ヘルベルトの診察結果を聞いたクラウスは、ひとまずは安心したようだった。医学の用語を交えたドイツ語のやり取りは、宵子がついて行けるものではなかったけれど。それでも、彼らの表情から察することはできる。
事実、話を聞き終えたクラウスは、晴れやかな笑みと共に日本語で伝えてくれた。
「異常がないのは何よりだ。心身の負担がなくなれば、変化があるかもしれないし。……貴女の声を早く聞きたいとは、思うが」
最後に囁かれた言葉が嬉しくて恥ずかしくて──そして、きっと彼女自身の声を聞いてもらうことはできないだろうと思うと申し訳なくて。俯きながら、宵子は小さな文字で綴った。
──きっと、暁子と同じような声だと思います。双子ですから。
クラウスは日本語が、宵子はドイツ語が。短い間でずいぶん上手くなったと思う。
せめて想いを伝えられたら、と思っていたころに比べれば、すぐそばに鉛筆を用意してもらえて、いくらでも紙を使わせてもらえる今の状況の、なんと恵まれていることだろう。
(だから、これ以上の望みなんてない……その、はずなのに)
なのに、クラウスはまだ満足しないのだという。もっと、を願ってくれている。青い目がしっかりと宵子を捉えて、涼やかな声に熱意がこもる。
「あの娘と貴女が同じ声のはずがない。語る内容や声の調子が違えば、きっとまったく別の響きがするだろう」
彼は、心から宵子の声が聞きたいと願っているのだ。彼女自身も忘れてしまった声、クラウスが聞いたこともない声を、伝説に語られる人魚の歌のように称えてくれる。
──分かりません。もう何年も、声を出していませんから。
先ほどの文章の隣に綴った文字の線は、少し震えて歪んでいた。
クラウスから寄せられる想いは嬉しいけれど、隠しごとがある身では素直に受け取ってはいけないのではないか、と思ってしまう。
声を聞きたいという願いに答えてあげられたら、とも思うけれど、犬神様の呪いなんてどうやって説けば良いのか分からない。
何もかもが不確かで、どうすれば良いのか分からなくて。それが、申し訳なくて。
複雑な想いに手を縛られたような思いだった。
「それでは、私はそろそろ失礼する。宵子嬢の容態で何かあったらいつでも呼んでくれ」
「ああ、ありがたい」
だから──ヘルベルトが去るのを見送るために玄関広間に向かいながら、宵子は微笑むことしかできなかった。
尋ねることなんてできはしない。ヘルベルトが漏らしていたのはいったい何の薬なのか。クラウスに何か悪いところがあるのではないか、と。
* * *
その夜、宵子は眠れないまま寝台に腰掛けていた。
クラウスは、日本語でもドイツ語でも、好きな本を図書室から持ち出して良いとは言ってくれている。でも、居候の身で、遠慮なく灯りを使って夜更かしする気にはなれない。
何より、美しい絵や楽しい物語を楽しめるような気分では、なかった。
(クラウス様の具合がお悪いなら……本当のことをお伝えするのは、ご迷惑かしら)
呪いの話なんかを持ち出して、混乱させるのは良くないだろうか。……そう思うのは、事実を伝えたくない、気味が悪いと思われたくない宵子の、勝手な考えだとは気付いている。
本当にクラウスのことを気遣うなら、宵子はこの屋敷から出ていくべきだ。
彼女のために時間を割くことこそ、彼の負担になっているのだろうから。真上家から助け出してもらったことに感謝して、ひとり立ちするのが良いのだろう。
(そうよ。たとえ難しくても……寂しくても。そうしなければいけないのに)
口の利けない身で働き口があるのか、なんてことはどうでも良かった。自分のことなのだから、どうにかしなければいけない、それだけだ。
それなのに、言い出すことができないのは──
(だって、私は、クラウス様のことが──)
心の中であっても、その先を続けるのは許されない、と思った。だから一緒にいたい、だなんて。そう願うのは、とても図々しいことだ。
だから、宵子は詰めていた息をそっと吐き出す。
彼女に声が出せないのは、こうなると良かったかもしれない。文字で綴らなければ、秘めた想いが漏れ出ることは絶対にないのだから。
(クラウス様も、そんなつもりではないはずよ。……だから、折りを見て出ていくとお伝えしなければ)
密かに悲壮な決意を固めた時──宵子の耳は廊下の床が微かにきしむ音を拾った。もう夜も遅いのに、誰かが歩いているらしい。
(どうしたの……?)
足音は、どうやらクラウスの寝室のほうに向かっているようだった。もしや彼の身に何か、と。頭に浮かんだ不安に耐えきれず、宵子は寝台の傍に置いてあった室内履きに足を突っ込んだ。
寝間着の上に、毛織の肩掛けを巻きつけて、宵子は部屋の扉を細く開けた。見渡すと、すでに親しくなったドイツ人のメイドが、盆を捧げ持って通り過ぎるところだった。
盆の上に載っているのは──水差しと杯、それに、色のついた液体を入れた小瓶。
(まさか)
ヘルベルトが言っていた薬とは、この小瓶のことではないだろうか。クラウスは、やはり何かの薬が必要な状態なのかもしれない。
そう思うと、宵子は居ても立っても居られなかった。
──クラウス様に、何かあったのですか? お医者様が、薬と仰っていました。
掌くらいの大きさに切った紙を束ねた帳面は、もはや手放せないものになっている。
素早く書き込んだ文章を見せると、そのメイドは宵子を安心させるように微笑んだ。外国人らしく、高い背を少し屈めてくれるのは、まるで子供相手にするような仕草だった。
「いつものことよ、心配いらないわ。眠れない時に飲む薬のことだから」
メイドの淡い目にも、緊張や不安の色は見て取れなかった。本当に、クラウスは病気ではないのだろうか。……相手を疑う訳ではないのだけれど。
──お声を聞きたいです。顔は見せません。ついて行っても良いですか?
若い娘が、夜中に殿方の部屋を訪れるなんてありえない。きっと、ドイツでも同じだろう。
それでも、廊下の離れたところで待っているだけでも良い。クラウスの声を聞くことができれば、宵子も少しは安心できるかもしれない。
──どうか──
短く懇願する鉛筆の線は濃く、太いものになった。宵子の表情と筆跡から必死さを感じてくれたのか、メイドは大きく頷いた。
「ええ。宵子も心配しているとお伝えしましょう」
メイドが持っていた灯りを頼りに、宵子はしばらく暗い廊下を進んだ。書斎や図書室、使われていない客間──閉ざされた扉を幾つか通り過ぎて、クラウスの寝室の前に辿り着くと、メイドが呼び掛けた。
「旦那様。お水をお持ちしました」
宵子は、扉が開いてもクラウスの視界に入らない距離を保って佇んでいる。きっと、彼は無造作に水を受け取って、メイドにひと言ふた言の労いの言葉をかけて、眠りに就くのだろう。
その声の調子がいつも通りだと確かめることさえできたら、宵子も大人しく寝室に戻って横になろう。そう、思っていたのだけれど。
「宵子──そこにいるのか」
扉越しに、ややくぐもった声が聞こえた。メイドではなく、確かに宵子に向けられて。
(私がいることを、分かってくださったの? 姿が見えないのに、どうして……)
驚くよりも、喜びが勝った。いったいどうやって、クラウスが彼女の存在に気付いたのかは分からないのだけれど。
思えば真上家でもそうだった。地下室に閉じ込められた宵子の、声にならない悲鳴を、助ける求める声を、クラウスだけは聞き取ってくれたのだ。
(貴方に会えたのは、まるで運命のようだと思っていました)
そしてそれは、宵子だけの勝手な幻想なのだと。でも──これではまるで、不思議な力で結ばれているようだ。そんな勘違いを、してしまいそうになる。
込み上げるクラウスへの想いが、宵子の足を動かす。
彼女は、気付くと閉ざされた扉の真ん前へと進み出ていた。
宵子の香りが近づくのを感じて、クラウスは部屋の中で頭を抱えた。
彼は今、床の上で身体を丸めるようにして蹲っている。髪に埋まった指の間からは、ぴんと立った狼の耳が現れている。手足や首筋も、銀の毛皮に覆われ初めているはずだ。
(駄目だ……来てはいけない……!)
声を出せば、唸り声が混ざってしまいそうだった。宵子の香りは、彼の嗅覚にはあまりに甘くて美味しそうで、うっかりすると牙を剥き出してしまいそうになる。だから、歯を食いしばることしかできないのだ。
それでも、メイドのゼルマは、主人であるクラウスの意を汲んで宵子を宥めてくれている。
「宵子、落ち着いて。その格好ではいけません」
ゼルマも、シャッテンヴァルト伯爵家の血をわずかながら引いている。だから、クラウスの状況を分かってくれているのだ。
窓の外に見える月は、欠けるところのない真円だった。満月から降り注ぐ光は白く眩しく、クラウスに流れる狼の血を騒がせる。
先祖たちは、こんな月の夜に狼に姿を変えては森や草原を駆けたのだという。
かつての領民たちは、猛々しい狼の遠吠えを心強く聞いてくれたのかもしれないが──今の時代、街中をうろつく巨大な獣など恐れられて駆除されるだけだ。
同じく「人ではないもの」の末裔であるヘルベルトは、彼のために睡眠薬を処方してくれる。月の光に酔って暴走するくらいなら、深い眠りに落ちて朝までやり過ごしたほうが良い。ゼルマは、その薬を持ってきてくれるはずだったのだが。
(いつもより衝動が強い。宵子が近くにいるからか……!?)
