「突然ですが、これまで生きてきて誰かに潔癖症だと言われたこと、または疑いをかけられたことはありますか?」
曇天模様の空をぼんやり眺めていた俺は、そのまま呆けた眼差しを時雨ミライに向けた。
「本当に突然だな。一体何の話だ」
「まぁ、今日これから行く場所に少々関係するというだけです」
「……別に? ないと思うけど」
「そうですか。あぁ、でもあなたにはそもそもそんなパーソナルな部分を話し合える友達がいませんでしたね。失礼しましたー」
 おいこら。喧嘩したいんなら初めからそう言えや。いつでも相手になってやるよ?
 かえって感心してしまうほどの切れ味鋭い煽りスキルに俺が肩を張っていると、彼女は続けて言った。
「では質問を変えます。鍋物、もしくは焼肉を複数人で食べることに抵抗はありますか?」
「は? 別にねぇよ」
「そうですか。それなら良かったです。では、行きましょう」
 校門前でそんな意味不明な問いかけを繰り出すと、時雨ミライはどこへともなく歩みを開始した。
 もしオリンピックに自己中選手権なるものがあったら、間違いなくこいつは金メダルを取れるだろうな。なんて嫌味を表情に溶かしながら、俺はいつも通り未愛のポイントの為――と割り切ってしぶしぶ彼女の後を追った。
時間にして十分ほど歩いていき、いい加減目的地はどの辺りなのか尋ねようかとしかめ面をしていると、視界にあるものが飛び込んできた。
「あっ」
 遠目からでも分かる、高い位置に聳える真っ赤な看板。そこに書かれた文字は、たった一つ。それだけで、我々のこれから行く場所が明確に提示されていた。
『ゆ』
「おい、まさか今日の目的地って」
「はい。このスーパー銭湯です」
「俺、タオルとか持ってきてないんだけど」
「貸しタオル代含めて全て私が持ちますのでご安心を。領収書さえ貰えば必要経費として落ちるので」
 経費!?
 お前はどこのサラリーマンだよ!
 まさかこいつ達が所属しているのって《(株)転生委員会》なんて名称じゃないだろうな?
 なんて、半分冗談半分本気のツッコミを心の中で入れていると、彼女は呑気に言葉を続けた。
「もうこの位置で既に温泉の匂いがしてきますねぇ」
「ていうか、何でわざわざ銭湯に来たんだ? 風呂なんて家で入れば十分だろ」
 俺が思ったことを隠さず口にすると、はぁ、やれやれみたいなポーズを取った時雨ミライが胸を張って宣言した。
「家の浴槽だと、ぶくぶく風呂がないでしょーが!」
 ぶ、ぶくぶく?
 比喩ではなく、俺が口を開けながらポカンとフリーズしていると、ややあって浴槽の中で大量の気泡が発生する炭酸風呂のことだと心づいた。
「お前それ、海にはウォータースライダーがないからプールの方が楽しいって言う子供と同レベルの感覚だぞ」
「はぁ? 料理はいつも妹に任せきりで、自分は唯一TKGしか作れないような家事スキルゼロの男子高校生に言われたくないんですけど」
「た、卵かけご飯馬鹿にするんじゃねぇよ! 白いヌルヌルの摘出とか、醤油の量の微妙な調整とかやることやってるんだからな! ……ていうか、なんでそんなことお前が知ってるんだよ! 何でも転生委員会の情報を使いやがって。プライバシーも何もないのか! お前らの組織にはっ」
 俺達がそんな実りのない言い合いを繰り広げていると、前方上部から伸びる煙突が視界に入った。
 もくもくと噴出する白い蒸気のせいか益々強くなる独特の匂いと、満ち足りた顔で銭湯から出てくるお客さんの顔を眺めていると、まぁ細かいことは今はいいかと思えてきて、俺は顔を綻ばせた。
 ようやく敷地内の駐車場に踏み入ると、そこは一見和風の旅館と見まがうほどの風情ある外観をしていた。下町のというよりは今時の、都会感ある風貌のスーパー銭湯だった。
風情ある温泉イラスト付きの暖簾を行儀よくくぐると、おっかなびっくりした俺とは対照的に時雨ミライは施設の外観に敢えて目を留めることもなく慣れた手つきで下駄箱の木札を引き抜いていた。
