ヘルベルトの診察結果を聞いたクラウスは、ひとまずは安心したようだった。医学の用語を交えたドイツ語のやり取りは、宵子がついて行けるものではなかったけれど。それでも、彼らの表情から察することはできる。
事実、話を聞き終えたクラウスは、晴れやかな笑みと共に日本語で伝えてくれた。
「異常がないのは何よりだ。心身の負担がなくなれば、変化があるかもしれないし。……貴女の声を早く聞きたいとは、思うが」
最後に囁かれた言葉が嬉しくて恥ずかしくて──そして、きっと彼女自身の声を聞いてもらうことはできないだろうと思うと申し訳なくて。俯きながら、宵子は小さな文字で綴った。
──きっと、暁子と同じような声だと思います。双子ですから。
クラウスは日本語が、宵子はドイツ語が。短い間でずいぶん上手くなったと思う。
せめて想いを伝えられたら、と思っていたころに比べれば、すぐそばに鉛筆を用意してもらえて、いくらでも紙を使わせてもらえる今の状況の、なんと恵まれていることだろう。
(だから、これ以上の望みなんてない……その、はずなのに)
なのに、クラウスはまだ満足しないのだという。もっと、を願ってくれている。青い目がしっかりと宵子を捉えて、涼やかな声に熱意がこもる。
「あの娘と貴女が同じ声のはずがない。語る内容や声の調子が違えば、きっとまったく別の響きがするだろう」
彼は、心から宵子の声が聞きたいと願っているのだ。彼女自身も忘れてしまった声、クラウスが聞いたこともない声を、伝説に語られる人魚の歌のように称えてくれる。
──分かりません。もう何年も、声を出していませんから。
先ほどの文章の隣に綴った文字の線は、少し震えて歪んでいた。
クラウスから寄せられる想いは嬉しいけれど、隠しごとがある身では素直に受け取ってはいけないのではないか、と思ってしまう。
声を聞きたいという願いに答えてあげられたら、とも思うけれど、犬神様の呪いなんてどうやって説けば良いのか分からない。
何もかもが不確かで、どうすれば良いのか分からなくて。それが、申し訳なくて。
複雑な想いに手を縛られたような思いだった。
「それでは、私はそろそろ失礼する。宵子嬢の容態で何かあったらいつでも呼んでくれ」
「ああ、ありがたい」
だから──ヘルベルトが去るのを見送るために玄関広間に向かいながら、宵子は微笑むことしかできなかった。
尋ねることなんてできはしない。ヘルベルトが漏らしていたのはいったい何の薬なのか。クラウスに何か悪いところがあるのではないか、と。
* * *
その夜、宵子は眠れないまま寝台に腰掛けていた。
クラウスは、日本語でもドイツ語でも、好きな本を図書室から持ち出して良いとは言ってくれている。でも、居候の身で、遠慮なく灯りを使って夜更かしする気にはなれない。
何より、美しい絵や楽しい物語を楽しめるような気分では、なかった。
(クラウス様の具合がお悪いなら……本当のことをお伝えするのは、ご迷惑かしら)
呪いの話なんかを持ち出して、混乱させるのは良くないだろうか。……そう思うのは、事実を伝えたくない、気味が悪いと思われたくない宵子の、勝手な考えだとは気付いている。
本当にクラウスのことを気遣うなら、宵子はこの屋敷から出ていくべきだ。
彼女のために時間を割くことこそ、彼の負担になっているのだろうから。真上家から助け出してもらったことに感謝して、ひとり立ちするのが良いのだろう。
(そうよ。たとえ難しくても……寂しくても。そうしなければいけないのに)
口の利けない身で働き口があるのか、なんてことはどうでも良かった。自分のことなのだから、どうにかしなければいけない、それだけだ。
それなのに、言い出すことができないのは──
(だって、私は、クラウス様のことが──)
心の中であっても、その先を続けるのは許されない、と思った。だから一緒にいたい、だなんて。そう願うのは、とても図々しいことだ。
だから、宵子は詰めていた息をそっと吐き出す。
彼女に声が出せないのは、こうなると良かったかもしれない。文字で綴らなければ、秘めた想いが漏れ出ることは絶対にないのだから。
(クラウス様も、そんなつもりではないはずよ。……だから、折りを見て出ていくとお伝えしなければ)
密かに悲壮な決意を固めた時──宵子の耳は廊下の床が微かにきしむ音を拾った。もう夜も遅いのに、誰かが歩いているらしい。
(どうしたの……?)
