8 明日
「ピピピ、ピピピ、ピピピ」
目覚まし時計の電子音で、僕は目を開けた。
うつ伏せの姿勢になって、手を伸ばす。ギターケースに乗せた目覚まし時計の上部にあるボタンを押して電子音を止める。
見慣れたデジタル表示の時刻が光っている。
「6:00」
時刻表示のすぐ下にある日付は……「9/20」。9月20日。9月19日の次の日。
僕の時間がまた、未来に向かって流れ始めたということだ。
僕はこの前の日、青空台で里木さんがラピスラズリの粒を落としたのを見ていながら、里木さんに近づかなかった。そう、僕は里木さんと、出会わなかった。
僕は、一粒だけ残っていたラピスラズリの粒を拾った。そして、願った。ラピスラズリの粒に、願った。
「明日」がやってきますように、「未来」に向かって、時間が進みますようにと。
今、目覚めた僕は9月18日ではなく、9月20日にいる。僕が願ったとおりに。
僕はいつもより少し早く部屋を出た。そして……着いた。青空台。
あの場所、里木さんがラピスラズリの粒を落とした場所、僕が里木さんと最初に会った、そしてそれからも、里木さんが僕を待っていてくれた場所は、三つ目の角を右に曲がった先の歩道だ。
僕はその一つ手前、二つ目の角に立った。そしてそこで、里木さんを待った。そこからなら三つ目の角を通る里木さんの姿を横から見ることができるはずだ。
前の、そしてその前の9月20日、里木さんは僕のことを待っていてくれた。ラピスラズリを拾ってあげたお礼の、手作りのクッキーを持って。
でも昨日、今の僕にとっての昨日、僕は里木さんに出会っていない。ラピスラズリを拾ってもいない。今日が、その「昨日」の次の日なら……
残暑の中に、秋の気配を含み始めた空気を吸って、僕は待った。
来た。里木さんだ。
里木さんは前を向いて、でも時々周囲に視線を移しながら、そして微笑みながら、まるで笑いかけているように歩いていた。 僕は塀の陰に身を隠した。
里木さんが三つ目の角を通り過ぎた。僕は走って三つ目の角に移動した。角の先の歩道に里木さんの後ろ姿が見えた。
里木さんがあの場所に差し掛かる。あの、ラピスラズリの粒を落とした場所に。
里木さんは、少しだけ周囲の地面に目を落としたように見えたけど、それでも足を止めずにあの場所を通り過ぎた。
僕は里木さんを見送った。遠くからだったけど、肩に掛けたショルダーバッグの取手に小さな水色の袋が揺れているのが見えた。ラピスラズリの粒を一粒入れた、お守りの、手作りのポーチ。
里木さんの姿が見えなくなった。
僕は歩き出した。そして、あの場所に立った。
大丈夫。この日は、僕が里木さんに出会った、里木さんが落としたラピスラズリの粒を拾ってあげた、あの日の次の日じゃない。僕が里木さんに出会わなかった昨日の、次の日だ。
ほっとした。安心した。でも……でも、寂しかった。僕は里木さんに出会わなかった。だから、里木さんも僕に出会わなかった。里木さんは、僕を知らない。そう、僕たちは、出会わなかったんだ。
次の日は、9月21日。そう、9月20日の次の日。その日もやってきた。目覚めてすぐに時計を見た。日付は確かに9月21日だった。
僕は部屋を出た。駅の中を通り抜け、商店街から公園を通って、青空台へ。
僕は前の日と同じ二つ目の角で里木さんを待った。
いつもの時間。来た。里木さん。
里木さんは前の日と同じように、時々周囲に視線を移しながら歩いている。
里木さんが三つ目の角を通り過ぎると、僕もまた三つ目の角に移動した。
里木さんがあの場所に差し掛かる。里木さん足を止めない。里木さんはもう、地面に目を落とすこともない。すぐそばにあるハクモクレンの樹を見上げながら歩いている。
里木さんの姿が見えなくなった。
大丈夫。大丈夫だ。時は流れ始めている。僕はすぐそばにあったハクモクレンの枝のまだ緑色の葉と、そしてその遥か上の澄んだ空を見つめた。
その次の日、9月22日。僕はもう青空台には行かなかった。駅を抜けると駅前通りを真っ直ぐ北に歩いて交差点を左に曲がり、大学通りの坂を登って大学へ行った。大学には8時ちょうどに到着した。里木さんはまだ青空台を歩いている頃だろう。
僕はもう、里木さんに会わない。里木さんとは関わらない。そう決めていた。
