇を凝らせたような漆黒の毛皮。
 宝石のように涼やかな青の目と、火のついた石炭を思わせて(おこ)る紅い目。

 対照的な色の二頭の獣が、ぶつかり合い、交錯する。どちらのものともつかない唸り声が響き、鋭い牙が闇に煌めく。
 争いに使われるのは、爪と牙だけではなかった。
 片方が身体で抑え込もうとしては、もう片方は素早く転がって避ける。黒い影が跳んだと思うと、銀の閃光が着地点を狙って走る。

 巨大な体躯(たいく)強靭(きょうじん)な筋肉を兼ね備えた二頭の攻防は一進一退で、宵子は息をすることも忘れていた。
 時おり、銀色の毛が雪のように宙に舞うたびに、彼女自身に牙が迫ったように身体が強張ってしまう。

 何度も地面に転がり、木の幹に叩きつけられるうち、クラウスの毛皮は汚れてしまっている。それは泥の汚れであって、流血ではないと信じたいけれど──暗い中、絶え間なく動く彼が無事なのかどうか、宵子の目では分からない。

(前も、あの犬を追い払ってくれたもの。負けたりしない……!)

 声を張り上げて、声援を送ることができないのがもどかしかった。
 宵子がこぶしを握り締めていること、必死の表情でクラウスを見つめていることに気付いて欲しいと切に願う。
 でも、いっぽうでは、彼女に注意を向けて黒犬に隙を見せてはいけない、とも思う。

 見守ることしかできない恐ろしい時間が、どれだけ過ぎたのだろう。とうとう、クラウスは黒い犬を自らの身体の下に組み敷いた。

 きゃいん!

 甲高い悲鳴は、黒い犬の口から漏れたもの。
 敗者の哀願さえ噛み砕こうとするかのように、クラウスは大きく口を開け、牙を剥き出した。

(やった……!?)

 一秒後には、忌まわしい人喰い犬は喉を食いちぎられている。そうなることを、宵子はほぼ確信していたのに──

 ぎゃん、がっ──

 突然、クラウスが()き込んだ。かと思うと、その口から黒っぽい液体が吐き出されて美しい毛並みを汚す。黒──あるいは、濃い、赤?
 色ははっきりとは見えなくても、どろりとした粘りつくような質感なのは、分かってしまう。

(何なの……!?)

 息を呑んだ宵子に、春彦がすかさず教えてくれる。彼女が驚きの表情を見せたのが、楽しくて堪らないとでもいうかのように。

「先日、伯爵が真上家を訪ねた時に、ね。出した茶に蟲毒(こどく)を入れておいたんだ。宵子──どうも君を探していたようだったからね、上の空で飲んでくださったよ!」

 春彦の愉悦(ゆえつ)と嘲笑は、黒い犬にも力を与えたようだった。先ほどまで地に這わされていた()()()は、身体を翻すと、血とも泥ともつかないものを吐き出して苦しむクラウスに飛び掛かった。