9月29日。金曜日。曇り。
里木さんと、それにと慶野君、福波さんと四人でカラオケに行く約束の日がきた。
この日も僕は里木さんと朝の青空台を歩いた。5分間のデート。
「今日ですね、カラオケ」
里木さんが言った。
「はい」
答えたけど、やっぱり不安な気持ちは消えてなかった。
「僕の歌、笑わないでくださいね。この前も言いましたけど」
「いえ、わたしの歌こそ、下手でも笑わないでくださいね」
「笑うなんて、とんでもないです。里木さんの歌、楽しみにしてます」
「ありがとうございます!」
里木さんの屈託ない笑顔。
「それじゃ……よろしくお願いします」
「はい! こちらこそ!」
少しだけ、不安が消えた、ような気がした。
その日の昼休み。マゾリーノでの三回目のランチ会。
「それじゃ、5時半に正門前で。駅前通りのカラオケ、予約しておくから」
慶野君が言った。
「お願いします!」
福波さんが元気よく答える。
「倉田も忘れるなよ! ま、いやでもオレが引っぱって行くけど」
「ああ、わかってるよ……」
三日前、里木さんに誘われて僕もカラオケに行くことにした。あの後、グループラインにも『行きます』と返事した。元合唱部の里木さんと福波さん、バンドでボーカルをしている慶野君。きっと三人とも上手なんだと思う。もちろん三人に対抗しようなんて思ってない。せめてみんなをシラケさせないように……いっそウケ狙いで……でもどうすればウケるのかもわからないけど……そんなことを考えていた。僕は黙ってただみんなの歌を聞いていようか。そんなことも考えていた。
里木さんを見た。里木さんは、いつものように微笑みながら、僕の方を見ていてくれた。
午後の授業が終わった。僕たちは正門前で落ち合った。
四人で駅に向かうバスに乗った。僕はいつも、大学からの帰り道も青空台を歩いていたけど、この日はみんなにつきあった。
そういえば、里木さんは帰り道はどうしているのだろう。そんなことを思ったけど、口には出さなかった。
僕たちは、駅の一つ手前のバス亭で降りて、駅前通りにあるカラオケ店に入った。
カラオケ店に着くと、さっそく慶野君が最初の曲を入れてマイクを握った。
「じゃ、オレから」
慶野君が立ち上がって歌い始めた。有名なアイドルグループのアップテンポな曲だ。里木さんと福波さんが曲に合わせて手拍子を始めた。
僕も聞いたことのある曲だった。まずはみんなが知っている乗りのいい曲で場を盛り上げようということだろう。慶野君の配慮、ていうか、場離れ感? に関心した。
バンドのボーカルをしているだけあってうまい。
「倉田、これ!」
曲の合間に慶野君が僕にタンバリンを手渡してきた。僕は曲に合わせてリズムを取ろうとしたけど、なかなかうまくできなかった。
そんな僕を、僕の向かいに座った里木さんは手拍子しながら笑顔で見ていてくれた、ような気がした。暗くてよくわからなかったけど。
慶野君の曲が終わった。里木さんと福波さんはパチパチと拍手。僕も合わせて手をたたいた。
「よかった!」
「どういたしまして!」
福波さんと倉田君が声を掛け合っている。
「次、私!」
そう言いながら福波さんがマイクを持って立ち上がった。有名な女性ボーカルのこれもアップテンポな曲だ。福波さんも元合唱部だけあってうまい。
「倉田、次お前」
慶野君が選曲ナビを僕の前に置いた。里木さんがまた僕の方を見ている。
しかたない。僕はナビの画面で曲を探した。僕だってカラオケが初めてのわけじゃない。自分でギターを弾きながら歌を歌うこともある。最近の歌を全然知らないわけでもない。歌ったことはなかったけど。
福波さんの歌が終わった。
「いいぞ!」
慶野君が拍手しながら声を掛けた。
僕の番だ。緊張する。たかがカラオケなのに。
