この日の授業が終わった。僕は正門に向かった。里木さんとは正門の前で待ち合わせていた。二人でいつき庵へ行った、いや、行く日と、同じ場所で。
来た。文学部の教室棟の方から、里木さんが歩いて来た。僕を見つけると、里木さんは小走りに駆け寄ってくれた。
「よろしくお願いします」
里木さんは僕の目の前まで来て言ってくれた。笑顔で。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
僕はそう答えた。
僕たちはバスに乗って駅まで行き、そこから歩いた。僕のアパートへ向かって。
僕のアパートへ着くまでの間、僕は何もしゃべらなかった。しゃべれなかった。緊張していた。里木さんは、黙って僕についてきてくれた。
僕のアパート。一階の一番奥が、僕の部屋だ。
「ここです」
僕は部屋の鍵を開けて、中に入った。
「どうぞ」
部屋に母親以外の女の人を入れるのは、もちろん初めてだ。
「おじゃまします」
里木さんはそう言いながら、僕に続いて部屋に入ってきてくれた。いつもの笑顔で。
僕の部屋はワンルーム。申し訳程度の玄関を入ると短い廊下があって、その奥がフローリング敷きの洋室になっている。
壁際にテーブルを置いていた。食卓兼勉強机。テーブルには椅子が二つ。一人暮らしだけど。セットで売っていたから。ベッドは置いていない。狭くなるから。
防音はしっかりしていた。借りる時から部屋でギターを弾くことを想定していたから。
ギターはケースには入れずにそのまま壁に立てかけてある。ギターケースは部屋の隅に置いたまま。寝る時はそのケースを枕元に持ってきて、その上に目覚まし時計やら何やらを置く。
僕はテーブルの二つの椅子を部屋の中央に向い合せに置いた。
「どうぞ」
里木さんに座るように勧めた。里木さんが椅子に腰を下ろした。
「それじゃ、始めましょうか」
僕は壁に立てかけてあったクラッシックギターを持って、里木さんの向かいの椅子に座った。
「まずは……僕が見本を見せますね」
僕は、ギターを抱えた。
「こんな風に抱えて、左手の指で弦を押さえて、コード、つまり和音を作る。元合唱部だから、コードはわかりますよね?」
「……はい」
「これが『C』、これが『D』、これが『E』。」
僕はギターを持った左手で順番にコード押さえて見せた。
「そうして、右手で音を出す」
『ジャラン、ジャラン』
僕は右手の親指で音を出した。
「こうやっていっぺんに和音を出すのが『ストローク』ていう弾き方。一音ずつ弦を弾くのが『アルペジオ』ていう弾き方」
『ティン、ティン、ティン、ティン、ティン』
僕はゆっくりと弦を弾いた。里木さんは目を細めて、僕を見ていた。
「それじゃ、里木さんもやってみてください」
僕は立ち上がって、両手で持ったギターを里木さんに差し出した。
「ちょっと……待ってください」
里木さんが言った。
「え?」
「あの……まず、実際にギターで曲を弾いてみせてもらえませんか?」
「曲?」
「はい」
里木さんがまた微笑んだ。
そうか、そういうことか。そうだ。そもそも里木さんは、自分がギターを弾きたいというよりも、僕のギターを聴きたいと言っていた。こんな僕の演奏を。
僕は椅子に腰を下ろしてギターを抱え直した。
「……それじゃ」
僕は、アルペジオでゆっくりと音を出した。
僕は、僕の大好きな、優しい、とっても優しい曲を弾いた。
雪が舞う、冬の情景を現した曲。聖なる冬。里木さんの曲だ。
里木さんは、目を細めて、僕の曲を聴いていてくれた。
僕が弾き終わると、里木さんは、小さく拍手してくれた。小さく、でも、微笑みながら。
それから、もう一曲。カラオケで僕が歌った曲。クラッシックギターの定番。有名な映画音楽に使われた曲。
『ティン、ティン、ティン、ティン、ティン、ティン』
切ない調べが部屋の中に響く。
里木さんは、黙って、僕の弾くギターを聴いていてくれた。
曲が終わった。二人は沈黙した。里木さんは少し、涙ぐんでいた、ような気がした。
「……そろそろ、里木さんも弾いてみますか?」
里木さんに言ってみた。
「……はい」
里木さんが微笑んだ。
僕は立ち上がって、里木さんにギターを差し出した。里木さんも立ち上がって、ギターを受け取ってくれた。
「それじゃ、まず左手でコードを押さえてみて」
僕はイスに腰を下ろした里木さんの後ろに回った。
「まずは『C』。こうです」
僕は里木さんの後ろから左手を回してギターの弦を押さえてみせた。
「やってみて」
僕がギターから手を離すと、里木さんは同じ場所に左手の指を置いた。
「……こう?」