1時限目の授業の後、慶野君が僕に声をかけてきた。大学で学唯一、友達に近い存在の慶野君。
「大学通りにあるイタリアンのレストラン、知ってるか?」
知ってる。よく知ってる。
「『マゾリーノ』ていう店。高級そうで値段も高そうだったから敬遠してたんだけど、最近、学生向けのランチを始めたらしいんだ。それがなかなか評判いいらしい。行ってみようぜ」
「いや、やめておくよ」
僕はそう答えた。
「なんだ。倉田なら乗ってくると思ったんだけどな……」
慶野君が残念そうに言う。
「だって、人気の店ならきっと混んでるよ。せっかく行っても入れないかもしれない」
「だから、授業終わったらすぐに走って……」
「そこまでしたくない」
「……そうか」
「それに、男二人でイタリアンでもないだろ。昼はいつもどおり学食行こう」
「うん……」
慶野君はまだあきらめきれない様子だ。
「そうだ、今日は学食のラーメンおごるよ」
「なんで?」
「……慶野君にはいろいろ世話になってるし。まあ、たまにはいいだろ?」
「そうか……そういうことなら……」
慶野君が了承してくれた。この日、僕と慶野君はマゾリーノへ行かない。だから、マゾリーノで里木さんと福波さんに会うこともなくなった。里木さんと福波さんはきっと、マゾリーノに行っても満席で入れない。可愛そうだけど、仕方ない。
僕と慶野君は、教室の席を出口の近くに移動することもなく、同じ席で授業を受けた。そして授業が終わると、二人で歩いて、学食へ向かった。
9月25日、月曜日。僕は駅から駅前大通りを歩き、バス通りの坂を登って大学へ行った。もう青空台は歩かない。
この日も昼休みは慶野君と二人で学食へ行った。マゾリーノへは行かない。当然、四人の「ランチ会」が発足することはない。グループラインも作らない。カラオケへ行こうという話も起こらない。
これでいい。そう、これでいいんだ。
大学の授業が終わってアパートへ帰ると、僕は一人、クラッシクギターを弾いていた。誰に聞かせるわけでもなく。
9月26日の火曜日も、次の水曜日も、木曜日も何事もなく過ぎた。
そして、9月29日の金曜日。この日は里木さんと、そして慶野君と福波さんの四人でカラオケに行った日。でも今の僕は、カラオケになんか行かない。
授業が終わった後、慶野君は軽音のバンドの練習に行った。だから、慶野君が里木さんを電車で送って行くこともない。
里木さん、そして福波さんが、どうしているのかは、知らない。わからない。
10月になった。1日の日曜日、台風が来た。僕はアパートの部屋で、一人で窓の外を見ていた。
台風は残暑を吹き飛ばし、秋が来た。
2日の月曜日、そして3日の火曜日が過ぎた。
僕は里木さんと出会っていない。だから、里木さんとクラッシックギターのサークルの話をすることはない。もちろん里木さんがアパートの僕に部屋に来ることも、里木さんにギターを教えてあげることもない。里木さんの前でギターを弾くことも、下手な歌を聴かせることも、里木さんの手を握ることも、そして里木さんと、キスをすることも……ない。
10日が過ぎた。10月13日、金曜日。
大学からの帰り道、僕は大学通りを一人で歩いた。
いつき庵の前に来た。覚えている。この日僕は、店から出てきた藤川さんに頼んで、いつき庵で働かせてもらうことになったんだ。
僕はいつき庵の前で立ち止まった。
「カラカラカラ」という音がして引き戸が開いた。中からが着物を着た女の人が出てきた。藤川さんだ。
どうしよう。一瞬、迷った。僕が藤川さんに話しかけて、いつき庵で働くことになったとしても、それは里木さんとは関係ないことかもしれない。でも……今の僕が、このままずっといつき庵で働き続けることはできない。働き始めたとしても、遠からず僕は、いつき庵を辞めることになる。そうなればかえって迷惑をかけることになるだろう。だから……
僕はそのまま歩いた。藤川さんに背を向けて。藤川さんはきっと、僕のことなど見ていない。
「カラカラカラ」という音がした。暖簾を掛けて、店の中に戻った藤川さんが引き戸を閉めた音だ。
藤川さん、大将、いろいろ、ありがとうございました。僕は心の中で、改めてお礼を言った。
