学校から外へ出ると、柔らかいシャワーのような涙雨が降り始めていた。
 傘を差す手間すら惜しいと思った俺は、探す場所の目途を立てるよりも先に校舎を後にすると、勢いよく地面を踏み込んだ。
 通行人から店の中にまで注意を向けながら、走って、走って、走り続ける。
 ……天乃先生の話を聞いて、俺が最初に思ったこと。
 それは、情けないだった。
 消防隊員として何十人、何百人も助けてきたっていうのに、俺は肝心なところで大事な人一人守ることすらできなかった。
 だから、俺はなんとしても未来を見つけ出さなくちゃならない!
 もしも、ここでまた何の言葉もかけれずに未来と別れることになってしまったら、俺は――。
 肺から胃へ圧迫感が押し寄せてきて、徐々に溜飲が込み上がるのを感じる。次いで足が、喉が、肺が痛くなってきて駆ける速度と思考速度が下降した。
やがて脳内の酸素までもが減少して視界が狭まる中、一歩を踏み出すたびに俺のもう一つの身体、同列の魂で経験した前世の記憶は、不思議と反比例するかのように彩度を上げて蘇った。
 二つの人生で起こったバラバラの状態だったすべての記憶と思い出の欠片がパズルみたいにカチャカチャと組み立てられて色がついていく。一つ、また一つと完成に近づくごとに、俺の中の会いたいという感情も増幅していった。
 これまでに訪れたところは勿論、思いつく場所を手当たり次第に走り回って首を振り続けた。見えない目的地への果てしない力走はいつまでだって、未来との再会まで意地でもやめないつもりでいた。
……それでも、未来の姿はどこにもなくて。
遂に、正常に酸素を取り込むことが不可能な限界点にまで達した俺の足は、感覚が失われて真冬の時みたいに痙攣を起こした。
「っあ、やべっ……」
 いつの間にやらほどけて、鞭みたいに俺の脛を叩く靴紐を逆の足で踏んでしまい、俺の身体は勢いよく地面に叩きつけられた。
「うぐっ……!」
 ……本当、情けねぇ。
 消防隊員だった頃の記憶はもうほとんど蘇ってるっていうのに、同じ魂は持っていてもあの頃とは体力も筋量もまるで違う。たったこれしきの運動で、死にそうなくらいきつい。
「はぁっ……はぁ……っ……」
 少し、ほんの少しだけ休もう。
 俺は左肩を押さえながら起き上がり、ふと視界に入った公園の中のベンチを這うようにして目指した。
 肺と脇腹の痛みさえ治まれば、もう一回走り出すことができる。そうすれば、今度こそ未来を見つけるまで探し続けよう。次に向かう先の目星をつける思考は止めることなく、公園内を歩いた。
 やがて、虚ろに輝く街灯に照らされた世界で、ポツンと一ヶ所だけ鮮明な影を落とす場所が遠目に映った。
俺は導かれるように、ゆったりとした足取りで歩みを進める。
 気付けば、曇天模様だった景観は一面淡い茜色に染まった空へと変貌していて、赤みがかった暮れ方の日差しが視線の先を神々しく照射していた。
そして、ようやく見えた木製のベンチに到達したとき。
俺は腰を下ろすこともなくその場に数秒立ち尽くした後、右肩から鞄を滑り落とした。
 それは、紛れもない偶然だった。
――――いた。
 時計台の下。ベンチの傍。
世界の時間が停止したような心地で見つめる俺の視線の先には、街灯のせいで光り輝いているように見える一人の少女が座っていた。
俺から生じる鼓動音と呼吸音のみがその空間に反響するが、目の前にいる少女からは僅かばかりの音も聞こえなかった。感じることができなかった。
 まるで知らない人みたいにすら見えたその人物は、薄く笑んだ顔をゆっくりとこちらに向けて言った。
「……お久しぶりです。もう一度あなたに会えるとは、思っていませんでした」
 それは、嬉しさと悲しみが入り混じったひどく曖昧な声音だった。
「未来っ」
 会いたくて、話したくて、あれだけ必死に探し駆けまわったというのに、どうしてか言葉が上手く出てこなかった。
 万の言葉を用いても話し足りないくらい積み上げてきた気持ちがあって、過ぎ去った時間があった。だからこそ、簡単に言葉を発することができなかった。
 長いような、短いような、沈黙が漂った。