 後を追うように中に入ると、趣のある外観以上に奥行きを感じさせる明るい空間が広がっていた。つるつると白光りするフローリングがあるかと思えば、一方では掘りごたつ付きの座敷がテーブルと共にずらりと並んでいる。
 奥にはビンの飲料が展開する自動販売機も設置されていて、和と洋、今と昔が調和する空間が、俺の目を楽しませてくれた。
「それじゃあ受付に行きましょうか」
「えっ」
 その声に振り向くと、俺がお宅探訪をして楽しんでいるうちに気付けば彼女は入浴券やら貸しタオル券を既に購入し終えていて、家から持参したと思われる自前の浴衣まで手に抱えていた。
「お前、そんなに温泉が好きなのか?」
「まぁ、そうですねー。正直、私は服を着ている時よりも裸でいるときの方が好きって思ってるくらいですからね」
 裸というワードを聞いて、俺は無自覚に教室で時雨ミライの胸を揉んだ時のことを思い起こしてしまった。制服越しだったのに生地が透過したみたいに柔らかくて、それで……なんというか、大きかったな。
 って馬鹿か俺は! あれは強引に手を引っ張られて押し付けられただけで、俺の意志はこれっぽっちも介入していない。
 俺がぶんぶんと首を振りながら、記憶に新しい刺激に対して脳がフリーズ状態に陥っていると、当事者のはずの時雨ミライからは冷ややかな声が発せられた。
「右手を見つめて何を思い出しているのかは知りませんが、興奮しすぎて女風呂を覗きにきたりしないでくださいね。いくら転生委員会といえど、犯罪者を擁護するなんてことは出来かねますから」
「ばっ、誰が覗くか! 誰が!」
「じゃ、1時間後にまた座敷席でー」
 俺の懸命の否定に見向きもせず、彼女は呆れ顔で一人赤い暖簾の奥へと消えていった。
「ふぅ……本当あの自由奔放さにはまいる」
受付で受け取った白いタオルと鍵バンドを手に、ロッカーに学校の荷物を押し込みながら俺は吐息交じりにぼやいた。
 ベルトを外し、下着に手をかけた時ふと、周りを見渡してみる。
 白髪頭のお年寄りや仕事帰りのサラリーマンが何の気兼ねもなく全裸で往来しているのを見て、俺は迷った挙句タオルを腰に巻いたまま浴場へと足を進めた。
 そういえば、誰かと一緒に風呂に入るなんて施設にいた時以来だな。なんか、変な感じだ。
 懐かしいような、落ち着かないような心地で髪と体を洗い、俺はファーストチョイスで露天風呂へ行くことにした。
 それから俺が外に繋がる引き戸を何の気なしに開けると、びゅうっという音と共に凄まじい冷風が体を直撃した。季節は春だというのに、普段裸で外に出ることがないからか、思わず俺は身をよじらせて悲鳴をあげる。
「さぁっっ、さむっ!」
 どうやら露天だけでもいくつか種類があったらしかったけど、そんなのを精査している余裕はなく、逃げ込むように手近な湯に身体を滑りこませた。
 露天風呂を囲う岩の上に、鍵バンドを巻いた手を置きながら、俺は深い息を漏らした。
一度空を仰いでから視線を下ろした時、ふと今浸かっている風呂の名称が目に入った。炭酸風呂と、書かれてあった。肩こり、高血圧、冷え症、神経痛の改善等が主な効能らしい。
確かに。入った当初は少しぬるい? なんて思っていたが、時間経過と共にじんわりと身体の芯から温もりが駆け巡るように体温が増していくのを感じた。
 そして、さっき誰かさんが言っていたお湯の中からの無数の気泡が噴出している。
 せっかくだからと、試しに肩まで深く体を沈み込ませてみると、全身がたちまち細かい粒の気泡に包まれた。体にまとった泡を動かすと、外気を目指して浮上する。
 まるで、日頃の疲労や時雨ミライに対する鬱憤やらが泡として一緒に溶けていくみたいだった。
 なるほど。確かに度々訪れてまで入りたくなる理由が少し分かった気がする。家の風呂では決して味わえない絶妙な心地よさだ。
