9月25日、月曜日。朝。曇り空。
この日も僕は青空台のあの場所を目指して歩いていた。前の週、イタリアンレストラン「マゾリーノ」で里木さんに会えたのは予想外だった。そして今日もまた里木さんとランチができることになった。二人で、じゃないけど。
もちろん、うれしくはあった。うれしくないわけない。里木さんと会って話ができる機会が増えたのだから。でもなぜか…… 僕は素直に喜べなかった。なぜだかわからない。この気持ちは……不安感。そう、僕は不安なのだ。でも、何が? 慶野君と福波さんを含めた四人のグループ、仲間ができてしまったから? 今までは友達らしい友達は慶野君しかいなかった。まして女性の友達なんていなかった。友達が増えてしまったから……それが不安? わからない。でもなぜか、不安だった。僕はずっと、そんなことを考えていた。
いた。あの場所に、里木さんはいた。こっちを向いて、小さく右手を振ってくれていた。
「おはようございます」
里木さんが会釈してくれた。
「おはようございます」
僕もあいさつを返した。
「今日はまた、『マゾリーノ』ですね」
里木さんがうれしそうに言った。
「そうですね……でも、いいんですか? 慶野君、強引だから。迷惑だったんじゃ……」
「そんなことないです。マゾリーノのランチ、楽しみです」
「……ほんとですか?」
「はい!」
僕の漠然とした不安を跳ね返すように里木さんが明るく答えた。
「うまいし、値段も手ごろですよね……」
僕は自分自身にも言い聞かせていた。
「ほんと、おいしいですよね! でも、それだけじゃなくて」
里木さんが首をかしげて僕の方を見た。
「わたし、中高と女子校だったんで、男子の友達って、いなかったんです」
「え?」
「ですから、倉田さんや慶野さんと、お友達になれたらいいな、て思って」
少し意外な気がした。
「慶野さん、て、面白いですよね」
「……そうですね」
やっぱり慶野君か……僕の不安の正体が少しわかったような気がした。
大学通りに出た。
「それじゃ、ランチに」
キャンパスに入ると、僕はそう言って右に向かった。
「はい、楽しみにしてます」
里木さんはそう言って、右手を振りながら僕を見送ってくれた。
午前最後の授業、僕と慶野君は教室の一番後ろ、出入り口の一番近くの席に陣取った。そして授業が終わるのと同時に、教室を飛び出して、走った。マゾリーノを目指して。前の週の金曜日と同じように。
マゾリーノには、ランチ目当ての学生の中では一番乗りで到着した。ウエイトレスさんに四人連れだと言って、前回と同じテーブル席に通してもらった。
店内が学生でいっぱいになる頃、里木さんと福波さんもやって来た。慶野君が手を振って合図した。
「こんにちは」
「ありがとうございます」
そう言いながら二人も席についた。
「悪いですね! 席取りさせちゃって!」
福波さんが言ってくれたけど、あまり「悪い」という気持ちは感じられなかった。
間もなく注文したランチが運ばれてきた。パスタ、スープにサラダ。やっぱり、おいしかった。
食べながら僕は、里木さんを見ていた。里木さんも食べながら、顔を上げるたびに僕の方を見てくれた、ような気がした。
一番に食べ終わった慶野君が言った。
「明日はどうする?」
これから毎日走るのか? そう思って僕は慶野君を見た。
「私は食べたい!」
福波さんが反応する。
「毎日席取りさせちゃ、悪いですよ」
里木さんが言ってくれた。
「オレはいいけど。な、倉田」
僕は黙っていた。
「う~ん……さすがに毎日、ていうわけにはいかないかな?」
福波さんは僕の気持ちを察してくれたみたいだ。
「そうだな……それじゃ、週一回、ていうのはどう? 週一のランチ会」
「うん、それいい」
「何曜日にする?」
「やっぱ週末。金曜日がいい!」
慶野君と福波さんの間で話が進む。
「じゃ、そういうことで! 次回は今週の金曜日!」
「聖冬もいいよね」
僕は里木さんを見た。里木さんも僕の方を見ていた。僕は里木さんに向かってうなずいた。
「……うん」
里木さんも同意した。