身体の内側で何かが暴れるような感覚が、クラウスを苦しめていた。血が燃えるように熱く、何もかもを食い殺したいと彼を焚きつける。
まるで、飢えた獣に落ちたような無様な姿だ。彼は、理性も節度もある人間のはずなのに。
扉の外では、ゼルマが宵子を宥めるのに苦労しているようだった。
宵子の愛らしい唇が紡ぐ声を、クラウスはまだ知らない。だが、半ば狼となった彼の感覚は研ぎ澄まされて、彼女の匂いに混ざった不安や恐怖が嗅ぎ取れる。──それがまた、魅力的だと感じてしまうのだが。
(宵子は、俺とは違う。この姿を、見られる訳には──)
最初に彼女に注意を惹かれたのは、同族の、狼に似た匂いを感じたからだった。もしや日本にも、彼の家のように狼の血を引く一族がいるのではないか、と。
だが、宵子と接するうちにどうやら違うようだ、と分かった。彼女が月に反応する気配はなく、五感も通常の人間と変わらないようだったから。クラウスやヘルベルトが纏う人外の香りに、彼女はおそらく気付いていない。
身体の機能は健全なのに、封じられたように声が出せないことからしても、何か「人ではないもの」と関りがあるのは間違いないだろうが──少なくとも、それは彼女の血に流れるものではない。
(同族かどうかなんて関係ない。俺は、彼女が──だが、だからこそ……!)
敷物の上でのたうち回りながら、クラウスは呻き声を噛み殺した。宵子が聞いたら、心配のあまりに扉を開けて入ってきてしまうかもしれない。そして、彼が化物だと知ってしまうかも。
あの、夜のように黒く美しい目に恐怖と嫌悪が浮かぶのを見てしまったら、耐えられそうにない。
異国で同族が生き延びていたかもしれない、という喜びは、すぐに運命の相手に出会えたのかもしれない、というより大きな歓喜に変わっていた。
控えめな優しさ、意外なほどの芯の強さ、虐げられた日々の中で異国の言葉を学ぼうとした忍耐強さ。──その強く純粋な想いを、クラウスに寄せてくれたこと。
彼女のすべてを愛しいと思えば思うほど、正体を知られるのが怖くなった。
共に過ごす時間が幸せであればあるほど、後ろめたさに苛まれた。いつまで一緒にいられるのかと、不安になった。
真実を伏せたまま、ぬるま湯のように心地良い日々に浸ろうだなんて、きっとクラウスの我が儘でしかないのだ。そのせいで、扉の向こうでは宵子があんなに心を痛めている。
(朝になれば、話す……話さなければ。だが、今は去ってくれ……!)
狼の血のこと、満月の光で騒ぐ獣の本能のこと。……時として、彼自身が驚く残酷な衝動のこと。
すべて打ち明けなければ。その上で、それでも一緒にいてくれるように乞うのだ。跪いて、心から──そして、拒まれたとしても、宵子が幸せになれるように取り計らわなくては。
でもそれは、朝になってからのこと。クラウスがまともな人間らしい顔が取り繕えるようになってからのこと。
今はどうか、彼を放って安らかな夢を見て欲しい。
荒い息を堪えて、クラウスは扉の外の気配に耳を澄ませた。
メイドのゼルマのお陰で、宵子は納得しつつあるようだった。そうだ、彼女はもう寝間着に着替えているはず。こんな時間に男の前に姿を見せるものではないと、礼儀正しい彼女は分かってくれるはずだ。
「では、宵子。あとは私に任せてお休みなさい」
ゼルマの声と、そして宵子が小さく頷く気配を感じ取って、クラウスはようやく安堵の息を吐いた。
ヘルベルトの薬を呑めば、悪夢を見る余地すらなくぐっすりと寝ることができる。不安も恐れも、ひと晩だけは忘れられる。
(味は、ひどいんだが)
救済となる薬が早く届くと良い、と。ゼルマを迎えるべく、クラウスはよろよろと立ち上がった。
その時──ガラスが砕ける鋭い音が、彼の、今は三角に尖った耳に突き刺さった。次いで、ゼルマの高い悲鳴が。
「──宵子!?」
同時に、クラウスの嗅覚をすさまじい悪臭が襲う。血と肉が腐ったようなその臭いには、覚えがある。真上子爵邸で、春彦とかいう胡散臭い男が漂わせていたものだ。
(宵子に、何が!?)
半ば獣と化した姿を見られることを恐れている場合では、なかった。
クラウスが寝室から飛び出すと、そこには砕け散ったガラスが一面に散らばり、月の光を反射していた。ゼルマが投げ出したらしい盆と水差しも転がっている。
ゼルマは、腰を抜かしてへたり込んでいたが──廊下を見渡しても宵子の姿は、ない。
「何があった」
ゼルマを助け起こしながら短く問うと、メイドはがくがくと震えながら、破れた窓を指さした。
「……狼です。悪魔のように真っ黒で大きな狼……! 宵子を咥えて、攫っていきました……!」
例の悪臭は、確かに窓の外に続いていた。腐汁を滴らせるような痕跡は、クラウスの鼻なら容易く辿ることができるだろう。
(黒い狼……例の、人喰い犬か!)
いつか、街中で宵子を追い回していたおぞましい存在を思い出して、クラウスの全身の毛は怒りに逆立った。
「許さん……!」
低く、唸ると同時に彼の手足は狼の四肢へと変じていく。牙を剥く尖った口から漏れるのは、宣戦布告の遠吠えだ。銀の毛皮の狼になった彼が床を蹴れば、その身体は流星の軌跡を描いて窓から躍り出す。
そして、着地すると同時に全身の筋肉をばねにして、駆ける。不吉なほど明るい月の光は、彼を宵子のところまで導いてくれるだろう。
宵子の寝間着の後襟が引っ張られて、彼女の首を絞めた。クラウスの屋敷の窓を破って現れた黒い大きな犬が、寝間着の生地を咥えて駆けているのだ。地に足をつけて走るのではなく、家々の屋根を跳んで伝って、ほとんど空を飛ぶように高く、速く。
(嫌──怖い……!)
いっそ意識を失ってしまいたいのに、手足や身体が絶え間なくどこかしらにぶつかる痛みに気絶することさえ許されない。
恐怖に見開いた目に、円い月と満天の星空が映る。かと思うと、人形のように振り回されて、地上の灯りが蛍のように光の残像を視界に残す。
人が寝静まる真夜中は、空のほうが明るいのだと宵子は初めて知った。風情の違う光の散らばり方を、美しいと思うことができれば良かったのに。もちろん、そんな余裕は宵子にはなかった。
痛みを恐れてできるだけ身体を縮こめて。耳にかかる犬の息の生臭さに息を詰まらせて。激しい上下の動きに頭を揺さぶられて。
そうして、どれだけの間引きずられていたのだろうか。永遠にも思える恐怖と苦痛の後──黒い犬はようやく宵子の首元を捕えていた牙を緩めた。
(きゃ──)
突然投げ出された宵子は、立つこともできずに地面に転がった。彼女の身体を受け止めるのは、湿った草と土の匂い。
人喰い犬の住処に攫われてしまったのだろうか。犬は──ちょこんと地面に座って、燃えるような赤い目で宵子を見張っている。
(ここは、どこ……?)
月と星の冴え冴えとした光に浮かび上がるのは、木々の黒い影だった。森というよりは林、くらいの木の密度だろうか。周囲に人家の灯りは見えないけれど、郊外にまで連れてこられてしまったのか、それとも広い庭園や公演の片隅のだろうか。
犬の視線に怯えながらきょろきょろと辺りを見渡して──宵子は、朽ちた柱が何本か佇んでいることに気付いた。
使われなくなった納屋とか倉とか、どこにでもあるものだろう。でも、その柱の形や太さ、並び方にはどうにも見覚えがあるように思えてならなかった。
幼いころから何度となく通った、犬神様の祠に、そっくりなような。
(……まさか)
ここは、真上家の庭ではないだろうか。そう思って改めて見ると、木々の並びも、草の生え方もそうだとしか思えなかった。でも、なぜ人喰い犬がこの庭に?
嫌な予感に襲われて、宵子は自分の体を抱き締めた。震える足でどうにか立ち上がろうとすると、足の裏に湿った土の感触がする。室内履きは、とうに脱げてしまっていた。肩掛けが辛うじて引っかかっていたのが、奇跡のようだ。
ぐるるるるる──
と、勝手な動きを咎めるように、黒い犬が唸りながらのっそりと立ち上がった。黄色く汚れた牙が剥き出しになるのを見て、宵子は尻もちをついてしまう。
じわり、と。夜露が寝間着に染み込む感覚が冷たくて気持ち悪くて、宵子が顔を顰めた時──突然、真昼のような明るさがその場に現れて、彼女の目を眩ませた。
「久しぶりね、宵子!」
そして、軽やかな笑い声が響く。
(暁子……!)
聞き間違えようのない双子の妹の声に、宵子は目を見開いた。顔を上げると、洋燈の強い光に、暁子の楽しそうな笑顔が浮かび上がっている。
「私、あんたに謝らなければいけないことがあるの」
動きやすい袴姿で、軽やかな──踊るような足取りで、暁子は進み出た。そして、宵子を見下ろして、首を傾げる。
「犬神なんていないって、ずっと馬鹿にしていたでしょう? でも、本当にいるのね、そういうの! この子、真上家の新しい犬神よ。私の言うことを聞くんですって!」
暁子の言う通りだった。
黒い犬は、ゆっくりと尻尾を振ると、暁子に擦り寄り、頭を撫でられている。
(そんな。危ないわ……!)
