それからの俺の日々は、怒涛に進んでいった。
 今までペットを飼ったことがないから、という理由でなぜか動物園に同行することになり、カラオケマイクの音量以上の種種雑多な鳴き声轟く生き物を見て回った。
 中でも、一際大きなエリアとして展開されていたゾウのコーナーでは、「この体の上に乗せてもらえませんか?」と真顔でスタッフに注文したのを慌てて俺が止めるなんて珍事も起きた。(もちろん、ゾウに乗ることはできなかった)
突然駄菓子屋に行ってみたいと言い出した時には、物置小屋くらいの広さしかない学校近くのお店を紹介した。手書きで書かれた二桁円の値札や子供心をくすぐるカラフルな色のお菓子に目移りさせて、結局ミライは五千円近く出費した。
またある日はゲームセンターで不良を体験してみたいと訳の分からないことを言い出し、ろくにルールも分からないのにおじさんたちに混ざって麻雀のゲームをしたり、たどたどしい足取りでリズムゲームにチャレンジしたりスロットや完全運ゲーとしか思えないパネルのコインゲームを延々やりまくった。
一時は何十倍にも膨れ上がった大量のコインを手にして大富豪のような振る舞いをしていたが、閉店間際を迎える頃にはものの見事に全てのコインを消失し、ミライは本気で泣きそうなくらい切なそうな顔をしていた。
 祝日を利用して日帰り旅行に行ったりもした。
 初めて乗ったという新幹線では子供みたいに窓から見える外の景色を眺めて目を輝かせていた。
 駅内の海鮮丼屋では計十種類の刺身が乗った大盛り丼を頬張ったかと思えば、街へ繰り出すと畳の表面みたいな皺いっぱいになるほどに、足湯に浸かって満喫した。
最後は駄菓子屋で買った倍くらいの量のお土産を購入して、両手に抱えながらミライは満足げな笑みを浮かべていた。
 二人で一緒に過ごした時間、あまりにも自由奔放に遊び回っていたもんだから常にライフ№の数値のことは気にかけていたけれど。
 その微かな不安の残滓を吹き飛ばすように、ライフ№の数値は嘘みたいに増加をし続けた――。








     ◇◇◇

『お母さんの夢をみた』
 それは、未愛の口癖だった。
 毎日、という訳では勿論なかったが少なくとも週に一度は必ず、寝起きでまどろんだ未愛の口からこのセリフがこぼれた。
 俺はその度に、「へぇ、どんな夢だったの?」と聞いた。
 すると、憂いを帯びた表情を浮かべた未愛はきまって同じ言葉を口にした。
「ごめんなさい……って言ってた」
 俺はそれを聞くたび、眉間に力を込めて握りこぶしを作った。
ふざけんな。
うっかり声に出してしまいそうなくらいの熱量をもって、俺は心の中でそう吐き捨てる。
正直、俺は顔も覚えていない両親に対して憎しみ以外の感情を抱いたことはなかった。今となっては欠片の興味すら湧くことはない。
でも、未愛は違った。
夢をみるたびに嬉しさと寂しさが混在した顔をして何分も呆ける。
どうして未愛だけが母親の夢をみるのか、それはわからなかった。
 俺達を捨てる時に母親が言い残した言葉が、未愛の夢となって無意識に繰り返し続けているのだろうか?
 それとも、ずっと両親のいない中で暮らしてきた寂しさからそんな幻を生み出してしまっているのか?
 いずれにしても、未愛はその夢をみることに嫌悪感は感じていない。むしろ望んでいるようにさえ映る。
 俺はその未愛の反応も含めて、言いようのない怒りが体内から込み上げてきて、やるせない気持ちにさせられた。
 俺と未愛が今どれだけの苦労を背負って、どれだけの思いで必死に生活しているのかも知らないくせに、都合のいい言葉だけ残して夢に出てきてるんじゃねぇよ!
 ……だから、俺は未愛が持っているこの二つの特徴に気付いた時から現在まで、強く誓い続けていることがある。
 どうしようもないろくでなしの両親のせいで堪えている我慢と、寂しさを埋められるくらいに、俺が未愛のことをずっと好きでいて、守ってあげられる存在になるんだと。

     ◇◇◇
 雲の形をしたシミが、真っ白な天井の一面でぽつんと滲んでいた。
 白い空の中に灰色の曇天が顕れるなんて、まるで今の俺を表しているみたいだ。
 そんなことを思いながら体を起こすと、パジャマからTシャツへ手早く着替えて扉に手を伸ばした。ふと、黒のボールペンで小さい丸が縁取られたカレンダーの5月12日の文字を視界に捉えて眉間に力を込める。
 学校も無く、バイトも休みのこの日。俺が早朝五時に目を覚ましたのには理由があった。
ぬるま湯で顔を洗い、歯ブラシの毛先いっぱいに歯磨き粉を絞りながら左右にシャコシャコと勢いよく動かす。T字剃刀で漏れなく髭を剃り、お気に入りのタオルで顔を拭った。簡単に朝食を済ませた後、俺は年末の大掃除ばりに隅々まで部屋を掃き、床を磨いた。
 普段、あまりこういうことに関して積極的な方ではない自負ももっているのだが、今回は違う。
 当たり前だろ?
