9 今日

 聖冬はまた、夢を見ていた。
「十九個目のラピスラズリ、倉田君が拾ってくれたよ」
「そうだね。そしてそれを、ここまで持ってきてくれた」
 ソファに並んで座る祖母が答えた。
「わたし、十九歳になれるの?」
「ああ、そうだよ。あの子が、石といっしょに聖冬をここまで連れてきてくれたから。そのために、あの子には少し辛い思いをさせてしまったけど……」
「でも、二十歳のわたしは? 二十一歳のわたしは?」
「……大丈夫。あの子がずっと、守ってくれる」
「わたし……行ってもいい?」
「ああ、もちろんだよ。お行きなさい……あの子のところへ」

「ピピピ、ピピピ、ピピピ」
 目覚まし時計の電子音で、僕は目を開けた。
 うつ伏せの姿勢になって、手を伸ばす。ギターケースの上に乗せた目覚まし時計のボタンを押して電子音を止める。
 暗闇の中に見慣れたデジタル表示の時刻が光っている。
「6:00」朝の6時だ。
 そしてその下に表示された日付は……「12/25」。12月25日、クリスマス。
 そう、今日は、12月24日の翌日だ。
 仰向けになって考える。これからの僕がすべきことを。
 僕は明日、実家へ帰る。そして両親に僕の思いを話すつもりだ。
 景正大を、辞める。東京のアパートを引き払って、実家へ戻る。そして来年、地元の大学を受験しなおす。
 そうすれば……そうすればもう、僕が里木さんと会うことはない。里木さんの運命が、僕のせいで悪い方向へ向かうことはない。
 きっと両親は驚くだろう。反対するかもしれない。それでも……それでも僕は。
 ギターケースの上のスマホを手に取る。何気なく開いたニュース画面。そこに表示されていた記事の見出し……
『地震による建物の被害は甚大ながら犠牲者なし。防災対策の成果か」
「えっ」
 僕は起き上がった。スマホのニュース履歴を確認する。
「12月24日午前8時45分 首都圏に地震発生 最大震度……」
 やっぱり、やっぱり地震はあったんだ。ということは……
 電話の履歴を確認する。実家の母親と何度も通話している。どういうことだ……僕には、僕には記憶がない。
 すぐに通話してみた。
「知春? 大丈夫? 昨日はたいへんだったね」
 母親の声。安心する。
「昨日も言ったけど、手伝うことがあったらすぐに飛んで行くからね!」
「あ……ありがとう」
 昨日、地震があった昨日、僕は母親に連絡しているということだ。
 電話を切って、ラインを確認する。
『生きてるか?』
 慶野君だ。
『僕は大丈夫。福波さんは?」
『彩香も無事だ』
 そのやりとりにも、僕は記憶がない。
 里木さん……里木さんは?
 スマホを確認する。スマホには、「マゾリーノランチ会」のグループラインも、里木さんのラインも電話番号もあった。
 改めて思う。今日は、僕が里木さんと出会った、そして慶野君と福波さんと過ごしたあの日に連続する「今日」なんだと。
 ということは、昨日、里木さんは、僕と待ち合わせた駅の階段で……
 電話にもラインにも、昨日から里木さんとのやり取りの記録はない。
 そのままスマホで里木さんに電話する。
 繋がらない。
 ラインを打つ。
『大丈夫ですか』
 返事は……ない。「既読」にならない。
 もう一度枕元のギターケースの上を確認する。置いてあったはずの、一粒のラピスラズリが、ない。
 あの日、青空台で里木さんが落としたラピスラズリ。その後、僕が拾ったはずの、ラピスラズリ。
 僕はそれを……拾っていないんだ。

 僕はすぐにアパートを出た。まずは……駅だ。里木さんと会った、里木さんの家の最寄りの駅だ。
 電車は動いていた。電車の中で思い出した。
 藤川さんは? いつき庵は?
 藤川さん個人の電話やラインは知らない。いつき庵に電話する。出ない。まだ朝の7時前だ。誰もいないのだろう。
 駅に着いた。駅員さんを見つける。
「里木さん、いや、昨日、ここの階段から落ちた人はどうなりましたか!」
「いや……大きな地震でしたが、お陰様で大きな怪我人は出さずに済んで……」
 僕の勢いに怯みながら駅員さんが答える。
 だとしたら……駅の階段を降りて駅前に出る。駅前から住宅街を見た。
 どこだ……里木さんの家は、どこだ。わからない。僕は知らない。
 そうだ、あの占い師さんなら……
 僕はまた電車に飛び乗った。
 電車の中で、僕のスマホに電話が入った。里木さん、ではなかった。いつき庵からだった。
「電話くれた? 昨日は余震が怖くて店に行けなかったから、今日は朝から片づけで……」
 藤川さんだ。
「すみません。今日は手伝いに行けそうもありません」
「いいのよ、倉田さんもたいへんだろうから……」
「あの、大将は?」
「一緒よ。文句を言いながら片付けを始めてる」
 よかった。藤川さんも大将も無事だ。でも、里木さんは……
 駅から駅前大通り、そして脇道の商店街へと走った。
 あの雑貨店が見えた。シャッターが閉まったままで、中の様子はわからなかった。あの店員さんも、どうか無事でありますように。
 向かいのビルを見た。「占い 未来の窓」の看板……が、ない。ビルの中には入れたので、階段で四階へ上がった。
「未来の窓」が、ない。あの占い師さんのいた「未来の窓」のドアがあった場所は、非常口だった。ドアを開けてみると、そこはビルの外側の非常階段だった。
 どういうことだろう。不思議だった。でも……仕方ない。きっと、そういうことなんだろう。僕はなぜか、「未来の窓」がないことに納得していた。
 でも、それなら僕は、どこへ、どこへ行けばいい? どうすればいい? どうすれば、里木さんに会える?