暁子だって、人喰い犬の噂は知っていたはずだ。何人もの少女が犠牲になっているのに──その犯人がこの黒い犬だと気付いていないのだろうか。
ううん、それどころではない。
(どうして暁子が、この犬と……!?)
宵子が真上家にいた間、こんな大きな犬なんて見たことがなかった。それに今、暁子は何と言っただろう。
(犬神──)
でも、これは違う。宵子は直感的にそう思った。
彼女が知っている犬神様は、もっと穏やかで優しくて、知性ある眼差しをしていた。夜に溶け込むような漆黒の毛並みのこの犬は、今は大人しく暁子に撫でられているけれど、残忍に少女たちを食い殺したのだ。
真上家が祀ってきた犬神が、こんなものであるはずがない。
(駄目よ、暁子。早く逃げないと)
クラウスの屋敷にいる間に、宵子は紙と鉛筆が手元にあることにすっかり慣れてしまっていた。声を出せないもどかしさをこんなに切実に感じるのは久しぶりだった。
懸命に首や手を振って、危険を伝えようとするけれど──暁子はもう、宵子を見ていなかった。洋燈の光源がもうひとつ現れて、新たな人影をふたつ、浮かび上がらせたのだ。
人影の片方は、暁子の傍らにそっと寄り添った。黒い犬の反対側に、犬と合わせて暁子の護衛のような位置に落ち着いたのは、洋装を纏った春彦だった。
いつもと変わらない穏やかな声と微笑みで、春彦は暁子に話しかける。
「楽しそうだね、暁子」
「だって、この子、本当にすごいんですもの! 宵子を見つけて連れてきてくれるなんて、賢いのね。さすが春彦兄様だわ!」
くすくすと声を立てて笑うと、暁子は洋燈を地面に置いて、甘えるように春彦に腕を絡ませた。
「お褒めにあずかり恐縮だ」
婚約者の髪をそっと撫でてから、春彦は宵子に対しても笑みを向ける。まるで真上家の居間にいるかのような何気ない笑顔だった。
真夜中の庭で、人喰い犬がすぐ傍にいるとは信じられないくらいに、いつも通りの、優しい微笑。
「新城家には、真上家では失伝した技が伝えられていてね。真上家の危機に役立てていただいたという訳だ。君は知らなかったかもしれないが、近ごろ、真上家の家計はだいぶ厳しい状況でね」
呆然として目を見開きながら、宵子は春彦の言葉を聞き、そして理解した。屋敷を偉い方」が訪れた時に漏れ聞いたことの、本当の意味を。
(真上家の犬神の力が頼られるような事件を起こして──それを、自らの手で解決してみせる……? それによって、ご褒美をいただく……?)
「偉い方」には、犬神様の力がまだあるかのようなもの言いをして。いかにも自信たっぷりに振る舞って。殺された少女は、あんなにも無残な姿になってしまったのに。街の人々は、あんなに怯えていたのに。
(ひどいわ……!)
驚きよりも先に、宵子の胸に込み上げたのは激しい怒りだった。声に出して非難することこそできなくても、拳を強く握り、唇を噛み締め、春彦をきっ、と睨め上げる。
「なんだその目は。娘が親に逆らうのか」
宵子を叱りつけたのは、ふたつ目の洋燈を携えていた人影──宵子の父の、真上子爵だった。娘の反抗的な態度が許し難い、というように宵子を睨みつつ、横目でちらちらと黒い犬の様子を窺っている。
春彦や暁子と距離を取った位置に陣取っていることといい、父も黒い犬を恐れているようだった。
(お父様。どうしてこんなことを。許されないことです)
父は、犯した罪を恐れているのだと思いたかった。手柄を捏造するために何人も人を殺すなんて、間違っている。それを、本当は分かっているのだと信じたかった。
宵子が視線に込めた非難の色を読み取ってくれたのだろう。父は、気まずそうにそっぽを向いた。
「真上家は、犬神によって栄えた家だ。老いたからといって死なせるのは惜しかった……父の判断は間違っていたのだ。古くから続く家が絶えてはならんのだ。そのためなら、貧乏人のひとりやふたり──」
父は、罪悪感ゆえの言い訳を垂れ流そうとしていたのだろう。でも、宵子がそれを最後まで聞くことはできなかった。
「役立たずのひとりやふたり、でもありますね」
春彦の穏やかな声が響いたのとほぼ同時、黒い犬が後ろ脚で跳び上がって、父の喉元に噛みついたのだ。
「お父、様……?」
暁子が不思議そうに呟く間に、父は声を立てることもなく崩れ落ちた。ほとんど食いちぎられた父の首から噴き出す血が、雨のように宵子に降り注ぐ。それに、春彦の高らかな笑い声も。
「暁子と結婚して真上家を継ぐ──良いお話ではありますが、それまで待つ必要はどこにもないですよね? 当代の子爵が亡くなれば、すぐにも僕が後を継げるのに」
最初は熱いと思った父の血は、すぐに冷めて宵子の髪や頬や手足をべっとりと濡らした。
(お父様。なぜ。どうして)
父の手から落ちた洋燈が、異様な光景を下から照らし出していた。
いつもと変わらない笑みを浮かべた春彦の隣に、控えるように座った黒い大きな犬。その毛並みがしっとりと濡れて見えるのは、宵子と同じく父の血を浴びたからだろう。
洋燈の灯りは、暁子の影をも映し出している。
動かなくなった父に取りすがる双子の妹の影は長く引き伸ばされて、宵子には大げさな芝居のよう似も見えた。目の前で繰り広げられたことが現実だなんて、自分でも信じたくないのだろう。
「お父様……お父様! ──兄様! なんで!? なんでその子、お父様を……っ」
宵子が口に出せない疑問を声高く喚いて、暁子は黒い犬を指さした。
先ほどまでは、子犬のように大人しく暁子に撫でられていたのに。何人もの命を屠った恐ろしい犬は、今は父の血で濡れた牙を暁子に対して剥き出しにしている。
夜の闇そのもののような黒い毛皮を撫でるのは、今は春彦の指だった。たった今、父を噛み殺したばかりの獰猛さを見せたばかりなのに、少しも恐れる気配はない。
「犬神は、造った者に従う。当たり前のことだろう? これまでは、父上や君に従うように僕が命じていたというだけだ」
ぐるるるるる──
春彦の言葉を裏付けるかのように、黒い犬は暁子に向けて低く唸った。暁子の喉からひっ、という悲鳴が漏れて、そこに春彦のくすくすと笑う声が重なる。
「さあ、暁子。どうして君がこの場に呼ばれたのか分かるかな?」
春彦の問いかけと同時に、犬の前脚が一歩進む。血濡れた牙がそれだけ迫り、暁子は地面を這って逃げる。色鮮やかな振袖が血と泥に塗れるのが無残だった。
「しょ、宵子を食わせれば、その子が完成するって──犬神の力を取り込むって。きっとすごいことが起きるからって、だから……」
震える声で答える暁子には、嘘を吐いたり取り繕ったりする余裕はないだろう。だから──たぶん本当なのだろう。
(暁子。私をそこまで……?)
嫌っていた、というのはまた違うのかもしれない。
暁子にとって、宵子は姉妹でもなんでもなかったのだ。犬に食い殺させても心が痛まない。むしろ面白い見せ物になる。そのていどの存在だったのだ。
気付いてしまうと、宵子にはもう立ち上がる気力は残っていなかった。
下半身を濡らす不快な感触は、もしかしたら夜露だけでなく、父の血が生み出したぬかるみなのかもしれないけれど。すぐ傍で、おぞましく恐ろしい黒犬が牙を剥きだしているけれど。
宵子は、ただ、人形のようにぽかんと春彦を見上げ、暁子とのやり取りに耳を傾けることしかできなかった。
「実の姉が食い殺されるところを見物しようなんて悪い子だ。知ってるかな? ドイツ辺りでの昔話では、悪い子は狼に食べられるそうだ。犬神の呪いを負ってなくても、真上家の娘なら贄としては十分じゃないかな」
「わ、私……良い子にしているわ! 今夜のことも誰にも言わない! 兄様の言うことを聞くから……!」
暁子は、必死に後ずさりながら懇願した。春彦に取り縋りたいけれど、犬が怖くて近づけないようだ。
夜の闇に加えて、恐怖で視界が塞がれているのだろう。宵子がへたり込むすぐ傍まで来ているのにも、暁子は気付いていない。
「駄目だよ」
でも、春彦は違う。彼は、この場のすべてを把握している。優しい笑顔を向けられたことで、宵子はそう気付いた。
(兄様……!?)
暁子の訴えに首を振りながら、宵子に微笑みかけるのは、おかしい。とても嫌な感じがする。
その予感は、すぐに的中した。
「だって君はうるさいじゃないか。耳障りな声──ずっと、舌を抜いてやりたいと思ってた……!」
初めて、春彦の声と表情に苛立ちが浮かんだ。彼が鋭く吐き捨てた言葉に応じて、黒い犬が跳ねる。大きく開いた口が狙うのは──暁子の、首だ。
(駄目!)
