僕は君の事を忘れるけれど、ボクはキミの事を忘れない

 天井を見上げる。壁紙の染みが、少しだけ見えた。
 何もない天井は、ボクの心の中を示しているかのように、白く、でもどこか薄汚れていた。

 たけるくんのために、ボクは身を引かなければいけない。たけるくんの近くにいたら、たけるくんを刺激してしまうから。
 いつまで? たけるくんの病気が治るまで。いつまで? たけるくんがボク以外の何かを好きになるまで。いつまで? いつまで? いつまでも?

 頭の中が震えていた。
 受け入れようと思うものの、心がそれを否定していた。
 たけるくんと一緒にいたい。それがボクの素直な気持ちだった。
 たけるくんから離れるだなんて、考えられなかった。

 せめて嫌いになってくれたらいいのに。それならボクだって諦められるのに。ボクのことを大好きだと思っているからこそ、忘れてしまうなんて。そんなの、諦められるはずがないよ。
 だってそれはたけるくんへの裏切りだ。たけるくんはボクのことを好きでいてくれるのに、ボクがたけるくんのことを好きじゃなくなくなれるはずがないよ。

 でもそれは、ボクがたけるくんを諦めたくないから思ってしまう言い訳なのだろうか。
 たけるくんのことを思うなら、ボクはたけるくんから離れるべきなのだろうか。

 この季節は夜になると、まだまだそれなりに冷え込む。
 だけどボクの体が震えているのは、寒さのせいではないかもしれない。

 体中が震えていた。両手で自分を抱え込んだ。
 冷たくて、まるで血が通っていないかのように思えた。
 震える自分の体を両手で抱え込むようにして、ぎゅっと目をつむる。

 まだボクに何か出来ることはあるのだろうか。たけるくんのために出来ることはあるだろうか。
 先生の説明によれば、たけるくんの深層意識にはまだボクのことを好きな気持ちが残っているのだと。その好きという気持ちが、脳内で強く刺激を作り、それがきっかけで脳内の分泌物が暴走してしまう病気なのだと言っていた。忘れるのはそれに対する防御反応で、それによって分泌物が抑えられるのだと。

 だからたけるくんの心を中途半端に刺激してはいけない。好きな気持ちを刺激するようなことをしてはいけない。それは脳内の暴走を長く引き起こし、心を壊してしまう原因になるとのことだった。

 今回のたけるくんは、おそらく病院にくるまでの間にいくつか刺激をうけるようなことがあったのだろうとのことだった。ボクとのライムをみたことや、そのあともボクとのやりとりもそうかもしれない。でもおそらくはそれ以外にも何かあっただろうとは言われた。
 いくつかの要素がからみあって、好きな気持ちを完全に思い出さないまま、中途半端に記憶を取り戻したために、脳内が暴走しかけていたらしい。

 今までの事例によればその状態が長く続くと精神的にはよくないとの話だった。中にはそのまま心が壊れてしまったケースもあるらしい。

 だから先生がとった手段はボクとのことをはっきり肯定して、ボクから質問して引き出すことによって、ボクとの記憶をはっきりと思い出させて、そして強い刺激を受けることで、もういちど忘れさせることだった。それ自体もあまりよくはないらしいけれど、さっきまでの状態が続くよりかはいいらしい。
 何もせずに安静にしているのが無難だということだった。本当は出来れば引っ越しなどしてしまって、もう絶対に思い出させないのがいいとのことだった。

 最初はサッカーのことが忘れていたから、サッカーじゃテレビや本などでどこからでも刺激を受けてしまう。だから引っ越しには意味がなかった。
 でもボクのことだったら、ボクが近くにいなければ、そのことを知っている人がいなければ、強い刺激を受けることがない。だからそうした方がいいかもしれない。

 先生の説明はボクに絶望を覚えさせるには十分な話だった。

 やっぱりこの話をきいた上で、ボクに出来ることなんて何もないかもしれない。
 諦めるしかないのかもしれない。
 この病気が治った例がゼロではない。それだけが唯一の希望だった。でも何をすればいいのかもわからなかった。

 希望はほとんどない。残された希望も微かなものだ。
 パンドラの箱を開けたとき、この世のすべての災厄が解き放たれた。でもそこに残された希望は、果たして良いものだったのだろうか。
 災厄と同じように閉じ込められていた希望は、それがあるからこそ諦められない。苦しさを続けるだけのものなのかもしれない。
 ボクにとってたけるくんは世界そのものだった。灰色にくすんだ色あせた世界に、光を射してくれた。ボクの目の前に鮮やかな世界を取り戻してくれた。

 でもそれでも。
 箱の中にわずかに残った希望は、ボクの心に救いの糸を垂らしていた。
 たった数例でも完治した記録はある。

 それなら。
 それならもしかしたら。
 たけるくんだって、病気を克服してくれるかもしれない。
 神様。もしもボクに出来ることがあるのなら、何でもやる。やってみせるから。
 たけるくんに奇跡を起こしてください。
 箱に残った希望は災厄とは違うものだと、ボクに教えてください。
 次の日。ボクは目を覚ます。お母さんはもう仕事にいってしまったみたいだ。
 お母さんとの関係も、いつかは癒えるのだろうか。今まではたけるくんがいてくれたなら、お母さんとのことも気にならなかった。
 たけるくんが記憶を失わなければ、きっとたけるくんは解決しようとして、がんばってくれただろうと思う。
 だけどたけるくんはボクのことを忘れてしまった。先生からはたけるくんに刺激をするな、つまり距離をとれと暗に言われてしまった。
 ボクはどうしたらいいのだろう。

 お母さんとの関係についてはボクの問題だから、それはいい。ボクが自分で何とかすべき問題だ。
 だけどたけるくんとの関係はどう改善していけばいいのだろうか。

 以前にこの病気が治ったケースについて調べてみたことはあったのだけど、特に特徴のようなものは見受けられなかった。
 一つは忘れてしまった大好きなものが、壊されようとしていたときだった。その人は絵を描くことが好きだったらしい。でもある時に忘れてしまった。絵を描けなくなって、というよりも正確には絵のことを忘れたから、必然的に描かなくなって。

 記憶を刺激するから絵画の道具やかつて描いた絵画をしまいこんでいて。
 だけどかつて自分で描いた好きな人の絵。それがひょんなことで破られようとしているところをみてしまって、その瞬間に思い出したらしい。好きなものが傷つけられるという強い刺激を受けたことで、思い出したケースだ。
 ただそういう強い刺激を与えたら、必ず思い出すという訳でもないみたいで、逆にそのせいで完全に忘れてしまって思い出さなくなったこともあるみたいだった。
 また完全に遮断してしまって、何年も刺激を与えずにいたら、急に思い出したケースもあったみたいだった。脳内の崩れていたバランスが時間をかけることで回復したケースなのだろう。

 何度も忘れたり思い出したりを繰り返した結果として、回復したケースもあるようだった。明確な理由はなかったようだけど、たまたま刺激のバランスが良かったのかもしれない。実のところボクはこのパターンに賭けていたといってもいい。
 何度も何度もボクのことを好きになってくれたら、いつかはボクのことを完全に思い出してくれるんじゃないかって、ずっと期待していた。

 だけどそれは結局叶わなかった。もしかしたら逆に刺激のせいで、ボクのことを完全に忘れる方向に近づいていたのかもしれない。そういう意味では、先生が止めてくれたことが、むしろボクにとって救いになったのかもしれない。

