『キュンキュンキュン、 キュンキュンキュン』
聞き慣れない電子音が響いた。僕は階段を降りる足を止めて、ポケットからスマホを取り出した。音はスマホからだ。スマホが叫んでいる。
階段を昇りはじめていた里木さんも立ち止まった。里木さんの持っていたスマホも同じ音を発しているみたいだ。
『ジシンデス、ジシンデス』
スマホの声。そして。
グラッ。揺れた。地震だ。
僕は階段の手すりにつかまった。里木さんは、階段の途中にしゃがみ込んでいた。
「里木さん!」
僕は里木さんに向かって叫んだ。里木さんも僕の方を見て何か言おうとした。
グラグラグラ、グラグラグラ。大きく揺れた。
里木さんは両手で頭を押さえてうずくまった。僕は手すりから手を離すことができなかった。
グラグラグラ、グラグラグラ。
揺れは少しの間続いて、おさまった。
里木さんが立ち上がった。
「倉田さん!」
そう叫んで、階段を駆け登って来る。僕も立ち上がった。
二人の距離が縮む。あと三メートル、二メートル、一メートル。
その時。
再び、大きく揺れた。さっきより、大きく。突き上げるように。
僕は、左手で階段の手すりにつかまりながら里木さんに向かって右手を伸ばした。里木さんも僕に向かって右手を伸ばした。
里木さんの指。白くて細い指。あと三センチ、あと二センチ。
届かない。あと一センチ、届かない。
里木さんは、そのまま……
1 今日
アパートの狭い部屋は、温まるのも早いけど冷えるのも早い、ような気がする。エアコンの暖房を消すと、僕はフローリングの上に敷いた布団の中に潜り込んだ。
枕元を確認する。横置きに寝かせた黒いギターケース、その上に並べたスマホとデジタル表示の目覚まし時計、それにきれいな模様が入った紙袋が一つ。
ギターケースをそんな風に使ってはいけないのだろうけれど、ちょうどいい高さなのでつい。中に入っているのは僕が趣味で弾いてるアコースティックギター、いわゆる生ギター。
目覚まし時計は小学生の時から使っているもの。スマホのアラーム機能を使えば時計はいらないのかもしれないけど、僕は今でもそれを使っている。
時計の時刻を見る。「23:30」。
その下に表示されている日付は……「12/23」。そう、今日は、12月23日。そして明日は、12月24日。クリスマスイヴ。
たぶん明日、日本じゅう、いや世界じゅうでたくさんのカップルがデートなんかして、思いを告白したり、愛を語り合ったりなんかするんだろう。明日は、そういう日だ。
ぼくも明日、彼女と会う。
「彼女」、と言っても「恋人」という意味の「彼女」じゃない。いわゆる「She」だ。
彼女は僕と同じ大学に通う1年生、僕と同級生。学部が違うからキャンパス内で顔を合わせることはないけど。
彼女の名前は、「里木さん」。いつもそう呼んでいる。ちょっとよそよそしいかもしれないけれど、僕たちの関係はそんなところだ。今のところ。
下の名前は「聖冬さん」。「ミフユ」と読む。いい名前だと思う。きれいで、清楚で、凛としていて、でも暖かくて。里木さんの雰囲気にピッタリだ。ていうか、その名前通りに里木さんが育った、いや、両親が里木さんをそのように育ててくれた、と言った方が正しいのか。
明日、里木さんは19歳になる。そう、12月24日は里木さんの誕生日でもある。
「わたし、クリスマスイヴと誕生日が一緒でしょ。だから、両親からのプレゼント、いつも一緒にされちゃうんです。他の人は年に二回プレゼントもらえるのに。わたしは一回、なんか、損してる気分」
里木さんはそう言っていた。でもその表情からは「損してる」という不満は少しもも感じられなかった。むしろ、たとえ一回でも両親からプレゼントがもらえることがうれしくてたまらない、そんな気持ちが伝わってきた。
毎年、12月24日は両親と過ごすという。そして今年も。
『ですからその日は会えません』
