真上(まがみ)家からの招待は、クラウスにとっては願ってもないものであると同時に、たいへん疑わしいものでもあった。

夜の(ダーメ・)貴婦人(デア・ナハト)──あの少女のことを探るには、確かに好機だが。俺にいったい何の用だ……?)

 外交官として日本に滞在している各国の貴族は、この国の皇族や華族と華やかに交流しているらしい。
 だが、彼の立場は一介の旅行者に過ぎない。友人であるヘルベルトに、日本が過ごしやすい場所だと聞いて、試しに訪れただけで。政治的な人脈(コネ)がある訳でも、提携をもちかけるような事業を手がけている訳でもない。

(令嬢にも、婚約者がいるということだし……)

 真上家に向かう馬車に揺られながら、クラウスは軽く顔を顰めた。彼の「貴婦人」にそっくりな、けれど中身はまったく違う娘を思い出したのだ。
 国を越えた結婚は──まあ、ない訳ではないが。彼の容姿は、どうやら日本の令嬢にも好ましく見えるようだが。
 それでも、すでにいる婚約者を取り換えることはないだろう。何より、真上暁子(あきこ)嬢は異国の言葉にも文化にもまったく興味がないようだった。

(まあ、良い。行けば分かるさ)

 クラウスが溜息を吐いた時──馬車は、ちょうど真上家の門を潜るところだった。

      * * *

 真上(てい)は、東京の街並みとは打って変わった完全な西洋風の建物だった。広い庭があるため、外の木造の家々は視界に入って来ない。だから、馬車から降りた瞬間、クラウスは祖国ドイツの田舎に戻ったような錯覚に陥った。

ようこそお出(ヴィルコメン)でくださいました(・バイ・イーネン)、シャッテンヴァルト伯爵閣下」

 なのに、彼を出迎えるのは黒髪黒目の日本人の使用人で、口にするドイツ語もぎこちないから不思議な感覚になる。

「招待いただき、感謝している。──日本語は勉強しているので、無理をなさらなくても結構」
「それは、恐れ入ります」

 クラウスの日本語も、きっと当地の者には違和感のある発音なのだろうが。それでも意味は通じたらしく、使用人は明らかに安堵の表情を見せた。

(これも、あの令嬢のお陰だな)

 次こそは彼の夜の(ダーメ・)貴婦人(デア・ナハト)とまともに意思疎通したい、という一念で、クラウスは日本語の勉強に力を入れることにしたのだ。ヘルベルトの協力もあって、ひと月もしない間になかなか上達したのではないかと思う。
 前提として、そもそも人の姿で会えないと、声を出したり筆談を試みたりもできないのだが──今日は、せめてあの令嬢の匂いだけでも捉えることができるだろうか。

 大理石造りの暖炉が据えられた応接間に入ると、甲高い少女の声がクラウスの耳に刺さった。

「お久しゅうございますわね、伯爵様! お会いできるのを楽しみにしておりましたわ……!」
「……こちらこそ、暁子様」

 貴婦人の手を取って口づけるのは、紳士の作法(マナー)というものだ。クラウスも当然弁えている。
 だが、当然のような顔で手を突き出されるのは良い気分ではなかった。
 暁子の手は白く滑らかで、あの令嬢の荒れたそれとはまるで違うからなおのこと。美しく整っているからこそ、彼が想う女性では()()と突き付けられるようだった。

「当家に外国の客人をお招きするのは、実は初めてのことでしてな。粗相(そそう)がないと良いのですが」
「……美しいお屋敷に、美しい令嬢です。最初の客になれたのは光栄なことです」

 真上子爵本人に、その隣には鹿鳴館(ろくめいかん)でも言葉を交わした新城(しんじょう)春彦(はるひこ)という青年もいる。
 クラウスのほかに招待客はいないらしい。まるで、身内の席に彼だけが紛れ込んだようだ。

(外国人をもてなす()()()に、さほどの地位も立場もない若造が選ばれた、とかいうことか……?)