さらに3週間が過ぎた。大学のキャンパス内にある銀杏の葉は黄色くなり始めていた。
11月12日、日曜日。景正大の大学祭。慶野君のバンドが軽音部のコンサートで演奏する日。僕も会場のコンサートホールに行った。
ステージの上では慶野君たちのバンドの演奏が始まっている。僕は客席の脇の通路を前に進んだ。
前の方、里木さんと福波さんが声援を送っていた席。いた。福波さんだ。立ち上がって手拍子を打っている。でも、里木さんは……いない。里木さんの姿は見えない。里木さんは、コンサートに来ていない。
慶野君には申し訳なかったけど、そのことだけ確認して僕はコンサートホールを出た。冷たい風が吹いていた。黄色くなった銀杏の葉が、それでもまだ必死にしがみついているように見えた。
さらに1か月が過ぎた。キャンパス内の銀杏の葉は散り落ちてしまった。もうしがみついていることもできない。
今の僕の世界にはマゾリーノのランチ会は存在しない。だから、ランチ会で、笑わない里木さん、我慢して、悲しそうにしている里木さんを見ることもない。もちろん、笑ってる里木さんも。
12月17日、日曜日。夜。いつき庵のバイトの帰り道。駅前通り。いつか、四人で、僕と、慶野君と、福波さんと、そして里木さんと行ったカラオケ店の手前。
カラオケ店から二人の男女が出てくるのが見えた。二人はそのまま駅に向かって歩いて行く。寄り添って、腕を組んで。慶野君と、福波さんだ。
僕が里木さんと出会わず、マゾリーノにも行かなかったから、慶野君もまた、里木さんとも福波さんとも出会うことはなくなった。その結果、里木さんが慶野君と付き合うことも、里木さんが傷つくこともなくなった。
でも、慶野君は里木さんの後、福波さんと付き合っていた。二人の、慶野君と福波さんの未来は、どうなってしまったのか? そのことも気になっていた。
翌日、12月18日、月曜日。
大学の教室。一時限目の授業が終わるとすぐに、僕は慶野君を捕まえて話しかけた。
「慶野君」
「おう」
慶野君の、いつもと変わらないさわやかな笑顔。
「あのさ、前から聞きたかったんだけどさ、慶野君て、もてるだろ?」
「なんだ、急に」
慶野君は少し怪訝な顔をした。
「背も高いし、かっこいいし、バンドやってるし」
「……まあな。自分で言うのもなんだけど。それがどうした」
「で、彼女とか、いないのかな、て思って」
「……」
慶野君が不審そうに僕を見る。
「彼女ができんたんじゃないかな、て思って」
「……なんでだ?」
「実はさ、昨日、バイトの帰り、夜、駅前通りを歩いてて……見たんだ。慶野君が女の人と歩いてるの」
「なんだ、そういうことか。別に隠すつもりはない。できたよ。彼女」
「そうか、よかった。おめでとう」
よかった。本当によかった。心からそう思った。
「……あ、ありがとう」
慶野君にすれば僕から祝福されることでもないのだろうけど。
「で、どんな人」
念のため訊いてみた。
「うちの文学部の一年。この前の学祭のコンサート見て好きになったって、軽音の部室にオレのこと訪ねてきた」
「……そうなんだ。積極的な子だね」
「ああ。明るくて活発な子。彩香、福波彩香、ていう」
「ふ~ん」
知ってる。よく知ってる。
僕は里木さんのことも気になっていた。
「それで、その子、いつも友だちいっしょにいない?」
「友だち? いや」
「髪の長い、おとなしめの子とか」
「いや、知らない。それがどうした?」
「いや、何でもない」
僕は笑ってごまかした。
「お祝いに、昼ご飯おごるよ。学食のラーメン」
「そうか、悪いな」
慶野君が笑って答えた。
「倉田、お前……いいやつだな」
慶野君が言った。慶野君も、いいやつだ。ほんとに、いいやつだ。
12月19日、火曜日。あの日。あのことがあった日。
一度目、傷ついた里木さんに何もしてあげられなかった日。二度目、里木さんを抱きしめた日。そして今日、三度目。
朝。久しぶりの青空台。僕が最後に青空台へ来たのは9月21日だから、3か月ぶりだ。
僕はこの前に来た時と同じ場所、里木さんの姿を横から見ることのできる二つ目の角に立った。そして待った。里木さんを待った。
来た。青いマフラー、黒い髪。里木さんだ。僕が里木さんの姿を見るのも三カ月ぶりだ。