宵子の身体は、辛うじて思い通りに動いてくれた。
「な──」
どさ、べちゃ、という音がして、暁子の身体が地面に倒れる。彼女の上に覆いかぶさった宵子の髪を、風のように駆け抜けた犬が揺らす。
(ま、間に合った……)
一秒でも遅れていたら、暁子は父のように首を噛みちぎられていただろう。
安堵──している場合ではないのだろうけれど。それでも、全身を冷や汗と脂汗が濡らすのを感じながら、宵子は息を吐いた。そこへ、ぱちぱちと、手を叩く音が聞こえる。
「暁子を庇うなんて、やっぱり宵子は良い子だね。静かで大人しい──都合の、良い子」
暁子を庇ったまま、肩越しに春彦を振り向く。すると、彼はやはりいつもの微笑みを浮かべていた。
いつも通りに見えるのに──なぜか、月の光でも洋燈の灯りでも拭えないどす黒い影が、彼の顔を覆っている気がしてならなかった。朗らかな声も、毒々しい悪意とか嘲りが滲んでいるような。
「真上子爵は、人喰い犬を退治しようとして返り討ちに遭った。暁子嬢も同様に。だから、遠方で療養中だった宵子嬢を呼び寄せて、この僕と結婚させて家を繋ぐ。どこからも文句は出ないだろうね」
宵子と暁子が息を呑む微かな音が、重なった。双子でありながら、同時に何かをするということは十年以上なかったというのに。
「……嘘。兄様。なんで」
暁子のこんな震える声も、初めて聞くかもしれない。
無理もない。
今までずっと甘やかされて、苦労も我慢もしてこなかった娘なのに。突然目の前で惨劇が起きた上に、信頼していた春彦に裏切られたのだから。
宵子と暁子。よく似た顔、よく似た背格好のふたりに向き合いながら、けれど春彦は宵子だけを見つめていた。手を差し伸べるのも、宵子に対してだけ。
「どうせ同じ顔なんだ。口が利けないほうが何かと楽だろう? 君は、私の傍で笑っているだけで良い」
そして、春彦が告げた言葉は、なんて残酷なものだっただろう。暁子だけでなく、宵子の心をも踏み躙る、とてもとてもひどい言葉。
(私にも……言いたいことは、あるのよ!?)
口が利けなくても、心がない訳ではない。
春彦から見れば、扱いやすい従順な子供に見えていたのかもしれないけれど──それが間違っていたことには、もう気付いた。
想いを文字にして綴ることの楽しさ。そのために学ぶことの大切さを、今の宵子は知っている。クラウスが教えてくれた。
(人形みたいに扱われるなんて、絶対に嫌!)
怒りを、身体を支える盾にして。宵子は暁子を背にして、両腕を広げて春彦と黒犬の前に立ちはだかった。
思い通りにはさせない。暁子を食い殺そうというなら、先に自分を──無言の決意を感じたのだろう、春彦は溜息を吐きながら肩を竦めた。
「無駄なことを。怪我をしないように下がっていなさい」
ざりっ、と。暗闇のどこかで犬が跳躍した音がした。どこから襲い掛かってきても、暁子の盾になれるよう、宵子は辺りを見渡そうとした。
でも、できなかった。
「宵子。なんであんたが……!」
守っていたはずの暁子が、宵子の寝間着の背中を掴んで、強く引き寄せ、そして突き飛ばしたのだ。
(……え?)
目を見開いた宵子の視界に、鋭い牙がずらりとならんだ真っ赤な口が映った。宵子を呑み込んでしまいそうなくらいに大きな口。舌は長くだらりとして、涎をまとってぬめぬめと光って。
何がなんだか分からなくて。立ち竦む宵子の耳に、暁子の喚き声が刺さる。
「宵子の癖に! 私の、盾になりなさいよ……!」
牙が迫るのが、やけにゆっくりと見えた。暁子を狙って跳躍したであろう犬は、苦衷では体勢を変えることもできず、まっすぐに彼女に突っ込んでくる。
(……なんだ)
暁子は、宵子よりも犬の動きをよく見ていたらしい。
宵子が庇っても何とも思わず、手近なところに盾があるとしか思わなかったらしい。
土壇場だからか、力もずいぶん強くて、宵子を軽く振り回せるようだし。
では、宵子は無駄なことをしたようだ。
驚くよりも怯えるよりも、無性におかしくて。宵子が唇を引き攣らせた時──銀の光が、放たれた矢の速さで飛び込んできた。
ぎゃん!
今にも宵子の身体を押し潰しそうだった巨体が、銀の光に弾き飛ばされて悲鳴を上げる。
(貴方……!)
瞬くと、銀の毛並みが月の光に輝いていた。しなやかな四肢を、一点の染みもない美しい毛皮が覆っている。三角の耳は油断なくぴんと立ち、宝石のような青い目は鋭く、起き上がろうとする黒犬を睨みつけている。
流星と見紛う銀の疾風は、いつかも宵子を助けてくれた、銀色の大きな犬だった。
がるるるる──
銀の犬は、威嚇するように低く唸ると、黒い犬に飛び掛かった。
そのしなやかな身体が描く軌跡は、鋭い白刃を振り抜いたよう──でも、尖った三日月のような牙は、虚しく宙を噛むだけだった。ほんのわずかな間に、黒い犬も体勢を立て直し、毛皮と同じ色の闇の中へ飛び退っていた。
(どうして、ここに……!?)
恐ろしい人喰い犬の牙は、とりあえずは遠ざかった。でも、宵子が安心することなんてできない。
この綺麗な銀の毛皮の犬は、医者のヘルベルトに飼われているはずだ。こんなところで怪我をしたり──まして死んでしまったら、あの人は悲しむだろう。
いったいどうして助けてくれたのかは分からないけれど、どうにか逃がしてあげなければ。宵子は、そう思ったのだけれど──
「シャッテンヴァルト伯爵か!? これはまた──洒落た格好でお出ましですね!」
夜空に高らかに響く春彦の笑い声に、目を見開いた。
「伯爵、様……?」
銀の犬が現れた時の風圧で尻もちをついていた暁子も、信じられない、といった調子で呟く。
驚きを露にした双子に対して、春彦は得意げに教えてくれる。
「シャッテンヴァルト伯爵家は、狼の血を引いていると噂されていると言っただろう? あれは、宵子にだけだったかな──まあ、どうでも良いが。よく見てごらん。あの青年と同じ銀の髪──毛皮に、青い目だろう? 犬神を操る家があるなら、狼に化ける一族だっているだろうさ」
「嘘……そんな、化物……」
暁子の声に、嫌悪と恐怖が混ざった。銀の耳の犬がぴくりと動いて、首から背にかけての毛皮がぶわりと逆立つ。
「──っひ」
青い目に射るように貫かれて、暁子が小さく悲鳴を漏らした。そして、口元に手をあてたまま、ゆっくりと地面に崩れ落ちる。
立て続けに危ない目に遭ったところに、大きな獣に睨まれたのだ。精神が限界を迎えたのだろう。
暁子が頭を打たないよう、慌てて支えながら、宵子は銀の犬──ううん、狼をまじまじと見つめた。
(クラウス様、なの……?)
二度も助けてもらったこの子のことを、どうして怖がったりするだろう。
それに、以前は気付かなかったのが不思議なくらい、神々しいほどの美しい毛並みのその狼がまとうのは、クラウスとまったく同じ色彩だった。
何より、彼は暁子の化物、という言葉に反応して怒ってみせた。
(そうよ。あの時だって)
宵子とヘルベルトのやり取りを理解していたとしか思えなかった。それは、とても賢いからではなくて──銀色に輝く毛皮の下に、人間の理性と知性を宿しているから、なのだろうか。
銀の狼の青い目と見つめ合いながら。宵子はしばし、考え込んでしまっていた。
鹿鳴館で円舞曲を躍った時。
地下室から助け出してもらった時。
彼の屋敷で、間近にお互いの国の言葉を教え合った時。
クラウスとは、もう何度も目を合わせている。彼の優しさ、頼もしさ、礼儀正しさ──それに、控えめな好意もあると、思う。
色が同じだけでは絶対にない。銀狼の眼差しは、確かにクラウスと同じ感情を宿している。
真夜中で、周囲は荒れた庭で。人喰い犬が闇の中に身を潜めていて、辺りには血の臭いさえ漂っているのに。
宵子は、何もかも忘れて狼の──クラウスのほうへ駆け出そうとしていた。でも、彼女の進もうとした道筋を、音もなく飛び出した黒い犬が遮った。宵子の手が届く前に、クラウスも素早く跳躍して敵の爪と牙を避ける。
二匹の大きな獣の動きが巻き起こした風圧で、宵子は軽くよろめいた。そこへ、春彦の嘲り笑う声が響く。
「怖がっては可哀想だろう、宵子。伯爵は君を助けに来たんだから。ずいぶん惚れられているじゃないか。……もしかしたら、番にでもしようと思ってたのかな」
宵子が立ち竦んでいたのを、怯えているからだと決めつけているらしい。
(私の気持ちを、勝手に決めつけないで……!)
はっきりと言ってやれないのを心底悔しく思いながら、宵子は春彦を睨んだ。
この人のことを優しいだなんて思っていたのは、間違いだった。それなりには気にかけてもらっていたと思っていたけれど、見せかけだった。
春彦は、宵子のことを何も分かっていない。知ろうともしていない。
兄のように慕っていたのが、こんな男だったなんて。
「僕としても、妻を渡すつもりはないけどね。──やれ!」
歯噛みする宵子に軽く微笑んでから、春彦は鋭く命じた。邪悪な計画がすでに成功したかのように、夫面するのも気持ち悪いし腹立たしい。
それに、何より。春彦の声に応じて、黒い犬は再び牙を剥いてクラウスに襲い掛かっている。
(クラウス様……!)