 そんな中、先に静謐な間を引き取ったのは、空気に溶けたような未来の声だった。
「この一ヶ月、お互いに色々なことがありましたね。未愛のために一生懸命頑張るあなたを傍で見て、たくさんからかって、たくさん遊んで、たくさん、嘘をついてきました」
 一音一音丁寧に紡がれた言葉は儚げで、まるでこれまでの出来事を振り返るような口調だった。
 俺もまた、未来と一緒に過ごしてきたこの一ヶ月間を振り返りながら、三度脳内に〝嘘〟という言葉がよぎった。
 ……なぁ、未来。
どうして、俺に嘘をついたんだ?
この一ヶ月貯めてきた全てのポイントを奪ったのは、一体何でなんだ。
 静かに息を吸い、生唾を呑み込んで口を開き、嘘について尋ねようとした、寸前。
「ねぇ碧。私と過ごしたこの一ヶ月は、どうでした? 楽しかったですか?」
 っ、何を……! 
俺は、未愛の命を守るために行動を続けてきたんだ。
心が張り裂けそうだったこの一ヶ月が、楽しかった!? 
そんな訳がないだろうっ――。
 俺が顔を振り上げてそう言いかけた時、心に張った水面に一粒の雫がこぼれた。
『転生委員会の仕事は、想像を絶するほど過酷なものです。未来さんは、私と出会ってから毎日、毎日、毎日……。本当によく頑張ってきました』
 ――一ヶ月じゃ、ない。
未来は、俺が死んでからの十数年。ずっと転生委員会で必死に働いてきた。何の為に? 決まってる。未愛の為!
その未来が、俺についた嘘。
「碧……もっと、私のことを見てください」
 深い思考の折、気付けば未来の両手は俺の頬に添えられていて、微笑んだ彼女の表情が視界いっぱいに広がっていた。
 微塵の濁りもない瞳が見えた。
 星空みたいに澄んでいて、儚げな光を宿している。
それから十数秒間、俺は魔法にかかったみたいに何もすることができなかった。
彼女が事の顛末を語り始めるまで、何も……。
「私は転生委員会に入ってすぐ、未愛が将来重い病気で命を落とす運命を知りました。それはもう……気が狂うくらい、泣きました。絶望しました。神様を呪いました。そこで、私は必死に転生委員会の仕事をして、ひたすらライフ№を集め尽くすことにしました。碧がこの一ヶ月間、最後の希望にすがってきたのと、同じように。転生対象者に選定された人間が死んだら魂を来世に送って。働いて、働いて、自分の子供の将来さえ守れないような私が、他人の来世の相談に乗って、また魂を送って……。働き、続けてきました。……でも。それから持てる時間のすべてを費やしてライフ№を集め終わったとき。それだけの数値をもってしても、人の命を転生の力で蘇らせることは無理なんだと、眼前で思い知らされました」
 言い終えて一呼吸を置いた未来は、おもむろに人差し指を立てて上を差した。
…………え?
 一体何をしているんだと思った瞬間、白いナニカが未来の体を横切った。
 目の中に入ったゴミか何かと勘違いしそうになりそうなほど淡く見えたそれは、目を凝らすとやがて二つ、三つと螺旋状に列をなしていることに気が付いた。
 数字――。
見たこともない白く光る数字が、連なって未来の周りをふわふわと浮遊していた。
「何だ……これ」
 数字といえば。これまで何度も人間の頭上にあるライフ№を目にしてきた訳だが、同様の光景であれば当然、俺の口から頓狂な声が漏れ出ることもない。
 目の前にあったのは、普段見ていた黒い数値ではない。白く生き物みたいに弧を描いて舞っている数字。何より呆気にとられたのは、その途方もない膨大な量。
 俺から奪っていた数値なんて霞むほどの桁が広がっていた。
「これが、私が碧についた最大の嘘です」
 俺が白い数字に目を奪われていると、未来ははっきりとした口調でそう切り出した。
『有瀬未愛の寿命が尽きるまでにあなたが莫大な数値のライフ№を集めることができれば、それを譲渡することで他者ではなく有瀬未愛自身として転生させ、その命を救うことは理論上可能というわけです』
「……あの夜。転生委員会の説明を行って、碧がライフ№を集めると決意した瞬間。私は既に、目標値に設定していた数百倍のライフ№を過去未愛に譲渡した上で、命を救うことに失敗していた。――一度死んだ人間を生き返らせることは、転生委員会の力をもってしても不可能だと。知っていたんです」