里木さんが三つ目の角を通り過ぎると、僕もまた三つ目の角に移動した。里木さんの後ろ姿が見えた。
里木さんが立ち止まった。あの場所、いつか、ラピスラズリの粒を落としたあの場所で。
里木さんはハクモクレンの樹を、そして空を見上げた。そらからゆっくり、ぐるっ、と一回りして、周囲を見回した。景色を堪能している様子だ。
こちらを向いた時、少しだけ里木さんの表情が見えた。その顔は……微笑んでいた。楽しそうに微笑んでいた。そうやって、この日も里木さんは朝の青空台を楽しんでいるのだ。
大丈夫。大丈夫だ。里木さんは幸せだ。
里木さんが再び歩き始めた。僕は塀の陰から出て歩道の角に立った。そして里木さんのうしろ姿を見送った。
里木さんの姿が見えなくなるまで、ずっと、ずっとずっと、その後ろ姿を見送っていた。
12月20日、火曜日。朝。僕は青空台を歩かない。そして12月21日の朝も。
いつか、あの最初の時間の中で、12月20日、21日、そして22日、里木さんは体調を悪くして朝の青空台に現れなかった。僕と会いたくなかったからかもしれない。
今、僕が生きているこの時間の中では、里木さんはいつものように朝の青空台を笑顔で歩いているのだろうか。そうあってほしい。いや、きっとそうだ。僕はそう思った。
12月22日になった。この日も僕は青空台へは行かない。里木さんにラインをすることもない。だから、里木さんと12月24日に会う約束をすることはない。僕と里木さんは、知り合いでも何でもないのだから。
そうして、12月22日が、23日が、通り過ぎて行く。
「ピピピ、ピピピ、ピピピ」
目覚まし時計の電子音で、僕は目を開けた。
うつ伏せの姿勢になって手を伸ばす。ギターケースの上に乗せた目覚まし時計の電子音を止める。デジタル表示の時刻は「6:00」。
時刻表示の下にある日付は……「12/24」。
来た。12月24日。クリスマスイヴ。里木さんの誕生日。
僕はすぐに部屋を出た。快晴。空の色は、濃い青。ラピスラズリ。風が強い。
駅から電車に乗って、里木さんの家の最寄りの駅へ。
着いた。時刻は7時20分。
改札を出ると住宅街側の階段を降りた。ロータリーとクリスマスツリー。ロータリーと歩道の間には車除けのポールが並んでいる。僕はそのポールの前に立った。
それから、待った。その時が来るのを。
里木さんは来ない。来るはずない。僕は、里木さんが来ないことを確認するために、そこにいた。
日曜の朝のせいか、駅に向かう人はそれほど多くない。僕は、僕の脇を通り過ぎる人たち一人ひとりの顔を見た。
あと一時間もすると、この人たちも皆、地震に巻き込まれる。無事でいられるだろうか。占い師さんは、里木さん以外に亡くなった人や、大きな怪我をした人はいないと言っていた。信じよう。その言葉を信じよう。
そして里木さんも、無事にその時をやり過ごせる、はずだ。
スマホで時刻を確認する。8時になった。8時30分、8時40分。42分、43分。
僕はロータリーの周りの歩道を見回した。里木さんの姿はない。
僕はポケットの中からラピスラズリの粒を取り出した。あの日、青空台で里木さんが落とした、そして僕が拾った、一粒のラピスラズリ。
僕は祈った。一粒のラピスラズリに、願いを込めて。里木さんが……里木さんが無事でありますように。
8時44分、そして……8時45分。
地震は……起こらない。何も起こらない。
8時46分、8時47分……時間は進む。何も……起こらない。
僕の……僕の祈りが通じた。
9時……10時……
何も起こらない。
そういうことか。僕が里木さんとの結びつきを断ち切ったことで、世界が変わってしまった。
そもそも、あの日から世界は変わっていた。マゾリーノランチ会は存在しないし、僕はいつき庵で働いていない。
だから……地震も起こらない。
それでも僕は、そこにいた。里木さんの住む街の、駅の前に、いた。
夜になった。
住宅街の家々に明かりが灯っている。きっと今頃、里木さんは、両親から19歳の誕生日を祝ってもらっている。
「メリークリスマス。そして、お誕生日、おめでとう、里木さん」
僕は、星空のような街に向かって、小さな声で、そう呼び掛けた。