宵子の目の前で、すさまじい死闘が演じられていた。
月光を纏って輝く銀の毛皮と、闇を凝らせたような漆黒の毛皮。
宝石のように涼やかな青の目と、火のついた石炭を思わせて熾る紅い目。
対照的な色の二頭の獣が、ぶつかり合い、交錯する。どちらのものともつかない唸り声が響き、鋭い牙が闇に煌めく。
争いに使われるのは、爪と牙だけではなかった。
片方が身体で抑え込もうとしては、もう片方は素早く転がって避ける。黒い影が跳んだと思うと、銀の閃光が着地点を狙って走る。
巨大な体躯と強靭な筋肉を兼ね備えた二頭の攻防は一進一退で、宵子は息をすることも忘れていた。
時おり、銀色の毛が雪のように宙に舞うたびに、彼女自身に牙が迫ったように身体が強張ってしまう。
何度も地面に転がり、木の幹に叩きつけられるうち、クラウスの毛皮は汚れてしまっている。それは泥の汚れであって、流血ではないと信じたいけれど──暗い中、絶え間なく動く彼が無事なのかどうか、宵子の目では分からない。
(前も、あの犬を追い払ってくれたもの。負けたりしない……!)
声を張り上げて、声援を送ることができないのがもどかしかった。
宵子がこぶしを握り締めていること、必死の表情でクラウスを見つめていることに気付いて欲しいと切に願う。
でも、いっぽうでは、彼女に注意を向けて黒犬に隙を見せてはいけない、とも思う。
見守ることしかできない恐ろしい時間が、どれだけ過ぎたのだろう。とうとう、クラウスは黒い犬を自らの身体の下に組み敷いた。
きゃいん!
甲高い悲鳴は、黒い犬の口から漏れたもの。
敗者の哀願さえ噛み砕こうとするかのように、クラウスは大きく口を開け、牙を剥き出した。
(やった……!?)
一秒後には、忌まわしい人喰い犬は喉を食いちぎられている。そうなることを、宵子はほぼ確信していたのに──
ぎゃん、がっ──
突然、クラウスが咳き込んだ。かと思うと、その口から黒っぽい液体が吐き出されて美しい毛並みを汚す。黒──あるいは、濃い、赤?
色ははっきりとは見えなくても、どろりとした粘りつくような質感なのは、分かってしまう。
(何なの……!?)
息を呑んだ宵子に、春彦がすかさず教えてくれる。彼女が驚きの表情を見せたのが、楽しくて堪らないとでもいうかのように。
「先日、伯爵が真上家を訪ねた時に、ね。出した茶に蟲毒を入れておいたんだ。宵子──どうも君を探していたようだったからね、上の空で飲んでくださったよ!」
春彦の愉悦と嘲笑は、黒い犬にも力を与えたようだった。先ほどまで地に這わされていたそいつは、身体を翻すと、血とも泥ともつかないものを吐き出して苦しむクラウスに飛び掛かった。
クラウスは、辛うじて黒い犬の牙を逃れた。けれど、その動きに先ほどまでの俊敏さはない。
銀の狼はよろめいて──すぐに黒い犬に追いつかれてしまう。黒い犬の牙が突き立てられて、眩いはずの毛皮を汚す染みは、傷口から溢れた血だ。
噛みつかれたクラウスは、悲鳴の代わりにまたも黒っぽい粘液をごぼりと吐き出した。
明らかに異様な光景を、クラウスの窮地を目の当たりにして、宵子の肌は総毛だった。
(蟲毒って……!?)
その言葉の意味は分からなくても、不吉な響きを帯びていることだけは嫌というほどよく分かった。
宵子の疑問には、春彦が答えてくれる。
「無数の毒蛇や毒虫を壺に閉じ込めて、食い合わせた後に残った毒と怨みを使った術だ。暗殺なんかに便利なんだが……ドイツ人にも効くんだな。良かった」
微笑み掛けられたところで、宵子は何も言うことができないのを、よく知っているはずなのに。あるいは、非難も糾弾も返ってこないからこそ、だろうか。
「筋書きは、こうだ。僕と真上子爵は、帝都を騒がせた人喰い犬を退治する。子爵の尊い犠牲のお陰で、犬──狼に手傷を負わせることに成功する。『人喰い犬』が退治されたと同時に、狼の血を引く伯爵が怪しい死に方をしたら──まあ、そういうことだと思ってもらえそうだろう?」
春彦はとても饒舌だった。父に従い、暁子の機嫌を窺ってきた年月、彼も鬱憤を溜めていたのかもしれない。相手の心の中を知ろうとしなかったのは、宵子も同じだったのかもしれない。
「 その化物が飛び込んで来た時は少々驚いたが──すべて、計画通りになりそうで良かったよ!」
でも、許せなかった。
(そんなこと、させない……!)
クラウスを害することも、たくさんの少女たちを襲った罪を、彼に押し付けることも。とても優しい彼のことを、化物だなんて呼ぶことも。
だから宵子は、恐怖を振り払って躊躇いなく走った。
ちょうど、黒い犬はクラウスに圧し掛かるべく、地に倒れた彼から身体を離したところだった。
銀色と漆黒──二頭の獣の間にできた隙間に、宵子は素早く滑り込む。
(ああ、なんてひどい……!)
クラウスの身体を抱き締めると、毛皮の下では心臓が恐ろしいほど速く脈打っていた。耳元に聞こえる息も荒いし、この距離に近付けば血の臭いも濃いのが分かる。
こんなにも深手を負って、毒まで呑まされて。それでも、クラウスは宵子を案じてくれているようだった。
ぐるるる……!
銀の狼は、宵子の腕の中で低く唸り、もがき、逃れようとしている。かっ、と見開かれた青い目は、危ないから離れろと言葉より雄弁に語っていた。
「……どきなさい、宵子。君の身体に傷を残したくはない」
でも。クラウスがどれだけ暴れても。春彦が、脅すように声を低めても。宵子は腕の力を緩めなかった。
傷を残したくない、だなんて。宵子を思い遣ってのことではないのだ。妻にするつもりの娘に醜い傷痕があるのは嫌だ、という勝手な魂胆に違いない。
(脅かされて、従ったりはしないわ……!)
犬神様の祠は真上家の庭の片隅にある。母屋からは、木々に隠れて見えないだろう。
それでも、父や暁子の姿が見えないことを、誰かが不審に思ってくれるかもしれない。
宵子が声を上げることはできなくても、野犬とは思えない遠吠えを聞き咎めて、様子を見にきてくれるかもしれない。
たとえ儚い望みでも、諦めない。一秒でも長く、時間を稼ぐのだ。
決意を込めて、宵子はクラウスを抱き締め、春彦を睨みつけた。
「悪い子だ。躾が、必要なようだ……!」
絶対に退いてはいけない。
たとえ、春彦の声が剣呑に尖り、黒い犬が、燃える赤い目で宵子を捉えても。
(怖くない。怖くないわ……!)
クラウスの危機に、何もできないこと。彼を目の前で失うこと。
それに比べれば、春彦の怒りも黒い犬の牙も恐ろしくない。
がるるっ!
黒い犬は身体を低くして唸ると、矢のように突っ込んできた。
巨体が跳んだ時の風が、髪を乱す。黒い影が、鋭い牙が、一秒もしないうちに宵子に届く。
痛みと衝撃を覚悟して、宵子はぎゅっと目を閉じて身体を強張らせる。盾になってくれようとしているのだろう、腕から逃れようともがくクラウスを、身体全体を使って庇いながら。でも──
宵子の首元で、何かがぴしり、とひび割れる音がした。ずっと嵌められていた枷が、砕け散ったかのような。
(……何なの?)
恐怖と緊張で強張っていた宵子の頬を、何か温かいものが撫でる。少し硬い、毛皮の感触。お日様の匂い。とても懐かしい気配。腕の中にいるクラウスとも違う、この温もりは──
(犬神、様?)
思わず目を開けると、宵子の視界をふさふさの白い尻尾が駆け抜けていった。
幼いころに、毎日のように触らせてもらったものだ。機嫌良さそうにゆっくりと振られるのを、ずっと眺めていた。
十年近く前に見たきり、もう二度と会えないと思っていたのに。最後に見たのは、宵子の喉に食らいつく恐ろしい姿だったのに。
どこからともなく現れた、としか思えない真上家の本来の犬神は、一直線に春彦を目指して跳ぶ。
黒と白と。新旧の犬神、忌まわしい目的のために造られたものと、古くから崇められたものは空中で交差する。
「な──」
白い犬神は、目を見開いて、立ち竦む春彦の首に噛みついた。先ほど、黒いほうが父にしたのと同じように、血しぶきが上がって満月を翳らせる。
ぎゃんっ!
宵子たちに飛び掛かる黒い犬は悲鳴を上げて空中で身体をよじった。まるで、主である春彦の痛みを我が身にも感じているかのように。──その隙を、クラウスは見逃さない。
宵子の腕をすり抜けて、銀の狼はしなやかに跳んだ。何度も身体をぶつけ合い、牙を剥き合った相手を、今度こそ捉えるために。
クラウスの牙が、黒い犬の喉笛にしっかりと食い込み、巨体を地面に引きずり倒した。
黒い犬は、クラウスに圧し掛かられて地に縫い留められた後も、しばらくの間もがいていた。でも、みるみるうちに身体は小さくなり、しかも萎びていく。
何度か瞬きをした後、そこに残っているのは干乾びた犬の死体だった。春彦の術で動かしていただけで、実はもうとっくに死んだ犬が、無理矢理に動かされていたのかもしれない。
ゥアオオーーーオォーン!
