わたしは放課後、早速噂の真偽を確めるべく件の屋上に向かうことにした。唯一の情報である『誰にも見付かってはいけない』との言いつけを守り、忍者さながらの完璧な動作で、普段訪れることのない上級生の教室がある三階へと向かう。
未だ廊下に残っていた三年生達からちらちらと視線を感じるのは、気のせいだと思っておこう。
少々乱暴な理論だが、わたしがその視線に気付かなければ、見付かっていると定義されないはずだ。
「えっと、あっち……かな?」
見切り発車な探索は、案の定早速行き詰まりを見せた。学校に屋上があること自体は何と無く知っていたけれど、入学して一度も上がったことは無かったし、何なら屋上に続く階段がどこに有るのかも知らなかったのだ。
わたしは校舎の端から端まで、しらみ潰しに練り歩くことにした。その間も目立たぬよう隠密行動だ。
擦れ違う三年生や教師の視線が痛かった気がするけれど、やっぱり気のせいだと思っておく。思い込みは大事だ。
しかし不意に、二年か三年の担任だろうか。見たことのない若い男性が、手元の封筒から顔を上げて、怪訝そうにこちらへと視線を向けているのに気付いてしまった。……これはまずい。反射的に背を向けるけれど、遅かった。
「……君、一年生? さっきからうろうろしているけど、何か探し物ですか?」
「あ、いえ……その」
その男性は、背を向けたまま冷や汗を垂らすわたしを、不思議そうに覗き込む。
何しろ誰にも見付かってはいけないのだ。声を掛けられた時点でアウトなのか、誤魔化し切れればセーフなのか、わたしは必死に考えた。
そして、結局考えが纏まらないまま、なるようになれと勢いのまま顔を上げ、正面から向かい合う。
「あのっ、先生って、彼女居ますか!?」
「……は?」
「いやあ、その、前に廊下で見掛けて、先生格好いいなぁって思ってたんです! ……それで、つい顔を見に来ちゃったんですけど、まさか声掛けられるなんて思わなくて!」
「……」
さすがに無謀過ぎただろうか。前に見掛けたも何も、今初めて見た顔だ。そもそも彼が先生であるかすら知らない。
彼も思わず黙り込み、わたしを見詰める。この沈黙が辛くて、わたしは更に言葉を重ねた。
「あの、先生って、三年生の担任ですか? せめてお名前を!」
「……はあ。三年三組担任、美術の灰谷宙と申します」
「灰谷……って、もしかして星羅ちゃんの……お兄さん?」
「おや、星羅のお友達ですか?」
「はいっ! 同じクラスの白楽です! 仲良くさせて頂いてます!」
「ああ、君が。星羅から良く話は聞いてますよ。とても元気なお友達が出来たと」
「へへ、元気だけが取り柄です!」
怪訝そうな表情はすっかり無くなり、妹の話となると穏やかに微笑む。兄妹仲は良好なようだ。確かに灰谷先生の持つ優しそうな控え目な空気感は、星羅ちゃんに似ていた。
話しやすい雰囲気もあり、星羅ちゃんという共通の話題があることからも、つい会話が弾む。
しかしまだ二十代か、多く見積もっても三十代前半。背も高く清潔感のある若い男の先生は、女子生徒から人気があるのだろう。
先程から女子の先輩からちらちらと視線を感じ、余計目立ってしまっている気がする。これは早々に切り上げなくてはいけない。
「……と、そうだ先生。さっきからその封筒持ってますけど、どこかに持って行く途中でした?」
「おっと、そうでした……これを届けに行く所だったんです」
「あ、もしかしてラブレターだったり? えーと……黒崎さん?」
先生が持っていた茶封筒には、住所等は書かれておらず宛名のみ記されていた。郵送ではなく手渡しでもするのだろうか。それなら、余計に引き留めて申し訳ない。
「……すみません、そろそろ失礼しますね。白楽さん、星羅のこと、宜しくお願いします」
「はい! 寧ろいつもお世話になりっぱなしなので、今後とも宜しくお願いします」
去り際に会釈する丁寧な先生へとわたしは大きく手を振り、一息吐く。屋上探しはバレずに済んだと言って良いだろう。
「……あれ。ラブレター、否定されなかったな」