 それから俺は、季節限定風呂、塩サウナなんかにも行ったりして久しぶりに心置きなく体を休めることができた。
 ドライヤーで髪を乾かしていると、脱衣所の壁に掛かった時計の時刻が約束の1時間を既に超えていたことに気付いて驚いた。普段10分と経たずに風呂を済ませる俺だ。1時間なんて余るに違いないと思っていたから、尚のことだった。
 俺は髪も半乾きの状態で脱衣所を出ると、早歩きで座敷席が並ぶ休憩所へ急いだ。
きょろょろしながら時雨ミライを探していると、一足先に到着しているのが遠目に見えた。華麗な言い訳も思いつかず、俺が遅刻に対する文句を言われることを覚悟してテーブルを挟んだ向かいの席に腰掛けると、彼女は怒るどころか微笑んでこう言った。
「その様子だと……私の思惑通りしっかりと疲れを癒せたみたいですね。良かったです」
「ま、まぁな。おかげさまで」
 こいつにしては随分と素直な第一声だな。なんて驚きを少々。ただ、それ以上に意表をつかれたのはいつも黒パーカーに制服というきまった格好をしていた時雨ミライが、白を基調とした浴衣を着ていることで不覚にもドキリとしてしまったこと。
「あ、そういえばもう瓶は買いました?」
「えっ、瓶って何?」
 目を奪われていたことが気づかれないように慌てて時雨ミライの顔に焦点を合わせて聞き返すと、「は~っ」と首を横に振ってため息を吐いた。
「お風呂上がりって言ったら瓶のコーヒー牛乳に決まってるでしょーが! まったく、これだから素人は」
 何の素人だよ……。
 俺は正直お茶でもスポーツドリンクでも喉が潤えば何でも良いんだが。内心ではそう思いながらも、そこまで言うならとコーヒー牛乳の並んだ自動販売機まで歩み寄ってみると、指の腹を押し当てて14番のボタンを押した。
 瓶を持つ手がひんやりと体の火照りを冷ましてくれるのを感じながら、俺は改めて彼女の対面に腰を下ろした。
「それじゃっ、改めてかんぱーい!」
 時雨ミライが弾んだ声で音頭を取ると、カツン、と瓶同士が触れた高い音が鳴った。
 勢い余って中身が飛び跳ねないように慎重に瓶のふたを開けつつ、俺は懐古の念交じりに透明な飲み口に唇を近づける。
「っはぁぁぁぁぁぁっやっぱたまらなく美味いなっ!」
「!?」
 一息に中身を飲み干すや放たれたその声に俺が思わずギョッと肩をすぼめると、時雨ミライはすかさず二本目を買いに席を立った。
 相変わらず、テンションの波が読めないやつだ。しっとりと濡れた髪と蒸気した頬が覗くその後ろ姿を見ながら、俺は頬に手を添えてふと思い返した。
「俺達転生委員会の人間は、年齢も性別も性格も、何もかもバラバラだが、たった一つだけ揺るぎない結びつきが存在する」
 理由は定かではないが、時雨ミライが今も尚隠し続けている委員会の真実。
「それは――前世で人を殺した経験があるかどうかだ」
 俺が彼女の前世を知ることなんてできるはずがないけれど、こうやっていつものようにくだらない話して顔を突き合わせていると警戒の糸が弛緩する。
 やっぱり、時雨ミライが前世で人を殺したなんて嘘なんじゃないかって。
 それから時雨ミライは計3本の瓶を空にすると、後片付けもせずにお土産コーナーへと駆けて行った。
 時間も時間だったし、俺はやれやれと思いつつもテーブル周りの片付けを開始した。瓶を両手に抱えて返却し、忘れ物はないかと座布団周りに目を配る。
 ――と、テーブルの上を布巾で押さえながら足元を覗き込んでいると、一枚の白い手紙が目に入った。
「……」
 それが誰のもので、どういう内容のものであるのかは、すぐに分かった。
 黒い手紙は転生対象者の情報。白い手紙は転生委員会所属者の情報。
 あの男は、確かにそう言っていた。
 躊躇いと迷いが生じたのは、時間にして僅か数秒。
 俺の左手は、気付けばそれを掴んで開いていた。
