人生で最も長い一ヶ月が終わった。
 未愛は長い時間昏睡状態にあったため後遺症などの影響が心配されたが、幸い大きな問題もなく順調に回復していった。
「長い間、お世話になりました」
 予定していた時期よりも数週間早く退院日を迎えることができ、俺は心から安堵した思いで深々と頭を下げた。
 担当の医師は最後まで奇跡の二文字を口にして驚きを隠せないようだったが、別れ際には未愛の病状の回復を心から祝福してくれた。
 多くの病院関係者に見送られながら、俺と未愛は長い入院生活に幕を引いた。
 病院を後にして久しぶりの帰路に向かいながら、俺達はゆったりとした足取りで歩いた。
 新鮮な空気を肺いっぱいに取り込んでから、隣を歩く未愛の顔を一瞥する。
 未愛が、自分の足で立って歩いている。息を吸っては吐いて、生きて俺の隣にいてくれている。
 俺は目を細めて、そこにある当たり前に言いようのない喜びを噛みしめた。
 心地よい音を鳴らして葉を揺らす並木道は、まるでめでたい今日という日に木々のアーチを架けて祝福してくれているようだった。
 穏やかな足並みで川沿いの道を抜けると、普段では滅多に見ない数の群衆で溢れているのが目に映った。
 何だろうと見てみると、どうやら何かのお祭りのようで。沿道両脇には色とりどりの暖簾を掲げた屋台が連なっていて明るい空気が満ちていた。
 そういえば、今日は色々とバタバタしていてお昼どころか朝食すら食べていなかったな。
 俺は今にも鳴りだしそうなお腹をさすりながら、一考する。
 思えば未愛も、意識を取り戻してから退院までの間、ずっと味付けの薄い病院食しか口にしていていなかったわけだし。退院祝いってことでうってつけかもしれないな。
 俺は意気揚々と屋台の方に指をさすと、未愛に向かって声高らかに提案した。
「見てみろ未愛! 何かのイベントで屋台がやってるぞ! 今日は奮発してお兄ちゃんが何でも買ってやるから食べたいもの言ってみな?」
「……別に。どれでもいい」
「はっはっは。いやいや、せっかくあんなにたくさん種類があるんだから、じっくり見てから決めた方が……」
「お兄ちゃんの、好きなものでいいよ」
 離れた位置からでも漂ってくる、食欲をそそる香りと景気のいい呼びかけ、それに数多の通行人の手に握られたはし巻き、たこ焼き、焼きトウモロコシ。
 興味を抱くには十分すぎる要素が揃っているというのに、未愛は屋台の方に視線すら向けようとしなかった。
 未愛は根っからの倹約体質が故、普段から俺の無駄遣いを見つけては多々注意することがあった。
 でも、今の未愛は何か……そういう理由とは違うことを考えて言っている気がした。
 立ち止まる俺達の横を行き交う人々が平和そうに笑いさざめきながら通過していく。いつもは気にならない通行人の話し声や笑い声が、スピーカー越しのように響いてきて俺の気を散らした。
「とりあえず、どこかに座ろうか」
 屋台が立ち並ぶ道の真ん中に、等間隔で置かれたいくつかのベンチがあったから、空いていた一つに俺達は腰かけた。
 往来する人の流れを視界に入れながら、俺は再び未愛を一瞥してみるが、やっぱり俯き加減で曇り顔を浮かべるだけ。
 まぁ、元々未愛は同年代の子に比べて大人びているし、性格も理知的で涼やかだ。屋台を見て脊髄反射的に駆け回るタイプではない。
 とはいえ、意識を取り戻してからの未愛はひどく物憂げで明らかに活力を失っていた。
 未愛が目を覚ましてからは俺と病院関係者にしか会っていないから、何かトラブルに遭遇したとも考えにくいんだが。
 判然としない靄みたいな心配を胃の辺りで感じながら、未愛の方をじっと見つめていると。
「っ!」
 巡らせていた思考が引きちぎられるように、俺の意識はあらぬ方向へと強制的に巻き上げられた。
 俺は考えるよりも先にベンチから勢いよく立ち上がると、雑多なざわめきが混じり合う人だかりの中へ吸い込まれていくその人物を必死に目で追った。
 しかし、あっという間に目視できないほどその影は小さくなっていき、俺は焦燥感に駆られながら決断を迫られた。
 消えゆく後姿と未愛とを何度も首を振って視線を行き来させた後、俺はぎゅっと目を瞑って未愛の頭に手を置いた。
「未愛、ごめん! お兄ちゃん……どうしても人に会いに行かなくちゃいけない用事を思い出したんだ。財布にあるお金で好きな物を食べてきていいから、少しの間だけ……待っててくれないか」
 俺はありったけの申し訳なさを込めてそう伝えると、未愛は変わらぬ表情でゆっくりと顔を上げた。
 未愛は「分かった」とも「嫌だ」とも言わなかったけれど。
 少しの間を置いて屋台のある方へと歩き出したから、俺はそれを了承のサインと受け取った。
 待っててな、未愛っ!