「それじゃさ、グループライン、作っておかない?」
慶野君が続けて提案した。
「いいね!」
すぐに福波さんが答える。
「急な用事とかもあるかもしれないし。すぐに連絡取れるようにしておいた方がいいよね。お互い」
慶野君が続けた。
「そうだね!」
またしても慶野君と福波さんの間で話が進む。
「いいよね!」
福波さんが里木さんに声をかける。
「うん、いいけど」
里木さんはいつもの笑顔。里木さんがいいなら……僕もいいけど。
「じゃ、さっそく」
慶野君がスマホを取り出した。続いて福波さんと里木さんも。
「じゃ、まずオレと福波さんで」
慶野君が立ち上がって福波さんの横に移動した。二人はお互いのスマホを近づてけて何か操作し始めた。
「よし、できた」
慶野君が言った。
「聖冬、招待したから参加して」
里木さんも自分のスマホを操作しはじめた。
「倉田、お前も」
もたもたしている僕に慶野君が言う。
「……どうするの?」
僕もスマホを取り出したけど、どうしていいのかわからなかった。
「貸してみろ」
慶野君が僕のスマホを取り上げた。
大学に入学して慶野君と知り合ってすぐ、やっぱり慶野君に言われて二人のラインはつなげていた。その時も慶野君にやってもらった。でも実際ラインで連絡し合ったことはほとんどなかった。ほぼ毎日大学で会っていたし。
「できたぞ」
慶野君が僕にスマホを返してきた。
里木さんは相変わらず微笑みながらスマホの画面を見ている。僕はまた、理由のわからない漠然とした不安を感じていた。
里木さんが顔を上げて僕を見た。あの笑顔で。僕の不安は、少しだけ和らいだ。
その日の夜。
僕は布団の上に寝転んでスマホを見ていた。マゾリーノで慶野君に設定してもらったグループライン。タイトルは「マゾリーノランチ会」。そのまんまだ。
画面に次々にメッセージが飛び込んでくる。送っているのは慶野君と福波さん。自己紹介の応酬だ。
『もうじき大学祭でしょ。ホールでやる軽音の合同コンサートに俺たちのバンドも出演するんだ』
『すごいね! 絶対見に行くから!』
『ありがとう! 彩香ちゃんも聖冬ちゃんも元合唱部でしょ? 大学ではやらないの?』
いつの間にか下の名前、それも「ちゃん」付けになってる。
『大学の合唱部って本格的すぎてちょっとついて行けない感じ』
『そうだよね。でも二人とも歌うまいんでしょ?』
『そう思う?』
『もちろん』
僕は里木さんのことが気になっていた。里木さんは少しも入ってこない。僕もだけど。
『そうだ! 今度四人でカラオケ行こうよ!』
え?
僕の生の声。
『いいね!』
『倉田さんもいいかな?』
『倉田、いいよな?』
僕は返事しなかった。
『聖冬ちゃんはどうかな?』
『聖冬もいいよね?』
里木さんのメッセージが入った。
『はい。いいですよ。行きましょう』
僕は……僕だけは、決められずにいた。
9月26日、火曜日。朝。この日も曇り。
青空台の、いつものあの場所。里木さんはいてくれた。いつもの、あの笑顔で。
「おはようございます」
いつものあいさつに続けて里木さんが言った。
「夕べ、ライン、見てました?」
予想していた問いかけだ。
「あ……は、はい」
「よかった! カラオケ、行きましょうね」
里木さんがうれしそうに続ける。
「でも僕、最近の歌とか、あまり知らないし……」
「大丈夫ですよ、きっと倉田さんが得意な歌もありますよ!」
「……」
即答できなかった。
僕の様子を見て里木さんが話題を変えてきた。
「そういえば、学内にクラッシックギターのサークルとか、ありましたか?」
「いや……」
正直、そんなもの探してもいなかった。
「倉田さんが入ったら、わたしもそのサークルに入ります!」
「……どうして?」
「わたしも興味あります、クラッシックギター」
「……ほんとですか?」
信じられなかった。
「それに……」
里木さんが僕の顔を覗き込んでくる。
「わたし、倉田さんのギター、聞いてみたいんです」
「え?」
何で? そう思ったけど、口には出さなかった。
「サークルに入ったら、聞かせてくださいね」