敵を片付けても、クラウスの闘志はまだ収まっていないようだった。月を仰いでの遠吠えが、宵子の肌をぴりぴりと震わせる。
ひとしきり吼えた後に、クラウスは宵子をきっ、と睨んだ。宝石のように澄んだ青い目が、今は荒々しい光を宿して燃えている。
でも──宵子が彼を恐れることは、やはり、ない。
クラウスは、春彦が言ったような化物ではない。優しい人だと、信じているから。
だから、興奮を現すように全身の毛を逆立てて唸る彼に、無防備にに歩み寄ることだって、できる。目の高さを合わせるために跪き、そっと手を差し伸べる。
(助けてくれて、ありがとうございました。無事で、良かった……!)
血なのか、泥なのか、蟲毒とやらの残滓なのか。
クラウスの毛皮をべったりと汚す色々なものを手指で梳き取りながら、宵子は彼を抱き締め、撫でた。
いつかの夕暮れに助けられた後に撫でさせてもらってから、ずっとまたこうしたいと思っていたのだ。それが、思わぬ形で叶ったことになる。
(ヘルベルト先生は、きっと何もかもご存知だったのね……?)
いずれまた会える、だなんて惚けていたに違いない。本当は、とっくに再会していたのに。
(落ち着いて。早く、怪我の手当てもしないといけません)
美しい毛並みに触れる喜びと、激しい戦いの痕跡の痛ましさ。両方の想いに胸が締め付けられるのを感じながら、宵子はクラウスの目を見つめて、手を動かした。
そうするうちに、気持ちが落ち着いたのだろうか。クラウスの呼吸は、段々と静まっていった。疲れや痛みも押し寄せたのかもしれない。銀色の大きな狼に凭れられて、宵子は危うくよろけそうになった。
──宵子。
でも、そんな彼女の背を支えてくれる存在がある。
鼻先で宵子に触れてきたのは、クラウスの眩い銀色とはまた少し違った色合いの、雪のような純白の毛皮の狼。ううん、より相応しい呼び方を、宵子は知っている。
(犬神様……?)
呪いで声を封じられた恐ろしさよりも、幼いころに遊んでもらった懐かしさが勝った。それに、どうして今、ここに、という不思議さが。
首を傾げてぽかんとしてしまった宵子に、白い犬神は口を開いて笑ったような表情を見せた。
──ここにいる我は影のようなもの。本体はとうに朽ちている。かりそめの肉体を失い、思念だけの存在になったからこそ、言葉を伝えることもできる。お前の頭に直接語り掛けている、とでも思えば良い。
言われて(?)みれば、宵子は何の疑問もなく犬神様からの呼び掛けに振り向いていた。
(昔も、おしゃべりしたかったです……)
何の憂いもなく幸せだったころを思い出すと、胸がつんと痛んだ。でも、犬神様の言葉によると、あの時は無理だった、ということなのだろう。
宵子を労わるように、犬神様は軽く下げた頭をこつん、とぶつけてくれた。
大きい身体の割に伝わる感触が軽いのは、やはり影のような存在だから、なのかもしれない。
──お前には辛い思いをさせたな。だが、あの時、我には見えたのだ。我が命が長くないこと、真上家の跡継ぎと新城家の末裔が良からぬことを企むこと。……お前が、異国の狼に出会うこと。
犬神様の金色の目が、クラウスを捉えて微笑んだ。獣の姿でも、思いや表情がはっきりと伝わるのが、不思議なほどだった。
──ゆえに、どんな形でもお前の傍にいてやらねば、と思ったのだ。我が死んでも、お前から声を奪うことになっても。今、この時まで、我が影をどうにか残してやらなければならなかった。
犬神様の耳がしょんぼりと垂れるのを見て、宵子は慌てて首を振った。
(そんな。お陰で助かったんです。私も、クラウス様も……! 声のことだって──)
呪われたと言われて。言葉を発することができなくて。
辛い、寂しい思いをしたことは、確かにあった。
でも、だからこそより強く、クラウスに想いを伝えたいと思えた。そもそも、彼と出会えたのも、暁子の言いつけがあってのこと。犬神様は、宵子とクラウスをひき合わせてくれたのだ。
宵子の想いが伝わったのだろうか。犬神様の耳が、ゆっくりと立ち上がった。
すりすりと首筋をすり寄せてくれるのは、すまなかった、ありがとう、の想いを込めてのこと。これも、言葉がなくても伝わってくる。
──異国の若い狼よ。
と、犬神様の金の目がクラウスに向けられた。
年長者に敬意を払うかのように、クラウスは畏まってちょこんと座っている。彼に対する犬神様の眼差しも、教師が生徒を見守るような、優しく威厳に満ちたものだった。
──我も、元はそれと似たようなものだった。人に殺された獣の霊が、血と怨みを糧にかりそめの姿を得て、操られるがままになっていた……。
息絶えた黒い犬の残骸をちらりと見て、犬神様の毛並みが少し波立った。
(真上家のご先祖は、やっぱりひどいことを……?)
宵子の強張った頬を、犬神様の舌が慰めるようにぺろりと舐める。──その、仕草をした。これもまた影だからなのか、濡れた感覚がしないのが寂しかった。
──だが、年を経るうちに変わったのだ。我を利用するだけでない、感謝する者も崇める者も現れて──だから、やがて理性も知性も得た。
身体の軽さや舌の感触のなさだけではない。犬神様の白い毛皮を透かして、夜の庭園が見えることに気付いて、宵子は目を瞠った。クラウスも、驚いたように三角の耳をぴくぴくさせている。
──だからその血を恥じることはない。ただの獣でも、やがて神と呼ばれるようになれたのだから。まして人として生まれたならば、心がけと──伴侶次第で、荒ぶる本能を抑えることもできるだろう。
ひとりと一頭の視線を浴びながら語るうちに、犬神様の身体の色はますます薄く淡く、そして、透けて見える夜の闇は濃くなっていく。実体はもう朽ちていると言った通り、影が長くこの世に留まることはできないのだろうか。
(待って。行かないで……!)
止めようと伸ばした腕は、けれど虚しく宙を抱くだけだった。
宵子はきっと泣きそうな顔をしていたのだろう、犬神様は、今度は彼女の目元を舐めてくれる。
──悲しむことはない。自然なことだ。我にとっても……お前に声を返してやれるから……。
頭に響く声さえ、次第に微かなものになっていって。そして、最後には消えてしまった。
瞬きをすれば白い残像がちらつくけれど、それもすぐに薄れてしまう。
気付けば、夜のただ中、月の光の下で、起き上がっているのは宵子とクラウスだけになっていた。
少し視線を巡らせれば、父と春彦が無残な姿になっている。暁子も、早く介抱してあげなくては。でも──これはふたりきり、なのだろうか。
(えっと……どう、すれば……?)
次の行動を決めかねて、思考停止してしまった宵子の傍らで、クラウスがぼそりと呟いた。
「貴女からは、同族の匂いがすると思っていたんだ。今の犬──狼? の気配だったんだな……」
その声に応えようと彼に向き直って──宵子は、一瞬で頭が沸騰する思いを味わった。
「──ひゃ」
だって、クラウスは完全な裸だったのだ。闇に浮かび上がる、彼の白く滑らかな肌。しなやかな筋肉を纏っているのは、踊った時には気付いていたけれど──何も着ていない時に見てしまうなんて、心の準備ができていない。
(毛皮も! とても綺麗だったけど!)
慌てて背を向けても、はしたないと思っても、クラウスの裸の胸は目に焼き付いて離れてくれなかった。彼にとっても気まずい事態だったのだろう、背後から狼狽える気配が伝わってくる。
「す、すまない。狼の姿でいるのも限界で……その、肩掛けを貸してもらえると、助かる……」
もちろん、絶対に必要なことで、願ってもないことだった。だから、宵子は黒い犬に攫われた時からどうにか羽織ったままでいられた肩掛けを、肩越しにクラウスに渡した。
しばらくごそごそと動く音と気配がして──たぶん、肩掛けを腰に巻き付けるか何かして、安心したのだろう。クラウスが、明るい声を上げた。
「貴女の声を、やっと聞けたな」
言われて、宵子はやっと気付く。クラウスの裸を見た時、思わず悲鳴を上げていたこと。
九年振りに使った喉は、言葉にならないひと声だけで、もうひりひりと痛む気配がしていたけれど。最初に聞いてもらうにしては、とても情けない響きだったけれど。
でも──宵子は、声を出せるようになったのだ。
犬神様の呪いが解けたから。ううん、そもそも呪いなんかではなかった。あの方は、宵子を心配して、守れるように機を待っていただけだった。宵子は、嫌われてしまった訳ではなかったのだ。
「え、ええ。ええ……!」
錆びついていた舌と喉を必死に動かして、宵子はどうにか頷いた。込み上げる涙を堪えながらだったから、掠れてひび割れて、それはひどい声だった。人魚の歌なんてとんでもない、蟇蛙のようだとさえ思うのに──
「本当に良かった。貴女と語りたいことが沢山あるんだ……!」
クラウスの声は喜びに満ちていた。宵子を背中から抱き締める腕も力強くて。薄い寝間着越しに感じる肌の熱さ、筋肉のしなやかさはあまりにも生々しい感覚で。宵子に、余計なことを思い出させてしまう。
(──あれ。私、狼の姿であんなに撫でたりして──あんなところ、も……!?)