曲が始まった。僕は座ったまま歌い始めた。僕が選んだ曲は、クラッシックギターの定番。有名な映画音楽にも使われた曲。 もともとはスペインの民謡だけど、日本語の歌詞が付いていた。ヨーロッパの、美しい風景を歌った歌詞。
福波さんは手拍子をしようとして、すぐにあきらめた。手拍子をするようなノリの曲じゃない。慶野君は最初から僕の方は見ないで選曲ナビを操作していた。里木さんは……僕を見ていてくれた。じっと、僕を見ていてくれた。
僕の歌が終わった。次は里木さんの番だ。
前奏が始まると里木さんが立ち上がった。静かな、きれいなメロディーの曲。僕に合わせてくれたのかな……そう思った。思い過ごしかもしれないけど。
あの鈴のような声がマイクで増幅されて響いてくる。僕はその声にうっとりと聴き入った。そういえば、里木さんは合唱部ではどのパートだったんだろう? このきれいな高音はやっぱりソプラノかな? 今度、青空台で会った時に訊いてみよう……僕はそんなことを考えていた。
歌い終わると、里木さんはみんなに向かって恥ずかしそうにお辞儀をした。
その後、慶野君と福波さんが二曲目を歌った。僕は「ちょっとまた後で……」と言って二曲目をパスさせてもらった。
里木さんは二曲目に、テンポのいい明るい曲を歌った。やっぱり、上手だった。やっぱり、きれいな声だった。全身でリズムを取る姿が愛らしかった。
慶野君が三曲目を歌った後、里木さんと福波さんがデュエットで歌った。
「さすが! 元合唱部!」
慶野君が大きな声を掛けていたけど、その通りだった。
その後も、慶野君と福波さんは何曲か歌っていたけど、僕と里木さんは手拍子をしながら二人の歌を聴いていた。
やがて、予約の終了時間を知らせるコールが入った。
最後に慶野君がエンディングにふさわしい曲を歌って、ソフトドリンクで乾杯して、お開きになった。
僕たちは駅まで歩いた。
「楽しかったね!」
「またやろうぜ!」
慶野君と福波さんが楽しそうに話しながら前を歩いている。僕は里木さんと並んで歩いた。朝の青空台と同じように。僕は何もしゃべらなかった。里木さんは、いつもの笑顔で。
駅の入り口の階段を登り、改札の前まで来た。
「ありがとうございました」
「それじゃまた!」
別れのあいさつ。
「家は、どっちの方?」と、慶野君。
「私、こっち」
福波さんは下り方向の電車で帰るという。
「オレはこっち。聖冬ちゃんは?」
「わたしも、こっちです」
慶野君と里木さんは、同じ上り方向の電車で。
僕は……僕はこのまま、反対側の南口からアパートへ帰る。一人で。
僕たちは改札の前で手を振って別れた。
福波さんが下り電車のホームへ続く階段を降りて行くのが見えた。
慶野君と里木さんは、上り電車のホームへ続く階段へ。
二人が寄り添うように並んで、何か話しながら階段を降りて行く。僕は改札の外側から、ただ黙って、二人を見送った。
僕たちがカラオケに行った9月29日の翌々日、10月1日の日曜日、関東地方に台風が直撃し、東京も激しい風雨に見舞われた。
10月2日、月曜日。台風一過の朝は、雲一つない快晴となった。台風は残暑を吹き飛ばし、いっきに秋が来た。
いつもの青空台。
「台風、すごかったですね。大丈夫でした?」
いつもの場所で待っていてくれた里木さんが心配そうに言ってくれた。
「はい……里木さんは?」
「大丈夫です。ずっと家にいましたから」
僕もずっとアパートにいた。部屋に寝転んで、里木さんの前でカラオケを歌ったことを思い出していた。恥ずかしくて、後悔もしていた。歌わなければよかった。
「いっきに秋になっちゃいましたね。今朝は少し寒いくらい」
快晴の空を見上げながら里木さんが言った。
「そうですね……」
僕はまだ夏服のままで、そうやって歩いていても実はちょっと寒かった。
「カラオケ、楽しかったですね」
「はい……」
