結局帰りが遅くなり、辺りは既に暗くなっていた。今日は特別にと灰谷先生に送って貰って、わたし達はそれぞれ家に帰った。
 先に送り届けられた美月さんの家は正直あまりイメージ出来なかったけれど、ごく普通のアパートだった。彼女にも、彼女の生活がある。そんな当たり前が、とても新鮮だった。

 先生と二人の車の中、わたしは目まぐるしい一日の疲労感から、つい助手席でうとうとしてしまう。

「白楽さん、ありがとうございました。黒崎さんのこと……僕なりに頑張って来たつもりなんですけど……やっぱり、大人に出来ることは限られてますね」
「……? 大人って、何でも出来るんじゃないんですか?」
「いえ。こんな時、大人は無力です。同じ土俵には立てず、かといって無理矢理引き上げるだけのエゴは最善たりえない」
「……わたしには、まだ難しいです」
「ふふ。あなた達くらいの、子供にも大人にもなれる子達が、一番色んな可能性を秘めているんですよ。それこそ、誰かの神様にだってなれるくらい」

 先生はそう言って悪戯に微笑んだ。その表情は、まるで少年のようにも見える。
 その後わたしの家までの数分間を、美月さんや星羅ちゃんのことを話しながら過ごした。そして不意に、初めて先生と話した日のことを思い出す。

「あっ、そういえば先生、あのラブレターは何だったんですか?」
「ら、ラブレター!?」
「ほら、黒崎さんへって書いた封筒持ってたじゃないですか?」
「……ああ、あれですか。よく覚えてますね? あれは黒崎さんへの課題と……絵です」
「絵?」
「僕は美術しか出来ません。先生なんて言っても、正直人付き合いは苦手ですし……絵が、僕なりの表現方法なんです。なので、黒崎さんに少しでも応援の気持ちを届けるには絵かと……」
「へえ、どんな絵を描いたんですか?」
「……ふふ、今度黒崎さんに見せて貰ってください。……ちなみに美術室の僕の席からは、案外屋上が良く見えるんですよ」
「?」

 そうこうしている間に、わたしの家に着く。あばら家のような、壁の色も剥がれかけたぼろぼろのアパート。
 わたしにとって、初めて見る美月さんの家が新鮮だったように、わたしの家が先生の目にどう映ったかは、分からなかった。

 美月さんに見られなくてよかったと、心の底から思った。
 わたしの帰る場所は、ここじゃない。あの日からずっと、夏の日差しに煌めく二人の屋上だった。

「……もう寝てるのかな」

 いつもより帰りが遅くても気付きもしない家族は、先生の車から降りて来たわたしのことも当然気付かない。
 酒瓶の転がるリビングを抜けて、まっすぐ物の少ない簡素な部屋に戻る。スマホをベッドに放り投げ、一緒になって寝転んで、一息吐いた。

 せめて嫌われぬよう、排除されぬようコミュニケーション能力を磨いて、適当に外に居場所を求めたわたしと、保健室や屋上、閉じ籠りながらも自分の居場所を確立していた美月さん。

 わたし達は違っているようで、少し似ているのかもしれない。互いに互いを居場所と認識して、それを守りたかっただけなのだ。
 自分を保つための大切なものを、大切にしたかっただけなのだ。

「ひとりの女の子。大切な友達。優しい先輩。……わたしの、神様……」

 二人だけの世界が、お互いの神様だった時間が、夏の幻のように崩れ落ちる。
 それは寂しかったけれど、どんな関係だって構わない。彼女が何者でも構わない。
 わたしの大事な居場所は、紛れもなくあそこだった。


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 あれから、わたし達の時間に危惧したような劇的な変化はなく、けれど明確に人間同士の関係性で、いつもと変わらないかけがえのない日々を過ごした。

 すぐに突入した夏休みには学校の外でも会ったし、ごく稀に部活が休みの星羅ちゃんと三人で会うこともあった。
 初めこそ人見知りし抵抗があった様子の美月さんだったけれど、星羅ちゃんが灰谷先生の妹ということもあり、比較的直ぐ打ち解けたように思う。

 二人だけの秘密の関係がなくなってしまったようで何と無く寂しかったけれど、彼女の世界が広がるのは良いことだと、わたしはそんな複雑な感情を見て見ぬふりする。

「わ、この絵いいですね! でもこれ、お兄ちゃんの絵……?」
「ええ、週一くらいで課題と一緒に灰谷先生がくれるの。本当に律儀よね……」

 美月さんの手帳に大切に挟まれていた絵葉書サイズの水彩画は、彼の人柄を思わせる優しい色味をしている。そして見せて貰った内の一枚に、不意に見覚えのある光景を見付けた。

「あ、れ? これって……」
「全く、秘密の時間を盗み見なんて失礼よね」
「……? 陽茉莉ちゃんと先輩は、この絵のモチーフが何か知ってるんですか? どこかの屋上?」
「ふふ、内緒」

 小さな紙の中描かれた、フェンスの取り払われた空想の屋上。
 青空に程近い場所でら鮮やかなシャボン玉の中微笑む二人の神様は、あの日確かに存在した、今は遠いわたし達だけの宝物だった。


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