 だって今日は――
 ここ数週間辛くて見れなかった未愛の写真を表に返して優しく撫でる。
 今日は、未愛がこの家に帰ってくる日なんだから。
 二日前、俺とミライはついに目標としていた数値までポイントを貯めることに成功した。
 そしてこれから、満を持してライフ№を使用した転生委員会との手続きの瞬間がやってくるのだ。
「よし、行こう」
無人のアパート内に靴のつま先が数度地面に擦れる音が響いた後、俺は鍵を閉める前に一度家の中を振り返った。次にここに帰ってきたときは未愛も一緒にいる。そう思うと、じんわり胸のところが温かくなって頬が緩んだ。
ミライとは、面会開始時間である十時に、病院の前で会う約束を取り付けていた。
俺は雲一つない青空に目を細めながら、特に寄り道をすることもなく病院に歩みを進めると、待ち合わせ時間よりも一時間早く到着してしまった。
この一ヶ月間。常に残りの時間と上昇する数値に気を払い続けてきた結果、どうやら体が無意識に時間の余裕をもって行動するようになってしまったらしい。
俺はやれやれと強張った体をほぐすように深く息を吐き出すと、仕方がないので約束の時間がくるまで病院内で待たせてもらうことにした。
 腕組みをして足を数度組み替える。ミライの性格を考えると、約束の時間より前に来ることは多分ないだろう。もしかしたら10分くらい平気で遅れることも……。
そう思うと、途端に手持無沙汰が気になってふいに辺りを見渡してみた。受付のちょうど真向かいに、淡い光を放った売店が視界に入った。おにぎりや弁当、雑貨にお菓子などが立ち並ぶ中、俺は小さな本棚に目が留まった。
 正直いつ発行されたのかも怪しそうなラインナップの本達だったが、その中の一冊を俺は手に取った。少年漫画の週刊雑誌。特別漫画が好きというわけでもなかったけど、手に取ってみたのは何百ページもあるその分厚さから、他の本よりも長い時間暇つぶしできるんじゃないかという安直な考えからだった。
 俺は、何年号かもよく分からないそれを定価で購入すると、再び待合室の椅子に腰掛けてページを捲り始めた。
 定期購読者ではない俺は、勿論前週までのストーリーを知らない。アニメのように前回までのあらすじなんて便利な機能はこの冊子には備わっていない。
 だから、大半は想像しながら多分前にこんなことが起きたから今こういう展開になっているんだろうなーと思いながらそれぞれの作品に目を通していった。
 バトル、恋愛、スポーツ、職業、ギャグ。人気順に並んだ種々雑多な作品を少し引いた視点から作業的に捲っていく。
 俺はこの雑誌を読んでいるどこかで、病院に到着したミライから声をかけられて読むのを中断することになるんだろうと、そう思っていた。
 だけど。1Pたりとも読み飛ばすことなく最終ページの作家のコメントにまで目を通し終えた頃になっても、俺に声をかけてくる人間は誰もいなかった。
よもや、俺には速読のスキルが何かの偶然で備わっていて、想定していた時間の何倍もの速度で読破してしまったのではあるまいな。なんて思って掛け時計の時刻を確認してみたが、案の定とうの昔に待ち合わせ時間は過ぎてしまっていた。
伸びをしながら立ち上がり、手足の関節がパキポキと音を鳴らす。
誰も座っていなかった待合室の席も気付けば空席の数の方が少なくなっていて、院内の受付の人数も最初の倍の数になっていた。
「さて……」
 いつまでもこんなことをしているわけにもいかない。
 可能性としては少ないが、受付を通過せずに病室に直接行ったという可能性も、あのミライならば有り得なくはない。
