4 あの日
9月22日、金曜日。僕が里木さんに初めて会った日から四日目。朝。この日も晴天。晴れの日が続く。
僕はあの場所を目指した。里木さんと会った、青空台の、あの場所。
いた。里木さんはいてくれた。あの、同じ場所にいてくれた。
僕の姿を見つけると、里木さんは微笑んで小さく右手を振ってくれた。前の日と、そしてその前の日と同じように。
この日も僕たちは青空台を並んで歩いた。僕は何を話せばいいか必死になって考えていた。
「倉田さん、大学では、クラブとか、サークルとかやってないんですか?」
里木さんの方から話しかけてくれた。
「……いえ、特に」
正直に答えた。
「高校の時とかは? 昨日のお話だと、野球とかサッカーとかのスポーツはしていらっしゃらなかったみたいですけど……」
「はい……特に何も……」
実際僕は部活動をしていなかった。
「そうなんですか……それじゃ、何か、趣味とか……」
「……ええ」
趣味は、ある。でも即答できなかった。里木さんがどう反応するか、そっちの方が気になっていた。
「里木さんは、何か?」
逆に質問してみた。実際、興味もあった。
「わたし、高校は合唱部だったんです」
「へ~ぇ」
思わず声が出た。里木さんが讃美歌を唄っている姿がすぐに想像できた。やっぱり「聖冬」さんだ。
「大学では?」
訊いてみた。
「新勧の時に大学の合唱部をのぞいてみたんですけど、かなり本格的で……入るのやめちゃいました。ついて行けないかな、て思って。わたし、声量なくて、そもそもそんなにうまくないですし」
謙遜だと思った。きっと上手なんだろうと思った。
同時に、音楽、それも合唱をやっていたのなら、わかってくれるかもしれない、そう思えた。
「実は僕、クラッシックギターが好きなんです」
クラッシックギター。そう。それが僕の趣味だ。
「へ~、倉田さん、ギター弾くんですか?」
「はい。ギター、て言っても、アコースティックギター、いわゆる生ギター、ていうやつですけど」
「聞いてみたいです」
里木さんが関心を示してくれたことがうれしかった。でもまさか、里木さんに聞かせるなんて……
「いや……僕こそ、へたくそですから」
「そんなことないんじゃないですか?」
「いや……それにつまらないですよ。僕が好きなのは、なんていうか、アップテンポな乗りのいい曲じゃなくて、スローテンポで、あまり明るくなくて……」
「いいじゃないですか。わたしもゆったりした静かな曲、好きですよ」
励まされた。里木さんに励まされた。そう思うとまたうれしくなった。
「大学にも、サークルとかもありそうじゃないですか?」
「さあ……」
上向いていた僕の気持ちがまた下を向いた。内心、クラブに入ろうとか、そんな気はなかった。アパートで一人で弾いていれば十分だと思っていた。
「きっと同じ趣味の人、いると思いますよ」
「そうですね……探してみます」
僕はあいまいに答えた。
いつの間にか大学通りに出ていた。
「もう着いちゃいましたね」
里木さんが言った。もっと僕といっしょにいたい、里木さんもそう思ってくれているのだろうか。そう思えた。
「次は……来週ですね」
里木さんが続けて言ってくれた。そうだ。明日は土曜日。僕は土曜の授業は取っていない。そしてその次は日曜日。その間里木さんに会えない。でも、来週になれば、また会える。会って、くれる? 『次は、来週』それは……約束? 僕にはそう聞こえた。そう思えた。
前の日も里木さんは言ってくれた。「また明日」。そして今日、里木さんはその通り、いてくれた。あの場所にいてくれた。
ひょっとして里木さんは、僕を待っていてくれたのではないだろうか。偶然じゃなくて。そして来週も、僕を待っていてくれる、そう言っているのではないだろうか……