里木さんからのライン。そりゃ、そうだろう。毎年の大事な行事だから。明日も、里木さんは両親といっしょに聖なる夜を祝福し、そして両親から自分自身の誕生と成長を祝ってもらえるのだ。
お昼からお母さんといっしょに買い物に行って、それから料理を作るという。ケーキも自宅で焼くのだという。正直、「すごい」と思う。けして悪い意味じゃなく。
里木さんは両親のことが大好きなんだと思う。言葉の端々からその気持ちが伝わってくる。
僕だって自分の両親のことは好きだ。人前じゃ言えないけど。
僕は……僕は倉田知春。「春」を「知る」と書いて「チハル」と読む。地方出身の大学一年生。
僕は地方の農業地帯の生まれで、家の周りは住宅よりも田畑の方が多いようなところで育った。うちは農家ではなかったけど。父親は役場に勤めていて、母親は近所のスーパーで働いていた。もちろん地方の農業地帯でも共働きの一般家庭でもクリスマスイヴのお祝いくらいはする。子供の頃は母親が勤務先のスーパーで買ってきてくれたケーキを一緒に食べたし、クリスマスのプレゼントにゲーム機を買ってもらったこともある。
今も、僕のわがままを聞いて東京の大学に行かせてくれたこと、学費だけでなく、アパートの家賃まで負担してくれていることに感謝している。僕だって、両親のことは大好きだ。
いや、今は僕のことじゃない。
『午前中じゃ、ダメですか?』
里木さんからのラインの続き。ダメなわけない。里木さんに会えるなら、いつだっていい。
朝9時に待ち合わせることにした。場所は里木さんの家の最寄りの駅。お昼からご両親と買い物だから、そんなに時間は取れない。
最悪、プレゼントを渡すことができればいい。
目覚まし時計の横にある紙袋は、僕から里木さんへのプレゼントだ。紙袋の中にはきれいに包装された小さな箱が二つ入っている。一つは誕生日の、もう一つはクリスマスのプレゼント、のつもりだ。
そして、できれば……僕の気持ちを、伝えられれば。
里木さんは両親のことが大好きだ。そしてたぶん、里木さんの両親も里木さんのことが大好きだ。あたり前だ。でも、僕だって里木さんのことが大好きだ。負けないくらい。いや、里木さんの両親の「好き」と僕の「好き」はちょっと意味が違う。僕のは、「愛してる」てことだ。ん? 両親のも広い意味で「愛してる」てことか? だったら、僕のは……「恋」。そう、「恋してる」。そういうことだ。
その気持ちが伝えられれば、それでいい。それだけでいい。
目覚まし時計の時刻を見た。
「23:45」。もうじき明日,12月24日だ。
里木さんにラインしておこうかと思った。『明日、よろしく』って。
考えてみると、明日を待たなくても今ここで、僕の気持ちを伝えることもできる。もっと前に伝えることもできた。でも……やっぱり明日だ。明日、12月24日、里木さんの特別な日に。会って、里木さんの顔を見て。だからやっぱり『明日、よろしく』だ。
ギターケースの上に置いたスマホを手に取って、ラインを打った。
「テロリン」
すぐにスマホが鳴った。里木さんからの返信だ。
『こちらこそ、よろしくお願いします。おやすみなさい』
ほっとした。ほっとして、涙が出てきた。どうして? うれしくて。里木さんが僕のメッセージを読んで、返信してくれたことが、うれしくて。
もう一度読み返して、返信した。
『ありがとう。おやすみなさい』
すぐに『既読』になった。
目覚まし時計の時刻を見た。「23:55」。
頭から布団をかぶった。朝まで眠れないんじゃないかと思ったけど、僕はいつの間にか、眠りに落ちてた。
「ピピピ、ピピピ、ピピピ」
目覚まし時計の電子音で、僕は目を開けた。
うつ伏せの姿勢になって、手を伸ばす。ギターケースの上に乗せた目覚まし時計の上部にあるボタンを押して電子音を止める。暗闇の中に見慣れたデジタル表示の時刻が光っている。
「6:00」朝の6時だ。