そう思った俺は、読み終えた週刊漫画雑誌を近くに座っていた小学生くらいの子供に譲った後足早に病室へと向かった。
やっぱりあいつの姿はどこにもなかったが、受付で待つのとは違ってもうすぐ救うことができると確定している未愛の顔を見ながらの時間経過はさほど苦痛に感じなかった。
 花の水を入れ替え、折り鶴を並べ直し、家に帰ってから未愛と何をしようか計画を立てたりしながら病室に居続けた。
 しかし、待てど暮らせどミライが病室の扉を開けることはなく、気付けば俺が雑誌を読み終えてから悠に一時間は過ぎ去っていた。
とうとう耐えかねた俺は、あてもなくミライを自力で探し出そうと病室の扉に手を伸ばした時、ちょうど逆側から開いて影が差し込んだ。
「ミラ――」
「あれ? 有瀬くんも今お見舞い? 奇遇だね」
 俺は開きかけた口を閉じる。果物が入ったバケットを両手に持って目の前に立っていたのは、千夏さんだった。
「あ、あぁ。まぁ、ちょっと」
「ん、どうしたの。何かあった?」
 わざわざ未愛のためにお見舞いに来てくれた千夏さんを、ミライと勘違いしそうになってしまったなんて。悟られては失礼だという感情と、ミライの相も変わらない身勝手さによる遅刻で二時間近く待たされている状況を伝えるべきか、俺はやや迷った。
「いや……実は今日、ミラ――時雨ミライとこの病院で会う約束をしていたんですけど、全然来る気配がなくて。まぁ、あいつが自己中に行動するなんてこと、今に始まったことじゃないんですけどね。あ、それと果物……ありがとうございます。未愛も起きたら、すごく喜ぶと思います」
「ううん。私には多分、これくらいしかしてあげられることがないから」
 言いながら千羽鶴の隣にフルーツバスケットをそっと置くと、千夏さんは空いていたもう一つのパイプ椅子に腰を下ろした。
 てっきりすぐに病室から立ち去るものだと思っていたから、俺は数度目をしばたたいた。でも、すぐに分かった。
 焦燥を募らせてただじっと待たなければいけない俺のことを懸念して、待ちぼうけに付き合ってくれているのだと。お見舞いに来てくれただけでも十分にありがたいと感じているのに、これは余りにも申し訳ない。
 少しの沈黙の折、その善意に応えたいという思いが強まった結果、俺はまるで悩み事を話すような口調で、ミライとの約束の内容を口にしていた。
「実は今日は、俺にとってすごく大事な日で。これまで貯めてきたポイントを全部、未愛に譲渡する約束をしていたんです」
「譲渡……?」
 俺の発言を聞くや、なぜか千夏さんは視線を外して顎に手を添えた。そして、みるみる困ったような表情に変貌して視線を下に落とした。
「あ、やっぱり自分のポイントを全て他人に譲渡するなんてこと、転生委員会の中でもかなり珍しいことですよね。でも、いいんです。死んだ後にどんな目に遭うのかも、その危険性もすべて知った上で、俺が自分で決めたことなので。だから、千夏さんがそんな顔しないでください。その気持ちだけでも、十分嬉しいと思っているんで」
 千夏さんは優しいから俺の身を案じて表情を曇らせているんだと、自然そう思った。
「……千夏さん?」
 でも、俺が本心を吐露しても尚、寄せた眉根を元の位置に戻さない千夏さんの顔を見て、さすがに違和感を覚えた。
「ごめんなさい……違うの」
 千夏さんの口からようやくこぼれ落ちた言葉がそれだった。
 そして三度、千夏さんは見上げた視線を送る。
 何だ?
 千夏さん、一体何を見て……。
 俺の、頭の上か?