うれしさが込み上げてきた。口角が上がっているのが自分でもわかった。同時に、なんだか急に恥ずかしくなってきた。
「はい。また来週」
そう言って僕は、速足で正門から右の方にある経済学部棟へ向かった。この日も里木さんは、小さく右手を振って、僕を見送っていてくれた。
ところで僕は、里木さんに会うまで大学の女子学生とはほとんど口もきいたことなかったけど、つまりそれは、大学に女性の友達はいなかった、ていうことだ。では、男の友達ならたくさんいたか、というと、実はそんなこともなかった。入学して半年近くになるけど、クラブにもサークルにも入っていなかったし、僕は積極的に人に話しかけるタイプではないし。
唯一、一人だけ、友達、に近い存在がいた。
慶野圭太。大学の入学式の後、学部学科ごとのオリエンテーションがあり、僕たちは氏名の五十音順に小クラスに分けられた。その教室で、慶野君は僕の隣に座っていた。五十音順で、「ケイノ」は「クラタ」のすぐ後だからだ。
「君、東京の人?」
慶野君はいきなり話しかけてきた。金髪だったから、僕は留学生なのかと思った。でも、話し方は日本人だった。後で聞いたのだけれど、髪は入学前に染めたのだそうだ。
「違いますけど……」
僕がそう答えると、慶野君は「僕も。仲よくしよ」と言ってきた。
それ以来、慶野君は僕を見つけては頻繁に話しかけてくるようになった。僕は自分から人に話しかけるタイプではないから、必然的に、慶野君だけが、「友達」に近い存在になった。
背が高い。はっきり訊いたことはないが、百七十センチ台の僕よりも十センチは高いから、百八十センチ台の後半くらいはあるだろう。スマートだ。顔の彫りが深くて、少し日本人離れした印象を受ける。金髪のせいもあるだろうけど。軽音楽部でロックバンドを組んでボーカルとギターをしている。ギターはもちろんエレキ。僕の弾く生ギターとは違う。おまけに明るい。メチャクチャ明るい。面白い。男の自分から見ても、女の子にもてそうなタイプだと思う。
一時限目の授業の後、その慶野君が声を掛けてきた。
「大学通りにあるイタリアンのレストラン、知ってるか?」
そういえば、大学通り沿い、大学の向かい側には何軒かレストランやカフェなんかもあった、ような気がする。僕が思い出そうとしているのに構わずに慶野君は話を続けた。
「『マゾリーノ』ていう店。高級そうで値段も高そうだったから敬遠してたんだけど、最近、学生向けにランチを始めたらしいんだ」
そういえばそんな店もあったかな……僕は大学通りを通っていないからよく知らない。昼ご飯はいつも大学の学食を利用していた。一人きりか、慶野君と二人で。
「それがなかなか評判がいいらしい。行ってみようぜ」
「うん……いいけど」
特に断る理由もなかった。
「よし。じゃ、次の授業、教室の一番後ろに座るぞ。出口の一番近く」
「え……なんで?」
「その店がかなり人気らしいんだ。席数もそう多くない。で、昼休み一番で行かないとすぐに満席になる。そうなると店の外で順番待ちだ。だから一番で行く」
「……今日行くの?」
「そう。早いに越したことはない。だから、授業が終わったらすぐに教室を出て、走るぞ」
そこまでしなくても……そう思ったが、慶野君はすでに階段式教室の一番後ろの席を目指して歩き始めていた。仕方なく僕も 慶野君の後を追った。
昼休み。その店、「マゾリーノ」に着いた時、僕も慶野君も思いっきり息を切らせていた。教室から全力で走って来たのだから無理もない。
ヨーロッパのお城のような石の壁に重そうな木製のドア。慶野君が言っていたようにいかにも高級そうなお店だ。店内に入ると白いテーブルクロスのかかった四角いテーブルがきれいに並べられていた。お客さんは近所のご婦人とおぼしき二人組だけ。走った甲斐があった。
