11月12日、日曜日。景正大の大学祭。慶野君のバンドが軽音のコンサートで演奏する日。
 慶野君から「聴きにこいよ!」て言われてたけど、僕は行かなかった。きっと里木さんは、福波さんと一緒にコンサートに行って、慶野君を応援するんだろうな、て思ったけど。僕は行かなかった。

 12月になった。本格的に寒くなった。大学のキャンパスの中の銀杏はすっかり黄色くなった。
 12月15日、金曜日。何回目かのマゾリーノランチ会。
 ちょっとおかしかった。里木さんが、笑ってなかった。
 里木さんは元々、福波さんみたいに大きな声で笑うような人じゃない。でも、いつも笑顔だった。口元と、そして目は、いつも微笑んでいた。
 その里木さんが、笑ってなかった。
 里木さんはいつものように慶野君の隣に座っていた。いつもなら慶野君がしきりに里木さんに話しかけて、里木さんも楽しそうにそれに応えていた。その日、慶野君も里木さんに少しも話しかけようとしない。向かい側、僕の隣に座っている福波さんとばかり話している。
 里木さんはうつむき加減で、黙ってパスタを食べていた。ていうか、あまり食べてもいなかった。時々慶野君と福波さんの会話にうなずいたり相槌を打ったりはしていたけど、その目は、笑ってなかった。
 体調がよくないのだろうか? そう思った。でも僕は口には出さなかった。里木さんが顔を上げてくれれば、僕と目が合えば……そう思っていた。でも里木さんは結局、一度も、僕の顔を見なかった。一度も笑わらなかった。なんとなく、悲しそうだった。僕にはそう見えた。

 12月17日、日曜日。夜、11時くらいだろうか。
 僕は土日もいつき庵でバイトをしていた。お店を閉めて、後片付けをして、夜食をご馳走になって、それからアパートへ帰る。大学通りから駅前通りを歩いて。
 寒かった。僕は頭からコートのフードを被って歩いていた。
 駅前通り。あの、四人で行ったカラオケ店の手前。カラオケ店から二人の男女が出てくるのが見えた。二人はそのまま駅に向かって歩いて行く。寄り添って。腕を組んで。
 僕は二人のすぐ後ろを同じ方向に歩いた。二人は僕には気づいていないみたいだ。ていうか、後ろなど気にもしていないみたいだ。
 背が高くてスマートな男性。金髪に染めた長髪。すぐにわかった。慶野君だ。
 じゃ、いっしょにいる女性は……里木さん? 違う。里木さんより背が高い。ショートカット。あれは……福波さんだ。
 でも、なぜ? どうして慶野君と、福波さん? 里木さんじゃなくて?
 後ろから二人に声を掛けようかと思ったけど、やめた。僕はそのまま二人の後を少し離れて歩いた。
 きっと二人でカラオケに行ってたんだ。そうに違いない。でも、二人で? 偶然会って、そういうことになったのだろうか?  二人ともノリいいし。
 でも今日は日曜日だ。偶然会ったりするだろうか。こんな時間に……
 それに、今、目の前にいる二人は仲よさそうに寄り添って歩いている。腕まで組んで……
 駅に着いた。二人は駅の改札に向かって階段を登って行く。
 僕は階段の手前でいったん立ち止まった。そして、少し間を置いてから駅に入った。
 改札の中、二人がホームへ続く階段を降りて行くのが見えた。福波さんの家がある下り電車のホーム方に。寄り添って、腕を組んだまま。
 僕はただ黙って、二人のうしろ姿を見送った。

