「でも悪いけれど、お父さんはちょっと急ぎの用事があるんだ。少しつきあってくれないか」
あいつはまるで本当に父であるかのように振る舞うと、美希の方へと向き直る。
「あれ、こはる。その人、こはるのお父さん? へー、優しそうなお父さんでいいね」
何も知らない美希が見た目から受けた印象を口にしていた。
優しい。こいつが。美希は何を言っているの。こいつはそんな奴じゃないんだ。
心の中で思うものの、それがどうしても言葉にならなかった。ボクの口はまるで壊れてしまったかのように、声を漏らすことが出来なかった。
「こはるのお友達かい。仲良くしてくれてありがとね。この子はしっかりしていそうで、意外と抜けているところもあるから、気をつけてあげてくれると嬉しいよ」
あいつはにこやかに笑いながら、やっぱりまるで父親のようなそぶりで告げる。
もうお前は父親じゃない。何父親ぶった顔をしてるの。
そう思うのだけど、やっぱり何も言うことができなかった。ただ驚きと恐怖だけが、ボクの心を破裂しそうになるほど満たしてふくれあがっていた。
「でも遊んでいるところ悪いけど、ちょっとこはるに急ぎの大事な用があるんだ。今日は遠慮してくれないかな?」
「え、そうなんですか。それなら仕方ないですね。わかりました。こはる、じゃまた明日ね」
美希は完全にこの男がボクの父親なのだと思い込んでいるようだった。もともと男性が少し苦手だというのもあってか、さっさと離れてしまおうということだろう。
だから疑いすらせずに、手を振って去って行く。
まって。いかないで。ここにいて。ボクをひとりにしないで。助けて。
強く思うのに、ボクの口から漏れたのは、言葉にはならないかすれた声だけだった。
「あ……あ……」
絶望がボクの心の大半を占めていく。
どうして。どうして。
何に対してなのかもわからないけど、ただボクの心はそうつぶやいていた。
「会いたかったよ。こはる。元気にしていたかな」
「…………」
親しげに語りかける男に、ボクは何も答えない。答えられなかった。
ボクの体は張り付いたように動かない。
だけどその瞬間。
「こはる。返事はちゃんとしなさい。私はいつもそう教えただろう」
「ひ……その…………はい」
男の言葉にボクは無意識のうちに答える。
こいつがかつてボクに、そしてたけるくんに振るった暴力の様子に、ボクの体が震えていた。ボクをおそった卑怯な振る舞いに、ボクの心が震えていた。
怖い。それがボクの正直な気持ちだった。
「よろしい。実はね。いろいろあってしばらくこの街から離れていたけれど、最近戻ってきたんだ。それでこはるにまずは挨拶をしておこうと思ってね。キミは私の大切な娘だからね」
何を言っているのだろう。ボクには何も理解できなかった。
だけど突然のことにまだボクの心は混乱していて、何を言えばいいのかわからなかった。
息が苦しい。息を吐き出すことができなかった。
それでもかすれるような声で、ボクは何とか言葉を紡ぎ出していた。
「お……おかあさんと、あなたは……もう離婚したから……。もうボクは……あなたの……娘じゃない」
絞り出すような声で、それでも何とか思ったことを言えた。
それと共に大きく息を吐き出す。もはや呼吸すらまともに出来ていなかった。
だけどそんなボクの様子に気がついているのかいないのか、こいつは何とも言えない嫌らしい笑みを浮かべたまま、ボクが思ってもいない話を始めていた。
「ふむ。確かにキミのお母さんとは離婚をすることになった。だがね。キミは結婚した時に私の養女になっているが、養女縁組は解除していない。だからキミはまだ私の娘のままなのだよ」
「……え?」
こいつの言う言葉は心では理解できなかった。何を言っているのかわからなかった。
ボクが? まだ? 娘のまま? そんな馬鹿な。そんなことあるわけない。
必死でこいつの言葉を否定しようとしている自分がいた。しかしそんなことはお構いなしに、こいつはボクをみて満足そうにうなづく。
「だから私はまだキミに話をする権利もあるし、義務もある。だから私は父親として、キミと話をする必要がある」