「ピピピ、ピピピ、ピピピ」
目覚まし時計の電子音で、僕は目を開けた。
うつ伏せの姿勢になって、手を伸ばす。ギターケースに乗せた目覚まし時計の上部にあるボタンを押して電子音を止める。
見慣れたデジタル表示の時刻が光っている。
「6:00」
時刻表示のすぐ下にある日付は……「9/20」。9月20日。9月19日の次の日。
僕の時間がまた、未来に向かって流れ始めたということだ。
僕はこの前の日、青空台で里木さんがラピスラズリの粒を落としたのを見ていながら、里木さんに近づかなかった。そう、僕は里木さんと、出会わなかった。
僕は、一粒だけ残っていたラピスラズリの粒を拾った。そして、願った。ラピスラズリの粒に、願った。
「明日」がやってきますように、「未来」に向かって、時間が進みますようにと。
今、目覚めた僕は9月18日ではなく、9月20日にいる。僕が願ったとおりに。
僕はいつもより少し早く部屋を出た。そして……着いた。青空台。
あの場所、里木さんがラピスラズリの粒を落とした場所、僕が里木さんと最初に会った、そしてそれからも、里木さんが僕を待っていてくれた場所は、三つ目の角を右に曲がった先の歩道だ。
僕はその一つ手前、二つ目の角に立った。そしてそこで、里木さんを待った。そこからなら三つ目の角を通る里木さんの姿を横から見ることができるはずだ。
前の、そしてその前の9月20日、里木さんは僕のことを待っていてくれた。ラピスラズリを拾ってあげたお礼の、手作りのクッキーを持って。
でも昨日、今の僕にとっての昨日、僕は里木さんに出会っていない。ラピスラズリを拾ってもいない。今日が、その「昨日」の次の日なら……
残暑の中に、秋の気配を含み始めた空気を吸って、僕は待った。
来た。里木さんだ。
里木さんは前を向いて、でも時々周囲に視線を移しながら、そして微笑みながら、まるで笑いかけているように歩いていた。 僕は塀の陰に身を隠した。
里木さんが三つ目の角を通り過ぎた。僕は走って三つ目の角に移動した。角の先の歩道に里木さんの後ろ姿が見えた。
里木さんがあの場所に差し掛かる。あの、ラピスラズリの粒を落とした場所に。
里木さんは、少しだけ周囲の地面に目を落としたように見えたけど、それでも足を止めずにあの場所を通り過ぎた。
僕は里木さんを見送った。遠くからだったけど、肩に掛けたショルダーバッグの取手に小さな水色の袋が揺れているのが見えた。ラピスラズリの粒を一粒入れた、お守りの、手作りのポーチ。
里木さんの姿が見えなくなった。
僕は歩き出した。そして、あの場所に立った。
大丈夫。この日は、僕が里木さんに出会った、里木さんが落としたラピスラズリの粒を拾ってあげた、あの日の次の日じゃない。僕が里木さんに出会わなかった昨日の、次の日だ。
ほっとした。安心した。でも……でも、寂しかった。僕は里木さんに出会わなかった。だから、里木さんも僕に出会わなかった。里木さんは、僕を知らない。そう、僕たちは、出会わなかったんだ。
次の日は、9月21日。そう、9月20日の次の日。その日もやってきた。目覚めてすぐに時計を見た。日付は確かに9月21日だった。
僕は部屋を出た。駅の中を通り抜け、商店街から公園を通って、青空台へ。
僕は前の日と同じ二つ目の角で里木さんを待った。
いつもの時間。来た。里木さん。
里木さんは前の日と同じように、時々周囲に視線を移しながら歩いている。
里木さんが三つ目の角を通り過ぎると、僕もまた三つ目の角に移動した。
里木さんがあの場所に差し掛かる。里木さん足を止めない。里木さんはもう、地面に目を落とすこともない。すぐそばにあるハクモクレンの樹を見上げながら歩いている。
里木さんの姿が見えなくなった。
大丈夫。大丈夫だ。時は流れ始めている。僕はすぐそばにあったハクモクレンの枝のまだ緑色の葉と、そしてその遥か上の澄んだ空を見つめた。
その次の日、9月22日。僕はもう青空台には行かなかった。駅を抜けると駅前通りを真っ直ぐ北に歩いて交差点を左に曲がり、大学通りの坂を登って大学へ行った。大学には8時ちょうどに到着した。里木さんはまだ青空台を歩いている頃だろう。
僕はもう、里木さんに会わない。里木さんとは関わらない。そう決めていた。