里木さんとの約束は9時。待ち合わせた里木さんの家の最寄りの駅までは1時間で行けるから、まだ十分に時間はある。そもそもこんなに早く起きる必要もなかった。でも僕は普段大学に行く時と同じ時間に時計をセットしていた。習慣、かな。
目覚まし時計を使わなくても目が覚めていたと思う、きっと。うれしくて。今日のこと、里木さんと会うことを思うと、うれしくて。前の晩、僕は眠れないんじゃないかと思っていたけど、思いのほか熟睡できた、ような気がする。自分でもちょっと不思議だ。
ふと、違和感を覚えた。時計の、時刻の下に表示された日付。「6:00」の、その下。
「12」……「22」。
「えっ」
僕は起き上がって目覚まし時計を手に取った。「6:00」の表示のすぐ下にある日付は……「12/22」。12月22日。
そんなはずはない。今日は12月24日、クリスマスイヴ。里木さんの誕生日。の、はずだ。長年使っていた時計がとうとう壊れたか。
僕は起き上がって目覚まし時計を上下に振ってみた。時刻が「6:01」に変わった。その下にある日付は……
「12/22」のままだ。
ギターケースの上のスマホが目に入った。僕は目覚まし時計を置いてスマホを手に取った。スマホの画面に日付を表示させていた。その日付は……「12月22日」。やっぱり、「12月22日」。
僕はスマホのニュースの画面を開いた。僕の部屋にテレビはない。ニュースなどはいつもスマホで確認していた。
ニュースの見出しが並んでいる。ニュースがアップされた日付を見る。その日付は……やっぱり「12月22日」。
下の方のニュースは、アップされた日付が「12月21日」になっている。「23日」も、ましてや「24日」もない。
混乱してきた。確かめたい。誰かに確かめたい。
僕は手にしていたスマホで実家の母親に電話してみた。母親はすぐに電話に出てくれた。
「あら、知春? どうしたの? こんな早くに」
母親の驚いた声。
「いや、ちょっと確かめたいことがあって」
「なに?」
「今日……何月何日?」
「なに言ってるの? 12月22日だけど……」
「そう……」
やっぱり。やっぱり22日なんだ。
「それがどうしたの?」
「……いや、何でもない」
「それはそうと、年末はいつ帰ってくるの?」
「え? ああ、まだちょっと……」
そんなこと考えてなかった。ていうか、今はそれどころじゃない。
「風邪ひいてない? 寒いからね」
「うん……また連絡するから」
「あら、もう……」
「じゃ」
僕は電話を切った。母親の声を聞いて少し安心した、ような気がした。
でも、状況は変わってない。今日は、間違いなく12月22日なのだ。24日、ではなく。
僕は、僕はいったいどうなってしまったんだろう。「不安」が僕を覆ってくる。
僕は前の日、12月23日のことを思い出そうとした。土曜日で大学の授業はなかったから、部屋の掃除をして、ギターを弾いて、夕方からバイトに行って、夜遅くに帰ってから寝る前に里木さんにラインして……間違いない。僕は、僕は確かに、昨日、12月23日を生きていた。
それからその前の日、12月22日のことを考えようとした。そして……思い出した。
僕は部屋の灯りを点けた。
ない。里木さんのために買った、プレゼントの紙袋がない。枕元のギターケースの上に置いたはずなのに。
当たり前だ。僕があのプレゼントを買ったのは、今日、22日の日中なのだから。
「恐怖」が襲ってくる一歩手前で、僕は踏みとどまった。里木さんのおかげだ。
今日が22日なら、僕にはしなければならないことがある。この日、僕は里木さんと12月24日に会う約束をするんだ。それから、里木さんへのプレゼントを買いに行くんだ。
僕は身支度をして部屋を出た。
外はまだ暗かった。夜明けの直前の空の色は、濃い青色。知っている。僕はこの色を知っている。……ラピスラズリ。
僕は、「あの場所」をめざした。里木さんと初めて出会った、あの場所。僕は、里木さんと初めて出会った、あの日のことを思い出していた。