真っ赤になった彼女を腕の中に閉じ込めて、クラウスが耳元に囁く。
「どうか振り向かないで。その……裸だから。嫌だったら離れるが! でも……嬉しくて、離したくない。……嫌、か?」
嫌なはずはない。でも、口に出すことはできない。声の出し方を、まだ完全に思い出した訳ではないし──何より、恥ずかしいから。
(いいえ! どうか……ずっとこのままで……)
だから宵子は無言のまま、必死で首を振ることしかできなかった。
あの後──真上家の住人たちは、突然泥と血に塗れて現れた宵子の姿に仰天し、さらに彼女が声を取り戻したことを知って絶句していた。
さらに、彼女の説明によって庭の片隅で起きた惨劇を知らされることになった彼ら彼女らの恐怖や衝撃、動揺は察するに余りある。
何より、夫の遺体に取りすがって涙する子爵夫人──母の姿を見るのは、宵子にとっても辛かった。
母にしてみれば、彼女は徹頭徹尾、忌まわしい呪いの子だっただろう。夫が亡くなったのは宵子のせいだ、と考えても無理もないことだった。使用人が持ってきてくれた着物を纏ったクラウスに支えてもらわなかったら、まともに立っていることはできなかったかもしれない。
夜明けと共に駆けつけた警察に対して、どう説明するかも悩ましいところだった。使用人たちに聞いても、父と春彦の企みを知っている者は誰もいなかったから。クラウスに蟲毒入りの茶を呑ませた者も、そうとは知らされずにやっていた、ということらしい。
でも、幸か不幸か、父たちは書斎の机に書付を残していた。
恐らくは、計画が首尾良く運んだ後、公に報告する内容をあらかじめ準備していた、ということなのだろう。その内容は、次のようなものだった。
帝都を騒がせる「人喰い犬」は、この世の存在ではない、怪異の類である。
真上家に伝わる術と犬神の力を使って居場所を突き止め、祠におびき出す算段を整えた。娘の暁子も、囮としてその場にいることを了承してくれた。
すでに数多の命を喰らった怪異は強敵であり、真上子爵も春彦も、決死の覚悟で臨まなければならぬであろう。しかし、帝都の安寧を取り戻すためにも喜んで身命を投げ出すものである──
真相を知っている宵子とクラウスにとっては、図々しいことこの上ない偽り、建前の物語でしかない。
でも、実際に起きた出来事は、見た目の上では《・》父たちの書付に沿ったものでは、あった。
つまり──父と春彦は、人喰い犬との激しい戦いの結果、相討ちとなって命を落とした。
ふたりの無残な遺体と、干乾びた犬の死体を発見した警察は、そのように考えたのだ。
もうひとりの証人も、その推測を裏づけた。気絶から目覚めた、暁子のことだ。
暁子は、何があったかを問われても、こう繰り返すだけだった。
『言えないわ。言ってはいけないの。殺されてしまう。黙っているから! お願い、殺さないで……!』
暁子は、春彦に脅された恐怖に心が捕らわれたままになってしまった。でも、それを知っているのは宵子だけ。
聴取にあたった警官や母からすれば、人喰い犬に襲われて、目の前で父や婚約者が殺されて、さぞ恐ろしい思いをしたのだろう、としか見えなかっただろう。
なお、宵子とクラウスの存在については、病弱な宵子をドイツの医学で診てもらうために彼に預けていた、ということになった。真上家を訪ねた時に彼自身が語ったことを、流用した形だ。
そうして、彼の屋敷に滞在していたところ、宵子はあの黒い犬に攫われた、と──嘘と真実をほど良く混ぜると、とてももっともらしく聞こえるのだと、疑う様子のない警官たちを前に宵子は学んだのだった。
とりあえず、世間が納得するであろう説明は、整った。
そこで、本当のことを打ち明けるべきか否か──宵子とクラウスは、何度も密かに話し合った。
何人もの少女を犠牲にしてきた父たちを、人喰い犬を退治した英雄として語られるままにして良いのかどうか。
でも、真実を語ったところで、父も春彦もすでに命を落としている。死者を罪に問うことはできないし、そもそも術の類を裁く法は明治の世にはない。
父たちの計画を知らせる──あるいは思い出させることは、母や暁子の心にさらに負担をかけることになってしまうだろう。真上家の使用人たちも、世間から後ろ指をさされることになってしまうかもしれない。
考えた末に、宵子は真実は秘めたままにしておく、と決めた。でも、それは父たちのせいで失われた命を顧みないということでは、ない。
「お父様と兄様の罪は、私が償おうと思います。真実を知る真上家の末裔としての責任です」
宵子の決断に、クラウスは良いとも悪いとも言わなかった。彼女の決断を尊重すると、最初から決めていてくれたのだろう。
だから、なのか──彼はただ微笑んで言っただけだった。
「ならば、俺は貴女を支えよう。いつまでも、ずっと」
それはつまり、彼は祖国を捨てるということ。彼にとっての異国の地で生涯を過ごすということ。
なのに、彼の笑顔は曇りなく、言葉には欠片の躊躇いもなかった。
信じられない。信じても良いのか、彼にそこまでさせて良いのかどうか。
(クラウス様……本当に……?)
喜びよりも驚きと不安が勝って、宵子はすぐに頷くことができなかったのだけれど。
「俺が、そうしたいんだ。……貴女には、迷惑だろうか」
青い目がわずかに翳るのを前に、疑ったり遠慮したりすることこそクラウスへの非礼になると気付かされて。宵子は彼の胸に飛び込んだ。
「いいえ! とても……とても、嬉しいです。どうか、離れないで。わ、私の……傍にいて、ください!」
長いことをしゃべるのにも慣れてきたころだったから、宵子はどうにかひと息に、つかえることなく言い切ることができた。
「……そうか。良かった……!」
鍛えた肉体のしなやかさと逞しさは、彼女を苦もなく受け止めてくれる。あの夜に何も着ていないところを見ているからこそ、思い切り身体を預けることができた。
クラウスの温もりと力強さに包まれて、宵子はこの上ない幸せを味わった。
* * *
今の真上子爵家は、どこか閑散としてしまっている。
まず、住人の数がとても少なくなってしまった。
父が亡くなっただけでなく、母も、暁子の療養に付き添って地方の別荘に移ったのだ。もちろん、ふたりの世話のために、それなりの人数の使用人が屋敷を離れることになった。
世間には宵子がそうしている、と説明していた通りの境遇に、入れ替わるように暁子が収まったのは、皮肉なことかもしれない。
(お母様にとっては……暁子だけが娘なのかしら)
宵子の胸を、一抹の寂しさがちくりと刺すけれど、深く思い悩む暇がないのが救いだった。
何しろ、父が亡くなり、母と暁子が屋敷を離れた今、真上家の家政に関する何もかもは宵子の肩にかかっている。
母と暁子に従った者たちだけではない。庭で起きた惨劇に怯えて屋敷を辞した者もいれば、単純に父の死によって仕事がなくなり、退職してもらわなわなければならなくなった者もいる。
彼ら彼女らに退職金や、できれば次の働き口を紹介したり。残ってくれた者たちに、改めて仕事を割り振ったり。
ほかにも、警察に対する説明や、財産の相続の準備を整えたり。ここしばらくの宵子は、目が回りそうな忙しさだったのだ。当然のように人と話す機会も多かったから、長らく使っていなかった喉を鍛え直すことができたのは良かった、だろうか。
(でも、やっと一段落ついたわ……!)
調度の類もずいぶん減ってしまって、広々とした応接間を見渡して、宵子は微笑んだ。
宵子が多忙だったもうひとつの理由が、真上家の家財道具や衣装や収集品の処分の手配だった。
真上家の家計が苦しいというのは間違いのない事実だということが分かったから、使用人たちの退職金などを捻出するために、価値のある品々を売り払わなくてはならなかったのだ。そのような品が残っていたのは良かったけれど、父は祖父から受け継いだ収集品などを手放すつもりはなかったことも判明したから、それはそれで情けないことではある。
(でも、これも償いの一環になるわ)
家財を売ってできたお金は、「人喰い犬」に殺された少女たちの遺族にも渡した。
早く事件を解決できなかったことのお詫び、としか言えないのがとても心苦しいけれど。その行動によって、真上家に世間から賞賛が寄せられるのも、正しいことではない気がするけれど。
それでも、何もしないよりはマシではないだろうか。一応は名家と言われる真上家との関係を作っておけば、今後も宵子が手を差し伸べられる機会もあるかもしれないし。
(お父様もお母様も暁子も……みんな、ここを出て行ってしまったもの。そんなにたくさんのものがあったって──)
寂しいような、すっきりしたような。不思議な気持ちで、宵子は何もない応接間を横切って窓辺に進んだ。警察が大勢出入りして、少し乱れてしまった庭を眺めようと。
絨毯を踏む彼女の履物は、今日は西洋風の踵の高い靴だった。纏う衣装も、やはり着物ではなく洋装だ。人に会う時は、このほうが気の強い女だと思われやすいから。
知らない人、立場や年齢が上の人と会う機会が増えた宵子の、ささやかな戦略だった。
「宵子。ここにいたのか」
と、彼女の背後で、こつ、と靴音が響いた。そして、ほかの誰のものよりも宵子の胸をときめかせる、低く優しい響きの声が。
「クラウス様……!」
その人の名を呼びながら、宵子はスカートの裾を踊らせて、くるりと振り向いた。
すると、部屋の入口にクラウスが佇んでいる。窓から入る陽光に銀の髪を煌めかせて。身体に合った仕立ての良い服で、すらりとした長身を引き立たせて。
穏やかな笑みを湛えた青い目は、真っ直ぐに宵子を──特に、彼女の左手の薬指に嵌められた指輪を見つめていた。
宵子とクラウスはお互いに歩み寄り、ちょうど応接間の真ん中で対面した。
(いつまで経っても、恥ずかしい、かしら……?)