そのことには触れてほしくないと思っていた。でも、里木さんの歌は良かった。歌声がよかった。すごく良かった。そのことは伝えておこうと思った。
「里木さん、歌、やっぱり上手ですね。声が、とっても良かった……」
「そんなことないですよ。声量なくて」
里木さんが恥ずかしそうに笑う。
「高校の合唱部の時は、やっぱりソプラノですか?」
カラオケで里木さんの声を聞きながら思ったことを訊いてみた。
「いいえ、メゾソプラノ。高音はやっぱり苦しくて」
「……そうですか」
どの程度違うのか僕にはわからなかったけど。
「倉田さんの歌もよかったですよ」
「そうですか……」
気を遣ってくれている、そう思った。
「あの……前にクラッシックギターのサークルの話、したじゃないですか」
里木さんが言った。
そうだ。大学内にサークルを探して入ったらどうか。里木さんはそう言っていた。
「倉田さん、サークルには入らない、て言ってましたけど……」
そう。僕にはそんな気はなかった。
「でしたら、二人でサークル、始めちゃいませんか?」
「え?」
里木さんが何を言っているのか、僕にはわからなかった。
「二人きりでもいいじゃないですか! 倉田さんが会長で、わたしが会員第一号」
二人で……サークル……心の中で反復した。僕はゆっくりと、里木さんの言っていることを理解した。
「教えてください、ギター」
「い、いや、そんな……」
何て答えればいいのかわからなかった。僕が里木さんにギターを教える? それも二人で? そんなこと、想像もできなかった。自分の顔が赤くなるのがわかった。
「だめ、だめですよ! そんなこと」
僕の口は僕の意志とは関係なく勝手にそう言っていた。
「やっぱりだめですか……わたしとじゃ……」
里木さんががっかりした表情をした。
わたしとじゃ? いや、そういうことじゃなくて。
そう思ったけど、言えなかった。
僕が返事をしないでいると、里木さんはうつむいてしまった。なんとなく気まずい雰囲気になった。
「ちょっと寒いから、僕、大学まで走って行きます」
そう言って、僕は走り出していた。いたたまれなくなって。
里木さんはまた手を振ってくれているだろうか。一瞬そう思ったけど、僕は振り向かなかった。
午前の授業中、授業の内容はまったく頭に入ってこなかった。
僕は朝の里木さんの言葉を思い出していた。二人でサークル……二人きりで……
僕が里木さんにギターを教えている場面を想像してみた。
まずはコード。どうやって教えればいいんだろう? 手本を見せて、それから里木さんにマネしてもらって……
里木さんの白くて長い指を思い出した。きっときれいにギターを押さえるんだろうな……
でも、僕はギターを一本しか持っていない……交代で、交互に弾くか……
場所はどこで? 僕のアパート? まさか! 青空台の手前の公園? これからの季節じゃ寒いかな……大学内の教室を借りられるだろうか? でも、二人でいるところを誰かに見られたら……
授業中、僕はずっとそんなことを考えていた。
昼休み。授業が終わるといつものように慶野君が声を掛けてきた。
「学食行こうぜ」
「マゾリーノランチ会」といオプションが加わったものの、それ以外の日は、それまでと同じように僕は学食で昼食を食べていた。一人きりか、慶野君と二人で。
僕は慶野君と二人で学食へ向かった。
「カラオケ、楽しかったな」
慶野君がラーメンをすすりながら言った。
「しかしお前の歌、暗いぞ」
「いいだろ、好きなんだから」
「まあいいけど……実はな、お前に言っておきたいことがある」
慶野君が箸を持ったまま話し出した。
何だろう。少しだけ胸騒ぎがした。
「先週のカラオケの後、オレたち電車で帰っただろ?」
「……ああ」
僕は、アパートまで一人で歩いて帰ったけど。
「たまたまだけどな、オレ、聖冬ちゃんの家と同じ方向の電車だったんだ」