 これまでの転生委員会との活動の中で、頭上に目を向ける行為に関連することといえば、ただの一つ。
 でも、分からない。それが一体なんだって――。
「ごめんなさい」
 思考の逡巡の先に辿り着くよりも先に、そんな謝罪の語が飛び込んできた。
 血液の、流れる速度が上昇する。
「私は有瀬くん達がこの一ヶ月どういう活動をしてきたのか、詳しくは知らないから、多分……何かの間違いだと思うんだけど。それでも一度、有瀬くんに自分自身の目で、確かめてみて……ほしい」
 一音一音を絞り出すように紡ぎながら深刻な面持ちで差し出してきたのは、例の黒い手紙だった。
 俺はなぜ、このタイミングでそんなことを言ってきたのか、手紙を差し出してきたのか、まるで理解が及ばなかった。胸が嫌な具合にざわつくのを感じながら、突き出されたそれを掴んで、言われるがままに鏡の前に立つ。
 二日前と同じ。光る数字が頭上に具現化し、鏡に反射して瞳に映じる。いつも通り。行動して累積したライフ№の数値のみが機械的に刻字される。それだけの現象。
俺が無造作にまぶたを持ち上げるとふいに、病室のすぐそばでカラスが鳴いた。
「は?」
 俺の口から短くこぼれた音は、手に持った手紙よりも、俺の顔よりも更に上の、頭上の数字に対して向けたものだった。
 俺は瞬きも忘れたまま、思わず鏡面に手のひらをつけて言葉を失った。
 〝20〟
 ふわふわと空中に描かれたその数値は、見まがいもなくそう映し出されていた。
「なんで……こんなっ。ついこの前まではちゃんと、ライフ№は貯まっていたのに! あ、あり得ないっ」
 悪い夢に苛まれて肺が締め付けられるような感覚に襲われながら、俺は未愛が眠るベッドを見た。
 今日、俺の積み上げてきたポイントのすべてを譲渡して、二人で家に帰れるって。もうこんな場所に来る必要もなくなるって、だから、こんなことあるはずがなくて……なんだ? なんなんだ? 意味が、分かんねぇよ……。
「有瀬くん、やっぱりライフ№の数値……減ってたの?」
 俺が狼狽して髪を掻きむしっていると、千夏さんが恐る恐るそんなことを尋ねてきた。
 俺は勢いよく振り返って千夏さんの肩を掴むと、なりふり構わずに叫んだ。
「千夏さんはっ、何か、心当たりはないんですか? ほんの数日前に見た時までは確かに、1000ポイント貯まっていたんです! 転生委員会で何か問題が発生したとか、実は既に譲渡の準備は終わっていて、先に数値だけ回収しているとか、何でもいいんです! 心当たりがあれば教えてくださいっ!」
 あまりにイレギュラーな出来事に、俺の精神は一刻も早く安心できる情報を受け取らなければ崩壊してしまいそうな心地だった。
 そんな俺の手をそっと包み込んでやや視線を逸らすと、千夏さんは依然憂いの影を落とした表情でポツリと呟いた。
「ごめんなさい。私は時雨さんほど転生委員会に在籍している期間は長くないから、こんな……ことしか、どうしても思いつかないんだけど。私自身のこれまでの経験則から考えて……ポイントが著しく減少する原因は、基本的に一つだけです」
「なっ、それは、なんですか!? 教えてください!」
「…………。ポイントを、増やすためには良い行動をすること。じゃあ、その逆でポイントが減少するには? ……それも、千単位でポイントが変動したということは、その……犯罪に匹敵するほどの悪いことをしたということに、なってしまうの」
 俺は驚くと同時に、ここ数日の自分の行動を逡巡した。
「いや、ちょっと待ってくださいよ! 俺はここ数日ポイントが万が一にも不足することがないようにって、むしろ自主的に募金活動をしたりゴミ拾いをしたりして過ごしていたんです! 悪いことなんか絶対……まして、犯罪だなんてしているはずがないですよっ!」
「そ、そうだよね。ごめんなさい。私がこれまで転生委員会で働いてきて経験した内では、本当にそんなことくらいしか考えられなくて。……でも、だとしたら一体どうして……こんなこと」
「そんなの簡単ですよ」
 俺が手紙を持ったまま固まり、千夏さんと立ち尽くしたままでいると突如、扉を開く音と共にそんな声が耳に届いた。
「……ミライ! お前っ、よくも人を何時間も待たせやがって――は、とりあえず後でいい。なぁ、大変なんだよ! お前と一緒に確認したはずの1000ポイントが全部無くなってて、多分転生委員会の処理ミスか何かだろうから、すぐに言って修正を――」
「いいえ。委員会の処理エラーではありませんよ。原因は別にあります」
 ミライは俺の言葉をぶつりと遮り、淡々とそう述べた。
 つい今しがたこの病室に到着したはずなのに、今起こっている全ての状況を把握しているような口ぶりに、俺は微かな違和感を感じた。と同時に、彼女の顔つきが初めて会った時のような冷たく無機質なものに思えて不気味な怖気が走った。
「別って……。お前は何でこんなことが起きているのか、知ってるっていうのか?」
「はい。知っています」
……というか、と言いながらミライは俺と千夏さんの間を涼しい顔で通過した。
ミライが口を開けてから次に声を発するまでの刹那、病室内の空気が消失し、音が無くなった気がした。
 そして、彼女が未愛の傍に立ち止まった次の瞬間。その言葉は放たれた。

「あなたのポイントを奪ったのは、この私ですから」

 俺と千夏さんが目を見開いて無言のままミライの顔の方を向くと、その表情は依然真顔だった。そして、これまで見てきた全ての中で一番、冷たい眼をしていた。
 冗談にしては、度が過ぎる。
 こいつ、自分がスベってるって自覚はないのか?