 今回たけるくんはボクとのライムの履歴を見たのに、ボクのことを思い出さなかった。そして忘れなかった。
 実は少し前にたけるくんのお母さんから話をきいていた。実はボクとのライムの履歴をみたあとに忘れたこともあったみたいだった。ある時にたけるくんが気を失って倒れたことがあって、そのかたわらに転がっていたスマホの画面に映されていたのが、ボクとのライムの履歴だったことがあったらしい。
 ライムの履歴の刺激は、たけるくんにとって強すぎたようだ。それでボクへの気持ちを取り戻してしまったのだろう。

 だからたけるくんのお母さんは履歴を消してしまおうか迷ったみたいだったけれど、もしかしたらこの履歴が病気を治すきっかけになるかもしれないと思って消すことはしなかったときいていた。
 そんな話を聞いていたから、ボクはたけるくんが送ってきたライムのメッセージをみたときに、本当に驚いた。たけるくんはボクのことを思い出していない。ライムの履歴をみたのに記憶を取り戻しても、忘れてもいないと。

 それが良いことなのか、悪いことだったのかはボクには判断がつかなかった。

 ボクがメッセージを返すことでたけるくんに何か起きてしまうかもしれない。そう思って始めは既読をつけることすら出来なかった。
 それでも意を決して送ったメッセージは、だけどたけるくんには届かなかった。いやもちろんメッセージそのものはたけるくんのスマホには届いていた。でもたけるくんは忘れなかった。思い出さなかった。

 そのことがうれしかった。忘れないでいてくれたから。
 だけどそのことがかなしかった。ボクへの気持ちを取り戻さなかったから。

 このことをボクはどう捉えればいいのかわからなかった。
 離れているのか、近づいているのか。たけるくんがどこか遠い場所にいこうとしているかのようにも感じて苦しかった。でもボクのことを知ろうとしてくれている。ボクを思いだそうとしてくれている。そのことが嬉しくてたまらなかった。

 でもやっぱりそれが良いことなのか、悪いことなのかもわからなくて。ボクは何をすればいいのかもわからなくて、何もかも中途半端なまま、たけるくんを病院で待つことにしていた。

 先生が何かいってくれるんじゃないかと、たけるくんを救ってくれるんじゃないかと。そう期待していたのは確かだった。
 でも先生がくれた言葉は、ボクの期待とは正反対の答えだった。
 先生はライムの履歴を消してしまった。そして刺激を与えない方がいいと告げた。

 もしかしたらたけるくんはボクのことを完全に忘れる方向に進んでいたのかもしれない。
 それだけは嫌だった。ボクのことを忘れていても、知らなくてもいい。でもたけるくんの心の中から完全に消えてしまうことだけは、ボクには耐えられそうにない。
 ボクはもうこれ以上たけるくんに触れるべきではないのだろうか。答えは出せない。でも先生はそう望んでいる。
 実際のところたけるくんの人生からボクがいなくなったところで、たけるくんにとってそれほど影響はないだろう。ならボクがわがままを言うのはやめて、たけるくんのために身を引くべきだろうか。

 たぶんそうなのだろう。それがベストなのだろう。
 それはわかっている。わかっているのに、ボクはぼろぼろと涙をこぼしていた。

「なんで涙なんて出るんだよ。ボクが泣いたって、何も解決になんかならないのに」

 誰にいうでもなく、ひとりごちる。
 ボク以外に誰もいないボクの部屋は、どこか異世界に飛ばされたようにも感じていて、自分の部屋だというのに居心地が悪くて仕方なかった。
 ベッドの片隅においてある大きなくまのぬいぐるみを捕まえて、強く抱きしめてみる。
 もうずいぶんとぼろぼろになってしまった彼は、でもボクの心の支えの一つだった。このぬいぐるみはボクが生まれた時に、本当のお父さんが買ってきてくれたものらしい。

 ボクにはお父さんの記憶はない。
 でもこの子は愛されていた証拠なのだと思う。

 たけるくんと出会うまでは、彼がボクの世界のすべてだった。
 お母さんには何も言えなかったから、ボクはいつも彼に話をしていた。だから彼だけがボクのすべてを知っている。
 そんな彼には今もたけるくんのことを話して聴かせていた。
 たけるくんが病気になってもボクが壊れなかったのは、彼のおかげだと言ってもいい。

「ねえ、テディ。ボクはどうするべきなのかな。たけるくんのこと忘れるべきなのかな」

 もちろんテディは何も答えない。彼はくまのぬいぐるみなのだから、話が出来る訳でもないし、残念ながらボクの頭は彼の答えを想像できるほど、高性能ではなかった。

 何も話さない相方に、でもボクはぎゅっと抱きしめる。

「忘れたくないよ。離れたくないよ。ねぇ。テディ。ボクはわがままなのかな。ボクがいなくなれば、すべてうまくいくのかな。ねぇ。どうしたらいいのかな。わからない。わからないよ。でもたけるくんが、好きなんだ」

 後から冷静になって考えればぼろぼろになった彼に頼らずにはいられないほどに、ボクは追い詰められていたのかもしれない。
 だけどこの時のボクは、ただ話し続けることしか出来なかった。
 それでも朝の時間は無情にも過ぎていく。これ以上にベッドの上でうだうだとしている訳にもいかなかった。
 ただでさえ心配をかけてしまっているのだから、お母さんにはこれ以上に心配をかけたくない。だから学校を休んだりもできない。
 顔を合わせない日々が続いているけれど、それでもボクはお母さんのことが好きだと思う。
 辛くないといえば嘘になる。でもお母さんのことはきっと時間とともに、少しずつ解決していくのだと信じている。

 だけどたけるくんとのことは。
 どうしたらいいのかわからないまま、ボクは泣きながら、それでも着替えのためパジャマのボタンを外し始める。
 もう切り替えなきゃ。

 顔をあらって、まだぼんやりとした頭を強制的に働かせる。
 制服にそでを通して。涙をぬぐう。
 たけるくんのことは何か解決手段がきっとある。そう心に言い聞かせながら、ボクはただ生きる屍のようにして、学校へと向かっていた。
「こはる。なんか死んだ魚のような目してるよ。大丈夫?」

 かけられた声に振り返ると、友人の美希がボクを見下ろしていた。
 ほとんど沈み込むようにして机の上につっぷしていたボクをどうやら心配してくれたようだ。

「なんかいろいろあって、疲れちゃってて」

 あまり深い内容を告げる訳にもいかなくて、ボクはため息と共に答える。

「よくわかんないけど、大変そうだ。じゃあさ、たまには気分転換にカラオケでもしない? 最近ぜんぜん一緒に遊びにいってないし」

 美希の言葉にボクは少し考える。
 確かに最近はつきあいが悪かったかもしれない。たけるくんのことで頭がいっぱいだったこともあるし、いろいろと絡まれていたりしたせいもある。
 いまのところあれ以上にからんできた子達に絡まれることはなかった。あのときにばれそうになってこりたのかもしれないし、そもそもあいつがボクに振られたってことは、完全にフリーになったということでもある。一時の感情で変に私にかまうよりかは、直接本人にアプローチした方がいいと思い直したのかもしれない。

 まぁこの間のことなのでまだわからないけれど、少なくとも今のところは問題はない。さすがにボクも警戒はして、一人にはならないようにしていることもあるかもしれない。
 そういう意味では美希のお誘いはありがたいともいえた。クラスが違うだけに何か仕掛けてくるとすれば放課後になる可能性は高い。その時に一人にならずに済むのは助かる。
 それに何よりもボクのことを気にかけてくれている事実が嬉しかった。美希とは今のクラスになってからの友達だけれども、今では何でも話せる友達だと思う。