聞き慣れない電子音が響いた。僕は階段を降りる足を止めて、ポケットからスマホを取り出した。音はスマホからだ。スマホが叫んでいる。
階段を昇りはじめていた里木さんも立ち止まった。里木さんの持っていたスマホも同じ音を発しているみたいだ。
『ジシンデス、ジシンデス』
スマホの声。そして。
グラッ。揺れた。地震だ。
僕は階段の手すりにつかまった。里木さんは、階段の途中にしゃがみ込んでいた。
「里木さん!」
僕は里木さんに向かって叫んだ。里木さんも僕の方を見て何か言おうとした。
グラグラグラ、グラグラグラ。大きく揺れた。
里木さんは両手で頭を押さえてうずくまった。僕は手すりから手を離すことができなかった。
グラグラグラ、グラグラグラ。
揺れは少しの間続いて、おさまった。
里木さんが立ち上がった。
「倉田さん!」
そう叫んで、階段を駆け登って来る。僕も立ち上がった。
二人の距離が縮む。あと三メートル、二メートル、一メートル。
その時。
再び、大きく揺れた。さっきより、大きく。突き上げるように。
僕は、左手で階段の手すりにつかまりながら里木さんに向かって右手を伸ばした。里木さんも僕に向かって右手を伸ばした。
里木さんの指。白くて細い指。あと三センチ、あと二センチ。
届かない。あと一センチ、届かない。
里木さんは、そのまま……
1 今日
アパートの狭い部屋は、温まるのも早いけど冷えるのも早い、ような気がする。エアコンの暖房を消すと、僕はフローリングの上に敷いた布団の中に潜り込んだ。
枕元を確認する。横置きに寝かせた黒いギターケース、その上に並べたスマホとデジタル表示の目覚まし時計、それにきれいな模様が入った紙袋が一つ。
ギターケースをそんな風に使ってはいけないのだろうけれど、ちょうどいい高さなのでつい。中に入っているのは僕が趣味で弾いてるアコースティックギター、いわゆる生ギター。
目覚まし時計は小学生の時から使っているもの。スマホのアラーム機能を使えば時計はいらないのかもしれないけど、僕は今でもそれを使っている。
時計の時刻を見る。「23:30」。
その下に表示されている日付は……「12/23」。そう、今日は、12月23日。そして明日は、12月24日。クリスマスイヴ。
たぶん明日、日本じゅう、いや世界じゅうでたくさんのカップルがデートなんかして、思いを告白したり、愛を語り合ったりなんかするんだろう。明日は、そういう日だ。
ぼくも明日、彼女と会う。
「彼女」、と言っても「恋人」という意味の「彼女」じゃない。いわゆる「She」だ。
彼女は僕と同じ大学に通う1年生、僕と同級生。学部が違うからキャンパス内で顔を合わせることはないけど。
彼女の名前は、「里木さん」。いつもそう呼んでいる。ちょっとよそよそしいかもしれないけれど、僕たちの関係はそんなところだ。今のところ。
下の名前は「聖冬さん」。「ミフユ」と読む。いい名前だと思う。きれいで、清楚で、凛としていて、でも暖かくて。里木さんの雰囲気にピッタリだ。ていうか、その名前通りに里木さんが育った、いや、両親が里木さんをそのように育ててくれた、と言った方が正しいのか。
明日、里木さんは19歳になる。そう、12月24日は里木さんの誕生日でもある。
「わたし、クリスマスイヴと誕生日が一緒でしょ。だから、両親からのプレゼント、いつも一緒にされちゃうんです。他の人は年に二回プレゼントもらえるのに。わたしは一回、なんか、損してる気分」
里木さんはそう言っていた。でもその表情からは「損してる」という不満は少しもも感じられなかった。むしろ、たとえ一回でも両親からプレゼントがもらえることがうれしくてたまらない、そんな気持ちが伝わってきた。
毎年、12月24日は両親と過ごすという。そして今年も。
『ですからその日は会えません』