 俺は心の中で改めて詫びの言葉を叫びながら、勢いよく地面を蹴って人混みの中に飛び込んだ。
 辛うじて見えた後姿の残影を頼りに、神社の石段を駆けあがっていく。
「はぁっ……はぁっ……」
 鳥居をくぐって辺りを見渡すと、屋台のある下の道とは打って変わって人の姿がほとんど見当たらなかった。
 呼吸を落ち着かせながら石畳の伸びる方へ歩みを進めていくと、見晴らしのいい眺めが一望できる柵の前で佇む一人の男性がいた。
 思えば、どうして俺は今さらこの人と話をしたいって考えたんだろう。
 未だに掴めない性格と澄んだ凪のように思慮深い人間性は、決して相性の良い人間ではないというのに。
 ――でも。
 その姿を視界に捉えた瞬間、話したい内容がふわりと頭に浮かんできたのは、つまりそういうことなんだろう。
「天乃先生」
 俺は大きく息を吸いこんでから小さく息を吐き出すと、静かな声で呼びかけた。
「転生委員会としての職務を終えたあなたは、もう学校には戻ってこない。二度と会えないと思った。だから、最後に話をしにきました」
 置物のように直立していた天乃先生はようやくそこで半身に構えると、まるでひとりごとでも話すような口調で声を発した。
「――ここは、不思議な街ですね。至る所が廃れていて、いつ過疎化が進んで衰退してもおかしくないのに、急遽開催した屋台のお店にはあれだけの人が訪れて賑わいを見せている。きっと、一見しただけでは分からない魅力がたくさんあるのでしょうね」
 それはまるで、学校で授業をしているときと同じような口調だった。
 遠い目で街を眺めながら、自然体で淀みのない弁舌を振るう天乃先生は、一度間を空けた後でこう尋ねてきた。
「未来さんには、ちゃんと会えましたか?」
 俺はすぐに答えようとも思ったが、記憶の整理をするために視線を地面へと滑らせた。
 未来は、俺が前世で死んでから転生委員会で働き続けてきて、俺と再会するよりも前に、天乃先生に転生願書を託した。そして、俺は天乃先生の説得によって未来を探し出すことができた――。
 初見でこの人を担任教師として、初めて教壇上で見た時。正直好きにはなれないだろうなと思った。まるで心の内を見通すことができない強かさを感じたから。
 転生委員会で全ての秘密を知っていることを明かされた時、本気で殴りかかろうとしたくらいには激昂したりもした。
 俺はふっと目を閉じて体を90度に折り曲げた後、深々と頭を下げた。
 それでも今……この人に抱いている感情はひとつだけ。
「はい、会えました。ありがとうございました」
 俺は精一杯の想いを言葉に乗せて噛みしめるように、伝えた。
 何秒も、何十秒も、深く頭を下げ続けた。
 次に顔を上げた時、天乃先生は青空に溶かすような声色で「よかったです」とだけ応えた。
「未来さんは、あなたになんと言っていましたか」
「たくさん……話してくれました、けど。これから先もずっと、俺と未愛の傍にいるって、そう言ってました」
「――そうですか。未来さんらしいメッセージですね」
 場には穏やかな静寂が漂い、やがて一陣の風が控えめな音と共に吹き流れた。
「私は、立場上人よりも多くの生き死にに触れて、ありとあらゆる人生を見届けてきました」
 そう語りながら、天乃先生は俺が境内に到着して以降初めて、俺の方に向き直ってから微笑んだ。
「しかし、時雨ミライほど素晴らしい生き方をした人間を私は他に知りません。そんな彼女があなたに残した最後の言葉……どうぞ、最大限汲み取って今後の人生の歩みに添えてください」
 心からの言葉だとはっきり分かるとても澄んだ声だった。
 嬉しかった。
 未来はこれまでの生涯で、俺以外の人間から褒められることがあまりなかったから。
 ……でも。
 そのとき俺は首肯することも、言葉を呑み込むこともできずに眉根だけを寄せた。
 自分でも、どうして素直に笑顔を作ることができないのか不思議だった。
 なぜ、声を出すことができないのか分からなかった。
 逃げるように一度視線を切ってから元の位置に戻すと、天乃先生の姿は嘘みたいに消え失せていた。
「……さようなら」

 俺は一人石段を下りながら、天乃先生が告げた言葉に改めて思いを巡らせていた。
 未来は、未愛の命と俺達の将来を守ってくれた。
 自分の持っているすべてを懸けて。
 だったら俺も、未来の意志を受け継いで力の限り未愛と二人で生きていく努力をしなければいけない。
 その……はずなのに。
 俺は、あの日以来一人になるとどうしても考えてしまう。
 その役目は、本当に未来が引き受けなければならなかったのか?