 …………そうか。
 そう……だったんだ。
 違和感は、ずっとあった。
 ボランティアから始まり、折り鶴やサッカー観戦、ホームセンターに温泉。考えるまでもなく善行からはかけ離れた行動が、奇妙なほどに数値を上昇させていた。
 どうして、もっと追求しなかった? 未来のことを信じようとしたのなら、どうして行動の矛盾に頭を巡らせようと思わなかった?
 俺が一喜一憂していたライフ№の値は、すべてミライが過去に搔き集めたものを俺に分け与えていただけ。
 最初から、未愛を救うことなんてできないと誰よりも知っていたからこその行動だった。
 俺が、正気を失って悲しみに押しつぶされないようにと。
 そのためだけにミライはこの一ヶ月……他のすべてを差し置いて俺の傍に居続けてくれたのか。
 俺は一度俯いてぎゅっと瞼を閉じた後、改めて未来のことを見つめた。周囲を舞う白い数字は、ダイヤモンドダストの如くきらきらと輝いていた。
「……未来、ごめん。俺は人を救う仕事に就いていながら、一番大切な人、たった一人すら守ることができなかった。未愛のことも……結局俺は、何も出来なかった」
「何を、言っているんですか。ずっと……ずっと、あなたと未愛に謝りたかったのは、私の方です。私が、事故さえ起こさなければ……何も始まっていなかった」
 もう、二人とも泣いていた。
 涙を拭う衣擦れの音だけがする中、未来は何かを振り払うように「でも……」と二の句を切り出すと、語調に笑みの気配を漂わせてこう言った。
「でもね、私は嬉しかった。病院にいるあの子にこっそりお見舞いに行ったとき、あぁ、こんなに……大きくなったんだねって。立派になったんだねって。これも、碧がずっと隣で守ってくれて、私の分まで育ててくれたからなんだって心から思えた。だから、ありがとう」
俺は涙の粒をためた目を細めながら、薄暗い宙を力なく見つめた。
これから俺達は、二人で慰め合いながらお互いの後悔をつらつらと垂れ流し、未愛の寿命が尽きる残りの時間を病室で迎えることになるんだろう。
 決して……返事の音が聞こえてくることはないのに、必死の呼びかけと最後の別れの言葉を何度も何度も、語りかけて涙を流す。
 ――あぁ、嫌だ。
 具体策とか……現実とか……論理とか……。
 知性の欠片もないガキみたいな戯言だってのは分かってる。
 それでも、俺は、言わずにはいれなかった。
「未愛を、死なせたくない」
 掠れた息と共に低く響いた俺の声は、静かに未来の顔を振り向かせた。
「……未来の、言う通りだよ。あの子は、立派に育った、本当に良くできた子なんだ。料理も上手で、洗濯や掃除もしてくれる。食べ物を大事にできるし、喧嘩をしたらごめんなさいと言えるし、いつもバイトをしている俺にありがとうだって伝えてくれる。あんなに、良い子が……未愛が死ぬなんて、やっぱり俺は認められないっ!」
 未愛の顔を思い浮かべる度、これまでの思い出を捲る度に、俺の感情は昂って腹の底から喉元へ、叫び声となって堰を切った。
「もう何をしても無駄! どうあがいても運命は変えられない! でもそんなのはどうでもいい! 俺はっ! 未愛が生きている今っ! 最後の1分1秒まで、医者に土下座をしてでも、未愛の命を救う行動をしたい! だから、お願いだ。未来も……最後の、最後まであきらめないでほしい。未愛のことを、助けるためにっ」
 頭の中と喉と、心臓辺りが焼けるように熱くてビリビリと痺れていた。
 未来は、肩で息をする俺に対して目元に濃い影を落として佇んでいた。
 推し量れないほどの大変な苦労を負わせてきた人間に、この上こんな激情だけの暴論を吐いてしまった。呆れを通り越して怒りをぶつけられてもおかしくない。そう思った。だから俺は、何を言われてもいいだけの身構えをして、次に紡がれる言葉を待った。
「ふふっ」
「……えっ?」
 しかし、次に耳に届いた音はうんざりしたようなため息でもなければ俺を叱責する罵声でもなかった。