ウエイトレスさんが僕たちを奥のテーブルに案内してくれた。四角いテーブルの四方に椅子が一つずつ。僕が奥の席に、慶野君が僕の向かい、入り口側を背にした席に座った。僕たちはまず、ウエイトレスさんが持って来てくれた冷水を飲みほした。
ランチのためかメニューは単純。何種類かあるパスタを選んで、それにサラダとスープのセット。これで税込み六百円。人気の理由がわかった。僕は慶野君が選んだのと同じパスタを注文した。僕はパスタの種類にも詳しくない。
改めて店内を見回してみた。天井が高い。白い壁の所々に風景画がかけられている。落ち着いた雰囲気だ。人気の理由の二つ目がわかった。
そうこうしているうちに次々と学生とおぼしきお客さんが入ってきて、テーブル席はあっという間にいっぱいになった。入り口あたりでウエイトレスさんがお客さんの応対をしているのが見える。
「申し訳ありませんが、ただいま満席ですので、こちらでお待ちください」
「どうする?」
「午後の授業、間に合うかな?」
そんなやりとりをしているのがわかった。
「な、走った甲斐があっただろ?」
慶野君が言った。悔しいけれどその通りだった。
その時。女性の二人組が入って来るのが見えた。一人はショートカットの背の高い女性。その後ろから入って来たのは……見覚えのある黒い髪、大きな瞳。里木さんだ。里木聖冬さんだ。
僕は思わず立ち上がった。店内を見回していた里木さんも僕に気がついたみたいだ。驚いた顔をして、それから小さく微笑んだ。
慶野君が後ろを振り返った。
「知り合いか?」
「……い、いや」
里木さんとの思いがけない再会に僕は戸惑っていた。
『次は、来週ですね』。里木さんの今朝の言葉を思い出した。
「ここなら座れる。呼んでこい!」
慶野君が言った。
「でも……」
「すみません! そちらの二人、知り合いです! ここで相席お願いします!」
僕が躊躇している間に、慶野君が手を挙げて大きな声を出していた。
ウエイトレスさんはすぐに気がついてくれた。二人を案内してこちら向かって来る。慶野君は立ち上がって僕の隣に席を移した。
僕たちのテーブルの前まで来た里木さんがあの鈴の音のような声で言った。
「……いいんですか?」
「どうぞどうぞ」
慶野君が答えた。
「ありがとうございます」
そう言いながら、里木さんが僕の向かい、連れのもう一人の女の人が慶野君の向かいの席に腰を下ろした。
「倉田、紹介しろよ」
すかさず慶野君が言ってきた。
「あ……こちらは、里木さん……それと……」
連れの人のことは僕も知らない。
「福波彩香です。よろしく!」
その人が自分で名乗った。里木さんと対照的なショートカットの髪が、いかにも活発そうな印象だ。
「里木聖冬です。はじめまして」
里木さんが慶野君にあいさつした。
「オレは慶野圭太。倉田と同じ経済学部の一年」
自己紹介もそこそこに慶野君が続けた。
「しかし倉田に女子の知り合いがいるとはな……しかもこんな美人の。驚きだ!」
慶野君が大げさに手を広げて見せた。
「どういう知り合いだ?」
「……」
隠すつもりはなかったけどどう説明していいか、すぐにはまとめらなかった。僕は里木さんの顔を見た。里木さんは黙って微笑んでいる。
「ま、いいや。で、そちらのお二人は?」
「はい。同じ文学部の一年です!」
連れの女の人、福波さんが答えた。
「それに私たち、高校も同じ女子高で、しかも同じ部活!」
福波さんが続けた。印象通り活発な話し方。
「部活って、何部?」
「合唱部です!」
「へ~エ、合唱部か。オレね、軽音のバンドでギターとボーカルやってるの」
「軽音? すごいですね!」
僕には何がすごいのかよくわからなかったけど。