「確かにそうだよね。たまにはいいかな」

 ささやかな笑みと共に答える。

「んじゃ決まりね。他に誰か誘う? 結衣とか、真琴とか。あー、でもあいつら部活あるからなぁ。急な誘いだと難しいか。んじゃ、誰誘うかな~。うーん、じゃあいっそ男子とか呼んじゃう?」

 笑いながら言う美希に、ボクも思わず笑みを返す。
 口では男子とか呼ぶとかいっているけれど、たぶんそうしようと答えたら動揺するのは美希の方だろう。彼女は口ではいろいろ言うものの、男子と話すと途端に緊張しているのはみてとれる。美希のそういう反応は見ていて可愛らしいとは思う。
 とはいえ実際に男子に来てもらっても困るし、たけるくん以外の男の子と仲良くしようとも思っていないので、そこは適当に断っておく。

「うーん。それなら美希と二人でいいよ。男の子は好きじゃないし」
「そう? でもそだね。じゃあたまには夫婦水入らずで過ごすとするか」
「いつからボク達夫婦になったの」
「それは出会った時からだぜ」

 美希はおかしそうに笑う。
 こういう美希の明るさは、いまのボクにはありがたかった。一人でいたら、悪い方向にばかりいろいろと考えてしまっていたかもしれない。

「んじゃ、放課後よろしくね」

 美希は手をふりながら自分の席に戻っていった。
 友人はありがたいな、と素直に思った。




 美希と二人街中をぶらぶらと歩いていた。
 ひさしぶりに友達と出歩くのはとても楽しくて、落ち込んでいた気持ちを癒やしてくれたと思う。
 たけるくんにとってボクはもう邪魔な存在になってしまったのかもしれない。いくらたけるくんがボクのことを好きだと思ってくれているからこそ、ボクのことを忘れてしまうのだとしても。たけるくんの負担になるのであれば、ボクはもう身を引くしかない。

 たけるくんを刺激しないように過ごしていこう。
 いつか病気が治ることがあれば、ボクのことを思い出してくれるかもしれない。
 あるいはボクよりも好きな何かが出来たのなら、ボクのことを思い出してくれるかもしれない。正直に言えば病気が治るよりも、そちらの方が可能性としては強いようにも思う。
 でももしもいちばん好きなものが、ボクのことでなくなるのだとしたら。それはボクよりも好きな人ということかもしれない。
 そうしたときにボクのことを好きになってくれるだろうか。
 心の中で問いかけるけれど、答えはおのずと理解していた。

 おそらくそれはないのだろう。
 大好きだという深層意識までが無くなった訳じゃないから一番好きなものを忘れる病気なわけで、もしも好きな人が他に出来たのであれば、ボクへの気持ちは薄れてしまうはずだ。
 それにもしもボクよりも好きな何かが出来たとして、それでボクへの気持ちを取り戻してくれたとして。それで本当にボクは満足出来るだろうか。
 たぶんそれもないと思う。

 ボクはたけるくんに一番を求める。一番好きでいてほしいと思う。
 そしてもしもそれが叶ったとしたら、ボクのことを再び忘れてしまうのだ。
 それでは意味がない。
 だからボクに出来ることはたけるくんに負担をかけないために、病気が治ることを祈ることだけ。何度となく繰り返してきたたけるくんへのアプローチは、たけるくんの心に負担をかけてきただけだった。
 それならばただ遠くから見守り続けるしかないのだろう。

「ほら。こはる。また額にしわがよってるよ。せっかくの可愛い顔が台無し」

 美希の言葉にボクは現実へと引き戻される。
 いつの間にかまたいろいろと考え出してしまっていた。いけないいけない。今は美希と一緒にいるのだから、美希と楽しむことを考えないと美希にも失礼だ。
 でも美希はそれ以上には何も言わない。たぶんボクの悩みの正体なんてお見通しなんだろう。美希はたけるくんのことも知っているし、何度か一緒に遊んだこともあるから、あえてそのことには触れないでくれてるのだろう。
 このときばかりは美希の優しさに甘えていようと思った。少しだけ気持ちが晴れるような気がしていた。

「ごめんごめん。ちょっと考え事をしてた。えっと次はあっちのクレープ屋さんいこうよ。クレープたべた……」

 ボクはそこまで告げてクレープ屋の方へと向き直った瞬間、次の言葉を失っていた。
 驚きのあまり時間が止まったのかと思った。
 信じられなかった。あまりのことにボクの意識は一瞬固まって何も考えられなかった。

 そこにはもう会うことはないと思っていた元父親がたっていたから。
 一見するとどこにでもいそうなごく普通の風貌。優しそうにすら見える笑顔は、だけどボクにとっては恐怖の対象でしかなくて、強い感情を呼び起こしていた。
 かつての記憶がまざまざと思い浮かんでくる。

 ボクに触れた手の気持ち悪さ。ボクを殴った腹部に感じた痛み。
 それはボクの頭を止めてしまうには十分すぎて、ボクは何も考えられなくなっていた。
 なぜあいつがここにいるんだ。なんで。

 たけるくんを何度も殴っていた姿がボクの頭の中に再び現れていた。
 たけるくんを何度も何度も殴りつけた姿は、まるで別の世界の人間のようにも思えた。その記憶はボクの心を締め付けて捉える。
 恐れで体が震える。ここからまったく動けなくなっていた。

 心がそこにいる男を否定していた。
 なのにあいつはボクを見つけると、笑顔でボクの方へと近づいてくる。

「やぁ、こはる。今日は友達と遊んでいたのかな。楽しそうで何よりだね」

 優しそうに笑うあいつが、でもボクの心を引き裂いていく。
 なんで、なんでここにいるんだ。
「でも悪いけれど、お父さんはちょっと急ぎの用事があるんだ。少しつきあってくれないか」

 あいつはまるで本当に父であるかのように振る舞うと、美希の方へと向き直る。

「あれ、こはる。その人、こはるのお父さん? へー、優しそうなお父さんでいいね」

 何も知らない美希が見た目から受けた印象を口にしていた。
 優しい。こいつが。美希は何を言っているの。こいつはそんな奴じゃないんだ。
 心の中で思うものの、それがどうしても言葉にならなかった。ボクの口はまるで壊れてしまったかのように、声を漏らすことが出来なかった。

「こはるのお友達かい。仲良くしてくれてありがとね。この子はしっかりしていそうで、意外と抜けているところもあるから、気をつけてあげてくれると嬉しいよ」

 あいつはにこやかに笑いながら、やっぱりまるで父親のようなそぶりで告げる。
 もうお前は父親じゃない。何父親ぶった顔をしてるの。
 そう思うのだけど、やっぱり何も言うことができなかった。ただ驚きと恐怖だけが、ボクの心を破裂しそうになるほど満たしてふくれあがっていた。

「でも遊んでいるところ悪いけど、ちょっとこはるに急ぎの大事な用があるんだ。今日は遠慮してくれないかな?」
「え、そうなんですか。それなら仕方ないですね。わかりました。こはる、じゃまた明日ね」

 美希は完全にこの男がボクの父親なのだと思い込んでいるようだった。もともと男性が少し苦手だというのもあってか、さっさと離れてしまおうということだろう。
 だから疑いすらせずに、手を振って去って行く。
 まって。いかないで。ここにいて。ボクをひとりにしないで。助けて。
 強く思うのに、ボクの口から漏れたのは、言葉にはならないかすれた声だけだった。