こいつの言葉が理解できなかった。まだこいつと関係を持たなければいけないのだろうか。こいつは父親なんかじゃない。だけど法律はまだこいつを父親だとして認めているのだろうか。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌なのに。避けられないのだろうか。
どうして。どうしたらいい。どうすれば。
「い……いや……」
なんとか絞り出した声。ほとんどかすれてしまっていた。
それでもこいつはボクをみて、嬉しそうに笑う。
「嫌だといっても、キミは私の娘だ。それは逃れられない。法がそう決めているのだからね」
こいつは嫌らしい目でボクを上から下までなめるように眺めていた。
蛇のようにねっとりと絡みつく視線が、ボクの体を震え上がらせる。
こいつはボクが自分のものだと思い込んでいる。ボクを好き勝手していいと考えている。こいつのはりつくような目から、はっきりと感じられていた。
胸の中で心臓が激しく音を立てていた。警告を発していた。
その音はボクの世界を大きく崩れていくのを告げているかのようで、目の前が真っ暗になって消えていこうとしている。
「さぁ、お父さんと一緒に……」
こいつはボクの手をつかもうとして、しかし次の瞬間。
何かに気がついたようで、ボクの手をつかむのをやめていた。
「……今日のところは挨拶だけにしておくよ。でも忘れちゃいけないよ。キミは私の娘だ。私からは逃れられないよ」
それだけ言うとすぐにきびすを返して、こいつは慌てて雑踏の中へと消えていった。
助かった? ボクは何が起きたかもわからなかったけれど、大きく息を吐き出す。
そして次の瞬間。
たけるくんがボクの隣を通り過ぎていた。
それでボクはどうしてあいつが急にどこかにいきだしたのか、やっと気がついていた。あいつはたけるくんに気がついて、また前と同じようになることを恐れて逃げ出したんだ。
もしたけるくんが大声を出したりすれば、絶対に騒ぎになるだろう。ここは家とは違って人通りが多い。そうすれば目的を果たせなくなると、たけるくんに気がつかれる前にここを去って行ったんだ。
あいつはたけるくんが病気にかかっていることは知らない。たけるくんがボクのことを覚えていないことも。だからたぶんボクに気がつかないことはわからなかった。
ああ。ああ。たけるくんは、ボクのことを忘れていても。ボクのことを知らなくても。いつだってボクを助けてくれる。
たけるくんはやっぱりボクにとってのヒーローだよ。
ボクの気持ちはどんどんキミのことばかり考えているよ。
キミが好きだ。大好きだよ。
ボクのことを忘れていても、知らなくても。
ボクには、キミしかない。
ボクはキミが好きなんだ。
でも。
ボクは息を飲み込む。今日はこうしてたけるくんがボクを助けてくれた。
でもこれからずっとたけるくんにそばにいてもらう訳にはいかない。
ボクはどうすればいいんだろう。出来るだけあいつの目につかないようにしなくちゃ。
それにしてもあいつが言っていたことは本当なのだろうか。お母さんはあまり法律だのなんだのに詳しい人じゃない。離婚の時もいろいろともめたのは知っている。
最終的にあいつは執行猶予になっただか何からしくて、刑務所にはいかなかったけれど、どこか遠い場所に引っ越していったはずだった。ただボクはあいつの話をきくのが辛くて、あまり細かいことは聴いていなかった。もう関係ない相手だと思っていたから、それでいいはずだった。
でも今になってこんな形で戻ってくるとは思っていなかった。
今にして思えばお母さんが法律手続きなどにうといことを知っていて、わざと離縁した際にボクとの関係を絶たないようにしたのかもしれない。そうしてほとぼりがさめたころにボクのもとに現れたのかもしれない。
ボクをいつも助けてくれたのはたけるくんだった。
今日も知らないうちにボクを助けてくれた。
でももうボクはたけるくんを頼れない。たけるくんの心をこれ以上にかき乱してはいけないんだ。
ならボクは。
どうしたらいいのだろう。
お母さんとは話が出来ない時間が続いている。お母さんに言うべきだろうか。
でもお母さんだって、ボクのことで心を痛めているんだ。これ以上にボクのことでわずらわせてはいけないと思う。
だからボクはひとりで戦うしかない。
でもボクは、あいつに立ち向かえるのだろうか。
