12月15日、金曜日、マゾリーノのランチ会の日。この日にはまだ、ランチ会は続いている。この日のランチ会で、僕は里木さんの悲しそうな顔を見る、はずだ。
朝。青空台。あの場所。
来た。里木さんだ。少しうつむき加減に歩いてくる。その様子は、やっぱり悲しそうに見えた。
僕は里木さんに向かって歩き出した。里木さんが僕に気づいて立ち止まった。
「おはよう」
里木さんの前まで行って、僕の方からあいさつした。精一杯の笑顔を作って。
「……おはようございます」
里木さんがあいさつを返してくれた。でもやっぱり、元気がない。
「……久しぶりですね……ここで会うの」
里木さんが言った。
「そうですね」
僕たちは並んで歩き始めた。
「今日、ランチ会ですね」
僕は言った。
「……そうですね」
里木さんが答える。やっぱり、悲しそうな声。
「あの、提案なんですけど」
僕は極力明るい声で話しかけた。
「実は僕、この近くにとってもおいしい和食の店を知ってて、今日のランチ、そこで食べませんか?」
「え?」
里木さんが少し驚いた顔をした。
「わたしはかまいませんけど、彩香たちが、何て言うか……」
「いや、今日は里木さんと、二人で食べたいんです」
「え?」
「あの二人は、放っておきましょうよ」
「どうして……」
里木さんの戸惑った表情。そうだろう。突然だから。
「慶野君から、聞きました」
嘘をついた。僕が慶野君から福波さんとのことを聴くのは、もう少し後だ。でも里木さんは、その一言でわかったみたいだ。
「……そうですか」
里木さんがまた歩き始めた。
「僕が口を出すことじゃないかもしれませんけど……今日は、慶野君と福波さんと、いっしょにいない方がいいと思います」
「……」
里木さんは答えなかった。
「慶野君には僕から言っておきます。福波さんにも伝えてもらいます」
「……でも」
「大丈夫。そんなに高い店じゃありませんから」
「そうじゃなくて……」
「昼休み、そうだな、正門の前で待っていてください」
「は、はい……」
里木さんが答えた。僕に押し切られた格好だ。
「それじゃ、よろしくお願いします!」
そう言って僕は大学に向かって走り出した。振り返ると、里木さんは立ったまま僕を見ていた。その顔は、困ったように、でも、少しうれしそうに、僕には見えた。
バス通りに出ると、僕は大学の正門の方には向かわずに、そのまま駅前通りの方向に走った。僕の目指す先は大学ではなく、いつき庵だ。
いつき庵は昼の営業はしていないから、大将と藤川さんがお店の準備を始めるのは昼過ぎからだ。でも大将は定休日の水曜日以外は毎日、朝早く市場に魚などの食材を仕入れに行く。その後、仕入れた食材を格納するためにいったんいつき庵に行く。でも、大将が何時頃いつき庵に着いているのかはわからない。その日の仕入れ具合や交通の状況によって違うだろうし。だから、今いつき庵に行っても大将がいるかどうかはわからない。でも、いるかもしれない。いてください。そう思った。いなかったら、大将が来るまでいつき庵の前で待つ。そう決めていた。
いつき庵に着いた。店の脇に車一台分の駐車スペースがある。大将が店にいる時には、そこに大将のバンが停めてある。僕は駐車スペースに回った。
あった。大将のバンだ。駐車スペースの奥には厨房に直結する通用口があった。開けてみた。鍵は掛かっていなかった。中には明かりが点いていた。僕は厨房に入った。冷蔵庫に食材をしまい込んでいる大将の姿が見えた。
「大将!」
僕はいきなり呼び掛けた。
「なんだ、倉田君か」
大将が振り返った。
「こんな時間になんだ。仕入れの手伝いは頼んでないぞ」
「お願いがあります!」
僕は頭を下げた。
「なに? お願い?」
「はい!」
「なんだ?」
「今日の昼、食事を、いつも夜食に作ってくれるおにぎりとみそ汁を作ってほしいんです」
「昼? なんでだ?」
「あのおにぎりとみそ汁を、食べさせたい人がいるんです!」
「だめだ!」
大将の声が大きくなった。
「代金は僕が払います!」
「だめだ! 昼の営業はしないと前にも言っただろう!」
「営業じゃなくて、今日だけでいいんです。そうだ、今夜の僕の分を、先に作ってください! お願いします!」
