細かな雪が舞うなか、葵(あおい)は家路を急いでいた。
 身にまとう濃紺の忍び装束が、その姿を真っ暗な闇に溶け込ませている。左手首に白い布を巻き、長く柔らかな髪を揺らして走る葵の大きく丸い瞳が、ふと人の姿をとらえて足を止めた。
 一人の男が木の幹にもたれかかって、力なく座り込んでいる。
 口からは微かに白い息が漏れていた。目を閉じているのは眠っているからなのか、それとも気を失っているのか。
 忍び装束姿のその男は、明らかに忍者だった。
 葵は目の前に立って、彼を見つめた。肩や脇腹、腿のあたりに、血の滲んだ跡がある。
 忍者なんか連れて帰ったら、絶対に長屋の大家に怒られる。でも、だからといって、こんな寒い中に放っておくこともできない。
 そうなると、一番の問題は。
「……どうやって運べばいいかな」
 長屋までは、まだだいぶ距離がある。女の葵の力では、そこまで運ぶのは不可能だ。
 一向に目を覚ます気配のない男の前に立ちつくして、葵は一人、頭を悩ませた。

                    ☆☆

 長屋の戸を開けると同時に、目が合った。
 先ほどまで眠っていたはずの男は、寝床から体を起こしていた。そして入口に立つ葵に短刀を向けている。
 外は夕暮れの空が広がっていた。
 部屋に入った橙色の光が、短刀の切っ先を鋭くきらめかせている。
 だが葵は動じなかった。
「起きてたんだね。よかった、目を覚まさなかったらどうしようかと思ったよ」
 何事もなかったかのように中へ入ると、持っていた風呂敷包みを床の上に置いた。
「お腹、すいてるよね? 昨夜からずっと寝てたんだし」
 葵は風呂敷包みを開いた。中には大根や里芋などの野菜が入っている。
「……お前、何者だ」
 男が短刀を向けたままで、静かに問いかけてくる。
「私はこの長屋の住人だよ。隣に住んでるんだけど、ちょうどここが空き家だったから」
「ただの町人じゃないだろ」
 ぎくっとして、葵は男を見た。
「えっと、なんで?」
「こうして刀を向けられて平然としているなど、ただ者じゃない」
「……そっか。なるほどね」
 がっくりと肩を落として、葵は深く息を吐いた。
「ここは怖がらなきゃいけなかったってことか。たしかにそうだよね」
「なにを納得しているんだ」
「今度は気をつけなきゃって思って。それで、他になんか気になったことあった?」
「聞いてどうする」
「えーっと、今後の参考に?」
 へへっと笑う葵に、男は疑わしげに眉をひそめる。
「……気を失った男を一人で運ぶなんて、普通の女には無理だ」
「ああ、それね。私もどうしたらいいかなって悩んだんだけど、ちょうど三津(みつ)さんが来てくれたから……あ、三津さんっていうのはこの長屋の大家さんね」
「ちょうど来てくれた?」
 おかしいと言わんばかりに問い返した男に、葵は頷いた。
「夜中にいなくなった私のことを心配して、探しにきてくれたの。で、一緒にあなたのこと運んでもらったってわけ。散々文句言われちゃったけどね。よくわからない人を助けるなって」
「当然だ。知らない人間を助ける義理なんかない」
「だって大怪我してたし」
「関係ないな」
「それに、こんな真冬の寒い中で気を失ってたから……ってこれ、あなたのことなんだけど」
「誰だろうと放っておけばいい」
 まるで、自分のことなど見捨てればよかったのにとでも言いたげな彼に、葵は苦笑する。
「それだけ元気なら大丈夫そうだね」
 葵はくるりと男に背を向けた。しかしすぐに振り向くと、懐から出したくないで、背後から飛んできた短刀を叩き落した。
 短刀の刃が、床に深く突き刺さった。
「あ、しまった。床傷つけたら三津さんに怒られるのに」
「やはり忍者か」
 床に刺さった短刀がなかなか抜けず、両手で柄を握ったままで葵は顔を上げた。
「え、嘘。それもばれてたの?」
「確信があったわけじゃない。だが、くないなど忍者以外が持つものじゃないからな」
 くないは金属で作られた武器だ。刀の代わりになるばかりでなく、壁を登ったり、穴を掘ったりするためにも使うことのできる便利なものだが、忍者以外が持つことはない。
 ええ、と葵が不満たっぷりの声を上げた。
「それって、もし私が普通の人だったらどうするつもりだったの」
「その短刀が、床じゃなくお前に刺さっていただけの話だ」
「酷いな、一応命の恩人なのに」
「頼んでない」
「ていうか私、忍者じゃない、しっ」
 ぐっと両手に力を込めたと同時に短刀が床から抜けて、葵は軽く尻もちをついた。
「嘘を言うな」
「嘘じゃないって。ほんとにここに住んでるだけの普通の人なんだから。ただちょっとだけ忍術のこと知ってるだけで」
「それを忍者というんだ」
「だから違うんだって」
「戦の経験もあるみたいだしな」
 葵は目を丸くした。
「ほんとによくわかるね。あなたこそ何者?」
 あっさりと認めた葵に、男が呆れた顔をする。
「そんなに簡単に認めていいのか」
「だって当たってるし。ね、それよりまずご飯にしようよ。私、お腹すいちゃったよ」
 そう言って食事の用意を始めた葵に、男が再び何かを投げつけてくることはなかった。
 ただじっと、その様子をうかがっていた。