*******
灰谷先生と別れた後、遠目に見ていたらしい数人の先輩から囲まれ何の話をしていたのか聞かれたり、密かに人気があるらしい先生の格好いい所を教えて貰ったりと大いに盛り上がった。さすがにラブレターについては話せなかったけれど。
「あった……!」
そんな数多の困難を潜り抜け、当初の目的を忘れかけたところで、わたしはようやく屋上へと続くと思われる階段と、その先に重厚な扉を見付けた。
砂漠を彷徨い続けオアシスを目の前にしたように、わたしは嬉々として、その短い階段を駆け上がる。
けれどその先の扉には、無情にも鍵が掛かっていた。
「えっ、あれ、なんで!?」
押せども引けども、その鉄製の扉はびくともしない。それどころか、赤い文字ででかでかと『立ち入り禁止』の標記がなされていた。
「そんなぁ……!? せっかくここまで来たのに!」
失意に膝を付きながら、わたしは尚もがちゃがちゃと扉を抉じ開けようとする。諦めの悪さは親譲りだ。
がちゃがちゃ、ドンドン、がこがこ。わたしの悪足掻きが行き止まりの空間にひたすら響いた。あんまり煩くすると、誰かに見付かってしまうかもしれない。そんな自覚はあるのに、つい手が動いてしまう。
しかししばらくして変わらぬ現状に諦めようとした時、がちゃん、と、わたしが立てたものとは違う音が響いたのだ。
「……え?」
その音に思わず辺りを見回すが、誰も居ない。となると、この先からだろうか。わたしは目の前の扉へと視線を戻す。
恐る恐る再びドアノブを回すと、先程まで半分ほどしか動かなかったそれが、今度は下まで下がったのだ。
扉が開いた。わたしは驚きや恐怖よりも、喜びから躊躇なくその重いドアを開く。その隙間から身を踊らせて、わたしは念願の屋上に降り立った。
夕方にも関わらず日はまだ高く、薄暗い行き止まりに滞在していた視界はその眩しさに慣れず、痛みすら感じて思わず目を閉じる。
初夏のじんわりとした熱い空気と、屋上の錆びた鉄の手摺やフェンスを潜り抜けて通る風の匂い。背後で重たい扉が音を立てて閉まる音。
そして、がちゃん、と、再び鍵のかかる音。
「……んん?」
少しして視界が回復した頃、今しがた不穏な音のした扉の方を振り返ると、そのすぐ近くに一人の少女が立っていた。
「……ねえ、あなた、さっきから煩いんだけど。何のつもり?」
「えーっと……」
彼女は、いつからそこに居たのだろう。風の音か開放的な空間のせいか、彼女の存在に全く気付かなかった。
驚きからアホ面を晒したまま質問に答えないわたしを、じとりと睨むように見詰めるその少女は、日差しを受けて艶めく長い髪を靡かせて、不服そうに両腕を組んでいる。
同い年くらいに見える、とても美しい少女だった。目を惹くのはその夜の底のような深い色をした緩くウェーブのかかった髪。そして、その黒に映える、この気温で汗一つかいていない柔らかそうな白い肌。
一瞬見惚れてしまって気付くのが遅れたが、彼女が身に纏う制服はこの学校の物ではなかった。
一応夏物のようだけれど、制服の上から長袖の黒いカーディガンを羽織っており、その下のセーラー服は、この辺りでは見掛けたことがないデザインだった。
どうして他校の生徒が居るのか。
どうして立ち入り禁止の扉の向こうに居たのか。
どうして再び鍵を閉めたのか。
色んな疑問が浮かぶけれど、わたしはとうにその答えを持ち合わせていた。先程から変わらず不機嫌な様子を隠しもしない少女へと、一気に距離を詰める。
「あのっ、わたし、一年二組の白楽です! 白くて楽しい、白楽陽茉莉! 宜しくお願いします!」
「……いや、あなたの名前なんて聞いてないんだけど……」
「そしてあなたは、屋上の神様ですよね!?」
「……、……は?」
「だって放課後の屋上に居たし! 見たことない制服だし! めちゃくちゃ美人だし!」
「なっ……!?」
ぐいぐいと詰め寄ったせいで、目の前の少女は後退り、自らの手で施錠し閉ざされた扉に背をぶつける。鈍い音が響いたけれど、わたしはお構いなしに、カーディガンから覗く小さな彼女の手を握った。
「お願い神様っ! わたし、どーしても、次のテストで良い点とりたいんです!」
「……、はぁ……?」
いつから屋上に居たのか、夏の盛りにも関わらず少し冷えた手をした神様は、わたしの願い事にぽかんとした後、心底呆れた表情を返したのだった。