1時限目の授業の後、慶野君が僕に声をかけてきた。大学で学唯一、友達に近い存在の慶野君。
「大学通りにあるイタリアンのレストラン、知ってるか?」
知ってる。よく知ってる。
「『マゾリーノ』ていう店。高級そうで値段も高そうだったから敬遠してたんだけど、最近、学生向けのランチを始めたらしいんだ。それがなかなか評判いいらしい。行ってみようぜ」
「いや、やめておくよ」
僕はそう答えた。
「なんだ。倉田なら乗ってくると思ったんだけどな……」
慶野君が残念そうに言う。
「だって、人気の店ならきっと混んでるよ。せっかく行っても入れないかもしれない」
「だから、授業終わったらすぐに走って……」
「そこまでしたくない」
「……そうか」
「それに、男二人でイタリアンでもないだろ。昼はいつもどおり学食行こう」
「うん……」
慶野君はまだあきらめきれない様子だ。
「そうだ、今日は学食のラーメンおごるよ」
「なんで?」
「……慶野君にはいろいろ世話になってるし。まあ、たまにはいいだろ?」
「そうか……そういうことなら……」
慶野君が了承してくれた。この日、僕と慶野君はマゾリーノへ行かない。だから、マゾリーノで里木さんと福波さんに会うこともなくなった。里木さんと福波さんはきっと、マゾリーノに行っても満席で入れない。可愛そうだけど、仕方ない。
僕と慶野君は、教室の席を出口の近くに移動することもなく、同じ席で授業を受けた。そして授業が終わると、二人で歩いて、学食へ向かった。
9月25日、月曜日。僕は駅から駅前大通りを歩き、バス通りの坂を登って大学へ行った。もう青空台は歩かない。
この日も昼休みは慶野君と二人で学食へ行った。マゾリーノへは行かない。当然、四人の「ランチ会」が発足することはない。グループラインも作らない。カラオケへ行こうという話も起こらない。
これでいい。そう、これでいいんだ。
大学の授業が終わってアパートへ帰ると、僕は一人、クラッシクギターを弾いていた。誰に聞かせるわけでもなく。
9月26日の火曜日も、次の水曜日も、木曜日も何事もなく過ぎた。
そして、9月29日の金曜日。この日は里木さんと、そして慶野君と福波さんの四人でカラオケに行った日。でも今の僕は、カラオケになんか行かない。
授業が終わった後、慶野君は軽音のバンドの練習に行った。だから、慶野君が里木さんを電車で送って行くこともない。
里木さん、そして福波さんが、どうしているのかは、知らない。わからない。
10月になった。1日の日曜日、台風が来た。僕はアパートの部屋で、一人で窓の外を見ていた。
台風は残暑を吹き飛ばし、秋が来た。
2日の月曜日、そして3日の火曜日が過ぎた。
僕は里木さんと出会っていない。だから、里木さんとクラッシックギターのサークルの話をすることはない。もちろん里木さんがアパートの僕に部屋に来ることも、里木さんにギターを教えてあげることもない。里木さんの前でギターを弾くことも、下手な歌を聴かせることも、里木さんの手を握ることも、そして里木さんと、キスをすることも……ない。
10日が過ぎた。10月13日、金曜日。
大学からの帰り道、僕は大学通りを一人で歩いた。
いつき庵の前に来た。覚えている。この日僕は、店から出てきた藤川さんに頼んで、いつき庵で働かせてもらうことになったんだ。
僕はいつき庵の前で立ち止まった。
「カラカラカラ」という音がして引き戸が開いた。中からが着物を着た女の人が出てきた。藤川さんだ。
どうしよう。一瞬、迷った。僕が藤川さんに話しかけて、いつき庵で働くことになったとしても、それは里木さんとは関係ないことかもしれない。でも……今の僕が、このままずっといつき庵で働き続けることはできない。働き始めたとしても、遠からず僕は、いつき庵を辞めることになる。そうなればかえって迷惑をかけることになるだろう。だから……
僕はそのまま歩いた。藤川さんに背を向けて。藤川さんはきっと、僕のことなど見ていない。
「カラカラカラ」という音がした。暖簾を掛けて、店の中に戻った藤川さんが引き戸を閉めた音だ。
藤川さん、大将、いろいろ、ありがとうございました。僕は心の中で、改めてお礼を言った。