足音は、どうやらクラウスの寝室のほうに向かっているようだった。もしや彼の身に何か、と。頭に浮かんだ不安に耐えきれず、宵子は寝台の傍に置いてあった室内履きに足を突っ込んだ。
寝間着の上に、毛織の肩掛けを巻きつけて、宵子は部屋の扉を細く開けた。見渡すと、すでに親しくなったドイツ人のメイドが、盆を捧げ持って通り過ぎるところだった。
盆の上に載っているのは──水差しと杯、それに、色のついた液体を入れた小瓶。
(まさか)
ヘルベルトが言っていた薬とは、この小瓶のことではないだろうか。クラウスは、やはり何かの薬が必要な状態なのかもしれない。
そう思うと、宵子は居ても立っても居られなかった。
──クラウス様に、何かあったのですか? お医者様が、薬と仰っていました。
掌くらいの大きさに切った紙を束ねた帳面は、もはや手放せないものになっている。
素早く書き込んだ文章を見せると、そのメイドは宵子を安心させるように微笑んだ。外国人らしく、高い背を少し屈めてくれるのは、まるで子供相手にするような仕草だった。
「いつものことよ、心配いらないわ。眠れない時に飲む薬のことだから」
メイドの淡い目にも、緊張や不安の色は見て取れなかった。本当に、クラウスは病気ではないのだろうか。……相手を疑う訳ではないのだけれど。
──お声を聞きたいです。顔は見せません。ついて行っても良いですか?
若い娘が、夜中に殿方の部屋を訪れるなんてありえない。きっと、ドイツでも同じだろう。
それでも、廊下の離れたところで待っているだけでも良い。クラウスの声を聞くことができれば、宵子も少しは安心できるかもしれない。
──どうか──
短く懇願する鉛筆の線は濃く、太いものになった。宵子の表情と筆跡から必死さを感じてくれたのか、メイドは大きく頷いた。
「ええ。宵子も心配しているとお伝えしましょう」
メイドが持っていた灯りを頼りに、宵子はしばらく暗い廊下を進んだ。書斎や図書室、使われていない客間──閉ざされた扉を幾つか通り過ぎて、クラウスの寝室の前に辿り着くと、メイドが呼び掛けた。
「旦那様。お水をお持ちしました」
宵子は、扉が開いてもクラウスの視界に入らない距離を保って佇んでいる。きっと、彼は無造作に水を受け取って、メイドにひと言ふた言の労いの言葉をかけて、眠りに就くのだろう。
その声の調子がいつも通りだと確かめることさえできたら、宵子も大人しく寝室に戻って横になろう。そう、思っていたのだけれど。
「宵子──そこにいるのか」
扉越しに、ややくぐもった声が聞こえた。メイドではなく、確かに宵子に向けられて。
(私がいることを、分かってくださったの? 姿が見えないのに、どうして……)
驚くよりも、喜びが勝った。いったいどうやって、クラウスが彼女の存在に気付いたのかは分からないのだけれど。
思えば真上家でもそうだった。地下室に閉じ込められた宵子の、声にならない悲鳴を、助ける求める声を、クラウスだけは聞き取ってくれたのだ。
(貴方に会えたのは、まるで運命のようだと思っていました)
そしてそれは、宵子だけの勝手な幻想なのだと。でも──これではまるで、不思議な力で結ばれているようだ。そんな勘違いを、してしまいそうになる。
込み上げるクラウスへの想いが、宵子の足を動かす。
彼女は、気付くと閉ざされた扉の真ん前へと進み出ていた。
事実、話を聞き終えたクラウスは、晴れやかな笑みと共に日本語で伝えてくれた。
「異常がないのは何よりだ。心身の負担がなくなれば、変化があるかもしれないし。……貴女の声を早く聞きたいとは、思うが」
最後に囁かれた言葉が嬉しくて恥ずかしくて──そして、きっと彼女自身の声を聞いてもらうことはできないだろうと思うと申し訳なくて。俯きながら、宵子は小さな文字で綴った。