 やっぱり俺が死ぬべきだったんじゃないのか?
 その方が未愛も幸せだったんじゃないのか?
 勿論、分かっている。
 こんなことをいくら考えても何も変わらないし、未来だって絶対に望んでなんかいないってことは。
 それでも、目の前に広がっている現実は二人しかいない家族といなくなってしまった未来――。
そんな耐えがたい事実だ。
 寂しさが、やるせなさが、不安が、霞むどころか日に日に強まってきている。
 渋面のまま石段を下りきると、さっきまでの溢れんばかりの活気が俺の神経を逆撫でるように耳に届いた。
「っ……」
 俺は胸の奥にかかった深い靄をどうしても取り払えないまま、亀のような鈍い足取りで未愛の待つベンチに戻った。
「……えっ」
 ただでさえ痺れを伴っていた脳が、今度は別方向からの強い衝撃を受けて揺さぶられた。
 未愛が座って待っているはずのベンチには誰もおらず、辺りを見渡しても制服を着た女の子の姿はどこにもなかった。
 俺は考えるよりも先に走り出し、立ち並ぶ屋台を一軒一軒見て回った。息を荒らげて隅から隅まで駆け回りながら、首を振って汗を拭う。
 ふと俺は、未愛と別れる直前に感じた異変について思い返した。
 もしも、さっき俺が感じた違和感が、未愛がいなくなってしまったことに関係しているんだとしたら……。
 俺は屋台周辺をくまなく探して病院や学校にまで電話をかけた後、最後の望みを託して家に向かった。
「あっ」
 銘板に手をついて、肩で息をしながら部屋の方に目を向けると、扉が微かに開いているのが見えた。
 鼓動が速まるのを呼吸と一緒に抑えながら、俺は静かにドアノブを引いた。
「!」
 未愛は、いた。
 靴も脱がずに玄関に立ったまま力なく俯いていた。
 俺は深い息を漏らしながら、ようやく胸を撫で下ろす。
「ごめんな、未愛。俺がいきなりいなくなったから待ちきれないで先に帰ってくれてたんだな」
 すっかり安堵しきった俺は、声を上ずらせて未愛を部屋に入れようと背に手を伸ばした。
 と、その時だった――。
「……ねぇ、お兄ちゃん。お母さんに会ったの?」
 ゾッとするほど重々しい声が、俺の瞬きを止めた。
 一瞬、未愛が何を言ったのか理解が追い付かなくて、俺は無意識に脳内で何度も同じ言葉を繰り返した。
 未愛は目元に影を落としたまま、淡々と言葉を続ける。
「私が長い間病院で眠っている間、お母さんに会ってきたの?」
 俺は放心したまま、ただただ言葉を失ってカカシのように立ち尽くした。
 『なぜ』の二文字が頭上に浮かんで混乱する。
 一体未愛は、未来のことを誰から聞いて、どこまで知ってしまっているんだ? もし知っているんだとしたら、俺は何を言ってあげるべきなんだ?
 動揺の色を隠しきれない俺が口を歪めながら返答に窮していると、未愛は続けてこう呟いた。
「私は……会ったんだよ。お母さんに」
 いっぱいに見開いた俺の目と未愛の目が、久しぶりに交り合った。
 ――まさか。
 驚きのあまり、俺は開いた口が塞がらなかった。
 未来がお見舞いに花を持ってきた時に、実は意識が蘇っていた?