正直に言っておいた方がいいと思った。
「入らないかもしれない……サークルには。たぶん入らないと思います」
「そうですか……」
里木さんの声は少し残念そうに聞こえた。
「じゃ、せめて……ね、カラオケ、行きましょうよ」
話題がカラオケに戻った。僕は黙っていた。黙って歩きながら考えていた。
僕が今感じているこの気持ちは……不安感。抵抗感。
この前からそうだ。マゾリーノのランチ会、グループライン、そしてカラオケ。そのすべてに僕は不安と抵抗を感じている。 なぜだろう? 自分でもわからなかった。今だって、せっかく里木さんが誘ってくれているというのに……
里木さんに自分の歌を聞かれるのが恥ずかしいのか? 確かにそれもある。僕だって歌くらい歌えるけど、けしてうまくはない。それに最近の歌はほとんど知らない。里木さんだけじゃなくて、みんなをシラケさせてしまう、そんな思いもある。でも、それだけじゃない。四人で集うこと、四人が親しくなること、それ自体に対する不安感と抵抗感……
「……わたしの歌も、聞いてほしいな」
里木さんが言った。
ドキッとした。そうか、カラオケに行けば里木さんの歌を聞くことができる。元合唱部。鈴の音のような声。どうしてそのことに思い至らなかったのだろう。
僕は横を歩く里木さんを見た。里木さんは恥ずかしそうにうつむいていた。
里木さんの一言が僕の心に勇気をくれた。里木さんにそこまで言わせて断るわけにはいかない。
「うん……行きましょう」
僕は言った。里木さんが顔を上げて、笑った。うれしそうに笑った。
「里木さんの歌、聞かせてください」
「はい!」
里木さんの笑顔がまぶしかった。
「そのかわり……僕の歌、笑わないでくださいね」
「もちろん!」
里木さんが元気に答えてくれた。それからすぐ、しまった、という顔をした。
「その、笑うのを我慢する、ていう意味じゃないですよ」
僕も笑った。苦笑、ていうのかな? でも笑った。里木さんも笑った。
「ところで……」
僕は前の日から気になっていたことを訊いてみた。
「僕たちが……こうして朝、会っていること、福波さんは知っているんですか?」
会っている、という表現が正しいのかどうかわからなかったけど。僕たちがこうしていっしょに歩いているのは、あくまで偶然、たまたま同じ道を通って大学に行く、それだけのことなのだし。
「え?」
里木さんはちょっと驚いた顔をした。
「……話してません」
そうか、やっぱり。なんとなく、そんな気がしていた。
「倉田さんは、慶野さんに話してますか?」
「いや、僕も話してない」
また少しの間、沈黙してしまった。
「話しておいた方がいいのかな?」
里木さんが言った。
「……あえて話す必要はないと思うけど」
そう。これはあくまで「偶然」なのだから。
「そうですよね……」
またしても微妙な沈黙。
「あの、これからもこの時間、こうして会ってもらえますか?」
里木さんが言った。予想外だった。里木さんの方から、そんなことを言ってもらえるなんて、思ってもいなかった。
「毎週、マゾリーノで四人で会うことになりましたけど……それとは別に……」
里木さんが続けた。
僕は確信した。「偶然」じゃない。里木さんは、意志を持って、僕に会いたいという意志を持って、あの場所で僕のことを待っていてくれたんだ。そして、これからもそうしてくれる、そうしたいと言ってくれている。
「はい、もちろん」
僕は答えた。
「ありがとうございます」
また里木さんが笑った。
お礼を言いたいのは僕の方だった。僕は、こうして毎朝、里木さんに会えることを楽しみにしていた。里木さんに会いたいと思っていた。そしてこれからも会いたいと思っている。
約束。間違いない、これは「約束」だ。僕は、里木さんと毎朝会う「約束」をした。
僕たちは青空台を抜けて大学通りに出ていた。
この、朝の「デート」、時間にすれば、そう、五分くらいだろう。この五分間の「デート」。僕は、この毎日が永久に続けばいいと思った。そしてこの日、里木さんが「約束」してくれたことで、この日々は本当に永久に間続く、その時僕には本当に、そう思えた。