ボクの体はただ震えていた。
あいつはまるで本当に父であるかのように振る舞うと、美希の方へと向き直る。
「あれ、こはる。その人、こはるのお父さん? へー、優しそうなお父さんでいいね」
何も知らない美希が見た目から受けた印象を口にしていた。
優しい。こいつが。美希は何を言っているの。こいつはそんな奴じゃないんだ。
心の中で思うものの、それがどうしても言葉にならなかった。ボクの口はまるで壊れてしまったかのように、声を漏らすことが出来なかった。
「こはるのお友達かい。仲良くしてくれてありがとね。この子はしっかりしていそうで、意外と抜けているところもあるから、気をつけてあげてくれると嬉しいよ」
あいつはにこやかに笑いながら、やっぱりまるで父親のようなそぶりで告げる。
もうお前は父親じゃない。何父親ぶった顔をしてるの。
そう思うのだけど、やっぱり何も言うことができなかった。ただ驚きと恐怖だけが、ボクの心を破裂しそうになるほど満たしてふくれあがっていた。
「でも遊んでいるところ悪いけど、ちょっとこはるに急ぎの大事な用があるんだ。今日は遠慮してくれないかな?」
「え、そうなんですか。それなら仕方ないですね。わかりました。こはる、じゃまた明日ね」
美希は完全にこの男がボクの父親なのだと思い込んでいるようだった。もともと男性が少し苦手だというのもあってか、さっさと離れてしまおうということだろう。
だから疑いすらせずに、手を振って去って行く。
まって。いかないで。ここにいて。ボクをひとりにしないで。助けて。
強く思うのに、ボクの口から漏れたのは、言葉にはならないかすれた声だけだった。
「あ……あ……」
絶望がボクの心の大半を占めていく。
どうして。どうして。
何に対してなのかもわからないけど、ただボクの心はそうつぶやいていた。
「会いたかったよ。こはる。元気にしていたかな」
「…………」
親しげに語りかける男に、ボクは何も答えない。答えられなかった。
ボクの体は張り付いたように動かない。
だけどその瞬間。
「こはる。返事はちゃんとしなさい。私はいつもそう教えただろう」
「ひ……その…………はい」
男の言葉にボクは無意識のうちに答える。
こいつがかつてボクに、そしてたけるくんに振るった暴力の様子に、ボクの体が震えていた。ボクをおそった卑怯な振る舞いに、ボクの心が震えていた。
怖い。それがボクの正直な気持ちだった。
「よろしい。実はね。いろいろあってしばらくこの街から離れていたけれど、最近戻ってきたんだ。それでこはるにまずは挨拶をしておこうと思ってね。キミは私の大切な娘だからね」
何を言っているのだろう。ボクには何も理解できなかった。
だけど突然のことにまだボクの心は混乱していて、何を言えばいいのかわからなかった。
息が苦しい。息を吐き出すことができなかった。
それでもかすれるような声で、ボクは何とか言葉を紡ぎ出していた。
「お……おかあさんと、あなたは……もう離婚したから……。もうボクは……あなたの……娘じゃない」
絞り出すような声で、それでも何とか思ったことを言えた。
それと共に大きく息を吐き出す。もはや呼吸すらまともに出来ていなかった。
だけどそんなボクの様子に気がついているのかいないのか、こいつは何とも言えない嫌らしい笑みを浮かべたまま、ボクが思ってもいない話を始めていた。
「ふむ。確かにキミのお母さんとは離婚をすることになった。だがね。キミは結婚した時に私の養女になっているが、養女縁組は解除していない。だからキミはまだ私の娘のままなのだよ」
「……え?」
こいつの言う言葉は心では理解できなかった。何を言っているのかわからなかった。
ボクが? まだ? 娘のまま? そんな馬鹿な。そんなことあるわけない。
必死でこいつの言葉を否定しようとしている自分がいた。しかしそんなことはお構いなしに、こいつはボクをみて満足そうにうなづく。
「だから私はまだキミに話をする権利もあるし、義務もある。だから私は父親として、キミと話をする必要がある」