──きっと、暁子と同じような声だと思います。双子ですから。
クラウスは日本語が、宵子はドイツ語が。短い間でずいぶん上手くなったと思う。
せめて想いを伝えられたら、と思っていたころに比べれば、すぐそばに鉛筆を用意してもらえて、いくらでも紙を使わせてもらえる今の状況の、なんと恵まれていることだろう。
(だから、これ以上の望みなんてない……その、はずなのに)
なのに、クラウスはまだ満足しないのだという。もっと、を願ってくれている。青い目がしっかりと宵子を捉えて、涼やかな声に熱意がこもる。
「あの娘と貴女が同じ声のはずがない。語る内容や声の調子が違えば、きっとまったく別の響きがするだろう」
彼は、心から宵子の声が聞きたいと願っているのだ。彼女自身も忘れてしまった声、クラウスが聞いたこともない声を、伝説に語られる人魚の歌のように称えてくれる。
──分かりません。もう何年も、声を出していませんから。
先ほどの文章の隣に綴った文字の線は、少し震えて歪んでいた。
クラウスから寄せられる想いは嬉しいけれど、隠しごとがある身では素直に受け取ってはいけないのではないか、と思ってしまう。
声を聞きたいという願いに答えてあげられたら、とも思うけれど、犬神様の呪いなんてどうやって説けば良いのか分からない。
何もかもが不確かで、どうすれば良いのか分からなくて。それが、申し訳なくて。
複雑な想いに手を縛られたような思いだった。
「それでは、私はそろそろ失礼する。宵子嬢の容態で何かあったらいつでも呼んでくれ」
「ああ、ありがたい」
だから──ヘルベルトが去るのを見送るために玄関広間に向かいながら、宵子は微笑むことしかできなかった。
尋ねることなんてできはしない。ヘルベルトが漏らしていたのはいったい何の薬なのか。クラウスに何か悪いところがあるのではないか、と。
* * *
その夜、宵子は眠れないまま寝台に腰掛けていた。
クラウスは、日本語でもドイツ語でも、好きな本を図書室から持ち出して良いとは言ってくれている。でも、居候の身で、遠慮なく灯りを使って夜更かしする気にはなれない。
何より、美しい絵や楽しい物語を楽しめるような気分では、なかった。
(クラウス様の具合がお悪いなら……本当のことをお伝えするのは、ご迷惑かしら)
呪いの話なんかを持ち出して、混乱させるのは良くないだろうか。……そう思うのは、事実を伝えたくない、気味が悪いと思われたくない宵子の、勝手な考えだとは気付いている。
本当にクラウスのことを気遣うなら、宵子はこの屋敷から出ていくべきだ。
彼女のために時間を割くことこそ、彼の負担になっているのだろうから。真上家から助け出してもらったことに感謝して、ひとり立ちするのが良いのだろう。
(そうよ。たとえ難しくても……寂しくても。そうしなければいけないのに)
口の利けない身で働き口があるのか、なんてことはどうでも良かった。自分のことなのだから、どうにかしなければいけない、それだけだ。
それなのに、言い出すことができないのは──
(だって、私は、クラウス様のことが──)
心の中であっても、その先を続けるのは許されない、と思った。だから一緒にいたい、だなんて。そう願うのは、とても図々しいことだ。
だから、宵子は詰めていた息をそっと吐き出す。
彼女に声が出せないのは、こうなると良かったかもしれない。文字で綴らなければ、秘めた想いが漏れ出ることは絶対にないのだから。
(クラウス様も、そんなつもりではないはずよ。……だから、折りを見て出ていくとお伝えしなければ)
密かに悲壮な決意を固めた時──宵子の耳は廊下の床が微かにきしむ音を拾った。もう夜も遅いのに、誰かが歩いているらしい。
(どうしたの……?)