この日も僕は青空台のあの場所を目指して歩いていた。前の週、イタリアンレストラン「マゾリーノ」で里木さんに会えたのは予想外だった。そして今日もまた里木さんとランチができることになった。二人で、じゃないけど。
もちろん、うれしくはあった。うれしくないわけない。里木さんと会って話ができる機会が増えたのだから。でもなぜか…… 僕は素直に喜べなかった。なぜだかわからない。この気持ちは……不安感。そう、僕は不安なのだ。でも、何が? 慶野君と福波さんを含めた四人のグループ、仲間ができてしまったから? 今までは友達らしい友達は慶野君しかいなかった。まして女性の友達なんていなかった。友達が増えてしまったから……それが不安? わからない。でもなぜか、不安だった。僕はずっと、そんなことを考えていた。
いた。あの場所に、里木さんはいた。こっちを向いて、小さく右手を振ってくれていた。
「おはようございます」
里木さんが会釈してくれた。
「おはようございます」
僕もあいさつを返した。
「今日はまた、『マゾリーノ』ですね」
里木さんがうれしそうに言った。
「そうですね……でも、いいんですか? 慶野君、強引だから。迷惑だったんじゃ……」
「そんなことないです。マゾリーノのランチ、楽しみです」
「……ほんとですか?」
「はい!」
僕の漠然とした不安を跳ね返すように里木さんが明るく答えた。
「うまいし、値段も手ごろですよね……」
僕は自分自身にも言い聞かせていた。
「ほんと、おいしいですよね! でも、それだけじゃなくて」
里木さんが首をかしげて僕の方を見た。
「わたし、中高と女子校だったんで、男子の友達って、いなかったんです」
「え?」
「ですから、倉田さんや慶野さんと、お友達になれたらいいな、て思って」
少し意外な気がした。
「慶野さん、て、面白いですよね」
「……そうですね」
やっぱり慶野君か……僕の不安の正体が少しわかったような気がした。
大学通りに出た。
「それじゃ、ランチに」
キャンパスに入ると、僕はそう言って右に向かった。
「はい、楽しみにしてます」
里木さんはそう言って、右手を振りながら僕を見送ってくれた。
午前最後の授業、僕と慶野君は教室の一番後ろ、出入り口の一番近くの席に陣取った。そして授業が終わるのと同時に、教室を飛び出して、走った。マゾリーノを目指して。前の週の金曜日と同じように。
マゾリーノには、ランチ目当ての学生の中では一番乗りで到着した。ウエイトレスさんに四人連れだと言って、前回と同じテーブル席に通してもらった。
店内が学生でいっぱいになる頃、里木さんと福波さんもやって来た。慶野君が手を振って合図した。
「こんにちは」
「ありがとうございます」
そう言いながら二人も席についた。
「悪いですね! 席取りさせちゃって!」
福波さんが言ってくれたけど、あまり「悪い」という気持ちは感じられなかった。
間もなく注文したランチが運ばれてきた。パスタ、スープにサラダ。やっぱり、おいしかった。
食べながら僕は、里木さんを見ていた。里木さんも食べながら、顔を上げるたびに僕の方を見てくれた、ような気がした。
一番に食べ終わった慶野君が言った。
「明日はどうする?」
これから毎日走るのか? そう思って僕は慶野君を見た。
「私は食べたい!」
福波さんが反応する。
「毎日席取りさせちゃ、悪いですよ」
里木さんが言ってくれた。
「オレはいいけど。な、倉田」
僕は黙っていた。
「う~ん……さすがに毎日、ていうわけにはいかないかな?」
福波さんは僕の気持ちを察してくれたみたいだ。
「そうだな……それじゃ、週一回、ていうのはどう? 週一のランチ会」
「うん、それいい」
「何曜日にする?」
「やっぱ週末。金曜日がいい!」
慶野君と福波さんの間で話が進む。
「じゃ、そういうことで! 次回は今週の金曜日!」
「聖冬もいいよね」
僕は里木さんを見た。里木さんも僕の方を見ていた。僕は里木さんに向かってうなずいた。
「……うん」
里木さんも同意した。
「それじゃさ、グループライン、作っておかない?」