                    ☆☆

 かた、と小さく音を立てて裏口の戸を開けると、葵は夜の庭に出た。
 すると隣の家の縁側に、男が座っていた。
 ちらりともこちらを見ようとしない彼に、葵はそっと声をかけた。
「眠れない?」
 葵は静かに彼のほうへと歩み寄る。
「あ、おなかすいたんでしょ。だからちゃんとご飯食べたほうがいいよって言ったのに」
「知らない人間の作ったものなど食べるわけがないだろ」
「大丈夫だよ。私だって同じ鍋からよそって食べたんだから」
「それ以上こっちに来たら容赦しない」
 葵はぴたりと足をとめた。
 彼が本気で言っていることは、声でわかった。
「あなたの容赦しないは怖そうだなあ」
 そう言って笑うと、葵は彼から離れて自分の家の縁側に座った。
 新年を迎えたばかりの深夜は風が冷たく、息は吐くたびに白く残る。
「こんな夜中に、そんな恰好で何をするつもりだ」
 葵は濃紺の忍び装束をその身にまとっていた。
 庭を囲むように建てられた長屋には、葵と三津以外に住む者がおらず、誰かに見られる心配もない。だからこんな姿でも、のんびりと縁側に座っていることができる。
「私はちょっと鍛錬にね。ほら、昼間だと目立っちゃうから」
「ただの町人だとか言っているやつが、そんな恰好で何の鍛錬だ」
「あ、なんかとげのある言い方だなぁ。でもこれだけは、なんと言われようとやめるわけにはいかないんだ。父上との約束だから」
 葵は夜の空を見上げた。
 新月に限りなく近い細い月が、暗い空に浮かんでいる。
「それより怪我はどう? ていうか起きてていいの?」
「もう治った」
「いや、治らないでしょ。ちゃんと寝たほうがいいんじゃないの?」
「大きなお世話だ」
 彼に、葵の言うことを聞こうという気はさらさらないらしい。
「ここには、あなたの心配するようなことは何もないよ」
「別に心配なんかしてない」
「そう? 昨日散々うなされてたのに?」
「……何が言いたい」
 男が横目で葵を見やった。
「別に? ただ、ここは安心して寝ても大丈夫な場所だよって言いたかっただけで」
「窓から誰かがのぞく家でか」
「えっ」
「その気配で目が覚めたんだ」
「わ、私じゃないよ」
 葵は思わず縁側に両手をついて身を乗り出した。
「お前ならすぐわかる」
 なら、誰なのか。
 男もわからないのか、それ以上は何も言わなかった。
 誰かがのぞいていた。
 そう言われると気になって、葵も悩んでいると。
「……その手は、昨日やったのか」
「え? あ、これ?」
 葵が軽く左手を上げた。その手首には白い包帯が巻かれている。
「違う違う。あなたを運んだときに痛めたとかじゃないよ」
 男が少しだけ目元を緩めた。
 それを見て、葵が言った。
「もしかして、心配してくれたの?」
「そういうわけじゃない」
「またまた、素直じゃないなあ」
 男が無言でにらむような目を向けてくる。そうでなくても彼の切れ長の目は鋭くて、怒ってるんじゃないかと勘違いしてしまうようないかつい顔をしているが、中身はたぶんそうじゃない。
 彼は、人を気遣うことのできる人なんじゃないだろうか。
 だから黙って出て行ったりすることなく、ここにとどまっているんじゃないだろうか。
「よくなったら、いつでも出て行っていいからね。あなたのこと心配してる人もいるだろうし。私に遠慮することないから」
「誰がお前に遠慮などするか」
 間髪入れずに彼が言った。
「あ、そう? ならいいけど」
「それに、俺に帰る場所はない」
 男が言った。
 悲しんでいるでもなく、ただ淡々と。
 ここに来る前の彼に何があったのか。今どんな気持ちでここにいるのか、葵にはわからない。
「ね、あなたの名前は?」
「……なんだ、急に」
「そういえば聞いてなかったなって思って」
「初対面の人間に教えるわけがないだろ」
「え、そうなの? ちなみに私は葵だよ。よろしくね」
 名乗ってみたものの、返事はなかった。
 ただ黙ったままで庭を見つめる彼とともに、葵も少しのあいだ縁側に座って、中央にぽつんと井戸があるだけの庭を眺めていた。