7 昨日

 12月19日、火曜日。朝。僕にとっては二回目の12月19日。僕は時間をさかのぼり続けている。
 僕は、普段よりも10分早くアパートを出た。吐く息が白い。でも寒さは感じない。
 そして……着いた。青空台の、あの場所。白い壁沿いの歩道、ハクモクレンの木の下。僕が初めて里木さんと会った場所。里木さんがラピスラズリを落とした、あの場所。里木さんが僕のことを待っていてくれた、あの場所。
 しばらくして、こっちに向かって歩いてくる人の姿が見えた。青いマフラーを巻いて、うつむき加減に歩く、黒い髪。里木さんだ。僕は走った。そして、里木さんの目の前に立った。
「……え?」
 里木さんが顔を上げた。
「実は昨日、慶野君から聞いたんです」
 僕はいきなり話し始めた。里木さんの驚いた表情。
「慶野君と、福波さんのこと」
 里木さんは、僕から目を逸らすように、またうつむいてしまった。
「ひどいですよね」
 僕は続けた。
「……ごめんなさい。倉田さんにも迷惑かけちゃいましたよね……」
 里木さんが言った。うつむいたまま。僕の方は見ないで。
「迷惑だなんて、全然思ってません」
 里木さんが顔を上げて僕を見た。
「でも……わたしのせいで、ランチ会、解散になってしまったから……」
 里木さんがゆっくり歩き出した。僕は里木さんの右側に並んで歩いた。
「里木さんのせいじゃないですよ。僕もランチ会、なくなってよかったと思ってます」
「……どうしてですか?」
「だって、この前のランチ会の時、里木さん、笑ってなかった。悲しそうに見えた」
「そうですか……でも、倉田さんには、関係ないことだから」
 関係ない? いや、そうじゃない。これは僕と里木さんの話だ。
「この前、どうしてランチ会に来たんですか? 僕なら行かない。無理することない」
 里木さんは黙ったまま答えない。
「慶野君は、里木さんも了解してる、て言ってたけど、そうなんですか?」
 僕の左横に並んでいた里木さんが立ち止まった。僕も立ち止まった。
「僕は、そんなことないと思う。そんなこと、できないと思う」
 里木さんが僕の方に身体を向けた。
 里木さんが目をつぶった。ぎゅっと、つぶった。そして、額を僕の左肩に押し当ててきた。
 泣いていた。里木さんは、泣いていた。
「だって……恋人無くして、そのうえ、友だちまで無くしちゃったら、わたし……」
 泣きながら、里木さんはつぶやいていた。
 里木さんの声は、僕の肩の骨から直接、僕に伝わってきた。
 里木さんの黒い髪、甘い香りのする髪が目の前にあった。
 僕は一度、大きく深呼吸した。
 それから、自由に動かすことの右手を上げて、その手で里木さんの左肩を、やわらく、つかんだ。
 里木さんが顔を上げた。僕は自分の身体を里木さんに向けた。そして、左手を里木さん背中に回して、力を入れた。里木さんの身体を、僕の方に押し倒すように。
 力を入れる必要はなかった、かもしれない。里木さんはそのまま僕の方に倒れ込んできた。僕は僕の身体で里木さんの身体を受け止めた。
 心臓が鳴った。僕の心臓の音は、僕の胸から直接、里木さんの胸に響いていた。
 もう一度、深呼吸してから、僕は言った。
「大丈夫……僕が、僕がいます。僕が、いるから」
 泣いていた。里木さんはまだ、泣いていた。泣きながら、うなずいていた。僕の胸の中でうなずいていた。
「うん……うん……」
 そう言いながら、うなずいていた。僕は、僕の両手で、里木さんを抱きしめた。

 そのままどれくらい時間が経っただろうか。しばらくして、里木さんが顔を上げた。僕は両手の力を弱めた。里木さんが僕から離れて、一歩、後ろに下がった。
「ごめんなさい」
 里木さんが言った。
 また謝っている。どうして僕に謝るのだろう。
「大丈夫、もう、大丈夫だから」
 里木さんが言った。里木さんが、少しだけ笑顔を見せてくれた。
 里木さんが、歩き始めた。ゆっくりと、歩き始めた。僕もまた、里木さんと並んで歩いた。
「ありがとう」
 里木さんが言った。
「……はい」
 僕は答えた。
「あの……」
 僕は、続けて言いかけた言葉を飲み込んだ。
「いや、なんでもありません」
 なぜなら、僕に、明日はないから。今、ここで言おうとしていることを、僕は明日、実行することはできない。もう、できないのだから。
 僕にあるのは……明日じゃなくて、昨日だ。