そう。そうだった。僕はホームへ向かう階段を降りる二人を見送ったんだ。
「オレ、聖冬ちゃんのこと家まで送って行ったんだ。もう夜だったし、危ないと思って」
「……うん」
胸騒ぎが大きくなった。
「実はオレ、聖冬ちゃん、初めて見た時からタイプだったんだ」
呼吸が止まった。
「で、別れ際に言ったんだ。『オレとつきあわないか?』って」
つきあう? それは、つまり…… それって、まさか……
「……で、何て……」
かろうじて声が出た。
「聖冬ちゃん、ビックリしてた。きっとそういう経験とかあまりないんだろうな。女子校だったって言ってたし」
一呼吸おいて、慶野君が続けた。
「困った顔してたから、『本気で好きだ』て言ってやったんだ。遊びだと思われないように」
まさか……慶野君が、里木さんのこと……
「いや、もちろん遊びじゃないよ、本当に。で、本気度最高で訴えたわけだ。そしたら、『少し考えさせて』って」
今朝の里木さん、そんなこと一言も言ってなかった……
「でも、まんざらでもない感じだったな。オレの印象としては」
「そ……そうなのか?」
信じられなかった。
「というわけで、返事待ちの状態だけどな。お前には言っておこうと思って。これからのランチ会のこともあるし」
「そ……そうか」
そう答えるのが精一杯だった。気持ちの整理がつかなかった。ていうより、混乱していた。
僕は右手に持ったままだった箸を置いた。
「何だ、もうごちそう様か? まだだいぶ残ってるぞ」
「いや、急にお腹が痛くなって……」
言い訳した。
「……顔色悪くなってるぞ。大丈夫か?」
「……いや、大丈夫」
僕は顔を上げてテーブルの向かいに座る慶野君を見た。慶野君は、本当に心配そうに、僕の顔を覗き込んでいてくれた。
慶野君は……友達だ。慶野君は……いいやつだ。ほんとうにいいやつだ……
僕は心の中でつぶやいていた。
里木さんと、それにと慶野君、福波さんと四人でカラオケに行く約束の日がきた。
この日も僕は里木さんと朝の青空台を歩いた。5分間のデート。
「今日ですね、カラオケ」
里木さんが言った。
「はい」
答えたけど、やっぱり不安な気持ちは消えてなかった。
「僕の歌、笑わないでくださいね。この前も言いましたけど」
「いえ、わたしの歌こそ、下手でも笑わないでくださいね」
「笑うなんて、とんでもないです。里木さんの歌、楽しみにしてます」
「ありがとうございます!」
里木さんの屈託ない笑顔。
「それじゃ……よろしくお願いします」
「はい! こちらこそ!」
少しだけ、不安が消えた、ような気がした。
その日の昼休み。マゾリーノでの三回目のランチ会。
「それじゃ、5時半に正門前で。駅前通りのカラオケ、予約しておくから」
慶野君が言った。
「お願いします!」
福波さんが元気よく答える。
「倉田も忘れるなよ! ま、いやでもオレが引っぱって行くけど」
「ああ、わかってるよ……」
三日前、里木さんに誘われて僕もカラオケに行くことにした。あの後、グループラインにも『行きます』と返事した。元合唱部の里木さんと福波さん、バンドでボーカルをしている慶野君。きっと三人とも上手なんだと思う。もちろん三人に対抗しようなんて思ってない。せめてみんなをシラケさせないように……いっそウケ狙いで……でもどうすればウケるのかもわからないけど……そんなことを考えていた。僕は黙ってただみんなの歌を聞いていようか。そんなことも考えていた。
里木さんを見た。里木さんは、いつものように微笑みながら、僕の方を見ていてくれた。
午後の授業が終わった。僕たちは正門前で落ち合った。
四人で駅に向かうバスに乗った。僕はいつも、大学からの帰り道も青空台を歩いていたけど、この日はみんなにつきあった。