 キョトンとする俺をよそに、その空気に漏れたような笑い声を皮切りとして未来は高笑いを始めた。最後にはお腹を抱えるほどに未来は声を立てて笑い、俺はただただ呆気に取られて立ち尽くしていた。
 しばらくして、未来がふぅぅとため息未満の息を空気に溶かすと、笑い声の止んだ空間は世界が滅んだみたいな静寂に包まれた。
「本当に、碧は……」
 一歩。
 歩きながら紡がれた言葉は、とても透き通った音をしていた。
「これだけ長い時間一緒に過ごしてきたっていうのに、残念なくらい私のことを分かってないですよね」
 薄く顔を綻ばせながら発する未来の言葉も、大笑いをした理由も。やっぱりまるで分からずに俺が声を失っていると、彼女は大きく一度深呼吸をした。
「私は、死に物狂いで集めたライフ№を全て使用しても未愛を助けることができないと知って、確かに一度絶望しました。お腹にいたときも、生まれてからも……。私なんかの力じゃ、本当に何もしてあげられないのかなって思った時もありました」
 東からゆっくりと吹き込む風に靡いた未来の髪が淡く光った。
「でもね」
 気付けば、未来の顔はすぐそこにあった。
「転生委員会に入ってからこの十数年間……私が未愛の命を諦めたことなんて、一度だってありませんよ。それは今この瞬間も、少したりとも……変わってなんかいません」
「……」
 言っている意味が、ちょっと分からなかった。
 万を超えるライフ№をもってしても、未愛を救うことはできない。それを証明したのは未来自身だ。だからこそ、未来はこの一ヶ月俺の悲しみを少しでも軽減すべく、行動を共にし続けてくれた。
 未愛の揺るぎない運命を嘆いて、諦めたからこその行動のはずなのに、一体どういうことだ?
 眉根を寄せて行動を思い返しながら困惑する俺に向かって、未来は春風のように柔らかな声で言った。
「さっきの質問の答え……。そういえば、まだ聞いてなかったですね。教えてくれませんか」
 質問……。
『ねぇ碧。私と過ごしたこの一ヶ月はどうでした? 楽しかったですか?』
 あぁ、そうか。
 常に俺の頭にあったのは、未愛の命を救うこと。気が休まる時間なんてなかったし、不安と希望の天秤は容赦なく揺れ続けていた。
 でも、多分未来が聞いているのはそういうことじゃない。
 俺達は、前世で死に別れて以来の再会を果たすことができた。また二人きりで、色々な場所に行くことができた。何度も何度も、言葉を交わすことができた。
 そんなの……。
「楽しくない、はずがないだろっ」
 想いの粒をこぼすように吐き出したその言葉を聞くと、未来はすごく嬉しそうにしてはにかんだ。
「……ふふふっ、そっか。それは、よかったです。私も、すごく……すごく楽しかった。なにせこの一ヶ月間は、過去と未来を繋ぐ役目を終える前の最後のご褒美でしたからね」
 ――――えっ。
それってどういう意味……。
 俺が疑問を投げようとした途端、未来は両腕を大きく広げた。強い覚悟に裏打ちされた響き、明瞭な声で、高らかに宣言した。
「碧、笑ってください。未愛の命は、100%助かります!」
「………………は? 今、なんて」
「未愛の命は、助かる。直にあの子は、元通りに目を覚ますと言ったんです」
 とうとう俺は、運命の残酷さを嘆くが余り未来が虚言を発するようになってしまったんだと思った。
 それくらい突然で、根拠のない言葉だったから。
 でも、未来の顔は清々しいまでに落ち着いた笑みを浮かべている。
 ――そして、そのときだった。
 公園に辿り着いてからすぐ、俺の手から地面に落下していた鞄。学校を飛び出してからというもの、ずっとその中に押しこまれていた一枚の書類が、風に乗って偶然俺の足元に運ばれてきた。
 俺は無意識に手を伸ばし、学校で受け取った時からずっと伏せていた書面の文字を――初めてその時目に入れた。
 俺との再会を果たすよりも前から、未来は書類の記入を終えていたと天乃先生は言っていた。
「――――――――――――」
 転生願書と綴られた書類に直筆で書かれた未来の文字。
 目から入った情報が脳に伝い、俺の世界から思考が消失した時。
未来の口からその言葉は放たれた。