「オレの名前、慶野圭太でしょ? ケイケイ。で、景正大の経済学部で軽音部。オールケイ」
確かにそれはずごい、ような気もする。考えたことなかったけど。
「キャハハハ!」
福波さんが大きな声で笑った。やっぱり活発な人だ。
僕と里木さんは黙って二人のやり取りを聞いていた。意識してなかったけど、僕はたぶんずっと里木さんを見ていた。里木さんも微笑みながら僕を見ていてくれた、ような気がした。
四人分のランチセットが一緒に運ばれてきた。
「よし、食おうぜ」
慶野君が言った。
「いただきます」
そう言って里木さんは目を閉じて手を合わせた。
僕たちは四人で一緒にフォークを手に取った。
この日三回目、僕はこの店の人気の理由を知った。おいしかった。
「うまい!」
慶野君が言った。
「おいしい」
福波さんが言った。
「これなら毎日でもいいな。明日も来ようかな」
慶野君が続ける。
「私もそう思う!」
福波さんがすぐに反応する。
「じゃ、また一緒に食べません?」
「いいですね!」
二人の間で会話が弾む。
「……わたし、土曜は授業、取ってないよ」
里木さんが福波さんに向かって言った。
「あ、私もだ」
福波さんが笑う。そう、僕もだ。
「そっか。オレは土曜もバンドの練習あるから大学来てるけど……じゃ、来週の月曜は?」
「いいですね!」
「……でもここ、ランチタイムはすぐにいっぱいになっちゃいますよね?」
里木さんが言った。
「大丈夫。オレと倉田で走るから。先に四人分の席、キープしておきます!」
僕も走る? そう思って慶野君の顔を見た。慶野君は僕の方なんか見てなかった。
里木さんの顔を見た。里木さんは微笑みながら僕の顔を見ていた。
里木さんとまたランチできるなら……仕方ない。そう思った。
「じゃ、また来週の月曜。わかったな、倉田!」
慶野君がようやく僕の方を見た。里木さんは、やっぱり、僕の顔を見ながら微笑んでいてくれた。
9月22日、金曜日。僕が里木さんに初めて会った日から四日目。朝。この日も晴天。晴れの日が続く。
僕はあの場所を目指した。里木さんと会った、青空台の、あの場所。
いた。里木さんはいてくれた。あの、同じ場所にいてくれた。
僕の姿を見つけると、里木さんは微笑んで小さく右手を振ってくれた。前の日と、そしてその前の日と同じように。
この日も僕たちは青空台を並んで歩いた。僕は何を話せばいいか必死になって考えていた。
「倉田さん、大学では、クラブとか、サークルとかやってないんですか?」
里木さんの方から話しかけてくれた。
「……いえ、特に」
正直に答えた。
「高校の時とかは? 昨日のお話だと、野球とかサッカーとかのスポーツはしていらっしゃらなかったみたいですけど……」
「はい……特に何も……」
実際僕は部活動をしていなかった。
「そうなんですか……それじゃ、何か、趣味とか……」
「……ええ」
趣味は、ある。でも即答できなかった。里木さんがどう反応するか、そっちの方が気になっていた。
「里木さんは、何か?」
逆に質問してみた。実際、興味もあった。
「わたし、高校は合唱部だったんです」
「へ~ぇ」
思わず声が出た。里木さんが讃美歌を唄っている姿がすぐに想像できた。やっぱり「聖冬」さんだ。
「大学では?」
訊いてみた。
「新勧の時に大学の合唱部をのぞいてみたんですけど、かなり本格的で……入るのやめちゃいました。ついて行けないかな、て思って。わたし、声量なくて、そもそもそんなにうまくないですし」
謙遜だと思った。きっと上手なんだろうと思った。
同時に、音楽、それも合唱をやっていたのなら、わかってくれるかもしれない、そう思えた。
「実は僕、クラッシックギターが好きなんです」
クラッシックギター。そう。それが僕の趣味だ。
「へ~、倉田さん、ギター弾くんですか?」