 12月18日、月曜日。大学の教室。
 一時限目の授業中、僕は慶野君を探していた。一番後ろの席に座って教室の中を見回した。
 いた。長身の後ろ姿、金髪。前の日に駅前通りでも見かけた、あの金髪。
 授業が終わるとすぐに、僕は席を立とうとしている慶野君に駆け寄った。
「慶野君……」
「おう」
 慶野君はいつもと変わらないさわやかな顔で片手を上げた。僕は一瞬だけ躊躇したけど、すぐに切り出した。
「……実はさ、昨日、バイトの帰り、夜、駅前通りを歩いてて……」
「日曜もバイトしてるのか? ご苦労様だな」
「いや……そうじゃなくて」
「なんだ?」
 慶野君の顔色が少しだけ変わった、ような気がした。僕が言いたいことがわかったのだろうか。
「見たんだ……」
「何を?」
「慶野君が、福波さんと歩いてるとこ」
「……」
 慶野君は何も言わなかった。否定したり、言い訳したりしないことが、答えだと思った。
「なんで? どうして?」
 僕は慶野君の目を見た。
「……ま、そういうことだ。今オレは、彩香と付き合ってる。よくあることだろ」
 慶野君は僕から目を逸らした。
 よくある? よくあることなのだろうか?
「里木さんは……里木さんは知ってるのか?」
「ああ、話した」
「……」
 今度は僕の方が言葉に詰まった。
「聖冬も、納得してくれたよ」
 納得? 何を納得?
「でも、この前のランチ会の時、里木さん、悲しそうだった……」
 僕は独り言のように声を出した。ランチ会の時の里木さんの様子を思い出していた。
「……そうだったか?」
 目を逸らしたまま慶野君が言った。
「だって……平気でいられるはずないだろ? 普通」
 僕の声が少し大きくなった。
「三人で了解してることなんだから、倉田には関係ないだろ!」
 慶野君の声も大きくなった。
 周りにいた何人かの学生がこちらを振り向いた。
 関係ない……か。確かにその通りだ。僕には関係ない。
「でも……僕も、ランチ会のメンバーだから……ランチ会、このまま続けるつもり?」
「ああ……聖冬が、そうしたいって言ってた」
「……ほんとに?」
「ああ」
「……」
 僕はまた黙り込んだ。
「ランチ会については、オレも、このまま続けるのはどうかと思ってる。彩香から、聖冬にもう一回訊いてもらうよ」
「……」
 僕は何も答えられなかった。
「そろそろ授業始まるぞ。オレ、軽音の練習があるからこの授業、パスする」
 そう言って慶野君は教室の出口の方に向かって歩き出した。
 僕は黙って慶野君の後ろ姿を見送った。前の日、駅で慶野君と福波さんを見送った時と同じように。

 その日の夜。アパートに帰って布団の上に寝転んでいると、スマホにラインのメッセージが入った。ランチ会のグループラインだ。
『次回、12月22日のランチ会は中止します』
 慶野君からのメッセージ。僕は何も答えなかった。
 しばらくするとまたラインにメッセージが入った。それも慶野君からだった。
『ランチ会は解散します』
 短い一言。
 すぐに『ケイタが退出しました』というメッセージが入った。
 どこで、どんなやり取りがされているのか、僕にはわからない。
 少しして『彩香が退出しました』というメッセージが入った。福波さんだ。
 里木さんは……何も答えてこなかった。僕も何も答えなかった。
 里木さんは今頃、どんな気持ちでこのラインを見ているのだろう。あるいは、見てもいないのだろうか。
 僕は、ベッドに寝転んだまま、目を閉じた。

 12月19日、火曜日。朝。僕は久しぶりに青空台を歩いた。
 最後に歩いたのは十月の上旬、ようやく残暑が治まって、秋の気配を感じる頃だった。
 今はもう真冬だ。ハクモクレンもすっかり落葉していた。寒かった。吐く息が白かった。
 僕は普段大学に行く時より少し早くアパートを出ていた。
 あの場所に着いた。白い塀沿いの歩道、ハクモクレンの木の下。僕が初めて里木さんと会った場所。里木さんがラピスラズリを落とした、あの場所。里木さんが、僕のことを待っていてくれた場所。
 僕はそこで、里木さんを待った。あれからも、里木さんがこの道を歩いて大学に行っているのかどうかはわからない。でも、里木さんに会いたかった。ここで、また会える気がした。
 