こいつの言葉が理解できなかった。まだこいつと関係を持たなければいけないのだろうか。こいつは父親なんかじゃない。だけど法律はまだこいつを父親だとして認めているのだろうか。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌なのに。避けられないのだろうか。
どうして。どうしたらいい。どうすれば。
「い……いや……」
なんとか絞り出した声。ほとんどかすれてしまっていた。
それでもこいつはボクをみて、嬉しそうに笑う。
「嫌だといっても、キミは私の娘だ。それは逃れられない。法がそう決めているのだからね」
こいつは嫌らしい目でボクを上から下までなめるように眺めていた。
蛇のようにねっとりと絡みつく視線が、ボクの体を震え上がらせる。
こいつはボクが自分のものだと思い込んでいる。ボクを好き勝手していいと考えている。こいつのはりつくような目から、はっきりと感じられていた。
胸の中で心臓が激しく音を立てていた。警告を発していた。
その音はボクの世界を大きく崩れていくのを告げているかのようで、目の前が真っ暗になって消えていこうとしている。
「さぁ、お父さんと一緒に……」
こいつはボクの手をつかもうとして、しかし次の瞬間。
何かに気がついたようで、ボクの手をつかむのをやめていた。
「……今日のところは挨拶だけにしておくよ。でも忘れちゃいけないよ。キミは私の娘だ。私からは逃れられないよ」
それだけ言うとすぐにきびすを返して、こいつは慌てて雑踏の中へと消えていった。
助かった? ボクは何が起きたかもわからなかったけれど、大きく息を吐き出す。
そして次の瞬間。
たけるくんがボクの隣を通り過ぎていた。
それでボクはどうしてあいつが急にどこかにいきだしたのか、やっと気がついていた。あいつはたけるくんに気がついて、また前と同じようになることを恐れて逃げ出したんだ。
もしたけるくんが大声を出したりすれば、絶対に騒ぎになるだろう。ここは家とは違って人通りが多い。そうすれば目的を果たせなくなると、たけるくんに気がつかれる前にここを去って行ったんだ。
あいつはたけるくんが病気にかかっていることは知らない。たけるくんがボクのことを覚えていないことも。だからたぶんボクに気がつかないことはわからなかった。
ああ。ああ。たけるくんは、ボクのことを忘れていても。ボクのことを知らなくても。いつだってボクを助けてくれる。
たけるくんはやっぱりボクにとってのヒーローだよ。
ボクの気持ちはどんどんキミのことばかり考えているよ。
キミが好きだ。大好きだよ。
ボクのことを忘れていても、知らなくても。
ボクには、キミしかない。
ボクはキミが好きなんだ。
でも。
ボクは息を飲み込む。今日はこうしてたけるくんがボクを助けてくれた。
でもこれからずっとたけるくんにそばにいてもらう訳にはいかない。
ボクはどうすればいいんだろう。出来るだけあいつの目につかないようにしなくちゃ。
それにしてもあいつが言っていたことは本当なのだろうか。お母さんはあまり法律だのなんだのに詳しい人じゃない。離婚の時もいろいろともめたのは知っている。
最終的にあいつは執行猶予になっただか何からしくて、刑務所にはいかなかったけれど、どこか遠い場所に引っ越していったはずだった。ただボクはあいつの話をきくのが辛くて、あまり細かいことは聴いていなかった。もう関係ない相手だと思っていたから、それでいいはずだった。
でも今になってこんな形で戻ってくるとは思っていなかった。
今にして思えばお母さんが法律手続きなどにうといことを知っていて、わざと離縁した際にボクとの関係を絶たないようにしたのかもしれない。そうしてほとぼりがさめたころにボクのもとに現れたのかもしれない。
ボクをいつも助けてくれたのはたけるくんだった。
今日も知らないうちにボクを助けてくれた。
でももうボクはたけるくんを頼れない。たけるくんの心をこれ以上にかき乱してはいけないんだ。
ならボクは。
どうしたらいいのだろう。
お母さんとは話が出来ない時間が続いている。お母さんに言うべきだろうか。
でもお母さんだって、ボクのことで心を痛めているんだ。これ以上にボクのことでわずらわせてはいけないと思う。
だからボクはひとりで戦うしかない。
でもボクは、あいつに立ち向かえるのだろうか。
ボクの体はただ震えていた。