僕は両ひざを厨房の床に着けた。
「大将! お願いです!」
両手をついて、それから額を床に着けた。
「ばか! やめろ!」
慌てた大将が駆け寄ってきた。
「男がそんなことでいちいち土下座なんかするな!」
「お願いします! お願いします!」
僕は言い続けた。
「わかった! 今日の昼だな!」
やった! 大将が了解してくれた。
「ありがとうございます!」
僕は立ち上がって、もう一度大将に頭を下げた。
「で、何人前だ!」
「……一人前、一人前だけでいいんです!」
「一人か?」
「はい、お願いします」
「なんだ、それだったらお安い御用だ。で、誰に食わせるんだ?」
「僕の……僕の、とっても大切な人です」
「彼女か?」
「いえ、そんなんじゃ……」
「ま、訊かないでおいてやる。そのかわり、夜はしっかり働けよ!」
「はい!」
「心配するな、夜食もちゃんと作ってやる!」
「ありがとうございます!」
僕はまた、大将に頭を下げた。
いったん大学へ行った僕は、授業中、一番後ろの席から教室の中を見回した。
いた。金髪の長髪。慶野君だ。授業が終わるとすぐに、僕は席を立とうとしている慶野君を捕まえて話しかけた。
「慶野君ごめん! 実は、今日のランチ会、急用があって行けないんだ」
僕は両手を合わせた。
「なんだ、しょうがねえな……」
慶野君が渋い顔をした。
「それから、今朝偶然、里木さんに会って、里木さんもランチ会、行けないって」
「ん……どういうことだ?」
慶野君が不思議そうな顔をして僕を見た。
「だから、福波さんにもよろしく言っておいて。今日はランチ会、お二人で」
「おい! それ、どういうことだよ」
慶野君が少し声を大きくした。慶野君には心当たりがある、はずだ。でも、僕が慶野君と福波さん、それに里木さんとのことを聞くのは、もう少し後だ。この時点では、僕は何も知らない、ことになっている。
「いや、別に……じゃ、僕、ちょっと用事があるから」
そう言って僕は教室の出口に向かった。
大学の午前の授業が終わった。僕は大学の正門の前で里木さんを待った。
来た。里木さんだ。文学部の教室棟の方から歩いてくる。一人だ。福波さんは一緒じゃない。
僕は里木さんに向かって走った。そしてすぐに里木さんの目の前に立った。
「ごめんね、急に。慶野君には言っておいたから」
「はい……わたしも彩香にことわってきました。今日は行かないって」
里木さんが笑った。でもやっぱり、少し悲しそうに見えた。
僕たちは正門前の信号を渡って、大学通りの歩道を歩いた。
着いた。黒塗りの板塀に木彫りの看板。いつき庵。
「ここです」
「素敵なお店ですね」
暖簾は掛かっていない。引き戸を引いた。「カラカラカラ」と音をたてて引き戸が開いた。僕の後について、里木さんもお店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは藤川さんだった。きちんと着物に着替えている。
「こちらへどうぞ」
藤川さんが僕たちを奥の個室に案内してくれた。いつもお客さんにしているように。
僕たちは掘りごたつの席に向かい合って座った。席にはおしぼりが二つ用意されていた。
思いついて立ち上がった。
「藤川さん! 食事、僕が持ってきます!」
僕たちはお客さんじゃないのだ。
「いいのよ、今日は座ってて」
藤川さんが言ってくれた。
「でも……すみません」
恐縮する僕を見て、里木さんが不思議そうな顔をした。
「……どういうことですか?」
「あ……実は僕、ここでバイトしてるんです」
僕は座り直しながら言った。
「それで今日は、お願いして、特別にお昼ご飯、作ってもらってて」
「特別に……わたしのために?」
「……はい」
急に恥ずかしくなった。やっぱりよけいなお世話だっただろうか。
「……ありがとう」
里木さんがうつむきながら言った。
襖を開けて、藤川さんが入ってきた。
「おまたせしました」
そう言いながら藤川さんが里木さんと僕の前に漆塗りのお盆を置いた。
少しも待ってない。それに、大将に「一人前」てお願いしたのに、食事は二人分あった。