「はい。ギター、て言っても、アコースティックギター、いわゆる生ギター、ていうやつですけど」
「聞いてみたいです」
里木さんが関心を示してくれたことがうれしかった。でもまさか、里木さんに聞かせるなんて……
「いや……僕こそ、へたくそですから」
「そんなことないんじゃないですか?」
「いや……それにつまらないですよ。僕が好きなのは、なんていうか、アップテンポな乗りのいい曲じゃなくて、スローテンポで、あまり明るくなくて……」
「いいじゃないですか。わたしもゆったりした静かな曲、好きですよ」
励まされた。里木さんに励まされた。そう思うとまたうれしくなった。
「大学にも、サークルとかもありそうじゃないですか?」
「さあ……」
上向いていた僕の気持ちがまた下を向いた。内心、クラブに入ろうとか、そんな気はなかった。アパートで一人で弾いていれば十分だと思っていた。
「きっと同じ趣味の人、いると思いますよ」
「そうですね……探してみます」
僕はあいまいに答えた。
いつの間にか大学通りに出ていた。
「もう着いちゃいましたね」
里木さんが言った。もっと僕といっしょにいたい、里木さんもそう思ってくれているのだろうか。そう思えた。
「次は……来週ですね」
里木さんが続けて言ってくれた。そうだ。明日は土曜日。僕は土曜の授業は取っていない。そしてその次は日曜日。その間里木さんに会えない。でも、来週になれば、また会える。会って、くれる? 『次は、来週』それは……約束? 僕にはそう聞こえた。そう思えた。
前の日も里木さんは言ってくれた。「また明日」。そして今日、里木さんはその通り、いてくれた。あの場所にいてくれた。
ひょっとして里木さんは、僕を待っていてくれたのではないだろうか。偶然じゃなくて。そして来週も、僕を待っていてくれる、そう言っているのではないだろうか……
うれしさが込み上げてきた。口角が上がっているのが自分でもわかった。同時に、なんだか急に恥ずかしくなってきた。
「はい。また来週」
そう言って僕は、速足で正門から右の方にある経済学部棟へ向かった。この日も里木さんは、小さく右手を振って、僕を見送っていてくれた。
ところで僕は、里木さんに会うまで大学の女子学生とはほとんど口もきいたことなかったけど、つまりそれは、大学に女性の友達はいなかった、ていうことだ。では、男の友達ならたくさんいたか、というと、実はそんなこともなかった。入学して半年近くになるけど、クラブにもサークルにも入っていなかったし、僕は積極的に人に話しかけるタイプではないし。
唯一、一人だけ、友達、に近い存在がいた。
慶野圭太。大学の入学式の後、学部学科ごとのオリエンテーションがあり、僕たちは氏名の五十音順に小クラスに分けられた。その教室で、慶野君は僕の隣に座っていた。五十音順で、「ケイノ」は「クラタ」のすぐ後だからだ。
「君、東京の人?」
慶野君はいきなり話しかけてきた。金髪だったから、僕は留学生なのかと思った。でも、話し方は日本人だった。後で聞いたのだけれど、髪は入学前に染めたのだそうだ。
「違いますけど……」
僕がそう答えると、慶野君は「僕も。仲よくしよ」と言ってきた。
それ以来、慶野君は僕を見つけては頻繁に話しかけてくるようになった。僕は自分から人に話しかけるタイプではないから、必然的に、慶野君だけが、「友達」に近い存在になった。
背が高い。はっきり訊いたことはないが、百七十センチ台の僕よりも十センチは高いから、百八十センチ台の後半くらいはあるだろう。スマートだ。顔の彫りが深くて、少し日本人離れした印象を受ける。金髪のせいもあるだろうけど。軽音楽部でロックバンドを組んでボーカルとギターをしている。ギターはもちろんエレキ。僕の弾く生ギターとは違う。おまけに明るい。メチャクチャ明るい。面白い。男の自分から見ても、女の子にもてそうなタイプだと思う。