 彼女が未だ戻ってくる気配がないことを一瞥して確認した後、俺は高鳴る鼓動が収まるのを待たずして捲った。
『時雨ミライは何かとんでもない秘密を隠している』
 脳が、グラリと揺れた。
数年前に階段から滑り落ちて頭部から出血した時を遥かに超える衝撃は、俺――有瀬碧の心の重心を大きくずらした。
 開いた口を塞ぐことができないでいた俺の瞳のピントは、いつの間にかテーブルの木目になっていた。眼球が乾燥していくことすらどうでもいいと感じるほどに、茫然と目を見開き続けた。
 無味乾燥的筆致によって記されていたのは、黒雪創志が話していた通り時雨ミライが前世で殺めた被害者の名前。
 驚愕したのは、二つ。
 一つは、その名前が俺のよく知る人物だったこと。
 二つは、その名前の人物を俺以上に知る存在はこの世にいないということ。
 ――書かれていた名は、こうだ。

【有瀬 アオイ】

 生まれてきてから今年で17歳になる俺は、既に一度死んでいた。
 そして前世の俺を殺した犯人は、未愛を救うべく協力関係を結んでいた時雨ミライだった。
 …………。
 それからの俺は、どうやって手紙を元の場所に戻したのか、帰り道にどんな会話を交わしたのか、全く記憶にないほどおぼろげな状態で帰宅した。
辛うじて知覚していたのは、温泉に浸かってから体の外殻に張っていた温気の膜が嘘みたいに爆ぜ、ぽっかり空いた穴からはぞっとするほどの冷気が体を締めつけていたこと。
疲労がそこそこ蓄積している状態にも関わらず、瞼は僅かほども閉じる気配を見せなかった。
十分、二十五分、一時間、三時間。
俺は、壊れたロボットみたいに椅子に座ったまま俯き続けた。
考えて、気持ちを整理して、また考えてを繰り返す。頭痛を引き起こすほどの深慮のせいか、徐々に現実と思考の境が曖昧になっていって瞳の光が霞んでいった。


俺の身体が次に活動を再開したのは、カーテンの隙間から差し込んだ真っ白な朝日が顔を照らした早朝だった。
一晩中机の上で寝たせいか、腰や肩が仕上がったボディービルダー並にバキバキだった。
脳みそも関節も、ひどくバランスが悪くて足取りもおぼつかない中、俺は酔っ払いが水を求めるが如く新鮮な空気を求めて外に出た。
「っあぁっ……」
まだ世界はろくに太陽さえ昇っていない薄明だった。
小鳥の声すら聞こえない奇妙な街の静寂は、まるで判然としない俺の意識をどこかへ誘おうとしているみたいで。
俺はとんとんと頭を叩きながら必死に現実という名の地に足を付けた。
昨日は、食事どころか風呂にすら入らず考え込んでしまったから未だに俺は制服を着たままだった。
もちろんこのまま学校に行こうなんて考えていないし、かといって腹ごしらえをする気にもなれなかった。
というか、あれだけの時間を費やして……おまけに腰や肩まで犠牲にしたにも拘わらず悩みの種は発芽する気配すら見えていない。
俺は何を信じて、どう行動していくのが正解なのか。
いくつもの分岐した暗いトンネルの中で、文字通り暗中模索しながら揺蕩っていたその時。
「あれ、有瀬くん?」
 その明るい声質の音は、ふわっとどこかの家の朝食の暖かな香りがするのと同時に俺の耳に届いた。数秒、有瀬という名前が自分のことであるという認識すらまともに出来なくて、ひどく鈍い挙動で声のした方を振り返った。
「あっ」
 サラリーマンかジョギング中のおじさんしかいない通りで、柔らかな表情をした一人の女性が朝の澄んだ空気を纏って立っていた。
「えっと……千夏、さんでしたっけ」
「ま、嬉しい。ちゃんと覚えててくれてたんだ」
「……まぁ、はい。どうしたんですか、こんなところに一人で」
 何となく歳上のお姉さんという雰囲気があって、俺は無意識に敬語で話していた。
「有瀬くんこそどうしたの? 真面目に早起きするようなタイプには見えなかったけど。ってごめんね。本当はすごく良い子なのかもしれないのに」