それぞれのお盆の上に、おにぎりが二つ乗った竹製の篭。それにおみそ汁と漬物。
藤川さんが説明してくれた。いつもお客さんにしているように。
「こちらのおにぎりの中には、シソの葉で包んだウニが入っています。こちらのおにぎりには、焼いてほぐした鯛の身と白ゴマを混ぜこんであります。おみそ汁は豆腐となめこの赤みそです」
「わ~、すごい!」
里木さんが言った。今度は本当にうれしそうに見えた。
「シソやウニは大丈夫ですか? 苦手でしたら他の物とお取替えいたしますよ」
「いえ、大好きです!」
里木さんの笑顔。久し振りに見る笑顔。
「ありがとうございます」
僕は藤川さんに頭を下げた。
「あの、大将にもお礼を……」
「それが、いったん帰ってしまって……いいんですよ。気にしないで」
僕がまた立ち上がろうとすると、藤川さんがそう言ってくれた。
「それじゃ、お礼を言っておいてください。もちろん今晩、僕も直接お礼しますけど」
「はい。ごゆっくり、どうぞ」
藤川さんは笑いながら襖を閉めた。
個室に二人きりになった。向かいに座る里木さんと目があった。急に恥ずかしくなった。
「……それじゃ、いただこうか」
僕はそれを隠すようにおにぎりに手を伸ばした。
一口食べただけでわかった。これはいつものまかないの夜食じゃない。きちんとお客さんに出すものだ。もちろんまかないの 夜食も十分においしいけど。
「いただきます」
里木さんもおにぎりを手に取った。
僕はおにぎりを手に持ったまま、里木さんを見ていた。
里木さんは、ゆっくりと、味わいながら食べていた。ゆっくりと。でも、おいしそうに食べていた。おいしそうに、そして、幸せそうに、僕には見えた。
大将、藤川さん、本当に、ありがとう。
心の中で改めてお礼を言いながら、僕も、おいしい食事をいただいた。
食べ終わった後、藤川さんが持って来てくれたお茶を飲みながら、僕は里木さんに話しかけた。
「こんなところでいきなり、こんな話をするのはどうかと思うんだけど……」
「え?」
少し驚いた里木さん顔。言葉に詰まった。でも、言わないと。言っておかないと。
「実は僕、知ってるんです。慶野君と、福波さんのこと」
里木さんは、温かいお茶の入った湯飲みを置いて、それを両手で包むように握った。
「……そう」
里木さんが湯飲みに視線を落とした。
「ひどいですよね……」
「ううん、きっと、慶野さん、わたしといても楽しくなかったんだと思います」
「でも……僕は楽しいよ。里木さんといると」
「え?」
里木さんが顔を上げた。
「楽しいっていうか……落ち着くっていうか、安心できるっていうか……」
何言ってるんだ? 自分でそう思った。
「……ありがとう」
里木さんが言った。
「ランチ会、無理に続けることないと思う」
話を変えた。
「うん……それで今日、誘ってくれたんですね」
「余計なことでしたか?」
「いいえ、ありがとう」
里木さんがうつむきながら言った。
「ほんとは、つらかった。でも、彩香とは中学からの友だちだから、彩香と気まずくなりたくなかったから……」
そうか……やっぱり。僕じゃなくて。
「……ランチ会のことは、今度、彩香ともちゃんと話してみます」
「そうだね、それがいいと思う」
「倉田さんとは……こうやってまた、いっしょに食事ができたらいいな」
「え?」
ちょっと驚いた。里木さんの方からそんなこと言ってくれるなんて……
「でも、お店の人に迷惑ですよね。今日は、無理にお店開けてもらったんですよね」
「あ……はい」
どうしよう。大将にまた頼んでみようか。でも、それができるのは、明日じゃなくて……
「そうだ! 倉田さんとは、また青空台で会えますよね」
「そう、そうだね」
そうだ、そうだった。青空台があった。青空台でまた……でも、それも……
「……そろそろ戻らないと、午後の授業、始まっちゃいますね」
里木さんが言った。確かにそうだ。
僕たちは席を立った。
里木さんは自分の食事代を払いたいと言ったけど、僕は断った。僕が払うつもりだった。でも結局、藤川さんが代金を受け取らなかった。バイト代から差し引いておく、て言ってたけど、きっとそんなこともしないだろう。