そういえば、里木さんは帰り道はどうしているのだろう。そんなことを思ったけど、口には出さなかった。
僕たちは、駅の一つ手前のバス亭で降りて、駅前通りにあるカラオケ店に入った。
カラオケ店に着くと、さっそく慶野君が最初の曲を入れてマイクを握った。
「じゃ、オレから」
慶野君が立ち上がって歌い始めた。有名なアイドルグループのアップテンポな曲だ。里木さんと福波さんが曲に合わせて手拍子を始めた。
僕も聞いたことのある曲だった。まずはみんなが知っている乗りのいい曲で場を盛り上げようということだろう。慶野君の配慮、ていうか、場離れ感? に関心した。
バンドのボーカルをしているだけあってうまい。
「倉田、これ!」
曲の合間に慶野君が僕にタンバリンを手渡してきた。僕は曲に合わせてリズムを取ろうとしたけど、なかなかうまくできなかった。
そんな僕を、僕の向かいに座った里木さんは手拍子しながら笑顔で見ていてくれた、ような気がした。暗くてよくわからなかったけど。
慶野君の曲が終わった。里木さんと福波さんはパチパチと拍手。僕も合わせて手をたたいた。
「よかった!」
「どういたしまして!」
福波さんと倉田君が声を掛け合っている。
「次、私!」
そう言いながら福波さんがマイクを持って立ち上がった。有名な女性ボーカルのこれもアップテンポな曲だ。福波さんも元合唱部だけあってうまい。
「倉田、次お前」
慶野君が選曲ナビを僕の前に置いた。里木さんがまた僕の方を見ている。
しかたない。僕はナビの画面で曲を探した。僕だってカラオケが初めてのわけじゃない。自分でギターを弾きながら歌を歌うこともある。最近の歌を全然知らないわけでもない。歌ったことはなかったけど。
福波さんの歌が終わった。
「いいぞ!」
慶野君が拍手しながら声を掛けた。
僕の番だ。緊張する。たかがカラオケなのに。
曲が始まった。僕は座ったまま歌い始めた。僕が選んだ曲は、クラッシックギターの定番。有名な映画音楽にも使われた曲。 もともとはスペインの民謡だけど、日本語の歌詞が付いていた。ヨーロッパの、美しい風景を歌った歌詞。
福波さんは手拍子をしようとして、すぐにあきらめた。手拍子をするようなノリの曲じゃない。慶野君は最初から僕の方は見ないで選曲ナビを操作していた。里木さんは……僕を見ていてくれた。じっと、僕を見ていてくれた。
僕の歌が終わった。次は里木さんの番だ。
前奏が始まると里木さんが立ち上がった。静かな、きれいなメロディーの曲。僕に合わせてくれたのかな……そう思った。思い過ごしかもしれないけど。
あの鈴のような声がマイクで増幅されて響いてくる。僕はその声にうっとりと聴き入った。そういえば、里木さんは合唱部ではどのパートだったんだろう? このきれいな高音はやっぱりソプラノかな? 今度、青空台で会った時に訊いてみよう……僕はそんなことを考えていた。
歌い終わると、里木さんはみんなに向かって恥ずかしそうにお辞儀をした。
その後、慶野君と福波さんが二曲目を歌った。僕は「ちょっとまた後で……」と言って二曲目をパスさせてもらった。
里木さんは二曲目に、テンポのいい明るい曲を歌った。やっぱり、上手だった。やっぱり、きれいな声だった。全身でリズムを取る姿が愛らしかった。
慶野君が三曲目を歌った後、里木さんと福波さんがデュエットで歌った。
「さすが! 元合唱部!」
慶野君が大きな声を掛けていたけど、その通りだった。
その後も、慶野君と福波さんは何曲か歌っていたけど、僕と里木さんは手拍子をしながら二人の歌を聴いていた。
やがて、予約の終了時間を知らせるコールが入った。
最後に慶野君がエンディングにふさわしい曲を歌って、ソフトドリンクで乾杯して、お開きになった。
僕たちは駅まで歩いた。
「楽しかったね!」
「またやろうぜ!」