さらに3週間が過ぎた。大学のキャンパス内にある銀杏の葉は黄色くなり始めていた。
11月12日、日曜日。景正大の大学祭。慶野君のバンドが軽音部のコンサートで演奏する日。僕も会場のコンサートホールに行った。
ステージの上では慶野君たちのバンドの演奏が始まっている。僕は客席の脇の通路を前に進んだ。
前の方、里木さんと福波さんが声援を送っていた席。いた。福波さんだ。立ち上がって手拍子を打っている。でも、里木さんは……いない。里木さんの姿は見えない。里木さんは、コンサートに来ていない。
慶野君には申し訳なかったけど、そのことだけ確認して僕はコンサートホールを出た。冷たい風が吹いていた。黄色くなった銀杏の葉が、それでもまだ必死にしがみついているように見えた。
さらに1か月が過ぎた。キャンパス内の銀杏の葉は散り落ちてしまった。もうしがみついていることもできない。
今の僕の世界にはマゾリーノのランチ会は存在しない。だから、ランチ会で、笑わない里木さん、我慢して、悲しそうにしている里木さんを見ることもない。もちろん、笑ってる里木さんも。
12月17日、日曜日。夜。いつき庵のバイトの帰り道。駅前通り。いつか、四人で、僕と、慶野君と、福波さんと、そして里木さんと行ったカラオケ店の手前。
カラオケ店から二人の男女が出てくるのが見えた。二人はそのまま駅に向かって歩いて行く。寄り添って、腕を組んで。慶野君と、福波さんだ。
僕が里木さんと出会わず、マゾリーノにも行かなかったから、慶野君もまた、里木さんとも福波さんとも出会うことはなくなった。その結果、里木さんが慶野君と付き合うことも、里木さんが傷つくこともなくなった。
でも、慶野君は里木さんの後、福波さんと付き合っていた。二人の、慶野君と福波さんの未来は、どうなってしまったのか? そのことも気になっていた。
翌日、12月18日、月曜日。
大学の教室。一時限目の授業が終わるとすぐに、僕は慶野君を捕まえて話しかけた。
「慶野君」
「おう」
慶野君の、いつもと変わらないさわやかな笑顔。
「あのさ、前から聞きたかったんだけどさ、慶野君て、もてるだろ?」
「なんだ、急に」
慶野君は少し怪訝な顔をした。
「背も高いし、かっこいいし、バンドやってるし」
「……まあな。自分で言うのもなんだけど。それがどうした」
「で、彼女とか、いないのかな、て思って」
「……」
慶野君が不審そうに僕を見る。
「彼女ができんたんじゃないかな、て思って」
「……なんでだ?」
「実はさ、昨日、バイトの帰り、夜、駅前通りを歩いてて……見たんだ。慶野君が女の人と歩いてるの」
「なんだ、そういうことか。別に隠すつもりはない。できたよ。彼女」
「そうか、よかった。おめでとう」
よかった。本当によかった。心からそう思った。
「……あ、ありがとう」
慶野君にすれば僕から祝福されることでもないのだろうけど。
「で、どんな人」
念のため訊いてみた。
「うちの文学部の一年。この前の学祭のコンサート見て好きになったって、軽音の部室にオレのこと訪ねてきた」
「……そうなんだ。積極的な子だね」
「ああ。明るくて活発な子。彩香、福波彩香、ていう」
「ふ~ん」
知ってる。よく知ってる。
僕は里木さんのことも気になっていた。
「それで、その子、いつも友だちいっしょにいない?」
「友だち? いや」
「髪の長い、おとなしめの子とか」
「いや、知らない。それがどうした?」
「いや、何でもない」
僕は笑ってごまかした。
「お祝いに、昼ご飯おごるよ。学食のラーメン」
「そうか、悪いな」
慶野君が笑って答えた。
「倉田、お前……いいやつだな」
慶野君が言った。慶野君も、いいやつだ。ほんとに、いいやつだ。
12月19日、火曜日。あの日。あのことがあった日。
一度目、傷ついた里木さんに何もしてあげられなかった日。二度目、里木さんを抱きしめた日。そして今日、三度目。
朝。久しぶりの青空台。僕が最後に青空台へ来たのは9月21日だから、3か月ぶりだ。
僕はこの前に来た時と同じ場所、里木さんの姿を横から見ることのできる二つ目の角に立った。そして待った。里木さんを待った。
来た。青いマフラー、黒い髪。里木さんだ。僕が里木さんの姿を見るのも三カ月ぶりだ。