藤川さんも大将も、本当にいい人だ。
いつき庵を出てから、思い出した。そうだ、もう一つ、確認しておかないと……
「もう一つだけ、訊いてもいいですか?」
僕は横を歩く里木さんに話しかけた。
「はい?」
「里木さんは、慶野君から……その、福波さんとのこと、聞いたのはいつですか?」
「……昨日です。慶野さんに呼ばれて……大学の帰りに、待ち合わせた喫茶店に行ったら、彩香がいっしょにいて……」
「わかりました。昨日ですね」
「……はい」
昨日……ということは、12月14日。次にすべきことを、僕は考えていた。
12月14日。いつき庵の仕事が終わった後、アパートに帰った僕は、布団の上に正座してスマホを開いた。
今日、里木さんは、慶野君に呼び出されて、大学の帰りに喫茶店へ行って、そこで慶野君と福波さんとのことを聞かされているはずだ。
きっと、ショックだったと思う。悲しかったと思う。それでも、優しい里木さんは、慶野君と福波さんを責めたりしないで、黙って受け入れて。そのうえ福波さんと、それに慶野君とも、友だちのままでいたいって、ランチ会も続けたいって、きっとそんなことを言って。
今、里木さんは、何をしているんだろう。どんな気持ちでいるんだろう。
僕はランチ会のグループラインを開いて、メッセージを打ち込んだ。
『これは倉田から里木さんへのメッセージです』
『いきなりですが、告白させてもらいます。僕は、里木さんが好きです。お願いです。僕と付き合ってください』
『もちろん慶野君と福波さんもこのラインを見ているのはわかっています。ですからここで返事をしてくれなくてもかまいません。でも、僕の気持ちは伝えておきます。よろしくお願いします』
すぐに3件の「既読」が付いた。里木さんも見てくれたということだ。
もちろんメッセージはない。
ひょっとしたら、困っているかもしれない。迷惑だと思っているかもしてない。今は僕のことどころじゃないのかもしれない。かえって混乱させてしまったかもしれない。それでも……それでもこれで、里木さんの気持ちが、少しでもまぎれたら……
僕は布団に倒れ込んで、そのまま目を閉じた。
朝。青空台。あの場所。
来た。里木さんだ。少しうつむき加減に歩いてくる。その様子は、やっぱり悲しそうに見えた。
僕は里木さんに向かって歩き出した。里木さんが僕に気づいて立ち止まった。
「おはよう」
里木さんの前まで行って、僕の方からあいさつした。精一杯の笑顔を作って。
「……おはようございます」
里木さんがあいさつを返してくれた。でもやっぱり、元気がない。
「……久しぶりですね……ここで会うの」
里木さんが言った。
「そうですね」
僕たちは並んで歩き始めた。
「今日、ランチ会ですね」
僕は言った。
「……そうですね」
里木さんが答える。やっぱり、悲しそうな声。
「あの、提案なんですけど」
僕は極力明るい声で話しかけた。
「実は僕、この近くにとってもおいしい和食の店を知ってて、今日のランチ、そこで食べませんか?」
「え?」
里木さんが少し驚いた顔をした。
「わたしはかまいませんけど、彩香たちが、何て言うか……」
「いや、今日は里木さんと、二人で食べたいんです」
「え?」
「あの二人は、放っておきましょうよ」
「どうして……」
里木さんの戸惑った表情。そうだろう。突然だから。
「慶野君から、聞きました」
嘘をついた。僕が慶野君から福波さんとのことを聴くのは、もう少し後だ。でも里木さんは、その一言でわかったみたいだ。
「……そうですか」
里木さんがまた歩き始めた。
「僕が口を出すことじゃないかもしれませんけど……今日は、慶野君と福波さんと、いっしょにいない方がいいと思います」
「……」
里木さんは答えなかった。
「慶野君には僕から言っておきます。福波さんにも伝えてもらいます」
「……でも」
「大丈夫。そんなに高い店じゃありませんから」
「そうじゃなくて……」
「昼休み、そうだな、正門の前で待っていてください」
「は、はい……」
里木さんが答えた。僕に押し切られた格好だ。
「それじゃ、よろしくお願いします!」