*******
未だ廊下に残っていた三年生達からちらちらと視線を感じるのは、気のせいだと思っておこう。
少々乱暴な理論だが、わたしがその視線に気付かなければ、見付かっていると定義されないはずだ。
「えっと、あっち……かな?」
見切り発車な探索は、案の定早速行き詰まりを見せた。学校に屋上があること自体は何と無く知っていたけれど、入学して一度も上がったことは無かったし、何なら屋上に続く階段がどこに有るのかも知らなかったのだ。
わたしは校舎の端から端まで、しらみ潰しに練り歩くことにした。その間も目立たぬよう隠密行動だ。
擦れ違う三年生や教師の視線が痛かった気がするけれど、やっぱり気のせいだと思っておく。思い込みは大事だ。
しかし不意に、二年か三年の担任だろうか。見たことのない若い男性が、手元の封筒から顔を上げて、怪訝そうにこちらへと視線を向けているのに気付いてしまった。……これはまずい。反射的に背を向けるけれど、遅かった。
「……君、一年生? さっきからうろうろしているけど、何か探し物ですか?」
「あ、いえ……その」
その男性は、背を向けたまま冷や汗を垂らすわたしを、不思議そうに覗き込む。
何しろ誰にも見付かってはいけないのだ。声を掛けられた時点でアウトなのか、誤魔化し切れればセーフなのか、わたしは必死に考えた。
そして、結局考えが纏まらないまま、なるようになれと勢いのまま顔を上げ、正面から向かい合う。
「あのっ、先生って、彼女居ますか!?」
「……は?」
「いやあ、その、前に廊下で見掛けて、先生格好いいなぁって思ってたんです! ……それで、つい顔を見に来ちゃったんですけど、まさか声掛けられるなんて思わなくて!」
「……」
さすがに無謀過ぎただろうか。前に見掛けたも何も、今初めて見た顔だ。そもそも彼が先生であるかすら知らない。
彼も思わず黙り込み、わたしを見詰める。この沈黙が辛くて、わたしは更に言葉を重ねた。
「あの、先生って、三年生の担任ですか? せめてお名前を!」
「……はあ。三年三組担任、美術の灰谷宙と申します」
「灰谷……って、もしかして星羅ちゃんの……お兄さん?」
「おや、星羅のお友達ですか?」
「はいっ! 同じクラスの白楽です! 仲良くさせて頂いてます!」
「ああ、君が。星羅から良く話は聞いてますよ。とても元気なお友達が出来たと」
「へへ、元気だけが取り柄です!」
怪訝そうな表情はすっかり無くなり、妹の話となると穏やかに微笑む。兄妹仲は良好なようだ。確かに灰谷先生の持つ優しそうな控え目な空気感は、星羅ちゃんに似ていた。
話しやすい雰囲気もあり、星羅ちゃんという共通の話題があることからも、つい会話が弾む。
しかしまだ二十代か、多く見積もっても三十代前半。背も高く清潔感のある若い男の先生は、女子生徒から人気があるのだろう。
先程から女子の先輩からちらちらと視線を感じ、余計目立ってしまっている気がする。これは早々に切り上げなくてはいけない。
「……と、そうだ先生。さっきからその封筒持ってますけど、どこかに持って行く途中でした?」
「おっと、そうでした……これを届けに行く所だったんです」
「あ、もしかしてラブレターだったり? えーと……黒崎さん?」
先生が持っていた茶封筒には、住所等は書かれておらず宛名のみ記されていた。郵送ではなく手渡しでもするのだろうか。それなら、余計に引き留めて申し訳ない。
「……すみません、そろそろ失礼しますね。白楽さん、星羅のこと、宜しくお願いします」
「はい! 寧ろいつもお世話になりっぱなしなので、今後とも宜しくお願いします」
去り際に会釈する丁寧な先生へとわたしは大きく手を振り、一息吐く。屋上探しはバレずに済んだと言って良いだろう。
「……あれ。ラブレター、否定されなかったな」
*******
灰谷先生と別れた後、遠目に見ていたらしい数人の先輩から囲まれ何の話をしていたのか聞かれたり、密かに人気があるらしい先生の格好いい所を教えて貰ったりと大いに盛り上がった。さすがにラブレターについては話せなかったけれど。
「あった……!」