慶野君が続けて提案した。
「いいね!」
すぐに福波さんが答える。
「急な用事とかもあるかもしれないし。すぐに連絡取れるようにしておいた方がいいよね。お互い」
慶野君が続けた。
「そうだね!」
またしても慶野君と福波さんの間で話が進む。
「いいよね!」
福波さんが里木さんに声をかける。
「うん、いいけど」
里木さんはいつもの笑顔。里木さんがいいなら……僕もいいけど。
「じゃ、さっそく」
慶野君がスマホを取り出した。続いて福波さんと里木さんも。
「じゃ、まずオレと福波さんで」
慶野君が立ち上がって福波さんの横に移動した。二人はお互いのスマホを近づてけて何か操作し始めた。
「よし、できた」
慶野君が言った。
「聖冬、招待したから参加して」
里木さんも自分のスマホを操作しはじめた。
「倉田、お前も」
もたもたしている僕に慶野君が言う。
「……どうするの?」
僕もスマホを取り出したけど、どうしていいのかわからなかった。
「貸してみろ」
慶野君が僕のスマホを取り上げた。
大学に入学して慶野君と知り合ってすぐ、やっぱり慶野君に言われて二人のラインはつなげていた。その時も慶野君にやってもらった。でも実際ラインで連絡し合ったことはほとんどなかった。ほぼ毎日大学で会っていたし。
「できたぞ」
慶野君が僕にスマホを返してきた。
里木さんは相変わらず微笑みながらスマホの画面を見ている。僕はまた、理由のわからない漠然とした不安を感じていた。
里木さんが顔を上げて僕を見た。あの笑顔で。僕の不安は、少しだけ和らいだ。
その日の夜。
僕は布団の上に寝転んでスマホを見ていた。マゾリーノで慶野君に設定してもらったグループライン。タイトルは「マゾリーノランチ会」。そのまんまだ。
画面に次々にメッセージが飛び込んでくる。送っているのは慶野君と福波さん。自己紹介の応酬だ。
『もうじき大学祭でしょ。ホールでやる軽音の合同コンサートに俺たちのバンドも出演するんだ』
『すごいね! 絶対見に行くから!』
『ありがとう! 彩香ちゃんも聖冬ちゃんも元合唱部でしょ? 大学ではやらないの?』
いつの間にか下の名前、それも「ちゃん」付けになってる。
『大学の合唱部って本格的すぎてちょっとついて行けない感じ』
『そうだよね。でも二人とも歌うまいんでしょ?』
『そう思う?』
『もちろん』
僕は里木さんのことが気になっていた。里木さんは少しも入ってこない。僕もだけど。
『そうだ! 今度四人でカラオケ行こうよ!』
え?
僕の生の声。
『いいね!』
『倉田さんもいいかな?』
『倉田、いいよな?』
僕は返事しなかった。
『聖冬ちゃんはどうかな?』
『聖冬もいいよね?』
里木さんのメッセージが入った。
『はい。いいですよ。行きましょう』
僕は……僕だけは、決められずにいた。
9月26日、火曜日。朝。この日も曇り。
青空台の、いつものあの場所。里木さんはいてくれた。いつもの、あの笑顔で。
「おはようございます」
いつものあいさつに続けて里木さんが言った。
「夕べ、ライン、見てました?」
予想していた問いかけだ。
「あ……は、はい」
「よかった! カラオケ、行きましょうね」
里木さんがうれしそうに続ける。
「でも僕、最近の歌とか、あまり知らないし……」
「大丈夫ですよ、きっと倉田さんが得意な歌もありますよ!」
「……」
即答できなかった。
僕の様子を見て里木さんが話題を変えてきた。
「そういえば、学内にクラッシックギターのサークルとか、ありましたか?」
「いや……」
正直、そんなもの探してもいなかった。
「倉田さんが入ったら、わたしもそのサークルに入ります!」
「……どうして?」
「わたしも興味あります、クラッシックギター」
「……ほんとですか?」
信じられなかった。
「それに……」
里木さんが僕の顔を覗き込んでくる。
「わたし、倉田さんのギター、聞いてみたいんです」
「え?」
何で? そう思ったけど、口には出さなかった。
「サークルに入ったら、聞かせてくださいね」
正直に言っておいた方がいいと思った。