一時限目の授業の後、その慶野君が声を掛けてきた。
「大学通りにあるイタリアンのレストラン、知ってるか?」
そういえば、大学通り沿い、大学の向かい側には何軒かレストランやカフェなんかもあった、ような気がする。僕が思い出そうとしているのに構わずに慶野君は話を続けた。
「『マゾリーノ』ていう店。高級そうで値段も高そうだったから敬遠してたんだけど、最近、学生向けにランチを始めたらしいんだ」
そういえばそんな店もあったかな……僕は大学通りを通っていないからよく知らない。昼ご飯はいつも大学の学食を利用していた。一人きりか、慶野君と二人で。
「それがなかなか評判がいいらしい。行ってみようぜ」
「うん……いいけど」
特に断る理由もなかった。
「よし。じゃ、次の授業、教室の一番後ろに座るぞ。出口の一番近く」
「え……なんで?」
「その店がかなり人気らしいんだ。席数もそう多くない。で、昼休み一番で行かないとすぐに満席になる。そうなると店の外で順番待ちだ。だから一番で行く」
「……今日行くの?」
「そう。早いに越したことはない。だから、授業が終わったらすぐに教室を出て、走るぞ」
そこまでしなくても……そう思ったが、慶野君はすでに階段式教室の一番後ろの席を目指して歩き始めていた。仕方なく僕も 慶野君の後を追った。
昼休み。その店、「マゾリーノ」に着いた時、僕も慶野君も思いっきり息を切らせていた。教室から全力で走って来たのだから無理もない。
ヨーロッパのお城のような石の壁に重そうな木製のドア。慶野君が言っていたようにいかにも高級そうなお店だ。店内に入ると白いテーブルクロスのかかった四角いテーブルがきれいに並べられていた。お客さんは近所のご婦人とおぼしき二人組だけ。走った甲斐があった。
ウエイトレスさんが僕たちを奥のテーブルに案内してくれた。四角いテーブルの四方に椅子が一つずつ。僕が奥の席に、慶野君が僕の向かい、入り口側を背にした席に座った。僕たちはまず、ウエイトレスさんが持って来てくれた冷水を飲みほした。
ランチのためかメニューは単純。何種類かあるパスタを選んで、それにサラダとスープのセット。これで税込み六百円。人気の理由がわかった。僕は慶野君が選んだのと同じパスタを注文した。僕はパスタの種類にも詳しくない。
改めて店内を見回してみた。天井が高い。白い壁の所々に風景画がかけられている。落ち着いた雰囲気だ。人気の理由の二つ目がわかった。
そうこうしているうちに次々と学生とおぼしきお客さんが入ってきて、テーブル席はあっという間にいっぱいになった。入り口あたりでウエイトレスさんがお客さんの応対をしているのが見える。
「申し訳ありませんが、ただいま満席ですので、こちらでお待ちください」
「どうする?」
「午後の授業、間に合うかな?」
そんなやりとりをしているのがわかった。
「な、走った甲斐があっただろ?」
慶野君が言った。悔しいけれどその通りだった。
その時。女性の二人組が入って来るのが見えた。一人はショートカットの背の高い女性。その後ろから入って来たのは……見覚えのある黒い髪、大きな瞳。里木さんだ。里木聖冬さんだ。
僕は思わず立ち上がった。店内を見回していた里木さんも僕に気がついたみたいだ。驚いた顔をして、それから小さく微笑んだ。
慶野君が後ろを振り返った。
「知り合いか?」
「……い、いや」
里木さんとの思いがけない再会に僕は戸惑っていた。
『次は、来週ですね』。里木さんの今朝の言葉を思い出した。
「ここなら座れる。呼んでこい!」
慶野君が言った。
「でも……」
「すみません! そちらの二人、知り合いです! ここで相席お願いします!」