里木さんからのライン。そりゃ、そうだろう。毎年の大事な行事だから。明日も、里木さんは両親といっしょに聖なる夜を祝福し、そして両親から自分自身の誕生と成長を祝ってもらえるのだ。
お昼からお母さんといっしょに買い物に行って、それから料理を作るという。ケーキも自宅で焼くのだという。正直、「すごい」と思う。けして悪い意味じゃなく。
里木さんは両親のことが大好きなんだと思う。言葉の端々からその気持ちが伝わってくる。
僕だって自分の両親のことは好きだ。人前じゃ言えないけど。
僕は……僕は倉田知春。「春」を「知る」と書いて「チハル」と読む。地方出身の大学一年生。
僕は地方の農業地帯の生まれで、家の周りは住宅よりも田畑の方が多いようなところで育った。うちは農家ではなかったけど。父親は役場に勤めていて、母親は近所のスーパーで働いていた。もちろん地方の農業地帯でも共働きの一般家庭でもクリスマスイヴのお祝いくらいはする。子供の頃は母親が勤務先のスーパーで買ってきてくれたケーキを一緒に食べたし、クリスマスのプレゼントにゲーム機を買ってもらったこともある。
今も、僕のわがままを聞いて東京の大学に行かせてくれたこと、学費だけでなく、アパートの家賃まで負担してくれていることに感謝している。僕だって、両親のことは大好きだ。
いや、今は僕のことじゃない。
『午前中じゃ、ダメですか?』
里木さんからのラインの続き。ダメなわけない。里木さんに会えるなら、いつだっていい。
朝9時に待ち合わせることにした。場所は里木さんの家の最寄りの駅。お昼からご両親と買い物だから、そんなに時間は取れない。
最悪、プレゼントを渡すことができればいい。
目覚まし時計の横にある紙袋は、僕から里木さんへのプレゼントだ。紙袋の中にはきれいに包装された小さな箱が二つ入っている。一つは誕生日の、もう一つはクリスマスのプレゼント、のつもりだ。
そして、できれば……僕の気持ちを、伝えられれば。
里木さんは両親のことが大好きだ。そしてたぶん、里木さんの両親も里木さんのことが大好きだ。あたり前だ。でも、僕だって里木さんのことが大好きだ。負けないくらい。いや、里木さんの両親の「好き」と僕の「好き」はちょっと意味が違う。僕のは、「愛してる」てことだ。ん? 両親のも広い意味で「愛してる」てことか? だったら、僕のは……「恋」。そう、「恋してる」。そういうことだ。
その気持ちが伝えられれば、それでいい。それだけでいい。
目覚まし時計の時刻を見た。
「23:45」。もうじき明日,12月24日だ。
里木さんにラインしておこうかと思った。『明日、よろしく』って。
考えてみると、明日を待たなくても今ここで、僕の気持ちを伝えることもできる。もっと前に伝えることもできた。でも……やっぱり明日だ。明日、12月24日、里木さんの特別な日に。会って、里木さんの顔を見て。だからやっぱり『明日、よろしく』だ。
ギターケースの上に置いたスマホを手に取って、ラインを打った。
「テロリン」
すぐにスマホが鳴った。里木さんからの返信だ。
『こちらこそ、よろしくお願いします。おやすみなさい』
ほっとした。ほっとして、涙が出てきた。どうして? うれしくて。里木さんが僕のメッセージを読んで、返信してくれたことが、うれしくて。
もう一度読み返して、返信した。
『ありがとう。おやすみなさい』
すぐに『既読』になった。
目覚まし時計の時刻を見た。「23:55」。
頭から布団をかぶった。朝まで眠れないんじゃないかと思ったけど、僕はいつの間にか、眠りに落ちてた。
「ピピピ、ピピピ、ピピピ」
目覚まし時計の電子音で、僕は目を開けた。
うつ伏せの姿勢になって、手を伸ばす。ギターケースの上に乗せた目覚まし時計の上部にあるボタンを押して電子音を止める。暗闇の中に見慣れたデジタル表示の時刻が光っている。
「6:00」朝の6時だ。