足音は、どうやらクラウスの寝室のほうに向かっているようだった。もしや彼の身に何か、と。頭に浮かんだ不安に耐えきれず、宵子は寝台の傍に置いてあった室内履きに足を突っ込んだ。
寝間着の上に、毛織の肩掛けを巻きつけて、宵子は部屋の扉を細く開けた。見渡すと、すでに親しくなったドイツ人のメイドが、盆を捧げ持って通り過ぎるところだった。
盆の上に載っているのは──水差しと杯、それに、色のついた液体を入れた小瓶。
(まさか)
ヘルベルトが言っていた薬とは、この小瓶のことではないだろうか。クラウスは、やはり何かの薬が必要な状態なのかもしれない。
そう思うと、宵子は居ても立っても居られなかった。
──クラウス様に、何かあったのですか? お医者様が、薬と仰っていました。
掌くらいの大きさに切った紙を束ねた帳面は、もはや手放せないものになっている。
素早く書き込んだ文章を見せると、そのメイドは宵子を安心させるように微笑んだ。外国人らしく、高い背を少し屈めてくれるのは、まるで子供相手にするような仕草だった。
「いつものことよ、心配いらないわ。眠れない時に飲む薬のことだから」
メイドの淡い目にも、緊張や不安の色は見て取れなかった。本当に、クラウスは病気ではないのだろうか。……相手を疑う訳ではないのだけれど。
──お声を聞きたいです。顔は見せません。ついて行っても良いですか?
若い娘が、夜中に殿方の部屋を訪れるなんてありえない。きっと、ドイツでも同じだろう。
それでも、廊下の離れたところで待っているだけでも良い。クラウスの声を聞くことができれば、宵子も少しは安心できるかもしれない。
──どうか──
短く懇願する鉛筆の線は濃く、太いものになった。宵子の表情と筆跡から必死さを感じてくれたのか、メイドは大きく頷いた。
「ええ。宵子も心配しているとお伝えしましょう」
メイドが持っていた灯りを頼りに、宵子はしばらく暗い廊下を進んだ。書斎や図書室、使われていない客間──閉ざされた扉を幾つか通り過ぎて、クラウスの寝室の前に辿り着くと、メイドが呼び掛けた。
「旦那様。お水をお持ちしました」
宵子は、扉が開いてもクラウスの視界に入らない距離を保って佇んでいる。きっと、彼は無造作に水を受け取って、メイドにひと言ふた言の労いの言葉をかけて、眠りに就くのだろう。
その声の調子がいつも通りだと確かめることさえできたら、宵子も大人しく寝室に戻って横になろう。そう、思っていたのだけれど。
「宵子──そこにいるのか」
扉越しに、ややくぐもった声が聞こえた。メイドではなく、確かに宵子に向けられて。
(私がいることを、分かってくださったの? 姿が見えないのに、どうして……)
驚くよりも、喜びが勝った。いったいどうやって、クラウスが彼女の存在に気付いたのかは分からないのだけれど。
思えば真上家でもそうだった。地下室に閉じ込められた宵子の、声にならない悲鳴を、助ける求める声を、クラウスだけは聞き取ってくれたのだ。
(貴方に会えたのは、まるで運命のようだと思っていました)
そしてそれは、宵子だけの勝手な幻想なのだと。でも──これではまるで、不思議な力で結ばれているようだ。そんな勘違いを、してしまいそうになる。
込み上げるクラウスへの想いが、宵子の足を動かす。
彼女は、気付くと閉ざされた扉の真ん前へと進み出ていた。