「もっと強く押さえないと、音が出ない」
僕は、弦を押さえる里木さんの指の上に自分の指を重ねた。僕の左手が、里木さんの左手を握るような形になった。
里木さんは、そのまま動かない。何も言わない。
僕も、そのまま動かなかった。動けなかった。
しばらくの沈黙の後、里木さんが上を向いた。里木さんは微笑んで、なかった。その目には涙がたまっていた。
里木さんが、後ろに立つ僕に頭部をあずけるように、首を反らせた。里木さんが僕に寄りかかるような形になった。僕は、僕の身体で、里木さんを受け止めた。
里木さんの左手はもうギターを握っていない。でも僕の左手は、里木さんの左手を握ったままだ。
里木さんが、目を閉じた。里木さんが何を求めているのか、僕にもわかった。
僕は、静かに、僕の顔を里木さんの顔に近づけた。
二人の唇が、重なった。
さっきまで弾いていたクラッシックギターの音が、余韻として耳の中に残っていた。きっと里木さんにも同じ音が聞こえている、そう思った。
しばらくして、僕が顔を離すと、里木さんが目を開けた。
「わたし……慶野さんから……」
「知ってます」
僕は里木さんの言葉を遮った。
「それなのに、こうして、倉田さんと……」
「はい」
僕はうなずいた。
「わたし、どうしていいか……わからなくて……」
里木さんの目から、涙がこぼれた。
「僕には……僕には決められない。でも、僕は……僕も、里木さんのことが、好きです。慶野君に負けないくらい。いや、慶野君よりも、ずっとずっと、絶対に僕の方が、ずっと、里木さんのことを好きです」
そう言って僕は、もう一度、里木さんと、唇を重ねた。
僕は思っていた。
もし、この今日に連続する明日があったら、明日がやってきたら、その日、僕たちは恋人同志でいられるかもしれない……そう思った。
できることなら……このまま里木さんと……そう思った。
いや、だめだ。願っちゃだめだ。
意識を明日に向けちゃだめだ。時間がまたそっちの方向に向かって動き出してしまう。このまま未来に向かったら……きっと僕は、里木さんを救うことができない……
結びつきを断ち切る……占い師さんの言葉がよみがえる。
……それならば、そう、今が、この瞬間が、ずっと続けばいい。いっそうのこと、このままここで、時間が止まってしまえばいい。
里木さんと唇を重ねたまま、僕はそう思っていた。
来た。文学部の教室棟の方から、里木さんが歩いて来た。僕を見つけると、里木さんは小走りに駆け寄ってくれた。
「よろしくお願いします」
里木さんは僕の目の前まで来て言ってくれた。笑顔で。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
僕はそう答えた。
僕たちはバスに乗って駅まで行き、そこから歩いた。僕のアパートへ向かって。
僕のアパートへ着くまでの間、僕は何もしゃべらなかった。しゃべれなかった。緊張していた。里木さんは、黙って僕についてきてくれた。
僕のアパート。一階の一番奥が、僕の部屋だ。
「ここです」
僕は部屋の鍵を開けて、中に入った。
「どうぞ」
部屋に母親以外の女の人を入れるのは、もちろん初めてだ。
「おじゃまします」
里木さんはそう言いながら、僕に続いて部屋に入ってきてくれた。いつもの笑顔で。
僕の部屋はワンルーム。申し訳程度の玄関を入ると短い廊下があって、その奥がフローリング敷きの洋室になっている。
壁際にテーブルを置いていた。食卓兼勉強机。テーブルには椅子が二つ。一人暮らしだけど。セットで売っていたから。ベッドは置いていない。狭くなるから。
防音はしっかりしていた。借りる時から部屋でギターを弾くことを想定していたから。
ギターはケースには入れずにそのまま壁に立てかけてある。ギターケースは部屋の隅に置いたまま。寝る時はそのケースを枕元に持ってきて、その上に目覚まし時計やら何やらを置く。
僕はテーブルの二つの椅子を部屋の中央に向い合せに置いた。
「どうぞ」
里木さんに座るように勧めた。里木さんが椅子に腰を下ろした。
「それじゃ、始めましょうか」
僕は壁に立てかけてあったクラッシックギターを持って、里木さんの向かいの椅子に座った。
「まずは……僕が見本を見せますね」
僕は、ギターを抱えた。
「こんな風に抱えて、左手の指で弦を押さえて、コード、つまり和音を作る。元合唱部だから、コードはわかりますよね?」
「……はい」
「これが『C』、これが『D』、これが『E』。」
僕はギターを持った左手で順番にコード押さえて見せた。
「そうして、右手で音を出す」