「あ……あ……」

 絶望がボクの心の大半を占めていく。
 どうして。どうして。
 何に対してなのかもわからないけど、ただボクの心はそうつぶやいていた。

「会いたかったよ。こはる。元気にしていたかな」
「…………」

 親しげに語りかける男に、ボクは何も答えない。答えられなかった。
 ボクの体は張り付いたように動かない。
 だけどその瞬間。

「こはる。返事はちゃんとしなさい。私はいつもそう教えただろう」
「ひ……その…………はい」

 男の言葉にボクは無意識のうちに答える。
 こいつがかつてボクに、そしてたけるくんに振るった暴力の様子に、ボクの体が震えていた。ボクをおそった卑怯な振る舞いに、ボクの心が震えていた。
 怖い。それがボクの正直な気持ちだった。

「よろしい。実はね。いろいろあってしばらくこの街から離れていたけれど、最近戻ってきたんだ。それでこはるにまずは挨拶をしておこうと思ってね。キミは私の大切な娘だからね」

 何を言っているのだろう。ボクには何も理解できなかった。
 だけど突然のことにまだボクの心は混乱していて、何を言えばいいのかわからなかった。
 息が苦しい。息を吐き出すことができなかった。
 それでもかすれるような声で、ボクは何とか言葉を紡ぎ出していた。

「お……おかあさんと、あなたは……もう離婚したから……。もうボクは……あなたの……娘じゃない」

 絞り出すような声で、それでも何とか思ったことを言えた。
 それと共に大きく息を吐き出す。もはや呼吸すらまともに出来ていなかった。
 だけどそんなボクの様子に気がついているのかいないのか、こいつは何とも言えない嫌らしい笑みを浮かべたまま、ボクが思ってもいない話を始めていた。

「ふむ。確かにキミのお母さんとは離婚をすることになった。だがね。キミは結婚した時に私の養女になっているが、養女縁組は解除していない。だからキミはまだ私の娘のままなのだよ」
「……え?」

 こいつの言う言葉は心では理解できなかった。何を言っているのかわからなかった。
 ボクが? まだ? 娘のまま? そんな馬鹿な。そんなことあるわけない。
 必死でこいつの言葉を否定しようとしている自分がいた。しかしそんなことはお構いなしに、こいつはボクをみて満足そうにうなづく。

「だから私はまだキミに話をする権利もあるし、義務もある。だから私は父親として、キミと話をする必要がある」

 こいつの言葉が理解できなかった。まだこいつと関係を持たなければいけないのだろうか。こいつは父親なんかじゃない。だけど法律はまだこいつを父親だとして認めているのだろうか。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌なのに。避けられないのだろうか。
 どうして。どうしたらいい。どうすれば。

「い……いや……」

 なんとか絞り出した声。ほとんどかすれてしまっていた。
 それでもこいつはボクをみて、嬉しそうに笑う。

「嫌だといっても、キミは私の娘だ。それは逃れられない。法がそう決めているのだからね」

 こいつは嫌らしい目でボクを上から下までなめるように眺めていた。
 蛇のようにねっとりと絡みつく視線が、ボクの体を震え上がらせる。
 こいつはボクが自分のものだと思い込んでいる。ボクを好き勝手していいと考えている。こいつのはりつくような目から、はっきりと感じられていた。
 胸の中で心臓が激しく音を立てていた。警告を発していた。
 その音はボクの世界を大きく崩れていくのを告げているかのようで、目の前が真っ暗になって消えていこうとしている。

「さぁ、お父さんと一緒に……」

 こいつはボクの手をつかもうとして、しかし次の瞬間。
 何かに気がついたようで、ボクの手をつかむのをやめていた。

「……今日のところは挨拶だけにしておくよ。でも忘れちゃいけないよ。キミは私の娘だ。私からは逃れられないよ」

 それだけ言うとすぐにきびすを返して、こいつは慌てて雑踏の中へと消えていった。
 助かった? ボクは何が起きたかもわからなかったけれど、大きく息を吐き出す。
 そして次の瞬間。
 たけるくんがボクの隣を通り過ぎていた。

 それでボクはどうしてあいつが急にどこかにいきだしたのか、やっと気がついていた。あいつはたけるくんに気がついて、また前と同じようになることを恐れて逃げ出したんだ。
 もしたけるくんが大声を出したりすれば、絶対に騒ぎになるだろう。ここは家とは違って人通りが多い。そうすれば目的を果たせなくなると、たけるくんに気がつかれる前にここを去って行ったんだ。

 あいつはたけるくんが病気にかかっていることは知らない。たけるくんがボクのことを覚えていないことも。だからたぶんボクに気がつかないことはわからなかった。
 ああ。ああ。たけるくんは、ボクのことを忘れていても。ボクのことを知らなくても。いつだってボクを助けてくれる。
 たけるくんはやっぱりボクにとってのヒーローだよ。

 ボクの気持ちはどんどんキミのことばかり考えているよ。
 キミが好きだ。大好きだよ。
 ボクのことを忘れていても、知らなくても。
 ボクには、キミしかない。
 ボクはキミが好きなんだ。

 でも。

 ボクは息を飲み込む。今日はこうしてたけるくんがボクを助けてくれた。
 でもこれからずっとたけるくんにそばにいてもらう訳にはいかない。
 ボクはどうすればいいんだろう。出来るだけあいつの目につかないようにしなくちゃ。
 それにしてもあいつが言っていたことは本当なのだろうか。お母さんはあまり法律だのなんだのに詳しい人じゃない。離婚の時もいろいろともめたのは知っている。

 最終的にあいつは執行猶予になっただか何からしくて、刑務所にはいかなかったけれど、どこか遠い場所に引っ越していったはずだった。ただボクはあいつの話をきくのが辛くて、あまり細かいことは聴いていなかった。もう関係ない相手だと思っていたから、それでいいはずだった。
 でも今になってこんな形で戻ってくるとは思っていなかった。
 今にして思えばお母さんが法律手続きなどにうといことを知っていて、わざと離縁した際にボクとの関係を絶たないようにしたのかもしれない。そうしてほとぼりがさめたころにボクのもとに現れたのかもしれない。
 ボクをいつも助けてくれたのはたけるくんだった。

 今日も知らないうちにボクを助けてくれた。
 でももうボクはたけるくんを頼れない。たけるくんの心をこれ以上にかき乱してはいけないんだ。

 ならボクは。
 どうしたらいいのだろう。
 お母さんとは話が出来ない時間が続いている。お母さんに言うべきだろうか。
 でもお母さんだって、ボクのことで心を痛めているんだ。これ以上にボクのことでわずらわせてはいけないと思う。

 だからボクはひとりで戦うしかない。
 でもボクは、あいつに立ち向かえるのだろうか。
 ボクの体はただ震えていた。
 数日が過ぎた。
 たけるくんとはあれ以来話せていない。たけるくんへ負担をかけたくないから、たける君の前には現れていない。でもこんな話、他の誰にも出来ない。
 お母さんに話すべきかも迷っていた。でもあれからお母さんとは顔を合わせていないし、お母さんともこれ以上に溝を作りたくない。
 だからボクは何も出来なかった。ただどうしたらいいかわからなくて、ふらふらと心をさまよわせるだけだ。

 なかば抜け殻のようになっていたけれど、それでも学校では普通に過ごしていた。普通のふりをしていた。
 幸いあれ以後にあいつとも出会うことはなかったし、ボクにからんできた彼女らからの反応も他には特になかった。
 ある意味では平穏な日々を過ごしていたが、だけどボクの心はずっと安まる時はなかった。

 放課後。どうすべきかもわからず、ボクは無駄に教室に残っていた。
 ため息をひとつもらす。どこにも行きたくなかった。でもどこかに消えてしまいたかった。
 何をしたらいいのかもわからなくて、ただボクはここにいることしか出来なかった。