「なぜなら、私の命をもってこれからあの子を助けるから」

 未来が積み上げてきた全ての時間と、行動と、想いが何千倍にも凝縮されて俺の目から全身に染み渡った。
 どうしてだ。
 気付けなかった。
一番傍にいて、一番長く過ごしてきたはずなのに。
他の誰でもない俺が、気付かなきゃいけないはずだったのに。
 それは恐らく、未来がこれまで生きてきた全ての事象に対する答えだった。
 一枚の転生願書。
そこに書かれていた文字は、この世界に存在する――たった二人の人間のために記されたものだった。







『有瀬未愛の心臓』







『……ねぇ、やっと決まったよ』
『お、本当か? ふわぁ~、本当よかったよ……。やっぱり女の子だからさ、俺にはどうも難しくて』
『ふふふっ。性別って関係あるの?』
『そりゃあ。やっぱり将来この子が結婚したら姓だって有瀬じゃなくなるかもしれないわけだし、考えることがより多いっていうか』
『なるほどねっ。だったら……私が考えた名前は、ちゃんと碧にも喜んでもらえるかもしれません!』
『あぁ。ぜひ、聞かせてよ』
『……はい。私達二人のもとに生まれてきてくれる、この子の名前は』

 未愛。

『……どう、かな?』
『そうか。未愛――か。すごい……いいな』
『……うん』
『未来の名前の〝未〟と、俺の名前の愛碧衣の〝愛〟から、一文字ずつ取ったんだね』
『……うん。でも、それだけじゃないんだよ』
『ん?』
『この子にはね、メッセージを贈りたかったんです。これから先。どんなに遠くて、遥か先の未来まで経っても……ずっと私達が、この子を愛しているよっていうメッセージを。――だから、未愛にした』
『……そっか。それじゃあいっぱい、愛してあげような』
『うん。必ず』







「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!」
 俺は数瞬の沈黙の後、喉が張り裂けんばかりの叫び声を発しながら未来の体に向かって突進した。
 めいいっぱいに腕を伸ばし、未来の体に触れようとした。この世から消えるのを、止めるために。
 でも。
 俺が振りかぶった腕は空を切り、体勢を崩して地面に転がった。
「……っぐぅっ!」
 擦りむけた膝の痛みも、手のひらの血も意に介さずに再び起きあがろうと膝を立てて見上げる。
 ハッとした。
 薄い雲みたいに儚気で、ラムネ瓶みたいに透明な未来の体がそこにあったから。
 目一杯の力を込めていた拳がだらりと垂れる。
あぁ、やめてくれ。
『どうしても叶えたい目的があります』
 そんなのって、こんなのって……。
『死にますよ。あなたの一番、大切な人』
 俺の知らないところで、お前は……お前はっ!
『見直しました』
『残された私たちの僅かな時間。きっと、救ってみせましょう』
『愛碧衣の――お嫁さんになることが、私の望む一番の進路です』
『――ごめんなさい』