そう言って僕は大学に向かって走り出した。振り返ると、里木さんは立ったまま僕を見ていた。その顔は、困ったように、でも、少しうれしそうに、僕には見えた。
バス通りに出ると、僕は大学の正門の方には向かわずに、そのまま駅前通りの方向に走った。僕の目指す先は大学ではなく、いつき庵だ。
いつき庵は昼の営業はしていないから、大将と藤川さんがお店の準備を始めるのは昼過ぎからだ。でも大将は定休日の水曜日以外は毎日、朝早く市場に魚などの食材を仕入れに行く。その後、仕入れた食材を格納するためにいったんいつき庵に行く。でも、大将が何時頃いつき庵に着いているのかはわからない。その日の仕入れ具合や交通の状況によって違うだろうし。だから、今いつき庵に行っても大将がいるかどうかはわからない。でも、いるかもしれない。いてください。そう思った。いなかったら、大将が来るまでいつき庵の前で待つ。そう決めていた。
いつき庵に着いた。店の脇に車一台分の駐車スペースがある。大将が店にいる時には、そこに大将のバンが停めてある。僕は駐車スペースに回った。
あった。大将のバンだ。駐車スペースの奥には厨房に直結する通用口があった。開けてみた。鍵は掛かっていなかった。中には明かりが点いていた。僕は厨房に入った。冷蔵庫に食材をしまい込んでいる大将の姿が見えた。
「大将!」
僕はいきなり呼び掛けた。
「なんだ、倉田君か」
大将が振り返った。
「こんな時間になんだ。仕入れの手伝いは頼んでないぞ」
「お願いがあります!」
僕は頭を下げた。
「なに? お願い?」
「はい!」
「なんだ?」
「今日の昼、食事を、いつも夜食に作ってくれるおにぎりとみそ汁を作ってほしいんです」
「昼? なんでだ?」
「あのおにぎりとみそ汁を、食べさせたい人がいるんです!」
「だめだ!」
大将の声が大きくなった。
「代金は僕が払います!」
「だめだ! 昼の営業はしないと前にも言っただろう!」
「営業じゃなくて、今日だけでいいんです。そうだ、今夜の僕の分を、先に作ってください! お願いします!」
僕は両ひざを厨房の床に着けた。
「大将! お願いです!」
両手をついて、それから額を床に着けた。
「ばか! やめろ!」
慌てた大将が駆け寄ってきた。
「男がそんなことでいちいち土下座なんかするな!」
「お願いします! お願いします!」
僕は言い続けた。
「わかった! 今日の昼だな!」
やった! 大将が了解してくれた。
「ありがとうございます!」
僕は立ち上がって、もう一度大将に頭を下げた。
「で、何人前だ!」
「……一人前、一人前だけでいいんです!」
「一人か?」
「はい、お願いします」
「なんだ、それだったらお安い御用だ。で、誰に食わせるんだ?」
「僕の……僕の、とっても大切な人です」
「彼女か?」
「いえ、そんなんじゃ……」
「ま、訊かないでおいてやる。そのかわり、夜はしっかり働けよ!」
「はい!」
「心配するな、夜食もちゃんと作ってやる!」
「ありがとうございます!」
僕はまた、大将に頭を下げた。
いったん大学へ行った僕は、授業中、一番後ろの席から教室の中を見回した。
いた。金髪の長髪。慶野君だ。授業が終わるとすぐに、僕は席を立とうとしている慶野君を捕まえて話しかけた。
「慶野君ごめん! 実は、今日のランチ会、急用があって行けないんだ」
僕は両手を合わせた。
「なんだ、しょうがねえな……」
慶野君が渋い顔をした。
「それから、今朝偶然、里木さんに会って、里木さんもランチ会、行けないって」
「ん……どういうことだ?」
慶野君が不思議そうな顔をして僕を見た。
「だから、福波さんにもよろしく言っておいて。今日はランチ会、お二人で」
「おい! それ、どういうことだよ」
慶野君が少し声を大きくした。慶野君には心当たりがある、はずだ。でも、僕が慶野君と福波さん、それに里木さんとのことを聞くのは、もう少し後だ。この時点では、僕は何も知らない、ことになっている。
「いや、別に……じゃ、僕、ちょっと用事があるから」
そう言って僕は教室の出口に向かった。
大学の午前の授業が終わった。僕は大学の正門の前で里木さんを待った。