慶野君と福波さんが楽しそうに話しながら前を歩いている。僕は里木さんと並んで歩いた。朝の青空台と同じように。僕は何もしゃべらなかった。里木さんは、いつもの笑顔で。
駅の入り口の階段を登り、改札の前まで来た。
「ありがとうございました」
「それじゃまた!」
別れのあいさつ。
「家は、どっちの方?」と、慶野君。
「私、こっち」
福波さんは下り方向の電車で帰るという。
「オレはこっち。聖冬ちゃんは?」
「わたしも、こっちです」
慶野君と里木さんは、同じ上り方向の電車で。
僕は……僕はこのまま、反対側の南口からアパートへ帰る。一人で。
僕たちは改札の前で手を振って別れた。
福波さんが下り電車のホームへ続く階段を降りて行くのが見えた。
慶野君と里木さんは、上り電車のホームへ続く階段へ。
二人が寄り添うように並んで、何か話しながら階段を降りて行く。僕は改札の外側から、ただ黙って、二人を見送った。
僕たちがカラオケに行った9月29日の翌々日、10月1日の日曜日、関東地方に台風が直撃し、東京も激しい風雨に見舞われた。
10月2日、月曜日。台風一過の朝は、雲一つない快晴となった。台風は残暑を吹き飛ばし、いっきに秋が来た。
いつもの青空台。
「台風、すごかったですね。大丈夫でした?」
いつもの場所で待っていてくれた里木さんが心配そうに言ってくれた。
「はい……里木さんは?」
「大丈夫です。ずっと家にいましたから」
僕もずっとアパートにいた。部屋に寝転んで、里木さんの前でカラオケを歌ったことを思い出していた。恥ずかしくて、後悔もしていた。歌わなければよかった。
「いっきに秋になっちゃいましたね。今朝は少し寒いくらい」
快晴の空を見上げながら里木さんが言った。
「そうですね……」
僕はまだ夏服のままで、そうやって歩いていても実はちょっと寒かった。
「カラオケ、楽しかったですね」
「はい……」
そのことには触れてほしくないと思っていた。でも、里木さんの歌は良かった。歌声がよかった。すごく良かった。そのことは伝えておこうと思った。
「里木さん、歌、やっぱり上手ですね。声が、とっても良かった……」
「そんなことないですよ。声量なくて」
里木さんが恥ずかしそうに笑う。
「高校の合唱部の時は、やっぱりソプラノですか?」
カラオケで里木さんの声を聞きながら思ったことを訊いてみた。
「いいえ、メゾソプラノ。高音はやっぱり苦しくて」
「……そうですか」
どの程度違うのか僕にはわからなかったけど。
「倉田さんの歌もよかったですよ」
「そうですか……」
気を遣ってくれている、そう思った。
「あの……前にクラッシックギターのサークルの話、したじゃないですか」
里木さんが言った。
そうだ。大学内にサークルを探して入ったらどうか。里木さんはそう言っていた。
「倉田さん、サークルには入らない、て言ってましたけど……」
そう。僕にはそんな気はなかった。
「でしたら、二人でサークル、始めちゃいませんか?」
「え?」
里木さんが何を言っているのか、僕にはわからなかった。
「二人きりでもいいじゃないですか! 倉田さんが会長で、わたしが会員第一号」
二人で……サークル……心の中で反復した。僕はゆっくりと、里木さんの言っていることを理解した。
「教えてください、ギター」
「い、いや、そんな……」
何て答えればいいのかわからなかった。僕が里木さんにギターを教える? それも二人で? そんなこと、想像もできなかった。自分の顔が赤くなるのがわかった。
「だめ、だめですよ! そんなこと」
僕の口は僕の意志とは関係なく勝手にそう言っていた。
「やっぱりだめですか……わたしとじゃ……」
里木さんががっかりした表情をした。
わたしとじゃ? いや、そういうことじゃなくて。
そう思ったけど、言えなかった。