『ジャラン、ジャラン』
僕は右手の親指で音を出した。
「こうやっていっぺんに和音を出すのが『ストローク』ていう弾き方。一音ずつ弦を弾くのが『アルペジオ』ていう弾き方」
『ティン、ティン、ティン、ティン、ティン』
僕はゆっくりと弦を弾いた。里木さんは目を細めて、僕を見ていた。
「それじゃ、里木さんもやってみてください」
僕は立ち上がって、両手で持ったギターを里木さんに差し出した。
「ちょっと……待ってください」
里木さんが言った。
「え?」
「あの……まず、実際にギターで曲を弾いてみせてもらえませんか?」
「曲?」
「はい」
里木さんがまた微笑んだ。
そうか、そういうことか。そうだ。そもそも里木さんは、自分がギターを弾きたいというよりも、僕のギターを聴きたいと言っていた。こんな僕の演奏を。
僕は椅子に腰を下ろしてギターを抱え直した。
「……それじゃ」
僕は、アルペジオでゆっくりと音を出した。
僕は、僕の大好きな、優しい、とっても優しい曲を弾いた。
雪が舞う、冬の情景を現した曲。聖なる冬。里木さんの曲だ。
里木さんは、目を細めて、僕の曲を聴いていてくれた。
僕が弾き終わると、里木さんは、小さく拍手してくれた。小さく、でも、微笑みながら。
それから、もう一曲。カラオケで僕が歌った曲。クラッシックギターの定番。有名な映画音楽に使われた曲。
『ティン、ティン、ティン、ティン、ティン、ティン』
切ない調べが部屋の中に響く。
里木さんは、黙って、僕の弾くギターを聴いていてくれた。
曲が終わった。二人は沈黙した。里木さんは少し、涙ぐんでいた、ような気がした。
「……そろそろ、里木さんも弾いてみますか?」
里木さんに言ってみた。
「……はい」
里木さんが微笑んだ。
僕は立ち上がって、里木さんにギターを差し出した。里木さんも立ち上がって、ギターを受け取ってくれた。
「それじゃ、まず左手でコードを押さえてみて」
僕はイスに腰を下ろした里木さんの後ろに回った。
「まずは『C』。こうです」
僕は里木さんの後ろから左手を回してギターの弦を押さえてみせた。
「やってみて」
僕がギターから手を離すと、里木さんは同じ場所に左手の指を置いた。
「……こう?」
「もっと強く押さえないと、音が出ない」
僕は、弦を押さえる里木さんの指の上に自分の指を重ねた。僕の左手が、里木さんの左手を握るような形になった。
里木さんは、そのまま動かない。何も言わない。
僕も、そのまま動かなかった。動けなかった。
しばらくの沈黙の後、里木さんが上を向いた。里木さんは微笑んで、なかった。その目には涙がたまっていた。
里木さんが、後ろに立つ僕に頭部をあずけるように、首を反らせた。里木さんが僕に寄りかかるような形になった。僕は、僕の身体で、里木さんを受け止めた。
里木さんの左手はもうギターを握っていない。でも僕の左手は、里木さんの左手を握ったままだ。
里木さんが、目を閉じた。里木さんが何を求めているのか、僕にもわかった。
僕は、静かに、僕の顔を里木さんの顔に近づけた。
二人の唇が、重なった。
さっきまで弾いていたクラッシックギターの音が、余韻として耳の中に残っていた。きっと里木さんにも同じ音が聞こえている、そう思った。
しばらくして、僕が顔を離すと、里木さんが目を開けた。
「わたし……慶野さんから……」
「知ってます」
僕は里木さんの言葉を遮った。
「それなのに、こうして、倉田さんと……」
「はい」
僕はうなずいた。
「わたし、どうしていいか……わからなくて……」
里木さんの目から、涙がこぼれた。
「僕には……僕には決められない。でも、僕は……僕も、里木さんのことが、好きです。慶野君に負けないくらい。いや、慶野君よりも、ずっとずっと、絶対に僕の方が、ずっと、里木さんのことを好きです」
そう言って僕は、もう一度、里木さんと、唇を重ねた。
僕は思っていた。
もし、この今日に連続する明日があったら、明日がやってきたら、その日、僕たちは恋人同志でいられるかもしれない……そう思った。
できることなら……このまま里木さんと……そう思った。
いや、だめだ。願っちゃだめだ。
意識を明日に向けちゃだめだ。時間がまたそっちの方向に向かって動き出してしまう。このまま未来に向かったら……きっと僕は、里木さんを救うことができない……
結びつきを断ち切る……占い師さんの言葉がよみがえる。
……それならば、そう、今が、この瞬間が、ずっと続けばいい。いっそうのこと、このままここで、時間が止まってしまえばいい。
里木さんと唇を重ねたまま、僕はそう思っていた。