僕が躊躇している間に、慶野君が手を挙げて大きな声を出していた。
ウエイトレスさんはすぐに気がついてくれた。二人を案内してこちら向かって来る。慶野君は立ち上がって僕の隣に席を移した。
僕たちのテーブルの前まで来た里木さんがあの鈴の音のような声で言った。
「……いいんですか?」
「どうぞどうぞ」
慶野君が答えた。
「ありがとうございます」
そう言いながら、里木さんが僕の向かい、連れのもう一人の女の人が慶野君の向かいの席に腰を下ろした。
「倉田、紹介しろよ」
すかさず慶野君が言ってきた。
「あ……こちらは、里木さん……それと……」
連れの人のことは僕も知らない。
「福波彩香です。よろしく!」
その人が自分で名乗った。里木さんと対照的なショートカットの髪が、いかにも活発そうな印象だ。
「里木聖冬です。はじめまして」
里木さんが慶野君にあいさつした。
「オレは慶野圭太。倉田と同じ経済学部の一年」
自己紹介もそこそこに慶野君が続けた。
「しかし倉田に女子の知り合いがいるとはな……しかもこんな美人の。驚きだ!」
慶野君が大げさに手を広げて見せた。
「どういう知り合いだ?」
「……」
隠すつもりはなかったけどどう説明していいか、すぐにはまとめらなかった。僕は里木さんの顔を見た。里木さんは黙って微笑んでいる。
「ま、いいや。で、そちらのお二人は?」
「はい。同じ文学部の一年です!」
連れの女の人、福波さんが答えた。
「それに私たち、高校も同じ女子高で、しかも同じ部活!」
福波さんが続けた。印象通り活発な話し方。
「部活って、何部?」
「合唱部です!」
「へ~エ、合唱部か。オレね、軽音のバンドでギターとボーカルやってるの」
「軽音? すごいですね!」
僕には何がすごいのかよくわからなかったけど。
「オレの名前、慶野圭太でしょ? ケイケイ。で、景正大の経済学部で軽音部。オールケイ」
確かにそれはずごい、ような気もする。考えたことなかったけど。
「キャハハハ!」
福波さんが大きな声で笑った。やっぱり活発な人だ。
僕と里木さんは黙って二人のやり取りを聞いていた。意識してなかったけど、僕はたぶんずっと里木さんを見ていた。里木さんも微笑みながら僕を見ていてくれた、ような気がした。
四人分のランチセットが一緒に運ばれてきた。
「よし、食おうぜ」
慶野君が言った。
「いただきます」
そう言って里木さんは目を閉じて手を合わせた。
僕たちは四人で一緒にフォークを手に取った。
この日三回目、僕はこの店の人気の理由を知った。おいしかった。
「うまい!」
慶野君が言った。
「おいしい」
福波さんが言った。
「これなら毎日でもいいな。明日も来ようかな」
慶野君が続ける。
「私もそう思う!」
福波さんがすぐに反応する。
「じゃ、また一緒に食べません?」
「いいですね!」
二人の間で会話が弾む。
「……わたし、土曜は授業、取ってないよ」
里木さんが福波さんに向かって言った。
「あ、私もだ」
福波さんが笑う。そう、僕もだ。
「そっか。オレは土曜もバンドの練習あるから大学来てるけど……じゃ、来週の月曜は?」
「いいですね!」
「……でもここ、ランチタイムはすぐにいっぱいになっちゃいますよね?」
里木さんが言った。
「大丈夫。オレと倉田で走るから。先に四人分の席、キープしておきます!」
僕も走る? そう思って慶野君の顔を見た。慶野君は僕の方なんか見てなかった。
里木さんの顔を見た。里木さんは微笑みながら僕の顔を見ていた。
里木さんとまたランチできるなら……仕方ない。そう思った。
「じゃ、また来週の月曜。わかったな、倉田!」
慶野君がようやく僕の方を見た。里木さんは、やっぱり、僕の顔を見ながら微笑んでいてくれた。