里木さんとの約束は9時。待ち合わせた里木さんの家の最寄りの駅までは1時間で行けるから、まだ十分に時間はある。そもそもこんなに早く起きる必要もなかった。でも僕は普段大学に行く時と同じ時間に時計をセットしていた。習慣、かな。
目覚まし時計を使わなくても目が覚めていたと思う、きっと。うれしくて。今日のこと、里木さんと会うことを思うと、うれしくて。前の晩、僕は眠れないんじゃないかと思っていたけど、思いのほか熟睡できた、ような気がする。自分でもちょっと不思議だ。
ふと、違和感を覚えた。時計の、時刻の下に表示された日付。「6:00」の、その下。
「12」……「22」。
「えっ」
僕は起き上がって目覚まし時計を手に取った。「6:00」の表示のすぐ下にある日付は……「12/22」。12月22日。
そんなはずはない。今日は12月24日、クリスマスイヴ。里木さんの誕生日。の、はずだ。長年使っていた時計がとうとう壊れたか。
僕は起き上がって目覚まし時計を上下に振ってみた。時刻が「6:01」に変わった。その下にある日付は……
「12/22」のままだ。
ギターケースの上のスマホが目に入った。僕は目覚まし時計を置いてスマホを手に取った。スマホの画面に日付を表示させていた。その日付は……「12月22日」。やっぱり、「12月22日」。
僕はスマホのニュースの画面を開いた。僕の部屋にテレビはない。ニュースなどはいつもスマホで確認していた。
ニュースの見出しが並んでいる。ニュースがアップされた日付を見る。その日付は……やっぱり「12月22日」。
下の方のニュースは、アップされた日付が「12月21日」になっている。「23日」も、ましてや「24日」もない。
混乱してきた。確かめたい。誰かに確かめたい。
僕は手にしていたスマホで実家の母親に電話してみた。母親はすぐに電話に出てくれた。
「あら、知春? どうしたの? こんな早くに」
母親の驚いた声。
「いや、ちょっと確かめたいことがあって」
「なに?」
「今日……何月何日?」
「なに言ってるの? 12月22日だけど……」
「そう……」
やっぱり。やっぱり22日なんだ。
「それがどうしたの?」
「……いや、何でもない」
「それはそうと、年末はいつ帰ってくるの?」
「え? ああ、まだちょっと……」
そんなこと考えてなかった。ていうか、今はそれどころじゃない。
「風邪ひいてない? 寒いからね」
「うん……また連絡するから」
「あら、もう……」
「じゃ」
僕は電話を切った。母親の声を聞いて少し安心した、ような気がした。
でも、状況は変わってない。今日は、間違いなく12月22日なのだ。24日、ではなく。
僕は、僕はいったいどうなってしまったんだろう。「不安」が僕を覆ってくる。
僕は前の日、12月23日のことを思い出そうとした。土曜日で大学の授業はなかったから、部屋の掃除をして、ギターを弾いて、夕方からバイトに行って、夜遅くに帰ってから寝る前に里木さんにラインして……間違いない。僕は、僕は確かに、昨日、12月23日を生きていた。
それからその前の日、12月22日のことを考えようとした。そして……思い出した。
僕は部屋の灯りを点けた。
ない。里木さんのために買った、プレゼントの紙袋がない。枕元のギターケースの上に置いたはずなのに。
当たり前だ。僕があのプレゼントを買ったのは、今日、22日の日中なのだから。
「恐怖」が襲ってくる一歩手前で、僕は踏みとどまった。里木さんのおかげだ。
今日が22日なら、僕にはしなければならないことがある。この日、僕は里木さんと12月24日に会う約束をするんだ。それから、里木さんへのプレゼントを買いに行くんだ。
僕は身支度をして部屋を出た。
外はまだ暗かった。夜明けの直前の空の色は、濃い青色。知っている。僕はこの色を知っている。……ラピスラズリ。
僕は、「あの場所」をめざした。里木さんと初めて出会った、あの場所。僕は、里木さんと初めて出会った、あの日のことを思い出していた。