 二時間以上も人を待たせたから、さすがに動揺して妄言吐いちまってるとか?
 何にしても、不愉快極まりない。
「おい……おいおいおいおいおいっ。……ふうっ。なぁミライ。俺はさぁ、前々からお前のかますギャグが笑えねぇと、内心で思っていたんだ。だが、今日という今日は口に出さずにはいられねぇ。お前、連絡もよこさずに何時間も人を待たせておいて、クソつまらねぇボケ言ってんじゃねぇよ! これまで未愛のために集めてきた大切なポイントが消え去った、とんでもねぇバグが発生した経緯と理由を、一刻も早く聞かせろって――」
「バグなんて、起きていませんよ」
 燃え滾るほどの怒りから獰猛な獣と化していた俺の咆哮を、ミライは鞭でも打ち付けるかのような一声で沈めた。
「というか、原理上バグという概念自体起きる余地がありません。……そうですね。そこのあなた、あなただったら分かりますよね? 転生委員会に所属する人間が、対象者から数値を略奪、操作することが可能であるかを」
ミライが見つめる視線の先には、千夏さんがいた。俺が口を開けたまま振り見ると、彼女はひどく動揺した様子でミライの問いにこう答えた。
「確かに、他の人間の数値を転生委員会の人間が奪うことは、理論上可能です。……でも、私たちは元々、前世で犯した罪を償うために他人を救う仕事を遂行し、その余慶として転生の権利を得られることになっています。それを、他人から奪ったポイントで不正に得るなんて非人道的なこと……」
「――逆に、私が人道的な存在だといつから思っていたんですか? 私は、初めからこういう人間です。他の転生者の仕事を断ってまで有瀬碧の活動に専念していたのは、すべて――私の願望を叶えるため。そのために、私があなたのポイントを奪った。それが私の本心であり、今この場にある真実です」
 言い終わるや、時雨ミライはにべもない態度で病室の扉へ歩き出した。
 千夏さんは言葉を失い、俺の方を一瞥した。ライフ№を騙し取られ、転生委員会としての約束まで破られたのに、何も言わなくていいの? そんな想いを含んだ瞳だった。
「――――っ」
 手のひらに深く爪が食い込むほど、俺の拳は力を込めて緩めることをしなかった。怒りが、全身から蒸気のように噴き出して高温の熱を帯びていた。
 ……でも。
 時雨ミライが病室の扉を閉めて反響する足音が遠ざかっても尚、俺は身体を動かすことができなかった。
 理由は、明確だった。
 時雨ミライが悪人であると見抜くことのできるチャンスは、幾度も与えられていたんだ。
 そのうえで、俺は……。
 直感などという曖昧な基準で取り返しのつかない大失態を犯した。
 今までの俺だったら、迷う余地すらなかった選択だったのに。
 どうして、信じたいなんて……思ってしまったんだ。
 時雨ミライに対する抑えきれない厭悪の感情と、それ以上に湧き上がる自責の念に顔を歪めていた時、すぐ傍から声が届いた。
「有瀬くん、時雨さんのやったことは、決して許されることじゃない。一度奪われたライフ№を取り戻すなんて、前例のないことだから上手くいく保証はないけど、有瀬くんさえ望むなら、私が彼女を追いかけてもう一度お話を――」
「うるさい」
「……えっ」
 もはや転生委員会という存在によって未愛を救うことができないことを理解した俺は、込み上げた想いを堪えることができなかった。
「初めから、間違ってたんだ。転生委員会なんて聞いたこともない意味不明の組織に頼ったりして、挙句必要以上にお前らに気を許して関わりを持った。くそっ! 俺は、一ヶ月間なんて馬鹿なことをしてたんだ!」
「……お、落ち着いてっ有瀬くん! まだ完全に希望が絶たれた訳じゃ……」
「黙れっ! もう俺と未愛に近づくんじゃねぇ! お前ら転生委員会なんか、人間なんか、二度と俺は信じねぇ! もう、帰ってくれっ」
 彼女はおもむろに俯いて物悲しげな面持ちを浮かべると、それ以上俺に言及することはなく、静かに扉を開けて立ち去った。
 それからの俺は、ただただ力なく椅子にもたれ続け、時雨ミライと自分に対してマグマのような激しい怒りの念をぶつけた。握りこぶしをつくって、歯噛みをして、身震いをして。それでも、行き場なんてない膨大な怒りをどこに向けようか心が叫びかけたとき、脳裏には神の存在が浮かんだ。
 俺と未愛の人生が、あらかじめ残酷な運命によって定められていたみたいに、圧倒的な悲運に苛まれていると感じ始めたのは、一体いつからだったんだろうって――。