 しばらくして、こっちへ向かって歩いてくる人の姿が見えた。首に青いマフラーを巻いて、うつむき加減に歩く、黒い髪。間違いない。里木さんだ。
 僕は走り出していた。そして、あっという間に歩く里木さんの目の前に立っていた。
「……え?」
 顔を上げた里木さんが驚いた表情で立ち止まった。
「昨日……」
 話し出そうとしたけど、言葉が続かなった。走ったせいで息が上がっていたから、だけじゃなくて。
 里木さんが僕の言葉を引き継ぐように言ってくれた。
「ランチ会……びっくりしましたよね……急にだから」
 里木さんはうつむいたままだった。
 僕はまだ言葉が出ない。
 里木さんがゆっくりと歩き出した。うつむいたまま。僕は里木さんの右側に並んで歩いた。
 ようやく呼吸が整った。
「実は昨日……慶野君から聞いたんです」
 里木さんに話しかけた。里木さんは顔を上げない。
「その……慶野君と、福波さんのこと……」
 里木さんは黙って歩いていた。僕の声が聞こえなかったみたいに。
 里木さんに会いたい、前日の夜から僕はそう思っていた。でも、会ってから、何を話せばいいのか、なんと言って里木さんを慰めたらいいのか、わからなかった。わからないままでいた。
「……ひどいですよね」
 僕はかろうじて声を出した。
「……ごめんなさい。倉田さんにも迷惑かけちゃいましたよね」
 里木さんが言った。僕の方は見ないで。
 迷惑? 何が? 
「僕は何も……」
 里木さんが横目で少しだけ僕を見た、ような気がした。
「わたしのせいで、ランチ会、解散になってしまったから……」
 里木さんが言った。
 そんなことを気にして? 
 里木さんがゆっくり歩き出した。僕は里木さんの右側に並んで歩いた。
「里木さんのせいじゃないですよ。僕もランチ会、なくなってよかったと思ってます」
 僕は少し声を大きくした。
「どうしてですか?」
「だって……この前のランチ会の時、里木さん、笑ってなかったから……悲しそうに見えたから……」
「そうですか……でも、倉田さんには、関係ないことですから」
 関係ない? そう、僕には関係ない。でも……それでも。
「この前、どうしてランチ会に来たんですか? 僕なら行かない。そんな、無理することない……」
 里木さんは黙ったまま答えなかった。
「慶野君は、里木さんも了解してる、て言ってたけど、そうなんですか?」
 僕の左側に並んで歩いていた里木さんが立ち止まった。僕も立ち止まった。
「僕は……そんなことないと思う。そんなこと、できないと思う」
 僕がそう言うと、里木さんは僕の方に身体を向けた。僕は前を向いたまま、横目で里木さんを見ていた。
 里木さんが目をつぶった。ぎゅっと、目をつぶった。
そして突然に、そう、突然に、里木さんが僕の左肩に、額を押し当ててきた。
 泣いていた。里木さんは、泣いていた。
「だって……そんなことしたら、彩香とも友達でいられなくなっちゃう……恋人無くして、そのうえ、親友まで無くしちゃったら、わたし……」
 泣きながら、里木さんはつぶやいていた。
 僕は、戸惑っていた。どうしていいかわからなかった。
 僕の左肩が、里木さんの重さを感じていた。顔を横に向けると、里木さんの黒い髪があった。甘い香りがした。
 僕の心臓は高鳴っていた。僕の左肩から直接、僕の心臓の音が里木さんに響いているんじゃないかと思った。
 動けなかった。少しでも動けば、里木さんがそのまま僕の方に倒れ込んできてしまうんじゃないかと思った。そうしたら、僕は里木さんを受け止めなければならなくなる。僕の両腕で、僕の身体で、里木さんの身体を受け止めなければならなくなる。
 僕は、僕の身体の中で唯一自由に動かすことができる右手を上げた。でも、その手をどうしていいのかわからなかった。里木さんの肩をつかむこともできた。背中をさすってやることもできそうだった。でも、動かなかった。動かせなかった。手を上げたまま、こぶしを握ったり開いたりした。そして結局、その手をそのまま下に降ろした。
 しばらくして、里木さんの額が僕の左肩から離れた。里木さんが一歩、後ろに下がった。
「ごめんなさい」
 里木さんがうつむいたまま言った。また僕に謝っている。どうして謝るのだろう。僕はまたそんなことを思っていた。
 里木さんが顔を上げた。
「大丈夫。もう、大丈夫だから」
 里木さんが言った。僕は、なんて答えたらいいのかわからなかった。
 里木さんが、歩き始めた。ゆっくりと、ゆっくりと歩き始めた。手のひらで、目の下の涙の跡を拭いていた。
 僕もまた里木さんと並んで歩いた。何か話しかけなきゃいけない、そう思った。
「あの……」
 声を出した。でも何を話せばいいのか、やっぱりわからなかった。里木さんは、僕の方を見ないで、ただ、うつむき加減に、それでも視線は前を見て、歩き続けていた。
 僕は、言いかけた言葉を飲み込んだ。持ち上げた右手をそのまま降ろした時と同じように。
僕たちは黙って歩いた。ゆっくりと、ゆっくりと歩いた。それでもやがて、僕たちは青空台を抜け、大学通りに出ていた。
大学の正門を入ると、里木さんは、何も言わないまま、僕の方も見ないまま、左の方へ歩いて行った。
僕は、やっぱり、ただ黙って、里木さんの後ろ姿を見送った。
 僕の中に、「後悔」だけが残った。