「よう」

 その声は不意にボクの元に届いた。
 顔を上げると、いつのまにボクの隣に野球部のエースのあいつが立っていた。

「ボクに何か用?」

 思わずつっけんどんに返してしまってから、そういえばこの間のことを謝るのを忘れていたなと思う。さすがにちょっと言い過ぎだったとは思っていた。
 だからこそ彼女らがボクにからんできたんだろうし、反省はしている。でもボクのことはともかく、たけるくんのことを悪く言ってもらいたくはなかった。
 そんなボクの思いがつい態度に出てしまっていた。

「そんなに警戒するなって。今日はちょっとお前に謝ろうと思ってさ」
「……うん?」

 思わぬ彼の言葉に、ボクは頭の上にはてなマークが浮かんでいた。
 正直彼のことは言い寄られるのは面倒だなとは思っていたけれど、謝られるようなことをされた覚えもない。強いて言うならたけるくんのことを少し悪く言われたことくらいだろう。でもそれはあくまでボクの主観によるもので、彼からしてみれば事実を告げていくそう見えるのは仕方ないことだとも思う。
 だから彼から謝られるようなことは何もないはずだった。

「話に聴いたんだけど、俺のファンがお前を校舎裏に呼び出して、何か意地悪をしようとしていたんだってな。すまなかった。まさかそんなことになるだなんて思っていなかった」

 彼は深々と頭を下げていた。
 思わぬ展開にボクはどうしたらいいものか困惑していた。
 確かに彼のファンから呼び出されて、いじめられたのは確かだ。でもたけるくんがボクを助けてくれたし、それに悪いのはあくまで彼女達であって、彼が何かした訳ではない。
 そもそもボクが彼に口悪くののしってしまったからこそ、あんな事態になった訳で彼が謝るのは筋違いだと思う。

「いや、それはキミが悪い訳じゃないし。そもそもボクが言い過ぎてしまったせいでもあるから。むしろキミがボクのことを心配してくれていたのはわかっていた。だから言い過ぎたと思って謝ろうと思っていたんだ。ボクこそ悪かったよ」

 ボクも彼と同じように頭を下げる。
 自分のことでないにもかかわらず、自分に原因があると思って謝ってくれるというのは、やっぱり彼は少し口調は荒いけれど本当はいいやつなんだろう。

「たけるが助けてくれたんだってな。ちょうどみてたやつがいてさ。話を聞いたんだ。あいつは記憶を失っているっていうのに、ちゃんとお前のピンチに駆けつけて助けてやっていた。それにひきかえ、俺はお前を傷つける原因を作ってしまっていた。これは負けたなって。思ったんだ」

 彼はどこか悔しそうな、でもそれでいてスポーツマンらしいさわやかな顔をしてボクをじっと見つめていた。

「なんであんな奴を好きなんだよって、正直に言えば思っていた。俺が負けているところなんて一つもないってうぬぼれてた。でも、違った。お前が好きになるだけの理由がちゃんとあったんだなって。好きな子をちゃんと守ってやれる。そんなすごい奴だったんだなって、そう思った。あいつのことを悪く言って悪かった」

 もういちど頭を下げる。
 やっぱり彼は根はいい奴なんだろう。なんでボクのことを好きになったのかはわからないけれど、こんな風に素直に謝れて、自分の非を認められる。そんなことが出来るのは、いい奴に違いない。
 だからボクが彼のことを好きになれれば、何もかも丸く収まっていたのかもしれない。

 でもボクはやっぱりたけるくんが好きなんだ。
 昨日のピンチもたけるくんはボクを助けにきてくれた。いや、実際にはそこにいただけでたけるくんはボクを助けようだなんて思ってはいなかったと思う。
 それでもその場にいてくれた。ボクを助けてくれた。たけるくんはボクのヒーローなんだ。ボクにはやっぱりたけるくんしかいない。
 だから。だからこそ、ボクは思わず涙をこぼしていた。

「あ、え……!? ど、どうしたんだよ。ごめん。俺が何か変なことをいったか?」

 彼はボクの突然の涙に困惑していただろうと思う。
 でもボクはいちどこぼれてしまった涙を止める事も出来ずに、ただ泣き続けることしか出来なかった。
 ボクにとってはたけるくんは救いだった。大好きな人だ。
 でも今のたけるくんにとって、ボクは邪魔にしかならない。たけるくんの心を乱してしまう原因でしかないんだ。
 ボクはたけるくんの近くにいてはいけない。たけるくんを傷つけてしまう。たけるくんの心を乱してしまう。
 それが悲しくて悔しくて。でも何とか抑え続けていた気持ちは、いまの彼の言葉で堤防が壊れてしまった。
 ボクのことを好きになってくれた人が、ボクが好きな人のことを認めてくれた。
 だけどボクは好きな人と一緒にいることは出来ない。
 それがずっと抑え続けていた気持ちを壊してしまった。
 いちどこうなると、もう感情が溢れてきて止まらなかった。

「違う……違うんだよ……。ごめん。ごめんね。キミのせいじゃないんだ。ボクはボクは。だって」

 気持ちがあふれてしまって言葉にならない。
 彼は何も言わずにそのままボクの隣にたっていた。
 本当は部活もあるはずだから、ボクのせいでサボらせてしまった。
 彼に気持ちを返せる訳でもないのに。

 ボクはどれだけ自分勝手なのだろう。
 だけどそれでもボクは泣き続けていた。
 たけるくんの病気のこと。いじめにあいそうになったこと。彼がボクのことを好きになってくれたこと。
 そして『あいつ』が再びボクの前に現れたこと。

 それらがすべて波のようになって、ボクを押し流していく。
 だからその気持ちがすべて流れてしまうまで、ボクはただ泣き続けることしか出来なかった。
 それからどれくらいの時間がたったのだろう。
 外は日が沈んできていた。あかね色の空が、教室の中に西日を差し込んでくる。
 やっと気持ちは落ち着きを取り戻してきて、ボクは涙をぬぐう。

「ごめんね。キミのせいじゃないんだ。でもいろいろと気持ちが抑えきれなくなってしまって」

 ボクは彼に向けて頭を下げる。
 彼の顔を見ることも出来なかった。自分のことを好きだといってくれた相手に気持ちを返すこともできないのに、ただ自分の感情をぶつけてしまって、申し訳がないと強く思う。
「なぁ。何があったのかわからないけど、話だけでも聞かせてくれないか。何か力になれるかもしれないしさ」

 彼はいつもよりも優しい声で告げる。
 ああ、いつもの様子はボクが素っ気ない態度ばかりをとっているせいで言葉が荒くなってしまっただけで、本当はこれが彼の素なのかもしれない。
 こんな風に優しくされたら、気持ちが揺れてしまう子も多いだろうと思う。
 だからこそ、ボクは彼に頼る訳にはいかない。

「ごめん。悪いけど何も話せることはないよ」

 ボクは頭を振るう。
 目の前で泣いておいて、この態度はひどいことをしているなとは思う。だけど彼はボクのことを好きだといってくれているのだから、変に期待を持たせるようなことをしてはいけないとも思う。
 だから彼の優しさに甘える訳にもいないんだ。
 そう思うボクに、だけど彼はもういちど笑いかける。

「たけるのことだろ?」
「え……」

 問いかけにボクは言葉を失っていた。
 もちろんわかりやすくはあっただろうとは思う。ボクがたけるくんと一緒にいるために、いろいろしていたのはたぶん彼も知っているはずだ。でもだからこそ、そんなことを言われるとも思っていなかった。