 青空台……
 頭に浮かんだ。青空台。僕が初めて里木さんに会った場所。何回も、デート、朝の5分間のデートを重ねた場所。青空台。
 でも、こんな日に? こんな時間に? でも……それでも。

 僕は、青空台へ向かった。
 商店街からその先の公園を走り抜けて……着いた。青空台。
 三つ目の角。角の先は、あの場所。里木さんと初めて会った、そして里木さんが僕のことを待っていてくれた、あの場所。白い塀沿いの歩道、ハクモクレンの木の下。
 僕は、角を右に曲がった。
 前方に後ろ姿が見えた。30メートル先。白いコート。黒くて長い髪。それが首のうしろあたりで一回束ねられて、きれいな流線形を作っている。そう、八分音符だ。
 まさか……
 心臓が高鳴った。走って、早くなっていた鼓動が、さらに。
 そんな……そんなことって。でも、やっぱり……やっぱり、里木さん。里木さんだ。
 里木さんが振り向いた。僕の方を振り向いた。そして微笑んだ。微笑んで、小さく右手を振った。
 走った。僕は里木さんに向かって走った。
 間もなく。僕は里木さんの目の前に立っていた。
「……ありがとう。倉田さん」
 里木さんが言った。
 何が……何がありがとうなんだろう。僕は……僕は何もしてないのに。いや、それよりまず、里木さんが無事だったことを……
 声が出なかった。ずっと走っていたせいで、息が切れていた。
「ずっと、見てましたよ」
 里木さんが言った。
「あなたが、わたしのためにしてくれたこと」
 僕が……僕が何を?
「ここで、この場所で、わたしを抱きしめて、慰めてくれたこと」
 え? それは……いつのこと? 無くなってしまったはずの、あの日のことでは……
「いつき庵で、おいしい和食を食べさせてくれたこと」
 そうだ……でも、それも……
「ここに、わたしの好きな青い花、そう、モラエラを置いてくれたこと」
 そんな……あの日のことも知っているのか?
「あなたの部屋で……あなたにギターを教えてもらって……それから、あなたとキスをしたこと……」
 そう。そうだ。消えてなかった。消えてなかったんだ。あの日のことも、あの日々も、里木さんの中から消えてなかったんだ。
「そしてあなたはいつも、わたしのことを見つめていてくれた」
その通りだ。だって僕は……
「あなたはわたしを助けてくれました」
 助けた?
「大地震があった時、駅の階段から落ちそうになったわたしの手をつかんで、あなたはわたしを抱きとめてくれた」
 え? あの手は……あの手は里木さんに届かなかったのでは……
「地震が治まるまでずっと、わたしを抱きしめていてくれた」
 そんな……そんなことが……知らない。僕は……そのことを知らない……
「倉田さんいてくれなかったら、きっとわたしは助からなかった」
 いや、そうではなくて、僕のせいで、僕がいたせいで、里木さんは……
 泣いていた。いつの間にか、僕は泣いていた。
 そして、いつの間にか里木さんも、涙を流していた。
「地震の後、あなたはわたしのことを家まで送ってくれました」
 里木さんが続けて言った。
「それからあなたは、わたしにプレゼントをくれた……二つ。わたしのお誕生日と、クリスマスのプレゼント」
 里木さんが、首に掛けたペンダントを手に取って見せてくれた。鎖の先に、銀色の金属でできたしずくの形、そう、ティアドロップの形の小さなカプセルが付いたペンダント。
「あなたに言われたとおり、祖母の形見のラピスラズリを一粒、この中にいれています」
 そうだ。商店街の雑貨屋さんで、僕が買ったペンダントだ。
「それから……これも」
 里木さんが左手を上げた。里木さんの左の手首には……青い粒、ラピスラズリの粒を輪にした、ブレスレット。僕が雑貨屋さんで、ペンダントといっしょに買った、ブレスレット。
「このブレスレットが、これからのわたしを守ってくれる」
 違う。そう思った。違う、そうじゃない。
 あの占い師さんも言っていた。
「水晶自体に魔力のようなものがあるわけではありません。水晶に向かって願うことで、自分の意志をそこに集中できるのです」
 ラピスラズリのブレスレットが里木さんを守るんじゃない。そう、里木さんを守るのは、僕だ。この僕だ。
「わたしにこのプレゼントを渡しながら……あなたは、言ってくれました……」
 里木さんが言った。
 わかる。僕がその時、なんて言ったのか、僕にはわかる。
「それは……僕に言わせてください。もう一度、ここで、僕に言わせてください」
 ようやく声が出た。
 里木さんが、うなずいた。泣きながら、うなずいてくれた。
 僕は、里木さんの目を見た。ラピスラズリの粒の、それよりももっと大きくて、もっと深い色の瞳を見た。

「里木さん! 里木聖冬さん! 僕は、あなたのことが好きです! 大好きです! 愛してます!」

(完)