里木さんが三つ目の角を通り過ぎると、僕もまた三つ目の角に移動した。里木さんの後ろ姿が見えた。
里木さんが立ち止まった。あの場所、いつか、ラピスラズリの粒を落としたあの場所で。
里木さんはハクモクレンの樹を、そして空を見上げた。そらからゆっくり、ぐるっ、と一回りして、周囲を見回した。景色を堪能している様子だ。
こちらを向いた時、少しだけ里木さんの表情が見えた。その顔は……微笑んでいた。楽しそうに微笑んでいた。そうやって、この日も里木さんは朝の青空台を楽しんでいるのだ。
大丈夫。大丈夫だ。里木さんは幸せだ。
里木さんが再び歩き始めた。僕は塀の陰から出て歩道の角に立った。そして里木さんのうしろ姿を見送った。
里木さんの姿が見えなくなるまで、ずっと、ずっとずっと、その後ろ姿を見送っていた。
12月20日、火曜日。朝。僕は青空台を歩かない。そして12月21日の朝も。
いつか、あの最初の時間の中で、12月20日、21日、そして22日、里木さんは体調を悪くして朝の青空台に現れなかった。僕と会いたくなかったからかもしれない。
今、僕が生きているこの時間の中では、里木さんはいつものように朝の青空台を笑顔で歩いているのだろうか。そうあってほしい。いや、きっとそうだ。僕はそう思った。
12月22日になった。この日も僕は青空台へは行かない。里木さんにラインをすることもない。だから、里木さんと12月24日に会う約束をすることはない。僕と里木さんは、知り合いでも何でもないのだから。
そうして、12月22日が、23日が、通り過ぎて行く。
「ピピピ、ピピピ、ピピピ」
目覚まし時計の電子音で、僕は目を開けた。
うつ伏せの姿勢になって手を伸ばす。ギターケースの上に乗せた目覚まし時計の電子音を止める。デジタル表示の時刻は「6:00」。
時刻表示の下にある日付は……「12/24」。
来た。12月24日。クリスマスイヴ。里木さんの誕生日。
僕はすぐに部屋を出た。快晴。空の色は、濃い青。ラピスラズリ。風が強い。
駅から電車に乗って、里木さんの家の最寄りの駅へ。
着いた。時刻は7時20分。
改札を出ると住宅街側の階段を降りた。ロータリーとクリスマスツリー。ロータリーと歩道の間には車除けのポールが並んでいる。僕はそのポールの前に立った。
それから、待った。その時が来るのを。
里木さんは来ない。来るはずない。僕は、里木さんが来ないことを確認するために、そこにいた。
日曜の朝のせいか、駅に向かう人はそれほど多くない。僕は、僕の脇を通り過ぎる人たち一人ひとりの顔を見た。
あと一時間もすると、この人たちも皆、地震に巻き込まれる。無事でいられるだろうか。占い師さんは、里木さん以外に亡くなった人や、大きな怪我をした人はいないと言っていた。信じよう。その言葉を信じよう。
そして里木さんも、無事にその時をやり過ごせる、はずだ。
スマホで時刻を確認する。8時になった。8時30分、8時40分。42分、43分。
僕はロータリーの周りの歩道を見回した。里木さんの姿はない。
僕はポケットの中からラピスラズリの粒を取り出した。あの日、青空台で里木さんが落とした、そして僕が拾った、一粒のラピスラズリ。
僕は祈った。一粒のラピスラズリに、願いを込めて。里木さんが……里木さんが無事でありますように。
8時44分、そして……8時45分。
地震は……起こらない。何も起こらない。
8時46分、8時47分……時間は進む。何も……起こらない。
僕の……僕の祈りが通じた。
9時……10時……
何も起こらない。
そういうことか。僕が里木さんとの結びつきを断ち切ったことで、世界が変わってしまった。
そもそも、あの日から世界は変わっていた。マゾリーノランチ会は存在しないし、僕はいつき庵で働いていない。
だから……地震も起こらない。
それでも僕は、そこにいた。里木さんの住む街の、駅の前に、いた。
夜になった。
住宅街の家々に明かりが灯っている。きっと今頃、里木さんは、両親から19歳の誕生日を祝ってもらっている。
「メリークリスマス。そして、お誕生日、おめでとう、里木さん」
僕は、星空のような街に向かって、小さな声で、そう呼び掛けた。