「俺はさ、もうお前のことは諦めたよ。あいつには勝てないって。あいつならお前を任せられるって。そう思っている。でも好きな気持ちが綺麗さっぱり無くなった訳でもない。やっぱり目の前で好きな子が泣いているのに放ってはおけないんだ。だからさ、あいつがお前のことを思い出すための手助けがしたいと思っている」

 彼は少し照れたような表情でそう告げていた。
 まさかそんなことを言われるとは思ってはいなかったから、考えがまとまらない。何と答えていいのだかわからなかった。
 ボクのことを本当に考えてくれているんだと思って、とても嬉しく感じていた。ただこれを受け入れていいものだろうか。
 ボクは気持ちを返せないのに、ボクのことを好きだといってくれる人の好意に甘えるのは卑怯な気がする。だけどボクが近づくことが、たけるくんの心を不安定にさせるのであればボクにとれる手はもうあまり多くない。彼が手助けしてくれるのであれば、できることは増えるだろう。
 だとすれば受け入れるべきなのだろうか。でもボクは人の気持ちを利用するようなことはしたくなかった。
 だけどためらうボクに、彼はゆっくりとこう告げていた。

「これはさ。お前のためでもあるけど、たけるのためでもあるんだ。あいつはお前のことが一番に好きだから忘れてしまうんだろ。一番好きな人のことを覚えていられないなんて、悲しいじゃないか。俺はさ、正直あいつに嫉妬していたんだ。でも記憶がなくても好きな人のことを助けたのってさ、きっと偶然じゃない。たぶん意識しなくても、深層心理でどこかで見ていたんだと思う。だから救えたんだと思う。そんなあいつにさ、もういちど好きな相手とつながって欲しいんだよ」

 彼の言葉にボクは何も言えなかった。
 でも彼が本当にボクとたけるくんを救いたい、助けになりたいんだって思ってくれていることは伝わってくる。
 そこまで言ってくれるのなら、そしてボクだけのためでないのなら。彼の力を借りてもいいのかもしれない。
 ボクは心を決めていた。
 そしてそれとともに彼に告げなければならないことがある。正直言っていいのかわからないけれど、助けを借りるのであれば言わなければならない。
 ボクは意を決して、彼にたずねる。

「ありがとう。そう言ってくれるなら、ボクに手を貸して欲しい。でも、ごめん。悪いんだけど教えて欲しい。キミの名前ってなんだっけ」

 正直こいつ、とか、あいつ、とか言っていたけど。ボクは彼の名前を覚えていない。
 野球部のエースだということは知っていたんだけど、興味がなかったから名前は覚えていなかった。
 こんなこといったら気分を悪くするかなと思って、彼の顔を上目づかいで覗いてみる。
 しかし彼は最初はぽかんとした顔を浮かべていたけれど、すぐに大きな声で笑い始めていた。

「そうか。お前、俺の名前も知らなかったのか。確かに名乗ったことはなかったけど、そりゃ、いくら言い寄ってもなびかない訳だよな。俺は武田。武田祐二だよ」

 武田と名乗った彼は何がそんなにおかしかったのか、お腹を押さえがら笑っていた。
 たぶん彼は自分が学内の有名人であることはわかっていて、だから当然知っていると思って名乗らなかったのだろう。
 プロから誘いがあるとか、ないとかで。ボクもどこかでは名前を聞いたことはある。それに何回か表彰されているところを見たこともあった。ただ興味がないから全く覚えていなかった。

「そうか。名前も知らないんだもんな。そりゃ俺があいつに勝てないのも当然だよ」

 正直失礼なことを言った自覚はある。でも彼はなぜかむしろ楽しそうに笑っていた。
 ただ何となくこれで一つの形はついたのかもしれない。
 彼、武田くんは今こそたぶん本当にボクのことは諦めてくれたのだろう。そしてたけるくんにボクのことを取り戻してくれるための協力をしてくれるのだろう。それは確かに感じていた。

 武田くんとこんな風な関係になるだなんてことは、一度も考えたことがなかった。
 でもそんな事態が起きるのなら、たとえ奇跡だと言われようが、たけるくんの病気を治すことだって出来るのかもしれない。
 ボクは心の中に誓っていた。絶対にたけるくんを取り戻すんだって。
 ひとつの懸念が消えて、そして前向きな気持ちを取り戻していた。
 なんとなく何もかもうまくいく。そんな気すらしていた。

 後にして思えば、ボクは無意識のうちにそうしてしまっていたのだろう。
 だからこのとき、ボクはすっかり忘れていた。
 あいつがこの街に戻ってきているということを――



 『僕』はいつも通り学校に通っていた。
 いつもと変わらない毎日。特にこれということもない日々。何も起きることのない平穏な暮らし。
 病気のせいでサッカーが出来なくなってから、つまらない生活が続いていると思う。
 彼女がいる訳でもなかったから、癒やしのない生活をしている。
 クラスの女子と話すことくらいならあるけど、はっきりと親しいといえるような女子はいない。嫌われてはいないと思うけども、特に好かれてもいないとは思う。

「はー。つまんないな。なんか面白いことないかな」

 僕はため息をもらすと、教室の中で背伸びをしてみせる。
 それを見ていた学が、僕の方へと向き直る。

「なら俺とゲームでもするか?」
「ゲーム。ゲームねぇ……。まぁ悪くはないけど、もうちょっとなんか違うものないかね」

 何となく気がのらず、僕は机の上につっぷしていた。ゲームは嫌いじゃないけれど、今はそんな気分でもなかった。そもそも今からゲームを始めたところで、昼休みもすぐに終わってしまうだろう。

「なんか面白い話でもないか?」

 学に向かって、期待を込めた目を向けてみる。
 無茶ぶりにもほどがあるが、学ならきっと答えてくれる。そう信じてみる。
 いや、まぁ実際のところ学に話をさせると訳のわからない妄想が返ってくると思われるのだが、今のつまらなさから解放されるのであればそれも良いかなとは思う。

「ふむ。面白い話な。それじゃあひとつ俺が知っている話をしよう」

 学はなにやら思案した顔を見せると、口元になんだかいたずらな笑みを浮かべている。
 早まったかなと思うものの、それでもこちらからふった訳だしと思いながら、学の話をじっと待ち続ける。

「あるところに記憶を失った男がいたんだ。だけどそいつは記憶を失ったことすら忘れているから、忘れていることにすら気がついていないんだ」

 突然始まった話は、想像していたのとは違う方向の話だった。
 ただ何となくどこかで聴いたことがあるような気もする。まんがか何かで見た話だろうか。

「だからそいつは毎日普通に暮らしていたんだが、ある時に不意に目の前に可愛い女の子がやってきて、好きだと言ってくるんだ」
「お。いいな。僕も可愛い女の子と出会いたいな」

 思わず告げた言葉に、何となく学の目が細く狭まる。

「でもそいつはその子のことを何も知らないから、毎日避けるように暮らしていたんだ」
「なんだ。贅沢なやつだな。可愛い女の子と知り合えて、何が不満なんだ」
「まぁ、本人の立場になってみれば、今までもてなかったのに急に女の子に言い寄られたら、裏があるんじゃないかと思うんだろうな」
「なるほど」

 ありそうな話だ。正直僕がその立場になっても、突然のことに罰ゲームか何かじゃないかと疑ってしまう気がする。

「でも女の子はそれでも諦めずに、そいつの前に現れては気持ちを伝え続けた。いつしかそいつの周りもその子がいることが当たり前のようになっていったんだ。そうしてとうとうそいつもその子を受け入れて、つきあい始める」
「おお。うまくいったんだ。良かったな。そいつは騙されているとかじゃないよな」