来た。里木さんだ。文学部の教室棟の方から歩いてくる。一人だ。福波さんは一緒じゃない。
僕は里木さんに向かって走った。そしてすぐに里木さんの目の前に立った。
「ごめんね、急に。慶野君には言っておいたから」
「はい……わたしも彩香にことわってきました。今日は行かないって」
里木さんが笑った。でもやっぱり、少し悲しそうに見えた。
僕たちは正門前の信号を渡って、大学通りの歩道を歩いた。
着いた。黒塗りの板塀に木彫りの看板。いつき庵。
「ここです」
「素敵なお店ですね」
暖簾は掛かっていない。引き戸を引いた。「カラカラカラ」と音をたてて引き戸が開いた。僕の後について、里木さんもお店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは藤川さんだった。きちんと着物に着替えている。
「こちらへどうぞ」
藤川さんが僕たちを奥の個室に案内してくれた。いつもお客さんにしているように。
僕たちは掘りごたつの席に向かい合って座った。席にはおしぼりが二つ用意されていた。
思いついて立ち上がった。
「藤川さん! 食事、僕が持ってきます!」
僕たちはお客さんじゃないのだ。
「いいのよ、今日は座ってて」
藤川さんが言ってくれた。
「でも……すみません」
恐縮する僕を見て、里木さんが不思議そうな顔をした。
「……どういうことですか?」
「あ……実は僕、ここでバイトしてるんです」
僕は座り直しながら言った。
「それで今日は、お願いして、特別にお昼ご飯、作ってもらってて」
「特別に……わたしのために?」
「……はい」
急に恥ずかしくなった。やっぱりよけいなお世話だっただろうか。
「……ありがとう」
里木さんがうつむきながら言った。
襖を開けて、藤川さんが入ってきた。
「おまたせしました」
そう言いながら藤川さんが里木さんと僕の前に漆塗りのお盆を置いた。
少しも待ってない。それに、大将に「一人前」てお願いしたのに、食事は二人分あった。
それぞれのお盆の上に、おにぎりが二つ乗った竹製の篭。それにおみそ汁と漬物。
藤川さんが説明してくれた。いつもお客さんにしているように。
「こちらのおにぎりの中には、シソの葉で包んだウニが入っています。こちらのおにぎりには、焼いてほぐした鯛の身と白ゴマを混ぜこんであります。おみそ汁は豆腐となめこの赤みそです」
「わ~、すごい!」
里木さんが言った。今度は本当にうれしそうに見えた。
「シソやウニは大丈夫ですか? 苦手でしたら他の物とお取替えいたしますよ」
「いえ、大好きです!」
里木さんの笑顔。久し振りに見る笑顔。
「ありがとうございます」
僕は藤川さんに頭を下げた。
「あの、大将にもお礼を……」
「それが、いったん帰ってしまって……いいんですよ。気にしないで」
僕がまた立ち上がろうとすると、藤川さんがそう言ってくれた。
「それじゃ、お礼を言っておいてください。もちろん今晩、僕も直接お礼しますけど」
「はい。ごゆっくり、どうぞ」
藤川さんは笑いながら襖を閉めた。
個室に二人きりになった。向かいに座る里木さんと目があった。急に恥ずかしくなった。
「……それじゃ、いただこうか」
僕はそれを隠すようにおにぎりに手を伸ばした。
一口食べただけでわかった。これはいつものまかないの夜食じゃない。きちんとお客さんに出すものだ。もちろんまかないの 夜食も十分においしいけど。
「いただきます」
里木さんもおにぎりを手に取った。
僕はおにぎりを手に持ったまま、里木さんを見ていた。
里木さんは、ゆっくりと、味わいながら食べていた。ゆっくりと。でも、おいしそうに食べていた。おいしそうに、そして、幸せそうに、僕には見えた。
大将、藤川さん、本当に、ありがとう。
心の中で改めてお礼を言いながら、僕も、おいしい食事をいただいた。
食べ終わった後、藤川さんが持って来てくれたお茶を飲みながら、僕は里木さんに話しかけた。
「こんなところでいきなり、こんな話をするのはどうかと思うんだけど……」
「え?」
少し驚いた里木さん顔。言葉に詰まった。でも、言わないと。言っておかないと。
「実は僕、知ってるんです。慶野君と、福波さんのこと」