 いや、有り得ない。
 未愛は移植手術をした後、何日も時間を置いてやっとこの前、目を覚ますことができたんだ。
 未来がいた頃のことを認識できるはずがない。
 でも、じゃあ一体どうやって未愛は――。
 思いつく限りの可能性をすべて探そうとしていたとき。
『お母さんの夢をみた』
 ……そういえば。
 俺は、未愛がいつも見ていたという例の夢の話を思い出した。
 あぁ、そうか……今回もそれで。
「あ、そうか。ごめんな、何か俺勘違いしてたみたいで……。いつもみたいに夢を見ている時に、お母さんに会えたんだな。よかったな、未愛」
「違うっ!」
 クラッカーを鳴らしたみたいに突如響いた未愛の叫び声は、閑静なアパート全体に轟いた。
「違うのっ……。あれは、絶対に夢なんかじゃ……ない。お母さんは本当に私の前に、会いに来てくれたんだよ」
 それは、長年未愛とずっと一緒に過ごしてきて、初めて目にした表情だった。
俺の浅い笑みは掻き消え、身をすくめながら口を噤んだ。ただ黙って、未愛の話に耳を傾けようと、そう思った。
未愛は溢れそうになる感情をぎりぎりのところで塞き止めようと堪えながら、心臓の前で手をぎゅっと握りこんだ。
そして、ぽつり、ぽつりと降り始めの雨みたいに、静かな声音で語り始めた。
「私はあの日、学校で突然目の前が暗くなってから、何もない黒い場所にずっと一人でいた。そこでは体が動かなくて、喋ることもできなくて、なぜか胸の辺りがずっと痛くて、苦しかった。そのうち、今までに経験したことがないくらいのとてつもない眠気が襲ってきて、私は精一杯抗おうとしてるんだけど、どうすることもできなくて。世界が……少しずつ狭く、小さくなってなくなろうとしていった。もうこのままずっと、私は真っ暗のまま終わっちゃうのかなって、そう思ったとき。目の前が突然真っ白な光に包まれて、体を何かに抱きしめられたの。初めは怖くてすごく戸惑ったんだけど。……でも、不思議とそれは温かくて、心地よくて、すごく安心した。私がこれまでに、何回も……何回も……見てきた夢では、〝ごめんなさい〟っていう音だけを、ぼんやりと聞き続けてきた。だけど、今回は違った」
 未愛は、震えていた。
 俺の心も、同じくらい震えていた。
 震えた声で、教えてくれた。
 未来が未愛に届けた最後の言葉を。
『私達の、子供に生まれてきてくれて、ありがとう。
 学校、いってらっしゃい。
 うん、すごく似合ってる。
 とっても可愛い。
 よく頑張ったね。
 おめでとう。
 ――この世界には、数えきれないくらいたくさんの素敵な言葉が存在しています。幸せになって、幸せにさせられる言葉をいっぱい伝えてあげることができる。
 ……それなのに。
あなたに一番多く伝えることになった言葉が、ごめんなさいになってしまった。
 本当に、自分でも嫌になるくらい情けない母親だと思ってる。
 生まれてから今まで何一つ、母親らしいことをしてあげられなかったことも。
 そしてこれから先の人生でも、私はたった一つのことしかしてあげられないことも。
 胸が張り裂けそうなくらいのごめんなさいでいっぱいだけど、でも……。
私は、何千回、何億回分のごめんなさいの代わりに、一つだけ。
必ず約束できることがある。
未愛。
私は、これから先の長いあなたの人生に、触れることもできなければ、話を聞いてあげることも、姿を見せることすらできません。
 それでも……。
 私は、遥か先の未来まで……ずっと、ずっと未愛のことを愛しています』
 未愛の目から溢れる涙は止まらなかった。
「私……ずっと信じてた。私を生んでくれたお母さんは絶対、私のことを嫌いになっていなくなったんじゃないって。私のことを、今でもずっと大切に想ってくれているって! ねぇ……お兄ちゃん? そうなんだよね? 私に会いに来てくれた、お母さんの言葉は、夢なんかじゃ……絶対ないんだよねっ?」
泣き声を上げながら必死に声を絞り出して、すがるように俺の服を掴みながら、未愛はありったけを注いで訴えた。
俺は、大粒の涙をこぼしながら唇を一文字に結んでいた。大きく目を見開いて、必死に答えを求める未愛のことをただ息を凝らすようにじっと見つめていた。
 未愛の――心臓を見ていた。
『彼女があなたに残した最後の言葉……どうぞ、最大限汲み取って今後の人生の歩みに添えてください』
『私は……ずっといます。これから先も、ずっと……二人の傍に、いますから』
 俺は未来が残した言葉の本当の意味を、その時ようやく理解した。
 未来は、俺と未愛の犠牲になってすべてを賭して死んでいった?
 ……いや、違う。
 未来は、過酷な運命の中で残された唯一の救いの道を自ら選択したんだ。
 俺と未来と未愛。
 三人の魂が、ずっと一緒にいられる未来を。
 俺は、込み上げる嗚咽を全力で歯を食いしばりながら堪えて、未愛のことを抱きしめた。
 そして、溜め込んできた感情を声にして未愛に伝えた。
「ああ……もちろん。もちろんだよっ!」
 今の俺にはもう、魂の存在もライフ№も目には映ってはいない。
 だけど、これから先の人生を歩んでいく。
 三人で、生きていく。