「いや、大丈夫です。少なくとも真面目ではないんで。えっと……俺はただ寝付きが良くなかったというか、外の空気が吸いたくなってぶらついていただけです」
「……それってもしかして、病院での創志くんのこと? ごめんね。彼、行動の方向性を間違えることはあんまりないんだけど、強弱をコントロールすることと相手に上手に伝えることが苦手だから」
 うん、それは見ていれば分かる。
 心の中で打った相槌を言葉にするのを堪えていると、暫し時を置いて「ちなみにね、私はお散歩してたの」と付け加えた。
「散歩? 転生委員会の仕事帰りとかじゃなくて?」
「うん。ゴールも目的も決めずに気の向くまま、よくこうやって外を歩くの。慣れた同じ道を歩いていても、今まで気付かなかった発見があったり、意外と感じることは違ったりとかしてね。楽しいんだよ?」
 散歩……か。
 何だか病室で出会った初見での印象よりもさらに穏やかな人柄だなと思った。それこそ、常に狂気の牙を剥き出しにしているあの男とは対極。
「ねぇ有瀬くん。創志くん……黒雪創志のこと、どう思ってる?」
 1トーン下がった声で尋ねられたその問い掛けは、世間話と呼ぶには少し真剣味を余分に含んでいる気がした。
 千夏さんの機嫌を窺いつつ、本心とは違う無難な返答をしようかと一瞬迷った。
 でも、やめた。
「……正直、俺はあの男が嫌いです。人のことを言える立場じゃないけど、あんなに態度の悪い人間は初めて見た」
 ふふっと千夏さんの微かな笑い声が言葉の継ぎ目に聞こえた。だから、少々踏み込んだ発言をしてもいいんじゃないかという気になって、俺からも質問を繰り出した。
「千夏さんは、どうしてあんな危険な男と一緒にいるんですか? 転生委員会って、別に二人で行動しなくても仕事はできるんですよね」
 すると、彼女は「んー」と唸りながら視線を気持ち下に落とした。
 沈黙というには短く感じられる間を置いた後、千夏さんは何かを思い定めたという顔をして口を開いた。
「彼、本当に頑固な性格で。私が目を離すとどんな行動をとるか分からないから、どこか放っておけないっていうのは、まぁあるんだけどね。でも、私も初めて創志くんに会ったときは有瀬くんと同じ反応だったなぁ。言葉遣いも振る舞いも乱暴で、申し訳ないけど、私とは合わないと思った。……ううん、彼に合う人なんて、それこそ奇跡みたいな確率なんだろうなって思った」
千夏さんが纏っていたスカートをひらりと足首まで捲る柔らかな風が吹いた。
ふと、それまで穏やかに凪いでいた場の空気が変わった気配を感じた。
「でもね、いたの。そんな彼に合わせることのできる人が、過去に一人だけ。私が創志くんのことを気にかけるようになったのは、そのときから。彼、病室で言ってたでしょ? 四人……人を殺めたって」
「……ええ」
「実は、創志くんが手をかけたその四人は、全員が過去に彼の大切な人を殺した犯人達だったの。だから、創志くんはその犯人達を殺して復讐を遂げた」
千夏さんの話は、おとぎ話を聞いているみたいに現実感がなくて、俺はただただ衝撃を受けながら無言で聞き続けた。
「創志くんの取った行動が、果たして正しかったのか間違っていたのか、私には分からない。でも、一つだけ言えることは、創志くんは有瀬くんが思っているほど悪い人じゃない。だから、前に彼が口にした言葉は、ただの意地悪で言ったんじゃないってことだけは、覚えていてほしい」
朝から暗くて長い話を聞かせちゃってごめんね。彼女は最後に和やかな表情でそう言い残すと、控えめに手を振りながら去っていった。
 俺は、頭の中にじわっと熱が帯びた状態で歩きながら、目に見えない強烈なパンチを浴びたような気分で目を細めた。
 黒雪創志の言葉が、口からでまかせの嫌がらせではなかった。