 12月18日、月曜日。大学の教室。
 一時限目の授業が終わるとすぐに、僕は席を立とうとしている慶野君を捕まえて話しかけた。慶野君の座っている場所はわかっていた。
「慶野君」
「おう」
 慶野君はいつもと変わらない笑顔で片手を上げた。僕はそれを無視して切り出した。
「昨日、バイトの帰り、夜、駅前通りを歩いてて、見たんだ」
「何を?」
「慶野君が、福波さんと歩いてるとこ」
「……」
 慶野君は何も言わなかった。
「どうして福波さんと一緒にいたんだ?」
 僕は慶野君の目を見た。
「……ま、そういうことだ。今オレは、彩香と付き合ってる。よくあることだろ」
 慶野君は僕から目を逸らした。
「里木さんは、知ってるのか?」
「ああ、話した」
「話したって、何を話したんだ?」
「……彩香と付き合うって。だから、聖冬とは別れたいって。聖冬も、納得してくれたよ」
「納得? 納得なんかできるはずないだろ?」
「……でも、納得したんだ」
「どうしてそんなことできるんだ?」
「……正直、聖冬といても、あんまり面白くないんだ。無口だし。彩香の方が、楽しいし」
「そういう問題じゃないだろ?」
「じゃ、どういう問題なんだ」
「里木さんの気持ちを考えろよ!」
 僕は少し声を大きくした。
「だから、聖冬も了解したんだって! 三人で了解してることなんだから、倉田には関係ないだろ!」
 慶野君の声も大きくなった。
 周りにいた何人かの学生がこっちを振り向いた。
「わかった……それで、ランチ会はこのまま続けるのか?」
「ああ……聖冬が、そうしたいって言ってた」
「それは、僕を含めたみんなに気を遣ってのことだと思う。みんなが、気まずくならないように、て」
「……」
 慶野君は黙り込んだ。
「慶野君と福波さんが一緒にいるのを見てるの、里木さん、つらいと思う」
「……」
 慶野君は黙ったままだ。
「僕は、ランチ会はもう、やめるべきだと思う」
「わかった……彩香から、聖冬にもう一回訊いてみてもらうよ」
 慶野君が答えた。
「そろそろ授業始まるぞ。オレ、軽音の練習があるからこの授業、パスする」
 そう言って慶野君は教室の出口の方に向かって歩き出した。
 僕は黙って、慶野君の後ろ姿を見送った。

 その日の夜。アパートに帰った僕は、布団の上に座ってランチ会のグループラインを開いた。
ラインにメッセージが入った。
『次回、12月22日のランチ会は中止します』
 慶野君からのメッセージ。
 しばらくするとまたラインにメッセージが入った。それも慶野君からだ。
『ランチ会は解散します』
 短い一言。
 すぐに『ケイタが退出しました』というメッセージ。
 少しして、『彩香が退出しました』というメッセージが入った。福波さんだ。
 僕は、二人が退出したグループラインにメッセージを書き込んだ。このメッセージを見ることができるのは、里木さんだけだ。
『倉田です。里木さん、見てくれてますか? もうこのラインを見る必要はないと思っているかもしれないけど』
『ランチ会、なくなってしまいましたね。実は慶野君にランチ会を解散しようと言ったのは僕です。なぜなら、慶野君から福波さんとのことを聞いたからです。そのことについて僕が口を出す立場ではないことはわかっています。でも僕は、ランチ会はやめた方がいいと思いました』
『里木さんがランチ会を続けたいと言っていたことも聞きました。でも、里木さんは優しいから、慶野君と福波さん、それに僕にも気を遣って、そう言ってくれたのではないかと思いました。もしそうなら、無理をすることはないと思います。自分の気持ちを優先すべきだと思います』
『あるいは福波さんとの関係を壊したくないと思ってそう言ったのかしれません。もしそうなら、僕は余計なことをしたかもしれません。ごめんなさい』
『でも、この前のランチ会の時、里木さん、笑っていませんでした。悲しそうな顔してました。僕は、僕の方が、里木さんの悲しそうな顔を見るのがつらいと思いました。だから、慶野君にランチ会はやめよう言いました』
『このライン、慶野君と福波さんは退出してしまいましたね。ランチ会がなくなってしまえばもうラインを続ける必要はないかもしれません。でも僕は退出しません。僕はここに残ります。僕では頼りないかもしれません。でももし僕でよければ、何でも 相談してください。僕は、いつでも里木さんの味方です』
 僕のメッセージはすぐに「既読」になった。
 しばらくしてから、メッセージが入った。里木さんからだ。
『ありがとうございます』
 一言だけ。でも、十分、十分だ。僕の気持ちは伝わったはずだ。
 僕は、布団の上に寝転んで、目を閉じた。

 12月17日、日曜日。夜。いつき庵からの帰り道。
 この日僕は、カラオケ店から慶野君と福波さんが二人で出て来るのを目撃する、はずだ。だから僕は、駅前通りを通らなかった。二人の姿を見たくなかった。
 僕が見ていなくても、きっと二人は……
 それでも……それでも。

 12月16日、土曜日。
 僕はアパートで里木さんのことを考えていた。里木さんはもう慶野君と福波さんのことを知っているはずだ。里木さんは今、どうしているのだろう。どんな気持ちでいるのだろう。
 夕方になって、僕はいつき庵へバイトに行った。仕事が終わった後、いつものようにまかないの夜食をご馳走になった。
厨房の隅の業務用の机で藤川さんと向かい合ってまかないを食べた。おにぎりとみそ汁。おいしい。いつもと同じように、とってもおいしい。
 その時、僕はあることを思いついた。
「大将!」
 僕は包丁の手入れをしていた大将に呼び掛けた。
「なんだ?」
 大将が僕の方を振り向いた。
「……いえ、なんでもありません」
 そうだ、今ここで、大将に言ってもしかたないんだ。僕は思い直した。
 大将はまた包丁の手入れを始めた。
「困ったことがあったら、なんでも言ってちょうだいね」
 藤川さんが言ってくれた。
「はい、ありがとうございます。でも、大丈夫です」
 僕は答えた。
 今日じゃない。明日だ。いや、明日じゃなくって、昨日。でも、僕にとっては明日、明日だ。