 うそとかじゃないのだったら、ハッピーエンドだろう。二人が幸せになったのだったら、それに越したことは無いだろう。

「だがそれは悲劇の始まりだったんだ」

 学がもったいぶってつげる。学の妄想ではあるものの、思ったよりも興味をひく話だった。やっぱり僕達くらいの年齢だと、恋愛話は気になるというものだろう。

「なんだと。実はすごいヤンデレだったとかか? 浮気した男を滅多刺ししたとか」
「いやいや。そういうのじゃない。女の子は変わらず可愛く優しい子だったさ。悲劇は男の方から始まったんだ。なんとそいつは好きになった人のことを忘れてしまう病気にかかっていたんだ」
「なんだ、それ」

 学の言葉に、思わず口を挟む。
 それはあんまりな病気じゃないだろうか。誰かを好きになったのに忘れてしまうだなんて、あまりにも悲しすぎる。
 学の言葉に納得出来なくて眉を寄せていた。

「悲しいよな」

 学は淡々と告げるが、僕はその声に何かえもしれない感情が強く胸の中でうずきはじめていた。
 好きな人のことを忘れてしまう。それは悲しいことだと思う。
 ただ僕には特に好きな人はいない。だから自分がそんな病気にかかったとしても、今は何も起きない。起きないはずだ。
 だけどそう思うと共に、胸がずきずきと痛む。
 なんだか何かを見落としているような気がする。何かが心の中にじわじわと迫ってくる。
 喉の奥に何かがつまったかのような、強烈な違和感を覚える。

「そのあとどうなったんだ?」

 この先の未来に何が待っているのか。微かに期待をこめて訊ねるが、学は首を振るう。

「そのままさ。もしかしたら繰り返させる事態に彼女も諦めてしまったのかもしれないな」
「そうか」

 何となくその答えに落ち込んでしまう。何か幸せな未来が待っているんじゃないかと想像してしまっていた。悲しい結末に悲しくしてしまった。
 でもどうして僕はこんな話に感情移入してしまったのだろうか。所詮は学の与太話だ。自分と関わりがあるわけでもなければ、知った人物の話でもない。気にするような話でもないはずだ。

「でも。俺はさ、信じているんだ。きっとそいつは思い出すはずだって。だって物語なら愛と正義が勝つものだろう」

 学があまりにも真面目な顔をして言うものだから、なんだかおかしくなってしまい笑みをこぼす。

「そうか。そうかもな。そうだといいな」

 僕も学の言葉を信じたくなった。
 あくまで学のしてくれた面白い話に過ぎないけれど、幸せな結末が来てくれるのが楽しみになった。
 きっとそいつは大好きな人のことを絶対に思い出すはずだと。必ず何かあるはずだと。何となく信じられた。

 この話がどうしてこんなに気になったのかはわからない。そもそも学の作り話に過ぎないし、面白い話といったものの、考えてみるとさほど面白い話でもない。
 ただなぜか心の中に染みいるような、そんな気持ちを感じさせていた。
 もし自分にそんなことが起きたのであれば、きっと悲しくて、辛くて。でもきっと奇跡を信じていくのではないかと思った。

 何となく自分と重ね合わせてしまう。
 もしかしたら僕も何かを忘れてしまっているのかもしれない。そんなことを思わせるくらい、それがまさに起きている話のようにも感じていた。
 いやいや、いま聴いた話と自分を重ね合わせてしまうだなんて、おかしなことだ。ありえない。声には出さずにつぶやく。
 ただこの話はずっと僕の心の中に残り続けていた。
 放課後になっても、僕の心の中には何かもやもやとしたものが残り続けていた。
 どうして学の話がそんなにも気にかかるのかわからないまま、僕はぼんやりと教室の外を見ている。すでにクラスメイトのほとんどは帰宅しているか、あるいは部活にいっていて、教室には他に二人残っているだけだ。

 なんとなく窓から中庭の方を見つめてみる。
 特に誰も人はいない。だけどそこで何かがあったような気がする。大切な何かが、大切なものがあったような気がする。
 大切なものって何だろう。僕にとってはサッカーだろうか。でもサッカーをするなら中庭ではないだろう。それにサッカーはもう出来ない。病気で止められている。

 体には特に影響はない。ないと思う。走ったからって、ひどい息切れがするなんてこともないし、ボールを蹴っていたら足が痛むようなこともない。
 じゃあなんで僕はサッカーが出来ないんだろう。サッカーが好きなのに。ボールを蹴る楽しみは他に勝るものはないのに。
 そこまで考えてから、本当にそうだっただろうかと頭の中に何かがひっかかっていた。

 何かもう少し大切なものがあったような気がする。それは中庭でみた何かとも関係がしている。そんな気がしていた。
 そう。僕は忘れている。何かを忘れている。でもそれが何なのかわからない。僕は何を忘れているんだろう。
 デジャブみたいな奴だろうか。かつて何かどこかで見たことがあるような気がする現象。学の話に影響されてしまって、何かを忘れている気がしているだけかもしれない。
 でももし学の言っている話が自分に関係するのだとしたら、諦めずに何度も僕のもとにきていた女の子は今はどこにいるのだろう。もう諦めてしまったのか。それまで何度もきていたというのに、いま僕のそばにいないというのもおかしいだろう。
 ただこの退屈な気持ちが、自分の中でありもしない現象を作り出している。それだけのことだろう。だっていまここにその子はいないのだから。

 僕にとって一番大切なものはサッカーで、それ以上のものは何もないはず。見たこともない女の子なんかじゃないはずだ。サッカーが出来ないから、退屈に思っている。それだけだと思う。
 なのにかつてほどサッカーに胸が躍らないような気がするのはなぜだろう。病気で出来なくなってしまったからだろうか。
 いや、よく考えるとそもそも僕は何の病気なんだ。ストレス性適応障害。曖昧な病名は、僕をはぐらかしているだけのような気もしていた。
 もしかしたら僕が抱えている病気は、学がいうように一番好きな人のことを忘れてしまう病気なのか。そこまで考えて僕は首を振るう。いやいや、それはおかしい。もしそうなのだとしたら、いま僕がサッカーが出来ない理由にはならない。好きな人を忘れてしまったとしても、サッカーが出来る出来ないには関係ないだろう。医者に止められている理由にはならない。

 冷静に考えてみれば自分のことではないはず。学のいつもの妄想話のはずだ。
 でもなぜだかそれが他人事のようには思えなかった。
 自分の中に何かがある。僕が知らない何かが、どこかでうごめいている。
 僕は何かをつかもうとしている。何かを知ろうとしている。もう少し手を伸ばせば届くはずだと、よくわからない感情が僕を突き動かしていた。

 僕は知らなければいけない。知る必要がある。
 何かを忘れてしまっているのなら、その何かを思い出さなきゃいけない。
 思い出せ。思い出すんだ。僕は思い出さなきゃいけない。
 不思議な熱情にかられて、僕は鞄をもって廊下へと向かっていた。
 外から帰宅する人達の姿が見える。いつもの風景だ。

 でもそこに何かが足りないような気がしていた。何が足りないのかもわからない。
 何かをしなければいけない。不安と焦燥が僕の中を駆け回っていた。本当に何かを忘れているかなんてわからないのに、僕の中ではいつの間にかそれが確定した事実のように感じられていた。
 頭の中で何かが揺れる。ズキズキと側頭部が痛む。
 思わず手を当てるが、痛みはひくことはない。もう少し。もう少しで手が届きそうなのに、届かない。僕の記憶には蓋がされたままだ。
 そのせいか痛みをこらえながらも、僕はふらふらと歩き出していた。