【有瀬未来の寿命が尽きるまで―――――――――――――残り1分】

 光っていた。
 彼女の髪も、手も、足も。
 でも、すぐにその光が未来という人間の存在そのものから溢れ出ているんだと気付いて、俺はぎゅうっと優しく瞑目した。
「最初から、決めていました。事故に遭ったあの日から今日、この日までの数十年。私の唯一の望みは、碧と……そして未愛が、もう一度幸せに暮らすことができるようにすること」
 それは、光の中から届いた声だった。
 今にも消えそうでか細い……天使のような声色だと思った。
 おもむろに視線を持ち上げると、そのとき――。
 白色の泡が見えた。
 透明だけど存在感があって、薄い膜みたいな淡い光を纏っていた。
 そして、その泡は未来の体から浮き出たライフ№なんだと分かった。
 俺はその泡を前にして肩を竦めながら、気付けば大粒の言葉を漏らしていた。
「未来…………。俺の、一生の……お願いだ。紙に書かれた転生先は嘘だって……自分が幸せになるための来世を選ぶって。お願いだからそう言ってくれよっ! じゃないと俺はっ」
「碧」
 俺の言葉をプツリと遮る未来の呼びかけに、思わず声と動作が静止する。
 白いライフ№の泡はいっそうの輝きを放ちつつ、シャボン玉みたいにパチパチと消失を始めていた。
 俺は呆然とその光景を、ただ穴が空くほどじっと見つめていた。
 やがて、消失は未来の体にまで及んで星屑みたいな爆発的輝きと共に空気が弾けていった。
「碧……これが、私と碧が会話できる最後の瞬間です。だから、どうか最後まで聞いていてください」
 それは――これまで耳にしてきた幾億の言葉の中で、最も綺麗な音色をしていた。
 肩までとっぷりと温泉に浸かった時みたいに、俺の全身から重力が溶けていくのが分かった。
「私……この一ヶ月のことは忘れません。大好きな人にもう一度会えて、色んなことをして、色んな場所に行くことができて、未愛に、触れることができて……」
 立場も、時間も、場所も、世界も――。
 どんなにお互いを取り巻く環境が変化しても、未来は前世と変わらない姿で在り続けていた。
「…………未来っ」
 俺が力任せに顔を拭って涙を薙いでいると、時間の経過と共にみるみる光の透過度が増していく未来の姿が瞳に突き刺さった。
未来に対する想いと、未愛に対する想いが全身の強張りと共に消失して、思考が空になる。
残ったのは、全身の真ん中辺りから絞り出すように込み上げたただひとつの感情だけだった。
「未来のような……素敵な女性と出逢うことができて、一緒にいることができて、最高に幸福だ。だから、これからも……ずっと、ずっと。俺のパートナーで、いてほしいっ」
俺は小刻みに震える口を強引に引っ張り、今作れる最大限の笑顔を見せた。
 未来は、唇を真一文字に結んだまま震わせると、「はい」と静かに呟いて、また何粒かの涙をぽろりとこぼした。
 俺はそれを見て少しだけ笑った。
 よかったと、思った。
それから、未来は両手で顔を覆った後、僅かばかりの間を置いてから俺を見た。
ぽつり、ぽつりと。雨の降り始めみたいにゆっくりとした口調だったけれど、ちゃんと俺の告白に応えてくれた。
「私は……ずっといます。これから先も、ずっと……二人の傍に、いますから。未愛の心臓として、未愛の中でずっと……あなた達を愛しています」
 そのとき、俺ははっとした。
 有瀬碧としてミライと再会を果たしてからこれまで過ごしてきた時間。常に浮世離れした真っ白な髪をしていた未来の姿が、変化していくのが見てとれたから。
 まるで、時の流れが逆行したみたいに周囲の真っ白な光が弾けては輝き、彩色を施していった。
 ――そして。
 出会ってから一緒に暮らして、告白をされてプロポーズをして、結婚をしたあの頃と同じ黒髪の未来が、そこにいた。
 やっと、もう一度会えた。
 そう、思った。
 俺と未来は改めて向かい合わせに立って、泣きながら笑っている顔を見せた。
「この世界に生まれてから、私はずっと誰かに構ってほしいと思って生きてきました。
……お母さんも、お父さんも、世界中の誰も、私を見てはくれなかったから。
悲しくて、冷たくて、痛くて、すごく辛かった。
ねぇ、碧。
私は決して、碧と未愛の犠牲になる訳じゃありません。
私は、3人で一緒に未来へいける唯一の方法を見つけたんです。
皆が、幸せになれる未来を。
だから……。
大丈夫……っ。
暗くて……冷たかった一人ぼっちの私の人生で……あなただけが……私を見てくれた。
手を、差し伸べてくれた」
水晶みたいな大粒の涙が俺の目からこぼれて、止まらなかった。
 そして、俺が恋をした一人の女の子の最後の言葉が――耳に届いた。

「大好きです。私に、愛を教えてくれてありがとう」

 それから五時間後、有瀬未愛の命は心臓移植によって救われた。
 医者は奇跡だと言い、俺は何も言わずに泣いていた。
 未愛の意識が戻るのをじっと待ちながら、俺は未来の最後の姿を思い返していた。
 無数の光の粒になって空に舞い上がるまで、最後まで、笑っていた。
 俺はゆっくりと目を開きながら、未来の転生願書を取り出した。
 どうしてわざわざ拾い直して持ってきたりしたんだろうって、自分でも不思議だった。
だけど、多分これから先も捨てることはできないんだろうなと思った。
 病室の窓から真っ白な陽の光が射し込んで、俺の手元を儚げに照映する。
 来年、また四月は訪れる。
でも、未来はもう永遠に訪れない。
〝来世〟とか〝奇跡〟とか、まるで信じられない存在だったけれど、今は違う。
だって――僕達の未来は、奇跡の形をしていたのだから。