「ね? いいでしょ? お願い神様ー!」

 およそ三十分に渡る諦めの悪さをフルに活用したしばらくのおねだりの末、屋上の神様はわたしの圧に根負けしたのか、渋々と言った様子で頷いてくれた。

「仕方ないわね、少しだけよ? 勉強を教えるだけ。あとは自分で何とかなさい」
「本当ですか!? やったぁ! これで赤点回避……!」
「……、あなたそんなに成績悪いの?」
「あ、はい。今度赤点だったら進学が危うい感じですね!」
「一年生の夏にして!?」

 喜びから神様の両手を握ったまま万歳をすると、彼女はそれにつられて少し背伸びをする。どうやらわたしより少し背が低いようだ。しかしされるがままだった彼女は、すぐにはっとしたようにわたしの手を振り払った。

 屋上の風に煽られても尚絡まない長い髪、化粧なんてしていなさそうなのにくっきりとした目鼻立ち、至近距離で見ても荒れのないキメ細かな質感の肌。
 改めて間近に見た神様はやっぱりそこら辺のモデルやアイドルよりも美人だったけれど、背の低さとカーディガンのぶかぶか具合にどうしても小さく見えて、もしかすると年下なのかもしれないと思えてきた。
 それなら、勉強をどうこうというのは難しいお願いだったかも知れない。

「あの、やっぱりお願い事、変更した方が……?」
「……いいえ、構わないわ。どうせ暇だったもの……ただし、私の勉強方法はスパルタだから覚悟してちょうだい」
「おっと、まさかの魔法とか神様パワーじゃなく地道な解決法……」
「当たり前でしょう。……次のテストだけ点が良くても意味ないもの」
「はぁい……じゃあ、とりあえず、次の数学の小テストからお願いします」
「小テスト、いつなの?」
「……、明日、かも」
「明日!? あなた、屋上なんかに来てる暇があったら勉強しなさい!?」
「あはは……返す言葉もないです」
「ああもう! 範囲はどこ? 教科書出しなさい!」

 ごもっともなお怒りを笑って誤魔化しつつ、思いの外面倒見の良い神様は、その場で早速勉強を教えてくれた。

 広げたノートには落書きだらけ、教科書には特に蛍光ペンで線を引いたりもしていない。テスト範囲をわざわざプリントで配ってくれた数学教師に感謝だ。これがなくては範囲すら分からなかった。

 最早何が分からないのかさえ分からないレベルのわたしに対して、懇切丁寧に小テスト範囲の公式ひとつひとつの解き方を教えてくれる神様は、やっぱり神様なのだろう。正直授業で先生に教わった時よりも、理解し易かった。

 今が夏で、日が長くて良かったと心底感じる。じりじりと照る日差しは傾き、わたし達は日陰で顔を付き合わせる。

 結局その後、二時間ほど掛けて徹底的に基礎から叩き込まれて、小テストどころか受験勉強でもしたことのないレベルでみっちりと脳を酷使したところで、不意に完全下校のチャイムが鳴り響いた。

「えっ、もうこんな時間!?」
「……ここまでにしましょう。とりあえず今日詰め込んだ所、明日まで忘れずにね」
「はい! これだけやったんで明日は絶対大丈夫です。満点確定!」
「そう? あなた、三歩歩いたら忘れそうで……」
「えっ、もうわたしのキャラばれてる……?」

 さすがは神様だ。何でもお見通しなのだろう。わたしはやけに納得しつつ、チャイムと下校案内の放送に急かされるようにして、鞄に教科書とノートを詰め込む。

「まあ何にせよ、本当にありがとうございました、神様!」
「……その、神様ってやめてくれる?」
「えっ、じゃあ何て呼べば……?」

 やめろと言ったにも関わらず名前を聞かれるとは思っていなかったのか、神様は少し悩んだように視線を泳がせて、しばらくしてぽつりと呟くように告げる。

「……美月」
「はっ! 美月様!」
「様はやめて」
「みつたゃ?」
「距離感バグってるの?」
「美月……さん?」
「……よろしい」

 そうして頷いた神様改め美月さんは、わたしと会ってから初めて微笑んでくれた。そのどこか照れたような嬉しそうな顔につられて、わたしもついだらしなく表情を緩める。

「じゃあわたしのことも、あなたじゃなくて『陽茉莉』って呼んでください! あっ、『ひま』でも、『まり』でも、『ひーちゃん』でもいいです!」
「あだ名のバリエーションが多いのね……」
「そうですか? あ、何なら新しいあだ名も歓迎です!」
「つけないわよ」
「即答された……」
「……ほら、さっさと帰りなさい。その内校門も閉じられるわよ」
「わっ、それは困る! じゃあ、帰りますね。明日もまた来るんで、鍵開けといてください!」
「えっ、来なくて良い……って、もう居ない……」

 わたしは教えて貰った知識を忘れないよう反芻しながら、足早に階段を駆け降りた。一度振り返るけれど、彼女は降りては来なかった。

 美月さんは帰らなくて良いのかとか、一緒に帰ろうとか色々考えたけれど。神様ならあそこに住んでるんだろうし、他校の生徒だとしたら入り込めたのだから抜け道もあるのだろう。

 彼女が本当の神様だと疑うこともせず信じていたい幼い心と、そんな訳ないと凝り固まった常識を理解している大人の心。二つの心がごちゃ混ぜで、わたしの現実はどっち付かずに揺れている。

 それでも、彼女との出会いに高揚した気持ちだけは揺るぎない本物で、わたしはようやく日が沈み始め和らぐ夏の温度を感じながら、帰路についた。


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