「入らないかもしれない……サークルには。たぶん入らないと思います」
「そうですか……」
里木さんの声は少し残念そうに聞こえた。
「じゃ、せめて……ね、カラオケ、行きましょうよ」
話題がカラオケに戻った。僕は黙っていた。黙って歩きながら考えていた。
僕が今感じているこの気持ちは……不安感。抵抗感。
この前からそうだ。マゾリーノのランチ会、グループライン、そしてカラオケ。そのすべてに僕は不安と抵抗を感じている。 なぜだろう? 自分でもわからなかった。今だって、せっかく里木さんが誘ってくれているというのに……
里木さんに自分の歌を聞かれるのが恥ずかしいのか? 確かにそれもある。僕だって歌くらい歌えるけど、けしてうまくはない。それに最近の歌はほとんど知らない。里木さんだけじゃなくて、みんなをシラケさせてしまう、そんな思いもある。でも、それだけじゃない。四人で集うこと、四人が親しくなること、それ自体に対する不安感と抵抗感……
「……わたしの歌も、聞いてほしいな」
里木さんが言った。
ドキッとした。そうか、カラオケに行けば里木さんの歌を聞くことができる。元合唱部。鈴の音のような声。どうしてそのことに思い至らなかったのだろう。
僕は横を歩く里木さんを見た。里木さんは恥ずかしそうにうつむいていた。
里木さんの一言が僕の心に勇気をくれた。里木さんにそこまで言わせて断るわけにはいかない。
「うん……行きましょう」
僕は言った。里木さんが顔を上げて、笑った。うれしそうに笑った。
「里木さんの歌、聞かせてください」
「はい!」
里木さんの笑顔がまぶしかった。
「そのかわり……僕の歌、笑わないでくださいね」
「もちろん!」
里木さんが元気に答えてくれた。それからすぐ、しまった、という顔をした。
「その、笑うのを我慢する、ていう意味じゃないですよ」
僕も笑った。苦笑、ていうのかな? でも笑った。里木さんも笑った。
「ところで……」
僕は前の日から気になっていたことを訊いてみた。
「僕たちが……こうして朝、会っていること、福波さんは知っているんですか?」
会っている、という表現が正しいのかどうかわからなかったけど。僕たちがこうしていっしょに歩いているのは、あくまで偶然、たまたま同じ道を通って大学に行く、それだけのことなのだし。
「え?」
里木さんはちょっと驚いた顔をした。
「……話してません」
そうか、やっぱり。なんとなく、そんな気がしていた。
「倉田さんは、慶野さんに話してますか?」
「いや、僕も話してない」
また少しの間、沈黙してしまった。
「話しておいた方がいいのかな?」
里木さんが言った。
「……あえて話す必要はないと思うけど」
そう。これはあくまで「偶然」なのだから。
「そうですよね……」
またしても微妙な沈黙。
「あの、これからもこの時間、こうして会ってもらえますか?」
里木さんが言った。予想外だった。里木さんの方から、そんなことを言ってもらえるなんて、思ってもいなかった。
「毎週、マゾリーノで四人で会うことになりましたけど……それとは別に……」
里木さんが続けた。
僕は確信した。「偶然」じゃない。里木さんは、意志を持って、僕に会いたいという意志を持って、あの場所で僕のことを待っていてくれたんだ。そして、これからもそうしてくれる、そうしたいと言ってくれている。
「はい、もちろん」
僕は答えた。
「ありがとうございます」
また里木さんが笑った。
お礼を言いたいのは僕の方だった。僕は、こうして毎朝、里木さんに会えることを楽しみにしていた。里木さんに会いたいと思っていた。そしてこれからも会いたいと思っている。
約束。間違いない、これは「約束」だ。僕は、里木さんと毎朝会う「約束」をした。
僕たちは青空台を抜けて大学通りに出ていた。
この、朝の「デート」、時間にすれば、そう、五分くらいだろう。この五分間の「デート」。僕は、この毎日が永久に続けばいいと思った。そしてこの日、里木さんが「約束」してくれたことで、この日々は本当に永久に間続く、その時僕には本当に、そう思えた。