そんな数多の困難を潜り抜け、当初の目的を忘れかけたところで、わたしはようやく屋上へと続くと思われる階段と、その先に重厚な扉を見付けた。
砂漠を彷徨い続けオアシスを目の前にしたように、わたしは嬉々として、その短い階段を駆け上がる。
けれどその先の扉には、無情にも鍵が掛かっていた。
「えっ、あれ、なんで!?」
押せども引けども、その鉄製の扉はびくともしない。それどころか、赤い文字ででかでかと『立ち入り禁止』の標記がなされていた。
「そんなぁ……!? せっかくここまで来たのに!」
失意に膝を付きながら、わたしは尚もがちゃがちゃと扉を抉じ開けようとする。諦めの悪さは親譲りだ。
がちゃがちゃ、ドンドン、がこがこ。わたしの悪足掻きが行き止まりの空間にひたすら響いた。あんまり煩くすると、誰かに見付かってしまうかもしれない。そんな自覚はあるのに、つい手が動いてしまう。
しかししばらくして変わらぬ現状に諦めようとした時、がちゃん、と、わたしが立てたものとは違う音が響いたのだ。
「……え?」
その音に思わず辺りを見回すが、誰も居ない。となると、この先からだろうか。わたしは目の前の扉へと視線を戻す。
恐る恐る再びドアノブを回すと、先程まで半分ほどしか動かなかったそれが、今度は下まで下がったのだ。
扉が開いた。わたしは驚きや恐怖よりも、喜びから躊躇なくその重いドアを開く。その隙間から身を踊らせて、わたしは念願の屋上に降り立った。
夕方にも関わらず日はまだ高く、薄暗い行き止まりに滞在していた視界はその眩しさに慣れず、痛みすら感じて思わず目を閉じる。
初夏のじんわりとした熱い空気と、屋上の錆びた鉄の手摺やフェンスを潜り抜けて通る風の匂い。背後で重たい扉が音を立てて閉まる音。
そして、がちゃん、と、再び鍵のかかる音。
「……んん?」
少しして視界が回復した頃、今しがた不穏な音のした扉の方を振り返ると、そのすぐ近くに一人の少女が立っていた。
「……ねえ、あなた、さっきから煩いんだけど。何のつもり?」
「えーっと……」
彼女は、いつからそこに居たのだろう。風の音か開放的な空間のせいか、彼女の存在に全く気付かなかった。
驚きからアホ面を晒したまま質問に答えないわたしを、じとりと睨むように見詰めるその少女は、日差しを受けて艶めく長い髪を靡かせて、不服そうに両腕を組んでいる。
同い年くらいに見える、とても美しい少女だった。目を惹くのはその夜の底のような深い色をした緩くウェーブのかかった髪。そして、その黒に映える、この気温で汗一つかいていない柔らかそうな白い肌。
一瞬見惚れてしまって気付くのが遅れたが、彼女が身に纏う制服はこの学校の物ではなかった。
一応夏物のようだけれど、制服の上から長袖の黒いカーディガンを羽織っており、その下のセーラー服は、この辺りでは見掛けたことがないデザインだった。
どうして他校の生徒が居るのか。
どうして立ち入り禁止の扉の向こうに居たのか。
どうして再び鍵を閉めたのか。
色んな疑問が浮かぶけれど、わたしはとうにその答えを持ち合わせていた。先程から変わらず不機嫌な様子を隠しもしない少女へと、一気に距離を詰める。
「あのっ、わたし、一年二組の白楽です! 白くて楽しい、白楽陽茉莉! 宜しくお願いします!」
「……いや、あなたの名前なんて聞いてないんだけど……」
「そしてあなたは、屋上の神様ですよね!?」
「……、……は?」
「だって放課後の屋上に居たし! 見たことない制服だし! めちゃくちゃ美人だし!」
「なっ……!?」
ぐいぐいと詰め寄ったせいで、目の前の少女は後退り、自らの手で施錠し閉ざされた扉に背をぶつける。鈍い音が響いたけれど、わたしはお構いなしに、カーディガンから覗く小さな彼女の手を握った。
「お願い神様っ! わたし、どーしても、次のテストで良い点とりたいんです!」
「……、はぁ……?」
いつから屋上に居たのか、夏の盛りにも関わらず少し冷えた手をした神様は、わたしの願い事にぽかんとした後、心底呆れた表情を返したのだった。
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