 時雨ミライが前世の俺を殺したというのはもう、この目で見た紛れもない事実。つまり、千夏さんの言う通り黒雪創志の警告は正しかったということ。
 そして、時雨ミライが転生委員会の他の仕事を全て放棄して俺の担当を申し出たというあの話。
 それは――間違いなく時雨ミライが俺に対して尋常ならざる恨み、あるいは怒りを抱えていて、俺という人間をもう一度、前世と同じように殺すつもりでいるから。
「…………ははっ」
 乾いた笑いが、俺の口からこぼれた。
 手遅れになる前に重大な情報を知ることができて嬉しかったから、なのか。
はたまた絶望的な状況が過ぎて心がおかしくなってしまったから、なのか。
それは自分でも分からなかったが、俺は残された二週間余りの時間をどう行動して過ごすべきなのか。一人で決断しなければいけない状況に立たされているということだけは、辛うじて理解することができた。

 その日の昼休み、俺は用件を言わずに一方的に時雨ミライを使われていない旧校舎へと呼び出した。
 立ち入り禁止の文字まであるその校舎には、当然ながら凄まじいほど人気がなく、俺と彼女の衣擦れの音がハッキリ聞こえるほどに静寂の空気に満ちていた。
「こんな場所があるなんて、知りませんでした。何だかこれだけ静かだと……あれですね」
 俺は目元に影を落としたまま、両手をストンと力なくぶら下げる。
「人を殺してもバレなさそう」
 空気に重力を含有させるその一言を吐いた目の前の少女の顔は、敢えて視界に入れなかった。
 俺の脳内には無意識に、黒雪創志の映像がちかちかとフラッシュバックした。
『時雨ミライは十中八九何かとんでもない秘密を隠している。だから、せいぜい気を付けることだな。得体の知れねぇあの、どす黒い女には』
 ぎゅっと一度瞑った瞼を開ける。
 さぁ、全ての問題文は揃った。後は、俺が答えを口にするだけだ。
 きっと、ここまで簡単な問いもそうそうあるもんじゃないだろう。
 どんなアホだって即答する状況だと断言できるからな。
 息を吸って、瞳のピントを時雨ミライに合わせる。
 そして、長らく噤んでいた口を満を辞して開いた。
「今、俺はお前から聞きたいことが一つだけある。だから真剣に答えろ」
 彼女にも俺の問いの真剣味が伝わったのか、無言でこちらを向き直す。
「お前は俺の……いや、俺達の味方か?」
 昨日千夏さんの話を聞いてから、考えて、唸って、頭を抱えて悩み抜いた結果がこの問いかけだった。
 リスクの高さや合理性の欠如は承知の上。それでも俺がこの女を見限ることをしなかったのは、単純かつ些細な理由からだった。
 黒雪創志の発言を思い返したとき。
手紙に刻まれた自分の名前を目にしたとき。
俺が感じたのは恐怖でもなければ、怒りでもない。
時雨ミライが俺の敵ではないと擁護したい、信じたいという抗いの感情だった。
俺は、これまで未愛以外の人間を本当の意味で信じたことがない。でも、時雨ミライだけは俺がこれまで出会ってきた人間とは何かが違っていた。初めて信じることが出来るかもしれない、そんな不思議な心緒を感じた。
だから――。
俺はこの女に、全てを賭けてみたくなった。
命、さえも。
「あなたの味方かどうかは正直答えかねますが――未愛の味方であることだけは、真実だと断言します」
「……そうか」
 色々な想いが強張らせていた顔の緊張を解くと、俺は口元に笑みを浮かべた。
 そして、一歩前に足を踏み出すとハッキリとした口調でこう言い放った。
「十分だ。ミライ……俺は、お前を信じることにする」
「別に……今更改めて言うことでもない気はしますが、私は転生委員会の業務に際して手を抜いたことは一度だってありません。だから、残された私たちの僅かな時間。きっと、救ってみせましょう」
「……ああ!」
 こうして、俺はその日生まれて初めて未愛以外の人間を信じる判断を下した。



【有瀬未愛の寿命が尽きるまで残り424時間】