僕が返事をしないでいると、里木さんはうつむいてしまった。なんとなく気まずい雰囲気になった。
「ちょっと寒いから、僕、大学まで走って行きます」
そう言って、僕は走り出していた。いたたまれなくなって。
里木さんはまた手を振ってくれているだろうか。一瞬そう思ったけど、僕は振り向かなかった。
午前の授業中、授業の内容はまったく頭に入ってこなかった。
僕は朝の里木さんの言葉を思い出していた。二人でサークル……二人きりで……
僕が里木さんにギターを教えている場面を想像してみた。
まずはコード。どうやって教えればいいんだろう? 手本を見せて、それから里木さんにマネしてもらって……
里木さんの白くて長い指を思い出した。きっときれいにギターを押さえるんだろうな……
でも、僕はギターを一本しか持っていない……交代で、交互に弾くか……
場所はどこで? 僕のアパート? まさか! 青空台の手前の公園? これからの季節じゃ寒いかな……大学内の教室を借りられるだろうか? でも、二人でいるところを誰かに見られたら……
授業中、僕はずっとそんなことを考えていた。
昼休み。授業が終わるといつものように慶野君が声を掛けてきた。
「学食行こうぜ」
「マゾリーノランチ会」といオプションが加わったものの、それ以外の日は、それまでと同じように僕は学食で昼食を食べていた。一人きりか、慶野君と二人で。
僕は慶野君と二人で学食へ向かった。
「カラオケ、楽しかったな」
慶野君がラーメンをすすりながら言った。
「しかしお前の歌、暗いぞ」
「いいだろ、好きなんだから」
「まあいいけど……実はな、お前に言っておきたいことがある」
慶野君が箸を持ったまま話し出した。
何だろう。少しだけ胸騒ぎがした。
「先週のカラオケの後、オレたち電車で帰っただろ?」
「……ああ」
僕は、アパートまで一人で歩いて帰ったけど。
「たまたまだけどな、オレ、聖冬ちゃんの家と同じ方向の電車だったんだ」
そう。そうだった。僕はホームへ向かう階段を降りる二人を見送ったんだ。
「オレ、聖冬ちゃんのこと家まで送って行ったんだ。もう夜だったし、危ないと思って」
「……うん」
胸騒ぎが大きくなった。
「実はオレ、聖冬ちゃん、初めて見た時からタイプだったんだ」
呼吸が止まった。
「で、別れ際に言ったんだ。『オレとつきあわないか?』って」
つきあう? それは、つまり…… それって、まさか……
「……で、何て……」
かろうじて声が出た。
「聖冬ちゃん、ビックリしてた。きっとそういう経験とかあまりないんだろうな。女子校だったって言ってたし」
一呼吸おいて、慶野君が続けた。
「困った顔してたから、『本気で好きだ』て言ってやったんだ。遊びだと思われないように」
まさか……慶野君が、里木さんのこと……
「いや、もちろん遊びじゃないよ、本当に。で、本気度最高で訴えたわけだ。そしたら、『少し考えさせて』って」
今朝の里木さん、そんなこと一言も言ってなかった……
「でも、まんざらでもない感じだったな。オレの印象としては」
「そ……そうなのか?」
信じられなかった。
「というわけで、返事待ちの状態だけどな。お前には言っておこうと思って。これからのランチ会のこともあるし」
「そ……そうか」
そう答えるのが精一杯だった。気持ちの整理がつかなかった。ていうより、混乱していた。
僕は右手に持ったままだった箸を置いた。
「何だ、もうごちそう様か? まだだいぶ残ってるぞ」
「いや、急にお腹が痛くなって……」
言い訳した。
「……顔色悪くなってるぞ。大丈夫か?」
「……いや、大丈夫」
僕は顔を上げてテーブルの向かいに座る慶野君を見た。慶野君は、本当に心配そうに、僕の顔を覗き込んでいてくれた。
慶野君は……友達だ。慶野君は……いいやつだ。ほんとうにいいやつだ……
僕は心の中でつぶやいていた。