 緊張した面持ちで茶菓子を供する女性の使用人を横目に、クラウスは考える。日本(このくに)は、まだ異国との付き合いに慣れていない。多少失敗をしても問題がなさそうな彼を相手に予行演習しておきたい、ということもあり得るだろうか。

(それならそれで、構わないが……)

 茶器は、欧州(ヨーロッパ)から取り寄せたらしい繊細な磁器。菓子は、屋敷の中で焼いたらしく、まだ温もりを残している。
 不慣れな様子はありつつも、基本的には和やかで心地良い茶会になりそうではあったのだが──

「伯爵様──クラウス様とお呼びしてよろしくて? 日本でどこかお出かけになりたいところはありますの? 鎌倉とか日光とか、近場にも名所がありますのよ。ご案内して差し上げたいですわ!」

 許可を得るのを待たずに彼の名を勝手に呼び、一方的にまくし立てる暁子は押しつけがましく鬱陶しかった。クラウスが日本語を聞き取れているか否かも気にしていないように見える。

「そうですね。あちこち足を延ばしたいとは思っていますが」

 仮面のような笑みを顔に貼り付けて、菓子を味わう──クラウスの胸の中で、()が唸る。

(うるさいな……食い殺してやろうか)

 彼の牙なら、こんな細い首などひと()みだ、と──残酷な想像に、一瞬とはいえ酔ったことに、自分自身で驚いてしまう。口の中に湧いた、幻の血を洗い流すべく、クラウスは慌てて茶を飲み干した。

(これでは、迫害されるのも当然の獣じゃないか……!)

 ()()として節度ある振る舞いをしなければ、と自分に言い聞かせて、クラウスは春彦に話しかけることにした。この青年が、この中では一番ドイツ語に堪能なようだから。

「──婚約者のいるお方とふたりきり、という訳にはいかないでしょう。どうせなら誰か一緒に──真上家には、同年代の方はほかにはいらっしゃらないのですか……?」

 それに、春彦は彼の夜の(ダーメ・)貴婦人(デア・ナハト)と一緒にいたことがある。
 あれだけ似ているのだから、あの女性は、暁子の姉妹か従姉妹(いとこ)か、とにかく近しい親族ではないのだろうか。春彦の反応が、何かの手掛かりにならないだろうか。

「あいにく、真上家には暁子以外の御子はおりません。もうひとり娘でもいたら、貴国との──貴家(きか)とのご縁もより深まったかもしれませんが」
「……そうですか。残念です」

 春彦のにこやかな笑顔に綻びは見えなかった。いっぽうで、そのもの言いは、あの夜の女性の存在をクラウスの目の前にちらつかせているようでもあった。

(食えない男だ)

 ほんの少し──気付かれないていどに、クラウスは眼差しを鋭くして春彦を睨む。獲物を狙う、狼の目つきになっていることだろう。

 強く賢い獣の血を昂ぶらせて、五感を研ぎ澄ませて相手の隙を窺うのが、彼の家の流儀だった。目に見える兆候だけではない、嘘や偽りといった悪巧(わるだく)み、それにともなう緊張や興奮が、匂いとして感じられることもある。

「まあ、ひとり娘だからこそ、私は婿(むこ)に迎えていただけるのですが」
「春彦兄様は、私の言うことは何でも聞いてくれますのよ。だって、私のお陰で真上子爵を継げるのですもの!」

 高慢に胸を張る婚約者(あきこ)に苦笑を向ける春彦は、爽やかな好青年そのものだった。だが──クラウスの()に届く匂いは、違う。

(なんだ、この──腐ったような悪臭は!?)

 まるで、何かの死体が部屋の中に投げ込まれたようだった。
 鋭敏になった嗅覚が感知した耐え難い臭いは、春彦が秘めた感情なのか、悪意ある計画なのか。

(冷静に。顔には出してはならない……)

 素知らぬ顔で()ぎ分けなければ、とは思うのだが。悪臭への嫌悪が先に立って、クラウスは思わず顔を背け、腰を浮かしてしまう。

「どうかなさいましたか?」

 突然立ち上がった客人に、真上子爵は怪訝そうな表情をした。(とぼ)けているのだろうか、それとも、何も気付いていないのか。

「いえ……何も……」

 いずれにしても、クラウスの()について悟られてはならないし、真上家の内情を探るには怪しまれてならない。

 だが──余所を向いたことで、彼の五感はまた別の()()()を捉えていた。どちらも、彼にとっては放っておけないものだった。

「──失礼」

 短く言い捨てるなり、クラウスは真上子爵たちの答えを待たずに応接間から大股に退出した。

「伯爵閣下、あの──」
「どこへいらっしゃるの!?」

 子爵の狼狽える声に、暁子の耳障りな声がうるさい。だが、一度耳が拾った音がする方向を、クラウスはもはや聞き逃しはしない。

 微かな鈴の音は、彼の夜の(ダーメ・)貴婦人(デア・ナハト)がなぜか足首につけていたもの。それに、同族の狼を思わせる、どこか懐かしい匂いもした。

 間違いなく、あの少女はこの屋敷のどこかにいるのだ。