 気がつくと病院のそばの公園にやってきていた。今日は病院の日ではないのに、どうしてこんなところに来てしまったのだろうか。無意識のうちに先生に話をききたいと思っていたのだろうか。
 でも今日は先生は休診だったと思う。だから話を聞くわけにもいかない。
 ふと見るとサッカーボールが落ちていた。この公園にはよくサッカーボールが落ちている。誰かが忘れていくのか、それとも近所の子達が遊ぶために、もうずっと置きっ放しにしているのかはわからなかった。でも何となく落ち着かなくて、僕はボールを蹴り上げて軽くリフティングを始めていた。

 一回、二回、三回と繰り返すうちに、少しずつ心が落ち着いていく。
 やっぱりサッカーが好きだと思う。もう僕はサッカーが出来る。体には何も問題はない。休んでいる間には練習はしていなかったから、感覚は少し衰えたかもしれない。それでも体に染みついた技術は、そう簡単に忘れられるものでもない。
 サッカー部に戻りたいな。ふと思う。
 いや。馬鹿なことを考えている。サッカー部に戻れるはずもない。病気とはいえ、何回も迷惑をかけているんだ。戻れるわけ……。
 いや僕は何の迷惑をかけたんだ。そもそもどうして僕はサッカー部をやめたんだ。
 病気のため。それはわかっている。でも具体的に何があって、何をしたのだっけ。記憶が曖昧だった。でも何もなければ部活をやめるはずもない。
 やっぱり僕は何かを忘れている。何かを忘れている。もしかしたらそれはサッカーのことだったのだろうか。
 ただ何もわからないまま、リフティングを続けていた。

 特に邪魔が入らなければ、十回や二十回は軽い。百にも二百でもやれば続けられるだろう。でもこの間は確か邪魔が入ったんだよな。ふと思う。
 ただその感じたことに愕然として、僕はボールを落としていた。
 邪魔ってなんだ。誰に邪魔されたんだ。
 そうだ。確か後ろからすっと足が伸びてきて、ボールを奪い取られた。そして同時にふわりと紺色のスカートが舞って、長い髪が後からついてきていた。
 木々の間から差す木漏れ日が、彼女をきらきらと彩っていた。
 綺麗だと思った。
 そんな幻が僕の前に現れて消えていた。
 今のはいったい何だったんだ。
 僕はいま見えた景色に、頭の中が混乱してわからなかった。
 僕の妄想なのか。いや妄想にしては、はっきりと姿を見て取れた。確かに彼女はそこにいたんだ。

 僕の知らない少女。いや、本当に知らないのか。もしかして今の幻の中の彼女こそが、僕が忘れている大好きな彼女なのか。
 いやもしかしたら僕が妄想の中で作り出してしまったのかもしれない。
 学の話に影響されて、学と同じように何かを生み出してしまったのかもしれない。
 ボールはそのまま地面を転がっていく。まだ暖かな日差しは、僕とボールを照らしていた。
 春のぬくもりのせいだったのだろうか。僕が見た幻は、あまりにもはっきりとしていて、確かにそこにいたことを感じさせる。

 僕は彼女のことを知らない。だけどもしかしたら僕は彼女のことを知っているのだろうか。彼女こそが学の言う面白い話の忘れてしまった少女のことだったのだろうか。
 いやありえないだろう。忘れているなんて。忘れてしまっているだなんて。
 僕が学に影響されて作り出してしまった幻想の少女なのだろう。
 ここにいることが、なぜだか辛く感じて僕はまた再びふらふらと歩き出していた。
 気がつくと繁華街の方にきていた。
 この辺りは駅も近いので、帰宅中の学生達の姿も見える。たぶんこのくらいの時間に帰っている人達は部活帰りだろう。すでにもう日も沈んでいる。
 誰かとすれ違うたびに、幻でみたあの子かもしれないとつい目で追いかけてしまう。

 もし彼女が本当にいるのだとしても、こうしてすれ違うとは限らない。ましてや実在すら疑われる人物の影を探して歩くなんて、何をやっているのだろうと思う。
 学の言葉を信じれば、好きな人のことを忘れてしまう病気だということだ。もし僕が張本人なのだとすれば、僕は彼女のことを好きだということになる。

 でも正直に言えばそんな気持ちは全く浮かんでこない。
 ただボールを奪われた時の驚きだけが、僕の中に残っていた。大好きなサッカーとからんでいたからだろうか。ボールをうまく扱う彼女の姿だけが僕の脳裏にはっきりと思い浮かべられた。
 好きではない。でも何か彼女のことが気にかかって仕方なかった。素人にしてはボール扱いのうまい彼女。僕からボールを奪った彼女。なぜか気にかかって、あたりを気にしていた。

 そして気がつくと、僕の目線は通りのむこう側で長い髪が風に揺れるのを目にしていた。
 まさか、本当に!? 思わず胸が高鳴るのを感じていた。慌てて僕はその後ろ姿を追いかける。
 幻想の中でみた彼女だ。本当に実在したのか。僕の妄想の中だけに存在した訳では無かったのか。
 僕は彼女のことを知っているのか。彼女は僕のことを知っているのか。

 わからない。わからないけれど、彼女に話しかけるべきだろうか。いやだとしてもなんと話せばいい。本当に彼女が僕のことを知っているかなんてわからない。やっぱり僕が作りあげた妄想の中なのかもしれない。
 とても可愛らしい子だったと思う。だからもしかしたら学校で見かけた彼女を無意識のうちに登場させただけかもしれない。むしろそう考える方が自然だと思う。

 だけどそうではないかもしれない。あれは本当にあったことで、僕が忘れてしまっているだけなのかもしれない。学が話した面白い話は、僕にそのことを気がつかせようとして話していたのかもしれない。
 わからない。わからなかった。
 思い切って声をかけてみれば、はっきりするだろうか。
 変な奴と思われるかもしれない。ナンパと勘違いされるかもしれない。でも話さなければ僕の中にうずまく不安は解決できそうにない。
 だから僕は彼女へと駆け寄って。いや、駆け寄ろうとして歩みを止めていた。

 彼女の隣に背の高い男の姿が見えた。あれはたぶん野球部の武田だと思う。確か女の子に人気でファンクラブみたいなのがあるとかないとか噂されるイケメンだ。
 二人はなにやら楽しそうに会話を続けている。
 その姿を見て、僕は思わず肩を落とす。
 ああ、そうだよな。もしもあの子が僕の好きだった子だとしても、僕は彼女のことを忘れてしまっているんだ。今は特別な感情は持ち合わせていない。

 あんな可愛い子が僕のことを好きになるなんていうのもそもそもおかしいけど、もし本当にそうだったとしても、僕が忘れてしまっているのに、いつまでも好きなままでいてくれると思う方がおかしい。あれだけ可愛い子なら、他の人が放っておかないだろう。
 武田はさわやかなイケメンだし、ちょっと鼻につく部分もあるけど、案外いい奴だ。僕とあいつのどちらがあの子に釣り合うかと言われれば、圧倒的に武田の方だろう。

 そもそも僕が見た妄想は、本当にあったことかどうかも疑わしい。クラスも違うはずだし、話しかけたら「誰?」と言われてもおかしくはない。
 何を一人で盛り上がっていたのだろう。
 彼氏と一緒にいるところに、下手な話をする訳にもいかない。余計なもめ事を引き起こすだけだ。
 もしも僕が本当に彼女のことを忘れてしまっているのだとして。それを今更思い出す必要なんてないのかもしれない。

 僕はその場に立ち尽くしていた。
 姿が遠くなっていく彼女を見送って、それから僕はきびすをかえして、家への帰路を歩き出していた。