里木さんは、温かいお茶の入った湯飲みを置いて、それを両手で包むように握った。
「……そう」
里木さんが湯飲みに視線を落とした。
「ひどいですよね……」
「ううん、きっと、慶野さん、わたしといても楽しくなかったんだと思います」
「でも……僕は楽しいよ。里木さんといると」
「え?」
里木さんが顔を上げた。
「楽しいっていうか……落ち着くっていうか、安心できるっていうか……」
何言ってるんだ? 自分でそう思った。
「……ありがとう」
里木さんが言った。
「ランチ会、無理に続けることないと思う」
話を変えた。
「うん……それで今日、誘ってくれたんですね」
「余計なことでしたか?」
「いいえ、ありがとう」
里木さんがうつむきながら言った。
「ほんとは、つらかった。でも、彩香とは中学からの友だちだから、彩香と気まずくなりたくなかったから……」
そうか……やっぱり。僕じゃなくて。
「……ランチ会のことは、今度、彩香ともちゃんと話してみます」
「そうだね、それがいいと思う」
「倉田さんとは……こうやってまた、いっしょに食事ができたらいいな」
「え?」
ちょっと驚いた。里木さんの方からそんなこと言ってくれるなんて……
「でも、お店の人に迷惑ですよね。今日は、無理にお店開けてもらったんですよね」
「あ……はい」
どうしよう。大将にまた頼んでみようか。でも、それができるのは、明日じゃなくて……
「そうだ! 倉田さんとは、また青空台で会えますよね」
「そう、そうだね」
そうだ、そうだった。青空台があった。青空台でまた……でも、それも……
「……そろそろ戻らないと、午後の授業、始まっちゃいますね」
里木さんが言った。確かにそうだ。
僕たちは席を立った。
里木さんは自分の食事代を払いたいと言ったけど、僕は断った。僕が払うつもりだった。でも結局、藤川さんが代金を受け取らなかった。バイト代から差し引いておく、て言ってたけど、きっとそんなこともしないだろう。
藤川さんも大将も、本当にいい人だ。
いつき庵を出てから、思い出した。そうだ、もう一つ、確認しておかないと……
「もう一つだけ、訊いてもいいですか?」
僕は横を歩く里木さんに話しかけた。
「はい?」
「里木さんは、慶野君から……その、福波さんとのこと、聞いたのはいつですか?」
「……昨日です。慶野さんに呼ばれて……大学の帰りに、待ち合わせた喫茶店に行ったら、彩香がいっしょにいて……」
「わかりました。昨日ですね」
「……はい」
昨日……ということは、12月14日。次にすべきことを、僕は考えていた。
12月14日。いつき庵の仕事が終わった後、アパートに帰った僕は、布団の上に正座してスマホを開いた。
今日、里木さんは、慶野君に呼び出されて、大学の帰りに喫茶店へ行って、そこで慶野君と福波さんとのことを聞かされているはずだ。
きっと、ショックだったと思う。悲しかったと思う。それでも、優しい里木さんは、慶野君と福波さんを責めたりしないで、黙って受け入れて。そのうえ福波さんと、それに慶野君とも、友だちのままでいたいって、ランチ会も続けたいって、きっとそんなことを言って。
今、里木さんは、何をしているんだろう。どんな気持ちでいるんだろう。
僕はランチ会のグループラインを開いて、メッセージを打ち込んだ。
『これは倉田から里木さんへのメッセージです』
『いきなりですが、告白させてもらいます。僕は、里木さんが好きです。お願いです。僕と付き合ってください』
『もちろん慶野君と福波さんもこのラインを見ているのはわかっています。ですからここで返事をしてくれなくてもかまいません。でも、僕の気持ちは伝えておきます。よろしくお願いします』
すぐに3件の「既読」が付いた。里木さんも見てくれたということだ。
もちろんメッセージはない。
ひょっとしたら、困っているかもしれない。迷惑だと思っているかもしてない。今は僕のことどころじゃないのかもしれない。かえって混乱させてしまったかもしれない。それでも……それでもこれで、里木さんの気持ちが、少しでもまぎれたら……
僕は布団に倒れ込んで、そのまま目を閉じた。