クラウスを見上げる首の角度は、もうすっかり身体に馴染んだ。宵子が声を取り戻したことで、互いの国の言葉の上達もますます早くなって、会話にも不自由しなくなってきている。
それでもなお、彼の端正な顔を間近に見ると、そして、彼に見つめられているのを意識してしまうと、宵子の頬は熱くなってしまう。
真っ赤な林檎のような顔になっているだろうと思うと、顔を伏せたくなるのだけれど──クラウスは、許してくれないのだ。
「貴女の顔を、隠さないで欲しい。《《婚約者》》なのだから」
「は、はい」
両頬を彼の手で包まれて、顔を上向かせられる。
クラウスの指や掌の温もり。少し硬い感触。
青い目が間近に覗き込んで──形良い唇が微笑む時に漏らした吐息が、宵子の産毛をくすぐる。
(やっぱり、駄目……っ)
宵子は、ふるふると首を振ってクラウスから逃れた。一歩、二歩、後ずさって、整い過ぎた顔と距離を取る。
「す、少し離れてくださいっ。まだ、慣れなくて……!」
「……では、これは? 指輪を並べて見せて欲しい」
幸いに、クラウスは気を悪くした様子はなかった。
でも、だからといって宵子を解放してくれる訳でもなくて。熱い頬を押さえる宵子の手が、そっと取られて彼の掌に包まれる。
クラウスが言った通り──彼の長い指と、宵子の細いそれには、お揃いの金の指輪が輝いていた。
(これが、婚約の証……)
指輪を飾る小さな青い宝石は、クラウスの目の色でもあり、陽が沈んですぐ、昼の色をまだ残した空の色──宵の色でもある。
夫婦となるふたりが、指輪を交換する。
欧州の倣いを、宵子はクラウスに教えられて初めて知った。指輪を常に身につけること自体が彼女には慣れないことだけれど、彼が傍にいてくれると思えるのはとても素敵なことだと思う。
そう、宵子はクラウスに求婚されて、それを受けたのだ。
女に爵位を継ぐことはできないから、真上子爵家は父の代で断絶することになる。屋敷を去る使用人の中には、この家に未来がないと考えた者もいただろう。
宵子も、犬神様の祠を祀ってひっそりと生きていくのを覚悟しようとしていた。父たちの罪を思えば、真上家の最後を見届ける存在になるべきではないか、と思ったから。クラウスが──ヘルベルトも、たぶん──時々訪ねてくれるなら、それ以上のことは望んではならないのだろう、と。
でも、クラウスはこう言ってくれた。
『俺は──この血を恥ずべきものだと思ったこともある』
『そんな……』
あんなに綺麗な毛皮で、風のように駆けられるのは素敵なことだと思うのに。クラウスの卑屈なもの言いは、宵子を驚かせた。
『だが、あの犬神の言葉を聞いて考えが変わったんだ』
そんなことはない、と言おうとした宵子を遮って、クラウスは軽く笑った。そして、彼女の左手を捕らえて、薬指に素早く指輪を通したのだ。
ずっと傍にいてくれる、と言われたのが、単なる友人という意味ではなかったことに、宵子はその瞬間まで気付いていなかった。思えばずいぶん大胆なこともしたけれど、外国の流儀はそういうものだと思っていた──あるいは、そのように思い込もうとしていたのかもしれない。
『少なくとも、狼の血のお陰で宵子を助けられた。俺の先祖も、獣の姿で民を守ってきたそうだ。真上家も、本来はそうだったんだろう。……古くから伝えられる思いまで絶えさせることはない。共に繋げていくことはできないか……?』
クラウスの熱を帯びた声と眼差しは、宵子の思い違いを根底からひっくり返した。《《ふたりの》》将来を真摯に語ってくれたのだと分かった。だから──宵子は一も二もなく頷いたのだ。
──その時の記憶を噛み締めていたから、宵子がクラウスにずっと手を握られていることに気付いたのは、彼がくすくすという声を聞いてからやっと、だった。
「今度は逃げないんだな。良かった」
「お、思い出させないでください。意識すると、恥ずかしいから……」
「では、このまま少し話そうか」
宵子の頬の熱は、いつまでたっても冷めてくれない。しかもクラウスは手を握ったまま離す気配もなく、広々とした応接間を見渡すのだ。
「ずいぶん綺麗に片付いたな。……これだけ広いと、円舞曲を踊れそうじゃないか?」
「え、ええ。そうですね……?」
訳が分からないまま頷くと、クラウスは嬉しそうに微笑んだ。そして、右手を宵子の背に回す。舞踏の時に、男女で組む格好だ。
「最初に会った時のように、踊らないか」
「構いません、けれど……音楽もないのに、ですか?」
首を傾げながらも、宵子は右手を掲げてクラウスの左手を握る。すると、金の滑らかさが指に感じられた。
(クラウス様も、指輪……)
お揃いなのだ、夫婦になるから。
ときめきに燃える宵子の胸に、クラウスはさらに蕩けるような囁きで油を注ぐ。
「貴女の手を離したくないんだ。握り続ける口実なんだ、実のところ」
「……っ、は、はい! 喜んで……!」
全身に火のついた思いで答えながら、宵子は左手をクラウスの二の腕に添えた。
一、二、三──
口で拍子を数えながら、ふたりして踊る。鹿鳴館の夜会で出会った時よりもさらに、心が通じ合った今は軽やかに滑らかに足を運ぶことができる。
さすがに舞踏室よりは狭い室内だから、多少、控えめな動きではあるけれど──だからこそ、踊りながら言葉を交わす余裕もあった。
くるくると回りながら、宵子はさりげなく切り出した。
「クラウス様。また、狼の姿も見せてくださいね。クラウス様はいつも素敵で、気後れしてしまうのですもの。あちらのほうは──あの、可愛いですから」
ゆるやかな波のような円舞曲の歩調に紛れさせるのでなければ、とても言えないような大胆なおねだりだった。
(あの耳……毛並み……尻尾……!)
わくわくとした期待が、触れ合った手や身体から伝わったのだろうか。宵子をリードして、スカートの裾をふわりと舞わせながら、クラウスは苦笑した。
「そして、撫でてくれるのか? 可愛い姿でも中身は俺だが……それは、良いのか?」
彼に身体をゆだねて、美しく首と背をしならせる姿勢を取りながら、クラウスの顔を見上げながら。宵子は目を瞬かせた。
彼女の視界に映るのは、彫刻のように整った容貌の、麗しくも凛々しい貴公子。でも──白磁や磨いた大理石もかくやの白皙の頬が、今は赤く染まっている。
(……まさか?)
甘い言葉で赤面させられるのは、いつも宵子のほうなのに。
「もしかして、クラウス様も恥ずかしいのですか?」
思い切って尋ねてみると、ぼそりと拗ねたような早口が返って来る。
「好きな人に触れられたら、恥ずかしいし嬉しいに決まっている」
次に踏み出した彼の足幅は大きく、回転は早く。宵子の軽い身体は動きの波に乗ってぐるんと回った。その速さに壁紙の模様が溶けて混ざって、宵子は歓声を上げて笑う。
「クラウス様……速い、です!」
風に舞う花びらや雪片の思いで、宵子はしばし浮遊感を楽しんだ。
円舞曲とは、男女が互いに回ることで、ふたりの動きが組み合わさることで次の動きへと繋げるもの。
クラウスと手を取り合って、彼の回転に身を任せることで、宵子はほとんど力を入れなくてもくるくると回ることができる。まるで、空を飛んでいるかのように。
人生は、きっと舞踏のように楽しいだけのものではない。でも、ふたりで共に進むならきっと大丈夫。
(だって、こんなにも息が合って、心が通じ合っているんだもの……!)
観客も音楽もない、ささやかな舞踏会だった。でも、楽しくて満たされる。
このひと時は、宵子にクラウスと歩む未来の美しさと幸せさを確信させてくれた。
そして回転が止まった時──余韻でふらつきかけた宵子を、クラウスはしっかりと受け止めてくれた。彼女がちゃんと立てたのを確かめても、抱き留める腕は解けてくれなくて。青い目が宵子を覗き込み、形良い唇がそっと動く。
「──宵子。愛している」
「はい。私も」
思ったことをそのまま相手に伝えられるのは、なんて幸せで大切なことなのだろう。胸に込み上げる温かな想いを、宵子は大きく息を吸って、吐いて味わった。そして、そっと目を閉じる。──クラウスの整った顔が近づいて来るのをじっと見つめるのは、あまりに恥ずかしくて耐えられそうにない。
(物語なら、めでたしめでたし、で終わるところね……?)
クラウスの腕に力がこもるのを感じながら、宵子は夢のようなことをふと思う。
欧州のお伽話では、愛する人の口づけが呪いを解くものなのだとか。
宵子の呪いはもう解けたけれど、愛も口づけも不思議な力があるのは間違いない。
唇に温かく柔らかな感覚が触れるだけで、こんなにも幸せな気分に浸れるのだから。